黒船来航
黒船来航(くろふねらいこう)とは嘉永6年(1853年)に、マシュー・ペリー代将が率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の艦船が、日本に来航した事件。当初久里浜に来航したが,当時久里浜の港は砂浜で黒船が停泊できなかったことから,幕府は江戸湾浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)に誘導した。アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡され、翌年の日米和親条約締結に至った。日本では主に、この事件から明治維新までを「幕末」と呼んでいる。
目次 |
[編集] 背景
[編集] 欧米による帝国主義時代・開港による植民地化を目的とした寄港拠点の確保
産業革命を迎えた西ヨーロッパ各国は、大量生産された工業品の輸出拡大の必要性から、インドを中心に東南アジアと中国大陸の清への市場拡大に急いでいたが、後にそれは熾烈な植民地獲得競争となる。競争にはイギリス優勢のもとフランスなどが先んじており、インドや東南アジアに拠点を持たないアメリカ合衆国は、西欧との競争のためには、清を目指すうえで太平洋航路の確立が必要であった。
[編集] 捕鯨船の物資補給を目的とした寄港地の確保
また、産業革命によって、欧米の国々は日本沿岸を含み世界中の海で、「捕鯨」を盛んに行なっていた。これは、夜間も稼動を続ける工場やオフィスのランプの灯火として、主にマッコウクジラの鯨油を使用していたからである。太平洋で盛んに捕鯨を操業していたアメリカは、太平洋での航海・捕鯨の拠点(薪、水、食料の補給点)の必要に駆られていた。
[編集] ペリー以前
アメリカ関係のみ記述してもこれだけの前史がある。
- 1791年(寛政3年) - 冒険商人ジョン・ケンドリックが2隻の船とともに紀伊大島に上陸。日本を訪れた最初の米国人。
- 1797年(寛政9年) - オランダがフランスに占領されてしまったため、数隻の米国船がオランダ国旗を掲げて出島での貿易を行う(1809年(文化6年)まで)[1][2] 。日本に向けられたアメリカ傭船は次の通り。
- 1797年、ウィリアム・ロバート・スチュアート船長のイライザ号。
- 1798年、同上。
- 1799年、ジェームズ・デブロー船長のフランクリン号。
- 1800年、ウィリアム・V・ハッチングス船長のマサチューセッツ号。
- 1800年、ウィリアム・ロバート・スチュアート船長のエンペラー・オブ・ジャパン号。
- 1801年、ミッシェル・ガードナー・ダービー船長のマーガレット号。
- 1802年、ジョージ・スティルス船長のサミュエル・スミス号。
- 1803年、ジェームズ・マクニール船長のレベッカ号。
- 1803年、ウィリアム・ロバート・スチュアート船長のナガサキ号。
- 1806年、ヘンリー・リーラー船長のアメリカ号。
- 1807年、ジョセフ・オカイン船長のエクリブス号。
- 1807年、ジョン・デビッドソン船長のマウント・バーノン号。
- 1809年、ジェームズ・マクニール船長のアメリカレベッカ号。
- 1830年(天保元年) - 小笠原諸島の父島にナサニエル・セイヴァリーが上陸。
- 1835年(天保6年) - アンドリュー・ジャクソン大統領は、エドマンド・ロバーツ(Edmund Roberts)を特命使節とし、清、日本との交渉のためにアジアに派遣したが、ロバーツは中国で死亡した。ロバーツをアジア送り届けるため、東インド艦隊が編成された[3]。
- 1837年(天保8年) - アメリカ商人チャールズ・キングが商船モリソン号で音吉など漂流民を日本に送り届けるため浦賀に来航。1808年の長崎でのイギリス軍艦の起こしたフェートン号事件以降の異国船打払令に基づき、日本側砲台がモリソン号を砲撃した(モリソン号事件)。
- 1845年(弘化2年) - 捕鯨船マンハッタン号が、22人の日本人漂流民を救助し、マーケイター・クーパー船長は浦賀への入港を許可され浦賀奉行と対面した。
- 1846年(弘化3年)閏5月 - アメリカ東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドルがコロンバス号、ビンセンス号の2隻の軍艦を率いて浦賀に来航し通商を求めるも拒否される。米軍艦の初の日本寄港であった。
- 1846年(弘化3年) - アメリカ捕鯨船ローレンス号の乗員、択捉島に漂着。翌年長崎でオランダ船に引き渡される。
- 1848年(嘉永元年) - アメリカ捕鯨船ラゴダ号の乗員、西蝦夷地に漂着。ローレンス号の乗員と同じく長崎に護送されるが、脱走を試みるなどしたため、入牢させられる。これがアメリカには、「アメリカ人が虐待されている」と伝わる。
- 1848年(嘉永元年) - ラナルド・マクドナルド、日本人に英語を教えようと、自らの意志で密入国。
- 1849年(嘉永2年) - 東インド艦隊のジェームス・グリンを艦長とするアメリカ軍艦プレブル号が長崎に来航し、前年に漂着したラゴダ号の船員とマクドナルドを受け取り退去する。この時、グリンの示した「毅然たる態度」が、後のペリーの計画に影響を与える。
[編集] ジョン万次郎の帰国
ジョン・マンこと中濱万次郎は、1841年(天保12年)に高知沖で遭難し、無人島の鳥島に仲間といたところ、アメリカの捕鯨船に救助された。当時15歳だった万次郎は、捕鯨船の船長の養子同然となり、その後アメリカにて修学し、アメリカで近代捕鯨の捕鯨船の船員となった。しかし、望郷の念は強く、カリフォルニアの金鉱で働き得た資金により、捕鯨船を確保し、ハワイに残された土佐の清水中浜村の漁師仲間とともに、日本に帰るべく出航した。
1851年(嘉永4年)、当時の薩摩藩琉球にたどり着いたとき万次郎は25歳であった。その後、紆余曲折はあったが、日米和親条約の平和的締結に向け、通訳やアメリカの思惑や情勢を詳しく知る者として、時には裏方として尽力した。
[編集] オーリックに対する日本開国指令と解任
フィルモア大統領は、日本の開国を目指し、東インド艦隊司令官ジョン・オーリック代将にその任務を与え、1851年6月8日に蒸気フリゲート「サスケハナ」は東インド艦隊の旗艦となるべく極東に向かって出発した。しかし、オーリックはサスケハナの艦長とトラブルを起こしたことで解任され、1852年2月、マシュー・カルブレース・ペリー代将にその任が与えられた。
[編集] 嘉永6年来航
[編集] ペリーの計画
ペリーは日本開国任務が与えられる1年以上前の1851年1月、日本遠征の独自の基本計画をウィリアム・アレクサンダー・グラハム海軍長官に提出していた。そこでは、以下の様に述べている。
- 任務成功のためには4隻の軍艦が必要で、その内3隻は大型の蒸気軍艦であること。
- 日本人は書物で蒸気船を知っているかもしれないが、目で見ることで近代国家の軍事力を認識できるだろう。
- 中国人に対したのと同様に、日本人に対しても「恐怖に訴える方が、友好に訴えるより多くの利点があるだろう。」
- オランダが妨害することが想定されるため、長崎での交渉は避けるべき。
日本開国任務が与えられると、計画はさらに大掛かりになり、東インド艦隊所属の「サスケハナ」、「サラトガ」(帆走スループ)、「プリマス」(USS Plymouth 同)に加え、本国艦隊の蒸気艦4隻、帆走戦列艦1隻、帆走スループ2隻、帆走補給艦3隻からなる合計13隻の大艦隊の編成を要求した。しかし、予定した本国艦隊の蒸気軍艦4隻の内、使用できるのは「ミシシッピ」のみであった。さらに戦列艦は費用がかかりすぎるため除外され、代わりに西インドから帰国したばかりの蒸気フリゲート「ポーハタン」が加わることとなった。
[編集] オランダによる来航の予告
嘉永5年6月5日(1852年)、オランダ商館長のヤン・ドンケル・クルティウスは長崎奉行に「別段風説書」(幕末出島未公開文書[4]として保存される[5])を提出した。そこには、アメリカが日本との条約締結を求めており、そのために艦隊を派遣することが記載されており、中国周辺に有る米国軍艦5隻と、米国から派遣される予定の4隻の艦名とともに、司令官がオーリックからペリーに代わったらしいこと、また艦隊は陸戦用の兵士と兵器を搭載しているとの噂があるとも告げていた。出航は4月下旬以降になろうと言われているとも伝えた。
加えて、クルティウスはオランダ領東インド総督・バン・トゥイストの1852年6月25日付けの書簡を提出した。そこには、アメリカ使節派遣に対処するオランダの推奨案として「長崎港での通商を許し、長崎へ駐在公使を受け入れ、商館建築を許す。外国人との交易は江戸、京、大坂、堺、長崎、五ヶ所の商人に限る」など合計十項目にわたる、いわゆる通商条約素案をも示した。
老中首座阿部正弘は同年10月に海岸防禦御用掛(海防掛)に意見を聞き11月に海防掛はこれは疑わしく長崎奉行に聞くべきと答えた。長崎奉行はオランダ人は信用できないとしたため[6]、幕府の対応は三浦半島の防備を強化するために川越藩・彦根藩の兵を増やした程度であった。アメリカ海軍の東インド艦隊は弘化3年(1846年)に来航したことがあったが、そのときはイギリス海軍やロシア海軍艦艇のように帰ったため、今回も同じだろうと考えていた。しかし、島津斉彬がアメリカ海軍東インド艦隊の琉球来訪以降の動静を阿部正弘に報告し、両者は危機感を持ったが幕府内では少数派であった。
なお、アメリカ政府はペリーの日本派遣を決めると、オランダのヘーグに駐在するアメリカ代理公使・フォルソムを通じ、通商交渉使節の派遣とその平和的な目的を、オランダ政府が日本に通告してくれるよう依頼した。しかしこの書簡(1852年7月2日付け)は、クルティウスが日本に向けジャワを出発した後にバン・トゥイストの手元に届いたので、日本には届いていない。ただし翌年、すなわちペリーが来航した嘉永6年提出の別段風説書では、ペリー派遣の目的は平和的なものであると述べている。
[編集] ペリー出航
1852年11月24日、58歳のマシュー・カルブレース・ペリー司令長官兼遣日大使を乗せた蒸気フリゲート「ミシシッピ号」は、単艦でノーフォークを出港し、一路アジアへと向かった。ペリーはタカ派のフィルモア大統領(ホイッグ党)から、琉球の占領もやむなしと言われていた。
ミシシッピは大西洋を渡って
- マデイラ島(12月11日 - 15日)
- セントヘレナ島(1853年1月10日・11日)
- 南アフリカのケープタウン(1月24日 - 2月3日)
- インド洋のモーリシャス(2月18日 - 28日)、
- セイロン(3月10日 - 15日)、
- マラッカ海峡からシンガポール(3月25日 - 29日)、
- マカオ・香港(4月7日 - 28日)
を経て、上海に5月4日に到着した。香港でプリマス(帆走スループ)およびサプライ(帆走補給艦)と合流、上海で蒸気フリゲートサスケハナと合流した。このとき、すでに大統領は民主党のピアースに変わっていて、彼の下でドッピン長官は侵略目的の武力行使を禁止したが、航海途上のペリーには届いていなかった。
[編集] 琉球来航
上海でサスケハナに旗艦を移したペリー艦隊は5月17日に出航し、5月26日に琉球王国(薩摩藩影響下にある)の那覇沖に停泊した。ペリーは首里城への訪問を打診したが、王国側はこれを拒否した。しかし、ペリーはこれを無視して、武装した兵員を率いて上陸し、市内を行進しながら首里城まで進軍した。王国は仕方なく、武具の持込と兵の入城だけは拒否するとして、ペリーは武装解除した士官数名とともに入城した。ペリー一行は北殿で茶と菓子程度でもてなされ、開国を促す大統領親書を手渡した。さらに場所を城外の大美御殿に移し、酒と料理でもてなされた。ペリーは感謝して、返礼に王国高官を「サスケハナ」に招待し、同行のフランス人シェフの料理を振舞った。
しかし、王国が用意したもてなしは、来客への慣例として行ったものに過ぎず、清からの冊封使に対するもてなしよりも下位の料理を出すことで、暗黙の内にペリーへの拒否(親書の返答)を示していた。現在でも多くの国が来客に対して使う手法である。友好的に振舞ったことで武力制圧を免れたものの、王国はこの後もペリーの日本への中継点として活用された。
この当時の記録は琉球側がまとめた『琉球王国評定所文書』に詳細に記されている。
[編集] 小笠原探検
ペリーは艦隊の一部を那覇に駐屯させ、自らは6月9日に出航、6月14日から6月18日にかけて、まだ領有のはっきりしない小笠原諸島を探検した。このとき、ペリーは小笠原の領有を宣言したが、即座に英国から抗議を受け、ロシア船も抗議のために小笠原近海へ南下したため、宣言はうやむやになった。後に日本は林子平著『三国通覧図説』の記述を根拠として領有を主張し[要出典]、水野忠徳を派遣して八丈島住民などを積極的に移住させることで、列強から領有権を承認されることになる。
6月23日に一度琉球へ帰還し、再び艦隊の一部を残したまま、7月2日に3隻を率いて日本へ出航した。
[編集] 浦賀来航
嘉永6年6月3日(1853年7月8日)に浦賀沖に現れ日本人が初めて見た艦は、それまで訪れていたロシア海軍やイギリス海軍の帆船とは違うものであった。黒塗りの船体の外輪船は、帆以外に外輪と蒸気機関でも航行し、帆船を1艦ずつ曳航しながら煙突からはもうもうと煙を上げていた。その様子から、日本人は「黒船」と呼んだ。
浦賀沖に投錨した艦隊は旗艦「サスケハナ」(蒸気外輪フリゲート)、「ミシシッピ」(同)、「サラトガ」(帆走スループ)、「プリマス」(USS Plymouth 同)の四隻からなっていた。大砲は計73門あり、臨戦態勢をとりながら、勝手に江戸湾の測量などを行い始めた。さらに、アメリカ独立記念日の祝砲や、号令や合図を目的として、湾内で数十発の空砲を発射した。この件は事前に通告があったため、町民にその旨のお触れも出てはいたのだが[7]、最初の砲撃によって江戸は大混乱となったが、やがて空砲だとわかると、町民は砲撃音が響くたびに、花火の感覚で喜んでいたようだ。
浦賀は見物人でいっぱいになり、勝手に小船で近くまで繰り出し、上船して接触を試みるものもあったが、幕府から武士や町人に対して、十分に警戒するようにとのお触れが出ると、実弾砲撃の噂とともに、次第に不安が広がるようになった。このときの様子をして「泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず」という狂歌が詠まれた。上喜撰とは緑茶の銘柄である「喜撰」の上物という意味であり、「上喜撰の茶を四杯飲んだだけだが(カフェインの作用により)夜眠れなくなる」とう表向きの意味と、「わずか四杯(ときに船を1杯、2杯とも数える)の異国からの蒸気船(上喜撰)のために国内が騒乱し夜も眠れないでいる」という意味をかけて揶揄している[8]。
幕府は、船上のペリーに対してまず浦賀奉行所与力の中島三郎助を派遣し、ペリーの来航が将軍にアメリカ合衆国大統領親書を渡すことを目的とすることを把握したが、ペリー側は幕府側の与力の階級が低過ぎるとして親書を預けることを拒否した。続いて同じく香山栄左衛門が訪ねたが対応は変わらず、親書は最高位の役人にしか渡さないとはねつけられた。香山は上司と相談するために4日の猶予をくれるように頼んだが、ペリーは3日なら待とうと答え、さらに親書を受け取れるような高い身分の役人を派遣しなければ、江戸湾を北上して、兵を率いて上陸し、将軍に直接手渡しすると脅しをかけた。
この時第12代将軍徳川家慶は病床に伏せていて、国家の重大事を決定できる状態には無かった。老中首座阿部正弘は、6月6日(同年7月11日)に国書を受け取るぐらいは仕方ないだろうとの結論に至ったため、嘉永6年6月9日(1853年7月14日)にペリー一行の久里浜上陸を許し、下曽根信敦率いる部隊の警備の下、浦賀奉行の戸田氏栄・井戸弘道がペリーと会見した。ペリーは彼等に開国を促すフィルモア大統領親書、提督の信任状、覚書などを手渡したが、幕府は将軍が病気であって決定できないとして、返答に1年の猶予を要求したため、ペリーは返事を聞くため、1年後に再来航すると告げた。艦隊は6月12日(同年7月17日)に江戸を離れ、琉球に残した艦隊に合流して香港へ帰った。
それからわずか10日後の6月22日(同年7月27日)に将軍家慶が死去すると、13代将軍に家定が就いたが、彼は病弱で国政を担えるような人物ではなかった。しかし老中等にも名案は無く、国内は異国排斥を唱える攘夷論が高まっていたこともあって、老中首座の阿部は開国要求に頭を悩ませた。そこで彼は、広く各大名から旗本、さらには庶民に至るまで、幕政に加わらない人々にも、外交についての意見を聞こうとしたが、これは開幕以来初めてであった。国政に発言権の無かった外様大名は喜んだが、名案は無かった。これ以降は国政を幕府ではなく合議制で決定しようという「公議輿論」の考えだけが広がり、幕府の権威を下げるものであった。
阿部はとりあえず、諸大名へ江戸湾警備を増強すべく、砲撃用の台場造営を命じたほか、11月14日に持ち場の変更を行わせた。大船建造の禁も解除され、各藩に軍艦の建造を奨励、幕府自らも洋式帆船「鳳凰丸」を9月19日に浦賀造船所で起工した。オランダへの艦船発注も、ペリーが去った一週間後の6月19日には決まっている。
嘉永6年来航の艦艇の概要は以下の通りである。
| 艦名 | 艦種 | 建造年 | トン数 | 乗組員 | 機関出力 | 備砲 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| サスケハナ Susquehanna |
蒸気外輪フリゲート | 1850年 | 積載量2450トン(bmトン) 排水量3824英トン |
300 | 420NHP 795IHP |
150ポンドパロット砲x2 9インチダルグレン砲x12 12ポンド砲x1 |
| ミシシッピ Mississippi |
蒸気外輪フリゲート | 1841年 | 積載量1692トン(bmトン) 排水量3220英トン |
260 | 434NHP 650IHP |
10インチペクサン砲x8 8インチペクサン砲x2 |
| サラトガ Saratoga |
帆走スループ | 1843年 | 積載量882トン(bmトン) | 260 | 無 | 8インチ砲x4 32ポンド砲x18 |
| プリマス Plymouth |
帆走スループ | 1844年 | 積載量989トン(bmトン) | 260 | 無 | 8インチ砲x8 32ポンド砲x18 |
[編集] 嘉永7年来航
嘉永7年1月(1854年)、ペリーは琉球を経由して再び浦賀に来航した。幕府との取り決めで、1年間の猶予を与えるはずであったところを、あえて半年で決断を迫ったもので、幕府は大いに焦った。ペリーは香港で将軍家慶の死を知り、国政の混乱の隙を突こうと考えたのである。ここに彼の外交手腕を見て取ることもできる。
1月14日(同年2月11日)に輸送艦「サザンプトン」(帆船)が現れ、1月16日(同年2月13日)までに旗艦「サスケハナ」、「ミシシッピ」、「ポーハタン」 以上、蒸気外輪フリゲート)、「マセドニアン」、「ヴァンダリア」(以上、帆走スループ)、「レキシントン」(帆走補給艦)の六隻が到着した。なお、江戸湾到着後に旗艦は「ポーハタン」に移った。2月6日に「サラトガ」(帆走スループ)、2月21日に「サプライ」(帆走補給艦)が到着して計九隻の大艦隊が江戸湾に集結し、江戸はパニックに陥った。一方で、やはり浦賀には見物人が多数詰め掛け、観光地のようになっていた。また、勝手に舟を出してアメリカ人と接触する市民もいた。(吉田松陰が外国留学のため密航を企てポーハタン号に接触したのは、1854年4月25日、下田沖に停泊していた折でありこの時ではない)
まず、アメリカ側が船上でフランス料理を振舞った。日本人は鯛を喜ぶ、という情報を仕入れていたアメリカ側は鯛を釣って料理する、などの日本側を意識した部分が料理にあった。一方、日本側の招待された面々は、十手と孫の手をナイフとフォークに見立てて作法の練習をしたという。アメリカ側の記述によると、最後に本来ならメニューを持ち帰るべきところを料理その物を懐紙に包んでもって帰り、しかも、様々な料理を一緒くたに包んでいたことに驚いた、という(本膳料理には『硯蓋』という揚げ菓子があり、それを持って帰るのが作法である)。その応饗として、横浜の応接所で最初の日米の会談が行われた後、日本側がアメリカ側に本膳料理の昼食を出した。料理は江戸浮世小路百川が2000両で請負い、300人分の膳を作った。2000両を現代の価値に計算すると約1億5千万円近く、一人50万円になる。最上級の食材を使い、酒や吸い物、肴、本膳、二の膳、デザートまで百を超える料理が出された。しかし、肉料理が出ないのは未開だから、という偏見や、総じて生ものや薄味の料理が多かったのと、一品当たりの量がアメリカ人にとっては少なかったようで、ペリーは「日本はもっといいものを隠しているはずだ」と述懐している。ただし、「日本は出来る限りのことをやった」と述べたアメリカ側の人物もいる。その後、日本側は何かにつけてアメリカ側に料理を食べに行ったとされる。
約1ヶ月にわたる協議の末、幕府は返答を出し、アメリカの開国要求を受け入れた。3月3日(3月31日)、ペリーは約500名の兵員を以って武蔵国神奈川近くの横浜村(現神奈川県横浜市)に上陸し、全12箇条に及ぶ日米和親条約(神奈川条約)が締結されて日米合意は正式なものとなり、3代将軍徳川家光以来200年以上続いてきた、いわゆる鎖国が解かれた。その後、伊豆国下田(現静岡県下田市)の了仙寺へ交渉の場を移し、5月25日に和親条約の細則を定めた全13箇条からなる下田条約を締結した。
ペリー艦隊は6月1日に下田を去り、帰路に立ち寄った琉球王国とも正式に通商条約を締結させた。ペリーは米国へ帰国後、これらの航海記『日本遠征記』(現在でもこの事件の一級資料となっている)をまとめて議会に提出したが、条約締結の大役を果たしたわずか4年後の1858年に64歳で死去した。その後、米国は熾烈な南北戦争に突入し、日本や清に対する影響力を失い、これらの国は結局、英国やフランス、ロシアが勢力を拡大してしまった。ちなみに、昭和20年(1945年)9月2日、東京湾の戦艦ミズーリ艦上で日本の降伏文書調印式が行われた際、この時のペリー艦隊の旗艦「ポーハタン」号に掲げられていた米国旗が本国より持ち込まれ、その旗の前で調印式が行われた。1854年7月に琉球からペリー艦隊に送られた銅鐘はアナポリス海軍兵学校に飾られ、同学校フットボール優勝祝賀会で鳴らされていたが、近年沖縄に返還されている[9]。
嘉永7年来航の艦艇の概要は以下の通り。
| 艦名 | 艦種 | 建造年 | トン数 | 乗組員 | 機関出力 | 備砲 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| ポーハタン Pawhatan |
蒸気外輪フリゲート | 1852年 | 積載量2415トン(bmトン) 排水量3765英トン |
289 | 420NHP 795IHP |
11インチダールグレン砲x1 9インチダールグレン砲x10 12ポンド砲x5 |
| サスケハナ Susquehanna |
蒸気外輪フリゲート | 1850年 | 積載量2450トン(bmトン) 排水量3824英トン |
300 | 420NHP 795IHP |
150ポンドパロット砲x2 9インチダルグレン砲x12 12ポンド砲x1 |
| ミシシッピ Mississippi |
蒸気外輪フリゲート | 1841年 | 積載量1692トン(bmトン) 排水量3220英トン |
260 | 434NHP 650IHP |
10インチペクサン砲x8 8インチペクサン砲x2 |
| サラトガ Saratoga |
帆走スループ | 1843年 | 積載量882トン(bmトン) | 260 | 無 | 8インチ砲x4 32ポンド砲x18 |
| マセドニアン Macedonian |
帆走スループ | 1852年改造 | 積載量1341トン(bmトン) | 489(改造前) | 無 | 8インチ砲x6 32ポンド砲x16 |
| バンダリア Vandalia |
帆走スループ | 1848年改造 | 積載量770トン(bmトン) | 150 | 無 | 8インチ砲x4 32ポンド砲x16 |
| サウサンプトン Southampton |
帆走補給艦 | 1845年 | 積載量567トン(bmトン) | 不明 | 無 | 42ポンド砲x2 |
| レキシントン Lexington |
帆走補給艦 | 1843年改造 | 積載量691トン(bmトン) | 190(改造前) | 無 | 32ポンド砲x6 |
| サプライ Supply |
帆走補給艦 | 1846年購入 | 積載量547トン(bmトン) | 60 | 無 | 24ポンド砲x4 |
[編集] 疑問視される事例
特定の資料によってのみ伝えられるため、日本史の専門家から疑問視されている。
[編集] 白旗伝説
ペリーは浦賀来航の際に幕府に旗を二本贈っているが、旗の種類及び贈った目的は不明。この件に関して高麗環文書では、「開国か降伏か」を迫る文書を同時に渡したとされる。二本の旗のうちひとつは白旗であり、降伏の際に用いる旗であると説明されていたという。ただし同文書に記載された内容は当時の状況と矛盾する点が多く、日本史の専門家からは一部の人を除き偽書と判断されている。 尚、香山栄左衛門と応接した際、ブキャナンは「白旗」について言及しているが、「降伏勧告」については記録にはない。
[編集] 砲撃戦
ペリーの『日本遠征記』によると、2度の来航で100発以上の空砲を祝砲、礼砲、号砲の名目で撃っており、日本側史料には、事前にお触れが出ていたにもかかわらず、これが大混乱を巻き起こしたことが記録されているが、いずれも被害は無く、実戦は行っていないはずである。ところが、1月16日に結集した「ポーハタン」以下七隻の内、蒸気船二隻と帆船三隻が安房国(千葉県)洲崎を砲撃した、と日本側の古文書にある。
事件は嘉永7年1月23日(1854年2月21日)丑の下刻、洲崎を警護する備前岡山藩陣地への砲撃であった。艦船の砲弾は陣地の手前10メートルほどの海中に落下した。備前藩は非常召集を行って大砲5門を以って砲撃、蒸気船二隻は逃走したが、帆船三隻に命中した。備前の守備隊は舟艇で帆船への乗船を試み、反撃を受けて300名ほどが死傷したが、三隻を「御取り上げ」(拿捕)した。しかし、この事件は2月1日(2月27日)の記録を最後に途絶えている。また、他に一切の情報が無いために、文章の信憑性が疑われている。
[編集] 脚注
- ^ K. Jack Bauer, A Maritime History of the United States: The Role of America's Seas and Waterways, University of South Carolina Press, 1988., p. 57
- ^ 東京都江戸東京博物館1999年発行「日米交流のあけぼの‐黒船きたる‐」
- ^ ELLIOT GRIFFIS (1905年8月6日). “Edmund Roberts, Our First Envoy to Japan”. New York Timex. 2010年1月28日閲覧。
- ^ 『幕末出島未公開文書 ドンケル・クルチウス覚え書』(フォス美弥子編訳、新人物往来社、1992年、ISBN 440401905X)
- ^ 日本財団図書館 平成15年度 海事講演会 海・船セミナー2003 ?ペリー来航150周年記念?「黒船来航、その時日本は」
- ^ 岩下哲典『予告されていたペリー来航と幕末情報戦争』洋泉社、平成18年(2006年)
- ^ 横浜黒船研究会「神奈川県域のヒストリック・イベント(7)、第二章 横浜村の黒船騒動、一、異国船の接近に驚く住民」 草間俊郎
- ^ 同時代史料においては類似した句が見られるのみで、主に明治11年(1878年)の『武江年表』や大正3年(1914年)『江戸時代落書類聚』など、明治以降に出典が見られることから、後世に喧伝された歌である可能性が指摘され、近年では教科書から姿を消している。しかし平成22年(2010年)になり、黒船来航直後に詠まれたことを示す書簡(嘉永6年(1853年)6月30日付の山城屋左兵衛から色川三中への書簡、静嘉堂文庫所蔵)が見つかっている。上記のとおり、黒船4隻中、蒸気船は2艦のみである。
- ^ #次席将校p.66
[編集] 参考文献
- 松永市郎、1991、『次席将校 『先任将校』アメリカを行く』、光人社 ISBN 4-7698-0556-x ASIN 476980556X.
- 元綱数道、2004、『幕末の蒸気船物語』、成山堂書店 ISBN 978-4425302512 ASIN 4425302516.
- 松方冬子、2010、『オランダ風説書―「鎖国」日本に語られた「世界」』、中央公論新社〈中公新書〉 ISBN 978-4121020475 ASIN 4121020472.
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 松方冬子 アヘン戦争・オランダ・風説書(第二会場(近世),日本史部会,第一〇四回史学会大会報告) 史學雜誌 116(1), 110, 2007-01-20
- 松方冬子 オランダ国王ウィレム二世の親書再考 : 一八四四年における「開国勧告」の真意 A Re-Examination of King Willem II's Letter : The Real Purpose in "Advising Japan to Open Up" in 1844 史學雜誌 114(9), 2005-09-20
- 古文書を楽しむ(別段風説書など)
- 日米交流史サイト
- 幕末開国前後の日米関係 <Articles>Japan Meets the United States : The Opening of Japan and the Final Years of the "Bakufu" 江戸川女子短期大学紀要 14, 129-141, 1999-03-31
- 岩井大慧 日本開國史上の一新史料 史学 17(1), 1-48, 1938-08 慶應義塾大学
- 瀧澤道夫 黒船は何を目指したか?~太平洋航路の先駆けを考える What was intended by the black ship?~ The pioneer for steamship in the Pacific Ocean 文教大学国際学部紀要 第20巻 1号2009年7月 (PDF)
- 都築博子 日本開国への「海の道」:米国太平洋捕鯨の視点から Voyages to the Pacific Region : The Opening of Japan by the Expansion of the American Foreign Relations with Whaling 太平洋学会誌 (95), 19-26, 2005
- 神徳昭甫 日本開国-異文化交錯の劇空間 The Opening of Japan to the Western World-A Cross-Cultural Study of the Surprise Visits of Kurofune, an American Squadron 010b40 富山大学人文学部紀要40
- 永橋弘价 開国に至る外交経緯について-阿部正弘の対外姿勢を中心に 政治研究 創刊号 212-231 (PDF)
- 富澤達三 黒船かわら版とそれ以前 The Kurofune Kawaraban and Before 東京大学大学院総合文化研究科附属アメリカ太平洋地域研究センター アメリカ太平洋研究. 5, 2005.3,pp. 31-40
- 富澤達三 「黒船かわら版」の情報 神奈川大学 (PDF)
