福地源一郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
福地源一郎
留学生時代
晩年の福地源一郎

福地 源一郎(ふくち げんいちろう、天保12年3月23日1841年5月13日) - 明治39年(1906年1月4日)は、幕末から明治時代にかけての武士(幕臣)・ジャーナリスト作家劇作家。幼名は八十吉(やそきち)。号は櫻癡(おうち、新字体:桜痴)。福地 桜痴(ふくち おうち)として知られる。

目次

生涯 [編集]

天保12年(1841年)、長崎で医師福地苟庵の息子として誕生した。長崎で名村八右衛門のもとで蘭学を学び、安政4年(1857年)に海軍伝習生矢田堀景蔵に従って江戸に出た。以後、2年間ほどイギリスの学問や英語森山栄之助の下で学んだ。そして、外国奉行支配通弁御用雇として、翻訳の仕事に従事することとなった。万延元年(1860年)、御家人に取り立てられる。文久元年(1861年)には通訳として文久遣欧使節に参加し、ロシア帝国との国境線確定交渉に関与している。慶応元年(1865年)には再び幕府の使節としてヨーロッパに赴き、フランス語を学び、西洋世界を視察した。そしてロンドンやパリで刊行されている新聞を見て深い関心を寄せた。

慶応2年(1866年)3月に帰国後、廩米1503人扶持を与えられ旗本の身分に取り立てられたが、開国論の主張が攘夷派に敵視されて不平に堪えず遊蕩に耽った。

慶応3年(1867年)10月の大政奉還の際には、徳川慶喜が自ら大統領になり新政府の主導権を握るべしとの内容の意見書を小栗忠順に対して提出したが、その意見の妥当性は認められたものの、慶喜の意向が判然としない事などの理由から容れられる事が無かった。

福地は江戸城開城後の慶応4年閏4月(1868年5月)に江戸で『江湖新聞』を創刊した。翌月、彰義隊が上野で敗れた後、同誌に「強弱論」を掲載し、「ええじゃないか、とか明治維新というが、ただ政権が徳川から薩長に変わっただけではないか。ただ、徳川幕府が倒れて薩長を中心とした幕府が生まれただけだ」と厳しく述べた。これが新政府の怒りを買い、新聞は発禁処分、福地は逮捕されたが、木戸孝允が取り成したため、無罪放免とされた。明治時代初の言論弾圧事件である。その後、徳川宗家の静岡移住に従い自らも静岡に移ったが、同年末には東京に舞い戻り、士籍を返上して平民となり、浅草の裏長屋で暮らした。その後下谷二長町で私塾を開き(後に本郷に移転)、英語と仏語を教えている。

明治3年(1870年)、渋沢栄一の推薦で大蔵省に入り、翌年岩倉使節団の一等書記官として各国を訪れた。帰国後の明治7年(1874年)、政府系の『東京日日新聞』発行所である日報社に入社した(主筆、のち社長)。明治8年(1875年)1月14日の紙面で「社会」を「ソサエチー」のルビつきで掲載した。これが「社会」という日本語が使われた最初と言われている。明治10年(1877年)に西南戦争が勃発すると自ら戦地に出向き、田原坂の戦いなどに従軍記者として参陣、現地からの戦争報道を行ってジャーナリストとして大いに名を上げた。また東京府府会議長も務めて政界にも進出した。

明治14年(1881年)、私擬憲法国憲意見』を起草し、また軍人勅諭の制定にも関与した。

明治15年(1882年)、丸山作楽水野寅次郎らと共に立憲帝政党を結成し、天皇主権・欽定憲法の施行・制限選挙などを政治要綱に掲げた。自由党立憲改進党に対抗する政府与党を目指し、士族や商人らの支持を受けたが、政府が超然主義を採ったため存在意義を失い、翌年に解党した。

明治21年(1888年)には官報発行などによる経営不振から日報社を退社した。その後の福地は条野採菊の『やまと新聞』の顧問に迎えられて評論活動を続けながら、次第に演劇改良運動とそれを実践する劇場の開設に執念を燃やすようになる。

明治22年(1889年)11月には千葉勝五郎とともに、東京の木挽町歌舞伎座を開場した。福地はまもなく借金問題により経営から離れ、歌舞伎座の座付作者となって活歴物新舞踊などの脚本を多数執筆し、九代目市川團十郎らがこれを演じた。代表作には『大森彦七』『侠客春雨傘』『鏡獅子』『春日局』などがある。

明治36年(1903年)に九代目團十郎が死去すると舞台から手を引き、翌年第9回衆議院議員総選挙東京府東京市区から無所属で立候補して最下位当選を果たすが、この時には既にかつて福澤諭吉と並び称されたような社会的影響力は失われていた。

明治39年(1906年)1月、議員在職中に死去、64歳だった。

人物 [編集]

  • 自らの一人称を吾曹と称した事から、吾曹先生と呼ばれた。
  • 文久3年(1863年)、小笠原長行の入京クーデター計画に関与していたが、事件の首謀者である水野忠徳の機転により、処罰を免れている。
  • 明治34年(1901年)2月の福澤諭吉の死によせて書いた記事は、福地の文章の中でも会心の出来映えで、明治期でも指折りの名文とされる。
  • 福澤の死の際に両者の人物が比較され、福地は才において優る。しかし意思の強固さでは福澤が数等上であると評された。
  • 晩年、福地の妾が、重い病に罹り、福地が看病していた。彼女は懐中時計の蓋を開閉する際の音が好きだった。福地は彼女がこの音を好きだということ知ると、時間の許す限り、時計の開閉を続けた。彼女が亡くなった際、枕元には蓋の壊れた懐中時計が、20個以上並んでいた。

著作 [編集]

福地の文化面における功績は大きく、多くの著作を残している。福澤諭吉と並んで「天下の双福」と称された。

伝記 [編集]

参考文献 [編集]

関連項目 [編集]

外部リンク [編集]

  • [1]転身し続けた異彩の人・福地桜痴(福地源一郎)
  • [2]池の端 の御前 福地桜痴