艦砲射撃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
朝鮮戦争において北朝鮮に対して艦砲射撃を行う戦艦「アイオワ」(1952年

艦砲射撃(かんぽうしゃげき)は、軍艦が搭載する大砲(すなわち艦砲)で射撃を実施することである。本来の意味としては、標的が艦船であるか地上目標であるかは問わない[1]。ただし昨今では艦砲射撃と言えば軍艦を浮き砲台として使用し、陸上の目標を海上から攻撃するニュアンスを含んでいることが多い。対地射撃を実施する場合は、上陸前支援や沿岸部での戦闘における支援射撃に活用された。

概要[編集]

この項においては、対地射撃としての艦砲射撃を解説する。 戦艦主砲など、陸上の野砲などと比べ口径の大きな大威力の大砲が使用できるため、支援射撃としてはかなりの効果があり、一説には「戦艦の主砲は4個師団に匹敵する」と言われたほどであった。2006年に戦艦「アイオワ」を最後に世界の戦艦が全て退役したため、第二次世界大戦時における戦艦の主砲で行ったような大打撃力の艦砲射撃はできなくなった。

尼港事件では中国海軍日本軍兵営を砲撃し、装備の劣る赤軍パルチザンの勝利に貢献した[2]

第二次世界大戦で有名なものではドイツ海軍ポーランド侵攻時に準弩級戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」で行ったのが同大戦最初の艦砲射撃である。有力な敵勢力に対し行ったものであればフランス海軍が行った「ヴァード作戦」が世界初である。続いてアメリカ海軍太平洋戦争朝鮮戦争ベトナム戦争及び湾岸戦争で戦艦を利用し、アメリカ海兵隊の上陸前支援として行ったものなどが挙げられる。沖縄戦では艦砲射撃で地形が変わったとも言われており、生き残った沖縄の人間は戦後自分たちのことを「カンポーヌクェーヌクサー(艦砲射撃の喰い残し)」と表現した例がある。

第二次世界大戦後は、各種ミサイルの発展により、地対艦ミサイルによる沿岸防御、巡航ミサイルという攻撃手段の獲得により水上艦艇による艦砲射撃は終焉を迎えようとしていたが、1982年フォークランド紛争で上陸部隊の支援の為に艦砲射撃が何度か行われている。その戦訓を取り入れてイギリス海軍艦砲を搭載していなかった22型フリゲートの後期建造艦へ114mm砲を搭載している。戦艦については、その主砲が持つ大火力を天候に左右されず長時間にわたって投射し続ける能力や、航空機を用いた作戦と比較してコストパフォーマンスが良いことが注目されたが、戦艦自体のコストパフォーマンスの悪さもあり、戦艦が再び主力となることはなかった。

アメリカ海軍では、ベトナム戦争で地上部隊支援のため艦砲射撃を実施している。湾岸戦争においても再就役したアイオワ級戦艦2隻が陽動の意味も込めてクウェート沿岸へ艦砲射撃を行っている[3]。湾岸戦争では、有人機またはRQ-2 パイオニアによる弾着観測支援を受けており、約3週間にわたり計1,102発の16インチ砲弾を発射した[3]

127mm艦砲の射程は通常砲弾では30kmほどだが、アメリカ海軍のアーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦の後期建造艦(DDG-81以降)ではロケットモーターを使用し射程を100キロ以上に延長する対地攻撃用誘導砲弾(ERGM)の使用が可能なMk45 Mod4 5インチ(127mm)砲を搭載していて、2015年頃から就役予定のズムウォルト級ミサイル駆逐艦では新型の155mm砲の搭載が計画されている。ズムウォルト級ミサイル駆逐艦に搭載される155mm砲の誘導砲弾では精度の高い長距離射撃ができるようになり、艦砲射撃の精密性が向上する。ロケット補助推進弾を用いた場合、射程は約137km、半数必中界(CEP)は数十メートル以内となり、同時弾着能力も有する計画である[3]

低強度紛争や武装組織に対抗するために、安価で過剰な破壊力を持たない艦砲の存在意義が再評価されるようになってきている最近の風潮がその背景としてあると言われている。結果的に艦砲の復権は、かつて艦砲を花形から裏方へ追いやった存在であるミサイルが技術の発展のために当初の低コスト兵器とはあまりにもかけ離れた高価な兵器となったがゆえに起こった回帰と取られている。

有名な艦砲射撃[編集]

歴史[編集]

日本の歴史上、初めて艦載砲による陸上施設への攻撃が行われたのは戦国時代1561年永禄4年)の門司城の戦いで、ポルトガル船が大友義鎮からの支援要請により門司城に対して艦砲射撃を行っている。1574年天正2年)、織田信長長島一向一揆討伐では織田艦隊が艦砲射撃を行い一揆側の塀や櫓を打ち崩した。また、1590年(天正18年)、豊臣軍が小田原攻めで向かわせた水軍で、池六右衛門を船大将とする「大黒丸」(武装・大砲2門、鉄砲200丁)が、北条方の支城である下田城に対する海上攻撃に参加している[4]。17世紀前後のヨーロッパ製小型大砲の威力は、厚さ10センチの松材も貫通するとされる[5]事から城壁でも防ぐのは難しい。

時代が下って19世紀1853年(嘉永6年)のアメリカ合衆国マシュー・C・ペリー提督の黒船来航以降となると、艦砲射撃対策が国防上の重要な課題となり、日本国内の各所に沿岸砲台が築かれた。有名なものの一つが、東京臨海副都心の地名に名を残すお台場である。しかし当時の日本では、1863年(文久3年)7月の薩英戦争では薩摩藩が、翌1864年(元治元年)9月の下関戦争では長州藩が、いずれも艦砲射撃で大きな損害を受け、攘夷の不可能を悟った。これらの結末は、大砲の運用を想定した築城技術が未成熟だったこと、そして大砲技術の違いに起因する。このように、海岸線が長い日本にとって、重量のある大砲を多数積み速く自由に移動できる軍艦による艦砲射撃は脅威であった。

しかしさらに時代が下り20世紀にはいると、艦砲射撃はその価値を低下させた。日露戦争では、203高地を占領した日本軍が陸上からの28cm榴弾砲を中心とする砲撃により、旅順港にいたロシア第1太平洋艦隊(旅順艦隊)に壊滅的な打撃を与えた。この事実もあり、移動できるメリットを差し引いても軍艦では勝てないとして、艦砲射撃による陸上攻撃は戦術上の有効性を失った。軍艦と沿岸砲台とが互いの射程距離内において撃ち合ったとしても、頑強な要塞で保護され、海面の軍艦をより高い位置から狙い撃ちでき、しかも絶対に沈まない沿岸砲台が優位となった。

太平洋戦争では、島嶼の争奪戦という性格上、多数の上陸作戦が日米双方によって行われ、それに伴い艦砲射撃も頻繁に行われた。しかし、この頃には戦艦といえども航空機の攻撃に耐えられないことが明らかとなり、すでに制空権無しでの艦砲射撃は無謀とされた。艦隊は、艦載砲の射程よりも遥か遠方から飛来する航空機に対する防空能力も持たなかった。実際、ミッドウェー海戦において、ミッドウェー島攻略を目指した日本海軍が先行させたのは空母機動部隊であり、戦艦主体の艦隊は遥か後方に配置されていた。アメリカ軍も、まず制空権を確保し、その後に艦砲射撃を行っていた。戦争後期の島嶼の戦いにおいても、アメリカ軍は各空域の制空権を手中にし、その後に徹底的な艦砲射撃を行った後に、海兵隊を上陸させた。ところが、一旦制空権を得た後は、日本軍に対する艦砲射撃は有効であった。日本軍のほとんどの守備隊が伝統的な水際撃退戦法を用いていたためであり、日本軍は艦砲射撃に有効な対策を編み出せず、島嶼攻防戦での一方的敗北を喫した。逆に日本軍守備隊が水際撃退戦法ではなく強固な地下陣地を敷いていた硫黄島の場合、アメリカ軍の艦砲射撃は、激烈ではあったものの[6]、その効果は十分とはいえなかった。また、戦争末期になるとアメリカ軍は制海権・制空権は日本沿岸にも達したため、室蘭室蘭艦砲射撃の項を参照)や日立浜松釜石釜石艦砲射撃)などに直接艦砲射撃を行った。なお、太平洋戦争では上陸支援以外にも艦砲射撃が行われた。特に有名なのは、1942年日本海軍によって行われたヘンダーソン飛行場への艦砲射撃である。

日本における鉄道建設と艦砲射撃[編集]

明治時代鉄道建設黎明期、日本では海岸沿いよりも内陸を経由する鉄道の建設を優先する傾向があった。この原因について「艦砲射撃を危惧して日本陸軍が内陸回りにさせた」と指摘されることがあるが、実際のところは当時は(貨物運輸に関しては現在もそうだが)海運が大きな役割を担っており、むしろ内陸部の輸送改善が急務だったこと、また、海岸部は当時の技術で建設困難な箇所が多かったことが主因とされる。

八代駅以南の鹿児島本線はまず現在の肥薩線ルートで建設され[7]、また、東京・京都を結ぶ幹線も当初は東海道ルートではなく中山道ルートで計画されていた。

一方山陰本線を建設するに際しては、海岸のすぐそばに余部橋梁という艦砲射撃に弱い構造物を設置した。これは日露戦争の後という時代であるために、日本海側には敵は来ないという前提であったのではないかと指摘されている[8]

参考文献[編集]

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 海軍砲術学校『艦砲射撃心得』p.5
  2. ^ 外務省 『日本外交文書 大正9年』第一冊下巻p773
  3. ^ a b c 海兵遠征旅団の湾岸戦争&戦艦の艦砲射撃 軍事情報研究会 軍事研究 2012年7月号 P123-146 株式会社ジャパン・ミリタリー・レビュー
  4. ^ 吉田龍司 『長宗我部元親 土佐の風雲児 四国制覇への道』 新紀元社 2009年 p.197
  5. ^ ナショナルジオチャンネル 『変わりゆく戦争兵器 「戦車」』番組内の実験結果
  6. ^ 硫黄島への艦砲射撃は特に激しかったことが知られており、その威力は島の沿岸部の地形を変えるほどであった
  7. ^ 1927年に海岸回りを鹿児島本線とし、旧ルートは肥薩線と改称。それまでは海岸回りが肥薩線・川内本線と呼ばれていた
  8. ^ 佐々木冨泰・網谷りょういち 『続事故の鉄道史』 日本経済評論社1999年2月10日、p.267。ISBN 978-4-8188-0819-5