アンボイナ事件

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アンボイナ島における英蘭の領土を描いた銅版画(1655年)

アンボイナ事件(―じけん)とは、1623年モルッカ諸島アンボイナ島(アンボン島)にあるイギリス商館をオランダが襲い、商館員を全員殺害した事件である。別名はアンボン事件。これによりイギリスの香辛料貿易は頓挫し、オランダが同島の権益を独占した。イギリスは東南アジアから撤退し、インドへ矛先を向けることとなった。

英語表記の「Amboyna massacre」は「アンボイナの虐殺」を意味する。

背景[編集]

アンボイナ島(Amboyna Island、アンボン島Ambon Islandとも)は、インドネシアモルッカ諸島南方のセラム島の南西に位置する小島で、クローブなどの香料を産することで知られる。ヨーロッパで珍重されたこの香料を求めて、同島への進出を図る国が相次いだ。

1512年ポルトガル人アントニオ・ダブリウが進出して以来、アンボイナ島の香料はポルトガルが独占した。しかし、1599年にオランダ人ファン・ワールワイクがポルトガル勢を駆逐し、1605年2月、ニュー・ヴィクトリア砦を構築して支配権を確立した。これに対し、イギリスも1615年に進出して香料貿易を行い、激しく競争した。

事態を収拾するため、英蘭両国の政府は1619年に協定を締結し、

  • 香料貿易は今後両国が共同で行い、利益の分配に際してはオランダの既得権益を尊重し、3分の2をオランダが、残り3分の1をイギリスが得ること
  • これまで両国が占領した地域の領有権は現状のまま留め置くが、今後征服した土地は両国で折半すること

などを相互に確認した。しかしオランダの現地当局はこれを無視して取引を行い、激怒したイギリス人はバタヴィアでオランダ人を駆逐。両者の確執は一向に収まる気配がなかった。

処刑[編集]

この頃、東南アジアには日本人が多く進出し、アユタヤプノンペンには日本人町が形成されるほどであった。アンボイナ島にも日本人が居住し、傭兵として勤務する者もいた。

1623年2月23日の夜、オランダ側の傭兵・七蔵が衛兵らに対し、城壁の構造や兵の数についてしきりに尋ねていた。これを不審に思ったオランダ当局が、七蔵を拘束して拷問にかけたところ、イギリスが砦の占領を計画していると自白。直ちにイギリス商館長ガブリエル・タワーソンら30余名を捕らえた当局は、彼らに火責め、水責め、四肢の切断などの凄惨な拷問を加え、これを認めさせた。3月9日、当局はタワーソンをはじめイギリス人10名、日本人9名、ポルトガル人1名を斬首して、同島におけるイギリス勢力を排除した。

なお、事件当時オランダの東インド総督であったヤン・ピーテルスゾーン・クーン(Jan Pieterszoon Coen、1587年 - 1629年)は、オランダの東インド貿易独占を主張し、政府の対応を弱腰と非難していた。このため、事件は彼の仕組んだ陰謀であるとの説もある。

緊張[編集]

この事件は程なくイギリス本国に伝わり、英蘭両国の間で進行していた東インド会社の合併交渉は決裂、ついには外交問題にまで発展した。事件発生から実に31年後の1654年、オランダ政府が8万5000ポンドの賠償金を支出することで決着した。

その後[編集]

事件をきっかけに、東南アジアにおけるイギリスの影響力は縮小し、オランダが支配権を強めた。しかし、かつて同量のと交換されたこともあったほどの高級品だった香料の価格は次第に下落。それに伴い、オランダの世界的地位も下がり始めた。対して、新たな海外拠点をインドに求めたイギリスは、良質な綿製品の大量生産によって国力を増加させた。

関連項目[編集]

参考文献[編集]