同盟通信社

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市政会館(東京都千代田区)。同盟通信社が本社を置いた

社団法人同盟通信社(どうめいつうしんしゃ)は、かつて日本に存在した社団法人通信社である。

解説[編集]

1936年に発足した同盟通信社は、1945年の時点で本社は総務局、編集局、通信局、経済局、調査局の5局27部に区分され、国内は6支社、62支局。国外は中国は中華総社(南京)の下に3総局23支局。アジアは南方総社(昭南)の下に7支社23支局の組織で、約5500人の社員がいた。国内海外でニュースを蒐集領布するための通信網は、長距離専用電話は約7000キロ、地方専用回線は117回線、予約電話は1日に584通話、同盟のみに許された無線網もアジア全域に張り巡らされていた。同盟が毎日領布するニュースは政治、経済、外信、東亜、社会、体育の行数を合計して、新聞1日に掲載しうる行数の約2倍であった。中国アジアでは日本語、中国語、英語、フランス語、マレー語、タイ語の通信を放送。占領地域における通信社業務は同盟の独占であり、日本のみならず当該地域の新聞社のニュースも同盟発となった。ニュースサービスを行う同盟の活動目的は、新聞通信社へのサービス。経済界へのサービス。そして国家へのサービスであり、具体的には海外局を中心として太平洋戦争における外国情報の蒐集、蒐集した情報の国内領布、日本の主張及び国内放送の対外放送(放送電報)を行った。新聞人の伊藤正徳は『新聞五十年史』において、この放送電報一万六千語こそ日本が最も力強く全世界に向かって語り得る我が国の声であるとしている。

誕生までの経緯[編集]

1932年9月、斎藤実内閣外務省陸軍省海軍省からなる情報委員会を設置。内閣は委員会に国家代表通信社創設の審議をさせた。また外務大臣内田康哉新聞聯合日本電報通信社の合併に関する下工作を田中都吉に依頼した。

委員会は独占的に便宜特権を与えた通信社を創設し正確公平なニュースを蒐集編纂させ、提携先の国外の通信社(例えばロイターAP通信)を通じ国際世論を動かすという結論に至った。この通信社を行政がチェックできる仕組みが必要だが、同時に外国の信用を得るために通信社の形態は自治機関とする方向性も固まった。具体的には聯合と電通を合併させ新通信社を作ることになる。新聞組合である聯合社長の岩永裕吉は国家代表通信社創設を自論とし合併には賛成だが、電通は優良な私企業で社長の光永星郎の面目もあり慎重であった。最終的には清算費用200万円、光永は貴族院議員に勅選するとして妥協案が決まった。1933年11月に電通から「国家的見地により」通信ならびに広告に関する事業を新通信社へ譲渡する誓約書が出された。12月5日に貴族院議員に勅選された光永だが内心では納得できるものではなかった。

躓きは新通信社の設立費用400万円の捻出方法で始まった。当初は陸軍の機密費であてるつもりであったが新聞社側が「軍部の介入を許す」と反対、次に外務省が臨時外交工作費として予算計上しようとしたが大蔵省の査定で削られた。財界よりの出資案も出たが財力で介入するとして反対されこれも失敗し停滞感は否めなかった。ここで後継内閣の岡田啓介内閣逓信大臣床次竹次郎日本放送協会から融資斡旋をする見返りに新通信社に放送協会の加盟を認めさせるアイデアを外務省に持ち掛けた。新聞界は取材網のないラジオに対してニュースを提供していたが意地悪を繰り返し日本放送協会小森七郎会長も頭を悩ませていた。新通信社に加盟すれば自由に放送ができるということで、1934年10月、放送協会理事会は融資を承認した。このとき電通の誓約書提出から、ほぼ一年が過ぎていた。

設立費用の問題も目途がついた12月、床次と外務大臣廣田弘毅は全国有力新聞と放送協会の代表を招いて創立協議会をひらくことにした。開催の直前、光永の代理として徳富蘇峰が廣田を訪問した。この日本における最大のオピニオンリーダーは光永と同郷で親交が深かった。徳富は電通と関係している新聞の理解を得るために時間を貰いたいと開催の延期を申し出た。床次と廣田は申し入れを受けて協議会の延期をしたが、その直後に地方新聞の一部から合併反対の運動が起こった。運動は広がりをみせ、電通自身も客観情勢の変化を理由に誓約書の取り消しを申し出て収拾がつかなくなった。新聞社は、独自の取材網で紙面を構成できる「全国紙」とそれ以外の「地方紙」に分けられた。里見脩の『新聞統合』によると1927年の発行部数は全国紙は朝日372万2848部、毎日344万4517部、読売は175万5222部(すべて自社算出)に比べ、地方紙は大手でも「新愛知」17万、「北海タイムス」15万7000、「神戸新聞」15万、「福岡日日」13万1000と桁違いの格差があった。

東京、大阪といった都市を中心に読者を集めて市場を寡占化した全国紙と比べて、1つの県に2つ以上の新聞があった時代に地方紙は同じ地域で読者の獲得を争い、また政党の機関紙として政友会民政党と深い関係にあり、経営陣には有力な政治家やオピニオンリーダーが存在するなど古い体質を残していた。電通聯合の合併問題については、全国紙は賛成であった。全国紙にとり通信社はあくまで補助的な存在であり、単一通信社からのニュースは地方紙の紙面の単一化につながり、読者の興味をそぎ販売競争で有利に働くからである。地方紙としては合併賛成派は少数であった。これは紙面の問題もあるが、広告代理店業を兼業する電通を離れ全国紙と同じ傘の下に入れば、収入の柱である広告は全国紙に比べ部数の少ない地方紙に不利に働くのではという危機感があった。さらに全国紙の侵攻による反発も加わった。

合併賛成派の田中都吉下村宏高石真五郎が外務省、逓信省、日本放送協会を訪ね設立の具体案を示して設立を促した1935年1月24日に、大阪朝日新聞は門司支局を九州支社と改称し、2月1日には大阪毎日が門司に西部総局を設置して新聞印刷を開始した。販売競争に巻き込まれた福岡日日だけでなく、次に標的となるかもしれない中京、東北、北海道の地方紙にも危機感をもたせ事態を先鋭化させた。争いは議会へも飛び火して、2月の貴族院予算委員会でも廣田大臣が答弁で新通信社設立の意思表示を示せば、議会閉会後にともに議員である新愛知の小山松寿、北海タイムスの東武が反対決議を政府に手渡した。メディアを二分する争いに決着をつけるため5月9日、政府は新通信社設立の懇談会を開いたが合併反対派は出席しなかった。懇談会出席者は創立準備の意見で一致。11日に帝国ホテルで第一回の準備委員会が開かれ集まった18社の代表は新通信社を「同盟通信社」と命名した。

反対派の小山、東は地方新聞を集めて十日会を結成し反対運動を展開。5月16日、51社の地方新聞を集めて反対大会を開催、光永は「私の心境は絶対に変わらぬ」と宣言。反対決議と新通信社不参加声明を床次、廣田に手渡した。内閣は賛成派の社団法人の認可申請の提出をとどまらせ反対派の説得工作を行ったが不調に終わった。7月2日、社団法人設立申請の手続きを行った賛成派は強引に既成事実を積み上げようとしたため今度は認可を出さない政府側と険悪になった。床次の次に逓信大臣となった望月圭介は両派の斡旋につとめ合併の意思を確認すると11月7日社団法人設立の認可をだした。社団法人設立の発起人は聯合の合併意志と手順を確認したが電通からは確たる返答がない。12月2日、電通は「通信ならびに広告に関する事業を譲渡する」誓約書の内容をひっくり返した。具体的には電通の通信部は同盟に譲渡する。電通の広告部はそのまま日本電報通信社として存続させるものである。発起人側と電通の交渉は一進一退がつづき、遂にしびれをきらした発起人たちは電通はそのままに連合のみで同盟通信社を発足させることに決めた。12月28日、国際放送電報規則が改正された。

対外放送電報とは逓信大臣の許可を受け設立したる社団法人たる通信社より情報を領布する目的を以て(中略)放送せらるる・・・

外国放送電報とは外国無線電信局の放送する情報電報にして官庁または逓信大臣の許可を受け設立したる社団法人たる通信社において(中略)電信官署にて受領する・・・

これにより外国へのニュース無線電報の発信および受信は同盟以外には認めないという切り札が出された。

1936年1月1日、同盟通信社は発足したが、同盟の業務を開始してからも電通との競合は続いた。1月9日、田中都吉、正力松太郎緒方竹虎小森七郎は最後案として電通の通信部譲渡、電通の倍額増資分を同盟持株とすること等を光永と上田碩三に示したが、1月20日に光永は交渉打ち切りと白紙還元を通達して事態は元に戻った。この37日後、2.26事件が起きた。クーデタ未遂事件の勃発に政府は大乗案を捨ててでもニュース統制を貫徹すべきと認識にたち電通と支持者たちも圧力の前に晒された。3月20日、逓信大臣頼母木桂吉は政府再提案を出して同盟、電通ともにこれを承諾。電通の通信事業は同盟に、同盟の広告事業は電通に引き継がれた。また電通の倍額増資の増資分は同盟が引き受けた。

沿革[編集]

国内有力新聞191社と日本放送協会を組合員とし、1935年12月28日の国際放送電報規則改正により、内外通信の入手と配布を独占した。発起人の田中都吉は設立時の挨拶で、同盟は「参加した全国の新聞社の自治的共同機構」であると語ったが、「軍国日本の宣伝機関」とする向きもある。岩永の死後、後任の古野は天羽とは距離を置き、以前より盟友であった鈴木貞一に提携の軸足を移していった。

  • 1936年1月 日本電報通信社の通信部門と新聞聯合社が合併して、同盟通信社が誕生。
  • 1945年9月14日 GHQにより海外向け外国語放送が遮断され、業務停止命令が下り、事前検閲が開始される。
  • 1945年9月24日 「新聞界の政府からの分離」(SCAPIN-51)発令。
  • 1945年10月31日 役員会にて解散を決議。一般報道部門などは共同通信社、経済報道部門などは時事通信社、映画、レコードなどの芸能部門は連合通信社となる。

関連項目[編集]

参考図書[編集]