川内康範

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川内 康範(かわうち こうはん、1920年大正9年)2月26日 - 2008年平成20年)4月6日)は作詞家脚本家政治評論家作家である。北海道函館市出身。本名は(きよし)。青森県八戸市に在住していた。

目次

[編集] 人物

海外抑留日本人の帰国運動や戦没者の遺骨引き上げ運動を早くから行った活動家であった。この活動を通じて政財界との関わりを持ち、福田赳夫の秘書を務め鈴木善幸首相竹下登元首相のブレーンでもあった。晩年は国民新党顧問を務めていた。

政治思想的には「民族派」に近いとされていたが、一方で日蓮宗に生まれた仏教徒であり、マハトマ・ガンディーの非暴力的抵抗を高く評価し、日本国憲法第9条は護持すべきとしていた。人脈は右派にとどまらず、アナーキストルポライター竹中労とも親交があった。

1950年代から1960年代にかけて、多くの映画の原作脚本を手がける。特に、1958年に原作と脚本を手がけたテレビドラマ月光仮面』は有名で、数多くの子供向け番組の原作や監修を手がける。1970年代の特撮ヒーロードラマ『愛の戦士レインボーマン』や『正義のシンボル コンドールマン』は、川内の経歴や思想を色濃く反映した作品とされる。1975年から監修として携わったテレビアニメまんが日本昔ばなし』は、1994年まで20年弱にわたる長寿番組となった。

歌謡曲の作詞家としても、『誰よりも君を愛す』『君こそわが命』『骨まで愛して』『恍惚のブルース』『花と蝶』『伊勢佐木町ブルース』『おふくろさん」など数々のヒット曲を持つ。

まんが日本昔話プロデューサーの川内彩友美は娘(先妻の継子)、弁護士の飯沼春樹は長男(実子)、『骨まで愛して』で知られる歌手・城卓矢、作曲家・北原じゅんは甥(元妻の親類なので血縁は無い)。

かつてはメディアの露出も多く、多数の週刊誌連載を抱えていた。晩年まで地元紙である『デーリー東北』には時事問題等についての寄稿や投稿が多かった。

1984年グリコ・森永事件では、週刊誌上(週刊読売)にて犯人に対し「私財1億2000万円を提供するから、この事件から手をひけ」と呼びかける。犯人は川内の申し出に対し「月光仮面の 川内はん あんたも ええ男やな」と前置きした上で、「けどな わしら こじきや ない」と拒絶したため(1984年11月22日付声明文)、このことで事件が収束に向かうことは無かったものの、大きな話題を呼んだ。

2000年代あたりからは、年齢及び体力的な問題もあり、公の場への登場は控えていた。

2007年2月、歌手の森進一に対し今後自作曲の歌唱禁止を通告する会見を開き、所謂“おふくろさん騒動”が勃発。数十年ぶりに時の人となった。この騒動は新聞の社説にまで取り上げられた。年末には薬害肝炎問題の対応に苦慮する福田康夫総理にアドバイスしたとも言われる。

2008年4月6日午前4時6分、青森県八戸市の病院にて慢性気管支肺炎の為、88歳で死去[1]

戒名は「生涯助ッ人」。4月8日荼毘(だび)に付された時は「戒名は不要」という生前の意向が尊重されたが、この日になって親族らが相談し、故人にふさわしい戒名を考えたという。歴代首相に水面下で助言するなど、人のために尽くすという川内のポリシーが由来で、著書「生涯助ッ人 回想録」のタイトルにも使用していた。

[編集] 性格/エピソード

  • 耳毛が長い。この耳毛は意図的なもの(元々長く、1960年代あたりの写真でも確認できる)で、2007年の『ワイド!スクランブル』出演時に山本晋也から尋ねられた際に「長寿の印、達磨大師にあやかって(人に勧められて)伸ばしている」と語っている。ちなみに耳毛に触ったことのあるアナウンサー小林はるか曰く「の毛でできた筆と感触がとても似ている」とのこと。
  • 大島紬を着た女性が軽く出てくる、文章にすればわずか5、6行の場面を書くために、八丈島の泥染めをしている老婆に会ってきたことがある。それだけ作品に対して真摯に取り組んでいることを示す著名なエピソードである。
  • 筋は必ず通す、金は貸しても借りないことをなどを信条としており、「喧嘩康範」の異名を取るほど妥協しない性格で知られる。2007年、ラジオ番組『誠のサイキック青年団』のイベントにVTR出演する予定であったが、川内自身の体調不良で中止となった。
    番組MCの北野誠竹内義和は「体調不良なら仕方ない」と思っていたところ、イベントスタッフ側に川内から丁重に御詫びの連絡があり、北野・竹内も(大御所でありながら)川内のこの対応に「嬉しかった」と番組内でコメントしている。
  • 父が法華宗の寺の住職でもあったこともあり、熱烈なる法華宗の信者である。法華宗の教えは自身の思想の原点であると語っている。
  • 竹下登と誕生日が同じで、長年竹下邸で合同誕生会が開かれていた。
  • 青江三奈の芸能界の育て親であり、名付け親でもある(青江は自身の小説のヒロインの名である)。
  • 漫画家の永井豪は『月光仮面』の大ファンで、連載前に川内康範にパロディ作品(『けっこう仮面』)を作る許可をもらいに行ったところ、エロ作品であるにもかかわらず快く許可を出してくれたという。
  • 奥さんからスヌーピーに似ているという理由で「スヌー」と呼ばれていた。

[編集] 経歴

  • 1920年日蓮宗の寺に生まれる。
  • 1932年、小学校を卒業。以後、家具屋の店員、製氷工場、製缶工場、炭坑夫などの数々の職業を転々とする。
    • 大都映画大道具だった兄を頼って上京。新聞配達をしながら独学で文学修業を重ね、日活のビリヤード場に就職。人脈を広げて、日活の撮影所に入社する。
  • 1941年東宝の演劇部へ入社。やがて撮影所の脚本部へ転属となり、特撮人形劇映画を担当。その傍ら舞台の脚本なども執筆。東宝退社後、新東宝やテレビなどの脚本家、浅草軽演劇の劇作家として本格的な活動開始。
  • 1945年第二次世界大戦の兵士の遺骨引揚運動を開始。1955年まで10年間続ける。
  • 1958年 TVドラマ『月光仮面』を手掛け、大ヒット。その後作詞活動も始め、数多くのヒット曲を送り出す。
  • 1973年5月、自身が買った殖産住宅相互株式会社株3万株を殖産住宅相互株式会社に引き取らせた[2]
  • 1975年、監修したアニメ「まんが日本昔ばなし」の放送開始。
  • 1984年、食品企業を脅迫するグリコ・森永事件が発生。「週刊読売」誌上で犯人グループに対して康範が私財の1億2千万円を提供する代わりに犯行を止めるよう呼びかける。

[編集] 日本的ヒーローの創造者

『月光仮面』を筆頭に川内三部作とも呼ばれる『レインボーマン』『ダイヤモンド・アイ』『コンドールマン』等、日本の特撮ヒーローの草創期に活躍した。

『月光仮面』のキャッチフレーズは「憎むな、殺すな、赦しましょう」であるが、これには康範が仏寺に生まれ育ったことが影響していると自から語っている。

昭和30年代のテレビ番組は外国製人気番組の全盛時代であり、貴重な外貨を費やす外国製番組に替えて国産番組を増やしていくことは時代の要請でもあったが、この依頼に対して日本独自のヒーロー番組を作り上げる上で、コンセプトは仏教で言う『借無上道』-無償の愛こそがこの世で最も尊いという康範の考えであった。ゆえに、月光仮面は善悪区別なく誰にでも降り注ぐ月光を象徴した月光菩薩をモデルとして創造され、また絶対的な力を持つ超人=神仏(如来)ではなくその代行者に過ぎず、悪を懲らし善人を助けるが、裁きはしないという性格を与えられた。『借無上道』の精神は康範の手がけるヒーローすべてに共通するテーマとなっている[3]

[編集] 歌手・森進一との関係

康範と森の付き合いは古く、1968年に「花と蝶」で康範が作詞を担当したときからの付き合いである。元来、康範は親分肌の人間であるが、森のそれまでの境遇に同情、ひたむきだった人柄を気に入り家族ぐるみの付き合いを始めた。1973年に森の母が自殺した際には、真っ先に駆けつけ葬儀を取り仕切ったほか、自ら読経も担当した。

1979年に森が渡辺プロダクション(渡辺プロ)から独立の際、森は渡辺プロからの妨害を受けた。さらに、渡辺プロは独立した森を出演させるなら他の渡辺プロのタレントを引き上げると各TV局に通告。全民放は当時圧倒的な数の人気歌手・タレントが所属する渡辺プロに屈したため、森は民放のテレビ出演が出来無くなってしまった。しかし康範らが助け、NHKへの出演だけは取り付け、同年の第30回NHK紅白歌合戦には出場できた。約半年後、川内の奔走によって森サイドが営業活動の窓口の一部を渡辺プロに依頼することで手打ちとなった。その他、森のスキャンダルが発覚した際には常に康範が火消しに暗躍していた。

その後も康範と森との間の関係は良好であったが、2007年のおふくろさん騒動が起こると、康範は森に対して絶縁宣言をした。

[編集] 作品

[編集] 映画・原作・監督

[編集] 映画脚本

[編集] 映画原作

[編集] 映画監修

[編集] 作詞

(「よいしょこらしょ」「女の旅路」は川内康範の遺作。)

[編集] 著書

  • 「愛の暦日」(柿ノ木社、1948年):河内潔士名義
  • 「哀怨の記 天中軒雲月(改メ伊丹秀子)」(積善館、1949年)
  • 「かくて愛と自由を」(妙義出版社、1952年)
  • 「生きる葦」(妙義出版社、1952年)
  • 「天の琴」(森脇文庫、1956年)
  • 「銀座退屈男」(優文社、1957年)
  • 「月光仮面 上・下」(穂高書房、1958年)
  • 「青い裸像」(南旺社、1958年)
  • 「偉大なる魔女」(現代文芸社、1958年)
  • 「銀座旋風児」(穂高書房、1959年)
  • 「七色仮面 1~7」 (鈴木出版、1959-60年)
  • 「勝手にしやがれ」(穂高書房、1960年)
  • 「誰よりも君を愛す」(東京文芸社、1960年)
  • 「恋にいのちを」(東京文芸社、1960年)
  • 「アラーの使者 1~3」(鈴木出版、1960-61年)
  • 「日本の壁 第1部」(東洋書房、1961年)
  • 「誰よりも君を愛す 続」(東京文芸社、1961年)
  • 「眠いの起さないで」(東京文芸社、1961年)
  • 「悲恋」(東京文芸社、1962年)
  • 「恋しても愛さない」(東京文芸社、1963年)
  • 「憎まれッ子物語」(アルプス、1963年)
  • 「風雪山脈」(アルプス、1963年)
  • 「命悔いなき愛なれば」(東京文芸社、1964年)
  • 「俗徒」(東京文芸社、 1965年)
  • 「恋雨」(東京文芸社、1965年)
  • 「骨まで愛して」(講談社、1966年)
  • 「海は真赤な恋の色」(東京文芸社、1966年)
  • 「あなたの命」(集英社、1966年)
  • 「俗論現代を斬る」(講談社、1967年)
  • 「恍惚」(講談社、1967年)
  • 「君こそわが命」(徳間書店、1967年)
  • 「銀蝶ブルース」(東京文芸社、1967年)
  • 「あなたと二日いたい」(集英社、1967年)
  • 「愛なぜ哀し」(双葉社、1967年)
  • 「赤い血の恋」(東京文芸社、1968年)
  • 「愛の痛み」(春陽堂書店、1968年)
  • 「愛は惜しみなく」(講談社、1968年)
  • 「政治を斬る」 (東京文芸社、1969年)
  • 「受胎」 (東京文芸社、1969年)
  • 「わが恋の旅路」(東京文芸社、1969年)
  • 「花と蝶」(東京文芸社、1969年)
  • 「虫けら」(講談社、1970年)
  • 「愛は死んだ」(東京文芸社、1970年)
  • 「赤より朱く」(広済堂出版、1970年)
  • 「純潔」 (講談社、 1971年)
  • 「終宴1 漂泊の抄」(広済堂出版、1971年)
  • 「終宴2 輪廻の抄」(広済堂出版、1971年)
  • 「終宴3 忘却の抄」(広済堂出版、1972年)
  • 「俗論現代を刺す」 (講談社、1973年)
  • 「俗論現代を殴る」 (広済堂出版、1973年)
  • 「怨念」(広済堂出版、1973年)
  • 「恋燈」(廣済堂、1975年)
  • 「日本海軍精神棒」(ノーベル書房、1975年):大野景範名義
  • 「慌てるなよ日本人」 (広済堂出版、1976年)
  • 「夢魔性魔」(東京文芸社、1976年)
  • 「常識への挑戦 どれがホンモノなのか」 (広済堂出版、1983年)
  • 「私のために死ねますか」(集英社、1984年)
  • 「田中角栄は国賊か 日本の未来のための政治エッセイ」(サイマル出版会、1985年)
  • 「中曽根政治の検証 禍いの政治の行方」(サイマル出版会、 1989年)
  • 「駆落ち」(ノーベル書房、1989年)
  • 「命あたえて 川内康範詩画集」(ノーベル書房、1990年)
  • 「姓はアメリカ名は国連 こんなもの信じられるか 湾岸戦争・思いっきりエッセイ」(ぴいぷる社、1991年)
  • 「憤思経 川内康範詩集」(詩画工房、1993年)
  • 「日本は不戦の憲法を犯すな 昭和天皇の御遺志を護持せよ 川内康範の政治エッセイ」(ぴいぷる社、1994年)
  • 「寄るな触るな邪魔するな」 (ぴいぷる社、1995年)
  • 「吾等原爆に降伏せず 太平洋戦争終結五十周年記念作品」(ノーベル書房、1995年)
  • 「生涯助ッ人 回想録」 (集英社、1997年)
  • 「タクシー・ドライバー黒田軟骨の女難」(集英社、1997年)
  • 「アメリカよ驕るな!! 月光仮面最後の警告!!」(K&Kプレス、1999年)
  • 「昭和ロマネスク 川内康範百詩集」(黙出版、2002年)
  • 「流れのままには・・・・・・」(廣済堂出版、2007年)
  • 「おふくろさんよ 語り継ぎたい日本人のこころ」(マガジンハウス、2007年)

[編集] 脚注

  1. ^ 川内康範さん死去 サンケイスポーツ 2008年4月8日閲覧
  2. ^ 出典は「国会会議録・第080回国会 ロッキード問題に関する調査特別委員会 第9号」
  3. ^ 出典「特撮ヒーローBESTマガジンvol.1」スペシャルインタビュー川内康範 『月光仮面』-最後の真実より

[編集] 参考文献

先代:
1968年
星野哲郎
第2回日本作詩大賞受賞者
(1969年)
次代:
1970年
藤田まさと
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