浪曲

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広沢虎造の「清水次郎長外伝」は一世を風靡した。

浪曲(ろうきょく)は、明治時代初期から始まった演芸である。「浪花節」(なにわぶし)とも言う。三味線を伴奏に用いて話を語り、歌う。各演題ごとに歌う部分(節)と語り演じる部分(啖呵)を両方持つ。明治時代後期から昭和中期にかけて一世を風靡し、日本の近代文化史・メディア史に欠くことができないものとなった。

特徴[編集]

七五調で演じられ、「」と「笑い」の感情を揺さぶることが特徴[1]の浪花節は、思わず真似をして唸りたくなる節回しという間口の広さと、その実うまくなるには鍛錬を要する奥の深さを同時に持つ。近接した芸能を(多くの今でいう郷土芸能も含め)どん欲に取り込み、浪曲師が節の運びなどに各人各様の創意工夫をすることで発展した。自由さ、融通無碍ぶりが大きな特徴である。竹本義太夫が決定打であった義太夫節鶴賀新内新内節のような、様式を決定付ける存在は未だ出ておらず[2]、伝統邦楽界では一般的である「家元制度」に象徴される分派主義[3]とは様相を異にしている。 演題(ネタ)は(特に近年のコンプライアンス重視の流れに対しての)侠客物のイメージが強いが、童話から、親子の情愛もの、仇討もの、戦争ものなど幅は広い。 地方部では落語や講談を圧する人気を長年保ち続け、歌謡浪曲から演歌へ、人気は連綿と続いていく。その点を指し「土の匂いがする」「田舎臭い」と(半ば軽蔑的に)評されることもあったが、それ以外にも江戸前風のあっさりとした味の関東節や、コッテリとしたサービス満点の関西節と、浪曲の魅力は多面体的で、一口でまとめられるものではない[4]

声を出して演じる者を「浪曲師」(ろうきょくし)と[5]呼ぶ。一つの物語を(ふし)と啖呵(たんか)で演じる。節は歌う部分で物語の状況や登場人物の心情を歌詞にしており、啖呵は登場人物を演じてセリフを話す。重視する順を「一声、二節、三啖呵(いちこえ、にふし、さんたんか)」と言う。先の二つを「声節(こえふし)」と呼び、特に重要視する[6]

「浪花節を読む」という表現があるように台本は存在するが、譜面は存在せず[7]、浪曲師と曲師の呼吸がピタリと合うかどうかが、きわめて重要である[8][9]。「曲師」と呼ばれる三味線の伴奏者(相方)のうち、主たる相手は「相三味線(あいじゃみせん)[10]」と呼ばれる[11]。調弦は三下り(さんさがり)にする[12]。関西では曲師とギター奏者がつくこともある[13]

浪曲(浪花節)の実演を表す動詞には様々あり、「うなる」・「語る」・「読む」・「うたう」・「口演する」などがある。使用する局面によって多少使い分けているが基本的に同じ意味で、前述したような歴史的経緯から、浪曲用語にはこのような歴史的に未整理と思われる例が多数あり、注意が必要である。

東京、大阪をはじめ、名古屋、そして九州・福岡[14]に中心があった。現在は、浪曲の定席(常打ちの寄席)は東京都台東区浅草の「木馬亭[15]と、大阪府大阪市天王寺区の「一心寺門前浪曲寄席」になっている [16]

浪曲の構成[編集]

浪曲は一席一話完結(端物)から、好評の場合は話を膨らませて、何段[17]にもわたる長いシリーズ物も作られた。時間にすると一席は30分位にまとめられている。しかしかつては、雲右衛門の舞台における一席1時間弱にわたる長講や、逆にSPレコードに吹き込むために3分ごとの細切れにまとめられたものも多数あり、融通無碍ゆえに演芸ではメディア対応が早く、いち早いレコード吹き込みに重宝された。

現在は、寄席の連日出演が常態でない、ラジオでも単独浪曲師の番組がなくなって久しいなど、口演形態の変化によりシリーズ物を通しで味わう「連続読み」を味わう機会は極端に少なくなっている。今でもおなじみの締めの台詞「ちょうど時間となりました」は、今日ではあまり聴けるものでは無くなった[18][19]

寄席や大会などの正式な場においては、まずマイクで演者の紹介があったのち、幕が開き浪曲師が登場する。あいさつがあった後に[20]演題に入る。木頭が鳴りながら曲師が弾き出しを奏でる。

冒頭の部分はゲダイ(外題・解題・下題)付け、またはヒョウダイ(表題・標題)付け[21]と呼ぶ。

客から期待を込め、声がかかることもある(待ってました!、たっぷり!、名調子!など)[22][23]

浪曲の衣装・舞台セット[編集]

舞台に上がる浪曲師は和服姿であり、正装として特にを多く用いる[24]

演じる時の舞台のセットはまず舞台の中央、浪曲師の後ろに金屏風を置く。その前に腰ぐらいの高さの小さめのテーブルを置きその上に、華やかな柄の特製のテーブルかけ[25]をかけてある。真後ろに背もたれの長い椅子があり、演者の多くは立ちながら演じている。

観客から見て右手の方に曲師が座っている。現在、曲師は定席など正式な舞台では衝立を挟んで観客から見えないようになっている。が「出弾き」と呼ぶ客前に出て弾くスタイルも少数だがある[26][27]

高座の座布団に座り語る、「座り高座」(現在の文楽語りとほぼ同じスタイル)[28]は前進芸能の「説経浄瑠璃」、「デロレン祭文」などから引き続き、雲右衛門以前には主流であった。雲右衛門により立ち演説スタイルが主流になった後にも、落語の定席が主な活躍の場であった広沢菊春が用い[29]、現在でもまれに見ることができる。

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については、遠くまで伝わる大音(だいおん。響き渡る大きな声)が上とされ、必然的に胴声(どうごえ)=白声(しらごえ)=寂声(さびごえ)=いわゆるダミ声=しわがれ声[30]で唸る事が浪曲であった。胴声は、ホーミーのように倍音豊かな発声を指す[31]。特徴的な声を作るために、喉から血が出るような修業を積んだという苦労談は多々出てくる[32][33][34]

また、広沢瓢右衛門のように自他共に認める大変な「悪声(あくせい)」であっても、それ以外の部分を磨き続け、ブレイクすることもあった。かつては喉の酷使(寄席・大劇場の大会出演・お座敷・放送出演・レコード吹き込み・映画出演等を一日数軒掛け持ちすることも、ざらにあった)が祟って舞台で使う声が出なくなり引退したり、残った啖呵のうまさを活用してまれに講談界に転じる者もあった。

が、マイクが発達して以降は、必須ではなくなり、小音(しょうおん。マイクなしでは寄席の後方まで届かないような小さな声)であってもその才能が生かされるようになる。木村若衛のように、上声(うわごえ)を使う事が主流となり、三門博のように当時タブーであった裏声を巧みに取り入れ特徴にした者さえもいる。

近年、久方ぶりに声を潰した若手・澤勇人ホーメイ口琴のアーティストから浪曲に転向した東家孝太郎が登場した。

節(フシ)[編集]

各自が工夫し磨きをかけ、「一人一節」というほど節回しは各々異なる。浪曲師の特徴的な節回しは、それぞれの名を採って○○節と呼ばれる。

代表的なところでは、佐渡おけさを採り入れ、哀調が特徴の名作「佐渡情話」を作り上げた米若節寿々木米若、関東節と中京節をミックスして虎造節を作り、当たり芸「清水次郎長伝」を演じた二代目広沢虎造[35]、低調子が主流の関西節のなかで、高音でノリのよいテンポの幸枝若節を作り、「河内十人斬り」や「左甚五郎」を演じ、戦後の浪曲界を支えた初代京山幸枝若、中京節では、浪曲に新内節をミックスして三門節を作り「唄入り観音経」を演じた三門博が挙げられる。また、天才少年浪曲師初代天中軒雲月の明るく平易な雲月節が、のちに数多くの女流浪曲師の節作りの土台となる。

大別すると関西節、関東節、中京節(合いの子節)と地方ごとで三つに分けられる。浪曲師の節、曲師の調弦の音高、曲師が繰り出すフレーズの基本形など、すべて異なる[36]

  • 関西節が一番古く、浮かれ節と呼ばれた。低調子(または水調子)ともいい、三味線の調子が「ベンベンベン」と低い。聞いていて浮き浮きする歌うような節調。
  • 関東節は、高調子ともいい、三味線の調子が「カンカンカン」と高く、哀切、悲壮感が漂う。
  • 中京節は、関東節と関西節を上手くミックスした形。

大まかにいって、関西節は節を聞かせる事に主眼をおき、関東節はタンカを聞かせる傾向が強い。同じ演題、同じ台本であっても、素読みにするか、節をつけて歌うかは浪曲師の演出次第で大きく変えることが可能である。若干わかりづらいことであるが、関東にも関西節の系譜を持つ一派(雲右衛門→東家楽燕の系譜を継ぐ国本武春など)があり、関西には関西節のみ、関東には関東節と関西節がいる。東西で相互に特徴を取り入れることも徐々に進み、三波春夫によれば中京節が「現在の主流となって」[37]おり、純関東節、純関西節といえる存在は現在は少ない[38]

稽古として「声調べ」(こえしらべ)を行う。三味線の音色に「♪何が何して何とやら」から始まる、意味のついていない歌詞を乗せて、声の調子を整える。

啖呵(タンカ)[編集]

啖呵で有名なところは、古くは「節の奈良丸、啖呵の辰雄、声のいいのが雲右衛門」と並び称されるほどであった一心亭辰雄(後に喉を痛めて講談に転出、服部伸と名乗る)、独特な江戸前の啖呵が魅力であった東武蔵、同じく江戸前で愛嬌のある小気味良い啖呵が大きな魅力であった二代目広沢虎造、大阪から東京に転じ落語の定席に出続けた「落語浪曲」の二代目広沢菊春、関西では、悪声であったが滑稽味のある啖呵(ケレン)で晩年にブレイクした広沢瓢右衛門、歯切れの良く明るく時にボヤキ口調の入るケレンが魅力の京山幸枝若が挙げられる。全盛期には「ケレンはトリを取れない」と言われるなど、タンカ読みは傍流扱いされることが多かった。が衰退期に入ると、お涙頂戴より笑いの要素がより重視されるようになり、広沢瓢右衛門が明治の演題を引っさげブレイクした頃からひとつの潮流として明確になる。

特にタンカは落語や講談と共通点が多いが、浪曲は素読みの時でも曲師が合いの手のようにフレーズを入れ、印象は異なる。

浪曲の代表的な演題(外題)[編集]

庶民的な義理人情や情愛など人間的な物語を演じることが多い事から、転じて「浪花節にでもでてきそうな」という意味で、義理に流された話を「浪花節的な」あるいは単に「浪花節」と比喩することも多い。実際の演題は武芸物、出世物、任侠物(三尺物ともいう)、悲恋物、ケレン物(お笑い)など多種多様である。特に赤穂義士伝忠臣蔵)ものは派生する人気の演題(外伝)が非常に多く、義士伝で一ジャンルを成している。大別すると、武士道を鼓舞するような内容の金襖物(きんぶすまもの)と、(広義の)世話物(せわもの)に分かれる。

講談(特に影響が大きい)、落語文芸作品、歌舞伎や浄瑠璃、ニュース[39][40]、歌謡曲など多くのジャンルから題材を採り、物語が作られる。浪曲からの他分野への影響は#浪曲の周辺の節を参照のこと。

文芸浪曲は酒井雲や初代林伯猿が端緒で、菊池寛「恩讐の彼方に」や泉鏡花「滝の白糸」など文芸作品が浪曲化された。それまで欠けていると指摘され続けた藝術的な薫りを浪曲の世界に加えた。後の女流浪曲にその芸風は引き継がれている。

自作自演も多く、野口甫堂(東家楽浦の筆名)、鈴木啓之(三門博)、池上勇(広沢菊春)、広沢瓢右衛門、阪口三夢(天龍三郎)の作・脚色のように他の浪曲師がネタを引き継ぐ場合もあるが、雲右衛門の頃[41]から、落語や講談という他の演芸同様に分業制が進み、原作として長谷川伸行友李風尾崎士郎子母沢寛など。正岡容や、小菅一夫水野春三(水野草庵子)、秩父重剛中川明徳室町京之介房前智光木村学司芝清之、現在の大西信行稲田和浩のように、浪曲台本を手がける作家もいる[42]。また、演目の東西交流は早くから進んでおり、関西の浪曲師が関東が舞台の演題をするケースが多いが、またその逆も珍しいことではない。

※以下は浪曲で代表的とされる演目である。右の名はその作品で代表的な演者(または現在聞きやすい演者)。

このジャンル分けは便宜的なものである。出征して戦死し、靖国神社に祀られた息子への心情をうたった「親子物」で「戦争物」である「九段の母」など。


任侠物(三尺物)
股旅物
白浪物
世話物(悲恋・スキャンダル)
出世物
武芸物
お家騒動物(金襖物)
赤穂義士伝
戦争物
親子物
相撲物
歌舞伎物
浄瑠璃物
滑稽物(ケレン、お笑い)
落語物
怪談・怪奇物
その他

歌謡浪曲[編集]

歌謡浪曲とは、伴奏が三味線でなく洋楽器で、より歌うことを重視した、浪曲と歌謡曲の中間的形態である。浪曲のもともと持っていた自在性・融通性により生まれ、戦後の高度成長期に大きく膨らみ、主流となっていく。 先駆として、戦前に宮川松安が実演した洋楽器を使う楽浪曲の試みや、「浪謡曲」芙蓉軒麗花、洋楽器伴奏で演じた初代筑波武蔵など、戦中になると軍歌入りの浪曲となり、木村若衛の「歌謡浪曲」が放送局で企画放送される。戦後になると「歌謡節」を各人が創設する。

ラジオ浪曲も全盛を過ぎ、小屋自体の数が減った寄席や同じく減った通常の巡業より、一流大家ばかりが競演することが売りの大会形式の興行が地方部でも増えてきた昭和32年ごろを境に、若手の修業する機会は急速に失われていく。スタンスの取り方はさまざまで、当時若手浪曲師の三波春夫村田英雄などは、伴奏が洋楽器でより歌うことを重視した歌謡曲(のちに演歌)の世界へ転進、そのレパートリーとして歌謡浪曲を歌うようになる。女流では天津羽衣二葉百合子などの大きな流れ自体がほぼ歌謡浪曲そのものであった。浪花節は歌謡浪曲を通して現在の演歌に強い影響を与えた。

また男性では、関西の真山一郎一門が、浪曲界の中で「演歌浪曲」と称した歌謡浪曲を専ら演じている[43]など現在も、東西の高座で歌謡浪曲スタイルを披露する浪曲師はいる。

浪曲の周辺[編集]

全盛期は芸能界(戦時体制で生まれた言葉である)の王様と評されたこともあり、影響力は幅広く残る。

一人ではなく二人以上で一つの演目を分担して語る「掛け合い浪曲」は今でも口演される[44]。役柄で割り振るなど、節劇の前駆形態とも目される。

節と語りで物語を回す浪花節の形式は、多くに応用され、古くから[45]「節劇」といわれる浪花節で物語を回すことによって演ずる劇がある[46]。浪花節を無声映画の活弁代わりに使う連鎖劇なども生れた。「ちょんまげの浪右衛門」としてアメリカで有名になり、後に帰国した桃中軒浪右衛門(とうちゅうけん なみえもん)は、無声映画を浪花節で説明する連鎖劇弁士として活躍し、アメリカ市民権を取得し活動していた。映画「カポネ大いに泣く」の主人公は彼がモデルである。浪曲ラジオドラマも同じ系譜に連なるものである。これらは1957年(昭和32年)革新的な試みの舞台「きりしとほろ上人伝」につながっていく。武智鉄二演出、浪曲(木村若衛国友忠が幕毎に分担)が物語の進行、操り人形と役者が共演する舞台であった[47]。その後も影響を受けた浪曲ミュージカルなどが民音制作でいくつか作られている。また大衆演劇に「節劇」の影響は色濃い。

浪曲のレコードは、浪花亭愛造以降大変多くの吹込みがあり日本でのレコード普及と軌を一にする。衰退期に入ると浪曲師でデビューをして人気者になってもレコード発売がされないことが増え(逆に言えばそれまでほぼ全ての人気者は音源化された)、昭和40年代に関西でローオンレコード、昭和50年代に東京でベルボアレコードが設立され、独立レーベルとしてユニークな活動をした。

ラジオでは日本放送協会発足当初から出演しており、日本の軍国化に伴いその比重を増す。戦後民放ラジオが続々発足すると、地方での人気に目を付けたスポンサーの要請で、浪曲番組を大量に制作した[48]。詳しくは歴史の節を参照のこと。

映画においては、佐渡情話(1934年公開)、石松夢道中(1940年公開)、虎造を出演させた次郎長三国志シリーズ(東宝版。1952年~公開)、浪曲子守唄(1966年公開)などがある。役者としても達者であった虎造は、浪曲の枠をも超えた最大級のスターだったのである。浪曲映画はこれ以外にもプログラムピクチャーとして数多く制作され[49]寿々木米若伊丹秀子などが複数の映画に出演している[50]

テレビで本格的に浪曲を取り上げた番組の数は少ないが、浅草木馬亭で収録が行われた二葉百合子玉川良一司会の東京12チャンネル涙の浪曲劇場」がある。それ以前には素人のど自慢として民放テレビ創成期のKRTテレビ(後のTBSテレビ)浪曲天狗道場」や後にフジテレビテレビ浪曲道場」など[51]NHKは以前より分量は減ったが、現在に至るまで継続的に本格浪曲を取り上げ続けている。

河内音頭盆踊りには関西の浪曲師が多数、音頭取りとして参加し渾然一体となっており、境目は曖昧である。その代表作として初代京山幸枝若の「河内音頭河内十人斬り」がある。

演歌の世界においてはいまだ強い影響力があり、歌謡浪曲と銘打たれた曲はいうまでもない。三波春夫村田英雄の演歌の両巨頭は浪曲界を去ったが、それぞれに浪曲を随時取り上げる。特に三波春夫は劇場閑散期である毎年8月歌舞伎座での座長公演を引き受け、浪曲色の強い演出で長年満員にする。他に1984年(昭和59年)、木村友衛(二代目)の演歌レコード[52]浪花節だよ人生は」は、細川たかし水前寺清子などと競作となり大ヒットをする。近年では、股旅物を得意とする氷川きよしの「浪曲一代」がヒットした。

色物演芸の世界では、浪曲の物まね(特に節まねと呼ぶ)[53]の、古くは浮世亭信楽(うきよてい しがらき)[54][55][56]、戦後期まで活躍した前田勝之助(まえだ かつのすけ)や隅田梅若(すみだ うめわか)(どちらもラジオ浪曲天狗道場の指南役を務めたことでも有名)、浮世亭雲心坊、ボーイズでは、先駆として虎造節を取り入れた「浪曲ダイナ」の川田義雄、「歌謡浪曲カルテット」とうたっていた玉川カルテット、既に名を成していた四代目宮川左近の結成した宮川左近ショウ浪曲漫才として(砂川捨丸等の音曲万才の系譜を色濃く受け継ぐ形で)転出した若き浪曲師は多数である。

津軽三味線小原節[57]には浪曲「壺坂霊験記」を取り入れた演題がある。

三遊亭歌奴(今の三遊亭圓歌)の「浪曲社長」のように、逆に浪曲から落語に影響を与えた作品もある。甚五郎物のネタは、講談から題材を採った二代目広沢菊春の滑稽浪曲から、落語の三代目桂三木助のネタになった。立川談志は子供の時分から浪曲が好きだっただけでなく、実際に幾つかのネタは浪曲師から仕入れている[58]三遊亭白鳥作「流れの豚次伝」シリーズ全10段は浪曲へのオマージュあふれる作品で、柳家喬太郎柳家三三という当代随一の人気落語家も演じたことがある。また、珠姫が浪曲化している。

2000年4月~9月、「アニメ浪曲紀行 清水次郎長伝」が毎日放送をキー局にして放映された。また、2001年に浪曲絵本として「ねぎぼうずのあさたろう」が発売された。国本武春が協力。長谷川伸を思わせる股旅物になっている。2008年にはアニメ化、テレビ朝日系列で放映された。

1979年(昭和54年)、田中小実昌が小説『浪曲師朝日丸の話』などで直木賞を受賞した。

歴史[編集]

「浪花節」という字面だけを見て関西で出来た物である、と短絡をするのは以下にみるように誤りである。注意されたい[59]。芸としての源流が関西にあるとしても、その源流はデロレン祭文のように関東にもある。「浪花節」という名は東京発である。また、桃中軒雲右衛門二代目広沢虎造のように東西を股に掛けた交流、旅回りが浪曲の歴史の重要な部分と言える。

前史から、芸としての成立[編集]

浪曲は、全国的に伝播していた「ちょぼくれちょんがれ」(阿呆陀羅経)を基礎にデロレン祭文(貝祭文)、説経節など近接する門付諸芸[60]が徐々に合流して(その源流として古くから伝わる節談説教声明。さらなる源流として大陸伝来の京調(きょちん)、打鈴(だいしん))、大道芸として始まった。成立に先行する文化・文政年間上方浪花伊助(なにわ いすけ)が、阿波浄瑠璃、祭文春駒節、ほめら等を取り入れて「浮連節(うかれぶし)」と名付け、新しく売り出した芸を源流とする。後述する雲右衛門が「浪花節」の名で関西で口演した後も[61]、大阪から西の地方[62]では「浮かれ節」という呼び方も続いた[63]

成立期の浪花節ヒラキの風景

横浜・本牧のヒラキで祭文を語って活躍していた青木勝之助(後に美弘舎東一。玉川派の祖)が、寄席進出の運動に私費を全て投じ、東京・四谷の寄席に出演したことを嚆矢とする。浪花節は差別され[64]、組合結成後も寄席への出演は容易にはかなわず、相変わらず浅草・奥山、両国広小路[65]や上野山下[66]神田筋違秋葉っ原[67]、八丁堀三角、銀座采女が原[68]、桜田久保町の原[69]、下谷佐竹っ原[70]、本所津軽っ原[71]といった盛り場ヒラキがその中心であった。また、寄席に出ても、最初からトリを取るわけもなく、色物の一つとして登場していた。

明治23年に開かれた東京浪花節組合の花見の集合写真。道化に扮装している

東京における浪花節の成立・同業組合の結成時期は諸説ありはっきりせず、明治10年代には成立・活動していたようである。また「浪花節」と称したグループだけでなく、周辺芸能と推定されている「歌祭文節」「都節(一中節ではない)」「七色節」などが、それぞれに盛り場ヒラキで活動し、勢力を維持していた。唯二郎『実録浪曲史』によれば、1882年(明治15年)(当時の浪花節組合頭取は芝新網の藤本清助と芝浜松町の春日井善太郎の2名)から1888年(21年)に至るまで「浪花節」より「七色節」の芸人の数が大きく上回っていた。それが、1891年(明治24年)を境として情勢は一変し、「七色節」の人数は激減する。「都節」「歌祭文節」も減少し、「浪花節」だけが微減にとどまった。なお、当時の浪花節は芝新網、七色節は浅草、神田に多く、また、七色節は浪花節と大差はなく、あわせて越後の五色軍談との強い関連性が指摘されている。このように、明治前期の浪花節成立の過程では、「浪花節」という言葉にこだわるとかえって全体像を見失う[72]

当時は、釈台を前に着流し姿で裾をはしょる姿で、説経節に伝わる「小栗判官」や「刈萱」などの寺社縁起物[73]、「鬼神のお松」「八百屋お七」などの巷間に残る語り物などが主に演じられ、「風呂帰りの手ぬぐいを肩にしたその日稼ぎの勤労者」が聴いているというのが普通の寄席風景だったという[74]。また1889年(明治22年)大阪・名護町の寄席では「まだ大道芸時代の猥雑な雰囲気を残す小屋の中で演じられている浮かれ節は「暁天星五郎、新門辰五郎、国定忠治」といった侠客物や白浪もので」あった[75][76]

また、吉川小繁(後の桃中軒雲右衛門)は、この時期ヒラキに出ていた。新聞紙上で自身が連載にて告白した所によれば、浪花亭浜勝(駒吉の弟子)の手下として三度ボリ(山場で3回集金に回ること)をしたという[77]

浪花亭駒吉

寄席芸としての隆盛期[編集]

その後、山の手の端席[78]から徐々に都心の大きな寄席への進出が盛んになっていく。しかし、職域を侵され始めた講談や落語からは「ご入来」と蔑視されていた。

大阪でも浮かれ節専門の寄席(1884年(明治17年)から1889年(明治22年)にかけて、天満・国光席、松島・広沢館、千日前・愛進館など)や浮かれ節の組合(岡本義治の版権問題に対応する必要から愛国社を明治28年に結成[79]。のちの「親友派組合」から親友協会に至る)ができた。

東京では浪花節の勢いが増し、落語や講談と紛争が起きている。1892年(明治25年)に、遊楽館[80]で講釈師・落語家と浪花節語りとの合同演芸会が企画されたが、講談・落語側が共演を拒否。浪花節抜きで席を開けたが、あまりの不入りに落語連は最終的に折れ、神田錦輝館[81]で合同興行が開かれる[82]

明治30年、斎藤緑雨がその作品「おぼえ帳」に書いた[83]頃には、都心の東京日本橋葦屋町(元吉原そば)の「大ろじ」[84]に浪花節が出演し[85]、関東節の祖浪花亭駒吉や、門下の浪花亭峰吉浪花亭愛造の活躍もあり、1900年(明治33年)には、東京市内の寄席120軒のうち53軒が浪花節を主にかける(定席)までに勢いを増す[86]。従来「御入来」(ごにゅうらい)と言われ、代名詞として蔑まれた要因でもあった外題付け(物語の導入部)を、主題ごとに改め、物語の内容を改良し、衣装を黒紋付袴姿にするなどして芸格を上げる。

このように明治中期には東西で、主任を務める形の寄席芸としての地位が確立された。

東京の浪花節には増えた出番を求めて、名古屋(早川辰燕初代鼈甲斎虎丸末広亭清風など)や大阪(京山大教、京山恭為など)から浮かれ節語りが続々と上京・参入する。出番を巡って神田・市場亭や芝・伊皿子亭などの有力席亭主側と関東の地元芸人側で対立し、芸人を中心に「関西派(神田組)」と呼ばれる愛進舎(辰燕、虎丸、清風、三河家梅車、二代目吉川繁吉(後の雲右衛門)など)と「関東派(浅草組)」と呼ばれる共盛会(浪花亭一派、初代東家楽遊武蔵家嘉市春日亭清吉など)に分かれ[87][88]、この構図はさらに分派を産みながら大正時代も続く[89]

「糸入り講談」の美当一調

また別の流れとして、熊本から九州一帯を制覇していた「糸入り軍談美当一調が、1898年(明治31年)に上京し九段偕行社にて、東宮他皇族、各大臣、陸軍将校の前での公演を、1902年(明治35年)には6月18日から6日間、東京・銀座歌舞伎座で浪花節関連では初の公演をしている。昼夜二回にわたり教育活動写真と合わせて、日清戦争談や北清事変を口演(神田錦輝館明治座でお名残公演を行っている)[90] 。明治39年末にも上京、浪花節連の助演を得て慈善公演する。

1903年(明治36年)、愛造は浪曲界で初めてのレコード盤吹き込みをする[91]。ちなみに当時、浅草寺の境内で見世物の一つとして聞くことが出来た蝋管レコード[92]の浪花節の演目は「中山(堀部)安兵衛、赤垣源蔵、大岡政談、五寸釘寅吉、鍋島猫騒動、雷電小野川、国定忠治、安中草三郎、宮本六三四(武蔵)、天一坊、桂川力蔵、幡随院長兵衛、檜山大作、明石仁王、宮本左門之介、桜川五郎蔵、御笑、山中鹿之助、鼠小僧、姐妃お百、河内山宗俊」というものだった[93]。講談が盛んに取り入れられ、義士伝が浪花節の演目として加わり始めていた。

雲の東京・本郷座での口演は話題となり二六新報では連日戯画化され速報された
浪花節の番付(明治44年版)

1906年(明治39年)には東京で浪花節人気が大きく盛り上がり、10月には都新聞の演芸三傑の投票があり(芸能界の人気投票は明治時代には既に盛んであったわけである)、その年の流行をまとめた「エスペラントと浪花節」という言葉が新聞に踊った[94][95]

雲右衛門の東上・劇場芸・レコード[編集]

日露戦争勝利の余韻もまだ冷めない1907年(明治40年)、三河家梅車の妻お浜との駆け落ちにより雌伏し、突如弟子入りを志願してきた大陸浪人宮崎滔天を配下にしていた[96]桃中軒雲右衛門が、総髪紋付姿で屏風を背に、「不弁」と言うのみで(つまり外題付けも無しに)いきなり本題に入るという新演出、「武士道鼓吹」を旗印にし、演目は玄洋社の助力により台本内容を高めた義士伝ばかりという新機軸[97]で、一息が非常に長い「三段流し」を駆使し、研鑽の地・九州(炭坑夫沖仲仕から火が点き、それまで多く行なっていた慈善興行(美当一調を踏襲している)により上流・中流の特に女子に人気があったという[98])から神戸(有栖川宮妃の御前口演もあった)、大阪、京都と東上しつつ続々と沸かせてゆく。それが新聞記事により大きな話題になる中、ついには6月、東京の大劇場本郷座に進出、27日もの間、連日3時間以上の長講、2500人収容の劇場を超満員にする[99]。風雲児・雲右衛門により、人気は大衆的なものから、当時から浪花節を嫌悪していた上流・中流層にまで広がり、世を席巻する。

吉田奈良丸改め大和之丞。大石神社を創建する頃。

直後の1908年(明治41年)2月、大阪の吉田奈良丸も対抗するように「日本一」の呼び声を伴い東上し、新富座に出演[100]、さらに11月には京山小円も同座に上がるなど、寄席芸として定着して30年に満たないほどの若い演芸・浪花節は、一気に千人以上の客席を埋めることが出来る劇場芸能となる。

雲の東上後に桃中軒如雲[101]天中軒雲月[102]篠田実[103]山田芳夫[104]梅中軒鴬童などが「天才少年」として全国から続々登場し、それぞれ人気を呼ぶ。

こうして浪花節は、明治末期には落語講談をはるかにしのぐ人気となる。[105]明治38年には東京の浪曲師の数が落語家や講談師を抜き、明治40年には448名とピークを迎える。落語家の2倍強、講談の4倍弱である。当時の寄席読みの名人としては、東西に一心亭辰雄、春日亭清吉、初代東家楽遊改め悟楽斎三叟や岡本鶴治(おかもと かくじ)などがいる。

奈良丸のレコードが発売され、代名詞となった「日本一」の流麗な語りで、合わせて売上50万枚に及び、誕生間もない日本のレコード・蓄音機の全国的普及に大きな貢献を果たす[106](この時期以降の浪花節(浪曲)の人気者はほぼ全て吹き込み音源化されている)。その後奈良丸のメロディを使った俗曲「奈良丸くずし[107]や三河屋円車の「どんどん節」が流行する。また、この時期に落語や講談から一足遅れで、浪花節でも速記本が多数出版される。

そんな中で1913年(大正2年)、「講談倶楽部」の臨時増刊「浪花節十八番」刊行に当たり、講釈師連と出版元・講談社の対立[108]も起きる[109][110]。また、この時期[111]、関東では浪花節の名の元となった言われるほどの名門浪花亭から重勝、重松、重友、重正など木村一派が独立する騒動が起きる。

「浪花節」が「浪曲」と呼ばれ始めたのは新聞紙上で[112]、その後徐々に広まり、昭和に入ってから「浪花節」の呼び名に取って代わるようになる。この頃から多くの浪曲師により忠臣蔵が浪花節で演じられる。あまりに義士伝ばかりがかかるため、「義士伝禁止」の貼紙が楽屋に掲げられたり、当時の川柳に「武士道も ついに彼らに 鼓吹され」と言われるほどで、その内容は、武士道に拍手をする民衆の視点よりも、武士道それ自体の宣伝にと視点が変わっていった[113][114]

わかりやすさを買われて浪花節は早くより民衆教化に利用され、1919年(大正8年)、国民思想統一を旗印に古賀廉造らの肝煎りで「通俗教育研究会」が結成され、翌1920年(大正9年)の第1回国勢調査で大阪市・東京市の要請を受け、宣伝と説明の役を担う[115]。また、当時盛んに行われ急増した海外移民に対する排日感情が高まる中、移民を追って奈良丸[116]を始めとした浪曲師たちにより、台湾朝鮮満州はもちろんのこと、ハワイや欧米、ブラジルまで海外巡業が行われるようになる。

左から楽燕、初代雲月、三代目虎丸、重友。都新聞に掲載。

一時停滞した浪花節も、前記の三巨頭の次の世代、三代目鼈甲斎虎丸[117]東家楽燕木村重友初代天中軒雲月が、関東を中心に三羽烏、四天王と称される。1923年(大正12年)、関東大震災のあと、篠田実のレコード「紺屋高尾」が空前の大ヒットを飛ばす。寄席は、この頃から急速に勢力を伸ばす映画に興行的に押され始める。

一握りである劇場読みの大家は、大きな資産を持つほどになる[118]が、多くの無名浪曲師は地方巡業や寄席出演で糊口を凌ぐ[119]。大家の偽物や紛らわしい芸名のエピソードも数多くあった。

ラジオの登場・戦時協力[編集]

ラジオ放送が始まると、1925年(大正14年)演芸の一つとして初めてラジオに登場[120]、その日本放送協会(のちのNHK)ネットワークの完成で浪花節の人気は全国的に広まる。

浪曲は昭和初年においては庶民に支持され、1932年(昭和7年)に実施された「全国ラジオ調査」では、ラジオ聴取者の好む番組の第一位は浪曲で、全体の57パーセントを占めていた[121][122]肉弾三勇士事件が起きると、熱狂の中、他の芸能と先を競うように寿々木米若三代目吉田奈良丸初代木村友衛梅中軒鴬童などがいち早くレコード化をする[123]。昭和9年頃から浪花節の慰問が増え始めた[124]

忠君愛国」「義理人情」を賛美した演題が時流に合い、七五調に乗った平易な節調と軽快なセリフ(啖呵)がもてはやされて、庶民の人気を博した。浪花亭綾太郎の壺坂霊験記、二代目広沢虎造の清水次郎長伝(特に石松三十石船の段)、二代目玉川勝太郎の天保水滸伝、寿々木米若の佐渡情話、三門博の唄入り観音経、初代春日井梅鴬の赤城の子守唄などが次々と一世を風靡し、戦前まで全盛を迎える。また、二代目天中軒雲月(戦後に伊丹秀子に改名)の七色の声で「杉野兵曹長の妻」や「九段の母」が大ヒットする。

天中軒雲月(二代目)。慰問会出演の様子

「一人一芸」「個人芸」と巷間いわれるほど、浪曲師各自の節の個性が人気や知名度、さらに収入に直結し、次代育成機能を持つ浪曲の寄席は(東京においては)徐々に減り続け、戦中期には音羽座から浅草・金車の一軒ぐらいになる。レコードやラジオによる全国的知名度の獲得、浜町明治座や新富町新富座、京都南座、大阪道頓堀角座など以前より馴染みの劇場だけでなく、銀座歌舞伎座[125]、丸の内帝国劇場[126][127]をはじめとした超一流大劇場での独演会や浪曲大会[128]での大収入、知名度を生かした地方のドサ回りといった後の演歌にも類似した構造があらわになる。

佐官待遇で戦地慰問する春日井梅鴬(初代)。

1940年(昭和15年)には、戦争協力の促進を企図し国威発揚のために「浪曲向上会」が結成され、多くの浪曲師や作家が動員される。愛国浪曲情報局の肝いりで続々作られることとなる。浪花節と同様の演題を持ちながら、大きく盛り上がることはなかった講談や、禁演落語等により時節柄、世間の表舞台から消えるが、戦後に復活・興隆する落語(戦中期には講談落語協会として統合される)とは対照的に、浪曲単独で全国団体を結成するほどの隆盛を迎える。また昭和15年晩夏、広沢虎造映画出演問題を巡っての、浅草田島町殺傷事件は、浪曲家の伝統生活中の、最も悪質に属する部分のあらわれと見てよい[129][130]

愛国浪曲は、それまでとかく低俗、下品なものとされてきたことへの対抗する路線の延長線上にあり、一つの集大成でもあった。古代ローマや現代のアメリカなど、古今東西で戦争が起きると、下層に生きる人々が報国によりその地位向上を目指した構図が、ここでも繰り返されている。試みは概ね定着せず、しかし結果浪曲は、先の大戦で積極的に加担した芸能としても多くの日本国民に記憶された。

戦中から戦後にかけても、小さな町まで劇場があり、浪曲師の巡業があった。

戦中の1943年(昭和18年)には、浪曲師の数はピークを迎え、東京だけで約千名、全国的には3千名いた[131]という。浪曲師は戦地や後方の工場慰問に明け暮れた。

戦後の復活・ラジオ浪曲のブーム[編集]

1945年(昭和20年)太平洋戦争敗戦後は一転、GHQに「前時代的、反動的」と疎まれる存在となる[132]。しかし、その体制下でも地方巡業を中心にした大家は「所得番付」に多く顔を出すなど、農漁村を中心に根強い人気を維持する。

ラジオ東京『浪曲天狗道場』の放送風景(昭和31年)

1951年(昭和26年)の民放ラジオの登場と共に、その根強い大衆的人気から、広沢虎造の俗称「虎造アワー」(ラジオ東京で提供や番組名が替わりながら続いた虎造の演目を流す時間のこと)[133]や、新進浪曲師国友忠の「銭形平次[134]広沢菊春の「姿三四郎」などの連続浪曲読み番組、素人の浪曲のど自慢番組(ラジオ東京浪曲天狗道場など)が続々と編成され、全国放送のNHKも巻き込んだラジオ浪曲のブームとして昭和30年代初頭に再び最盛期を迎える。

毎日どこかの局で浪曲番組が流れている、ラジオ番組の聴取率ベストテンに6つもランクインする[135]など再びお茶の間を席巻し、当時の子どもはみな、虎造の「旅行けば~」や二代目玉川勝太郎の「利根の川風たもとに~」といった外題付けを知っていた[136]

昭和三十年代中頃までは、どんな小さい街にも劇場があり、ほとんどは映画館である。街によっては芝居小屋もあった。芝居小屋がなくても映画館には芝居がかかったり、浪花節(浪曲)や流行歌の公演がおこなわれたりもしていた。公民館体育館などでも、よくそういう芸能公演があった[137]。レコード吹込みやNHK・民放ラジオ・映画というメディアに露出する一握りの浪曲師に人気が集中する一方、この時期にもまだ浪曲の門付けをしたという証言が複数ある[138][139]など、番付にも乗らない地方回りの浪曲師の生活は、慰問関係の仕事が消え、高度成長の開始とともに縮小する仕事量で苦境が続いた。

銀座歌舞伎座[140]、大阪文楽座、浅草国際劇場など大劇場で戦前に引き続き「浪曲大会」が定期的に開かれるなどする。

衰退から現在[編集]

民放の発足ともに始まったラジオ浪曲のブームは十年程で去るが、NHKは粘り強いサポートを続け、現在まで続くラジオ番組「浪曲十八番」だけでなく、台本作家や若手浪曲師の育成機能までを担うようになり、新作の発表数は一時的に増えた。毎月公演の形で開催していたNHK浪曲研究会は17年間の歴史を重ね、1972年(昭和47年)3月25日に終了した。後継として「NHK東西浪曲大会」を開催。

歌謡浪曲スタイルの大流行はあった(昭和47年(1972年)には二葉百合子が吹き込んだ「岸壁の母」がロングヒット)ものの、戦後の寄席は金車も無くなり、東京においては1952年(昭和27年)8月に上野「桜亭」、1955年(昭和30年)8月13日に南千住「栗友亭」が唯一の浪曲寄席として開場するが、長くは続かなかった。1955年(昭和30年)開業の船橋ヘルスセンターをはじめとした、各地の健康ランドでの巡業や、「福祉浪曲大会」などの地方部での浪曲大会が主な活動範囲となる。民音労音もこの頃は地区ごとに浪曲大会を開いている。浅草木馬館が改装し、1970年(昭和45年)5月上席からついに定席化し「木馬亭」として安定するまでは、東家浦太郎や、四代目天中軒雲月木村若衛松平国十郎の戦後四天王をはじめとした大家は引き続き健在だが[141]、若手の将来性という点では苦境が続いた[142]

関西においても、京山幸枝若冨士月の栄や戦後入門組の真山一郎二代目春野百合子が「関西戦後四天王」として活躍したが、一足遅れで同じ状況になる。既に寄席はなくなり、昭和50年代の関西浪曲の中心として浪曲大会が開かれた道頓堀朝日座1984年(昭和59年)2月に閉鎖され、[143]戦後長らく浪花節を舞台にのせていた道頓堀五座の最後の一つ、中座1999年10月の「浪曲お別れ興行」をもって閉鎖された。

もともと浪花節は、他の演芸に比べても女性の進出が早く、成立前の江戸末期から曲師はもちろん既に女流もおり、明治・大正期には女流浪曲団がいくつも結成され巡業に出て好評を得ていた[144]。そのような所から戦前期より、著名な初代春野百合子冨士月子二代目天中軒雲月、戦後期には天津羽衣二葉百合子二代目春野百合子が登場する。後に浪曲への入門者全体が減る中で女性に偏りだし、近年は講談と同様に現役浪曲師の男女比が逆転する状況になっている。

関東では玉川福太郎から、次の国本武春が入門するまで15年間、その後に続く男性浪曲師までにも25年、という長い空白期間がある[145]などのボトルネック状態があった[146]がそこは脱し、若手浪曲師を中心として現代に合う新しいスタイルを模索している。

浪曲師[編集]

浪曲師の番付は数多く発行された。これは戦中期(昭和14年)のもの。画像クリックで拡大。

大きな名前については、その名にあやかり芸を継承するために襲名する事(名跡化)がある。浪曲の名跡一覧も参照のこと。逆に、独自性を出すために本名(または本名の一部)を使用することもあった。新興芸能であった時期は他の演芸同様に、師弟関係は固定化されておらず、師匠を遍歴する者や、師匠無しの独立独歩の者もいた。また、曲師との転出入の歴史的な多さ、戦後においての演歌民謡歌手や色物演芸との比較的自由な行き来は特筆に値する。[147]

明治期より大相撲を真似た「浪曲師番付」が多数発行され配布された。当時の位付けの一端は覗うことができる。 東西交流が多く、東・名・阪・九州の間で拠点を移す者は、他の演芸に比べても、(浪曲師・曲師ともに)古くから多い。[148]

現役浪曲師については日本浪曲協会浪曲親友協会の浪曲師一覧、または浪曲師一覧も参照のこと。


※五十音順

関東の浪曲師[編集]

関西の浪曲師[編集]

中京の浪曲師[編集]

中京の浪曲師、というより主に関東に進出していった中京節の一覧である。

九州の浪曲師[編集]

九州出身で九州色が強い大看板の浪曲師の一覧になる。切り節、祭文と呼ばれていた土壌があり、雲右衛門の後(美当一調の後)に九州出身の浪曲師は多い。中京地区と同じく、彼らは関西や関東に更なる活躍の場を求めて移っていった。地回りの浪曲師が九州には特に多く、興浪会結成の基盤にもなった。

(* 美当一調

  • 京山華千代 - 義姉の初代春野百合子とともに九州出身。戦前は大阪、戦後は東京で活躍。
  • 桃中軒牛右衛門(宮崎滔天) - 人気が先立ち、浪花節としてはうまいものではなかったという定評が残っている。
  • 初代天光軒満月 - 九州で長年巡業していたが、大阪天満・国光席に出て、そこから大看板となる。哀調が特徴。
  • 天中軒雲月
  • 天中軒貞雄 - のちの敏腕興行師永田貞雄。天下一のハッタリとそれを納得させてしまう内容を両立させ、名を轟かす。愛国浪曲から戦後の浪曲界に深く関わっている。
  • 酒井雲坊 - 村田英雄の浪曲師時代の芸名。出身地・九州で人気を博した。後に古賀政男にスカウトされ歌謡界へ。

浪曲師の所属団体[編集]

関東と関西を代表する上記2団体のほか、過去には(興浪会→)西日本浪曲会が福岡にあった。また、戦時総動員体制の中、統合される形の団体「日本浪曲会」が敗戦までの一年だけ存在した。戦後には中京浪曲協会が名古屋に存在した。

過去の主要な寄席(浪曲定席中心)[編集]

  • 京山亭 - 四谷の山本亭を京山大教が買い取り改名。(M39山本亭)
  • 虎丸亭 - 初代虎丸東京進出のために同郷の人間が作る。小菅一夫に拠れば、浅草猿若町。
  • 都川亭 - 本所区外手町(現・墨田区石原)
  • 市場亭 - 東京神田美土代町3-1。またの名を「本市場」。席主・奥津万吉。関西(から進出)派の拠点。愛進舎から神田組へ。凱旋後の雲右衛門が買収・改装した後、神田「入道館」→雲の没後三代目鼈甲斎虎丸の手に渡り「民衆座」。定員は700人、寄席としては巨大レベル。(M39)(T15)(現在ベルサール神田の角の位置)
  • 新恵比寿亭 - 東京浅草ちんや横丁。浪花亭駒吉を中心とする関東派の拠点。共盛会から浅草組へ。席数257[149]。席主・中沢源之助。
  • 伊皿子亭 - 東京・。関西組の拠点の一つ。
  • 栄寿亭 - 芝烏森 愛造『美声絃入り講談』の看板(M39)
  • 東京亭 - 日本橋南伝馬町34。愛造が変調を来たした場所(漫語)
  • 天満・国光席 - 明治16年に浮かれ節の定席としてできた天満天神裏・吉川館が改称[150]
  • 松島・広沢館 - 広沢虎吉(井上晴夢)が経営しチェーン化した。吉本に買収される。
  • 愛進亭 - 大阪市内各地に第一から第四まである寄席チェーンであった。持ち主は井谷亀之助。1910年(明治43年)10月に娘義太夫の大阪における一番の定席、播重席を買収し第五愛進亭と改名するが、引き続き娘義太夫を興行[151]。その後曲折があり[152][153]、昭和4年の「入場料調査」では浪花節でカウントされ[154]、そのころ浪花節定席に変わる[155]
  • 喜楽席 - 堺市。広沢瓢右衛門の初舞台の席。
  • 寿亭 - 横浜・伊勢佐木町。横浜の顔役(親分)の沢野巳之助が経営。
  • 二山亭-青山通り(現246)沿い(M39)
  • 浪花館 - 深川・富川町(M39)(T15)
  • 桜館 - 深川・黒江町(M39)(T15)
  • 広尾亭 - 麻布・広尾(M39)(T15)
  • 福槌 - 麻布・宮下町(M39)(T15)
  • 喜扇亭 - 日本橋人形町。
  • 浦安亭 - 千葉県浦安。漁師町。客の気性が荒いことで名が知られ、浪曲に限らずデロレン祭文、落語なども行われた。
  • 花岩亭 - 本所・緑町(M39)(T15)終戦まで。
  • 金車亭 - 東京浅草。一流が集う講釈場だったが昭和11年暮、浪花節席に変わった。浅草1-40-5。[156]

(*木馬亭 - 東京浅草

関連項目[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ 日本浪曲協会主催で度々開かれるイベントは「笑う浪花節vs. 泣く浪花節」
  2. ^ 小沢昭一『ドキュメント また又日本の放浪芸 節談説教』
  3. ^ 杵屋正邦「一邦楽系作曲家の体験的発言」『科学と思想』1976(10)p.322
  4. ^ 他に、正岡容門下生で、大量の著書で浪花節に触れ続けた小沢昭一の見方として「いかにも立派を装って重々しくもったいつけて演」じ「忠君愛国」や「義理人情のしがらみに感涙をしぼらせる」浪花節と、「軽快で粋で小ざっぱりしていて、滑稽で、そして悪婦悪党が跳梁跋扈していても、人生の機微をついているような」浪花節という二項分類がある。出典:『日本の放浪芸』(白水社 2004年)p.269-270
  5. ^ 浪曲家とも
  6. ^ 国本武春『待ってました名調子!』p.43-44
  7. ^ 広沢龍造編『独習で上達する浪曲の習い方』http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2477920
  8. ^ 春野恵子の説明によれば「浪曲師と曲師が舞台で繰り広げるやりとりは、『ジャズのセッションのよう』とも言われ、そのライブ感が浪曲の魅力」である。出典:日本が誇るエンターテイメント「浪曲」を世界へ! 浪曲師・春野恵子がNY公演にチャレンジ!-世界を変えるクラウドファンディングサービスCOUNTDOWN
  9. ^ 浪曲師と曲師がどう呼吸を合わせて演奏しているかは国本武春『待ってました名調子!』に詳しい。東家みさ子、岩崎節子、沢村豊子の項などを参照のこと
  10. ^ 合三味線とも
  11. ^ 相三味線は歴史的に配偶者、つまり女房が多かった。徐々に比率は減っているが、今も東家一太郎に東家美など例はある。現代に向かっていく中で、高野東海山本太一など男性の高名な曲師もおり、また曲師不足に起因するフリー曲師の増加もあり、現在は組合せに特別なものはない
  12. ^ 日本浪曲協会の説明ページ
  13. ^ 出典:『上方伝統芸能あんない』浪曲の章p.89-102。『日本浪曲史』南北社版(1968年刊)p.373(中川明徳による補章)は、天龍三郎がギター奏者をつけ始めたことを批判的に書いており、その頃より始まり一手法として京山幸枝若など関西に定着した様子が伺える
  14. ^ 福岡から佐賀、長崎出身の浪曲師は桃中軒雲右衛門の登場以来数多い。安斎竹夫『浪曲事典』1975年刊にも九州が本拠地の浪曲師の掲載がある
  15. ^ 他に関東では永谷の演芸場などで浪曲公演が毎月ある。
  16. ^ 大阪・国立文楽劇場「浪曲錬声会」も定期的に開かれている
  17. ^ 一話を一段と呼ぶ
  18. ^ 大西信行『浪花節繁昌記』p.76
  19. ^ それを逆手に取ったのが、京山幸枝若の巧みな芸であった。実際には無いのに「この後続きはレコードで」等がある
  20. ^ 「本日のお外題は」という形で演題名を紹介することも多い
  21. ^ 読みのみ一定していて、表記に揺れが見られる場合はカタカナで表記するルールに基づく
  22. ^ 国本武春『待ってました 名調子!』に掛け声講座あり
  23. ^ 主に歌舞伎大向う女義太夫の慣習からの移行と考えられる
  24. ^ もちろん例外もあり、雲右衛門は入道姿で舞台をこなした例、同様に東武蔵や玉川勝太郎が袈裟姿で高座をこなした例もある。国本武春がイベントでサングラス姿やクマのプー太郎に扮した例さえもある
  25. ^ 芝居における引幕、落語における後幕、相撲の化粧回しと同じくファンが浪曲師に送る物であり、寄贈者名が記してある事が多い。
  26. ^ 関西では一風亭初月がひんぱんに、関東でも沢村豊子が時おり出弾きを披露する
  27. ^ 曲師を隠すのは、明治時代活躍した桃中軒雲右衛門が、曲師をしていた美しい妻を観客が狙わないように隠したことに由来するという俗説があるが、実際にはそれ以前に美当一調が始めた 出典:安田宗生編『美當一調・桃中軒雲右衛門関係新聞資料』
  28. ^ 三味線を持つ曲師は、ついたて無しに右隣に座る
  29. ^ 最初は釈台を使ったが、後には釈台もなく語った 出典:唯二郎『実録浪曲史』p.169-170
  30. ^ この特徴的な声については、『日本の古典芸能 9 寄席』p.44に中村幸彦による説明がある。
  31. ^ 正確には、よく言われるような(理想的な)浪曲師の声としてのシオカラ声・しわがれ声・ダミ声は誤り。
  32. ^ これはただただ怒鳴る。そうしてカラカラに声を枯らしてしまう。そこをいよいよふた調子も三調子も張り上げて、血を吐く思いで歌いつづける。すると枯れがれに枯れつくした底の底のまた底の方から滾滾と美しい声の泉が噴き上げて来る。即ちそれが、自分の研がれ、磨かれ、鍛え上げられたほんとうの「声」なのだ。-正岡容『日本浪曲史』南北社版 p.357-358
  33. ^ ジャンルは違うが、以下一例。「すると先生は「まず声の訓練をせよ」とおっしゃいました。ごうごうと落ちる滝、ざあざあと流れる川、どうどうと打ち寄せる波、そういうものに向かって、それらの音に敗けない声でお経をせよ。三日か四日で声はつぶれるが、それでも出ない声でやる。そのうちのどから血が出る。それでもまだやる。そうして三十日か四十日たったころに何日も何日もしゃべっても決して枯れない声になる。本格的な布教師になるならば、それに耐える努力をしなければならないがどうか、というわけです。」-祖父江省念『節談説教七十年』p.69
  34. ^ また、声をよくするためにナメクジを呑み込む話は広沢瓢右衛門などがしている
  35. ^ 虎造節は、時の試練を越えて保存会が結成・活発な活動がなされている
  36. ^ 北川純子は現役の曲師でもあり、東西の寄席に出演している。おもな発表論文に北川純子. “関東節の浪曲における三味線 (PDF)”. 2014年4月25日閲覧。大阪教育大学)や北川純子. “日本音楽における「間」概念の検討―浪曲三味線の現場から― (PDF)”. 2014年4月26日閲覧。(大阪教育大学)がある
  37. ^ 出典:三波春夫『歌藝の天地』
  38. ^ 正岡容『日本浪曲史』南北社版 p.342-343 もそれを裏書きする
  39. ^ 新聞(しんもん)読み→際物浪曲
  40. ^ 五寸釘の寅吉、海賊房次郎、松平紀義のような有名な犯罪者が、懺悔と称して当人の語る実録浪曲として舞台に立つ事は、明治・大正期にはしばしば見られた。詳細については倉田喜弘『芝居小屋と寄席の近代』や正岡容『定本日本浪曲史』p.30を参照
  41. ^ 正確には少し前
  42. ^ 浪曲作家は浪曲史研究家を兼ねるケースが非常に多く、その著作数は多い
  43. ^ また関東においても、三門博玉川福太郎などがレコードを出している
  44. ^ 現在でも時折、定席以外の場で見られる。出典:『上方伝統芸能あんない』浪曲の章、『待ってました 名調子!』、『浪曲定席 木馬亭よ、永遠なれ。 芸豪烈伝+浪曲日記』
  45. ^ 明治35年1月18日~ 高松市歌舞伎座 三都合併うかれ節芝居興行。吉川辰丸。「関東五人侠客国定忠治伝」「水戸黄門漫遊記」「忠臣蔵」等 明治35年1月21日付 [香川新報] 『明治の演芸7』p.155
  46. ^ 戦中である1943年(昭和18年)末に発表された大日本興行協会の全国統計によると、浪曲専門の一座は255座、浪曲・漫才の座は49、浪曲及び舞踏は4、浪曲劇専門は41、時代劇と浪曲劇を併演するものは12。出典:『実録 浪曲史』p.118 ★要確認
  47. ^ 同年芸術祭賞受賞 (PDF)
  48. ^ 内山惣十郎『浪曲家の生活』に詳しい。
  49. ^ キネマ旬報年間ベストテンには、戦前に浪曲でもおなじみの主人公の映画がいくつかランクインしているが、「浪曲映画」は戦前戦後を通して一つもランクインしていない。参考サイト
  50. ^ 出典:『実録 浪曲史』、ムービーウォーカー
  51. ^ いずれも1クール(3ヶ月)程度の短いもので、テレビでも人気が定着したとは言い難い
  52. ^ 浪曲そのままのタイトル、浪曲師でもある2代目友衛のヒット曲であるが、歌謡浪曲の特徴は備えておらず、その点もあってか浪曲の範疇には取られないことが多い
  53. ^ 浪曲の世界ではまず先人の節まねから入り、徐々に自分の節使いを創造していくのが常道である。節まねは特別なものでなく、今でも二代目東家浦太郎など、高座の余興で披露する場合がある
  54. ^ 得意は木村重松木村重友初代港家小柳丸など 出典:桂文楽『あばらかべっそん』
  55. ^ 「雲右衛門の弟子で雲太夫といった人が、(柳亭)左楽さんの門下になって、信楽を名乗った。本名を鈴木政吉という。今西の正蔵がこしらえた『墓誌』に出ております」出典:三遊亭円生『寄席切絵図』(桃中軒雲太夫といえば東家楽燕のことであり、おそらく芸談の類であろう)
  56. ^ 大正10年に浪曲から落語家に転じ、没年昭和2年3月2日。出典:『古今東西落語家事典』。また朝日新聞1926年(大正15年)8月5日朝刊5ページにも記事あり。
  57. ^ 本調子であり、浪曲とは異なっている
  58. ^ 『談志百選』p.390-391には広沢瓢右衛門から「鈴が森」「佐野山」他の稽古をつけてもらったことを書いている
  59. ^ 『痴遊雑誌』に転載された「浪花節漫語」の上欄、北村大巴(浪花容峰)の寄稿にもあるように、古くから関西で「浪花節だから浪花(大阪)」と単純化をする傾向が見られる。出典:『痴遊雑誌』復刻2巻p.882
  60. ^ 大西信行『浪花節繁昌記』
  61. ^ 明治36年以降も大阪の芸人は浮れ節で登録があった。大阪でも「浪花節」になるのは大正12年である。 出典:倉田喜弘『芝居小屋と寄席の近代―「遊芸」から「文化」へ』p.152
  62. ^ と北陸地方。いずれも上方の影響力が強い地域である
  63. ^ 肝心の、東京で「うかれぶし」の呼称では駄目な理由をきちんと説明した文献は関東側には一つとしてなく、雑誌『上方』144号(1943.(1))の「関西浪花節の今昔」に「江戸名物の都々逸、大津絵、甚句、などが『浮かれ節』として」あったためとあり、これが明確な説明である。出典:『日本近代歌謡史』p.2258-2260。『日本吹込み事始 1903年ガイズバーグ・レコーディングス』にも「うかれぶしさわぎ」という名の今の浪花節とは別の音曲(演者・立花家圓左衛門、富士松ぎん蝶)の収録がある。「さわぎ」とは、花柳界での宴会の手順のうち、まず客と芸者衆が揃ったところで「お座付き」というご祝儀歌を演奏し、その次に座を盛り上げるためにかかる曲をいう。出典:小沢昭一『ものがたり 芸能と社会』p.158
  64. ^ 同時期に寄席に登場したオッペケペーの浮世亭○○こと川上音二郎娘義太夫などと比べても明らかである
  65. ^ 明治6年までで取り壊された
  66. ^ 現在の上野駅構内。1882年(明治15年)11月に閉鎖される
  67. ^ 明治期に入り火除地となる。明治23年に閉鎖。その後は日本鉄道の貨物駅用地となる
  68. ^ 采女橋の脇に空き地があった。今の新橋演舞場向かい。
  69. ^ 今の内幸町近辺
  70. ^ 佐竹藩の屋敷跡。現在の台東区台東。下谷区竹町の一帯
  71. ^ 本所の津軽藩屋敷跡。今の墨田区石原3丁目から亀沢3丁目にかけて
  72. ^ 唯二郎『実録浪曲史』p.4-6
  73. ^ 節談説教の演目と重なり、その強い影響が伺える
  74. ^ 唯二郎『実録浪曲史』p.26
  75. ^ 大我居士『貧天地飢寒窟探検記』飢寒窟編p.14
  76. ^ 上島敏昭「仇討ちのドラマトゥルギー―浪花節の忠臣蔵をめぐって―」『芸能』33(12) p.30
  77. ^ 唯p.9 「雲入道一代」二六夕刊1912年(大正元年)8月27日~9月4日まで7回?6回連載。確認済
  78. ^ 江戸時代は大名屋敷が並ぶ武家地であった所も、戊辰戦争と共に荒廃、さらに「桑茶政策」により都市化が逆行し影響が長く残った http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives/0703kaidoku06_1.htm
  79. ^ 『上方芸能』(136)p.28
  80. ^ 一心亭辰雄の回想録『浪花節一代』p.63-65 に拠れば日本橋浜町の相互クラブという当時珍しい洋館建の寄席小屋
  81. ^ 一心亭辰雄の回想録『浪花節一代』p.63-65 に拠れば、浪花節抜きで不入りだったからでなくステテコの円遊のとりなしで、錦輝館の経営する錦亭という寄席
  82. ^ 『実録浪曲史』 巻末年表(布目英一制作)★確認要
  83. ^ 「○猶敗北の例をいはば、浪花節といふもの、都の中央にては大ろじといふに折々かかるのみなりしが、この程は宴席の余興にも召されて、これが寄席に旦那様奥様の黒の羽織を見ること、敢えて珍しからずと聞く。」発表は『太陽』明治30年10月号。確認済。出典:坪内祐三編『明治の文学 15 斎藤緑雨』筑摩書房 2002年p.410
  84. ^ 大円朝こと三遊亭圓朝も出演した大店である 出典:三遊亭圓生『寄席切絵図』
  85. ^ 1885年(明治18年)3月下席には早くも美弘舎東一、浪花亭駒吉が出演している。出典:芝清之『浪花節 東京市内・寄席名及び出演者一覧』
  86. ^ 万朝報1900年(明治33年)10月13日付 出典:兵藤『<声>の国民国家・日本』 確認済。
  87. ^ 大西信行『浪花節繁昌記』によれば明治24年
  88. ^ 浪花亭駒子(一心亭辰雄)の回想録 出典:『浪花節一代』p.70-71
  89. ^ 芸人同士の深刻な対立ではなかったらしく、合併興行をする場面も多くあった
  90. ^ 松竹株式会社『歌舞伎座百年史 資料編』p.53,安田宗生 編『美當一調・桃中軒雲右衛門関係新聞資料』,唯二郎『実録 浪曲史』p.334
  91. ^ 来日したグラモフォン社の録音技師フレッド・ガイズバーグによる。以下はその復刻版。『日本吹込み事始 1903年ガイズバーグ・レコーディングス』TOCF 59051
  92. ^ 後のドーナツ盤レコードの前
  93. ^ 山口亀之助 著. 『レコード文化発達史』 録音文献協会, 昭11. 313, 21p なお『定本 日本浪曲史』によれば、これは幟に書かれた演者本人が吹込みをしたものではなく、鼈甲斎雲竜による節まねであったという
  94. ^ 朝日新聞 1906年10月2日
  95. ^ 唯二郎『実録浪曲史』p.10-11
  96. ^ 実際には今でいうブレーン的役割を果たした
  97. ^ 秩父久方によれば「当時の壮士演説会のようすを模倣し、芸能的にショーアップしたものであろう」出典:「浪曲」『日本大百科全書』18巻p.531
  98. ^ 岡本和明『俺の喉は一声千両』
  99. ^ 寄席の入場料が十銭の時代に、一等一円の料金を取り、最初の5日間で費用を回収、それ以降は入場料がそのまま利益という近代興行界最大の快挙であった。出典:倉田喜弘「浪曲」『日本音楽大事典』平凡社
  100. ^ 派手な宣伝は相当なもので、東京市中に「日本一の奈良丸」とビラ等で告知、関東の浪花節語りは一斉に反発しビラを叩き落として回ったという逸話が残る
  101. ^ 1908年(明治41年)6月15日 福岡日日新聞によれば当年13歳
  102. ^ 1910年(明治43年)6月27日 福岡日日新聞によれば12歳
  103. ^ 1911年(明治44年)9月29日 河北新報によれば13歳
  104. ^ 成人し、後に娘が天津羽衣
  105. ^ 「実録 浪曲史」p.8 表2によれば
  106. ^ 倉田喜弘『日本レコード文化史』
  107. ^ 『日本のうた 第一集 明治・大正』p.221によれば、最後の一節が奈良丸の浪花節の節調をそのまま採り入れている。また三番の歌詞「月が出た出た月が出た/セメント会社の上に出た/東京にゃ煙突が多いから/さぞやお月様煙たかろう」はのちの炭坑節の元となった。出典:東京のうた.84 奈良丸くずし 朝日新聞 1968年(昭和43年)5月1日
  108. ^ これは創立間もない講談社が速記から創作(今に至る路線である)に転じる重要なきっかけとなる
  109. ^ 背景には、浪花節がその社会的地位を一足飛びに上げていく中で、そのネタ元として、講釈師の高座やその速記本を大いに利用していたこともある
  110. ^ 講談社『講談社の90年』p.60-61
  111. ^ 『講談社の90年』には、明治44年「講談倶楽部」創刊号には「浪花亭重松」で速記掲載があったが、問題の大正2年の増刊「浪花節十八番」発売記念の浪花節芸者大会に「木村重松」で出演していることが確認できる
  112. ^ 一部で定説化している「大正6年12月20日付の「都新聞」紙上で初めて使用された」という事実は無いが、直後の年明け大正7年1月3日付には同紙上で記述を発見できる。関西でも大正9年8月18日付の大阪毎日新聞にある。その頃既に浪曲の世界を「浪界」と呼ぶ記述は見られ、「浪界」の初出は明治41年6月15日福岡日日新聞よりは以前。以上は芝清之『新聞にみる浪花節変遷史』明治編、大正編でも確認可能
  113. ^ 上島敏昭「仇討ちのドラマトゥルギー―浪花節の忠臣蔵をめぐって―」『芸能』33(12) p.30
  114. ^ 安田宗生『国家と大衆芸能』p.13
  115. ^ 大阪朝日 1920年(大正9年)8月21日付、都新聞 同年8月23日付など
  116. ^ 奈良丸の渡米は1917年(大正6年)。3月8日サイベリア丸で鹿島を立ち、5月13日SFユーイングフィールド野球場にて邦字紙「新世界」主催読者大会で口演。7月8日ウィルソン大統領に単独面会、後の首相・原敬の後押しで。その後アメリカ・ビクターで吹き込み。出典:『浪曲の神髄』p.97-105
  117. ^ 1912年(明治45年)3月17日、神田・市場亭にて「安中草三」を6時間に及ぶ通し読みをし、一躍名を上げた 出典:二六新報 1945年3月15日夕刊、同3月20日夕刊
  118. ^ 二代目東家楽遊の浜町御殿や鼈甲斎虎丸の中野御殿、また、初代雲月の唐津の大邸宅の一帯が「雲月町」と呼ばれていた例など。また、大和之丞(二代目奈良丸)が中心となって1935年(昭和10年)京都で大石神社を創建した例がある。
  119. ^ その様は、梅中軒鴬童『浪曲旅芸人』などに詳しい
  120. ^ 5月15日、試験放送中の大阪放送局(BK)に宮川松安の浪花節。関東は開局から3ヶ月遅れでAKに春日亭清吉が登場する 出典:唯二郎『実録浪曲史』p.49
  121. ^ 兵藤裕己. “オーラル・ナラティブの近代 (PDF)”. 2014年3月13日閲覧。成城大学
  122. ^ 同様のものに1941年(昭和16年)朝日新聞中央調査会が行った「地方娯楽調査資料」があり、浪曲はやはり全国的に人気を得ていた事がわかる。出典:『近代庶民生活誌 第8巻 (遊戯・娯楽)』に収録
  123. ^ 国会図書館「れきおん」に多数録音が残されている
  124. ^ 堀江誠二『悪声伝 広沢瓢右衛門の不思議』p.171
  125. ^ 1938年(昭和13年)8月29日から3日間の二代目天中軒雲月の襲名5周年記念独演会や、1940年(昭和15年)8月28日、29日の春日井梅鴬独演会など 出典:『歌舞伎座百年史』p.272,284,289,298
  126. ^ 情報局に講堂として接収された1941年(昭和16年)1月30日に愛国浪曲試聴会。出典:唯二郎『実録浪曲史』p.101
  127. ^ また1943年(昭和18年)12月30日の「芸能従軍壮行 浪曲大会」。出演は春日井梅鴬、広沢虎造、梅中軒鴬童、寿々木米若。出典:『帝国劇場100年のあゆみ』p.89
  128. ^ 1942年(昭和17年)には欠くこともなく毎月劇場での浪曲大会が続いたという 出典:『実録 浪曲史』p.112
  129. ^ 『日本浪曲史』p.30
  130. ^ 詳細については猪野健治『興行界の顔役』冒頭を参照
  131. ^ 出典:『大衆文化事典』浪曲の項(芝清之)要確認★
  132. ^ CCDから禁止演目など具体的な指示通達を受けたことがわかっている 出典:唯二郎『実録浪曲史』p.155-156
  133. ^ 唯二郎『実録浪曲史』p.306 TBSに入局し、スポーツアナウンサーとして活躍した虎造の息子、山田二郎(虎造節継承会)も談話で言っている
  134. ^ 「銭形平次」(ラジオ東京文化放送)は異例の長期間にわたる番組であった。脚本は全て国友の自作
  135. ^ 上記の「浪曲天狗道場」は断トツの聴取率23.8%であった。昭和32年度NHK調べ 在京民放3局高聴取率番組 出典:唯二郎『実録浪曲史』
  136. ^ 兵藤裕己『声の国民国家・日本』p.12
  137. ^ 宮崎学「ヤクザと芸能の世界」『ヤクザと日本』ちくま新書 p.112
  138. ^ 小沢昭一『放浪芸雑録』「トクダシ小屋のトクちゃんの一代記について/語り手=徳ちゃん」
  139. ^ 大利根勝子『浪曲波乱万丈!』(DVD)での告白
  140. ^ 1965年(昭和40年)から1993年(平成6年)までは毎年開催 出典:松竹(株)・(株)歌舞伎座「歌舞伎座百年史」平成7年(1995年)発行
  141. ^ いずれも戦前修業組であり、戦前世代を主な客層とした
  142. ^ この時期の新聞記事に頻繁に出てくる
  143. ^ 芦川淳平『浪曲の神髄』p.47-48
  144. ^ 唯二郎『実録浪曲史』「明治・大正女流列伝」p.33
  145. ^ その間、入門者がいなかった訳ではないが、浪曲界に居続け、大成した者はいない
  146. ^ 多くの一門芸脈の消滅に悪影響は現れている
  147. ^ 小、坊については修行中を表す意味が強く、その名を持つ浪曲師だけを集めた大会もしばしば開かれた。 出典:唯二郎『実録浪曲史』p.90
  148. ^ 浅草・イサミ堂のページには浪曲演者一覧があり、より深く浪曲を知りたい人には便利である。
  149. ^ 松山伝十郎編『浅草繁昌記』実力社 1910年 p.154
  150. ^ 堀江誠二『悪声伝 広沢瓢右衛門の不思議』p.31
  151. ^ 大阪毎日新聞1910年11月29日付
  152. ^ 大阪毎日1910年12月21日付
  153. ^ 大阪毎日1912年1月29日付
  154. ^ 村島帰之調査『大大阪』
  155. ^ 桂米朝『上方芸人誌』p.177
  156. ^ エーピーピーカンパニー『江戸東京芸能地図大鑑』

参考資料[編集]

主な参考文献[編集]

音声資料[編集]

  • (CD)『浪花節名演集 SP盤復刻』全5枚コロムビア、2011年。COCJ-37011~15(美当一調の「糸入り講談」や、中川明徳『浪花節発達史』で録音された前身芸能の数々も再収録されている)
  • (CD)小沢昭一『ドキュメント「日本の放浪芸」小沢昭一が訪ねた道の芸・街の芸』ビクター、1999年。VICG-60231~37
  • (CD)小沢昭一『また又日本の放浪芸 節談説教 小沢昭一が訪ねた旅僧たちの説法』ビクター、1999年。VICG-60243~48
  • (CD)『全集・日本吹込み事始 1903年ガイズバーグ・レコーディングス』ユニバーサルミュージック、2001年04月25日。TOCF-59061~71

外部リンク[編集]