幕府陸軍

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幕府陸軍
Franco-JapaneseInfantryTraining.jpg
“フランス式日本軍歩兵部隊の訓練風景”と題された写真。幕府歩兵調練風景(慶応元年大坂城内)
創設 1862年文久2年)
解散 1869年明治2年)
指揮官
征夷大将軍 徳川家茂
徳川慶喜
陸軍総裁 蜂須賀斉裕
松平乗謨
勝海舟
総人員
兵役適齢 17歳から45歳
徴兵制度 兵賦令
関連項目
歴史 天狗党の乱
長州征討
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幕府陸軍(ばくふりくぐん)は、幕末江戸幕府が編成した陸上戦闘を任務とした西洋式軍備の陸軍である。文久2年(1862年)、幕府の軍制改革で対外防衛と国内体制維持を目的として創設された。長州征討天狗党の乱などで実戦を経験し、大政奉還により幕府が消滅した後も所属部隊の多くが戊辰戦争で戦闘を続けた。簡略化して単に幕府軍と呼称される場合もある。

沿革[編集]

前史[編集]

江戸幕府は、直轄の軍事力としては、旗本御家人からなる戦国時代以来の体制を続けてきた。これらの旗本などにより小姓組大番などの伝統的な軍事組織を構成していたが、長期の平和の中で形骸化が進んでいた。アヘン戦争の情報などから次第に危機感を覚えた幕府は、高島秋帆江川英龍下曽根信敦らを砲術師範などに登用して西洋式軍備の研究を開始した。

黒船来航後の安政元年(1854年)には、老中阿部正弘による改革で軍制改正掛が置かれた。軍制改正掛の検討で、旗本・御家人の子弟を対象とした武芸訓練機関である講武場(後に講武所)の設置が決まった。安政3年(1856年4月に開場された講武所では、古来の剣術や日本式鉄砲術・大筒術などだけでなく、西洋式の砲術や戦術学の研究も行われた。また講武所には、教導部隊ともいうべき一定の実戦力も期待され、後に奥詰と呼ばれる将軍警護要員も整備された。さらに講武所の設置と前後して、安政2年(1855年9月には徒組、安政3年(1856年1月には小十人組に対して砲術師範の江川英敏への入門が義務付けされ、洋式銃砲の訓練が始められた。この徒組等への訓練は、講武所設置後には、その中の砲術習練所へと移って続けられた。安政5年(1858年)には、深川越中島に銃隊調練所が建設された。

しかし、井伊直弼大老に就任すると、西洋式軍備の導入は停滞してしまった。

文久の軍制改革[編集]

桜田門外の変の後、文久2年(1862年)に、文久の改革の一環として本格的な西洋式軍隊である「陸軍」の創設がされた。陸軍奉行を長として、その下に歩兵奉行3人と騎兵奉行を置き、歩兵騎兵砲兵三兵編制を導入した。ただし、こうして誕生した陸軍はあくまで従来の軍制と並立する組織であった。

歩兵は、横隊などを組む戦列歩兵に該当する「歩兵」と、軽歩兵に該当する「撒兵(さっぺい)[1]」に分類された。うち歩兵隊は、旗本から禄高に応じて供出させた兵賦(へいふ)と称する人員から構成され、同年12月には、幕府は大量に必要になる兵員確保の為、旗本に対して兵賦令を布告した。兵賦令の内容は、500以下の旗本は金納、500石以上の旗本に対して[2]、課された軍役の人員を半数とする代わりに、兵賦を知行地から供出するものとされ、[3]兵賦は知行500石で1人、1000石で3人、3000石で10人の人員の供出を割り当てられたが、当面はこの半数で良いとされた。兵賦の年齢は17歳から45歳までとされ、年季は5年、身分は最下層ながら、武士に準ずるものとされ、脇差の帯刀を許され、功績次第では正式に幕臣に登用されるものとされた[4]。歩兵隊の兵賦は江戸城西の丸下大手前小川町三番町に設けられた屯所に入営し、装備、衣服、糧食などは幕府が負担し、給与だけは各旗本が個別に支給する方式が取られ、給金は年10が限度とされたが、人件費高騰や通貨膨張などの為、実際は年15両もしくはそれ以上の給金が支払われた[5][6]。その後の元治元年(1864年7月までに関東諸国から、10000人ほどが徴集された[7]。他方の撒兵隊御目見以下の小普請組などの御家人から構成され、慶応2年(1866年)までは御持小筒組と称した[8]。騎兵は与力や旗本である御目見以上の小普請組から、砲兵は同心から編成された。各部隊の士官は旗本やその子弟をあてることとした。

天狗党の乱長州征討へ実戦投入され、天狗党の乱では実戦経験の不足の為に奇襲攻撃を受けたりして翻弄されたが、長州征討では粘り強く戦い敢闘した。

慶応の軍制改革[編集]

1866年、日本への出発前のフランス軍事顧問団。中央が団長のシャルル・シャノワーヌ、 前列右から2番目がジュール・ブリュネ
西洋式軍装に身を包んだ幕府軍歩兵

第二次長州征討の敗戦後、慶応2年(1866年)8月以降、将軍徳川慶喜の下で再び大規模な軍制改革が行われた。幕府中枢への総裁制度導入により陸軍局が設置され、従来の陸軍組織の上に乗るかたちで老中格陸軍総裁が置かれた。そして、幕府直轄の軍事組織の一元化が進められ、大番などの旧来型組織は解体ないし縮小されて、余剰人員のうち優秀な者が親衛隊的な性格の奥詰銃隊や遊撃隊(奥詰の後身)などとして陸軍へと編入された。講武所も陸軍に編入され、研究機関である陸軍所となった。すでに一定の洋式化が進んでいた八王子千人同心も編入され、八王子千人隊と改称されている。組織の拡大にあわせて、陸軍奉行の若年寄格への昇格、歩兵奉行並や撒兵奉行並の設置など指揮系統も整備された。

築造兵と称した工兵隊、天領農民で組織した御料兵の編成もされた。また、シャルル・シャノワーヌ大尉フランス軍事顧問団による直接指導も導入され、その訓練を受ける伝習隊が新規に編成された。

兵員調達の方法も改正され、従来の兵賦による歩兵隊のほか、旗本に禄高ごとに銃隊を整備させて、数家分を組み合わせて小隊大隊級の銃隊を編成する組合銃隊の制度も施行された。組合銃隊用の兵員は、歩兵隊とは異なり、平時は各旗本の屋敷に待機することとされていた。しかし、翌1866年1月に、兵賦については金納をもって替え、その資金で幕府が直接に雇用する形態となった(幕府歩兵隊の傭兵化)。この様にして次第に陣容が整い慶応3年(1867年9月初めの段階で、合計48大隊、総員24000人[9]の規模を誇るまでになった。さらに9月に組合銃隊についても、幕府の財政事情や、銃卒の給金が雇い主の旗本によってまちまちであり、構成人員が、旗本の譜代家臣、旗本知行地出身者、口入屋を通じ雇ったなど奉公人が入り雑じり、著しく部隊の均一性を欠く等の事から金納による歩兵隊へと変更され[10]、旗本の軍役は金納のみとなった。各旗本は貢租の半額を拠出することとされた。その結果、組合銃隊は廃止された。各旗本が銃卒を解雇したため、歩兵隊へ雇用された一部を除く5千人[11]もの解雇者が発生した。その結果解雇された銃卒が集団で屯ろするなど、大きな社会問題になった。しかしその後、社会情勢の変化により、増員に迫られ相当数の人員が再雇用されたものと推定される。

最終時点で、幕府陸軍は歩兵隊8個連隊一橋徳川家播磨領で第16連隊が編成されて、計9個連隊であるとも言われる[12]。)と伝習歩兵隊4個大隊を中核に、日本最大の西洋式軍事組織となっていた。

大政奉還後[編集]

大政奉還後に鳥羽・伏見の戦いが発生した。この戦闘には歩兵隊や伝習隊など多数が動員されたが、敗北した。その後、一部は明治新政府に帰順したが、伝習隊などは部隊規模で脱走し、戊辰戦争では各地で戦闘を繰り広げ箱館まで戦った。他方、帰順した部隊が新政府軍に編入された例もあり、伝習歩兵隊第3大隊・第4大隊から集成した「帰正隊」(2個中隊)が各地に転戦している[13]

戦歴[編集]

教育[編集]

フランス顧問団による訓練風景
西洋式軍装に身を包んだ幕府軍(1865年)
幕府陸軍(1866年)

当初はオランダ陸軍操典類の翻訳による教育が中心だった。例えば、初期のゲベール銃装備の歩兵隊については、1857年式のオランダ陸軍歩兵操典を翻訳した『歩軍操法』が教科書として使用され、その後のミニエー銃への装備更新に合わせて1861年式オランダ陸軍歩兵操典が『官版 歩兵練法』として陸軍所により翻訳されている[14]海軍伝習に訪れたオランダ海軍の教師団のうちの海兵隊員らから、歩兵戦闘や軍楽隊の指導を受けたこともあった。

次いで、1864年には一部でイギリス式の教育も導入された。横浜駐留のイギリス軍から、神奈川奉行所下番などが指導を受け、合同演習も行った。神奈川奉行所からは、窪田鎮章古屋佐久左衛門のように後に幕府陸軍の歩兵隊士官となった者も多かった。兵士である下番も歩兵隊に改編されて箱館の警備部隊として配置されるなどした(このため、「海軍=イギリス式、陸軍=フランス式」と単純に解釈するのは誤りである。同じく幕府機関の京都見廻組の銃調練もイギリス式であったのではないかと推定されている[15]。なお、幕府以外では紀州藩陸軍のようにプロイセン陸軍から影響を受けた藩もあった)。

最終的にフランス軍事顧問団による教育が行われることになり、1866年に伝習隊の編成が行われた。翌年にシャノワーヌ大尉以下が着任し、はじめは横浜の太田陣屋で、数ヵ月後に江戸へ移って伝習が開始された。6月には14歳から19歳の旗本子弟志願者を対象に士官教育も開始されている。フランス人教官の不足から、伝習隊の一部は日本人教官による指導を受けていた。教科書としては、フランス陸軍の1863年式歩兵操典などが翻訳されている。

軍事書籍の導入[編集]

江戸幕府では陸軍所にて次のような軍事書籍を翻訳または刊行して洋式軍備の導入に努めた[16]

  • 1864年(元治元年)、『歩兵操法』(1856、57年版オランダ歩兵教練書の翻訳)
  • 1864年(元治元年)3月、『砲軍操法』(1856、57年版オランダ砲兵教練書の翻訳)
  • 1864年(元治元年)4月、『歩兵練法』(1860、61年版オランダ歩兵教練書の翻訳)
  • 1864年(元治元年)6月、『築城典刑』(1852年版オランダ人ベル築城学教本の翻訳、訳者大鳥圭介
  • 1864年(元治元年)8月、『歩兵心得』(1860年版オランダ歩兵武器取扱等心得の翻訳、訳者大築保太郎
  • 1865年(元治2年)2月、『歩兵制律』(1862年版オランダ東インド軍歩兵内務制度と軍律書の翻訳、訳者川本清一
  • 1865年(元治2年)3月、『山砲演式』(アメリカ兵学校使用の山砲教練書の翻訳)
  • 1865年(慶応元年)5月、『野戦要務』(1856年版オランダ陸軍士官心得の翻訳、訳者大鳥圭介)
  • 1865年(慶応元年)9月、『斯氏築城典刑』(1858年版イギリス人ストレイトの築城学教本の翻訳、訳者吉沢勇四郎
  • 1866年(慶応2年)5月、『火功奏式』(アメリカ砲兵大尉ベントの火工品(弾薬等)教本の翻訳、訳者吉沢勇四郎)
  • 1866年(慶応2年)6月、『騎兵程式』(原著不明、騎兵教練書の翻訳)
  • 1866年(慶応2年)初冬、『馬療新編』(軍馬治療書の翻訳、訳者伊東朴斎
  • 1867年(慶応3年)4月、『勤方規則』(陸軍兵士の勤務体制や心得等の内務規則書)
  • 1867年(慶応3年)4月、『兵学程式』(戦術学や戦略学を含む要兵学教本)
  • 1867年(慶応3年)6月、『砲兵程式』(四斤山砲を含む施条砲段階の砲兵教練書)
  • 1867年(慶応3年)12月、『歩兵程式』(1863年版フランス軽歩兵教練書の翻訳、訳者大鳥圭介)

編制[編集]

幕府のフランス式騎兵

歩兵隊については、1小隊は40人、3小隊で1中隊、5中隊で1大隊とし[17]、2個大隊からなる連隊が最大の編成単位であった。それ以外の伝習隊や撒兵隊などの多くは大隊を最大単位とした。3個小隊からなる中隊編制が用いられることもあった。砲兵については「座」(8門)という単位が用いられていた[18]

元治元年後半頃[編集]

元治元年(1864年)後半頃には出入りもあるが、凡そ次の様な高官スタッフで構成されていた[19]

  • 陸軍奉行 1名(五千石、陸軍中将相当)
  • 陸軍奉行並 1名(三千石)
    • 歩兵奉行 3名(三千石、陸軍少将旅団指揮)
    • 歩兵頭 8名(二千石、陸軍大佐連隊指揮)、
    • 歩兵頭並 16名(千石、陸軍大佐、大隊指揮)、
      • 歩兵差図役頭取 80人(四百石、陸軍大尉中隊指揮)
      • 歩兵差図役 96人(三百俵、陸軍中尉小隊指揮、)

(ただし下級士官は圧倒的に不足しており、幕府解体までに確認できる実数は、歩兵差図役頭取 80人に対して44人、歩兵差図役 96人に対して4人に過ぎず、現場指揮には不安がつきまとった)

慶応3年9月時[編集]

幕府陸軍兵員表[20]
幕府歩兵 大隊数 人員 主な人員の出身母体 備考
奥詰銃隊 4大隊 2000人 旗本、御家人   従来の五番方(書院番小姓番大番小十人新番)を再編し銃隊化、将軍親衛隊
遊撃隊鉄砲隊 1大隊半 750 旗本 、御家人及び武芸者など  遊撃隊、旧称奥詰、剣客等で構成される鑓剣隊より銃隊として改編。   
大砲隊小銃隊附 2大隊 1000人 旗本、御家人など   
撤兵隊 7大隊半 3750 旗本、御家人  江戸城諸門を警備。  
騎兵隊 4大隊 2000人 旗本、御家人    
御徒銃隊 2大隊半 1250人 御徒以下の幕臣     
神奈川武兵銃隊 2大隊 1000人 召抱えられた歩兵のうち、 帯刀以上の身分の者  横浜警備。  
組合銃隊 15大隊 7500人 3000石以上の旗本により差し出された歩兵 慶応3年9月末に廃止。  
元歩兵隊 2大隊半 1250人 兵賦 前年より召抱えられた者。  
農兵隊 3大隊 1500人 農民など 幕府領より差し出された者。   
町兵銃隊 2大隊 1000人 町人など   江戸町々で抱入られた者。
横浜歩兵隊 1大隊 500人  歩兵 当時横浜にてフランス軍人より訓練を受けた者。
江戸伝習歩兵隊 1大隊 500人  歩兵 江戸にてフランス軍人より訓練を受けた者。  
総計 48大隊 24000人   1大隊500人程、但し組合銃隊廃止につき7000人程減少、差引総人数17000人  

慶応4年1月頃[編集]

幕府歩兵隊の規模
幕府歩兵隊 歩兵人員[21] 鳥羽・伏見の戦い指揮官(比定[22] 伝習隊への参加[23] 衝鋒隊への参加[24] 記事
歩兵第一連隊 1000人 徳山出羽守      
歩兵第四連隊 1000人 横田伊豆守      
歩兵第五連隊 800人 秋山下総守(推定)      
歩兵第六連隊 600人 (江戸在中)   500人   
歩兵第七連隊 800人 大沢顕一郎 350人    
歩兵第八連隊 800人 (江戸在中)      
歩兵第十一連隊 900人 河野佐渡守   集団脱走後に合流   
伝習第一大隊 800人 小笠原石見守 700人    
伝習第二大隊 600人 (江戸在中) 400人    
御料兵 400人 小林端一(推定) 200人    
歩兵第十二連隊 (表外) 窪田備前守   集団脱走後に合流 大坂徴募
総計 7700人   1650人他 約900人  

将校[編集]

装備[編集]

輸入装備やフランス政府からの寄贈品のほか、関口製造所などで国内製造された兵器も使用されていた。

注記[編集]

  1. ^ 散兵の古語とも、本来は工兵を意味するオランダ語nl:Sappeurに由来するとも言われる。
  2. ^ 500石以上の旗本も金納を認められた例がある。福生市、上巻915頁
  3. ^ 福生市、上巻915頁
  4. ^ 東町 740頁
  5. ^ 東町 741-742頁
  6. ^ 江戸近郊では、年俸30両が基準であったとされる。福生市、上巻917頁
  7. ^ 笹間 231-232頁
  8. ^ 天狗党の乱に出陣した際には、徒組などを撒兵と呼ぶこともあったという。
  9. ^ 高橋ほか(2006)、279頁。
  10. ^ 高橋ほか、276-279頁
  11. ^ 高橋ほか(2006)、280頁。
  12. ^ 大山柏 『戊辰役戦史』(増訂版) 、時事通信社、1988年。
  13. ^ 幕末軍事史研究会(2008)、224頁。
  14. ^ 幕末軍事史研究会(2008)、125頁。
  15. ^ 幕末軍事史研究会(2008)、140頁。
  16. ^ 宇田川武久『幕末 もうひとつの鉄砲伝来』2012年、平凡社新書655。p195
  17. ^ 笹間 231頁。
  18. ^ ただしこの人数はあくまで銃兵のみであり、指揮官その他は含まれていないので注意。
  19. ^ 野口(2002)、91頁
  20. ^ 高橋ほか(2006)、279頁、保谷、(2007)34頁
  21. ^ 勝(1975)、282頁
  22. ^ 野口(2010)、94頁
  23. ^ 野口(2002)、238頁
  24. ^ 野口(2002)、234頁
  25. ^ 石井 711-713頁
  26. ^ [1]
  27. ^ 藤井 114頁

参考文献[編集]

関連項目[編集]