天野康景

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天野 康景
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 天文6年(1537年
死没 慶長18年2月24日1613年4月14日
改名 又五郎(幼名)→景能(初名)→康景
別名 三郎兵衛(通称)
戒名 興国寺殿報誉宗恩大居士
墓所 神奈川県南足柄市沼田の西念寺
幕府 江戸幕府 町奉行
主君 徳川家康秀忠
駿河興国寺藩
氏族 天野氏
父母 父:天野景隆
正室:牛田行正の娘
康宗康勝康世康由、娘(小栗忠政正室)、娘(榊原忠真室)

天野 康景(あまの やすかげ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将大名徳川氏の家臣。駿河興国寺藩主。天野景隆(甚右衛門尉)の子[1]

生涯[編集]

幼少期から徳川家康の小姓としてその側近くに仕え、家康が人質になったときにも行動を共にした。永禄6年(1563年)の三河一向一揆では一向門徒であった天野一族にも一揆方に付く者がある中、康景は家康方で功を挙げている[2]本多重次高力清長と共に三河三奉行と称され、「仏高力、鬼作左、どちへんなきは天野三郎兵衛」(清長は寛大、重次は剛毅、康景は慎重)と評価された。

天正14年(1586年)には甲賀忍者の統率を任され、2,200貫の所領を与えられた。家康が関東に移ると、下総国内で3,000石を与えられ、同時に江戸町奉行に任じられた。慶長6年(1601年)には1万石を与えられて興国寺藩主となり、その藩政において農政や治水工事に尽力した。しかし、慶長11年(1607年)には康景が貯えた竹木を窃取する者があり、これを阻止せんとする家臣がその盗人と思しき天領の領民たちを殺傷に及ぶ。この問題を巡って[3]家康の内々の仰せを受けた本多正純が康景を訪ねて説得した。しかしその正純が下手人の引き渡しを求めた発言[4]に激怒[5]し、翌12年3月9日(1607年4月5日)、遂に城地を放棄して子の康宗とともに出奔したために改易に処せられた。

その後は小田原(神奈川県南足柄市)の西念寺に入り、慶長18年(1613年)2月24日に同地で死去した。享年77[6]。なお子の康宗は寛永5年(1628年)に赦免されて1000俵を与えられ、天野氏は1000石を知行する中堅旗本として存続を許されている。

脚注[編集]

  1. ^ (村上直 1982, p. 151, 天野康景)
  2. ^ 「宗門たりといへども、これをあらため無二の御味方に候して…」(一向宗門徒であるといえども、宗派を改め無二のお味方として仕え奉って…)と康景は改宗して家康に付いた(煎本益夫 1998, p. 89)。
  3. ^ 殺傷の下手人の召し出しを要求する天領代官・井出甚助と争いになり、更に逃げ戻った件の農民が家康に直訴に及んだとされる問題(新井白石 1968, p. 219)。家康は駿府に両人を召して言い分を聴いたが、「康景は非拠を論ずべき者にあらず、如何さまにも訴ふる者の偽る所にや」(康景は根拠の無い事を論ずるような者ではない。どう見ても訴えている者の偽り事ではないか)と考え、一旦は処断を保留して康景の元に正純を遣わした(新井白石 1968, p. 220)。
  4. ^ 「土民なりといへども公の民なり、和殿が兵は私の人なり、…和殿いかで私の義をたてんとて、公の威を損ずべきようやある、…」(地元民といっても公儀の民であり、貴方の兵は私兵である。…貴方がたとえどのように自分の義を立てようとしても、どうして公儀の権威を損ねるような仕方があろうものか…)(新井白石 1968, p. 220)。
  5. ^ 康景は「…直きをまげて曲れるに随はん事、素懐にあらず…」(正しきを曲げて間違った事に従うのは、自分の常の心掛けと異なる)として、「忽ちに興国寺の城を去って逐電し訖んぬ」(すぐに興国寺の城を去って行方をくらましたのであった)(新井白石 1968, p. 219)。
  6. ^ (渡辺誠 1990, pp. 74 - 75, 天野康景)

参考文献[編集]

  • 煎本益夫 『戦国時代の徳川氏』 新人物往来社、1998年ISBN 4-404-02676-5
  • 新井白石 『新編藩翰譜』第5巻、人物往来社、1968年NDLJP:2974610
  • 村上直「徳川家臣団事典」、『歴史読本』第27巻第1号、新人物往来社、1982年NDLJP:7975307
  • 渡辺誠「家康を支えた戦略集団I」、『徳川家康〈歴史群像・シリーズ11〉』、学習研究社、1990年ISBN 4-05-105148-X

外部リンク[編集]

先代:
天野氏興国寺藩主
1601年 - 1607年
次代:
廃藩