小栗忠順

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小栗 忠順
Oguri Tadamasa.jpg
小栗忠順
時代 江戸時代末期
生誕 文政10年6月23日1827年7月16日[1]
死没 慶応4年4月6日1868年5月27日
改名 剛太郎、忠順
別名 又一
戒名 陽寿院殿法岳浄性大居士[2]
墓所 東善寺 雑司ヶ谷霊園 普門院
官位 従五位下豊後守上野介
幕府 江戸幕府西の丸書院番使番目付外国奉行寄合席小姓組番頭勘定奉行南町奉行歩兵奉行講武所御用取扱→寄合席→陸軍奉行並→勤仕並寄合軍艦奉行寄合海軍奉行並→陸軍奉行並→勤仕並寄合
主君 徳川家慶家定家茂慶喜
氏族 三河小栗氏
父母 父:小栗忠高、母:小栗くに子 (小栗忠清の娘)、
正室:建部政醇の娘・道子
国子小栗貞雄妻)、養子:鉞子忠道

小栗 忠順(おぐり ただまさ)は、江戸時代末期の幕臣勘定奉行江戸町奉行外国奉行

通称は又一。安政6年(1859年)、従五位下豊後守に叙任[3]文久3年(1863年)、上野介に遷任され、以後小栗上野介と称される。三河小栗氏第12代当主で、父方の祖父は同じく勘定奉行を務めた中川忠英

概要[編集]

安政7年(1860年)、日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、日本人で初めて地球を一周して帰国した。その後は多くの奉行を務め、江戸幕府財政再建や、フランス公使レオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行う。

徳川慶喜の恭順に反対し、薩長への主戦論を唱えるも容れられず、慶応4年(1868年)に罷免されて領地である上野国群馬郡権田村(群馬県高崎市倉渕町権田)に隠遁。同年閏4月、薩長軍の追討令に対して武装解除に応じ、自身の養子をその証人として差し出したが逮捕され、翌日、斬首[4]。逮捕の理由としては、大砲2門・小銃20挺の所持[5]と農兵の訓練が理由であるとする説や、勘定奉行時代に徳川家の大金を隠蔽したという説(徳川埋蔵金説)[6]などが挙げられるが、これらの説を裏付ける根拠は現在まで出てきていない。

戦後、明治政府中心の歴史観が薄まると小栗の評価は見直され、司馬遼太郎は小栗を「明治の父」と記した[7]

生涯[編集]

文政10年(1827年)、禄高2,500[8]旗本小栗忠高の子として江戸駿河台の屋敷[9]に生まれる。幼名は剛太郎。当初、周囲からは暗愚で悪戯好きな悪童と思われていたが[10]、成長するに従って文武に抜きん出た才能を発揮し、14歳の頃には自身の意志を誰にはばかることなく主張するようになった。

8歳から、小栗家の屋敷内にあった安積艮斎の私塾「見山楼」に入門、栗本鋤雲と知り合うこととなる[11]。武術については、剣術島田虎之助に師事した。後に藤川整斎の門下となり、直心影流免許皆伝を許される。また砲術田付主計柔術窪田助太郎に師事する。天保11年(1840年)頃、田付主計の同門であった年長者の結城啓之助から開国論を聞かされ、以後影響を受ける[12]

天保14年(1843年)、17歳になり登城する。文武の才を注目され、若くして両御番となる。率直な物言いを疎まれて幾度か官職を変えられたが、そのたびに才腕を惜しまれて官職を戻されている。

嘉永2年(1849年)、林田藩の前藩主建部政醇の娘・道子と結婚する。

嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国東インド艦隊司令長官マシュー・ペリー浦賀に来航する。その後、来航する異国船に対処する詰警備役となるが、戦国時代からの関船しか所持していない状態ではアメリカと同等の交渉はできず、開国の要求を受け入れることしかできなかった。この頃から外国との積極的通商を主張し、造船所を作るという発想を持ったと言われる[13]

安政2年(1855年)、父・忠高が医師の誤診により死去し[14]、家督を相続する。

左から村垣範正新見正興、小栗忠順 1860年
ワシントン海軍工廠での使節団:正使 新見正興(前列中央)、副使 村垣範正(前列左から3人目)、監察 小栗忠順(前列右から2人目)、勘定方組頭、森田清行(前列右端)、外国奉行頭支配組頭、成瀬正典(前列左から2人目)、外国奉行支配両番格調役、塚原昌義(前列左端)

安政7年(1860年)、遣米使節目付(監察)として、正使の新見正興が乗船するポーハタン号で渡米する[15]。2ヶ月の船旅の後、サンフランシスコに到着する。代表は新見であったが、目付の小栗が代表と勘違いされ、行く先々で取材を受けた。勘違いの理由として、新見をはじめとして同乗者の多くは外国人と接したことがなく困惑していたが、小栗は詰警備役として外国人と交渉経験があるため落ち着いており、そのため代表に見えたとされる。また「目付とはスパイのことだ。日本(徳川幕府)はスパイを使節として同行させているのか。」という嫌疑を受けた。その際に「目付とはCensorである」と主張して切り抜けたという。「Censor」という役の重さが代表扱いされる一因かと推察される。

フィラデルフィアでは通貨の交換比率の見直しの交渉に挑んだ。これは日米修好通商条約で定められた交換比率が不適当で、経済の混乱が生じていたためである。小栗は小判と金貨の分析実験をもとに主張の正しさを証明したものの、比率の改定までは至らなかった。しかしこの交渉に関して、多くのアメリカの新聞は絶賛の記事を掲載する。また小栗はワシントン海軍工廠を見学した際、日本との製鉄及び金属加工技術などの差に驚愕し、記念にネジを持ち帰った。

その後、ナイアガラ号に乗り換え、大西洋を越えて品川に帰着する。帰国後、遣米使節の功により200石を加増されて2,700石となり、外国奉行に就任する。文久元年(1861年)、ロシア軍艦対馬占領事件が発生。事件の処理に当たるが、同時に幕府の対処に限界を感じ、江戸に戻って老中に

  • 対馬を直轄領とすること。
  • 今回の事件の折衝は正式の外交形式で行うこと。
  • 国際世論に訴え、場合によっては英国海軍の協力を得ること。

などを提言したが、容れられず外国奉行を辞任した[16][17]

文久2年(1862年)、勘定奉行に就任。幕府の財政立て直しを指揮する。当時、幕府は海軍力強化のため44隻の艦船を諸外国から購入しており、その総額は実に333万6千ドル[18]に上った。小栗は、駐日フランス公使レオン・ロッシュの通訳メルメ・カションと親しかった旧知の栗本鋤雲を通じて、ロッシュとの繋がりを作り、製鉄所についての具体的な提案を練り上げた。

文久3年(1863年)、製鉄所建設案を幕府に提出、幕閣などから反発を受けたが、徳川家茂はこれを承認し、11月26日に実地検分が始まり、建設予定地は横須賀に決定された。なお、建設に際し、多くの鉄を必要とすることから、上野国甘楽郡中小坂村(現在の群馬県甘楽郡下仁田町中小坂)で中小坂鉄山採掘施設の建設を計画し、武田斐三郎などを現地の見分に派遣した。見分の結果、鉄鉱石埋蔵量は莫大であり、ついで成分分析の結果、鉄鉱石の鉄分は極めて良好であることが判明した[19]。ただし近隣での石炭供給が不十分をであるので、しばらくの間木炭を使った高炉を建設すべしとの報告を受けている。また慶応元年(1865年)には高炉で使用する木炭を確保するため、御用林の立木の使用について陸軍奉行と協議をしている。

慶応元年(1865年)11月15日、横須賀製鉄所(後の横須賀海軍工廠)の建設開始[20]。費用は4年継続で総額240万ドル[21]で、これが後の小栗逮捕における徳川埋蔵金説に繋がったとも言われるが、実際には万延二分金などの貨幣の増鋳による貨幣発行益により建設費用を賄っていた[22][23]。横須賀製鉄所の建設を巡っては、相当な費用の負担を強いることから幕府内部の反対論は強く[24]、また建設地を横須賀にすることへの反対論もあった[25]が、工作機械類がフランスに発注済であり、最終的に製鉄所は建設された。多くの反対を押しきれたのは、計画の進捗が迅速であり、外部がこれを知った時には取りやめることが不可能であったからである[26]

小栗は横須賀製鉄所の首長としてレオンス・ヴェルニーを任命した。これは幕府公認の事業では初の事例だったが、この人事により職務分掌雇用規則残業手当社内教育洋式簿記月給制など、経営学人事労務管理の基礎が日本に導入された[27]。また、製鉄所の建設をきっかけに日本初のフランス語学校・横浜仏蘭西語伝習所を設立。ロッシュの助力もあり、フランス人講師を招いて本格的な授業を行った[28]。この学校の卒業生には明治政府に貢献した人物が多い[29]

小栗は陸軍の力も増強するため、小銃大砲弾薬等の兵器・装備品の国産化を推進した[30][31]

文久2年(1862年)12月、銃砲製造の責任者に任ぜられると、それまで韮山代官江川英武に任されていた湯島大小砲鋳立場を幕府直轄として関口製造所に統合し、組織の合理化や当時多発していた製造不良の低減に着手した。これに伴い、それまで実務を取り仕切ってきた江川の手代の代わりに武田斐三郎、友平栄などの気鋭の技術者を関口製造所の責任者として新たに登用した[32]。また、ベルギーより弾薬用火薬製造機械を購入し、滝野川反射炉の一角に設置、日本初の西洋式火薬工場を建設した[33]

小栗は更なる軍事力強化のため、幕府陸軍をフランス軍人に指導させることを計画する。慶応2年12月8日(1867年1月12日)、フランス軍事顧問団が到着、翌日から訓練が開始された。また軍事顧問団と時を同じくしてフランスに、大砲90門、シャスポー銃10,000丁を含む後装小銃25,000丁、陸軍将兵用の軍服27,000人分等の大量の兵器・装備品を発注、購入金額は総計72万ドルにも上った[34]

経済面では、慶応2年(1866年)には関税率改訂交渉に尽力し、特にフランスとの経済関係を緊密にし、三都商人と結んで日本全国の商品流通を掌握しようとした[35]。これが後の商社設立に繋がることとなる。翌慶応3年(1867年)、株式会社「兵庫商社」の設立案を提出、大阪の有力商人から100万両という資金出資を受け設立した。これは資本の少なさから日本商人が海外貿易で不利益を被っていることを受け、解決には大資本の商社が必要との認識によるものであった。100万両という設立資金は、当時設立されていた株式会社の中でも大きく抜きん出たものであった[36]

8月9日、日本初の本格的ホテル、築地ホテル館の建設が始まる。これは小栗の発案・主導のもとに清水喜助らが建設したもので[37]、翌年8月10日に完成する。このように、小栗の財政、経済及び軍事上の施策は大いに見るべきものがあり、その手腕については倒幕派もこれを認めざるを得なかった。[38]

慶応3年10月14日(1867年11月9日)、将軍徳川慶喜が朝廷に大政を奉還した。慶応4年(1868年)1月、鳥羽・伏見の戦いが行われて戊辰戦争が始まる。慶喜の江戸帰還後、1月12日から江戸城で開かれた評定において、小栗は榎本武揚大鳥圭介水野忠徳らと徹底抗戦を主張する。この時、小栗は「新政府軍が箱根関内に入ったところを陸軍で迎撃、同時に榎本率いる幕府艦隊を駿河湾に突入させて後続部隊を艦砲射撃で足止めし、箱根の敵軍を孤立化させて殲滅する」という挟撃策を提案したとされ、後にこの策を聞いた大村益次郎は「その策が実行されていたら今頃我々の首はなかったであろう」とおそれた[39][40]。実際、この時点において旧幕府軍は多数の予備兵力が残されていたが[41]、慶喜はこの策を採用せず恭順論を受け入れた。小栗はなおも抗戦を説くが、横須賀製鉄所建設計画時に倒幕を容認する発言もしている。

慶応4年(1868年)1月15日、江戸城にて老中松平康英より御役御免及び勤仕並寄合となる沙汰を申し渡されると[42]、同月28日に「上野国群馬郡権田村(現在の群馬県高崎市倉渕町権田)への土着願書」を提出した。旧知の三野村利左衛門から千両箱を贈られ米国亡命を勧められたものの、これを丁重に断り、「暫く上野国に引き上げるが、婦女子が困窮することがあれば、その時は宜しく頼む」と三野村に伝えた[43]。また、2月末に渋沢成一郎から彰義隊隊長に推されたが、「徳川慶喜に薩長と戦う意思が無い以上、無名の師で有り、大義名分の無い戦いはしない」とこれを拒絶した[44]。3月初頭、小栗は一家揃って権田村の東善寺に移り住む。当時の村人の記録によると、水路を整備したり塾を開くなど静かな生活を送っており[45]、農兵の訓練をしていた様子は見られない。

慶応4年(1868年)閏4月4日、小栗は東山道軍の命を受けた軍監豊永貫一郎原保太郎に率いられた高崎藩安中藩吉井藩兵より東善寺にいるところを捕縛され、閏4月6日朝4ツ半(午前11時)、取り調べもされぬまま、烏川の水沼河原(現在の群馬県高崎市倉渕町水沼1613-3番地先)に家臣の荒川祐蔵大井磯十郎渡辺太三郎と共に引き出され、斬首された[46][47]享年42。死の直前、大勢の村人が固唾を飲んで見守る中、東山道軍の軍監に対して、小栗の家臣が改めて無罪を大声で主張すると、小栗は「お静かに」と言い放ち、「もうこうなった以上は、未練を残すのはやめよう」と諭した。そして原が、「何か言い残すことはないか」と聞くと小栗はにっこり笑い、「私自身には何もないが、母と妻と息子の許婚を逃がした。どうかこれら婦女子にはぜひ寛典を願いたい」と頼んだという。処刑の順序は荒川・大井・渡辺・小栗の順だったという。原は後に、「小栗は自分が斬った」といっていたが、地元の研究者によれば、安中藩の徒目付浅田五郎作が斬ったという説もある。

小栗は遣米使節目付として渡米する直前、従妹の鉞子(よきこ、父・忠高の義弟日下数馬の娘)を養女にし、その許婚として駒井朝温の次男・忠道を養子に迎えていたが、忠道も高崎で斬首された。死の直前に母のくに子、夫人の道子、養女の鉞子を家臣及び村民からなる従者と共に、かねてより面識があった会津藩横山常守を頼り、会津に向かって脱出させた。道子は身重の体であり、善光寺参りに身を扮し、急峻な山道である悪路越えの逃避行であった[48]。その後、一行は新潟を経て閏4月29日には会津に到着し、松平容保の計らいにより夫人らは会津藩の野戦病院に収容され、6月10日に道子は女児を出産、国子と命名された[49]。一行は翌明治2年(1869年)春まで会津に留まり、東京へと戻った。帰るべき場所がない小栗の家族の世話したのは、かつての小栗家の奉公人であり、小栗に恩義を感じている三野村利左衛門であった。三野村は日本橋浜町の別邸に小栗の家族を匿い、明治10年(1877年)に没するまで終生、小栗の家族の面倒を見続けた[50][51]。その間、小栗家は忠順の遺児・国子が成人するまで、駒井朝温の三男で忠道の弟である忠祥が継いだ。三野村の没後も、三野村家が母子の面倒を見ていたが、明治18年(1885年)に道子が没すると、国子は親族である大隈重信に引き取られ、大隈の勧めにより矢野龍渓の弟・貞雄を婿に迎え、小栗家を再興した[52]。  

人物[編集]

雑司ヶ谷霊園にある小栗忠順の墓
  • 大鳥圭介は、小栗について「小栗は、剽悍な人物で、議論の盛んにした。武芸には達したが、洋書を読みこなすまではいたらず、洋学者から話を聞いては、世界情勢に留意していた。私どもが、(小栗の屋敷へ)行くといつも世界情勢の事を聞くから、知っている事を話したが、記憶力は非常に強い人であった。」と証言した[53]
  • 大隈重信は小栗について「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」と語った[54][55]。大隈の妻である綾子は小栗の親族であり、幼少時には兄の三枝守富とともに小栗家に同居していた時期があった[56]。大隈は時流を先読みして行動する小栗の姿勢について感化を受けていたといえる。
  • 明治45年(1912年)7月[57]東郷平八郎は自宅に小栗貞雄と息子の又一を招き、「日本海海戦に勝利できたのは製鉄所造船所を建設した小栗氏のお陰であることが大きい」と礼を述べた後、仁義禮智信としたためた書を又一に贈っている。
  • 三井財閥中興の祖」三野村利左衛門は、かつて小栗家で中間を務めた[58]。三井組に入ったのは小栗との交流があったからこそである[59]。慶応4年(1868年)以降に三井組が新政府へ資金援助を始めたのは、小栗の助言によるとする説もある。
  • 小栗は1867年のパリ万博に際して「日本の工業製品をアピールし、フランス政府の後ろ盾で日本国債を発行、六百万両を工面する」計画を立てた。しかし薩摩藩も琉球と連名で万博に出展し、「幕府も薩摩と同格の地方組織であり、国債発行の資格は無い」と主張したため、計画は頓挫してしまう。その際の小栗についてロッシュは「小栗氏ともあろう者が六百万両程度で取り乱すとは意外だった」と語っている[60]
  • 小栗は独特な言語センスの持ち主であった。頑迷固陋な役人のことを、「器械」という単語を捩って「製糞器」と呼び、彼らを嘲っている[61]。一説には、英語の「company」を「商社」と訳したのは小栗とされる[62]
  • 小栗は鉄砲やの名手でもあり、砲術及び弓術上覧にて、それぞれ皆中し、徳川家慶より褒美を賜っている[63]

江戸幕府役職履歴[編集]

※日付=旧暦

※原典[64]

  • 天保14年(1843年)3月22日 - 江戸城に初登城。徳川家慶に御目見え。
  • 弘化4年(1847年)4月16日 - 小栗忠高嫡子の身分のまま、西の丸書院番に登用され、役料300石を支給される。
  • 嘉永6年(1853年) - 進物番出役に登用される。徳川家定に近侍する。
  • 嘉永7年(1854年) - 外国船に対する警戒の為、浜御殿の警備を担当する。
  • 安政2年(1855年)
    • 7月28日 - 父、忠高が急死。
    • 10月22日 - 家督を相続し、又一を称する。
  • 安政4年(1857年
    • 1月11日 - 書院番(九番組)大岡豊後守清謙組進物番出役から使番に異動。[65]
    • 12月16日 - 布衣を許される。
  • 安政6年(1859年
    • 9月12日 - 使番から目付に異動。、翌日、日米修好通商条約批准の為に、使節として渡米を命じられる。
    • 11月21日 - 従五位下豊後守に叙任。
  • 万延元年(1860年)11月8日 - 目付から外国奉行に異動。
  • 文久元年(1861年
  • 文久2年(1862年
    • 3月9日 - 小姓組番頭(二番組)に就る。[66]
    • 6月5日 - 小姓組番頭から勘定奉行・勝手方に異動。
    • 閏8月4日- 松平出雲守の代理として、朝鮮人来聘御用を拝命。
    • 閏8月25日 - 勘定奉行から江戸南町奉行に異動。
    • 閏8月27日 - 勘定奉行を兼帯。
    • 12月1日 - 南町奉行から歩兵奉行に異動し、勘定奉行・勝手方を兼帯。
    • 12月10日 - 講武所御用取扱兼帯。
  • 文久3年(1863年
    • 4月23日 - 勘定奉行・勝手方、歩兵奉行、講武所御用取扱を辞し、寄合席。
    • 7月10日 - 陸軍奉行並と就る。
    • 7月29日 - 陸軍奉行並を辞し、勤仕並寄合と就る。※勤仕並寄合の期間中、豊後守から上野介に遷任。
  • 元治元年(1864年
    • 8月13日 - 勘定奉行・勝手方と就る。
    • 12月18日 - 軍艦奉行に異動。
  • 元治2年(1865年
    • 1月-横須賀製鉄所御用掛に栗本瀬兵衛らと共に任ぜられる。29日には、フランスと製鉄所建設の約定を交わす。
    • 2月21日 - 軍艦奉行を辞し、寄合と就る。
    • 改元して慶応元年5月4日 - 勘定奉行・勝手方と就る。
  • 慶応2年(1866年)4月、兵庫商社設立の建議書を幕府に提出。関税税率改定交渉に主要人物として参加。
    • 6月5日、兵庫商社を設立し、役員を任命する。
    • 8月11日 - 海軍奉行並を兼帯。
  • 慶応3年(1867年)5月武蔵国豊島郡滝野川村に火薬製造所を設立。
    • 9月26日、小栗が主張していた、兵賦制度が布告され、組合銃隊が廃止される。
    • 12月28日 - 陸軍奉行並を兼帯。[67]
  • 慶応4年(1868年)1月15日 - 陸軍奉行並、勘定奉行を御役御免、勤仕並寄合と就る。

小栗忠順が登場する作品[編集]

テレビドラマ[編集]

映画[編集]

小説[編集]

落語[編集]

漫画[編集]

関連項目[編集]

関連人物[編集]

評伝[編集]

参考文献[編集]

テレビ番組[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 村上 265頁
  2. ^ 早川 13頁
  3. ^ 小川 696頁
  4. ^ 村上 179-188頁
  5. ^ 児島 224頁 但し戦備のためではない。
  6. ^ 川口 89頁-158頁
  7. ^ 司馬 26頁
  8. ^ 旧高旧領取調帳データベースによると、小栗上野介名義の旧領は約3,334石。
  9. ^ 現在の東京YWCA会館。
  10. ^ 小野寺 151頁
  11. ^ 市川、村上 56頁、村上265頁
  12. ^ 村上 265頁
  13. ^ 市川、村上 58頁
  14. ^ 上州路 16頁
  15. ^ この時、ポーハタン号の随行艦である咸臨丸には、軍艦奉行木村芥舟が司令官、勝海舟が艦長として乗っており、木村の従者には福澤諭吉がいた。
  16. ^ 横山 109-125頁、田辺1、177-185頁
  17. ^ しかし、結局ロシア艦を退去させるために英国海軍の圧力が必要となった。
  18. ^ 1メキシコドル=0.75両。一両の価値は[1]参照。
  19. ^ 大松、109頁
  20. ^ 全施設が完成したのは1871年だが、江戸開城直前には第一船渠は完成し、第一、第二船台の工事進捗率はそれぞれ8割、6割であり、一部完成した施設では40馬力の小汽船が製造されていた(武田 119頁)。
  21. ^ 高村 34-35頁
  22. ^ 瀧澤ほか 258頁
  23. ^ 田辺2、237-238頁
  24. ^ 坂本 311-312頁、344頁。
  25. ^ 坂本、335-357頁
  26. ^ 小野寺 127頁
  27. ^ 平間 48-51頁
  28. ^ 坂本 347-372頁
  29. ^ 山本 95頁、及び横須賀製鉄所の人びと 参照
  30. ^ 特に四斤山砲スプリングフィールド銃が主たる対象であった。
  31. ^ [2]
  32. ^ 大松 69-82頁
  33. ^ 武田 127-129頁
  34. ^ 石井 710-713頁 洞410-412頁
  35. ^ 海を越えた日本人名辞典 197頁
  36. ^ 坂本 413-425頁など
  37. ^ 村上 106-121頁
  38. ^ 吉田 217頁
  39. ^ 木村知治、土方伯 398-399頁
  40. ^ 森 192頁
  41. ^ 児島 207-211頁
  42. ^ 小栗日記 69頁
  43. ^ 三野村 52頁、倉渕村 239-240頁
  44. ^ 倉渕村 240頁、加来 104頁、早川15-16頁
  45. ^ 村上 176頁。[3] 
  46. ^ なお、この件に関しては上野国狩宿関所役人・片山保左衛門が慶応4年(1868年)閏4月の日記に「小栗上野介如何様之儀有候哉」と記している(片山 121頁)。
  47. ^ 小栗の斬首の前に鎮撫総督本営から助命の沙汰があったが、現地に沙汰書が届いたのは斬首の翌日であった、という説もある(山田 184頁、畠山 247-248頁)。
  48. ^ 村上、190-206頁
  49. ^ 村上、209頁
  50. ^ 村松、富田、246-248頁
  51. ^ 村上、211、218-219頁
  52. ^ [4][5]
  53. ^ 森 193頁。
  54. ^ 広瀬 213頁、山本 108頁
  55. ^ [6]
  56. ^ 小川 1163頁
  57. ^ 小板橋 245頁
  58. ^ 三野村 9頁。
  59. ^ 三野村 16-17頁。
  60. ^ 尾佐竹猛 112頁。ただし本文中には必ずしも信ずるには足らずと註がある。
  61. ^ 小野寺 153頁。
  62. ^ 広辞苑第六版 「商社」1379頁。
  63. ^ 村上 266頁。
  64. ^ 柳営補任、小川 695-696頁より作成。
  65. ^ 柳営補任 三巻 229頁
  66. ^ 柳営補任 一巻 294頁
  67. ^ 小川 688-689頁
  68. ^ 小栗日記 72-73頁

外部リンク[編集]

先代:
小栗忠高
三河小栗家
第12代:1855年 - 1868年
次代:
小栗忠祥