パラパラ

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パラパラは、20世紀末に日本で発祥した、主としての振りとの2ステップが特徴のダンスである。

目次

[編集] 概説

パラパラとは、ユーロビートを中心としたダンスミュージックにつけられる、左右ステップと上半身の動作を中心とした振り付けのことである。1曲に複数の異なる振り付けが存在する曲もあり、1980年代後半から、ディスコやクラブといった場所で踊られてきている。実際にはユーロビートだけではなく、トランステクノポップスなどの、他ジャンルの音楽でもパラパラを踊ることが多く、トランスにつけられたパラパラはトラパラ、テクノにつけられたパラパラはテクパラと呼ばれている。

[編集] 特徴

パラパラの振り付けは、上半身は2拍あるいは4拍からなるいくつかの基本的な動作とその組み合わせから、下半身は左右のステップから構成される。1曲の振り付けは、その基本動作の組み合わせを中心に構成されている。1曲中に現れる基本動作の数を減らし、同じ動作の繰り返しを多くすることにより、簡単なパラパラになる。逆に基本動作の種類を増やして繰り返しを少なくしたり、繰り返しの中に毎回変化を持たせる箇所をつくることによって、難しいパラパラが作られる。盆踊りの文化をもつ国民性にあったダンスとの指摘もある。[1]

[編集] 発生と歴史

[編集] 1987-1990年 第一次ブーム

1980年代後半(バブル時代)に大人が楽しめる高級ディスコとして当時としては画期的な青山「King&Queen」やマハラジャ麻布十番店など、いわゆるNOVA21系の高級ディスコにおける女性客の集客を主業務とする従業員である「黒服」と常連女性客の間で、パラパラが広まった。

当時のパラパラはレコード会社によるパラ振りビデオは存在せず、各店の黒服や常連が作っていたため店によって振りが違い、黒服に教えて貰うか通って見て覚えるしかなかった。

楽曲的には当時UK等で流行していたデッド・オア・アライブカイリー・ミノーグリック・アストリーバナナラマ、シニータなど、いわゆるPWL(ストック・エイトキン・ウオーターマンプロデュース)サウンドが中心で、パラパラは、当時のバブルの徒花・黒服の芸だった。

[編集] 1990-1992年 第一次氷河期/ジュリアナ東京開店、RaveTechnoブーム

1990年のバブル崩壊後、1991年5月に日商岩井が、ジョン・ロビンソンをDJに据え、芝浦ベイサイドの倉庫を改装して数千人収容の巨大ディスコジュリアナ東京」を開店。すると、一般客の多くはそちらに流れてしまった。露出度の高いボディコンにRaveTechnoに合わせ、お立ち台で扇子を振って踊るといったいわゆるジュリアナブームが訪れユーロビートの人気が全国的に衰える。

しかし青山「King&Queen」、マハラジャ麻布十番店等でコアな人々は引き続きパラパラを愉しんでいた。

[編集] 1992-1994年 第二次ブーム

ジュリアナ東京閉店に伴いマハラジャ等に客が戻り、第二次ユーロブームを迎えた。この時代も基本的には一次と同じで、パラパラは基本的に黒服とディスコの女性客集客道具だった。

一時はエイベックス主催の東京ドームイベントがパラパラ愛好者で満員になるほど、盛り上がりを見せ、地下鉄の六本木駅構内で女の子同士でパラパラを教えあう光景が普通に見られる程だった。しかし、下記のような変化が現われはじめていた。

  1. エイベックスによる新曲統一パラビデオ『パラパラ教典』シリーズの出現や「Twin Star」「XENON」「AREA」のハウスビデオの全国流布[要出典]などにより、パラパラの習得方法はビデオで自宅で覚えるのが一般化し、振り付けも複雑化した。
  2. 新曲ビデオが集客の道具となり競争になった結果、NOVA21系(マハラジャ・King&Queen・EDEN ROC)、熊谷組系(Twin Star)、ジョイパック系(XENON)、日拓系(AREA・RONDE CLUB・ARX)、大和実業系(RADIO CITY)、地方でそれぞれ同じ曲に別の振り付けが付いた。[要出典]
  3. ディスコ雑誌「Heaven's Door」が発行され、各店の常連の写真や新曲の振り付け紹介が掲載された。
  4. 後に第三次ブームの主力となるギャルが第二次ブームの終わりごろにようやく発生し、服装の流行も推移していた。しかし、この時代にはTシャツやルーズといったラフな服装だとドレスコードで入店を断られるのを覚悟せねばならなかった。[要出典]
  5. ビデオの流布とともに地方のヤンキーが流入を始め、黒服の芸から地方ヤンキーの踊りと目されるようになり、パラパラを踊るのはカッコ悪いという雰囲気が広がった。

1994-1995年に一般層も急速にハウス、レゲエ、次いで現代テクノへ転換するようになり、1995年頃第二次ユーロブームは終焉した。

[編集] 1994-1997年 第二次氷河期/現代テクノ・ハウス・レゲエブーム

欧米では1990年以降現代テクノが開花し、クラブの時代に入っていた。日本でも1994年頃から現代テクノやハウス関西ではレゲエを掛けるクラブが隆盛するようになった。ユーロビートをかける在来ディスコは1994-1997年に相次いで閉店に追い込まれてゆき、パラパラは第二次氷河期を迎えた。

1997年以降パラパライベントの店がなくなる状況の中で、コスプレ系のパーテイーでパラパラが流行する現象があった。また、横浜大黒埠頭違法競走型暴走族の人達によるパラパライベントが行われるようになった。

[編集] 1998-2001年 第三次ブーム

1998年、SMAPがバックダンサーにパラパラダンサーを起用しテレビ番組で露出が増えた。これをきっかけに、1980年代から 1990年代前半のパラパラが一世代下のギャルの人気を集め、1998-2001年にかけて神楽坂「Twin Star」と渋谷「9 LOVEJ 」、六本木「velfarre」及び芝浦「VENUS TOKYO」を中心に第三次ユーロブーム、いわゆるパラパラブームが巻き起こった。

しかし、スーパーフリー事件において、同サークルがパラパラをイベント集客に利用していたことが広く知れ渡ったためにイメージは悪化してしまい、ブームは収束に向かった。

[編集] 2001年-現在

エイベックスは第四次ブームを点火しようと、俄然パラパラの全国ツアーを行ったり、パラパラユニットのHINOIチームをデビューさせたり、テレビ番組への露出を図ったりした。しかし、第三次ブーム当時のSMAP程の大物のバックダンサーで採用されるに至っていない。また2004年頃より、流行の中心は既にパラパラからトラパラやテクパラに移行していることが、ギャル系ファッション誌でも取り上げられている[2]

2005年にはO-ZONEの「恋のマイアヒ」及びそのパラパラのヒットや長州小力によるNIGHT OF FIREのパラパラが話題になるなど、第四次ブームの火種となり得る現象があったが、ブーム再燃には至らなかった。

2006年、エイベックスのみならず、他各社からも単体、CDの特典、またはムックの付録などで教則DVDが数種発売されている。しかし、現在もブームに再度点火するまでには至っていない。

[編集] 参考

  • 2001年ごろに香港でパラパラブームが起こり、アーロン・クオック(郭富城)、セシリア・チャン(張柏芝)主演で『ParaPara櫻之花』もしくは『芭啦芭啦櫻之花』という映画が公開された。監督のジングル・マー(馬楚成)が2000年に映画『東京攻略』の日本ロケの際にパラパラを目撃し、映画化しようと考えたらしい。
  • 現在でも中国の一部では健康ダンスとしてパラパラが行われ、2004年6月には広州アジア競技大会招致のためのパラパラ大会が行われた[3]
  • 以前SMAP木村拓哉が番組『SMAP×SMAP』の1コーナーで「バッキー木村」なるキャラに扮し、アーティストNIKOの楽曲『Night of Fire』にのってディズニーのキャラクターと共にパラパラダンスを披露したことが第三次パラパラブームの始まりとも言われている。
  • 神楽坂のディスコ「Twin Star」は第三次ブーム時代にはパラパラの総本山とも言われた。流行最盛期には振り付け講習会が開かれ規定のレベルをクリアすると「マスターカード」と呼ばれる認定証が発行された。また教則ビデオも発売されていた。「Twin Star」は2003年8月に閉店、「同年秋より場所を変えて営業再開」と噂されたものの、以後何の音沙汰も無く現在に至る。

[編集] 脚注

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  1. ^ Amazon.co.jpの商品説明記事
  2. ^ ぶんか社『Ranzuki』2004年3月号、9月号
  3. ^ パラパラ大会を伝える記事(日本語)

[編集] 関連項目