片岡千恵蔵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
かたおか ちえぞう
片岡 千恵蔵
片岡 千恵蔵
本名 植木 正義(うえき まさよし)
別名 片岡 十八郎
片岡 千栄蔵
植木 進
生年月日 1903年3月30日
没年月日 1983年3月31日(満80歳没)
出生地 日本の旗群馬県新田郡藪塚本町
(現在の太田市
国籍 日本の旗 日本
職業 俳優
ジャンル 歌舞伎映画テレビドラマ
活動期間 1912年1983年
活動内容 1912年:片岡少年劇に入団
1924年:映画デビュー
1928年片岡千恵蔵プロダクション設立
1937年日活に入社
1942年大映に入社
1947年東横映画に移籍
1951年東映に移籍
配偶者 あり
家族 長男:植木基晴(元子役)
長女:植木千恵(元子役)
三男:植木義晴日本航空代表取締役社長)
主な作品
万花地獄
國士無双
赤西蠣太
鴛鴦歌合戦
多羅尾伴内』シリーズ
金田一耕助』シリーズ
『判官』シリーズ
血槍富士
大菩薩峠

片岡 千恵蔵(かたおか ちえぞう、旧字体:千惠藏1903年3月30日 - 1983年3月31日)は、大正昭和期の俳優。本名は植木 正義(うえき まさよし)。戦前・戦後の長期にわたり、時代劇の剣戟スターとして活躍し、現代劇でも人気を集めた。代表的な出演作品には映画史に残る名作や話題作、シリーズモノなどあり、その数は日本の歴代俳優の中でも膨大である。

来歴[編集]

歌舞伎界へ[編集]

1903年3月30日、群馬県新田郡藪塚本町(現・太田市)に生まれる。小学校に入学したころに東京市麻布に移る。

1912年、11歳で十一代目片岡仁左衛門の主宰する大阪八千代座の片岡少年劇に入門し、片岡十八郎の名で花形役者となる。

1923年、明治座で名題に昇進。片岡千栄蔵を名乗り、「車曳き」松王丸、「関白秀次」不破伴作などを演じる。屋号は「松島屋[1]」。同門に女形時代の嵐和歌太夫(のちの嵐寛寿郎)がいた。ここまでは順調であったが、門閥の背景がないため長ずるに及んで芽が出ず、大部屋に悶々とする。

映画界へ[編集]

1923年小笠原プロダクションに加入し、植木進(うえき すすむ)の名で現代劇『三色すみれ』に出演。映画デビュー作となった。その後も片岡千栄蔵の名で舞台に立った。

あるとき、市川小太夫に誘われて、新劇協会の稽古に行った。が、膚が合わず、新劇の稽古には結局出ずじまいだった。しかし、牧野省三の出資で聯合芸術協会を設立して新人スカウトを頼まれていた直木三十五に目を留められて1927年4月、直木の誘いでマキノに入った。嵐長三郎(嵐寛寿郎)より一日早い入社だった。これ以降片岡千恵蔵を名乗り、吉川英治原作の『万花地獄』(中島宝三監督)などに出演した。

1928年2月、『忠魂義烈・実録忠臣蔵』で牧野監督が、以前の約束を破って浅野内匠頭役に諸口十九を起用したことで、牧野と衝突。服部小佐衛門の役を当てられたが、これに不満を持った千恵蔵はマキノ脱退を決意した[2]

千恵プロの創設[編集]

國士無双』(1932年)右は山田五十鈴

同年4月、25歳で独立して映画製作プロダクション・片岡千恵蔵プロダクション(千恵プロ)を創立。千恵蔵はまだ資金も名声も無かったが、巨匠伊藤大輔の推薦によって、脚本家・伊丹万作稲垣浩監督が設立に参加。このスタッフで『源氏小僧』、『天下大平記』など時代劇を連発していく。翌1929年1月15日に京都嵯峨野に千恵プロ撮影所を完成。5月、日活と提携[3]した。

千恵プロでは伊丹、稲垣両監督を中心に、チャンバラに頼らず、主人公の人間ドラマを主とした明朗快活な作風の時代劇が多く作られた。言葉も現代語で、斬新な手法を使い、これらの作品は髷をつけた現代劇と呼ばれて日本映画界に新風を巻き起こした。稲垣の『放浪三昧』『鴛鴦旅日記』『一本刀土俵入』『弥太郎笠』、伊丹の『仇討流転』『國士無双』『武道大鑑』『赤西蠣太』、マキノ正博の『白夜の饗宴』、伊藤大輔の『堀田隼人』、山中貞雄の『風流活人剣』など数々の名作・佳作を送り出し、17本の作品がキネマ旬報ベストテンにランクインした。

稲垣の『元禄十三年』では、現代劇から入江たか子を抜擢し、『番場の忠太郎・瞼の母』(1931年)で日活と提携更新。1932年の『白夜の饗宴』は、「もともと剣戟は好きでない」と語る千恵蔵が自ら製作したまったくチャンバラのない時代劇である。同年の『旅は青空』は千恵プロにGKシステムの国産トーキーとトーキースタジオを導入した、第1回トーキー作品となった。1936年の『赤西蠣太』では白塗りの二枚目・「原田甲斐」と醜男の「赤西蠣太」の二役を演じた。

俳優の経営するプロダクションとしては最も長く続いた千恵プロだったが、本格的にトーキー時代に入った1937年(昭和12年)、『松五郎乱れ星』を最後に解散してウエスターン録音を持つ日活に全社員と共に迎えられる。同じ独立プロの苦労を経験したマキノ正博と組んで、オペレッタ映画の『鴛鴦歌合戦』や『忠臣蔵』『清水港』『織田信長』などの佳作に主演し、1940年からは吉川英治の大作を映画化した『宮本武蔵』シリーズに武蔵役で主演した。

大映へ[編集]

1942年、日活と新興キネマなどが戦時統合で合併した大映に入る。

1946年GHQ占領政策によって剣戟映画の製作本数が制限され、「剣戟」が出来なくなったことにより、現代劇に出演し、『七つの顔』で多羅尾伴内を演じた。以降多羅尾伴内は当たり役となり、作品も荒唐無稽なエンターテインメント作品として興業的にも大成功した。

しかし大映社長・永田雅一は談話の中で「多羅尾伴内ものなど幕間のつなぎであって、わが社は今後、もっと芸術性の高いものを製作してゆく所存である。」と言及、この発言に千恵蔵が激怒「わしは何も好き好んで、こんな荒唐無稽の映画に出ているのではない。幸い興行的に当たっているので、大映の経営上のプラスになると思ってやっているのに社長の地位にあるものが幕間のつなぎの映画とは何事だ。もう伴内ものは絶対に撮らない。大映との契約が切れたら再契約しない。」と言明し永田と千恵蔵の関係は決裂。比佐芳武らとともに東横映画への移籍を決意した。

東横映画へ[編集]

俺は用心棒』(1950年)公開時のポスター。座っているのが片岡、立っているのは月形龍之介

1947年東横映画で『三本指の男』に金田一耕助で主演。千恵蔵の金田一耕助の扮装は、原作と異なり背広にソフト帽というスマートなスタイルだったが、ヒット作品となり、多羅尾伴内と並ぶ当り役となった。ほかにも囮捜査官の活躍を描いた現代劇『にっぽんGメン』シリーズに主演するなど、ギャング・アクション映画でも大活躍した。

東映へ[編集]

1951年、東横映画と太泉映画東京映画配給株式会社に吸収合併され、東映株式会社に商号変更。千恵蔵は東映京都市川右太衛門とともに重役兼トップスターとして活躍を始める。当時、千恵蔵は京都の山の手(嵯峨野)に住んでいた事から「山の御大」と呼ばれた。(右太衛門は北大路に住んでいたので「北大路の御大」と呼ばれたという。)

1955年内田吐夢監督の戦後復帰第1作である『血槍富士』に主演。当作はブルーリボン賞大衆賞を受賞した。1957年、『大菩薩峠』三部作に机龍之介役で主演。ほか遠山の金さんを演じた「いれずみ判官」シリーズなどが代表作となり、東映時代劇の重鎮として活躍した。1960年代頃からは若手スターの中村錦之助大川橋蔵らに主役の座を譲って、脇役を演じることが多くなったが、1963年には『十三人の刺客』で主演。この作品は嵐寛寿郎との共演で、時代劇衰退期にあった東映の重役として、集団抗争劇を模索した時代劇であり、傑作の呼び声も高い。

その後、主役に拘って映画から退いた市川右太衛門とは対照的に、東映任侠映画の脇役等もこなした。

晩年はテレビドラマでも活躍し、『落城』(原作:田宮虎彦)や『軍兵衛目安箱』に主演、1972年の『世なおし奉行』が最後の主演作品となった。その後『大岡越前』(主演:加藤剛)の父親・大岡忠高や、ホームドラマ七色とんがらし』(主演:千葉真一、脚本:向田邦子)にも出演した。

時代劇俳優としては、スピードのある手数の混んだ殺陣は得意ではなかったが「型」の美しさは抜群であった。戦前の『赤西蠣太』の原田甲斐の殺陣や『宮本武蔵 一乗寺決闘』の二刀流の殺陣。戦後では『大菩薩峠』の盲目になった机龍之助の妖気ただよう殺陣が見事といわれる。

1983年(昭和58年)、腎不全のため死去。東映では彼の長年に渡る多大なる貢献を讃えて東映葬を行った。

人物・エピソード[編集]

同時代の剣戟俳優である阪東妻三郎嵐寛寿郎市川右太衛門大河内傳次郎長谷川一夫とともに、「時代劇六大スタア」と呼ばれた[4]。また、大映創立によって、阪東妻三郎・嵐寛寿郎・市川右太衛門と千恵蔵が揃った際には「時代劇四大スタア」と称された[5]

長男の植木基晴(「千恵蔵二世」と呼ばれた)、娘の植木千恵は子役で、東映時代の千恵蔵と共演したが、その後引退。三男の植木義晴日本航空の元操縦士で、同社の専務執行役員を経て、代表取締役社長に就任した[6]。四男国晴ともに一般人。

1927年に「奴」を踊った際に、癇癪持ちの片岡仁左衛門から罵られ、真剣の峰で顔を殴られたことがあった。これを見て和歌太夫(嵐寛寿郎)は「心が寒くなった」といい、歌舞伎の世界に見切りをつけたと語っている[7]

自宅は京都にあったが、晩年は東映役員を兼任しながら、名古屋錦町に三階建てのレストランビル、「千恵蔵ビル」を建て、次男の孝臣に経営を任せ、二階に趣味と実益を兼ねた麻雀屋を開業、月の半分程はここで麻雀三昧の日を送っていた。

マキノ・プロ脱退のいきさつ[編集]

マキノ・プロダクションでスタアとなった千恵蔵だが、脱退を決意したのは『忠魂義烈・實録忠臣蔵』での起用に端を発していた。監督のマキノ省三伊井蓉峰を大石役に招聘して製作。しかし「新派の大統領」と呼ばれた伊井の自惚れた振舞いに現場は猛反発。もともと千恵蔵も嵐長三郎(アラカン)も、封建的な歌舞伎の世界に嫌気がさして活動写真の世界に飛び込んだ俳優だっただけに、これには呆れ果てたという。アラカンは「千恵さんやらワテがマキノやめようと、ひそかに決心した理由の一つはこの伊井蓉峰」と語っている[8]。さらにマキノ省三監督は以前に「忠臣蔵の判官(浅野内匠頭)の役はお前にやらせる」と片岡に口約束していたのだが、言うに言われぬ事情によって諸口十九を起用したのである。これに千恵蔵が憤慨してしまい、マキノは眼違いをしているとさえ批判されもした。千恵蔵の抗議にはマキノ監督も困り果ててしまい、「仮名手本の判官は演らせると云うたが、実際の浅野内匠頭だと役どころが違ってくるから、しかたがないやないか」と苦しい答弁で千恵蔵をなだめ、代償として両国引き揚げの場に四十七士を引き留める服部小佐衛門の役を当てて、千恵蔵の面子をたてた。この役は出場は少ないが座頭格で、特別出演モノであるからマキノとしては誠心誠意千恵蔵を重用したつもりだったが、その後いくつかの経緯を経て、結局千恵蔵のマキノ脱退、独立プロ設立になろうとは、マキノは予想もしていなかったという。

そもそも千恵蔵がマキノに入ったきっかけは「直木三十三」の引き合わせによるものだが、直木はマキノに金を出させて名だけ貸す、という不誠実な映画製作を続け、「直木三十五」になって初めて自分の原作を渡すことが出来たのが千恵蔵主演の『烏組就縛始末記』だった。一方、マキノ省三監督としては、入社以来くっつき過ぎている千恵蔵と直木の二人組には最初から不愉快な気持ちを抱いており、「千恵蔵の陰に直木あり」として、千恵蔵をやや敬遠していた。マキノ雅弘は「直木は三十五になるまでマキノから銭だけ取って何もしなかった人であり、そんなタカリ専門の男からの個人的な紹介であったことが、当然ながら最初からマキノの不信感を買うことになり、千恵蔵の不幸であった」と語っている[9]

千恵蔵と片岡千恵蔵プロダクション[編集]

『瞼の母』(1936年)右は林誠之助

結局マキノに入った千恵蔵も市川右太衛門嵐寛寿郎も、早くて一年後、遅くとも二年後には独立プロを作っているが、これについて千恵蔵は次のように語っている。

「一種の流行みたいなもんだったんでしょうね。でも今考えると怖いみたいです。最初は三十人くらい、多い時には百人に近いスタッフを抱えて、給料を払っていましたから。それにみんな若かった。ひろちゃん(稲垣浩)も万さん(伊丹万作)も曾我正史(振津嵐峡)も、みんな独身で。それに今みたいに組合がうるさくなくて、本当に好きなものだけがやってましたから」

千恵蔵は千恵プロ創設の際、本人によると「あつかましくも」伊藤大輔に監督を頼みに行った。当時伊藤監督はタイトルロールに名が出ると主演俳優以上に拍手が起こるほどの人気監督だった。だが伊藤監督はちょうど『大菩薩峠』撮入前で都合がつかず、代わりに紹介してくれたのが稲垣と伊丹だった。千恵蔵はプロデューサーとしても才覚を大いに発揮、数々の名作を世に送り出している。初期の千恵プロ映画に漂う漂泊の詩情は、「文字通り米一升を買う金もなく、お粥をすすって」ひたむきにカツドウ写真を撮り続けた時代劇青春の自画像であった。後年ベストテン作品をほとんど独占したといってもよい、千恵プロ時代劇の目覚ましい台頭は、このときの人間的運命によって約束されたのである。いわゆるスタープロの中で、千恵プロが最後まで堅塁を守り得たのは偶然ではなかった[10]

1931年、稲垣は『瞼の母』の映画化に動いたが、会社に反対され、宣伝部の玉木潤一郎の発案で、千恵蔵の名を騙って原作者長谷川伸に電報を打つことにした。二人は首を覚悟で「マブタヤリタシ、オユルシコウ、カタオカチエゾウ」と電報を打ったところ、長谷川から「マブタ、オーケー」と千恵蔵のもとに返事が送られてきた。これに千恵蔵がカンカンに怒って、日活が否決した企画なのに原作者からOKではプロダクションのあるじとして双方に顔向けならぬ、その始末をどうつけるのかと二人を呼び出した。これに稲垣が、自分が辞めれば千恵蔵にも誰にも迷惑はかかるまいと「責任をとってやめます」と切り出したので千恵蔵は考え直し、日活に『瞼の母』映画化の交渉をしたところ、稲垣の正月物の『一心太助』のヒットもあって、企画が通ることとなった。こうして『番場の忠太郎・瞼の母』が千恵プロと日活の契約更新最初の作品として製作されることとなった。

初の人情時代劇ということでオールスター共演となり、原作者の長谷川伸も撮影見学に訪れ、千恵蔵とすっかり仲良くなった。映画は大ヒットし、以後長谷川の知遇を得た千恵蔵は数多くの人情物の股旅映画を作ることとなった[11]

千恵プロ創立のころ、「先生」と呼ばれることを嫌った。一門の弟子たちは別として、稲垣監督らは「千恵さん」、「千恵プロ」と呼んだ。稲垣は「これは若く書生っぽらしい千恵さんには、それがよく似合った」という。お天気屋だった阪東妻三郎をなだめるため、安田憲邦監督があるとき「ハイ御大のアップ頂戴ッ」とやって、一同和やかな雰囲気になったという逸話があるが、この話が出た後、伊丹万作監督が「では御大のアップを頂戴するかのう」と言ったところ、千恵蔵が「オイオイ、御大だけはやめてくれヨ」と返し、「では、ホンタイならよかろう」ということで、それ以来千恵蔵のことを「ホンタイ」と呼ぶようになった。「御大」と呼びだしたのは、日活と交流するようになってからである。稲垣は「若く書生っぽらしい千恵さんには不似合いだっただけに、なにか新鮮さがあってよかった。いまは、太閤が秀吉、判官が義経にとどめをさしたように、御大は千恵蔵の代名詞となった」と語っている。

千恵蔵を「園長」と呼ぶ、1958年発足の「嵯峨野学園」という集まりがあった。これは千恵プロ時代の仲間たちの同窓会で、会員のうち、千恵プロ解散以前に他社へ転じた稲垣と伊丹万作は「落第生」ということになっている[12]

剣劇スタア・片岡千恵蔵[編集]

「時代劇の貴公子」と呼ばれた千恵蔵は、当時の時代劇スタアの中で一番のインテリであり、「私は剣戟が好きでなかった」と言ってのけた、ただ一人の時代劇スタアだった。マキノ脱退後の千恵蔵の立ち回りはコミカルでユーモラスであり、諧謔的で、裾をはだけた「フンドシ大サービス」の大立ち回りが大いに受け、千恵プロの作品はキネマ旬報をはじめ、数々のベストテンを受賞した。

本人があまりチャンバラをやりたがらなかったというだけあって、マキノ雅弘によれば、マキノ時代の千恵蔵の立ち回りは「正直言ってあまりうまくなかった」という。稲垣浩が千恵プロに入るときに、マキノで千恵蔵映画を担当した小石栄一監督は、稲垣に「千恵プロへ行くんだって? あれ(千恵蔵)、立ち回り下手やでえ」と声をかけたという。このため、稲垣監督も「チャンバラのないシャシンを一生懸命考えた」と語っていて、千恵蔵の抒情的な時代劇は、マキノ雅弘監督に言わせれば「稲垣監督がうまく見せたおかげ」だという。そんな千恵蔵だったが、マキノ雅弘監督が日活から千恵プロに応援に行くころには立ち回りがうまくなっていたという[13]

昭和初期に自動車を持っていた時代劇スタアはアラカンと千恵蔵、大河内傳次郎ぐらいのもので、撮影所も静かだった。ある日、稲垣監督の家に、千恵蔵がズブ濡れ姿で飛び込んできた。別に顔色もかわってはいなかったが、姿が異様なので稲垣が驚いて、どうしたのだと訊くと、稲垣の家のそばの宇多野の「弁慶の足形池」に、キャデラックごと落ちたのだという。

千恵蔵は買ったばかりのキャデラックで、池の周りの舗装道路を無免許で初運転していたところ、桜並木につい見とれてカーブを曲がれず池の中に進んでしまったのである。怪我がなかったときくと稲垣はすぐに高級車のことが心配になったが、この車はずいぶん長く池の中に放置され、引き揚げたときには使いものにはならず、そのかわり稲垣はこの辺でロケをするたびに「ここが千恵蔵遭難の池だ」と噂をした。

映画界がトーキー時代に入ると、セリフの発声に大スタアたちも四苦八苦するようになった。千恵蔵は自分の声に合わせた録音機を製作させたり、「ウラ声」の低音をつかうように稲垣らがすすめたりして、独特の「千恵蔵の声」をつくりだしたという[14]

千恵蔵と入江たか子[編集]

1931年、『元禄十三年』(稲垣浩監督)で、時代劇初出演の入江たか子を相手役にし、当時二十代の千恵蔵は「おたかの八重歯、鼻にかかった声、共演どころか女房にしたいくらいだ」と入江にすっかり惚れ込んでしまった。「モダンガール」という流行語ができたころで、入江はその代表と呼ばれたほど洋装が似合ったが、日本髷の振袖は一段と美しく、千恵蔵は好きなマージャンも忘れるほど入江を思い詰めた。

監督の稲垣浩もこうなっては「映画の演出のほかに両人のことも演出してやらねばならなくなった」というわけで、なにかと入江と千恵蔵が話せる機会をつくったが、撮影が終わりに近づくと千恵蔵の寂しそうな様子が目に見えたという。撮影の最後は広沢池の弁天島に両人を残した大ロングということになり、稲垣はキャメラマンと望遠レンズで二人の様子を見ていたが、手を握るでなし抱き合うでもなし、お互いに肩をたたいたり笑ったり、そのうちに千恵蔵が「カメラはどこやァ・・・」と怒鳴りだしたという。

この映画は新宿帝都座開館記念の記念封切りとなり、両人は京都から舞台挨拶に東上した。人気スタアだけに恋を語る暇もなかったらしく、映画ではチャンバラの王者も日夜恋になやむのを見て稲垣は千恵蔵を急病に仕立てて入江を見舞わせる手まで打ったが、結局何事もなかったといい、翌年入江は田村道美と結婚してしまった。稲垣は「恋は、ままならぬものである」と述懐している。千恵蔵自身は昭和19年に結婚したが、戦時の最中ということで大きな話題にもならなかった[15]

千恵蔵と人気シリーズ[編集]

任侠もの、武士もの、町人もの、あるいは心理的、風刺的、活動的と、オーソドックスで芸域の広い千恵蔵は、出演映画の種類が多く、ちょっぴりガニ股に愛嬌があり、長い間人気の王座にあった。中でも浪人や股旅が得意で、飄々とした役柄は何ともいえぬ親しさがあった。変わり身の面白さで見せる遠山金四郎ものは千恵蔵適役の一つで、形を変えて幾度映画化されても、大向こうの喝采があった[16]。戦前からの千恵蔵の代表的時代劇「遠山金四郎」シリーズでの、金四郎の名ゼリフについて、千恵蔵は次のように語っている。

「これはお客を喜ばせる作品ですよ。ですから、くさい芝居、オーバーな芝居をするんですね。それと声。緩急自在といいますか、声を大きく張って、それから落して・・・、花も吉野の千本桜! くらべて劣らぬ遠山桜だあ! ・・・とね」

また、戦後の千恵蔵の「多羅尾伴内」と「金田一耕助」の人気現代劇シリーズについて、千恵蔵本人は次のように語っている。

「多羅尾伴内、あれは時代劇みたいなものですね。現代のカッコしてますが現代劇とは言えないでしょう。金田一耕助は、原作者には申し訳なかったと思ってます。この名探偵は、エエカッコしてはいけないのですよ。ヨレヨレの着物ですか、これでなければいけないのです。でも当時は、それでは通らなかったですね。スマートにしないと、映画の主人公は通用しなかったのですよ。スター本位でしたから、スターのイメージを、壊してはいけなかったのですね。今なら原作通りでやれますが、当時はスマートなカッコしないと、おさまらなかったのですよ。これは今でも心苦しく思っています[17]。」

おもな出演作[編集]

映画[編集]

『愛染地獄』(1930年)公開時のチラシ。
花火』(1931年)の一場面。
瞼の母』(1932年)右は常盤操子
『旅は青空』(1932年)公開時のチラシ。
鴛鴦歌合戦』(1939年)一番左。
千石纏』(1950年)公開当時のスチル写真。右が片岡、左は市川右太衛門
  • 三色すみれ(1923年、小笠原映画研究所)※デビュー作
  • 万花地獄 - 小枝角太郎
    • 第一篇(1927年、マキノ)
    • 第二篇(1927年、マキノ)
    • 第三篇(1927年、マキノ)
    • 第四篇(1927年、マキノ)
    • 第五篇(1928年、マキノ)
    • 続万花地獄 第一篇(1928年、千恵プロ)
    • 続万花地獄 第二篇(1929年、千恵プロ)
    • 続万花地獄 完結篇(1929年、千恵プロ)
  • 任侠二刀流(マキノ) - 山影宗三郎、尾張宗春
    • 第一篇(1927年)
    • 第二篇(1927年)
    • 終篇(1928年)
  • 忠魂義烈 実録忠臣蔵(1928年、マキノ) - 服部一郎右衛門
  • 源氏小僧(1928年、千恵プロ) - 源氏小僧
  • 放浪三昧(1928年、千恵プロ) - 伊達主水
  • 天下太平記(1928年、千恵プロ) - 気まぐれ冠者
  • 仇討流転(1928年、千恵プロ) - 喜多左近
  • ごろん棒時代(1929年、千恵プロ)
  • 鴛鴦旅日記(1929年、千恵プロ) - 大河原数馬
  • 絵本武者修行(1929年、千恵プロ) - 春太郎高国
  • 宮本武蔵 (1929年、千恵プロ) - 宮本武蔵
  • 愛染地獄(千恵プロ)
    • 第一篇(1929年)
    • 第二篇(1929年)
    • 第三篇(1930年)
  • 諧謔三浪士(1930年、千恵プロ)
  • 右門捕物帖 三番手柄(1930年、千恵プロ) - むっつり右門
  • 忠直卿行状記(1930年、千恵プロ) - 越前少将忠直
  • 一心太助(1930年、千恵プロ) - 一心太助
  • 風雲天満双紙(1930年、千恵プロ) - 大塩平八郎
  • 花火(1931年、千恵プロ) - 結城孫六
  • 一本刀土俵入 (1931年、千恵プロ) - 駒形茂兵衛
  • 瞼の母(1931年、千恵プロ) - 番場の忠太郎
  • 男達ばやり(1931年、千恵プロ) - 三浦小次郎義也
  • 金的力太郎(1931年、千恵プロ) - 金的力太郎
  • 快侠金忠輔(千恵プロ) - 金忠助
    • 前篇(1931年)
    • 中篇・後篇(1931年)
  • 殉教血史 日本二十六聖人(1931年、日活) - フランシスコ大工伝吉
  • 水野十郎左衛門(1931年、千恵プロ) - 水野十郎左衛門
  • 弥太郎笠(1932年、千恵プロ) - 二本差弥太郎
  • 國士無双(1932年、千恵プロ) - 贋者
  • 明治元年(1932年、千恵プロ)
  • 闇討渡世(1932年、千恵プロ) - 平手造酒
  • 旅は青空(1932年、千恵プロ)※千恵プロ第一回トーキー映画
  • 白夜の饗宴(1932年、千恵プロ) - 平原格之丞
  • 研辰の討たれ(1932年、千恵プロ) - 守山辰次
  • 時代の騙児(1932年、千恵プロ) - 次郎吉
  • 刺青奇遇(1933年、千恵プロ) - 手取の半太郎
  • 国定忠治(千恵プロ) - 長岡忠治郎
    • 旅と故郷の巻(1933年)
    • 流浪転変の巻(1933年)
    • 霽れる赤城の巻(1933年)
  • 堀田隼人(1933年、千恵プロ) - 堀田隼人
  • 笹野権三郎 三日月笹穂切り(1933年、千恵プロ) - 笹野権三郎
  • 風雲(千恵プロ) - 西郷吉之助、中村半次郎
    • 前篇(1933年)
    • 後篇(1934年)
  • 渡鳥木曾土産(1934年、千恵プロ) - 半時の吉松
  • 風流活人剣(1934年、千恵プロ) - 篠原求馬
  • 武道大鑑(1934年、千恵プロ) - 小楯弓之助
  • 珊瑚重太郎(1934年、千恵プロ) - 珊瑚重太郎、久我丹波守
  • 忠臣蔵(1934年、日活) - 浅野内匠頭、岡野金右衛門
  • 直八子供旅(1934年、千恵プロ) - 和泉の直八
  • 足軽出世譚(1934年、千恵プロ) - 唐鎌金八
  • 雁太郎街道(1934年、千恵プロ) - 銚子の雁太郎
  • 戦国奇譚 気まぐれ冠者(1935年、千恵プロ) - 気まぐれ冠者
  • 情熱の不知火(1935年、千恵プロ)
  • 白牡丹(1935年、千恵プロ) - 友太郎
  • 黄昏地蔵(千恵プロ) - 旅烏秩父の栄太郎
    • 前篇 疾風転変の巻(1935年)
    • 後篇 血河復讐の巻(1935年)
  • 赤西蠣太(1936年、千恵プロ) - 赤西蠣太、原田甲斐
  • 刺青奇偶(1936年、千恵プロ) - 手取の半太郎
  • 女殺油地獄(1936年、千恵プロ) - 河内屋与兵衛
  • 荒木又右衛門(1936年、千恵プロ) - 荒木又右衛門
  • 瞼の母(1936年、千恵プロ) - 番場の忠太郎
  • 宮本武蔵 地の巻(1937年、日活) - 新免武蔵
  • 松五郎乱れ星(1937年、日活) - 鋳掛屋松五郎
  • 自雷也(1937年、日活) - 自雷也
  • 水戸黄門シリーズ(日活) - 渥美格之進
    • 水戸黄門廻国記(1937年)
    • 続水戸黄門廻国記(1938年)
  • 無法者銀平(1938年、日活) - 山犬の銀平
  • 鴛鴦道中(1938年、日活)
  • 忠臣蔵 地の巻・天の巻(1938年、日活) - 浅野内匠頭、立花左近
  • 人生劇場 残侠篇(1938年、日活) - 飛車角
  • 長八郎絵巻(日活) - 戸並長八郎、藍坂帯刀
    • 月の巻(1939年)
    • 花の巻(1939年)
  • 春秋一刀流(1939年、日活) - 平手造酒
  • 清水港(1939年、日活) - 政吉
  • 鴛鴦歌合戦(1939年、日活) - 浅井礼三郎
  • 続清水港(1940年、日活) - 森の石松
  • 神変麝香猫(1940年、日活) - 夢想小天治
  • 宮本武蔵(日活) - 宮本武蔵
    • 草分の人々・栄達の門(1940年)
    • 剣心一路(1940年)
    • 一乗寺決闘(1942年)
  • 織田信長(1940年、日活) - 織田信長
  • 独眼竜政宗(1942年、大映) - 伊達政宗
  • 維新の曲(1942年、大映) - 西郷吉之助
  • 三代の盃(1942年、大映)
  • 宮本武蔵(1943年、大映) - 宮本武蔵
  • 宮本武蔵 二刀流開眼(1943年、大映) - 宮本武蔵
  • 土俵祭(1944年、大映)
  • 高田馬場前後(1944年、大映) - 浅野内匠頭
  • かくて神風は吹く(1944年、大映) - 北条時宗
  • 多羅尾伴内シリーズ - 多羅尾伴内(藤村大造)
    • 七つの顔(1946年、大映)
    • 十三の眼(1947年、大映)
    • 二十一の指紋(1948年、大映)
    • 三十三の足跡(1948年、大映)
    • 片目の魔王(1953年、東映)
    • 曲馬団の魔王(1954年、東映)
    • 隼の魔王(1955年、東映)
    • 復讐の七仮面(1955年、東映)
    • 多羅尾伴内 戦慄の七仮面(1956年、東映) - 片目の運転手、保険外交員、新田改吉、片倉雄吉、王介雲(六役)
    • 多羅尾伴内 十三の魔王(1958年、東映)
    • 多羅尾伴内 七つの顔の男だぜ(1960年、東映)
  • 金田一耕助シリーズ - 金田一耕助
  • かくて忍術映画は終わりぬ(1948年、東横) - 秋葉信太郎
  • にっぽんGメンシリーズ
    • にっぽんGメン(1948年、東横) - 江藤実
    • にっぽんGメン 難船先の血闘(1950年、東横) - りゃんこの政
    • にっぽんGメン 不敵なる逆襲(1951年、東映) - 田村文吉
  • 俺は用心棒(1950年、東横)
  • 判官シリーズ - 遠山金四郎(遠山の金さん)
    • いれずみ判官 桜花乱舞の巻(1950年、東横)
    • いれずみ判官 落花対決の巻(1950年、東横)
    • 女賊と判官(1951年、東横)
    • 飛びっちょ判官(1952年、東映)
    • 血ざくら判官(1954年、東映)
    • 荒獅子判官(1955年、東映)
    • 江戸っ子判官とふり袖小僧(1959年、東映)
    • 御存じ いれずみ判官(1960年、東映)
    • さくら判官(1962年、東映)
  • 千石纏(1950年、東横) - に組の長次
  • あばれ神輿(1951年、東映) - 板場の幸三
  • 殴られた石松(1951年、東映) - 沓掛時次郎
  • 新撰組(東映) - 秋葉守之助
    • 京洛風雲の巻(1952年)
    • 池田屋騒動(1952年)
    • 魔剣乱舞(1952年)
  • 赤穂城(1952年、東映) - 浅野内匠頭、大石内蔵助
  • はだか大名(東映) - 浮世捨三郎
    • 前篇(1952年)
    • 後篇(1952年)
  • 忠治旅日記シリーズ(東映) - 国定忠治
    • 忠次旅日記 逢初道中(1952年)
    • 忠次旅日記 喧嘩太鼓(1953年)
  • 人生劇場(東映) - 飛車角
    • 第一部 青春愛欲篇(1952年)
    • 第二部 残侠風雲篇(1953年)
  • 女間者秘聞 赤穂浪士(1953年、東映) - 大石内蔵助
  • 大菩薩峠(東映) - 机龍之介 ※渡辺邦男監督版
    • 甲源一刀流の巻(1953年)
    • 第二部(1953年)
    • 第三部(1953年)
  • 日輪(1953年、東映)
  • 南国太平記シリーズ(東映) - 益満休之助、牧仲太郎
    • 南国太平記(1954年)
    • 続南国太平記 薩南の嵐(1954年)
  • お坊主天狗(東映) - 番匠谷吉三郎
    • 前篇(1954年)
    • 後篇(1954年)
  • 一本刀土俵入(1954年、東映) - 駒形茂兵衛
  • 新選組鬼隊長(1954年、東映) - 近藤勇
  • 勢揃い喧嘩若衆(1955年、東映) - 遠山左衛門尉
  • 血槍富士(1955年、東映) - 権八
  • 遠山金四郎もの(東映) - 遠山金四郎
    • 喧嘩奉行(1955年)
    • 長脇差奉行(1956年) - 国定忠治(二役)
    • 海賊奉行(1957年)
    • はやぶさ奉行(1957年)
    • 火の玉奉行(1958年)
    • たつまき奉行(1959年)
    • さいころ奉行(1961年) - いぶしの銀次(二役)
  • 弥太郎笠(1955年、東映) - りゃんこの弥太郎
  • 飛龍無双(1955年、東映) - 又平
  • 黒田騒動(1956年、東映) - 栗山大膳
  • 赤穂浪士 天の巻・地の巻(1956年、東映) - 立花左近
  • 剣豪二刀流(1956年、東映) - 宮本武蔵
  • 逆襲獄門砦(1956年、東映) - 照造
  • アクション・ギャングもの(東映)
    • 野郎ども表へ出ろ(1956年) - 田村鉄太郎
    • 奴の拳銃は地獄だぜ(1958年) - りゃんこの政吉
    • 地獄の底までつき合うぜ(1959年) - 碇源次
    • 無法街の野郎ども(1959年) - 熊襲の健
    • 二発目は地獄行きだぜ(1960年) - 月の輪熊次
    • 俺が地獄の手品師だ(1961年) - バッファロウ・ゲン
    • 地獄の底をぶち破れ(1961年) - 山上千吉
    • 地獄の裁きは俺がする(1962年) - 大門竜三
    • 裏切者は地獄だぜ(1962年) - 海山千吉
  • 海の百万石(1956年、東映) - 銭屋五兵衛
  • 妖蛇の魔殿(1956年、東映) - 尾形宗久
  • 新春オールスター映画(東映) - 清水次郎長
    • 任侠清水港(1957年)
    • 任侠東海道(1958年)
    • 任侠中山道(1960年)
  • 大菩薩峠(東映) - 机龍之介 ※内田吐夢監督版
    • 大菩薩峠(1957年)
    • 第二部(1958年)
    • 完結篇(1959年)
  • 水戸黄門(1957年、東映) - 将軍綱吉
  • 素浪人忠弥(1957年、東映) - 丸橋忠弥、松平信綱
  • 佐々木小次郎(東映) - 宮本武蔵
    • 前篇(1957年)
    • 後篇(1957年)
  • 直八子供旅(1958年、東映) - 和泉の直八
  • 旗本退屈男(1958年、東映) - 伊達忠宗
  • 国定忠治(1958年、東映) - 国定忠治
  • 紫頭巾(1958年、東映)
  • 忠臣蔵 桜花の巻・菊花の巻(1959年、東映) - 大石内蔵助
  • お役者文七捕物暦 蜘蛛の巣屋敷(1959年、東映) - 大岡越前守
  • 血斗水滸伝 怒濤の対決(1959年、東映) - 国定忠治
  • 浪花の恋の物語(1959年、東映) - 近松門左衛門
  • 大岡政談 千鳥の印籠(1959年、東映) - 水木半九郎
  • 血槍無双(1959年、東映) - 俵星玄蕃
  • 酒と女と槍(1960年、東映) - 前田利長
  • 壮烈新選組 幕末の動乱(1960年、東映) - 近藤勇
  • 水戸黄門(1960年、東映) - 柳原大納言資廉
  • 花の吉原百人斬り(1960年、東映) - 佐野次郎左衛門
  • 半七捕物帖 三つの謎(1960年、東映) - 半七
  • 赤穂浪士(1961年、東映) - 大石内蔵助
  • 無宿シリーズ(ニュー東映)
    • アマゾン無宿 世紀の大魔王(1961年) - アマゾンの源次
    • ヒマラヤ無宿 心臓破りの野郎ども(1961年) - 土門健吉
  • はやぶさ大名(1961年、東映) - 松平治郷
  • 天下の御意見番(1962年、東映) - 松平伊豆守
  • 太平洋のGメン(1962年、東映) - 広上
  • 花と野盗の群れ(1962年、東映) - 本阿弥光悦
  • 勢揃い関八州(1962年、東映) - 国定忠治
  • お坊主天狗(1962年、東映) - 番匠谷吉三郎
  • 勢揃い東海道(1963年、東映) - 清水次郎長
  • 八州遊侠伝 男の盃(1963年、東映) - けんか独楽の源次
  • ギャング忠臣蔵(1963年、東映) - 大石良雄
  • 十三人の刺客(1963年、東映) - 島田新左衛門
  • 御金蔵破り(1964年、東映) - 煙の富蔵
  • 宮本武蔵 巌流島の決斗(1965年、東映) - 長岡佐渡
  • 日本暗殺秘録(1969年、東映) - 井上日召
  • 賞金稼ぎ(1969年、東映) - 伊集院右京
  • 昭和残侠伝 人斬り唐獅子(1969年、東映) - 剱持光造
  • 日本侠客伝 昇り龍(1970年、東映) - 吉田磯吉
  • 緋牡丹博徒 仁義通します(1972年、東映) - 近松左兵衛
  • 純子引退記念映画 関東緋桜一家(1972年、東映) - 吉五郎
  • 日本の首領 完結篇(1978年、東映) - 大山喜久夫
  • 真田幸村の謀略(1979年、東映)
  • ちゃんばらグラフィティー 斬る!(1981年、東映)

テレビドラマ[編集]

主演と※以外は特別出演

脚註[編集]

  1. ^ 『ひげとちょんまげ』(稲垣浩、毎日新聞社刊)
  2. ^ 『映画渡世・天の巻 マキノ雅弘自伝』(マキノ雅弘、平凡社)
  3. ^ 『日本映画の若き日々』(稲垣浩、毎日新聞社刊)
  4. ^ 『週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集』(サンケイ出版)
  5. ^ 『ひげとちょんまげ』(稲垣浩、毎日新聞社刊)
  6. ^ 日本航空、社長に植木義晴氏-上期路線計画、787でSIN線も トラベルビジョン 2012年1月17日閲覧
  7. ^ 『聞書アラカン一代 - 鞍馬天狗のおじさんは』(竹中労、白川書院)
  8. ^ 『聞書アラカン一代 - 鞍馬天狗のおじさんは』(竹中労、白川書院)
  9. ^ ここまで『映画渡世・天の巻 マキノ雅弘自伝』(マキノ雅弘、平凡社)より
  10. ^ ここまで『週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集』(サンケイ出版)より
  11. ^ 『日本映画の若き日々』(稲垣浩、毎日新聞社刊)
  12. ^ ここまで『ひげとちょんまげ』(稲垣浩、毎日新聞社刊)より
  13. ^ ここまで『週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集』(サンケイ出版)より
  14. ^ ここまで『ひげとちょんまげ』(稲垣浩、毎日新聞社刊)より
  15. ^ ここまで『日本映画の若き日々』(稲垣浩、毎日新聞社刊)より
  16. ^ 『あゝ活動大写真 グラフ日本映画史 戦前篇』(朝日新聞社)
  17. ^ ここまで『週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集』(サンケイ出版)より

参考文献[編集]

  • 田山力哉『千恵蔵一代』社会思想社、1987年 / 社会思想社〈現代教養文庫〉、1992年
  • 東映太秦映画村映画資料館編『千恵蔵映画』東映京都スタジオ、1980年
  • 冨田美香編『千恵プロ時代-片岡千恵蔵・稲垣浩・伊丹万作-洒脱にエンターテインメント』〈映画読本〉フィルムアート社、1997年
  • 『日本無声映画俳優名鑑』、編無声映画鑑賞会、監修マツダ映画社、アーバン・コネクションズ、2005年
  • 日本映画データベース「片岡千恵蔵」

関連項目[編集]

外部リンク[編集]