新興キネマ

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新興キネマ株式會社
Shinko Kinema Co.,Ltd.
種類 株式会社
市場情報 消滅
略称 新興
本社所在地 日本の旗 日本
104-0032 現在の番号
東京市京橋区八丁堀2丁目3番地3 早川ビル
(現在の東京都中央区八丁堀2-25-9 トヨタ八丁堀ビル)
設立 1931年8月28日
業種 サービス業
事業内容 活動写真製造(映画の製作・配給)
代表者 堤友三郎
資本金 425万円(創立時)
関係する人物 永田雅一
特記事項:1942年1月10日 合併消滅
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新興キネマ株式會社(しんこう-、1931年8月28日 改組設立 - 1942年1月10日 合併消滅[1])は、第二次世界大戦前の日本の映画会社である。

データ[編集]

略歴・概要[編集]

前身は大阪にあった帝国キネマ演芸である。

1931年(昭和6年)8月28日、東京・八丁堀に本社を構え、営業を開始した。京都・太秦の帝国キネマ太秦撮影所を引き継ぎ、「新興キネマ京都太秦撮影所」(現在の東映京都撮影所)とし、1935年(昭和10年)には東京・大泉に「新興キネマ東京撮影所」(現在の東映東京撮影所)を新設した。

大谷竹次郎白井信太郎らが設立に深く関わっており、事実上松竹の傍系会社であった。監督には伊丹万作溝口健二、脚本家に当時新人の新藤兼人(監督デビューは戦後)、俳優には片岡千恵蔵市川右太衛門大友柳太朗山田五十鈴山路ふみ子逢初夢子河津清三郎浦辺粂子宇佐美淳高田稔らが在籍した。子役時代の森光子も同社に籍を置いている。初期には嵐寛寿郎寛プロ入江たか子入江プロとも提携し、作品を配給した。1936年(昭和11年)、後の大映社長となる永田雅一が入社、京都撮影所長に就任した[2]

1939年(昭和14年)3月29日には演芸部が発足、吉本興業からミスワカナ・玉松一郎香島ラッキー・御園セブン益田喜頓坊屋三郎らを引き抜き一時は大騒動に発展する。背景には吉本の所属芸人があまりにも多くなり、少々の活躍ではギャラアップや劇場での出演順のランク上昇などが認められなくなっていたことが挙げられる。また新興では当初から芸人が異なるエリアの劇場をローテーションする興行体制を予定したことや、映画製作による収益等も見込んでギャラ等を計算したため、芸人にとっては大幅な待遇改善・ギャラの上昇につながった。坊屋三郎は後に当時のことを「吉本では10日毎に新ネタを要求されていたのが新興では(大阪・京都・神戸の劇場を10日毎にローテーションするため)新ネタは1ヶ月毎でよくなりきちんとした作家も付く。独立したショーが用意され一流のバンドやダンサーもつく。おまけに月給も90円から300円に上がるとなると、これでOKしないのはバカだよ」と語っている[3]

これに対し吉本側も芸人たちの新興側の劇場への出演を禁じる仮処分申請を行ったり、暴力団を使って実力で興行を阻止しようとしたりといった方法で対抗したが、既に日中戦争が始まっているという時節柄もあってか京都府警・大阪府警が調停に乗り出す。結局同年5月22日に両社の間で和解が成立し、正式に芸人の移籍が認められた。さらに1941年(昭和16年)には、漫才作者として有名な秋田實が吉本興業から同社に移籍し文芸部長に就任している。

1942年(昭和17年)、戦時統合によって、日活の製作部門、大都映画と合併、同年1月10日の創立総会をもって大日本映画製作株式会社大映、現在の角川映画)となる[1]。新興キネマの本社が、新会社・大日本映画製作株式会社の本社となった[1]。創立登記は同年1月27日で[1]、新興キネマは消滅し、2つの撮影所は大映が引き継いだ。

おもなフィルモグラフィ[編集]

順不同。

関連項目[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d e わが町八丁堀 歴年表、中央区八丁堀二丁目東町会、2010年1月23日閲覧。
  2. ^ a b 新興キネマ本社跡、中央区八丁堀二丁目東町会、2010年1月23日閲覧。
  3. ^ 『上方芸能笑いの放送史』、澤田隆治日本放送出版協会、2002年 ISBN 4140841516、p.69.

外部リンク[編集]