ディスコ
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ディスコ(フランス語:disco)、または、ディスコテーク(フランス語:discothèque)とは、音楽を流し、客にダンスをさせる飲食店である。時には生バンドが演奏する場合もあるが、語源から言っても、ほとんどの場合はレコードを流す。選曲や曲紹介を行うDJの役割が重要である。現在のクラブ音楽でディスコと言う場合は、かつてニューヨークに存在した伝説的なゲイ・ディスコ、パラダイス・ガレージ、ギャラリーなどでプレイされていた様々なジャンルの音楽、またそれらのディスコでのDJの特異なスタイルを指し、今現在でも様々なスタイルに変化しつつ、未だに進化を続けている存在であり、現在ガラージュと呼ばれる音楽の元となったものである。しかし現在の日本ではクラブという形態に流行が移り、一般的にディスコといった場合、過去に存在していた飲食店の形態や風俗を指す。
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[編集] 起源
ディスコの語源となったのはフランス語のdiscothèque(ディスコテーク、または、ディスコテック)であり、マルセイユの方言で「レコード置き場」の意味であった。形態としては第二次世界大戦中に生バンドの演奏が困難となったナイトクラブでレコードを代わりに掛けるようになったのが始まりであり、第二次大戦後にパリにラ・ディスコテークと呼ばれるクラブが出現したことにより定着した。
この生バンドの代わりにレコードを掛ける「ディスコ」(もしくはクラブという形式)が本格的な発展を遂げたのは60年代以降のアメリカのニューヨークのゲイ・シーンである。客層はゲイの黒人・ヒスパニック系などのマイノリティが主流であり、掛けられる音楽はファンクやソウルミュージックや特にフィラデルフィア・ソウルと呼ばれる滑らかなリズム・アンド・ブルースや、それらをベースにした音楽であった。こうしたディスコはゲイ男性のための発展場としての役割とアンダーグランドな黒人音楽の発展の場としての二つの面を持っていた。こうしたディスコとして有名なものにパラダイス・ガレージ、セイント、フラミンゴ、ギャラリーなどが挙げられる。いずれもゲイの男性を対象としたメンバーズ・オンリー(女性や非メンバーはメンバーのゲストとして入場する事ができた)のディスコであり、ニューヨークでも特に進んだファッショナブルで流行に敏感なゲイの男性たちが集まっていて、流行の発信地でもあった。この中でもっとも有名であり、後世に影響を与えたのパラダイス・ガレージとそのメインDJ、ラリー・レヴァンである。現在のクラブ音楽の基本的パターンである、DJがヒット曲ではなく自らの個性を発揮した選曲で独特の世界を作り上げて客を躍らせるというスタイル、二枚のレコードをミックスして継ぎ目なくレコードを演奏するスタイル、既にある曲をリミックスしてダンス向きにする手法、家で聞くためではなくクラブで掛けるためだけに製造される12インチのシングル盤といった形式などはこの時期に前記のラリー・レヴァンやエンジニアのウォルター・ギボンズ達によって確立された。やがてラリー・レヴァンやフランソワ・ケヴォーキアンなどの有名ディスコDJ達はレコードを発掘するにとどまらず、自らダンスのためだけに特化したレコードを、プロデューサーとして多数リリースしたり、リミックスを手がけるようになる。ダンスフロアとダンサーの心理やツボを知り尽くした彼らは、それまでの音楽プロデューサーが思いもよらなかったような様々なテクニックやスタイルを導入した。こうしたダンス・レコードをリリースしてディスコ文化を支えたレコードレーベルとしてはサルソウル、カサブランカ、ウエスト・エンドなどが挙げられる。
やがてゲイが社会的に認知されると社会の多方面に堂々と進出すると同時に、このディスコ音楽も表舞台へと登場し、ゲイ以外の一般のリスナーにも聞かれるようになる。1970年代にはアメリカのテレビ番組であるSoul Trainの人気が沸騰した影響で、ほぼ同時多発的にディスコ・ブームが世界的に巻き起こり、大都市のみならず全米でディスコ・クラブが登場し、一般人が押し寄せるようになり、ヒットチャートの上位を独占するようになる。しかし粗製濫造された質の低いレコードや流行の一過、また中核を担ったゲイ音楽シーンがエイズにより壊滅的な被害を蒙ったことにより、ディスコ・クラブという形態は次第に姿を消す。ディスコブームの終焉により再びアンダーグランドな物へと回帰し、現在のクラブ音楽へと変貌していく。
日本へと輸入されたディスコとはこのディスコ・ブームの時の白人大衆向けにコマーシャル化されたものであり、ゲイや黒人音楽の要素は非常に薄いものだった。このため日本ではディスコという言葉はかつての風俗としてのディスコと、現在のクラブ音楽の源流としてのディスコの二つの意味が存在している。
以下に述べるのはそうした日本独特の風俗としての「ディスコ」である。
[編集] 日本でのディスコの歴史
[編集] 1960年代-1970年代
日本では1960年代にオープンした渋谷の「クレイジースポット」や新宿の「ジ・アザー」が最初とする説がある。しかし一般的には1968年に赤坂に出来た「ムゲン」「ビブロス」がディスコの走りといわれている。当時、生バンド演奏にあわせてダンスを踊るゴーゴー喫茶が流行しており、ゴーゴーガール目当てに通う者もいたが、それらの店とは一線を画して主に芸能人やモデル、富裕層や外国人客を主な客層としたことで、一気に時代を先んじた存在に上りつめた。当時の「ムゲン」は、川端康成や三島由紀夫、三宅一生などの時代の先端を行くそうそうたるメンバーで賑わっていたという。この頃は生バンドとレコードの両立だったのが、1971年六本木にオープンした「メビウス」が日本で最初にレコードのみで営業した。これは生バンドの人件費を抑える為におこなった行為だったが、結果としては現在のディスコやクラブと同じくレコードのみのスタイルとなっている。
その後、ジョン・トラボルタ主演の映画「サタデー・ナイト・フィーバー」(1977年)が大ヒットし、新宿、渋谷、上野、池袋などの繁華街に多数のディスコが開業し、夜遊びの趨勢は完全にディスコに移った。大勢の「ディスコでフィバる」(熱狂すること。現在では死語)若者を生んだ。
[編集] 1970年代-1980年代
1970年代後半から1980年代前半にかけては、ディスコの定番音楽となる名曲が数多く生まれた時代でもある。ABBAやBee Gees、Chic、Boys Town Gangなどが歌うこれらの曲は、後にはディスコクラシックと分類され、根強いファンを持つようになった。(西城秀樹が青春歌謡ポップス曲「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」としてカバーしたヴィレッジ・ピープルのヒット曲「Y.M.C.A.」などは、球場等で流れ、応援ソングになっている。2006年現在)
また、この時期には、YMOのもたらしたテクノブームが新宿のディスコにも多大な影響を与え、一時期はテクノカットと呼ばれる、YMO風にもみ上げを水平にカットした散切り頭に、JUNやROPEのモノトーンスーツがフロアのダンサーの大半を占める潮流もあった。また後には、マッドネス、スペシャルズなどのツートンスカが流行し、新宿ではツートーンチェックも流行の中心となった。
この頃の日本では、新宿の「ツバキハウス」、「ワンプラスワン」、上野の「ブラックシープ」、浅草の「シャトー」などが有名であったが、1982年、中学3年生の少女がディスコの帰りに殺害される「新宿ディスコ殺人事件(未解決。97年時効成立)」が起こったことから、深夜営業の禁止・未成年者の入店規制など取締りが強化され、新宿のディスコは衰退した。
原宿の歩行者天国(ホコ天)でラジカセを囲み奇抜な衣装で踊る竹の子族が流行ったのもこの頃である。
[編集] 1980年代初期(サーファーディスコブーム)
この頃のディスコブームを象徴するのが六本木スクエアビルである。地下2階から10階までの1Fと4Fを除く全てのフロアがディスコになった。中でもNASAグループの「ネペンタ」「ギゼ」、六本木「エリア」の前身である日拓系列の「マジック」が有名である。六本木スクエアビル以外では、伝説的な存在となった六本木「キサナドゥ」、外人顧客が中心の老舗「レキシントンクイーン」などが、JJ誌やFine誌などの雑誌メディアに紹介された。新宿ディスコでは「ゼノン」でお馴染みのジョイパックグループの渋谷「ラ・スカーラ」が人気店となった。これらディスコに共通するのがサーファーブームに乗った「サーファーディスコ」である。そしてこの頃のディスコの主役はなんといっても女子大生であった。田中康夫の「なんとなく、クリスタル」や深夜番組「オールナイトフジ」が大きな影響力を及ぼした時期であった。ファッションはスポーツ系のブランド服を基本としてレイヤードのヘアースタイルが特徴である。具体的には、女子高生を中心に流行したデイバックのキーホルダーアクセサリや、ファーラのパンツ、裏地アロハ、ペインターパンツなどが例に挙げられる。六本木を震源地に広がったサーファーディスコブームであったが、当時の流行偏差値の高かった六本木地域から、徐々に渋谷、新宿と偏差値の低い地域に文化が移転するにあたり、大衆化が進み、そのパワーは次第に廃れていった。新宿の「PUKA PUKA」はそんなサーファーディスコの最後の砦であったが、ブームの終焉から、次の世代の新たな文化の兆しを生み出す貴重な店舗であったとも言える。
そして一大ブームを起こしたサーファーディスコもカフェバーやプールバーの人気と共に終焉を迎え、ひと時のディスコの冬の時代が訪れる。
[編集] バブル経済期(高級ディスコブーム)
代わって1980年代中期から六本木周辺では、比較的大規模で豪華な内装を売り物にした高級ディスコが隆盛し、全国展開したNOVA21グループの麻布十番「マハラジャ」、青山「キング&クイーン」やパチンコ業界で有名な日拓系列の六本木「エリア」「シパンゴ」などが人気店になった。六本木周辺では「マハ・エリ時代」、全国的には「マハラジャ全盛時代」と呼ばれた。また大和実業グループの日比谷「ラジオシティ」はOL・サラリーマン専門ディスコで、男性はドレスコードによりスーツ・ネクタイ着用の上、身分証明書(社員証)を提示しないと入店できない店であり、一流企業の社章を着け店内で名刺を配るバブル世代の男性サラリーマンの光景がよく見られた。
これらの店は内装に数億円掛け大理石や真鍮を使用した豪華絢爛な店内、コンサートホール並みの音響や照明機器、女性の踊りがより目立つためにお立ち台を設置、一般席と区別したガラス張りVIPルームの併設、従業員によるホテル並みの丁寧なサービス、本格的なシェフを迎えての高級レストラン並みの料理、来場者の男性同士の入店拒否やジーンズ不可などの服装チェック、店の雰囲気にふさわしくない客の入店拒否(規制)を行い、高級感と非現実空間を出すことで従来のディスコとの差別化を図り、新たな客層を獲得していったバブリーディスコである。
このような高級ディスコはモデル並みのイケメン従業員に化粧をさせ、階級別に色分けされた派手な制服を着てアイドル並みに振舞うウェイターやDJを目当てに女性客が押し寄せる。また黒服(役職付き従業員)がモデルや常連女性客に入店のフリーパスやサービスドリンクを振舞うなどの優遇措置を取り、ダンスフロア入口近くのLV席(レディースVIP席)に座らせたりお立ち台で踊らせて目立ちさせ、入店してきた男性客にいい女がいっぱいいる店と錯覚させる手段をとっていた。そうした女性客を目当てに集まった男性客から高額な入場料(当時4000~5000円)やVIPルームチャージ料を取るといったいわゆる「花のある所に蝶が集まる」商法が当時の高級ディスコの集客システムであった。
この高級ディスコブームにより多くの高校生(一部の「お坊ちゃん校」、「お嬢さま校」の生徒を除く)や10代は「子供」としてドレスコードで締め出され、新宿や渋谷などの一般大衆ディスコでしか遊ぶことができなくなった。そのおかげで六本木周辺などのディスコは大人が安心して遊べる社交場となり、それまでのディスコとは不良が集まる場所といったイメージを一新させ、一般の人達がお洒落して行く流行の発信スポットとして認知されるようになった。こういった高級指向は、当時のバブル景気下の若者のセンスにもマッチしていた。
初期は女性のファッションはDCブランドが中心で「ピンキー&ダイアン」「ロペ」「ジュンコシマダ」などのボディコンやスーツにエルメスのスカーフやシャネルのチェーンベルトを巻きワンレンやロングソバージュにクリスチャン・ディオールの「プアゾン」をつけるのが定番スタイルで、男性は「コム・デ・ギャルソン」「ワイズ」「アーストンボラージュ」などのDCブランドスーツにシャネルの「アンテウス」をつけるのが人気だった。ちなみにディスコで「ジョルジオ・アルマーニ」などのイタリア系ブランドスーツが流行るのは1980年代後半から1990年代前半になる。
また、この頃には都内の大学生イベント系サークルが開催するディスコの貸切パーティーが盛んになり大学などでパー券をさばく光景がよく見られ、多くのディスコにとって良い収入源となった。それらの学生には「カレッジカード」と称される割引カードが配られていた。この頃の学生達に人気があったのが三倶グループの渋谷「J トリップバー」。この「J トリップバー」は苗場のスキー場にも出店した。
1980年代中期からのディスコの曲は、よりポップス調を強める一方で、デッド・オア・アライブ、リック・アストリー、カイリー・ミノーグ、バナナラマに代表されるストック・エイトキン・ウオーターマン(PWLサウンド)によるプロデュース作品や、マイケル・フォーチュナティなどのイタリアからのユーロビートに代表されるような、コンピュータを用いた打ち込み系の音楽が多く使用され始めるようになる。日本の歌謡曲に似たメロディータッチに単調なリズムとビートを強調した超アップテンポなこれらの曲が日本人にマッチし大人気となり、これがいわゆる第一次ユーロビートブームで邦楽でも荻野目洋子、BaBe、Winkなどがユーロビートの曲をカバーし大ヒットする。そしてこのユーロビートから生まれた振り付けダンスがパラパラである。
しかしバブリーディスコが浮かれていた1988年に六本木「トゥーリア」で大惨事が起きた。「MZA有明」大阪「ゲネシス」を手がけた空間プロデューサーの山本コテツなどが演出し、鳴り物入りで登場したばかりの店であったが、電動で上下する巨大照明装置(1.6t)が吹き抜けの天井から落下し、3人が死亡、負傷者多数を出す事故が発生した。(六本木ディスコ照明落下事故)
[編集] 1980年代後期-1990年代前期(ウォーターフロントブーム)
全国各地に高級ディスコが乱立したバブル絶頂期、流行の仕掛け人である空間プロデューサー達は次なる視点を湾岸エリア(ベイサイド)に向けた。これはバブルの影響により土地が高騰しディスコで必要とされる200坪以上の物件が出なくなったのと、出ても家賃が高額だったため湾岸地区の空いてる安い倉庫や土地を利用し巨大ディスコを造りあげた。 1988年「MZA有明」を筆頭に「オーバー2218」「サイカ」「ゴールド」「横浜ベイサイドクラブ」と次々にオープンする。またディスコ以外でもレストランやバーがこのベイサイドに展開された。これら共通の特徴は一見普通の倉庫にしか見えない外見が、中に入ると非現実世界を思わせるお洒落な空間になっており、このミスマッチな組み合わせが話題を呼びウォーターフロントブームを巻き起こした。またディスコ=ユーロビートだった音楽がハウスやニュージャックスウィングやブラックなど店のコンセプトに合わせて音が枝分かれ始めた時でもある。しかし車でしかアクセスできない不便なロケーションでもあったため、集客は伸び悩みバブル崩壊と共に各店閉店に追い込まれた。そしてウォーターフロントブームを引きずるように「ジュリアナ東京」がオープンする。
[編集] 1991-1993年(ジュリアナ東京ブーム)
バブル崩壊が始まった1991年、東京都港区芝浦に外資系の巨大ディスコ「ジュリアナ東京」がオープンした。外国人DJジョン・ロビンソンによる本格的なMCで、ユーロビートに代わって人気がでたテクノサウンド(レイヴテクノ)が流れた。やがて、マスコミで取上げられる中でボディコンの女性たちがジュリ扇と呼ばれた羽根付き扇子を振り回し、巨大お立ち台で踊るといったブームが生まれた。このジュリアナ東京ブームのファッションは1980年代中期以降のDCブランドによる上品なボディコンと違い肌を露出した過激なボディコンが特徴で、中にはより露出度を強調するために手作りしたボディコンを着る女性まで現れた。こうした過激なボディコンでTバックなど下着が見えるのも構わずに先を争ってお立ち台に上がるといった光景を目当てに男性客が押し寄せるといった異様な熱気となった。この過激な光景はマスコミやメディアによってクローズアップされジュリアナ東京ブームは地方にも飛び火し、人気が衰えていた地方店の「マハラジャ」「キング&クイーン」などではスーパーお立ち台を増設してジュリアナ東京ブームに便乗し全国的に再人気が出る。また赤坂「ロンドクラブ」では「日拓舞踊宴」と称しボディコンだと入場料が100円になり過激さに拍車を掛けた。そしてこのようなブームで荒木久美子(荒木師匠)、麗舞、きしめんダンサーズなどのカリスマ女性も生まれた。
ジュリアナ東京ブームの主流となっていた音はいわゆる「ジュリテク」や「レイヴテクノ」と呼ばれ、現在のテクノとは異なりどちらかといえばユーロビートにも近いサウンドである。当初はT99「ANASTHASIA」、LAスタイル「JAMES BROWN IS DEAD」、2アンリミテッド「TWILIGHT ZONE」などが代表されるインスト的なヒット曲が多かったがエイベックスによる「EXPLOSION」「CAN'T UNDO THIS!!」などの和製ジュリテクが生まれ、さらにジョン・ロビンソン自ら唄う「TOKYO GO!」でブームの頂点となりエイベックスから出たCD「JULIANA'S TOKYO」シリーズが驚異的セールスを記録した。
この空前のジュリアナ東京ブームは、名古屋などの地方が東京より過激になり露出競争はとどまることがなく、とうとうニップレスや下着のみだけで踊る女性まで現れその光景はストリップに近いものになる。そしてジュリアナ東京では余りに品のない露出競争に嫌気をさした純粋にダンスを楽しむ常連客の急速な客離れや大家との内紛(湾岸の倉庫を格安で借りて、豪華な設備とDJとメデイア戦略に投資して集客していたが、儲かるのを見た倉庫主が大幅な家賃引き上げに走ったという)や世論の批判や警察の指摘もあって巨大お立ち台は撤去され、クリスタルステージが設置されたが集客と熱気は戻らず1994年に閉店した。閉店日は感謝と称し入場料が無料となったこともあり全国からジュリアナ東京の閉店を惜しむファンが詰めかけ、数千人入る巨大ディスコにも収容しきれず田町駅から行列ができ、アンコールの声が閉店翌日の昼過ぎまで続いたという。
ちなみに現在でもメディアがバブル景気を紹介するときにこのジュリアナ東京のお立ち台で扇子を振ったボディコン女性たちの映像を出すが、実際はこのジュリアナ東京ブームはバブル崩壊後の光景である。
[編集] 1992-1997年(第二次ユーロブームとクラブの台頭)
ジュリアナ東京のレイヴテクノの影響により冬の時代を向かえていたユーロビート。しかし1992-1994年まで第二次ユーロブームが神楽坂「ツインスター」や六本木「エリア」を中心に起こった。この頃のユーロビートを湾岸系ユーロと呼ぶこともある。これはNOVA21グループの浦安「エデンロック」「ロイヤルトン」がジュリアナ東京ブームの最中でも独自にユーロビートを押し続け、両店の店名に「TOKYO BAY(湾岸)」が冠していたことから湾岸系ユーロと呼ばれるようになった。この第二次ユーロブームの特徴は何と言っても「パラパラ」である。店ごとに振り付けが違ったり、サビの部分しかパラパラがなかった第一次ユーロブーム時とは違いパラパラビデオの普及により振り付けが統一され、曲の最初から最後まで複雑な振り付けが付いたのが特徴である。さらにエイベックスからリリースされたCDスーパーユーロビートが順調なセールスを出し、極めつけはエイベックス主催の東京ドームイベントで全国から集結したパラパラ愛好者でドームが満杯に成る程であった。この頃のファッションは「ルナマティーノ」や「ベルサーチ」が人気で、中でもこの「ルナマティーノ」を着たカリスマダンサー「ルナ軍団」が話題となる。
しかしジュリアナ東京が閉店した1994年、六本木に最後の大型ディスコと呼ばれた「ヴェルファーレ」がオープンするも、この頃から自分に合った音を求めるコアな常連客だけで営業が成り立つクラブが主流を占めるようになり、いわゆる「ディスコ」から「クラブ」に変化した時でもある。集客スタイルも豪華な店や黒服からDJやオーガナイザーに変わり全国的に大型店が閉店しディスコ時代の終焉となる。
[編集] 1998年(第三次ユーロブーム)
1994年以降 日本のダンスシーンの主体はディスコからクラブ に移行したが、1998年SMAPがバックダンサーにパラパラダンサーを起用しTVで露出が増えた事をきっかけに、80年代から 90年代前半のパラパラが一世代下のギャルの人気を集め、1998-2001年にかけて第三次ユーロブーム(所謂パラパラブーム)が巻き起こった。 しかし、現在のトランスシーンの荒廃と同様、低年齢層・大衆層でのブームは両刃の剣であった。エイベックス社と「TwinStar」の極端な商業主義によりミッキーマウスマーチにまでパラパラが付く有様になると、1980年代から続けていたコア層の反発を招いた。更にスーパーフリー事件に於いて同サークルが当時流行していたパラパラをイベント集客に利用していたためにパラパラのイメージの悪化は決定的となり、ギャル層がパラパラからトランスに移動すると商業的にも壊滅的状況に陥り、最後に残った大箱「TwinStar」は閉店した。
なお、第三次ブームの時期に、台湾及び香港でも、日本のアニメ等と並んで日本のデイスコ文化・ストリートダンスとしてパラパラが注目され流行するに至った。都市圏人口3000万の東京が発展途上国の都市と同様、自分より小規模な都市でしかないニューヨークやロンドンのダンス文化を一方的に受信して真似ていたのに対して、新しい音楽形態を海外に輸出できたのはエイベックス社の行跡の功績面といえるが、アニメ等と異なり日本本国の第三次ユーロブームは腰砕けになってしまい、香港・台湾でも風化しつつある。
現在、都内のディスコは、風俗営業法と東京都条例で営業は午前1時までしか認められていない。このため、開店当時はアルコールだけでなく、食事も提供し、表向きは飲食店として届け出をする店舗も多い。のちに食事を出さなくなったり、こっそり営業時間を伸ばしていく。スケジュールに「10:00-MID NIGHT」と書かれているのは、本来は1時に営業終了しなくてはならないから。4月に閉店するディスコやクラブが多いのは、人事の月でもあり新任の警察本部保安部長や署長の方針で、違法営業を摘発される店舗が増えるからである。
また2005年、東京六本木で最大級のディスコ「Velfarre」を経営するエイベックスは、「六本木のディスコ営業を明け方まで許可してほしい」と要望。「ロンドンやニューヨークのディスコは明け方まで営業している。近年、六本木地区のディスコは半減しているが、明け方まで営業すれば衰退に歯止めがかかる」と説明。いわゆる「ディスコ特区」を都に要望したが2006年2月、警察庁が「犯罪の温床になる可能性がある」として見送りになった。エイベックスは「ディスコは文化的なレジャー施設」とし、同年6月に再申請したが認められなかった。
その後「Velfarre」は12年の定期借地権満了で2006年12月に閉店された。
[編集] 2005年以降(オールディーズライブハウスとの融合)
2005年以降、ディスコは、団塊の世代の憩いの場としてその方向性を模索してきたオールディーズライブハウスと融合し、新たな社会的、文化的潮流を興隆しつつある。それまで1950年代から1970年代のオールディーズを中心に生バンド演奏を行ってきた店が、主要な顧客層の老齢化から、新たなターゲット層を模索してきた中で、ダンスフロアのスペースを広げ、1980年代のファンクを生バンドで聴かせ、躍らせる店が出現してきている。チークタイムの伝統さえも守っている店舗もある。主流は六本木、銀座、新宿にあるKENTSである。
[編集] チークタイム
ディスコ、特に1970年代~1980年代初期の特徴の1つに、チークタイムがある。店のボルテージが最高潮を迎え、全力を出し切って踊った後に設けられる、チークダンスの時間である。様々な色をきらめき放ち、空間を鮮やかな光線でみたしていたミラーボールが一転、メローな曲とともに、穏やかな光を投げ始めると、男女が抱き合わんばかりに密着して体を前後に揺らし始める。実に粋で、素敵な計らいの文化だが、残念ながらディスコの衰退とともに、今では昔話になりつつある。
当時としては、つのだ☆ひろの「メリージェーン」が非常に有名であった。この曲は当初の発売枚数6000枚と、ヒットはしていないものの、ディスコのチークタイムで流されることで名曲となった、珍しい楽曲である。
[編集] ディスコ好きとされる著名人
- 青田典子
- 荒木師匠
- アン・ルイス
- 飯島愛
- 泉麻人
- 神田うの
- 小林克也
- 志村けん
- SOUL'd OUT
- だいもん孝之(放送作家)
- 武田修宏
- 田中康夫
- デーブ・スペクター
- 徳大寺有恒
- とんねるず
- 中森明菜
- パパイヤ鈴木
- ピストン西沢
- ブラザー・コーン
- 三浦知良
- 美勇士
- ラモス瑠偉
- RIKAKO
- リリコ
- 中村獅童
[編集] 関連項目
- ディスコアーティスト一覧
- レイトンハウス
- マツケンサンバ
- ハウス・オブ・マウス
- バブル世代
- イベント系サークル
- ナンパ
- リック・アストリー
- ストック・エイトキン・ウオーターマン
- 日の出営業
- ダンス甲子園
- ソウルとんねるず
- トラパラ
- Club Vanilla

