番付

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

番付表

番付(ばんづけ)は大相撲における力士の順位表。正式には「番付表」という。ここから転じてその他さまざまなものの順位付けの意味でも用いられる(長者番付など)。格下のものが上位のものを倒す「番狂わせ」などの言葉はここから発している。すでに江戸時代にはこの形式を借りて、古典園芸植物の品種や各地の名所、温泉三味線演奏家、遊女落語講談などの寄席芸人歌舞伎役者など、ありとあらゆるものをランク付けし、それを番付表として出版することが盛んに行なわれた。たとえば万年青では、現存最古として1799年刊のものが確認されている。

目次

[編集] 由来

江戸時代の力士の似顔絵。谷風(4代横綱)や小野川(5代横綱)が記述されている。

もともとは、興行の場所に、板に記されて掲示されることにより、今回の興行に出場する力士の名前と序列を明らかにすることが目的であった。古番付が基本的に写本の形式で伝承されているのはそのためである。しかし、興行の規模が拡大し、広く告知する必要が生じたので、木版印刷の形式で番付を発行(享保年間(17161735年)に木版印刷となる)し、直接相撲場に行く前に、興行の概要を知ることができるようにした。現在でもこの流れを継いで、行司による毛筆書きを写真製版して印刷している。江戸の相撲では、現在宝暦年間(1755年頃)以来の印刷された番付が確認されている。日本相撲協会によれば、1757年(宝暦7年)に縦一枚形式の番付が初めて発行され[1]2007年平成19年)は発行250周年にあたるという。大坂相撲では、1869年明治2年)3月場所より江戸時代からの横東西二枚番付を、初めて縦一枚番付の江戸風に改めて発行した[2]。古番付の記録として最古のものは、1699年元禄12年)5月に京都岡崎天王社において勧進相撲が興行された時のもので、三役の名称もこの番付が初見である。大坂で最古の番付は1702年(元禄15年)4月、大坂堀江勧進相撲公許興行の時のもので、以後享保年間の頃より大坂・京都番付を多くみる。

[編集] 構成

現在の番付は、基本的に東西に二分して表記され、東方が西方より格上にみなされる。たとえば東大関は西大関より半枚上である。この形式は江戸で生み出されたのもので、それ以前の大坂相撲では、東と西との二枚に分けて発行されていた。しかし、初期の江戸相撲は、参加する力士が少なかったので、一枚に収めて東西に分けることにしたために、東西の序列が必要になった。

東が西よりも格上とみなされるようになったのは、1890年(明治23年)に横綱免許をうけた大関初代西ノ海(16代横綱)が、張出大関になることに不満をもらしたため、これをなだめるために同年5月場所で番付にはじめて「横綱」の文字をいれ、東に張出の形式で配置したころからのことである。1909年(明治42年)6月場所の東西制実施のときに、優勝した方屋を翌場所東に配置したことで、東が半枚上ということが確定して、現在に至っている。ただし春秋園事件に際して発行された改定番付(1932年昭和7年)2月場所)では大関3人(東方に玉錦能代潟、西方に武藏山)で張出をつくらなかったために、幕内では「関脇以下は西が上位」とされていたため東方上位が完全に確定したのはこれ以降である。

[編集] 特徴

番付は単なる順位表ではない。その特徴は以下のようなものである。

  • 対象物(力士など)を順位によって並べる。この順位は、最も新しい結果を反映させる。
  • 大きくランクに分ける。いわゆる横綱から序ノ口までのような段階に分けてある。この区分は総合的な評価によって行なわれ、勝負結果などを単純に反映しない。紙上での表記にその差は反映され、格が上の力士ほど字が大きく、立派に描かれる。
  • 全体を東西に分け、紙面上ではそれを左右に振り分け、ほぼ同格のものを対称の位置に並べる。

その面白さのために、他の分野でも同様の物が作られる。例えば古典園芸植物では、江戸時代後期より、多くの植物でそれぞれ番付が作られ、現在もあちこちで出版されている。もっとも、長者番付などは番付と言いながらも、単なる順位表となっている。

[編集] 大相撲の番付

大相撲の番付には、横綱・大関・関脇・小結前頭・同の文字が書かれていて、十両幕下(昔は「二段目」と呼称していた)・三段目序二段・序ノ口の文字はなく、横綱・三役以外はすべて「前頭」である。その「前頭」を段の違いと文字の大きさでランク付けしているのである。五段ある最下段が「前頭」の始めということで序ノ口である。序ノ口は番付の一番下であるが、実はこの下に番付には載らない「前相撲」という階級がある。「前頭」はこの前相撲の頭(上位)という意味である。

「1枚違えば家来同然」「1段違えば虫けら同然」などの言葉に代表されるように、大相撲の世界で番付は絶対的なものである。番付上の地位の区別がより明確になったのは1888年(明治21年)1月場所、十両(十枚目)がやや肉太に書かれ幕下との区別を明確にし、翌1889年(明治22年)5月場所には十両を個別に「前頭」と頭書きしてなお肉太に書き、関取格を判然と明示するようになった。

東京相撲で「横綱」の文字が初めて番付上に記載されたのは1890年5月場所であるが、大坂相撲ではそれ以前の1868年慶応4年)7月場所のことで、陣幕久五郎(12代横綱)が東方欄外に「薩州 陣幕久五郎 横綱土俵入仕候」と記載された。本場所で「横綱」の文字を表したのは大坂でこのときが初めてである。これ以降、大坂相撲では「横綱土俵入仕候」の文字が番付上に記載されるようになり、不知火諾右衛門(光右衛門改め、11代横綱、1870年(明治3年)3月~1872年(明治5年)7月)、八陣信藏(1872年7月~1874年(明治7年)6月)、高越山谷五郎1873年(明治6年)7月~1874年6月)の3例が挙げられる。「横綱土俵入仕候」の文字は江戸相撲の巡業番付には見られ、阿武松緑之助(6代横綱)、秀ノ山雷五郎(9代横綱)のものが確認されている。

近年、珍しい巡業番付が発見された。弘化嘉永年間(18451854年)で、江戸相撲を引退した稲妻雷五郎(7代横綱)がお抱えの関係で雲州に留まり、その際に興行されたときの巡業番付である。驚くことに東方の欄外に、稲妻の地位の部分に「横綱」の文字が刷り込まれている。また「大関」はなく、代わりに「中関」となっていて、メンバー的には大相撲ならぬ「小相撲」の感が強い。

番付の版元としての権利は、相撲司家のひとつである根岸家が、年寄名跡「根岸」とともに受け継いでいたが、戦後、相撲界の合理化、民主化をはかるため、根岸家が自らこれらを相撲協会に返上した(相撲字が苦手で年寄名跡を返上したともされる)。相撲協会ではこの英断をたたえるため、「根岸」の名跡を「止め名」、野球で言う永久欠番に近い形で廃家とした。これは年寄名跡が(一代年寄準年寄は別にして)現在の数(105)に定まった時でもある。

本場所興行の際、東京(1月、5月、9月)場所では国技館の中ほどに、その他の地方場所では開催会場の入り口付近に「板番付[1]が興行する場所に宣伝として掲げられる。板番付は紙番付よりも歴史は古く、興行地において力士の顔ぶれを記したいわば立看板的な役割を果たしていた。現在の板番付は、屋根に当たる部分が「入山形」と呼ばれる「入」の字形に作られるが、これは大入り満員を祈念したものである。

1957年(昭和32年)以前に部屋単位、またはいくつかの部屋の合同など、小集団の巡業を行うときは「巡業番付」が作られる[2]1879(明治12年)~1881年(同14年)頃の巡業番付、14代横綱境川浪右エ門の名がある[3]。横綱、大関など上位力士がいない場合は、その中の一番上位の力士を大関に据えるようにした。1939年(昭和14年)5月に角界一の大部屋、出羽海一門で巡業が行われ、その時作られた巡業番付には鏡岩のほかに、1月場所で優勝した出羽湊が大関に据えられている。現在では協会全体で巡業が行われるので巡業番付は作らない。

相撲部屋の稽古場の壁に下げられる木製の札を「番付札[3]荒汐部屋の番付札)といい、一枚ごとに所属部屋力士の四股名が書かれている。横綱を先頭にして地位の順に並べられる。部屋によって並べ方が違うが、親方(年寄)、行司、呼出床山の名も同様に並べられる。歴代の関取の四股名を揚げている部屋もある。

[編集] 番付編成

番付は各場所後に審判部長を議長とする番付編成会議で作成される。編成会議は場所後3日以内に開くことが定められており、通常水曜日に開かれる。[4]会議には審判部副部長、審判委員、監事が出席し、書記として行司も同席するが、発言権はない。近年は審判委員の所属部屋の力士が優遇される傾向にある。このため明らかに不自然な編成がなされる場合もある(例としては2006年(平成18年)11月場所の片山、2007年9月場所の千代白鵬、同11月場所の春日錦等)。これに対し審判部は「番付は生き物」であるとの見解を示し、事実上批判を封じている。

編成された番付は、翌場所前の番付発表をもって発効する。1970年(昭和45年)から番付発表を従来初日の8日前の土曜日に発表していたものを、他のスポーツ行事が少ない月曜日なら新聞の扱いが大きくなることを考慮して、本場所初日の13日前の月曜日発表に変更された。1月場所の番付発表はそれより早まる。新横綱、新大関に対しては昇進伝達式を行い、該当の力士はこれをもって横綱、大関として遇されることになる。十両昇進力士に対しても、あらかじめその旨伝えられ、相撲協会よりプレスリリースがなされるが、これは待遇が幕下以下と大きく変化することや化粧廻しの新調といった準備に配慮したもので、該当力士の扱いは番付発表まで幕下力士のままである。十両昇進力士の事前発表は1971年(昭和46年)からはじまった。こうした例外をのぞいて、新番付の内容は正式な発表まで伏せられる。

ただし雑誌『NHK大相撲中継』(番付発表前に発売される場合が多い)の力士一覧における幕内力士の顔ぶれは実際の番付とほぼ完全に一致している。また放送予定表では新三役力士がいる場合、中入後企画「新三役紹介」に三役昇進力士の名が記載されており、こちらも実際の昇進力士と一致している。このことから同誌編集部は事前に番付についてある程度の情報を得ているものと思われる。

また2006年9月場所では、国技館で販売されている絵番付を制作している相撲錦絵師の木下大門が、同場所の絵番付を番付発表前に自らのホームページの日記に掲載してしまい(当然絵番付は実際の番付と一致している)、日記が閉鎖された。これにより番付はグッズ製作者にも知らされていることが明らかになった。

なお、地方巡業が現在のように相撲協会主導の「大合併」でなく、一門ごとに別れて行われていた時代には、一門内の最上位力士を大関とした巡業用番付も作成された。引退相撲や、年寄名跡の襲名披露興行などのために作成された番付も存在する。

[編集] 番付を書く

江戸時代中期の元禄年間(16881703年)には、歌舞伎寄席、相撲の看板はいずれも御家流青蓮院流、尊円流ともいい尊円法親王書法を伝えたもの)の文字で肉太に記されていた。1757年宝暦7年)の江戸最初の番付もそれで書かれているが、寛政年間(17891800年)には現在の番付の原型にほぼ落ち着いている。以降、幕末から明治にかけて横棒(横画)の運筆が太くなるなど、歌舞伎(勘亭流)や寄席(寄席文字)の番付とは一線を画するようになった。その名を番付の版元根岸家(江戸時代の三河屋)にちなみ「根岸流」と呼ばれ、現在では主に「相撲字」と呼ばれる独特な書体で書かれる。「高」の字をはしご高(髙)で書くことがあったり、バランスをとるために〈木へん〉をかんむりのように書く(松→枩などのように、同様に「梅」の字も「木」の下に「毎」を書くことがある)ような、本来の正確な四股名とは異なることがあるので注意が必要である。横綱が一番大きく書かれ、以下大関、関脇と地位が下がるにつれ小さく(細く)書かれるようになっていき、序ノ口の力士になるともはや虫眼鏡が無ければ読めないほどである。現在番付を書いているのは幕内格行司木村恵之助で、2007年11月場所から前任の10代式守勘太夫より受け継いでいる。戦後の番付を書いてきた行司(全て番付を書いた時の行司名)は5代式守鬼一郎5代式守勘太夫(6代鏡山勘太夫)、10代式守与太夫6代木村庄二郎2代木村容堂、10代式守勘太夫で、恵之助で戦後7人目となる。

行司が書く番付(原版)を「元書き」といい、ケント紙(縦109cm、横79cm)に、鯨尺で「横綱」が幅7分5厘(約2.8cm)、「大関」が6分5厘(約2.5cm)、三役が5分5厘(約2.1cm)取って、残りを平幕の枚数で割る。書く順序としては、まず線引き(枠書き)をして、最初に書かれるのが枠外左下に「平成○○年○○月○○日発表 不許複製」(以前は印刷日も書かれていた、「不許複製」の文字は昭和40年代頃より書かれる)、序ノ口を左から書いて序二段、年寄ほか(「千穐万歳大々叶」「此外中前相撲東西ニ御座候」の文字、特等床山・呼出・世話人・若者頭も含む)、中軸(「蒙御免」の文字、開催年月日と開催場所、行司、審判委員など)、三段目、幕下、十両、幕内、張出があった頃は東の張出を最後に書く。左から右へ、下段から上段へ書いていく。張出の枠は、枠内の地位が書いてある位置から、枠外に張出の枠を設けるので、枠の高さが枠内より若干低くなる。番付の横(幅)の寸法は張出があると、張出がある分だけ枠外の寸法も含まれるため、張出(枠外)がある番付とない番付では、枠内の幅の寸法が変わってくる。張出が多いと、それだけ番付枠内の幅が狭くなるので、張出がない番付より若干文字の幅も狭く書かれるようになる。張出大関や張出関脇が東西にある場合は、枠外に張出の枠、大関・関脇を並べて書く。さらに張出小結などがある場合は、さらに枠を並べて書く場合と、二段目の枠外に書かれることもある(1950年代までは、二段目にもよく書かれていた)。張出の有無に関わらず一人横綱の場合は、横綱を東の枠外に張り出して書かれる。このとき他に張出がある場合は、他の張出の枠より若干大きく設け枠内の高さに揃える。「横綱」の文字・出身地・四股名は枠内および他の張出の文字の高さに揃えず、高く大きめに書かれる。横綱が3人以上(東西の正横綱および張出横綱)で大関以下に張出がある場合は、張出横綱の枠を他の張出の枠の高さに揃え、文字も枠内および他の張出の文字の高さに揃えて書かれる。また改名力士及び年寄名跡に変更がある場合は、改名力士は出身地と新しい四股名の間に小さく「〇〇〇(旧四股名)改」(以前は「〇〇〇改メ」と書かれた)と書かれるが、幕内だけは出身地の右側に小さく書かれる。名跡変更の場合は新しい名跡(年寄名)の上に同様に書かれる。原版の「元書き」は、愛媛県産の川之江和紙(縦58cm、横44cm)に約4分の1の大きさに縮小印刷され、毎場所約60万部ほど発行される。「元書き」は開催場所の会場(国技館など)に展示される。享保年間より番付は木版刷だったが、1917年(大正6年)からは幕内のみ木版刷として、十両以下を凸版印刷に変更。間もなくすべて凸版印刷に移行し、1948年(昭和23年)からはオフセット印刷に改められた。また幕末から明治にかけて、絵師による絵番付(版画で描かれている)や明治以降には写真番付も製作された。現存する絵番付としては、1860年安政7年)2月に回向院境内で興行されたとき、絵師の一恵斎芳幾によって描かれた絵番付がある。写真番付は相撲版画がすたれ、写真が世に出回るようになった明治後期に出現し、戦後時代まで約60年、好角家の目を楽しませた。1978年(昭和53年)11月場所、久し振りにカラーの写真番付が販売されたが、その後現在に至るまで発行されていない。前述の板番付は縦横が各1.9mあり、幕下格行司と三段目格行司が3人がかりで4~5日かけて書き上げる。場所が終わるとかんなで削って文字を消し、また同じ板に翌場所の番付が書かれる。

番付には力士名の他、年寄(現在は「理事」、「監事」(2008年(平成20年)11月場所より表記を「副理事」に改称)、「役員待遇」、「委員(審判委員を含む)」(年寄のうち期間限定の一代年寄である栃東は委員待遇)、「主任」、「年寄」、「準年寄」に分けられる。以前は「取締」、「参与」があった。審判委員(1968年(昭和43年)の機構改革前には「勝負検査役」と番付に書かれていた)、行司、呼出、若者頭世話人の名も記される。番付上では、横書きで書かれる文字はすべて右から書かれている(「司行」、「事理」など)。1994年(平成6年)1月場所と3月場所の二場所、立行司木村庄之助式守伊之助)二人の名前が消えたが大相撲史上初めてであった。若者頭・世話人・呼出に関しては、1960年(昭和35年)1月場所からしばらくは記載されていなかったが1994年7月場所から復活。番付中央の行司の欄の下に若者頭・世話人・呼出の順に記載された(呼出は立呼出・副立呼出・三役呼出・幕内呼出・十両呼出が記載されて幕下呼出以下は記載されない)。これに伴い審判委員を削除して最下段の委員の欄に一括した。このとき、記入スペースを確保するために、それまでの張出の制度を休止して、横綱・大関・三役がそれぞれ3人以上になっても、すべてを枠内に書くこととした(しかし、当時一人横綱のに関しては同年11月場所まで東の枠外へ張り出された。また、2004年(平成16年)1月場所から2007年5月場所まで一人横綱だった朝青龍は張出はされず枠内に書かれている)。2004年3月場所より審判委員を10年ぶりに行司の下に記載し、若者頭・世話人・呼出は最下段の年寄欄の左に記載された。また2008年1月場所からは、床山の最上位である特等床山(床邦、床寿)の名も記載されることになった。ちなみに若者頭・世話人・呼出が1950年代に記載された頃、「木戸部長」、「桟敷部長」(1956年(昭和31年)3月場所の番付より、名称を一括にして「主任」に改称される。それまでは一時「木戸主任」「桟敷主任」と表記されたこともある)という役職も番付に記載されたことがあった。「若者頭」は1910年(明治43年)1月場所に初めて番付に記載され、大坂相撲では1914年大正3年)5月場所に初めて番付に記載された。「呼出」は1949年(昭和24年)5月場所に初めて番付に16人が掲載されたが、寛政年間(1789~1801年)の番付に「呼出し」の文字が確認されている。

また理事長が停年前に理事長職を辞し、停年退職まで「相談役」として番付に掲載(2000年以降では境川尚時津風勝男)されることもある。

各力士の上に書かれる出身地は、江戸時代はお抱え大名の地域であることもあったが、明治以降は旧国名となり、1934年(昭和9年)5月場所より横綱以下全力士の国別出身地が表記され、1948年5月場所より都道府県の表記となった。ただし、幕下以下の場合は、実際の出身地にかかわらず、〈江戸〉または〈東京〉の表示でまとめられることも明治期まではよくみられた。

なお、中央に「蒙御免」(ごめんこうむる)とあるのは、江戸時代に大相撲が幕府の認可のもとで興行をおこなっていたなごり。「此外中前相撲東西ニ御座候」は、番付外に本中、前相撲力士が東西にいる、という意味で、このうち本中は廃止され、前相撲が現在も残っている。

1917年(大正6年)1月の大坂相撲の番付には右側余白のところに「謹賀新年」の文字がある。これはスタンプではなく番付そのものに刷り込まれたもので、大坂相撲では番付は部外者が印刷、発行していたが、1913年(大正2年)1月より「大坂相撲協會番附部」の発行となった。つまりこの「謹賀新年」は協会公認のものである。当時、1月の番付は正月明けに発行され、年賀の代役を果たしていた。

[編集] 特殊事情の場合

番付編成後から発表までの間に、通常の引退以外の事情で力士が力士でなくなった場合は番付を再編成せず、その力士がいた地位を空位にすることとなっている。

一番多い事例は、力士が死亡した場合である。例えば、1971年10月に急死した横綱玉の海の場合は11月場所番付で西横綱を空位にしている。ただし、残った横綱が東横綱の北の富士一人のみであったため形式上は不自然な番付にはならず、一般的には空位の事例として考えられていない。また、1990年(平成2年)2月に急死した龍興山の場合は1月場所が新入幕で勝ち越しており、龍興山の地元である大阪での翌3月場所を自己最高位で迎える予定であったため「四股名だけでも故郷に錦を飾らせたい」という配慮により番付に四股名が残された。

2007年11月場所の番付で西前頭11枚目が空位となった。場所の直前(番付編成後)に時津海が引退して年寄時津風を襲名して時津風として番付に載ることとなり、番付上の重複を避けるために空位とした。これは幕内では1873年(明治6年)11月場所に、高砂浦五郎とそのグループ(改正組)を除名したとき以来(前述のケースを除いて)で134年ぶりだった。また、2008年9月場所の番付では、7月場所後の番付編成で東前頭8枚目に据えられた若ノ鵬が8月21日付で解雇されたため同地位が空位となった。高砂除名組のときは該当者が墨で塗りつぶされたが、時津海、若ノ鵬の際には空白となった。なお同年9月8日付で解雇された露鵬白露山の2力士は番付発表後の解雇だったこともあり9月場所の番付には名前が残っている(ただし同年9月14日付の番付では空白となっている)。2009年(平成21年)3月場所の番付では若麒麟が2月2日付で解雇されたため、西十両筆頭が空位となった。

また、1976年(昭和51年)10月に朝日山部屋の相続をめぐっての騒動でトンガ王国出身の幕下以下の力士が廃業に追い込まれたときも、11月場所の番付では幕下以下のそれぞれの場所が空位とされた。1981年(昭和56年)9月場所番付において、東西の正横綱(北の湖千代の富士)が「横綱大関」として番付上大関を兼務、純粋な大関不在の変則番付になったことがある。(後述。〈横綱大関〉の項目も参照)

2008年3月場所番付において心労を理由に休場した時津風部屋の3力士の番付が据え置かれることが1月26日の臨時理事会で承認され、1月30日の番付編成会議で正式決定された[5]。戦後公傷を除き全休力士の番付が据え置かれたことは無い[6]。この異例の判断に理事長の北の湖は「3力士とも(時津風部屋力士暴行死事件の)捜査に協力しているため、社会通念上決めた」と語った[7]

[編集] エピソード

[編集] 江戸時代

  • 1726年(享保11年)の番付に4代木村庄之助(史実としての初代とされる)の名前が見られる。ちなみに初代式守伊之助の名前は1767年明和4年)の番付に見られる。
  • 1767年3月場所、荒熊が西方幕内格番付外で出場(相撲番付の歴史上、宝暦以降では初めて)した。これ以降、幕内格番付外で出場した力士は1932年5月場所の出羽ヶ嶽までのべ70人がいる。この中には1859年(安政6年)1月場所の陣幕、1882年(明治15年)1月場所の初代西ノ海がいる。西ノ海はこの場所が新入幕だった。
  • 1768年(明和5年)11月場所は番付を欠き(番付が未発見のため)、2大関(岩根山大矢嶌?、2人とも看板大関)の他幕内10力士は地位が不明。
  • 1794年(寛政6年)11月場所の番付で、当時6歳の大童山が怪童という触れ込みで、西方前頭に張り出された。これ以降、怪童で番付に載ったのは嘉永年間(18481854年)の鬼若鬼勝大童子。安政年間(1854-1860年)には柏嶽大纒舞鶴がいる。他に巨人力士として、1844年天保15年)10月場所の生月1863年文久3年)11月場所の皆瀬川がおり、いずれも前頭に張り出されている。
  • 1819年文政2年)11月場所の番付より、それまで番付上段に書かれていた「東ノ方」「西ノ方」(または「東の方」「西の方」)が、「東」「西」とだけ書かれるようになった。
  • 1863年7月場所、新関脇に昇進した陣幕は番付上では張出関脇となり、関脇の張出はこれが最初となった。ちなみに張出横綱(一人横綱の張出は除く)は1904年(明治37年)1月場所の大砲、張出大関は1890年5月場所の剣山、張出小結は1888年5月場所の嵐山、張出前頭は1793年(寛政5年)3月場所の関ノ戸がそれぞれ張出の最初である。

[編集] 明治時代

  • 大坂相撲において1869年(明治2年)3月場所の番付は、横綱(番付上は大関)陣幕以下幕内が22人。そのうち新入幕が17人もおり、その中にはいきなり小結に据えられた初代梅ヶ谷がいた。
  • 1882年6月場所より、成績に応じて番付を編成するようになった。
  • 1888年5月場所、京都相撲より東京相撲に編入した一ノ矢鶴吉は、当時関脇に一ノ矢藤太郎(のち大関)がいたため「達ノ矢」と改名した。
  • 1892年(明治25年)6月場所新入幕の大砲は、番付には「大炮」と書かれた(読み方は同じ「おおづつ」、序二段時代の1888年5月場所に改名)。幕内で「大炮」と書かれたのは、この場所を含め1898年(明治31年)5月場所まで13場所中4場所あった。
  • 1900年(明治33年)1月場所で常陸山が新関脇に昇進以降、1959年(昭和34年)1月場所の横綱千代の山の引退まで、出羽海部屋(常陸山の当時は「出羽ノ海部屋」)は約60年間138場所の間番付上に役力士の四股名を欠かすことがなかった。
  • 大坂相撲において1905年(明治38年)6月場所の番付で、前頭6枚目にい助治郎が新入幕。四股名が平仮名一字の「い」で、読み方は「かながしら」と呼ぶが、番付には「い助治郎」と書かれている。東京相撲で初めて「横綱」の文字が載った1890年(明治23年)5月場所の番付で、序ノ口西最下位にも「イ吉三」なる力士の四股名が載っている。1906年(明治39年)5月場所の番付では、前頭10枚目の白川寅太郎が、この場所5日目より四股名を「ステッセル」と改名している。「ステッセル」は場所中の改名だったため、この場所の番付には載らず、翌(場所の)1907年(明治40年)1月場所には、元の四股名「白川」に戻している(四股名#変わった四股名の項参照)。

[編集] 大正時代

  • 1915年(大正4年)1月場所の番付は、西方に正横綱の太刀山、張出横綱の2代梅ヶ谷を据え、東方には横綱がいないという、現在にはない変則番付となった。同様の番付は翌1916年(大正5年)1月場所の太刀山(西方正横綱)、(同張出横綱)、1921年(大正10年)1月場所の大錦(西方正横綱)、栃木山(同張出横綱)など(逆に東方のみに横綱を据えた番付もある)がある。大錦、栃木山の場合は同じ出羽ノ海部屋の力士であり、さらに当時は東西制のため2人を東西に分けることは出来ない。違う変則番付として1918年(大正7年)5月場所の番付で、四横綱(大錦、鳳、栃木山、2代西ノ海)のうち張出横綱2人(栃木山、2代西ノ海)が同じ東方に張り出された。また四大関(九州山千葉ヶ嵜伊勢ノ濱2代朝潮)のうち張出大関2人(伊勢ノ濱、2代朝潮)は同じ西方に張り出されている。1909年(明治42年)6月場所、旧両国国技館開館とともに始まった優勝制度および東西制であるが、特に東西制によって大正時代には変則番付が多くみられる。
  • 大坂相撲において1917年1月場所、大関昇進を果たした朝日松は、前年暮れにトラブルを起こし師匠から破門され、晴れ姿は幻に終わった。この場所の番付には西大関朝日松清治郎の箇所に、「朝日松清治郎ハ昨冬除名仕候」という張り紙がされた。朝日松は以前にも東京相撲において1913年(大正2年)5月場所初日、控え力士として物言いをつけたものの受け入れられず、相撲を取らずに退場し破門され大坂相撲に復帰したことがあった。朝日松は翌6月場所に復帰を許され、前頭筆頭格として番付外で出場し、その後関脇まで番付を上げたが、再び大関にはなれなかった。
  • 1918年1月場所で、史上初めて横綱・大関・関脇・小結・前頭に張出(横綱-2代西ノ海、鳳、大関-伊勢ノ濱、関脇-両國、小結-黒瀬川、前頭-鶴渡)が設けられた番付が発行された。
  • 1918年1月場所、新関脇の九州山は4勝3敗2預1休(陰星があり実際は5勝)の平凡な成績ながら、栃木山の横綱昇進に伴い、東西制により東方大関が空位となったため、幸運にも翌5月場所新大関に昇進した。同場所、前頭東2枚目の大門岩は5勝3敗1預の成績を残しながら翌場所は同地位。ここで7勝3敗と大勝ちしたものの翌場所も筆頭止まり。その後1922年(大正11年)1月場所には関脇に昇進して5勝4敗1分と勝ち越したが、翌場所小結に落とされるなど番付運には恵まれなかった。また藤ノ川1919年(大正8年)1月場所、大門岩と同じ前頭2枚目で横綱大錦、大関九州山を破ったが、5勝5敗と5分の成績ながら上位が不振だったため、幸運にも翌場所関脇に昇進。東西制によって番付運で大きく明暗を分けた。
  • 大坂相撲において1923年(大正12年)5月場所前、「龍神事件」と呼ばれる大紛擾が起こり、幕下以下の力士らにて興行。紛争は大もめとなり、上州山大木戸の両大関をはじめ多数の廃業力士が出た(幕内だけで20人の廃業、のち3人が復帰)。よって同年6月場所の番付は横綱宮城山をはじめ残留力士(幕内は横綱以下、関脇、小結が各1人、平幕13人の計16人)によって番付が改訂され幕内のみ片番付で興行した。
  • 1924年(大正13年)5月場所、先(1月)場所優勝した栃木山は西の正横綱であったが、この場所の番付は東の張出横綱となった。東西制だったので東西が入れ替わって、西の正横綱は3代西ノ海、東の正横綱は新横綱の常ノ花で、優勝した栃木山が張出となった。この場所10勝1敗で8回目の優勝、翌1925年(大正14年)1月場所も同地位で10勝1分で9回目の優勝を3連覇で飾ったが、番付上では最後の場所となった翌同年5月場所は西の張出横綱であった。一説には1923年の関東大震災による両国国技館焼失の際、常ノ花後援会から多額の再建資金が寄付されたことに報いるためだったともされる。栃木山をなだめるため、彼の名は東西正横綱の常ノ花、3代西ノ海よりこころもち太く書き出され、「別格横綱」の意味合いが与えられたが、3連覇後の突然の引退表明には、これらの処置への不満があったのではないかとも言われている。
  • 1924年5月場所、前頭5枚目の射水川は横綱栃木山、大関大ノ里を破り6勝5敗と勝ち越し、翌場所小結に昇進。この場所も勝ち越したが、場所後の花相撲を休んで贔屓筋主催の余興相撲を取ったことが発覚し、翌場所前頭筆頭に落とされ、この場所負け越し。以後2場所全休ののち引退した。
  • 1925年(大正14年)11月、東京・大阪角力協会合併の準備として合同番付編成のため、資格審査の第一回東西連盟相撲(前半)を京都で開催。翌1926年(大正15年)3月、第一回後半が大阪で開催され、同年7月東京・大阪両協会は解散、大日本角力協會が設立された。
  • 大坂相撲最後の本場所となった1926年1月場所は、当時日本の領土となっていた台湾台北市で興行したが、番付には興行地は記載されなかった。

[編集] 昭和時代

  • 1927年(昭和2年)の東西合併から春秋園事件が起こった1932年までの間、番付編成の基準はめまぐるしく変化し(東京開催と関西開催を交互に行う年4場所制だったが、東京場所の番付は東京場所の成績を基準に作成され、関西場所も同様に作成された、など。)、力士の地位・出世にも影響を及ぼした。能代潟錦作の項を参照。
  • 東西相撲合併後の1927年1月場所、年寄定員88名に大阪方17名を加え105名に増員(うち2名は一代年寄)。この場所の番付の「年寄」の欄には現在の番付と違い、「年寄」と書かれた下部に小さく「イロハ順」と書かれており、いろはの順番に年寄名が記載されていた。この番付で大坂相撲の錦城山荒熊の両大関は平幕に編入された。
  • 1931年(昭和6年)1月場所千秋楽、横綱宮城山が引退を表明したが、翌3月場所には名を残し、5月場所の番付は1890年5月場所以来41年ぶりに横綱不在の番付(翌1932年10月場所まで)となった。
  • 1931年1月場所の番付は、西方幕内に出羽海部屋力士が独占した。大関大ノ里以下20人がすべて出羽海部屋所属である。これは大相撲史上空前絶後の記録で、十両も22人中10人と半数近くを占めた。対する東方幕内は立浪部屋の3人が最多だった。
  • 1932年1月場所の番付編成(春秋園事件による改正前)において、前年5月場所で優勝した小結武藏山は関脇を飛び越し新大関に昇進した。小結から新大関に昇進した例は、1938年(昭和13年)5月場所の前田山がいるが、前田山の場合は前(1月)場所に横綱玉錦を破り11勝2敗の好成績をあげ、この場所大関が鏡岩1人ということも考慮され大関昇進を決定づけた。
  • 1933年(昭和8年)1月場所の番付は前年に起きた春秋園事件で発足した大日本相撲連盟から脱退し、協会へ帰参した幕内格12名、十両格8名は協会脱退当時(1932年1月)の順位で東西を分けず、地位も記さず別席として四股名を連ねた番付を別に添付した。この場所の番付は従来より小型となった。翌5月場所には元の大きさに戻った。
  • 1933年2月、天龍一派の新興力士団が「大日本関西角力協会」を結成。大阪で第一回本場所開催のおり発行された番付(東西制はなく片番付様式)には大関天龍、関脇大ノ里、小結錦洋以下力士41人。行司(番付には行司ではなく「審判員」と書かれている)7人(この中にのちの24代木村庄之助(当時は初代式守伊三郎)がいる)。他に「事務員」「拡声係」「桟敷係」「世話人」が書かれている。
  • 1934年(昭和9年)5月場所の番付より、幕下以下の力士全員の出身地名が記載された。
  • 1936年(昭和11年)5月場所、双葉山は新関脇の場所で11戦全勝で優勝し、新大関昇進を決めた。新関脇の番付を1場所で新大関に昇進した例は、1918年5月場所の九州山(東西制による)、1939年(昭和14年)5月場所の羽黒山(11勝4敗)、1940年(昭和15年)5月場所の五ツ嶌(13勝2敗)がいる。このうち五ツ嶌の13勝は新関脇として最多の勝ち星(15日制以降)で、のち吉葉山1950年(昭和25年)5月場所)、琴欧州2005年(平成17年)9月場所)がこの記録に並んでいる。
  • 相撲界を揺るがした「春秋園事件」も1937年(昭和12年)暮れに関西角力協会がついに解散。それに伴い帰参した力士の番付編入は厳しい扱いだった。1938年1月場所の番付では帰参力士は脱退時の番付地位より一段下に編入。関西の入門者で幕内・十両となった者は幕下に、それ以下の者は新弟子扱いとなった。
  • 1939年1月場所、日中戦争支那事変)の激化で応召入営力士が増え、番付にはその力士の上に「応召」・「入営」と書き加えた。1940年5月場所には応召・入営力士は番付の欄外に一括された。
  • 1939年5月場所の番付編成において、1月場所4日目の前頭4枚目安藝ノ海戦で、連勝記録が「69」で止まった横綱双葉山は9勝4敗と振るわなかったが、11勝2敗と双葉山より成績の良かった横綱男女ノ川を差し置いて、連勝記録の実績を評価され東正横綱に据えられた。期待に応えた双葉山は、興行日数が15日制となったこの場所、完全復活し見事15戦全勝(15日制で史上初)で6回目の優勝を果たした。
  • 1940年5月場所、東前頭12枚目の青葉山は7勝8敗と負け越しながら翌場所は西前頭4枚目と、落ちるどころか逆に8枚も昇進したという極端なケースがある。こういうのを俗に言う「番付運」で、当時は東西制でそうするより仕方が無かったと思われる。
  • 1941年(昭和16年)1月場所で安藝ノ海、五ツ嶌の同時大関昇進で、前田山を含めて番付の東方に3大関が並んだ(西方は羽黒山1人)。これは1919年(大正8年)1月場所(西方に2代朝潮、千葉ヶ嵜、伊勢ノ濱。東方は九州山1人)以来22年ぶりの変則番付となった。
  • 1942年(昭和17年)1月場所の番付より、機密隠匿のため応召および入営力士の欄外張出はされなくなった。
  • 1944年(昭和19年)11月場所後の番付編成会議は、力士の応召などの関係から次場所(1945年(昭和20年)5月場所)開催の1ヶ月前に行うことになった。その5月場所は空襲の影響により6月に順延となった。
  • 戦後初の1945年11月(秋)場所の番付はザラ紙の小型版で序ノ口力士はなく、記載力士はわずか216人だった。
  • 1946年(昭和21年)11月場所は丸1年ぶりに行われた本場所だったが、横綱双葉山をはじめ、笠置山玉ノ海出羽湊などが前年11月場所限りで大量に引退したため、幕内と十両で13名の力士が番付から消えた。
  • 1947年(昭和22年)6月場所の番付で、十両を1場所で新入幕を果たした岩平は本名のまま土俵に上がったが、本名のままの幕内力士第1号だった。翌11月場所「若葉山」と改名した。また、この場所の番付で史上初めて5大関(佐賀ノ花、前田山、名寄岩東富士汐ノ海)となった。
  • 1948年5月場所で、横綱・大関・関脇各3人の番付ながら張出を設けず、すべて枠内に四股名が記載された番付となった。翌10月場所も横綱・大関各3人がすべて枠内に書かれた。このときはこの2場所のみだったが、1994年(平成6年)7月場所に張出制度が休止されて以降、張出のない番付は現在に至っている。
  • 1951年(昭和26年)5月場所の番付編成で、三役格行司の8代木村庄三郎(のち19代式守伊之助)を新設された副立行司に昇格させ、立行司の13代木村玉之助が同じ副立行司に格下げとなった。同年9月場所にも三役格行司2代木村正直(のち23代木村庄之助)が副立行司に昇格となった。
  • 1951年5月場所初土俵愛宕山は、番付に四股名が載ってから五分あるいは負け越しの場所が続き、7場所目に初めて勝ち越したが、翌場所力士数の少ない当時としては異例の三段目に昇進した。その後番付上の幸運は続き、1955年(昭和30年)9月場所、幕下26枚目で8戦(当時)全勝優勝し翌場所十両に昇進している。
  • 1956年(昭和31年)3月場所の番付は1918年1月場所以来38年ぶりに、横綱・大関・関脇・小結・前頭に張出(横綱-栃錦、千代の山、大関-松登、関脇-羽嶋山、小結-鶴ヶ嶺、前頭-星甲)がある番付となった。翌5月場所も同様(横綱-鏡里、千代の山、大関-松登、関脇-出羽錦、小結-羽嶋山、前頭-二瀬山)に各地位に張出がある番付となった。
  • 同場所、新三役(西小結)に昇進した成山は史上初の本名のままの三役力士となった。
  • 1957年3月場所の番付で、平幕が東西23枚と史上最多(同年9月場所も)となった。ちなみに、戦後において一場所最多の幕内力士数は、同場所より翌1958年1月場所まで5場所続いた58人。同じく一場所最多の横綱及び三役の力士数は1961年(昭和36年)9月場所と翌11月場所の15人。逆に一場所最少の幕内力士数は、1971年7月場所の32人。
  • 1957年9月場所の番付編成において、幕下まで20場所以上要した力士は廃業とする力士整理案が実施された。これにより三段目以下で廃業した力士が多く、前場所より28人減となった。
  • 1960年1月場所、これまでの番付を改め「取締」「理事」を東方の最下段に、「勝負検査役」を中央部の「行司」の欄の下部に配し、「若者頭」「世話人」「呼出」を削除した。
  • 1960年1月場所、羽黒花はこの場所まで3場所連続十両昇進をしてもおかしくない成績を挙げながら幕下西筆頭の地位だった。1959年7月場所、幕下西14枚目で7勝1敗(当時幕下以下は8番相撲)で幕下優勝。しかし翌9月場所は西7枚目。再び7勝1敗の成績ながら、翌11月場所は西2枚目。ここで十両昇進決定的ともいえる6勝2敗の成績を上げ、いくら何でも今度こそは十両入りと、すべての支度を整えて周囲も本人もその気でいたところが、1月場所の番付発表で西筆頭止まりという番付運の悪さがつきまとった。しかしこの場所8戦全勝で幕下優勝を果たし、翌3月場所には十両に昇進している。
  • 1960年7月場所、十両に陥落した東筆頭の羽子錦は9勝6敗の成績を上げながら再入幕できなかった。東筆頭で9勝を上げながら入幕できなかったのは羽子錦が史上ただ一人。十両西筆頭の地位で9勝を上げながら入幕できなかったのは、1987年(昭和62年)11月場所の大乃花、1990年5月場所の貴闘力(現大嶽)、1991年(平成3年)3月場所の栃司(現入間川)がいる。
  • 1960年7月場所後に興行された、秋田県大館巡業において作られた板番付には、東方張出大関の柏戸は枠外に書かれているのに、同じ東方で枠内に書かれている関脇の若三杉(のち大豪)は、普通なら東の正関脇のはずが何故か「関脇」の文字の上部に、小さく「張出し」と書かれている。
  • 1961年11月場所、大関・関脇・小結は張出がある番付で、横綱(初代若乃花大鵬柏戸3代朝潮の4人)のみ、張出を設けず4人を正横綱とし枠内に記載された番付となった。途中朝潮の引退もあったが、この様式の番付は翌年3月場所まで続いた。
  • 1962年(昭和37年)5月場所直前に起きた二所ノ関部屋配属力士の片男波部屋移籍問題で紛争が起き、二所ノ関(元大関・佐賀ノ花)が9力士の廃業届を提出したが、5月場所7日目に緊急理事会を開き、二所ノ関部屋の廃業9力士の復帰を現在の番付地位より10枚下げて認め、時津風理事長(元横綱・双葉山)は二所ノ関と片男波(元関脇・玉乃海)の2人に謹慎を命じた。
  • 1964年(昭和39年)11月場所、幕下で7戦全勝優勝した伊藤川(のち若葉山)は東幕下40枚目の地位だったが、翌1965年(昭和40年)1月場所の番付で一気に十両に昇進した。現在では幕下で全勝しても、15枚目より上位でないと十両に上がれないので、当時としては非常に幸運なケースといえる。
  • 1966年(昭和41年)1月場所の番付は74年ぶりに役力士昇進、新入幕力士ともになかった。
  • 1967年(昭和42年)5月場所の番付は枚数削減を実施(幕内34人、十両26人、幕下は120人の定員)したため新入幕力士、新十両力士ともになし。3月場所、十両で勝ち越した安芸の國前田川嵐山は幕下へ陥落した。安芸の國は翌7月場所、再十両となり、嵐山も再十両ののち入幕を果たしたが、前田川は5月場所で負け越すとそのまま引退してしまった。
  • 1967年12月23日、協会の機構改革により翌1968年1月場所の番付編成において、理事15人、監事3人のうち理事を10人に減らし、理事の互選による取締制度を廃止。勝負検査役も任命制となり、名称も「審判委員」と改められ新しく設置された。
  • 1970年3月場所、東関脇の栃東(現玉ノ井)は7勝8敗で翌場所東前頭筆頭に番付を下げた。1971年3月場所、同じ東関脇の陸奥嵐は4勝11敗ながら翌場所の番付は西前頭筆頭、同場所東小結の藤ノ川(現伊勢ノ海)も5勝10敗で翌場所は東前頭2枚目だった。藤ノ川は過去にも番付面では恵まれており、1969年9月場所、西小結で5勝10敗の成績で翌場所の番付は西前頭2枚目。1970年11月場所にも西関脇で4勝11敗、翌場所は西前頭2枚目だった。他にも関脇・小結で大敗して翌場所番付面で恵まれた例として、1968年5月場所、東小結の若浪は2勝13敗で翌場所は西前頭4枚目。1971年1月場所、西関脇の長谷川(現秀ノ山)は3勝12敗で翌場所は西前頭2枚目だった。
  • 1971年1月場所千秋楽、1敗の西正横綱大鵬は結びの一番で全勝の東正横綱玉の海を破り、14勝1敗の相星として優勝決定戦でも玉の海を破って32回目の優勝を果たしたが、翌3月場所の番付も西正横綱(東正横綱は玉の海)のままだった。このように両横綱が相星の場合、前の場所の番付が優先されるが、最近では2009年1月場所、決定戦で東横綱白鵬を破り優勝した西横綱朝青龍を翌3月場所では東横綱に据え、前場所の番付を優先せずに優勝力士を上位とした。同様な例として2001年(平成13年)1月場所、東横綱の貴乃花(同じ東正横綱ではあるが、番付上は曙が上位。3横綱の順位では貴乃花が最下位)と西横綱武蔵丸(現振分)が決定戦を行い貴乃花が優勝し、翌場所の番付での横綱順位は貴乃花を最上位(東横綱)とした。
  • 1972年(昭和47年)7月場所で史上初めて5関脇(東輪島、西貴ノ花、東張出三重ノ海(現武蔵川)、西張出魁傑(現放駒)、東張出長谷川)の番付となった。
  • 1972年9月場所、十両で初の公傷制度が適用され、大潮(現式秀)と鷲羽山(現出羽海)が先場所の番付と同地位で張り出された(大潮は東5枚目、鷲羽山は西10枚目)。その後、1976年(昭和51年)5月場所に十両の公傷休場力士の張出扱いを休止した。
  • 1972年11月場所の番付で東前頭14枚目の福の花の四股名が行司の誤記により「福ノ花孝一」と書かれた。
  • 1975年(昭和50年)頃の番付で立行司(木村庄之助、式守伊之助)と同列に三役格行司の名前が書かれたことがあった。
  • 1975年3月場所の番付は、1948年10月場所以来27年ぶりに張出のない番付となった。
  • 1976年9月場所、前頭4枚目の元大関魁傑は14勝1敗で平幕優勝。大関(1975年3月場所-同年11月場所、在位5場所)を陥落して5場所目だが、平幕まで陥落した大関経験者の優勝は史上初。魁傑は翌1977年(昭和52年)3月場所には再び大関に昇進したものの、在位4場所で陥落した。
  • 1977年(昭和52年)5月場所で元大関大受(現朝日山)が十両に陥落したが、元大関の十両陥落は史上初。大受は初日から3連敗の後休場し、8日目に引退を表明した。
  • 1978年11月場所前、この年は全国的に深刻な水不足に見舞われたが、福岡県地方は特にひどく、協会は少しでも負担を軽くとの配慮から、場所前の巡業を打ち上げた後いったん帰京。番付発表を東京で行い、全力士の福岡入りを初日の6日前まで遅らせた。
  • 1980年(昭和55年)7月場所の番付編成で、福薗(のち逆鉾、現井筒、元関脇鶴ヶ嶺の次男)、鶴嶺山(長男)の史上初、兄弟十両同時昇進が決まった。親子3人関取も史上初。
  • 1980年11月場所、右肩の怪我で三段目まで陥落した元小結大豊は見事7戦全勝優勝したが、元三役が三段目の土俵に上がったのは、1938年(昭和13年)5月場所の出羽ヶ嶽以来47年ぶりで、三段目優勝となると史上初。
  • 1981年9月場所の番付は大関不在のため東西の正横綱、北の湖千代の富士(現九重)が「横綱大関」となる。大関不在の変則番付は1905年(明治38年)1月場所(2代梅ヶ谷常陸山の東西正横綱が「横綱大関」となる)以来76年ぶり。
  • 1983年(昭和58年)5月場所の番付編成において、大関にも公傷制度を適用することとなった。同年9月場所8日目に朝潮(現高砂)が横綱隆の里(現鳴戸)戦で膝を痛めて休場し、大関公傷適用第1号となった。
  • 1985年(昭和60年)1月場所より新国技館で開催されたが、番付には「両国國技館」ではなく「國技館」と、「両国」の文字は入らなかった(蔵前国技館時代の番付には「藏前國技館」と書かれていた)。
  • 1985年3月場所の番付において、新入幕の前頭14枚目寺尾(現錣山)は兄の同4枚目逆鉾(現井筒)と同時幕内を果たし、1791年(寛政3年)11月場所の横綱谷風、前頭6枚目達ヶ関以来194年ぶり史上2組目の兄弟同時幕内力士となった。
  • 1985年3月場所初土俵の蒼樹山(現枝川)は、番付に「寺木」の名が初めて載った翌5月場所で7戦全敗。その次の7月場所も初日から3連敗のあと初白星をあげたものの、初土俵から10連敗を記録した。それから18年後の2003年(平成15年)11月場所、十両西8枚目を最後に引退したが、この場所初日から9連敗、10日目不戦敗で同じ10連敗で土俵を去った。

[編集] 平成時代

  • 1989年(平成元年)1月場所は1月7日昭和天皇の崩御に伴い翌8日より元号が「平成(元年)」に変わった。初日開催は8日であったが中止とし翌9日に繰り下げて開催、前年(1988年(昭和63年))暮れに発表された番付には「昭和六十四年」のままであった。
  • 1990年9月場所新入幕の曙は、1916年5月場所新入幕の明虎吉(「あきらか・とらきち」と読む)以来74年ぶりの一文字四股名の幕内力士となった。
  • 1992年(平成4年)1月場所、幕下付出で初土俵を踏んだ大日ノ出は右膝の故障で苦しみ、30場所かかって十両に昇進。これは幕下付出力士の最長昇進記録となった。また入幕するまで43場所かかったが、こちらは2008年11月場所で武州山が59場所かかって昇進しこれを更新している。
  • 1994年(平成6年)5月場所の番付で、同じ四股名の力士が記載されるミスがあった。序二段西101枚目と序ノ口東30枚目の力士はいずれも「小谷」。二人は兵庫県出身の兄弟で、序二段が兄で二子山部屋、序ノ口が大鵬部屋の力士。弟は3月場所初土俵で、5月場所初めて番付に四股名が載った。弟は「大小谷」で四股名を届けたはず、と首をかしげたが、結局急遽改めて改名届を提出し、5月場所は「大小谷」で土俵に上がった。
  • 1994年7月場所の番付で、先場所までの「審判委員」(1968年1月に「勝負検査役」より改称)が、1887年(明治20年)1月場所の番付に初めて「勝負検査役」を記載以来番付から消え、1959年11月場所以来、「若者頭」「世話人」「呼出」が番付上に復活した。同時に、「委員」「年寄」は就任年月日順に番付に記載されるようになった。なお、「呼出」は立呼出・副立呼出・三役呼出・幕内呼出・十両呼出が記載されて幕下呼出以下は記載されない。
  • 1996年(平成8年)7月場所、新十両に昇進した出羽嵐は、1913年(大正2年)5月場所の對馬洋(のち大関)以来83年ぶり2人目の対馬出身の関取となった。
  • 1996年9月場所、序ノ口下位の1人の力士が廃業した。西61枚目志免錦は1980年3月場所初土俵以来、番付に四股名が載って通算99場所目。その内75場所が序ノ口という名物力士。1989年7月場所から21場所連続で負け越したこともあった。最高位は序二段西110枚目。持病の糖尿病もあり、最後の場所は1勝(不戦勝)2敗だった。
  • 1999年3月場所、横綱曙が全休。横綱3代若乃花が10日目、横綱貴乃花が11日目にそれぞれ途中休場となり、終盤戦は横綱不在の土俵となった。番付に載った横綱が3人揃って休場するのは、1950年(昭和25年)1月場所の羽黒山(5-10日目)、東富士(3-6日目)、照國(4日目-千秋楽)以来49年ぶりだった。その上この場所は、大関千代大海、関脇武双山(現藤島)が途中休場、関脇以上8人のうち5人が休場するという異常事態となった。
  • 2000年9月場所前に引退した十両の北勝鬨(現勝ノ浦)を最後に、100年以上続いた北海道出身の幕内力士は現在に至るまで出ていない。
  • 2001年3月場所の番付で、闘牙(現佐ノ山)が十両に陥落したが、初代高砂浦五郎が相撲会所(現在の相撲協会)に復帰し、響矢(2代高砂)が別番付に幕内格で登場した1882年(明治15年)5月場所以来、120年ぶりに高砂部屋の幕内力士が消えた。なお1999年(平成11年)7月場所に小城錦(現中立)が十両に陥落し、出羽海部屋幕内力士が1899年(明治32年)1月場所に常陸山が新入幕以来101年で途切れた記録を大きく上回った。
  • 2003年(平成15年)1月場所限りで引退した横綱貴乃花は一代年寄「貴乃花」となったため、翌3月場所の番付には年寄の欄に「貴乃花改 貴乃花光司」と記載された。
  • 2007年(平成19年)5月場所限りで引退した序二段の北綾山(最高位三段目東59枚目、神奈川県出身、北の湖部屋)は荒木(本名は荒木フランシスコ・ジョゼ・タカミチ)の四股名で2001年3月場所初土俵。翌5月場所の番付に序ノ口西25枚目「荒木たかみち」と下の名を平仮名で記載された。2005年(平成17年)1月場所に「北綾山」(ほくりょうやま)と改名したが番付には「北綾山たかみち」と下の名は平仮名のままで、引退するまで「たかみち」と番付に書かれた。
  • 2007年9月場所の番付で大関に昇進した琴光喜は、1970年1月場所の玉乃島以来37年ぶりの愛知県出身の大関となった。
  • 2008年3月場所の番付で新三役(小結)に昇進した豪風は、1964年3月場所の関脇清國以来44年ぶりの秋田県出身の新三役となった。
  • 2008年9月場所の番付より前場所までの「呼出」の表記を、1950年代に記載された頃の「呼出し」と改めた。
  • 2008年11月場所、幕下西筆頭の福岡は5勝2敗の好成績ながら新十両昇進を逃した。これは十両の下位で大きく負け越している力士が少なかったことと、幕下東10枚目で7戦全勝(幕下優勝)の琴国を協会の内規(幕下15枚目以内で7戦全勝した力士は十両に昇進させる)で優先的に昇進させたからである(この他幕下東筆頭の安壮富士が6勝1敗で再十両に)。幕下筆頭で5勝2敗の成績を挙げたにもかかわらず十両昇進が見送られたのは、1966年(昭和41年)9月場所の代官山以来である。その後福岡は幕下東筆頭で迎えた2009年1月場所で7戦全勝(幕下優勝)で十両昇進を果たし、1958年(昭和33年)9月場所の隠岐ノ嶋以来、51年ぶり2人目である隠岐島出身の新十両となり、四股名を「隠岐の海」に改名した。
  • 2009年3月場所の番付より、三段目格行司を幕下格行司と同列にして文字の大きさも前場所より若干大きく書き、序二段格行司以下にスペースが広くなったため、同様に序二段、序ノ口格行司も前場所よりやや大きめに書かれるようになった。
  • 2009年5月場所の番付で新関脇に昇進した豪栄道は、1972年5月場所の前の山(現高田川)以来37年ぶりの大阪府出身の関脇となった。また同場所で幕下優勝を飾り、新十両昇進を決めた德瀬川は、1980年9月場所新十両の若瀬川以来29年ぶりに「川」の付く四股名の関取となった。
  • 2009年7月場所の番付で、5月場所限りで引退した十両の潮丸は7月場所前に停年退職した師匠の東関(元高見山)の名跡を継承したが、番付には「潮丸改 東関大五郎」と書かれた。

[編集] 脚注

  1. ^ 1761年(宝暦11年)10月場所より、それまでの「勧進相撲」を「勧進大相撲」と記す。なお大坂、京都は横番付。
  2. ^ 一時、1871年(明治4年)4月場所から1877年(明治10年)9月場所まで元の横二枚番付に戻る。
  3. ^ また東西の最下段の左側に、「初切」(「行司」、「年寄」の文字は右から書かれているのに、「初切」の文字は誤って左から書かれている。「番付を書く」の項参照)とあり、巡業の余興で行われる初切をする力士の名がある。
  4. ^ 1957年11月12日に協会は番付編成や巡業について、1.引退の横綱は5年間、大関は2年間検査役待遇とすること。2.番付編成会議は千秋楽の3日後と定める。3.合同巡業の実施。4.次年度1年間の本場所開催日程と番付発表日を11月場所中に発表すること。5.参与制を設け、理事監事勝負検査役(現在は審判委員)を10年以上勤続し退任した者を選考する。以上5項目を実施することに決定した。
  5. ^ "力士急死:時津風部屋の兄弟子3人の番付据え置き". 2008年1月30日 閲覧。
  6. ^ 昭和の戦中期、軍隊に徴用された力士について、但し書きとともに番付外に張り出して、地位を留保した例はある。やがて軍部から「軍機に触れる」の咎めがあって、1942年(昭和17年)1月場所から廃止され、兵役についた力士は番付から名前を消し、復帰時に元の成績相当の地位で出場させることにした。
  7. ^ "兄弟子3人、全休なのに番付据え置き…序ノ口力士死亡事件". 2008年1月30日 閲覧。

[編集] 関連項目