力道山
| 力道山 | |
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| プロフィール | |
| リングネーム | 力道山 |
| 本名 | 百田 光浩 (戸籍名・日本名、旧名・出生名・朝鮮名:金信洛) |
| ニックネーム | 日本プロレス界の父 |
| 身長 | 176cm |
| 体重 | 116kg |
| 誕生日 | 1924年11月14日 |
| 死亡日 | 1963年12月15日(満39歳没) |
| 出身地 | |
| 所属 | 日本プロレス |
| スポーツ歴 | 大相撲 |
| トレーナー | ボビー・ブランズ ハロルド坂田(トシ東郷) 沖識名 |
| デビュー | 1951年 |
| 引退 | 1963年(現役中に死亡) |
力道山(りきどうざん、역도산、男性、1924年11月14日 - 1963年12月15日)は、日本のプロレスラー。本名・戸籍名・日本名:百田 光浩(ももた みつひろ)、旧名・出生名・朝鮮名:金 信洛(キム・シルラク,김신락)。大相撲の力士出身。第二次世界大戦終了後に日本のプロレス界の礎を築き、日本プロレス界の父と呼ばれている。当時始まったテレビ放送の力もあり絶大な人気を誇った。身長176cm(プロレス時代の公称身長は180cm)、体重116kg。
目次 |
生涯 [編集]
生い立ち [編集]
日本併合下の朝鮮半島咸鏡南道洪原郡新豊里(現在の北朝鮮統治範囲)で現地人の両親のもとに生まれた。後に長崎県大村市の農家・百田家の養子となった。朝鮮在住時代に既に結婚しており子供もいたことからみて、実際は公称生年月日よりも5年くらい早く生まれている可能性もある。[要出典]
力士時代 [編集]
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|---|---|---|---|---|
力士時代の力道山
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| 基礎情報 | ||||
| 四股名 | 力道山 | |||
| 本名 | 金信洛(김신락) | |||
| 生年月日 | 1924年11月14日 | |||
| 没年月日 | 1963年12月15日(満39歳没) | |||
| 出身 | ||||
| 身長 | 176cm | |||
| 体重 | 116kg | |||
| BMI | 37.45 | |||
| 所属部屋 | 二所ノ関部屋 | |||
| 得意技 | 突っ張り、右四つ、吊り、上手投げ | |||
| 成績 | ||||
| 現在の番付 | 廃業 | |||
| 最高位 | 西関脇 | |||
| 生涯戦歴 | 135勝82敗15休(23場所) | |||
| 幕内戦歴 | 75勝54敗15休(11場所) | |||
| 賞 | 殊勲賞1回 | |||
| データ | ||||
| 初土俵 | 1940年5月場所 | |||
| 入幕 | 1946年11月場所 | |||
| 引退 | 1950年9月場所前 | |||
| 引退後 | プロレスラーに転向 | |||
| 備考 | ||||
| 金星2個(東富士1個、照國1個) | ||||
| 2013年2月17日現在 | ||||
二所ノ関部屋に入門し[1]、1940年5月場所初土俵、1946年11月場所に入幕し、入幕2場所目の1947年6月場所に前頭8枚目で9勝1敗の星をあげ、横綱羽黒山、大関前田山、同東富士ら3人と相星となり、この場所から設けられた優勝決定戦に出場した(優勝は羽黒山)。
翌1948年5月場所では横綱照國とこの場所優勝した大関東富士を破り、さらに横綱前田山には取り直しの末、前田山の棄権によって不戦勝となって殊勲賞を受賞している。なおこの年に力道山の生まれた朝鮮半島に韓国が建国されたが、その後も力道山は自分の出自をマスコミに公開しないままであった。
1949年5月場所に関脇に昇進するが、1950年9月場所前に突然、自ら髷(まげ)を切り廃業。師匠の二所ノ関親方との間には金銭トラブルも起こしていたとされる。[2]相撲界から引退時、百田の戸籍に長男として入籍[3]。
大相撲時代の成績 [編集]
- 通算成績:135勝82敗15休 勝率.622
- 幕内成績:75勝54敗15休 勝率.581
- 現役在位:23場所
- 幕内在位:11場所
- 三役在位:6場所 (関脇3場所、小結3場所)
- 三賞:1回
- 殊勲賞:1回 (1948年5月場所)
- 金星:2個(東富士1個、照國1個)
- 各段優勝
- 幕下優勝:1回 (1944年5月場所)
- 三段目優勝:1回 (1942年1月場所)
場所別成績 [編集]
| 春場所 | 夏場所 | 秋場所 | ||||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1940年 (昭和15年) |
x | (前相撲) | x | |||
| 1941年 (昭和16年) |
西 序ノ口 #20 5–3 |
西 序二段 #45 6–2 |
x | |||
| 1942年 (昭和17年) |
東 三段目 #51 優勝 8–0 |
東 幕下 #34 5–3 |
x | |||
| 1943年 (昭和18年) |
西 幕下 #21 5–3 |
西 幕下 #12 5–3 |
x | |||
| 1944年 (昭和19年) |
東 幕下 #13 3–5 |
東 幕下 #13 優勝 5–0 |
西 十両 #10 7–3 |
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| 1945年 (昭和20年) |
x | 東 十両 #4 3–4 |
東 十両 #7 8–2 |
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| 1946年 (昭和21年) |
x | 国技館改修 により中止 |
西 前頭 #17 9–4 |
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| 1947年 (昭和22年) |
x | 東 前頭 #8 9–1 旗手 |
東 前頭 #3 6–5 |
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| 1948年 (昭和23年) |
x | 東 前頭 #2 8–3 殊★ |
東 小結 6–5 |
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| 1949年 (昭和24年) |
西 小結 8–5 |
西 関脇 3–12 |
西 前頭 #2 8–7 ★ |
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| 1950年 (昭和25年) |
西 小結 10–5 |
西 関脇 8–7 |
西 関脇 引退 0–0–15 |
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| 各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 十両・幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
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プロレス転身 [編集]
その後二所ノ関部屋の後援者が社長を務める新田建設に勤務したが、ナイトクラブでの喧嘩が元でハワイ出身の日系人レスラー・ハロルド坂田(トシ東郷)と知り合い意気投合した(「プロレス修行」の項参照)。1951年9月30日から、アメリカのフリーメイソン系慈善団体「シュライナーズ・クラブ」が、当時日本を占領下に置いていた連合国軍への慰問と障害者のチャリティーを兼ねて、母国からボビー・ブランズら6人のレスラーを招きプロレスを開催していたが、ハロルド坂田もこの一員だった。力道山は坂田の勧めで練習を見に行き、プロレス転向を決意し、港区芝にあったシュライナーズ・クラブで指導を受けるようになった。
そして、1952年に渡米し、ホノルルで日系人レスラー沖識名の下で猛特訓を受けた。翌年帰国して新田新作と興行師永田貞雄の助力を得て日本プロレス協会を設立する。
そしてシャープ兄弟を招聘し、1954年2月19日から全国を14連戦した初興行は、テレビ放送が1953年にテレビ放送が始まったことに追い風を受け、全国民の支持を受けて大ブームとなる。この興行でシャープ兄弟組と戦う時の力道山のタッグパートナーは、戦前戦中に15年間不敗のままプロに転向した柔道史上最強と謳われる木村政彦だった。
しかし、ここで問題が起こった。シャープ兄弟との戦いでいつも負け役は木村で、その木村を助けに入った力道山が空手チョップで倒すというブック(プロレス界の隠語で試合進行台本)に嫌気がさした木村政彦との間に亀裂が入るようになった。
木村はこれで力道山とは袂を分かって自身の団体で興行を打っていくが、客はあまり入らなかった。こういうこともあってか木村は朝日新聞記者に「力道山のプロレスはジェスチャーの多いショーだ。真剣勝負なら負けない」と怒りをぶちまけ、挑戦を表明した。これが「昭和の巌流島」といわれるあの謎の試合に繋がっていく。
力道山は挑戦に応じ、1954年12月22日、「相撲が勝つか柔道が勝つか」と騒がれたプロレス日本ヘビー級王座の決定戦が行われた。しかし、この試合は予想だにしない凄惨な結末をむかえた。試合途中、力道山が突然殴りかかり、そのまま張り手の連打を打ちまくって、戸惑ったままの木村政彦をそのままKOした。木村は大量の血を吐き、マットに大きな血だまりができた。観客たちも驚き、会場は静まりかえった。明らかに普通のプロレスではなかった。
その試合後、力道山が木村が試合前に渡したと言われる「1試合目は引き分け」などと書かれた念書をマスコミに公開し、この試合が八百長崩れであったことが露呈するようになった。2人共に頭に血が昇っての惨事であり、プロレスの権威失墜だった。
この謎の多い力道山vs木村政彦の試合の舞台裏については多くの作品が書かれているが、最近では「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」というノンフィクションが今までとは違う木村側からの視点で綿密な取材で斬り込んでいる。「柔道王」として誇りを持って生きてきた木村は敗れて恥をかかされ、この一戦以来、人生のどん底に落ちていく。そして力道山が八百長破りをやったことを許せず、力道山を殺すために短刀を持って力道山を付け狙った。また、木村を兄と慕っていた空手の大山倍達も力道山を付け狙う。『空手バカ一代』など様々な作品がこのシーンを最大の山場に持ってきているように、格闘技界の3大巨人が交錯した試合だった。
また、シュライナーズ・クラブに慈善活動への協力を求められると力道山が金銭を要求したため、こちらとも縁が切れた。大相撲出身の力道山が天下を取ったことから相撲取りのプロレス界入りが増えた。日本のプロレス界に付き人等なにかと相撲の影響が残っているのはこれに由来する。
謎の力道山vs木村政彦戦後は上記のような事情により一時的にプロレスブームも下火になったが、すぐに力道山は盛り返し、再度一気に国民的スターに登り詰めていく。
1955年には、キングコングを破ってアジアヘビー級王座を獲得。1958年には、ルー・テーズを破ってインターナショナル・ヘビー級王座を獲得。1959年には第1回ワールドリーグ戦を開催し優勝する。ワールドリーグ戦はその後1963年まで連続優勝。1962年には、フレッド・ブラッシーを破ってWWA世界ヘビー級王座を獲得した。(WWA世界ヘビー級王座は、当時NWA世界ヘビー級王座から分裂していた王座である)
力道山はルー・テーズやパット・オコーナー、カール・ゴッチのようなストロングタイプともジェス・オルテガやフレッド・ブラッシーのような悪役・怪物タイプとも名勝負を残しているが、後者の方が手が合ったようである。
1958年4月、力道山を慕って韓国から密入国して横浜で逮捕された金一を、後見人である自民党副総裁・大野伴睦の政治力で日本在住を認めさせ、門下生にし、大木金太郎のリング名を与え、韓国名を用いることを厳禁した[4]。
1963年1月に、韓国側の招きで韓国を訪問し、金浦空港で体育協会、レスリング関係者約60人に出迎えられた。記者会見で「20年ぶりに母国を訪問でき感無量です。長い間日本語ばかり使っているので、韓国語はさっぱり・・・」と言い、最後に「カムサ・ハムニダ」と付け加えた。その模様を『東京中日新聞』が「力道山、二十年ぶりに母国へ」の見出しと写真入りで掲載したところ、これまで朝鮮半島出身であることを隠し続けていた力道山は、帰国後これを知り当新聞に激怒したという[4]。
1963年5月24日、東京体育館で行われたWWA世界選手権・ザ・デストロイヤー戦は平均視聴率で実に64.0%を記録、これは今日においても歴代視聴率4位にランクされている。現代に例えると2002年の日韓サッカーW杯の日本―ロシア戦の66.1%に匹敵するものであり、いかに力道山の人気が絶大であったかがうかがえる。なお、この試合では、「四の字固めを完璧に決められた力道山が」ギブアップすることなく戦い続けたものの決着がつかず、「両者試合続行不可能と判断したレフリーによって、引き分け」とされた。そして、「試合後、自らの力ではからみあった足を解けぬ両者のリング・シューズのヒモ」を若手レスラーがハサミで切って引き離したという[5]。
1963年12月8日午後10時30分に、遊興中の赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」で、暴力団住吉一家傘下の大日本興業構成員であった村田勝志と足を踏んだ、踏まないで口論になり、馬乗りになって殴打したところ、村田に下から登山ナイフで腹部を刺された。だが、自ら持ちかけた喧嘩ということもあり表沙汰にはせず、知り合いの勤める山王病院に入院。12月15日に化膿性腹膜炎で死去した。戒名は大光院力道日源居士。墓所は東京都大田区の池上本門寺の他に、故郷・長崎県大村市の長安寺にある百田家の墓所に分骨されている。
刺殺事件の顛末 [編集]
1991年の大下英治による加害者への直接取材、その他により刺殺事件の顛末が明らかにされている。
女性と話していた力道山の横を暴力団員村田勝志が通り掛る際、力道山が「足を踏まれた」と、後ろから村田の襟首をつかんだ。村田は踏んでいなかったので、「踏んだ覚えはない」と反論するが、口論となり、「あんたみたいな図体の男がそんなところに立っていたらぶつかって当然」と言い放つ。この時、村田は懐中に手をやる。それを見て、刃物を取り出すのではないかと思った力道山が、「わかった。仲直りしよう」と言い出す。それに対し村田は「こんな事されて俺の立場がない」と仲直りを拒否。和解を諦めた力道山は村田の顎を拳で突き飛ばし、壁に激突した村田は顎がガクガクになった。さらに力道山は村田の上に馬乗りになり激しく殴打する。村田は「殺される」と思い、ナイフを抜いて下から左下腹部を刺した。ナイフの刃は根元まで刺さったが、出血は衣服の上に染み出ていなかったという[6]。
1日目は応急手当を受け帰宅。その後、村田の所属団体の長小林楠扶がリキアパート内の力道山宅を謝罪に訪問。「申し訳ない。この責任は自分がとる」と頭を下げたところ、力道山も「うん、うん、わかったよ」と声をしぼり出すようにいったという。
2日目に症状が悪化したため入院、外科医に山王病院へ来てもらい30針縫う手術を受け成功。山王病院は産科婦人科が中心の病院だが、力道山がここを選んだのは、話を大きくしないため親しい医者のいる病院にしたという。側近たちは、赤坂にある有名な外科病院である前田外科への入院を勧めたが、力道山は嫌がったという。
7日目に腹膜炎による腸閉塞を理由に午後2時30分再手術。これも成功したと報告されるが、その約6時間後午後の9時過ぎに力道山は死亡した。死因は正式には穿孔(せんこう)性化膿性腹膜炎とされている。
しかしながら他にも諸説ある。ある説は、手術の際、麻酔を担当した外科医が、筋弛緩剤注射した後に気管内チューブの気管挿管を失敗し窒息したという医療事故のためという[7]。なお、村田勝志を裁く裁判の際、死因究明のため提出されたカルテの中に麻酔に関するものだけなく、最後まで、紛失したといって出されなかったという。
また他の説は力道山の腹膜炎はほぼ完治に近い状態まで回復していたが、腹膜炎を患っている期間は食事は勿論のこと、水の服用も厳しく制限される状態にあった。ところが食欲が非常に旺盛であった力道山は、空腹に耐えきれず、付き人に行きつけの寿司屋に寿司を注文するように命令し、序でに酒も買わせた。届けられた寿司と酒を飲食して空腹感を抑えた力道山であったが、飲食した生ものである寿司やアルコールが完全に完治しきっていなかった患部に障り、これを以って病状が急変、急死したという[8]。力道山が最初の手術後、サイダーやコーラ等を飲用しているのを目にしたという者は多く、上記のようなこともありうる話だが確証はない。
加害者の村田は、力道山の死を病院のベッドで聞いたという。犯行の当夜、大日本興業の所属する住吉一家と対立関係にあり、力道山とつながりの深い東声会の組員らにより暴行を受けて重傷を負い入院していたのである。小林楠扶がリキアパートに謝罪に赴いた際、村田も同行した。しかし、「直接顔を合わせると、先生が興奮してしまう」という力道山側近の判断から、村田は外で待機していた。この時、周辺に集まっていた東声会組員から激しい暴行を加えられたものである。村田は初めは、小林の立場を考えじっと耐えていたが、我慢しきれず力道山を刺した登山ナイフで、東声会組員一名を刺している。
人物 [編集]
性格 [編集]
性格的には粗暴で、感情の起伏が激しかった。機嫌が良いときはボーイに1万円(当時の1万円は相当な額である)のチップを渡すこともあったが、機嫌が悪いと飲食店での暴力沙汰は日常茶飯事であり、そのつど金で表ざたになるのを防いだ。1957年(昭和32年)10月18日の『読売新聞』朝刊や、同年12月5日の『朝日新聞』夕刊に「力道山また暴れる」と報道されたこともあった[9]。可愛がられたという張本勲は、飲むと暴れて大きな手で木やガラスのテーブルを叩いて割る、薄いガラスのコップを美味しいと言って食べてた、などと話している[10]。粗暴な行為に関しては、本人の生来の激しやすい性格も一因ではあるが、晩年には肉体的な衰えをカバーするために試合前に興奮剤を服用しており、試合後にそのまま飲み屋に出かけて行ったため、トラブルを引き起こしたという証言もある。またバックに就いていた東声会は、力道山のプロレス興行により莫大な富を手にすることともなった(ロバート・ホワイティング「東京アンダーワールド」など)。
人物評 [編集]
山田智彦(作家)「力道山は確かに純粋で人の良い一面も持っていたし、笑ったときの表情など忘れがたいものがあるが、それはほんの表面だった。猜疑心の強さ、傲慢さ、酒癖の悪さ、金銭への執着など、調べれば調べるほど一ファンとしては戸惑うことが多い」
ジャイアント馬場(プロレスラー)「人間として何一つ良いところの無い人でした」
山本小鉄(プロレスラー)「とにかく気分屋で、(力道山)先生が帰ってきたら部屋の電気を消して寝たふりをするか、風呂場や物置に隠れるしかない。万が一顔を合わせたが最後、猫がネズミをいたぶりつくすように虐められるんです」
古賀政男(遠藤幸吉を介して知り合った作曲家)「力道山は直情径行で竹を割ったような性格。しかし頑固で人の意見を聞かないところがあった。話題の多いスポーツマンらしい、大粒の人物だった」
トラブル [編集]
このような粗暴な性格のため、多数のトラブルを引き起こしている。例をあげると山口組ともめて監禁寸前にまでなったり、安藤組に対して誠実な対応を取らなかったため付け回され家に帰れなくなったり、フィリピンマフィアの顔役を橋から川に投げ込み揉めるなど、当時のプロレス興行が暴力団と密接な関係にあるにもかかわらず、配慮に欠けた行動を繰り返したため、命を狙われることも多かった。上記の1963年12月8日の赤坂での刃傷事件(これが死の遠因となった)で見られるように、力道山には飲酒した時のトラブルが多かったようで、暴力団山口組三代目組長の田岡一雄は「(力道山は)酒を飲まなければ……」と自伝で嘆いている。
力道山本人も自身の性格がよくわかっていたのか、猟銃を合法的に数丁所持し、また妻の自伝によると拳銃まで所持しており、趣味というより、護身目的の所持だったと思われる。
このように、力道山は素行の面でいろいろと問題はあったが、日本のプロレス界の礎を築いた最大の功労者であることは間違いない。生前は朝鮮人であることがほとんど知られておらず、彼の相手レスラーを空手チョップで殴打する時の口癖が「この、朝鮮人野郎」だったこともあり、白人レスラーを次々と倒す姿は、敗戦後の日本人の一種愛国的な感情をも揺さぶった。「総理大臣の名前は知らなくても、力道山の名前を知らない者はいない」とされ、テレビの普及にも大きく貢献があった。
死去した日と同日に4代目の鈴々舎馬風が中風で死去したが、スポーツ紙の一面が力道山の死で埋め尽くされたため、一段のベタ記事扱いとなった。しかしそれを枕にした落語家はいなかったという。
家系関連 [編集]
プロレスラーの百田義浩(元プロレスリング・ノア取締役)、百田光雄(現役・元プロレスリング・ノア副社長)は実息。自らが朝鮮人であることは生前は周囲に隠して生きており、力道山主演映画「力道山物語」でも「長崎県の貧しい農家で生まれ育った」という設定になっている。亡くなる10か月前に結婚した田中敬子(元日本航空客室乗務員。死後、百田姓から抜けた[11])はそのことを知っていたが、実息であった二人の息子は父である力道山の死後に知ったということである[12]。
1984年週刊プレイボーイが、当時タブー視されていた力道山の国籍問題を「もうひとつの力道山物語」として報じた。それによると、力道山は15歳で来日する時、既に結婚し子供もいた。その後、2002年の釜山アジア大会で、力道山の孫娘が北朝鮮の重量挙げ監督としてエントリーして話題になった。北朝鮮では、「力道山は日本の憲兵に拉致されて日本の相撲界に入門、独力で逆境を乗り越えた民族の英雄」とするデマも伝えられているという。
強靱な肉体 [編集]
自身を含めたプロレスラーの強靱な肉体に過信があったことは事実であり、客人の前で馬場に度数の高い洋酒を一気飲みさせたり、猪木を走行中の自動車から突き落としたりして、「強靱な肉体があるからプロレスラーはケロっとしている」というアピールを好んで行った。
また、相手を威嚇するためにガラスのコップをバリバリと噛み砕いて飲み込む「人間ポンプ」という芸を持っており、ごく機嫌のいい時か悪い時に披露したという。
大きいイメージを持たせるため、実際より4cm身長をサバ読みした。それによりその世代のレスラーは4cmサバ読みしていることが多い。
力士として [編集]
番付では長崎県大村町の出身となっている。幕内通算11場所、75勝54敗15休(15休は引退廃業の場所の全休)。入幕2場所目の1947年6月場所、その場所から始まった優勝決定戦に進出している。
廃業直前の2場所の成績は小結で10勝5敗、関脇で8勝7敗。当時の基準としては大関取りがかかった場所前の突然の廃業については、相撲界側に残る話では師匠二所ノ関との部屋の運営をめぐっての対立があったとされているが、力道山側の主張とは食い違い、現在となってははっきりしない。
一時期角界復帰の話も持ち上がり、実業界の有力者の仲介もあって決まりかかったが、力士会が反対して実現しなかった。なお同時期に元大関増位山の三保ヶ関も現役復帰の意向をしめしており、これも含めての反対だった。その趣旨は「一度引退を内外に表明して、引退相撲(その収益は力士当人に還元されるのが通例)まで開催した力士が、後で現役復帰を求めるというのは筋が通らない」とするもの。力士会が特に力道山個人の復帰を嫌ったという話ではない。
相撲界側で比較的力道山に好意的な証言者の一人として、二所一門の弟弟子だった横綱若乃花幹士 (初代)がいる。その著作などを読むと、気性は荒くしごきはきついが、稽古熱心なものには徹底的に目をかける兄弟子像が浮かびあがる。しかし、その若乃花にとっても「力道関」はもっとも恐ろしい兄弟子だったらしい。若乃花が夜遊びのために部屋を抜け出した際、オートバイを駆って追いかけ強引に連れ戻したのは、若乃花が脱走したと勘違いした力道山であった。ちなみに、プロレス時代の力道山が常に黒いタイツを着用し、素足を見せなかったのは、大相撲時代に、若乃花がしごきに耐えかね、力道山の足に噛み付いた時の歯形が残っていたからとも言われている。
珍記録としては、3場所連続で同じ相手(前田山)から不戦勝をあげるなどした。また、最後の優勝旗手になった力士でもある。
プロレス修行 [編集]
二所ノ関部屋を自ら髷を切って引退した力道山は、横綱東富士の後援会長で新田建設社長の新田新作の下で働く。新田はかつて生井一家の鈴木栄太郎(人形町の大親分で、戦前の国家団体である関東国粋会副幹事長であった)の跡目に擬された男だったが、戦後はやくざの足を洗い連合軍とコネをつなぎ羽振りがよく、戦災により焼け落ちた国技館を復興するために資材を集めて仮の国技館を創設したとされ、全国の親分衆とのつながりがあった。新田は、力道山の相撲界復帰のために尽力するが、結局実現しなかった。
力道山は同じころ、プロレス慰問興行のため来日中のハロルド坂田(トシ東郷)に出会う。ハロルド坂田はハワイ生まれの日系二世で、ロンドンオリンピック重量挙げのアメリカ代表で銀メダリストだった。当時のハロルドはハワイの英雄として売り出し中のプロレスラーで、日本でのプロレス興行のプロモートを模索している途中だった。ハロルド坂田に誘われて、力道山は1951年10月28日、メモリアルホール(旧国技館)で、統一前のNWAの元世界チャンピオン、ボビー・ブランズとエキシビションマッチを行い引き分ける。
力道山の素質に惚れたボビー・ブランズは、ハワイ興行に力道山を誘うが、新田社長の許しが得られなかったため、日新プロダクションの永田貞雄に相談する。永田は、横綱千代の山の贔屓筋で、浪曲や歌謡曲などの興行を手がけている人物であった。永田が新田を説得し、力道山はハワイへ行くことになる。
1952年2月17日、ハワイ・ホノルルのキングストリートにあるシビック・オーデトリアムで、力道山は記念すべき海外遠征初試合を行う。相手はチーフ・リトル・ウルフというインディアンレスラーで、勝利を収めた。ハワイでのプロレス興行は黄金時代で、日系人1世、2世の観客の間で力道山人気は爆発した。このとき力道山のハワイでのトレーナーは、後の日本プロレスでレフェリーとなる、沖識名であった。沖の助言もあり、黒のロングタイツに空手チョップというスタイルは、この頃ハワイで作られた。
その後、1952年6月10日に、アメリカ本土のサンフランシスコへ乗り込む。
弟子教育 [編集]
力道山の死後プロレス界を支えた両巨頭であるジャイアント馬場、アントニオ猪木も彼の弟子であった。力道山は、プロ野球出身で知名度もあり、肉体的に恵まれていた馬場をスター候補としてデビュー当時より特別扱いしていたが、猪木への対応は「靴べらで顔を殴る」「飼い犬を番犬として教育する際の実験台にする」「少年の猪木に一升瓶の日本酒を一気飲みさせる」「意味もなくゴルフクラブをフルスイングして側頭部を殴打する」「灰皿を投げつける」など、極めて冷酷なものであったと言われている(猪木自身が一部語り、古いスポーツ紙の記者もそれを書いている。近年でも、当時は本気で殺意を覚えたと語る事も)。その一方で、弟子の中で、力道山が本心から一番可愛がっていたのは馬場でも猪木でもなく、同じ朝鮮民族出身の大木金太郎であったともいう。
弟子の教育には合理的な面もあり、一度目のアメリカ武者修行で大成していた馬場が、アメリカ側から催促されていた時に、「お前だけすぐにアメリカに出したら周りの奴に妬まれる」と時間を置いて出発させたという馬場自身の証言があり、まだ付き人だった猪木には「ウェイトが100キロを超したら武者修行に出してやる」と約束していたという。結局、力道山の生前には猪木のアメリカ修行は無かった。
猪木は馬場への強烈なコンプレックスをバネに格闘技世界一を追求したりし、マスコミに自分の強さをアピールして行ったが、いつのまにかマスコミとのパイプが太くなり、いろいろな面で力道山と同じような道を歩んでいる。それは実業界へ首を突っ込むに留まらず、弟子へ対する鉄拳制裁などあらゆる面で力道山の生き方そのものをいつのまにか自分自身が引き継いている。
実業家として [編集]
実業家としても成功し、赤坂に自らの住居も兼ねた高級アパートのリキ・アパート、ナイトクラブのクラブ・リキ、さらに「リキマンション」と名づけたマンションの奔りである高級賃貸住宅を建てた。
渋谷には「リキ・スポーツパレス」という地上9階建てのプロレスの常設会場を作り、その中には「リキトルコ」[13]やビリヤード場、ボウリング場などを併設した「リキレストラン」を建設した。ボクシングジム経営にも進出している。
死の少し前には、相模湖畔に、自動車レース場・射撃場・室内スケートリンク・モーテル等レジャー施設を併設した大規模なゴルフ場、「レイクサイド・カントリークラブ」の建設を始めていた。広大な土地を購入し、会員権を販売し、一部工事にも取りかかったが、死去により未完に終わった。跡地は売却されて、現在、さがみ湖リゾート プレジャーフォレスト(旧称・さがみ湖ピクニックランド)となっている。また、三浦半島の油壺にも8000坪の土地を購入しており、家族で楽しめるマリンリゾートの建設を計画していた。
タイトル歴 [編集]
- 日本ヘビー級王座(初代王者。日本ヘビー級王者を名乗ったのはプロレス史上力道山だけである)
- 世界タッグ王座(シャープ兄弟から獲得。パートナーは遠藤幸吉。短期間の保持だった。)
- WWA世界ヘビー級王座
- インターナショナル・ヘビー級王座
- アジアヘビー級王座
- アジアタッグ王座(パートナーは豊登、吉村道明)
- ハワイ太平洋タッグ王座(パートナーは東富士)
フィルモグラフィ [編集]
力道山は生前、28本もの映画に出演した(1952年 - 1959年)。日本プロレス発足以来、映画各社から出演がオファーされた。人気絶頂期の力道山は、映画スターでもあった。
1956年に公開された『怒れ! 力道山』(東映東京)では、国会議員に指示された鉄砲や日本刀で武装したヤクザとキャバレーで格闘して負傷するシーンがあり、力道山の死に方に似ていると話題を呼んだ。 また北朝鮮でも力道山に関する作品が製作されている。
主な主演作品 [編集]
- 1952年 薔薇と拳銃 監督志村敏夫、主演鶴田浩二 ※映画デビュー作
- 1954年 力道山の鉄腕巨人 監督並木鏡太郎、共演松島トモ子
- 1955年 力道山物語 怒涛の男 監督森永健次郎、共演河津清三郎、美空ひばり
- 1956年 力道山 男の魂 監督内川清一郎、共演宮城まり子、森繁久彌
- 1956年 怒れ! 力道山 監督小沢茂弘、共演早川雪洲、杉狂児、益田キートン
- 1957年 純情部隊 監督マキノ雅弘、共演星美智子、東千代之介
- 1959年 激闘 監督岩城其美夫、共演南原伸二、三上真一郎 ※生前最終作
- 1983年 ザ・力道山 監督高橋伴明、音楽山下洋輔 ※ドキュメンタリー
テレビドラマ [編集]
2本のテレビドラマに出演している。
- 1955年 力道山の夢 作青江舜二郎、共演伊藤彰敏、伊東絹子 ※日本テレビ、単発ドラマ
- 1962年 チャンピオン太 作・梶原一騎、監督・高橋繁男ほか、力道山の他に出演したのは、吉村道明、死神酋長(猪木完至)、ユセフ・トルコ、沖識名、遠藤幸吉、九州山、大木金太郎、長沢秀幸、星野健夫、北沢幹之、小鹿信也など。 ※NAC・フジテレビ、連続ドラマ
著書 [編集]
- 「空手チョップ世界を行く - 力道山自伝」ベースボール・マガジン社 1962年
脚注 [編集]
- ^ 1940年(昭和15年)、朝鮮の六坮という明太の漁場の村で朝鮮相撲の大会に出場していた金光浩(金村光浩)を、当地で刑事補をしていた長崎県大村市出身の小方寅一と相撲好きの百田已之助(二所ノ関部屋の後援幹事、小方寅一の母親の再婚相手)がその体格と相撲素質に見惚れ、東京の二所ノ関部屋へ知らせた。二所ノ関親方・玉ノ海梅吉が朝鮮に渡って入門交渉をしたが、母親が反対し、急いで嫁を探して結婚式を挙げさせた。そして1942年(昭和17年)2月に入門した。親方の玉の海は、「国技の力士が(植民地の)朝鮮出身じゃまずかろう」と諭し、現在の本名・百田光浩、長崎県大村市出身という手筈が整えられた(金一勉『朝鮮人がなぜ「日本名」を名のるのか』)。ただし、後述のように1940年5月場所に初土俵、1941年には1月場所に序ノ口で、5月場所には序二段に昇進してそれぞれ出場しているので、この本の年月の記述はあやふやである。なお、『朝鮮』出身を明示した力士として、1944年11月場所に十両に昇進した智異ノ山正一郎がいる。
- ^ 増田俊也「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」より。
- ^ 朝鮮戦争勃発直後、日本へ帰化し、東京都中央区へ戸籍を移籍させ、百田已之助の長男に偽造した(金一勉『朝鮮人がなぜ「日本名」を名のるのか』)
- ^ a b 金一勉『朝鮮人がなぜ「日本名」を名のるのか』
- ^ 『力道山がいた』松村友視(朝日新聞社)2000年、p.252-3 ISBN 4-02-257483-6
- ^ 大下英治、2004、『力道山の真実』、祥伝社〈祥伝社文庫〉 ISBN 4396331967 参照 刺殺事件の顛末を加害者からの直接取材している。
- ^ 土肥修司、1993、『麻酔と蘇生 高度医療時代の患者サーヴィス』、中央公論社〈中公新書〉 ISBN 9784121011220第二章 麻酔の基本と種類 気管内挿管と力道山の死 を参照
- ^ 裏の裏まで取材し尽くした最も詳しい記事とされる当時のプロレス雑誌に記載されており、梶原一騎『プロレススーパースター列伝』のジャイアント馬場&アントニオ猪木編にもその説を採用している。
- ^ 竹内宏介『プロレス醜聞100連発!!』(日本スポーツ出版社・1998年)p.26 - 27 ISBN 978-4-930943-10-1
- ^ 吉田豪『男気万字固め』エンターブレイン、2001年、p.117-118
- ^ 田中敬子は10か月の婚姻関係でしかなく、また死後は百田姓を抜いており、彼女が力道山の死後に数多くの力道山の自伝などを書くこと、またプロレス関係の仕事(IWGP管理委員、新日本プロレスグッズショップ経営)などに就くこと、現在でも「百田敬子」と名乗ることには批判も存在する。
- ^ 実息である義浩・光雄の二人は、無論その後本妻となる田中敬子との子供ではない(上記の通り、力道山と田中の婚姻は死の直前の10か月しかない)。この二人は、当時内縁の妻であった京都の芸妓との間に出来た子供だと言われている。力道山は生涯、田中敬子を含め4人の女性と婚姻関係にあったと言われ、朝鮮半島時代に一人、京都の芸妓(百田兄弟の母親)が二人目、日本橋の芸者(百田兄弟の育ての親)、田中敬子の順であった。なお彼の子供は5人おり3人は娘である。朝鮮半島時代に生まれた娘の夫である朴明哲(パクミョンチョル)は、2010年に北朝鮮の体育大臣になっている。百田兄弟の姉もおり、また力道山の死の直後には田中敬子が娘を出産している。その娘の息子は、慶應高校に進学して高校野球で活躍した田村圭である。
- ^ トルコ=ソープランドではない、ただのサウナ風呂であることに注意。
参考文献 [編集]
- 土肥修司 1993年 「麻酔と蘇生」(中央公論社) - 死因に関する外科医の証言
- 原田久仁信作画、原康史原作、百田光雄監修、2003年 「プロレスヒーロー列伝 力道山 苦難のアメリカ修行編」 実業之日本社
- 百田光雄 「父・力道山」 小学館文庫
- 「国会会議録・第46回国会予算委員会第4分科会第2号」
- 猪瀬直樹 「力道山とテレビの揺籃期」
- 吉村義雄 「君は力道山を見たか」 飛鳥新社 1988年
- 大下英治 「永遠の力道山 - プロレス三国志」 徳間書店 1991年
- 牛島秀彦 「大相撲・プロレス・ウラ社会」 第三書館 1995年
- 李スンイル 「もう一人の力道山」 小学館文庫 1998年
- 安部譲二 「日本怪死人列伝」扶桑社文庫 2004年
- 原康史「激録力道山」東京スポーツ新聞社
- 田中敬子 「闘え、生きろ、老いるな!夫・力道山の教え」現代企画 2008年
- 増田俊也 「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」
関連項目 [編集]
- エディ・タウンゼント - 力道山に招請されて来日したボクシングトレーナー
- CR力道山 - デジパチ機。大当たり図柄がない珍しい機種。
- 富士通ゼネラル - 力道山のスポンサーを前身である八欧電機→ゼネラルが務めた。(シャープ兄弟のスポンサーはシャープの前身である早川電機)
- 大野伴睦 - 自由民主党副総裁、日本プロレスリングコミッショナー。
- 押山保明 - 無声映画の監督、映画プロデューサーから日本プロレス宣伝部長に。
- 木村政彦 - 史上最強と称された柔道家。昭和の巌流島の決戦の際、力道山の裏切り=ブック破りの為にその栄光を汚された。
- 張本勲 - 同じ朝鮮出身ということで交友があった。
- 若木竹丸 - 力道山の肉体改造に多大な影響を与えた。
- 中村日出夫 - 同じ朝鮮人の彼を、力道山は兄貴分として慕った。空手チョップはこの中村が伝授したとされる。
- 児玉誉士夫 - 日韓国交樹立の前段階として力道山に韓国訪問を要請した。
- 町井久之 - 韓国訪問は町井のコネクションを通じて行われた。
- 三菱電機 - 八欧電機との関係が切れた後のメインスポンサー。力道山の死後も日本プロレスとの関係は続いた。
- 今里広記 - 有力な後援者
- 長谷川町子 - 彼女の自伝によれば、家出していた際の宿泊先で彼の死を新聞で知り、家出中に抱いていた心境の変化が起きたという(彼女にとってはターニングポイントだったらしい)。
- ロシアンモンキー - 力道山の物まねを取り入れたネタを行う芸人。
- 『力道山』(監督・ソン・ヘウン、主演・ソル・ギョング) - 力道山をテーマにした映画作品。
- 伊集院浩 - 毎日新聞社運動部部長。力道山からボクシングジムの会長に推されて就任したものの、その後、力道山との確執がもとで自ら絶命。
外部リンク [編集]
- Rikidozan - インターネット・ムービー・データベース(英語)
- 力道山 光浩 - 相撲レファレンス
- ISIS本座「まぼろしのテレビ局」大阪におけるテレビ中継に関する記事あり