大西洋の壁

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1942年から1944年までの大西洋の壁

大西洋の壁(たいせいようのかべ、ドイツ語: Atlantikwallフランス語: Mur de l’Atlantique英語: Atlantic Wall)は、第二次世界大戦中にイギリス本土からの連合国軍の侵攻に備えて、ナチス・ドイツによってヨーロッパ西部の海岸に構築された、2685kmに及ぶ広範囲な海岸防衛線である。

戦略[編集]

デンマークの海岸に残るトーチカ

大西洋の壁は、ジークフリート線を設計したナチス・ドイツの軍需相フリッツ・トートが率いるトート機関が壁の計画、構築を担当した。何千人もの労働者がドーバー海峡に面するベルギーフランス海岸への防衛線の構築に従事した。しかし資材の不足等により防衛線の構築は完成するどころかさほど進展もしなかった。一説には西方軍総司令官ゲルト・フォン・ルントシュテットはドイツの敗北を見通しており、この防衛線の構築は無意味で、真剣にとりかかったところで完成するとは思えない、としていたから、ともある。[1]

エルヴィン・ロンメル陸軍元帥1944年初めに壁の防御を改善するよう任命された(ただし当初は視察して勧告するのみ)。ロンメルは既存の防御線が見せかけだけの代物であることを見抜き、フランス北西部のB軍集団の司令官に着任してからは直ちにその強化を始めた。ロンメルは、連合軍の侵攻は水際で阻止しなければならない、さもなければドイツの敗北は必至であると固く信じていた。彼の指揮下、コンクリート製のトーチカが海岸および内陸部に沿って構築され、機銃対戦車砲、軽野砲が収納された。海岸部には地雷原および対戦車障害物が設置された。海岸沖には機雷と障害物が敷設された。それらは連合軍の上陸用舟艇を、着岸する前に損傷・破壊させるための物であった。

全容[編集]

連合軍の上陸時まで、ドイツ軍はフランス北部に600万個の地雷を敷設した(ロンメルはそれでもまだ不足と考えていた)。多くの機銃座と地雷原が海岸から内陸に続く道に沿って設置された。パラシュート部隊やグライダーの着陸に適した土地には、「ロンメルのアスパラガス Rommelspargel」と呼ばれた傾斜した杭や鉄柱を打ち込んで、降下した部隊が戦う前に損害を出すようにした。また水を引き込んで沼地を拡大させたり、河口部を氾濫させたりした。また、未成に終わったH級戦艦主砲に使われる予定だった16インチ砲を転用した沿岸防御砲が配置されたが、10門中7門がノルウェーに配置され、実際に連合軍が上陸したフランスに配置されたのは3門のみであったが、これは連合軍が「ヨーロッパにおける上陸作戦はノルウェーで実行する」という偽情報を流しており、これにドイツがまんまと騙されたためである。

「大西洋の壁」は結局完成しなかった。1942年から1944年にかけて、砲台、トーチカ、地雷原より成る壁は(完成度に差はあるものの)フランス・スペイン国境からノルウェーまで及んだ。多くのトーチカが現在もシュヴェニンゲンの近く、ハーグノルマンディーに存在する。第二次世界大戦後トーチカの幾つかは海岸の砂に埋もれた。また、無用になったこれらのトーチカは政府によって爆破処理された。

チャンネル諸島のうちフランスに最も近いオルダニー島の防御は特に強化された。ヒトラーは大西洋の壁に使用される鉄鋼およびコンクリートの一割をチャンネル諸島に使用するよう命じた。それはイギリス領を支配下に置いていることのプロパガンダのためであった。「コンステレーション作戦」などチャンネル諸島奪回の作戦が提案されたこともあったが、連合軍はその重防備から島の攻略を回避し、ノルマンディー上陸後も島を解放しようとはしなかった。そのためチャンネル諸島のドイツ守備隊が降伏したのはドイツ全軍が降伏した翌日の1945年5月9日であった。オルダニー島の守備隊は5月16日まで降伏しなかった。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 新紀元社 青木茂著 第二次世界大戦 ヨーロッパ戦線ガイド