青島の戦い

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青島の戦い
1912年の青島
1912年の青島
戦争第一次世界大戦日独戦争
年月日:1914年(大正3年)10月31日-11月7日
場所中国 山東半島 膠州湾租借地 青島
結果:日本・イギリス連合軍の勝利
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国
イギリスの旗 イギリス
ドイツの旗 ドイツ帝国
Flag of Austria-Hungary (1869-1918).svg オーストリア=ハンガリー帝国
指揮官
大日本帝国の旗 神尾光臣
大日本帝国の旗 加藤定吉
イギリスの旗 ナサニエル・バーナジストン
ドイツの旗 アルフレート・マイヤー=ヴァルデック
Flag of Austria-Hungary (1869-1918).svg オーストリア=ハンガリー帝国 リヒャルト・マコーウィッツ
戦力
大日本帝国の旗 約23,000
イギリスの旗 約1,500
ドイツの旗 3,625
損害
大日本帝国の旗 大日本帝国
戦死 270
負傷 113
沈没 巡洋艦1
イギリスの旗 イギリス
戦死 160
負傷 23
戦死 183
負傷 150
捕虜 4,715

青島の戦い(ちんたおのたたかい, Battle of Tsingtao, 1914年大正3年)10月31日 - 11月7日)は、第一次世界大戦中の1914年(大正3年)に、ドイツ帝国の東アジアの拠点青島日本イギリス連合軍が攻略した戦闘である。

概要[編集]

膠州湾のドイツ軍の創設[編集]

膠州湾租借地のドイツ軍

1897年明治30年)、ドイツは青島を含む膠州湾一帯を当時の中国政府から租借、湾口の青島に要塞を建設、ドイツ東洋艦隊を配備した。

戦闘の経過[編集]

1914年(大正3年)の第一次世界大戦で日本はドイツに宣戦布告し青島の攻略に乗り出した。マクシミリアン・フォン・シュペー中将指揮するドイツ東洋艦隊は開戦後すぐに港内封鎖を恐れ、ドイツ本国へ向かったがフォークランド沖海戦で壊滅した。青島には駆逐艦「太沽(タークー)」、水雷艇「S90」、砲艦「イルティス」、「ヤグアール」、「ティーガー」・「ルクス」が残った。S90 は10月18日0時、雷撃により日本海軍防護巡洋艦高千穂」を撃沈している。

ドイツ帝国海軍水雷艇「S 90」。
日本海軍初の水上機母艦である若宮

第一次世界大戦に参戦した各国軍隊がそうであったように、日本軍は初めて飛行機を戦闘に投入した。陸軍は有川工兵中佐の元にモ式二型4機、ニューポールNG二型単葉1機、気球1、人員348名を集めて臨時航空隊を編成した[1]。海軍は日本海軍で初めての水上機母艦である若宮を運用して、モーリス・ファルマン式(以下モ式)複葉水上機を投入した。「若宮」の搭載モ式は大型1機と小型1機を常備し、小型2機は分解格納された[1]海軍航空隊(指揮官山崎太郎中佐)は9月5日に初出撃を行った。一方のドイツ軍はルンプラー・タウベを偵察任務に投入した。パイロットはフランツ・オステル飛行家とギュンター・プリュショー中尉である[1]。青島のタウベは1機のみであったが、スケッチによる日本軍陣地観察でドイツ軍30㎝要塞砲に射撃目標を提示し、日本軍を悩ませた[2]。日本軍はタウベが飛来するたびに隠れなければならなかった[2]。日本軍はドイツ軍偵察機の排除に乗り出したが[2]9月30日に「若宮」が触雷して日本に帰投し、海軍航空隊は砂浜からの出撃を余儀なくされるなど、完全に水を挿された。10月13日、タウベを発見した日本軍は陸軍からニューポールNGとモ式、海軍からはモ式2機が発進し、空中戦を挑んだ[3]。タウベの機動性は日本軍のモ式を圧倒的に上回っていたが、包囲されかけたため、二時間の空中戦の末に撤退した[3]。これが日本軍初の空中戦となる。10月22日にもニューポールNGとモ式がタウベを追跡したが、翻弄されて終わった[4]。日本軍は急遽、民間からニューポール機とルンプラー・タウベを1機ずつ徴用して青島に送ったが、運用が始まる前に停戦を迎えた。

1914年(大正3年)10月31日、「神尾の慎重作戦」と揶揄される程に周到な準備の上で神尾光臣中将(後に大将)指揮する第18師団(約29,000名)と第二艦隊は攻撃を開始した。ドイツ軍兵力は約4,300名であった。

青島要塞を砲撃する四五式二十糎榴弾砲

ドイツの青島要塞攻略にあたり、日本陸軍は白兵戦で出血を強いた日露戦争旅順攻囲戦と異なり、砲撃戦による敵の圧倒を作戦の要とした。最新鋭の攻城砲四五式二十四糎榴弾砲をはじめ、三八式十五糎榴弾砲三八式十糎加農砲など、重火器による砲撃によりドイツ軍要塞を無力化した。ドイツ軍将校は戦後「余の砲台は(陸軍の砲撃により)殆ど破壊されて了った!」と感嘆したほどだった。

11月6日、青島要塞総督ワルデック少将は、タウベに秘密文書の輸送を託し、タウベと2人の飛行士を出発させた。タウベは脱出に成功し、青島要塞には二度と戻らなかった[5]11月7日午前6時30分、ドイツ軍は白旗を掲げ、午前9時20分にドイツ側軍使のルードヴィヒ・ザークセル大佐とカイゼル少佐が日本側軍使の香椎浩平少佐に降伏状を届ける。

11月7日午後7時50分に両軍は青島開城規約書に調印し、青島要塞は陥落した。

停戦後[編集]

破壊されたドイツ軍ビスマルク要塞の要塞砲

11月8日にヴァルデック総督は、日本軍の便宜を受けて、膠州湾青島守備軍の降伏を本国に報告する。これに対して、ドイツ皇帝よりヴァルデック総督に1級鉄十字勲章を授与したほか、守備軍の善戦を嘉するを発した。

青島入城時、ドイツ兵は日本兵には正対したがイギリス兵には背中を見せたという[6]

多くのドイツ軍捕虜は日本各地に設けられた14箇所の捕虜収容所に1919年(大正8年)ヴェルサイユ条約締結まで長期に渉り収容された。トラブルも生じたが、比較的自由な取り扱いを受けた徳島県の板東俘虜収容所では地元住民との交流があり、ドイツパン、ドイツ菓子、楽器演奏、鉄棒体操等が広められた。

大戦終結後の1920年大正9年)11月1日に青島要塞攻略の功によって、神尾光臣大将に功一級金鵄勲章が授与される。

参加兵力[編集]

日英連合軍[編集]

青島に到着したイギリス軍
  • イギリス軍

ドイツ連合軍[編集]

両軍の損害[編集]

日英連合軍[編集]

  • 日本陸軍
戦死216、負傷67
  • 日本海軍
沈没 - 防護巡洋艦高千穂
大破 - 水上機母艦若宮
戦死54、負傷46
  • イギリス軍
戦死160、負傷23

ドイツ連合軍[編集]

青島要塞の陥落
戦死183、負傷150、捕虜4,715

脚注[編集]

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  1. ^ a b c 中山 (2007, p. 24)
  2. ^ a b c 中山 (2007, p. 27)
  3. ^ a b 中山 (2007, p. 30)
  4. ^ 中山 (2007, p. 31)
  5. ^ 中山 (2007, p. 33)
  6. ^ ^ Adelaide Advertiser, Page 8, "The War" section, subparagraph "The China Fight – Australian who was wounded." summary of interview with Captain M. J. G. Colyer, December 28, 1914, http://trove.nla.gov.au/ndp/del/page/969739?zoomLevel=1

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]