沼間守一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
沼間守一

沼間 守一(ぬま もりかず、しゅいち、天保14年12月2日1844年1月21日) - 明治23年(1890年5月17日)は、江戸幕臣出身の政治家、ジャーナリスト。雅号・不二峰楼主人、弄花生。

略歴[編集]

天保14年(1843年)、江戸牛込にて幕臣・高梨仙太夫の第2子として生まれる。幼名は慎次郎。弘化6年(1849年)、沼間平六郎の養子となる。漢学を儒者・杉原心斉に学ぶ。

安政6年(1859年)、養父が長崎奉行属員になり同行。長崎にてイギリス人ゼラールに英学を学ぶ。文久元年(1861年)、江戸に帰郷。軍艦頭取・矢田堀鴻に海軍技術を学ぶ。同年、幕府の命で横浜のヘボン塾(現:明治学院高校)に入門。医学より英語(兵法)に親しむ。

幕府陸軍時代 [編集]

慶応元年(1865年)、幕府陸軍伝習所に入所。フランス士官シャノアンらに仏式兵法を学ぶ。御指図役頭取(大尉、中隊長クラス)から歩兵頭並(少佐、大隊長クラス)に昇進。第二伝習兵隊長として役1,500人の教練につく。

慶応4年(1868年)1月、歩兵奉行並に昇進。3月、士官約20名を連れ兄・須藤時一郎とともに江戸を脱走。会津で遊撃隊(銃隊)を編成する。4月、会津を出て日光方面にて大鳥圭介とともに板垣退助らの新政府軍と戦う。7月、会津に戻り遊撃隊を伝習し、下旬に庄内藩へ移動、農兵を訓練する。9月に庄内藩が降伏したため12月に江戸へ護送される。「ああ たった六十余州か けさの春」の句を読む。

土佐藩出向と新政府官僚時代[編集]

明治2年(1869年)の放免後、日本橋瀬戸物町に英学指南所を開くが「政府転覆のため人を集めているのでは」と疑われ一時捕縛される。5月、板垣退助・谷干城の紹介で土佐藩邸兵士教授方となる。英語も教授したとも言われるが明治時代以降の回想に限られており当時の史料からは英語に関する記述が乏しい。

明治4年(1871年)7月、廃藩置県により土佐藩邸を出る。横浜にて一年間生糸商・両替商を営む。「士族の商法」で赤字を出す。

明治5年(1872年)4月、大蔵大輔・井上馨の推薦で租税寮七等出仕、横浜税関詰となる。7月、物議をかもしてばかりの沼間をもてあました井上は司法省江藤新平に彼を推薦し、司法省七等出仕となる。欧州派遣され各国を巡る。この頃、幼名の慎次郎から守一に改名したとされる(明治2年に改名の可能性もある)。

明治6年(1873年)9月、帰国。11月に司法省六等出仕に昇進。同士とともに嚶鳴社の前身・法律講習会を設立する。

明治7年(1874年)2月、少判事に任じられる。明治8年(1875年)5月、五等判事に任じ大阪裁判所詰を命じられるが受けず。7月、河野敏鎌の推薦で元老院権大書記官となる。9月、鶴岡事件調査のため同県に出張する。11月に帰京。

明治10年(1877年)、西南戦争に際し「義勇兵募集演説会」を開く。明治11年(1878年)、法律講習会を嚶鳴社と改称。

自由民権家として[編集]

明治12年(1879年)、元老院に辞職を申し出て雇い名義で隔日出仕するが8月に官吏の政談演説が禁止されたので雇いも辞職。10月、『嚶鳴雑誌』創刊。11月18日横浜毎日新聞を買いうけ東京京橋区西紺屋町に東京横浜毎日新聞本局を開く。11月、東京府会議員に選出される。

明治13年(1880年1月23日、臨時府会で副議長に当選。12月、自由党準備会に加わる。明治14年(1881年)3月、自由政党創立委員となり国会期成同盟の責任者の一人となる。8月、東京横浜毎日新聞で官有物払い下げ案可決の一報を報道する。8月25日、新富座にて「官有物払い下げ反対」の大演説会を開催する。9月~11月まで東海地方、東北地方を遊説してまわるが途中脳病を発病。

明治15年(1882年)4月、嚶鳴社一派を率いて立憲改進党に参加。7月、政府から政治結社の認定を受け嚶鳴社を解散する。7月、東京府会議長に当選。明治17年(1884年)12月、立憲改進党解党に反対するが大隈重信・河野敏鎌ら幹部が脱党。沼間は党を孤守する。

明治20年(1887年)9月、浅草井生村楼で旧自由党と立憲改進党合同の「大同団結大会」が開かれる。星亨派の壮士と衝突、重傷を負わされる。

明治21年(1888年)5月、広告社をつくる(のち湯沢精司が社長就任)。明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法発布式典に東京府会議長として参列。

明治23年(1890年)5月17日、脳病に肺炎を併発し死去。戒名は英光院操守一貫大居士。

参考文献[編集]

関連項目[編集]