歌舞伎座

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歌舞伎座 (第5期)
Kabuki-za

歌舞伎座(2019年撮影)

地図
情報
完成 2013年2月26日
開館 2013年4月2日
開館公演 歌舞伎座新開場
杮葺落四月大歌舞伎
収容人員 1,964人
設備 売店飲食店
用途 歌舞伎
運営 株式会社歌舞伎座
所在地 104-0061
東京都中央区銀座四丁目12番15号
位置 北緯35度40分10.3秒 東経139度46分4.8秒 / 北緯35.669528度 東経139.768000度 / 35.669528; 139.768000 (歌舞伎座 (第5期)
Kabuki-za
)
座標: 北緯35度40分10.3秒 東経139度46分4.8秒 / 北緯35.669528度 東経139.768000度 / 35.669528; 139.768000 (歌舞伎座 (第5期)
Kabuki-za
)
アクセス 東京メトロ日比谷線都営地下鉄浅草線東銀座駅すぐ上
東京地下鉄各線銀座駅徒歩10 - 15分
外部リンク 歌舞伎座ホームページ
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株式会社歌舞伎座
Kabuki-Za Co.,Ltd.
歌舞伎座定紋「鳳凰丸」
種類 株式会社
機関設計 監査役会設置会社
市場情報
東証スタンダード 9661
1952年7月1日上場
本社所在地 日本の旗 日本
104-0061
東京都中央区銀座四丁目12番15号
北緯35度40分10.3秒 東経139度46分4.8秒 / 北緯35.669528度 東経139.768000度 / 35.669528; 139.768000
設立 1949年11月21日
業種 サービス業
法人番号 1010001034763 ウィキデータを編集
事業内容 演劇、演芸、映画その他各種の興行及び食堂、売店、運動又は娯楽施設の経営
不動産の賃貸、管理、売買及び駐車場の経営 他
代表者 我孫子正(代表取締役社長)[1]
資本金
  • 23億6518万0000円
(2023年2月28日現在)[2]
発行済株式総数
  • 1217万株
(2023年2月28日現在)[2]
売上高
  • 連結: 27億0199万4000円
  • 単独: 19億3307万4000円
(2023年2月期)[2]
営業利益
  • 連結: △2507万9000円
  • 単独: 2億1371万0000円
(2023年2月期)[2]
経常利益
  • 連結: △317万4000円
  • 単独: 2億4270万3000円
(2023年2月期)[2]
純利益
  • 連結: △7840万0000円
  • 単独: 1億6491万2000円
(2023年2月期)[2]
純資産
  • 連結: 106億2478万1000円
  • 単独: 103億3994万0000円
(2023年2月28日現在)[2]
総資産
  • 連結: 242億5685万9000円
  • 単独: 237億1026万9000円
(2023年2月28日現在)[2]
従業員数
  • 連結: 45人
  • 単独: 13人
(2023年2月28日現在)[2]
決算期 2月末日
会計監査人 新創監査法人[2]
主要株主
主要部門 連結:不動産賃貸業
単独:不動産賃貸業、食堂・飲食事業、売店事業
主要子会社 歌舞伎座サービス株式会社(連結子会社) 100%
外部リンク https://www.kabuki-za.co.jp/
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歌舞伎座(かぶきざ)は、東京都中央区銀座4-12-15にある歌舞伎専用の劇場である。火災や戦災に遭うなど様々な変遷はあったが、今日に至るまで名実ともに代表的な歌舞伎劇場として知られる。

歌舞伎座は1889年(明治22年)に開場した。従来の劇場は地名や座元の名を冠するのが例であり(新富座中村座など)、「歌舞伎座」という名称は異例であった。「歌舞伎座」とはもともと普通名詞として用いられた言葉で、「卑賤視されていた小芝居の対極にある権威ある大芝居の劇場を意味していた」[3]。現在の歌舞伎座設立にあたり「その普通名詞を、福地桜痴は固有名詞として天下に示したのである」[3]。しかしこれは間違いで普通名詞としての用法はなかったという説もある[要出典]

歌舞伎座は大正時代から松竹の直営で経営を行ってきた。4度建て直されており、2014年現在のものは5代目のものである。「株式会社歌舞伎座」(: Kabuki-Za Co.,Ltd.[4])が劇場を所有している。

歴史[編集]

近代劇場として開設[編集]

歌舞伎座は、明治演劇改良運動の流れを受けて開設された。この運動の提唱者の一人でジャーナリストの福地源一郎(福地桜痴)と金融業者の千葉勝五郎の共同経営で、1889年(明治22年)、東京市京橋区木挽町に開設された(第1期)。

それまで最も大きな劇場は新富座で、舞台の間口が8間あったが、歌舞伎座は13間と大きく広がった。また照明には当時最新技術だった電灯を採用するなど、それまでの劇場をはるかにしのぐ近代劇場となり、これを危惧した新富座・中村座市村座千歳座が「四座同盟」を結成して開場当初の歌舞伎の興行に掣肘を加えたことがあった。

福地はまもなく借金問題が浮上したことにより経営から離れ、歌舞伎座の座付作者として活歴物新舞踊劇の脚本を多数執筆した。そしてそれらを演じた九代目市川團十郎五代目尾上菊五郎初代市川左團次らの名優が舞台に立つ歌舞伎座は、いわゆる「團菊左」の明治の歌舞伎黄金時代をもたらして文字通り歌舞伎の殿堂となった。 1896年(明治29年)に歌舞伎座株式会社として株式組織化、皆川四郎が社長、井上竹次郎が副社長に就任した[5]大河内輝剛が社長を務めていた1907年(明治40年)春に、内外を修繕改築している。

1911年(明治44年)3月には、開場した帝国劇場に対抗するため劇場の純和風化改修工事を行い、同年11月に再開した(第2期)。この間に経営陣が分裂し、関西から東京進出を狙っていた松竹による株の買収が行われた。役員の田村成義がいったん株を買い戻したものの、1913年大正2年)に病気のためやむなく手を引き、松竹の大谷竹次郎が経営を握った。一方の田村は二長町市村座の経営に専念、これが後に「二長町時代」と呼ばれる大正の歌舞伎全盛時代に繋がった。

1921年(大正10年)10月、歌舞伎座は漏電により焼失した。大谷は田村成義の後継者・田村寿二郎の好意により市村座を借りて興行を継続しつつ、直ちに歌舞伎座の再建工事を行うことにした。1923年(大正12年)9月には建物躯体が完成したところで関東大震災に遭い、積み上げてあった内装用の桧材が全焼、工事は中断した。その後工事を再開し、1924年(大正13年)12月に竣工した。

歌舞伎座」 福地源一郎(1841 - 1906 号は桜痴)が演劇改良の場として、明治22年(1889)11月21日に開場させた劇場。興行師の千葉勝五郎(1834 - 1903)が出資したが、29年(1896)に売却され株式組織となった。市川団十郎(九世、1838 - 1903)、尾上菊五郎(五世、1844 - 1903)らが常に出演し、歌舞伎のひのき舞台として格式を守り続けた。歌舞伎座の座紋「鳳凰丸」が描かれていて、「明治22年11月23日 歌舞伎座」と記された紙片が書き写されている。 — 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「歌舞伎座」より抜粋[6]

歌舞伎の殿堂として[編集]

1925年(大正14年)1月、新築の大劇場で開場式が行われた(第3期)。舞台も約15間とさらに広がり、豪華な施設は関東大震災から復興した東京の新名所となった。1931年(昭和6年)、歌舞伎座株式会社は明治座新富座松竹と合併し、松竹興行株式会社になった。

第二次世界大戦で戦況が激しくなると興行も中止され、建物は1945年(昭和20年)の東京大空襲で全焼、大屋根も焼け落ちた。

戦後しばらく、歌舞伎座は廃墟の姿をさらしていたが、1949年(昭和24年)大谷竹次郎により新たに「株式会社歌舞伎座」が設立され、松竹から建物を譲り受けて復興工事を行った(土地所有及び歌舞伎興行は松竹が行う)。1950年(昭和25年)12月に竣工し、翌1951年(昭和26年)1月に歌舞伎などの演劇興行を再開した(第4期)。復興にはGHQマッカーサーの副官であったフォービアン・バワーズの尽力が大きかった[注 1]

舞台の緞帳は、東郷青児作『女の四季』。24尺×98尺という大作[7]で、1951年8月以降に完成したもの。

1980年代までは歌舞伎公演以外にも、萬屋錦之介特別公演、大川橋蔵特別公演、松竹歌劇団のレビュー、小林旭新春公演(1965年)、20年間に渡り恒例公演だった三波春夫座長公演、森昌子引退公演、「年忘れにっぽんの歌」(テレビ東京主催)などの番組収録を含め、興業が行われた。しかし1993年(平成5年)以降、松竹会長(当時)永山武臣の方針により「歌舞伎の本拠地」として原則通年で歌舞伎を興行することとなり、現在に至っている。例外は、1994年に開催された三波春夫芸能生活55周年記念リサイタル、隔年開催されている俳優祭(歌舞伎役者出演のイベント)と2005年(平成17年)に松竹110周年を記念して開催された松竹STAR GATEというオーディションなどがある。

特色[編集]

かつては多くの小都市にも芝居小屋があったが、時代の流れとともにその数は少なくなってしまった。近年になって、文化財保護や町おこし、村おこしなどの目的で、古くからある歌舞伎劇場の維持・整備に力を入れている自治体もでてきた。それでも、都市部では、客席数1,000人を超える大劇場は、単独施設ではなく規模の異なる複数のホールを併せ持つ複合ホール、またはホテルやビジネスビルなど複合施設に入居する形式が主流となっており、歌舞伎座は単独の施設としての大劇場という点で、今日では稀な存在である。

定紋[編集]

鳳凰丸
原形は法隆寺宝物「鳳凰円文螺鈿唐櫃」の文様[8][9]。また松竹の興行宣伝などでは松竹マークが代用される。

歌舞伎座では毎年11月の顔見世興行の際に正面入り口上の破風の上にが上がるが、この櫓を囲う布には、正面に定紋の「鳳凰丸」が、側面には「木挽町きやうげんづくし(狂言尽くし)歌舞伎座」の文言がそれぞれ染め抜かれている。

歌舞伎座再生計画[編集]

2000年代に入ると歌舞伎座も老朽化が目立つようになり、また耐震性の問題や段差解消の必要性なども指摘されるようになっていった。そこで2005年(平成17年)から建て替えの検討に入り、早稲田大学特任教授(当時)の伊藤滋を座長とした歌舞伎座再生委員会が、「建て替え+超高層オフィス棟」という草案を導き出した[注 2]。しかしその一方で、歌舞伎座は2002年(平成14年)に国の登録有形文化財に登録されており、銀座の主要なランドマークとして親しまれていることから、保存の要望も出された。

松竹社内に社長迫本淳一の直轄部署として歌舞伎座開発準備室が設置され、室長に取締役(当時)の武中雅人が任命された。東京都に都市再生特区計画を申請、結局建て替えの実施は2008年(平成20年)10月に正式に発表され、翌年8月26日には松竹と歌舞伎座により、建て替えの具体的な計画が発表された。

2009年(平成21年)から1年余りに渡って行われた「さよなら公演」の後、2010年(平成22年)4月30日に閉場式が行われた。

2013年2月26日に、オフィスビルと併設された歌舞伎座の建て替えが完了した[10]。3月27日・28日の2日に渡って開場式が行われ[11]、4月2日から1年間、こけら落とし興行が行われた。

第5期歌舞伎座[編集]

外観・設備等[編集]

第5期歌舞伎座の外観は意匠設計・隈研吾

低層で和風桃山様式を採用。4階建て全1,964席[12][注 3]で通常の1等席~3等席以外に桟敷席と一幕見席(後述)を配置。

高層オフィスビル「歌舞伎座タワー」(高さ145メートル、軒高135メートル。地下4階地上29階建て)と地下広場「木挽町広場」を併設。歌舞伎座タワーは5階[13]のみ一般に開放。タワー5階と木挽町広場は劇場外という扱いなので、チケットなしで出入りできる。

タワー5階には歌舞伎に使用する衣装や小道具等が展示されている歌舞伎座ギャラリー(有料)、第4期歌舞伎座の瓦や河竹黙阿弥の石燈籠等が展示されている屋上庭園(無料)等がある。木挽町広場にはシンボルとなる巨大な提灯が設置されている他、土産や弁当の販売等を行っている。

主な設備は以下のとおりである:

  • 劇場内
    • 喫茶室(1階)、ドリンクコーナー(1階、2階、3階)
    • お食事処(2階、3階)
    • お土産処(1階)、座・のれん街(=お土産や甘味等を販売、3階)
    • ロッカー(地下一階)、トイレ(各階)
  • 劇場正面
    • 切符[注 4]預かり所(正面右)、一幕見席(後述)の切符売り場(正面左)
  • 歌舞伎座タワー
    • お土産処、歌舞伎座ギャラリー、屋上庭園、木挽町ホール等(いずれも5階)
  • 木挽町広場
    • 切符売り場、お土産処、弁当売り場、コンビニ、シンボルとなる巨大な提灯等
  • 歌舞伎座場外
    • 歌舞伎そば[14](歌舞伎座裏)(2023年4月30日閉店)

木挽町広場は地下鉄東銀座駅と地下で直結する。観客はここから直接客席へ行くことはできず、一旦エスカレーターで地上へ出て正面玄関から入る形をとっている[15]

歌舞伎座と歌舞伎座タワーを併せて「GINZA KABUKIZA」という名称が定められ、キャッチコピー「イザ、ギンザ、カブキザ。」や、シンボルマークも制定された。

歌舞伎座は耐震性が特に重視されたうえ、銀座地区の防災拠点帰宅困難者一時避難場所としても機能するように設計されている。

一幕見席と桟敷席[編集]

歌舞伎座では一部の演目だけを鑑賞する幕見専用の客席として、3階席の後ろの4階席に一幕見席が設けられている[16]。手頃な価格で歌舞伎鑑賞ができるので、同じ演目を繰り返し観たい客や初めて歌舞伎を観る客のほか、外国人観光客も多い。一幕見席は全て当日券かつ一部指定席であり、一部立ち見である。4階席と3階席の間には仕切りがあり、劇場内の売店等を利用することはできない。なお当日券を得る場所はチケット売り場ではなく専用入り口の所なので注意が必要である。椅子席約90席が常に用意されている[16]。なおコロナの影響で2020年3月から23年五月大歌舞伎までは非売。

桟敷席は歌舞伎座の両脇に設置された席で、他の席と違い横を向いており、2人席で掘りごたつ式[17]に足をおろすことができ、小さなテーブルが設置されている。これは第一期歌舞伎座の名残として設置されている[17][注 5]もので、「現在も1階桟敷席では、この席でしか味わえない桟敷弁当(幕乃内)やお茶のサービスが受けられ、昔ながらの芝居見物のぜいたくさを満喫することができ」[17]る。なお2階にも桟敷席があるが、2階のものは通常の1等もしくは2等席のチケットとして販売されており、桟敷弁当の配達やお茶のサービスはない。

2階席・3階席の手すりの外には屋根状の張り出しがある。このため、桟敷席の上にある3階西席からは花道が見えない。

観劇[編集]

歌舞伎座での興行はひと月を単位とし、月毎に演目が変わる。各月の興行は月末の数日を除いた25日間であり、通常興行中に休演日は無い。

基本的に2部制(3部制のときもある)で、午前の部と午後の部からなる。 各部は複数の演目から構成されている場合も多いが、観劇の料金は部単位であり、これら演目の料金をセットで支払う必要がある(前述の一幕見席は例外)。

午前の部は午前11時から午後4時頃まで、午後の部は午後4時半から午後9時頃までである。 (終了時間は公演内容によって異なる。) したがって午前の部では昼食、午後の部では夕食の時間をはさむ事になるが、食事をするには幕間(最大30分)に内部の食堂を利用するか、弁当を持参する(もしくは木挽町広場等で買う)必要がある。

歌舞伎座内では歌舞伎鑑賞の助けとして「筋書」の販売や、「イヤホンガイド」と「字幕ガイド」の貸し出し(いずれも有料)を行っている。 「筋書」は各演目の(上演する場面の)あらすじを書いた冊子(プログラム)である[注 6]。「イヤホンガイド」は上演中にイヤホンを用いて「あらすじ・配役・衣裳・道具・独特な約束事など」[19]を聞く事ができる。また各演目は人気場面のみの上演となる(いわゆる見取り方式)が、イヤホンガイドは幕間に上演場面の前後のあらすじの解説も行う。「字幕ガイド」は役者がしゃべっている台詞を字幕で表示してくれる。

第4期との違い[編集]

第5期の外観は第4期に似せて作られているが、両者の主な違いは以下の通りである:

  • 歌舞伎座タワーと木挽町広場の併設
  • バリアフリー化、エスカレーターとエレベーターの設置。
  • 3階に「座・のれん街」を設置。
  • チケット売り場とお弁当売り場を地下2階に移動。
  • 併設されているお食事処の変更。
  • トイレの数が増加。

略年表[編集]

第1期(後期)(1907年 - 1911年):1907年(明治40年)春、大河内新社長が内外を修繕改築した後の様子。入り口に車寄せが造られ、通りに面した絵看板は左右2枚に。
第2期(1911年 - 1921年):純和風建築となる。
第2期 炎上(1921年):1921年(大正10年)10月30日朝、漏電により出火、焼失。
幻の第3期(1923年):再建工事中、関東大震災に見舞われた歌舞伎座
第3期(1925年 - 1945年): 1945年(昭和20年)5月25日の空襲で焼失。
第4期(1951年 - 2010年):第3期の躯体を生かして修築。大屋根がなくなる。
  • 1889年(明治22年)11月21日 - 開場式。翌日こけら落とし
  • 1896年(明治29年) - 株式会社歌舞伎座を設立。社長に皆川四郎、副社長に井上竹次郎
  • 1906年(明治39年) - 社長に大河内輝剛
  • 1907年(明治40年) - 内外を修繕改築、正面入り口に車寄せなどができる。
  • 1914年(大正3年) - 松竹の直営劇場になる。
  • 1921年(大正10年)10月30日 - 漏電により焼失。
  • 1923年(大正12年)9月1日 - 再建工事中に、関東大震災に見舞われる。
  • 1925年(大正14年)1月4日 - 新築の建物で開場式。
  • 1945年(昭和20年)5月25日 - 東京大空襲大屋根が落ち、内部を焼失。
  • 1949年(昭和24年) - 株式会社歌舞伎座設立。
  • 1951年(昭和26年)1月3日 - 復興した建物で開場式(こけら落とし)。
  • 1952年(昭和27年) - 東京証券取引所市場第二部に上場。
  • 2002年(平成14年) - 建物が国の登録有形文化財(建造物)に登録される(2010年に登録抹消[20])。
  • 2010年(平成22年)4月30日 - 老朽化による建て替えのため閉場式を以て一時閉館。
  • 2010年(平成22年)5月10日 - 建物の解体作業を開始。
  • 2013年(平成25年)2月26日 - 歌舞伎座と歌舞伎座タワーの複合施設「GINZA KABUKIZA」竣工。
  • 2013年(平成25年)3月1日 - 東銀座駅に通じる地下通路「木挽町広場」開通。
  • 2013年(平成25年)3月27日 - 新築の建物で開場式。
  • 2013年(平成25年)4月2日 - こけら落とし興行が始まる。

建物の変遷[編集]

第1期(1889年竣工)
木造、外観は西洋風の劇場。設計:高原弘造、施工:大倉組1907年修繕改築
(煉瓦積み?)外観は洋風で、総建坪は外郭を除いて457坪(のちに528坪)、間口は15間、奥行30間、主要部の軒高は30尺、棟まで60尺。用材はすべてヒノキで、3階建。舞台は間口13間、奥行16間、高さ17尺、廻り舞台は蛇の目回しで、外回り直径は9間、内回り7間。チョボ床は東西に分けて2箇所に設けたのは新しかった。観客席は3層で、1層は13間×10間、東西向こう正面ともに桟敷で、土間は6間ずつに分けて縦横に通行の渡り板を設け、両花道から高土間へも通路を作って、桟敷は洋装の観客を考慮して上げ蓋式で、これを取れば腰掛けになり、天井は繁骨の傘状形に張って、中央に当時最新式の16燭光の小球36個を束ねた吊り電灯が下がり、3階の一幕見席の後ろには運動場を作り、ここに食品、小間物などの売店があり、2階に洋室3間を設けて観客休憩所に充当した。観客定員は1700名余。
第2期(1911年竣工)
第1期の建物の骨組みを用いて大幅に改造、純洋風の帝国劇場に対抗して純和風の外観とした。設計施工:志水正太郎。1921年10月、漏電事故により焼失。
第3期(1924年12月竣工、1925年1月開場)
破風屋根が目立つ桃山様式風の外観。設計:岡田信一郎、施工:大林組。1945年に戦災を受ける。
鉄骨鉄筋コンクリート造。瓦葺き、本館1階910坪、2階480坪5合、3階428坪3合9勺、4階194坪、地階881坪強。楽屋は1階152坪3合、2階433坪。舞台は間口15間、高さ3間2尺、奥行11間、必要に応じてさらに5~6間深まった。廻り舞台は蛇の目、外回り直径10間、内回り7間2尺。両花道。奈落の深さは3間。天井高さは10間。観客席は4階、1~2階(東西桟敷)は145席、大部分は椅子席。観客定員は2500人余り。
第4期(1950年12月竣工、1951年1月開場)
戦災を受けた第3期の躯体・デザインを生かして修築。吉田五十八が担当、施工:清水建設
歌舞伎座は間口15間、奥行11間の舞台を有し、収容人員は1950年の開場時に2,600人で、その後1982年の改修時に、ゆとりを持たせるため座席数を減らし、2,017人となった。
  • 建屋:4階建(一部5階)
  • 構造:鉄骨鉄筋コンクリート造
  • 建築面積:3,787m2
第5期(2013年2月竣工、2013年4月開場)
第4期のデザインを継承して新築。複合ビルと構成されている。設計:隈研吾三菱地所設計、施工:清水建設。
舞台間口:27.5メートル(15間)、奥行20メートル(11間)、高さ6.36メートル[21]
廻り舞台の直径は60尺(18.18m)[22]
1階から3階までの座席数は1,808、4階の一幕見席は座席数96、立見数60で計156[23]


歌舞伎座テレビ室[編集]

歌舞伎座には一時期、テレビドラマ(主に時代劇)の制作を主体としたセクション、いわゆる「歌舞伎座テレビ室」(略して「歌舞伎座テレビ」とも)が置かれており[要出典]、古くは『日本怪談劇場』や『弥次喜多隠密道中』、末期では『斬り捨て御免!シリーズ』や『眠狂四郎無頼控片岡孝夫主演版)』等と言った数多くの名作を世に送り出した。おすぎが在籍していたことでも知られる。

詳細については当該項目を参照の事。

など。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 異説あり。詳細はフォービアン・バワーズ#異説を参照
  2. ^ 同委員会の報告書は日本建築学会建築図書館で閲覧が可能。
  3. ^ 一幕見席を含んだ数字。
  4. ^ チケットの事。
  5. ^ 桟敷席は江戸時代の歌舞伎にもあり、さらにさかのぼれば平安時代地上より一段高くに作られた見物席であった[18]
  6. ^ 午前の部、午後の部の両方の演目のあらすじが書いてある。「番付」ともいう。

出典[編集]

  1. ^ 代表取締役の異動等に関するお知らせ』(PDF)(プレスリリース)株式会社歌舞伎座、2021年4月22日https://www.kabuki-za.co.jp/wp-content/uploads/2021/04/210422pr.pdf2021年5月27日閲覧 
  2. ^ a b c d e f g h i j k 株式会社歌舞伎座『第99期(2022年3月1日 - 2023年2月28日)有価証券報告書』(レポート)2023年5月26日。 
  3. ^ a b 今尾哲也 2000, p. 173.
  4. ^ 株式会社歌舞伎座 定款 第1章第1条
  5. ^ 歌舞伎座百年”. 2021年9月7日閲覧。
  6. ^ 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「歌舞伎座」国立国会図書館蔵書、2018年2月9日閲覧
  7. ^ どんちょう飾る裸婦『朝日新聞』昭和26年7月12日3面
  8. ^ 歌舞伎座写真ギャラリー 鳳凰あれこれ
  9. ^ 東京国立博物館所蔵『鳳凰円文螺鈿唐櫃』”. e国宝. 国立文化財機構. 2019年10月25日閲覧。
  10. ^ ““5代目”歌舞伎座完成!坂田藤十郎「新しい歴史つくりたい」”. Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2013年2月26日). https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2013/02/26/kiji/K20130226005278610.html 2020年8月1日閲覧。 
  11. ^ “歌舞伎座開場式が行われました”. 歌舞伎美人. (2013年3月28日). https://www.kabuki-bito.jp/news/2013/03/post_749.html 2013年3月31日閲覧。 
  12. ^ 日本俳優協会『かぶき手帖2013年版』、p312。
  13. ^ 歌舞伎座施設案内
  14. ^ 歌舞伎そば|歌舞伎座(2021年3月23日閲覧)
  15. ^ 歌舞伎座が地下鉄“直結!”ではないワケ - 日経ビジネスオンライン 2013年5月23日(木)版
  16. ^ a b 一幕見席について - 松竹株式会社
  17. ^ a b c 歌舞伎座の歴史を語る桟敷席
  18. ^ 今尾哲也 1993, p. 38.
  19. ^ イヤホンガイドとは
  20. ^ 「登録の抹消について」(文化庁公式サイト)
  21. ^ Lighting Data Sheet 歌舞伎座
  22. ^ 歌舞伎座建替え現場から
  23. ^ “歌舞伎座:見学者「前とそっくり」…内覧会”. 毎日新聞. (2013年3月24日). オリジナルの2013年5月1日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/BOK4J 2013年3月25日閲覧。 

参考文献[編集]

  • 今尾哲也『歌舞伎をみる人のために』玉川大学出版部、1993年3月。ISBN 978-4472094415 
  • 今尾哲也『歌舞伎の歴史』岩波書店岩波新書〉、2000年3月。ISBN 978-4004306610 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]