寄席

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寄席(よせ)とは、日本都市において講談落語浪曲萬歳(から漫才)・過去に於いての義太夫(特に女義太夫)、などの技芸(演芸)を観客に見せるため席亭(興行主)が経営する常設の興行小屋である。

概要[編集]

講談が一番古い歴史を持つ。明治・大正期までは、落語以外の講談や浪曲や色物など各分野それぞれの寄席が存在し[1]、寄席の数が激減していく中で、東京では落語を主にかける寄席のみが比較的多く残った。落語(講談・浪曲)以外の演目は色物と呼んで区別する。最後の演目は基本的に落語であり、その演者は主任(トリ)と呼ばれ、その名前は寄席の看板でも一番太く大きな文字で飾られる。トリになれるのは基本的に真打の落語家のみだが、ごくまれに真打以外の落語家や落語以外の演者がトリとなる場合がある。

歴史が長く、今もおなじみの色物演目には、音曲物まね(声色遣い)・太神楽曲独楽手品紙切り・(大正時代からの)漫談腹話術などがあり、下火になった演目にかっぽれ新内デロレン祭文源氏節八人芸(現在は見られない)。主に地域芸能としての道を行くものに八木節安来節江州音頭河内音頭などがある。(西洋由来のコントは比較的新しい演目である。ストリップも参照のこと)多くは大道芸として野天やヒラキと呼ばれるよしず張りの粗末な小屋から始まり、寄席芸に転化していった。

経営や後継問題により数は減ったが、お座敷芸より連なる伝統的芸能を支える空間としての役割を果たしながら、「悪場所」「悪所」と呼ばれてきた都市文化の華としての地位を江戸時代初期から守っている。商店の広間や、自治体の市民会館などでも落語などの口演が行われ、「地域寄席」と呼ばれる。

定席とは、本来毎月休むことなく開演している寄席、程度の意味であるが、狭義の寄席として[2]東京鈴本演芸場新宿末廣亭浅草演芸ホール池袋演芸場の四席のみとされ、落語関係者のみならず演芸関係者一同[3]が開設に尽力した国立演芸場や、実際は準定席といって過言ではない永谷の演芸場さえも含めない場合が多い。[4]

2006年9月15日に大阪天満宮横に、大阪では半世紀ぶりの寄席となる「天満天神繁昌亭」が開場した。

寄席が落語と切り離せないのは、落語家にとって寄席が修行の場であり芸を磨く唯一無二の舞台とされること、観客も贔屓の演者の成長と演者ごとの演出の違いを楽しむという点にあり、「完成品」を見せるホール落語と違い寄席落語には「未完成」なりの面白さ、真剣さがあるとされる(新宿末廣亭初代席亭の北村銀太郎の発言より)。

歴史[編集]

寄席の起源は、一般的には江戸初期に神社寺院の境内の一部を借りて、現在の講談に近い話を聞かせる催し物が開かれていたもの(講釈場)である。ただ、これは不定期に催されるものであったようである。

これが原型となって、初めて専門的な寄席が開かれたのは、寛政10年(1798年)に江戸下谷にある下谷神社の境内で初代・三笑亭可楽によって開かれたものとされ、当神社には現在の定席四席による寄席発祥の石碑がある。当初は「寄せ場(よせば)」と[5]呼ばれ、後に寄席と呼ばれるようになった。

江戸では町方や新吉原、寺社境内などに[要出典]寄席が広まっており、江戸では乞胸と呼ばれる寄席と同様の芸能活動を行う都市下層芸能民がおり、しばしば寄席と対立した[要出典]。天保13年(1842年)2月には老中水野忠邦の主導する天保の改革の影響で規制を受け一時衰微するが、水野の失脚とともに復活する。幕末にかけて江戸を中心に大いに普及し、現代と違って娯楽が乏しかった時代、各町内に一軒は寄席があった。当時の演目は講談、落語の他、「役者声色、物まね、娘の浄瑠璃、八人芸、浮世節など芸人を集め[6]」ていた。

明治に入ると、芝居小屋(劇場)との区分の明確化・芸人鑑札制による状況把握・徴税が、維新後まもなくの1871年(明治4年)より続々と始まり[7][8]巡査による臨検席も設けられた[9]、落語中興の祖三遊亭圓朝の道具立ての芝居噺から素噺への転向(その語り口は速記され、二葉亭四迷言文一致体の発明に影響を与え、現代日本語の元となる)や、かっぽれ梅坊主が出演し、咄家による珍芸が流行(珍芸四天王)、新内が寄席の舞台に上がる。ほぼ同時期に、講談の大流行(泥棒伯圓と呼ばれた二代目松林伯圓など。自由民権運動演説と相互に影響を与え、政治講談も盛ん)、女義太夫の大流行(綾之助呂昇の登場)、自由民権活動家・浮世亭○○こと川上音二郎の登場(京都・笑福亭を本拠にした。壮士芝居(→新派劇)にその行動を定める前の時期である)、浪花節による席巻(大道芸から浪花亭駒吉による寄席芸としての確立)があり、東西で規模が大きな寄席も現れた。

明治40年ごろの東京の寄席[編集]

1907年(明治40年)に東京市が編集発行した地誌『東京案内』は、明治末の東京を知るのに右に出るものはないとされている著名な出版物[10]である。明治39年末時点の東京がわかる。

きめ細かく網羅的に東京の事物が挙げられている中に、寄席に関する記述もあり[11][12]、まず東京市内・近郊で寄席の数は計141軒。 内訳は、まず講談が、おおむね各区ごとに一つはあり、24軒。 当時「色物席」という形で分けていた落語・色物の定席は、75軒。中には、有名な人形町末廣亭や神田・立花亭、上野・鈴本亭も含まれる。 浪花節席は、30軒。神田市場亭(後に入道舘→民衆座)が見られる。まんべんなくあるが、特に下谷区浅草区から本所区、深川区にかけて多く分布している。 現在は消滅した義太夫専門の定席が3軒ある。神田・小川亭、日本橋・宮松亭、浅草・東橋亭の名。 さらに、祭文[13]の席として下谷・竹町に佐竹亭の存在が確認できるのが、浪花節の歴史の点からも特筆される。 この他に、混成の席の中で、内藤新宿に末広亭(講談・色物)、品川に七大黒(色物・義太夫)の存在が確認できる。

という内訳であるが、演目は決して固定されていたわけではなく、多くが家族経営の零細企業であった寄席は[14]、かかる演目は席亭主の意向で自在に変わり、例えば色物席でも年に一度は必ずと言っていいほど義太夫がかかっていたという。

寄席の開演時間については昼席公演は少なく、夜席が多く、その終演は「午後10時から11時に至るを常とし」とある[15]。これにより一人当たりの口演時間が長い講談・浪花節でも「二軒バネ、三軒バネ」が可能であったことがわかる。また各演目別事情・料金等についても触れられている。当時の寄席用語として、付近八丁の寄席の客を奪うほど人気のある芸人という意味で「八丁荒らし」がある(むろん褒め言葉である)。

明治から大正にかけての時期には、寄席で源氏節、安来節[16][17]八木節の全国的流行があったことがわかっている。

上席下席の月2回入れ替え制だったものが、客の休日環境の変化[18]1921年(大正10年)6月、現在に至る10日間興行に変わる。

1926年(大正15年)当時の東京市内の寄席については、日本芸術文化振興会により、ネット上に地図が編集・公開されている[19]

寄席名の後に「亭」や「席」をつけて呼ぶことが一般的であった。

上方の寄席(吉本による独占・チェーン化)[編集]

上方大阪)では明治時代から昭和初期の大阪市内、特にミナミ法善寺周辺には、北側に三友派の象徴であった「紅梅亭」、南側に桂派の象徴であった「南地金沢亭」(後に吉本興業(以下、吉本)が買収し「南地花月」)が存在ししのぎを削った。浪曲は、1907年(明治40年)桃中軒雲右衛門の関西巡演までは「浮かれ節」と呼ばれ、明治前半には浮かれ節専門の寄席(天満・国光席、松島・広沢館、千日前・愛進館など)が既に存在した。

他にもキタ北新地の「永楽館」(後に吉本傘下に入り「北新地花月倶楽部」)はじめ、上本町堀江松屋町新町松島大阪天満宮界隈などに十数軒の落語専門定席が存在していた。その後吉本が寄席でいっそう漫才主体の番組構成をとったことや、桂春団治など落語家の専属契約を推し進め、自社の経営する寄席である「花月」のみの出演としたことなどから、上方落語の寄席文化は壊滅的打撃を受けた。

戦後は上方落語の復興機運が高まるとともに、ミナミ戎橋松竹が開場(千土地興行(後の日本ドリーム観光)が経営)。大阪唯一の落語中心の寄席として人気を博した。1957年に経営難から閉鎖された後は、大阪では地域の有志が寺や公民館、蕎麦屋などを会場に「地域寄席」という形で寄席文化を継承してきた(「田辺寄席」「岩田寄席」など)。その後六代桂文枝など落語関係者一同の長年の復活への努力が実って、2006年9月15日に大阪天満宮横に半世紀ぶりの寄席となる「天満天神繁昌亭」が開場した。

東京・大阪以外[編集]

横浜には、多数の寄席が存在し[20]しのぎを削っていた。関東大震災の際には京浜間の寄席で出演者、席亭側、客側それぞれに甚大な被害があったことが知られる[21]。後に消滅し、現在は2002年(平成14)年4月に横浜市が建てた横浜にぎわい座がその機能を継承している[22]

芸どころ[23]名古屋市大須演芸場は、出演者側の支持が厚く、閉鎖の危機を幾たびも乗り越えながら存続し続けていたが、2014年2月3日に閉鎖された。[24]

全国的には、各県庁所在地ごと程度に寄席が分布した[25]。今はテーマパークで有名な漁師町・浦安にも寄席が二軒存在し、芸に厳しい浪曲の難所として全国の浪曲師に名を響かせた[26]北海道にも明治から昭和初期まで多くの寄席が存在した。現在は2代目桂枝光が中心となった地域寄席「平成開進亭」などを開いている。他地域も同様に地域寄席形態は多数ある。

ラジオの登場・エンタツアチャコ[編集]

寄席で用いられる道具・用語[編集]

  • 高座(板):寄席の舞台の事。
  • 定席:一年中落語が聞ける所。
  • 上下(かみしも、上手、下手):客席から舞台を見て右が上手(かみて)左が下手(しもて)
  • めくり:高座の下手に出演者の名前を書いた紙の札の事。
  • トリ:主任。楽屋において、給金を分配する人。舞台では出番の最後を飾る。
  • 寄席文字(寄席字):めくりに書く文字の書体。紺屋栄次郎が歌舞伎の勘亭流と提灯文字を元に字体を作る。橘右近により存続し、寄席文字橘流家元を名乗る。浅草演芸ホールでは別の字体を使ったことがある。
  • (のぼり):歌舞伎大相撲と同様に、入口近辺に多く並べられる。
  • 行灯(あんどん):入口近辺に主な出演者を知らせるために掲げられた。寄席文字は提灯(行灯)に書かれた文字が片方の由来である。
  • 出囃子落語家漫才師等が高座に上がる際にかかる、音楽。上方が発祥。
  • 下座(お囃子):出囃子を演奏する人。
  • 木戸口:寄席の入り口。見世物小屋や昔の芝居小屋と入場口の形態は同様であった。
  • 木戸銭:入場料のこと。
  • :一日毎の客の入りと演者の格に応じて支払われる給金。
  • 席亭:寄席の運営者や経営者の事。(浅草演芸ホールでは「社長」。)もともと席亭とは寄席自体を指し、主人を席亭主(または席主)と呼んだが省略されている。
  • お茶子:上方の寄席特有の楽屋で芸人を世話する役目の女性。高座で座布団をひっくり返す事も。
  • もぎり:入り口でチケットの半券を切る人。
  • 下足番(げそくばん):脱いだ履物の番をする人。畳敷きの客席が大半だった時代にあった役目。番組編成権を持つことも多かったという。
  • 五厘:席亭と芸人の間で出演を仲介する人。割のうち、5厘(0.5%)を天引きしたためそう呼ばれた。現在の芸人事務所の事。
  • 金ちゃん:客の事。
  • つ離れ:ひとつ、ふたつ、と数えると、ここのつ、とお、と10を超えると「つ」が付かなくなる事から(主に客数が)一桁でなくなること。
  • 1足(そく):百(人)をそく、と言い換えて客数が百人くらいのこと。

主な寄席[編集]

東京[編集]

うち上野と日本橋は落語芸術協会落語立川流により、両国は円楽一門会により、落語の定席も催されている。一方、新宿は講談も催されるがお笑いのライブハウスとして使われることが多い。
  • 国立演芸場(東京・千代田区隼町) - 国が文化の振興のために設立。平成15年に独立行政法人に。通常は落語定席と同様に、落語協会と落語芸術協会が交互に出演。毎年ゴールデンウイークに各出演者団体が企画公演する「大演芸まつり」が開かれる。
  • 浅草木馬亭(東京・浅草) - 浪曲定席。根岸興行部経営。木馬館1階。
  • 浅草フランス座演芸場東洋館(東京・浅草)- 浅草演芸ホールと同じ建物で、経営も同じく東洋興業株式会社。元ストリップ劇場。現在は色物の定席となっているが落語との混合番組も組まれており、また、毎年正月初席に落語協会の定席として浅草演芸ホールと併用される。
  • らくごカフェ - 東京・神田神保町。若手を中心に毎日に近いペースで開催。

その他[編集]

  • 横浜にぎわい座横浜野毛) - 横浜市営。貸席と市民寄席を融合した形。
  • 三吉演芸場(横浜市南区)-大衆演劇主体の劇場であるが、落語の番組も組まれている。横浜では、上記のにぎわい座と比肩する存在といえる。
上方落語の定席
富山の定席
以下は寄席の匂いを消した寄席である。出し物のなかに落語・講談・浪曲はほとんど入らない。
その他、寄席として使われている劇場と、イベントホールの寄席。

戦前に関西地方にあった落語の主な寄席[編集]

  • 桂派の定席の寄席
    • 金沢亭(大阪・ミナミ法善寺)
    • 幾代亭(大阪・船場淡路町)
    • 林家亭(大阪・岸和田大工町
    • 瓢亭(大阪・西区新町)
  • 三友派の定席の寄席
  • 花月派(吉本興行部)
    • 第2文芸館(大阪・北区天神橋)
    • 芦辺館(大阪・松島)
    • 龍虎館(大阪・福島)
    • 松井座(大阪・梅田)
    • 都座(大阪・天神橋筋)

大正に入り吉本興業は多くの寄席を(紅梅亭や賑江亭等)買収し名前に「花月」を付けた。大阪だけでも20あまりの寄席を買収、京都、神戸、名古屋、横浜、東京等にも寄席を展開した。

戦後も存在した寄席で現存しないもの[編集]

  • 市川鈴本(千葉県市川市)昭和20年後半から30年代にかけてあった。正岡容らが活動した。市川市真間1-23。マンション市川の近辺[27]

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 落語中心の寄席も色物席と呼ばれた
  2. ^ 一般社団法人落語協会. “寄席ってなあに?”. 2014年2月26日閲覧。
  3. ^ 日本演芸家連合
  4. ^ 寄席小屋と呼ぶが、現在ではほとんどが小屋ではなく鉄筋鉄骨の建物である。
  5. ^ 人が集まる場所という意味で、人足寄場と同様の用法である
  6. ^ 加藤秀俊「現代の寄席」『日本の古典芸能 9 寄席』
  7. ^ 参考:東京府寄席取締規則
  8. ^ 1873年(明治6年)9月13日 東京府、寄席取締につき指令。出典:小木新造『東亰時代』巻末年表
  9. ^ 1882(明治15年)2月 劇場取締規則公布 警察官、寄席に臨席開始。出典:倉田喜弘『明治・大正の民衆娯楽』巻末年表。
  10. ^ 復刻版付録「『東京案内』について」国会図書館司書・朝倉治彦
  11. ^ 上巻P.337~334
  12. ^ 同種のものに『東京百年史』に記載の1916年の寄席関係の数字
  13. ^ デロレン祭文→上州祭文と思われる
  14. ^ 出典:芸能史研究会編『日本芸能史7』
  15. ^ 現在の寄席は午後9時前後に終演
  16. ^ 吉本興業吉本せいが仕掛け人であったという。 出典:藤井宗哲『寄席 よもやま話』
  17. ^ 浅草木馬館の1階部分が昭和45年に浪曲の定席「木馬亭」になる直前までは、安来節の常打ち小屋であった
  18. ^ 職人の休日が1,15日の月2回から週休に変わったこと、それに合わせて当時勃興した活動写真が金曜入れ替えを実施したこと 出典:唯二郎『実録 浪曲史』P.23
  19. ^ なお、この他の参考書籍として、三遊亭圓生(著) 山本 進(編集)『寄席切絵図』 isbn=9784790501541 がある。
  20. ^ 三遊亭圓生『寄席切絵図』
  21. ^ 関西の吉田久菊が横浜の浪花節定席「寿亭」の倒壊に巻き込まれ客約二百名とともに死亡した。同席していた寿々木米若はかろうじて脱出した 出典:唯二郎『実録 浪曲史』P.30
  22. ^ 横浜にぎわい座 ご利用の手引き(pdf)
  23. ^ このように呼ばれていた(落語・浪曲など複数の演目に亘る)
  24. ^ 中日新聞社 (2014年2月3日). “大須演芸場に強制執行 賃料滞納で建物明け渡し”. 2014年2月26日閲覧。
  25. ^ 前橋・静岡・甲府・金沢などが三遊亭圓生「寄席切絵図」にも登場する
  26. ^ 出演者の実力不足を見るや、2階席から小便をかけたという。出典:『浦安町誌(上)』、梅中軒鶯童『浪曲旅芸人』、三波春夫『歌芸の天地』、『実録 浪曲史』
  27. ^ 市川市文学プラザ『昭和の市川に暮らした作家』p.60

関連項目[編集]

外部リンク[編集]