オランダ商館

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オランダ商館(オランダしょうかん)は、江戸時代に置かれた、オランダ東インド会社の日本における出先機関。1609年平戸に設置され、1641年長崎出島へ移転した。

平戸オランダ商館[編集]

1609年慶長14年)、オランダとの正式国交が開けた時に平戸に設置され、ヤックス・スペックスが初代商館長となった。民家72戸分を立ち退かせて建設した。1628年タイオワン事件で一時閉鎖されたが、1632年に再開。しかし1640年、建物の破風に西暦年号が記されているのを口実に江戸幕府はオランダ商館の取り壊しを命じ、当時の商館長フランソワ・カロンがこれを了承、1641年長崎出島へ移転した。以後、幕末に至るまでオランダ船の発着、商館員の居留地は出島のみに限定された。

出島オランダ商館[編集]

長崎港内に築かれた人工島の出島は、面積3,969坪(約13,000m²)で4区画に分かれ、オランダ人、日本の諸役人、通詞の家や倉庫など65棟が建っていた。

出島に滞在するオランダ人は商館長(カピタン)、次席(ヘトル)、荷倉役、筆者、外科医、台所役、大工、鍛冶など9人から12-13人で、「国立の牢獄」と呼ぶほど不自由な生活を送っていた。商館長は年に1回(のち5年に1回)江戸に参府し、将軍に謁見した。滞在した社員にはドゥーフ(館長)、ツンベルク(船医)、シーボルト(医員)、ケンペル(医員)、ティチィング(館長)らがあった。

オランダ商館は長崎奉行の管轄下に置かれ、長崎町年寄の下の乙名がオランダ人と直接交渉した。出島乙名は島内に居住し、オランダ人の監視、輸出品の荷揚げ、積出し、代金決済、出島の出入り、オランダ人の日用品購買の監督を行った。乙名の下には組頭、筆者、小使など40人の日本人がいた。通詞は140人以上いた。出島商館への出入りは一般には禁止されていたが長崎奉行所役人、長崎町年寄、オランダ通詞、出島乙名、組頭、日行使、五箇所宿老、出島町人は公用の場合に限り出入りを許された。

1856年に出島解放令が出され、出入りは全く自由となった。1858年、日蘭通商条約の成立により商館長は外交代表に任命され、1860年には商館はオランダ総領事館を兼ね、商館長は総領事となった。

出島のオランダ商館には、江戸初期から幕末に至る230年余りの出来事などを記した『オランダ商館日記』が保存されていた。

なお、1793年オランダネーデルラント連邦共和国)がフランス革命軍に占領されて滅亡してから1815年にオランダ(ネーデルラント王国)が建国するに至るまでの22年間、オランダの領土はこの地球上に存在していない。そのため、1797年オランダ東インド会社と傭船契約を結んだアメリカの船が出島に入港するようになり、1799年にオランダ東インド会社が解散してもなお、アメリカの船は1809年まで出島に入港して貿易を行った(詳しくは黒船来航を参照)。

商館長[編集]

(以下は、代表的なオランダ商館長。詳細は、カピタン#日本の歴代オランダカピタン(商館長)を参照。)

参考文献[編集]

関連項目[編集]