金鵄勲章

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功一級金鵄勲章を佩用した片岡七郎

金鵄勲章(きんしくんしょう)は、かつて制定されていた日本の勲章の一つ。授与対象は大日本帝国陸軍大日本帝国海軍軍人軍属金鵄章ともいう。

金鵄」という名前の由来は、神武天皇東征の際に、神武のの弭にとまった黄金色トビ(鵄)が光り輝き、長髄彦の軍を眩ませたという日本神話伝説に基づく。


概要[編集]

喉下に佩用しているのが金鵄勲章(功三級)伏見宮貞愛親王

金鵄勲章は、1890年(明治23年)の紀元節(2月11日)に、明治天皇が発した「金鵄勲章創設ノ詔勅」によって創設され、同日に「金鵄勲章ノ等級製式及佩用式」(明治23年2月11日勅令第11号)によってその製式等が定められた。「武功抜群ナル者」を、「功一級」から「功七級」まで7等級の功級に叙した上で、勲章を授与した。

朕惟ミルニ
神武天皇皇業ヲ恢弘シ継承シテ朕ニ及ヘリ今ヤ夐(はる)カニ登極紀元ヲ算スレハ二千五百五十年ニ達セリ朕此期ニ際シ
天皇戡定ノ故事ニ徴シ金鵄勲章ヲ創設シ将来武功抜群ノ者ニ授与シ永ク
天皇ノ威烈ヲ光ニシ以テ其忠勇ヲ奨励セントス汝衆庶此旨ヲ体セヨ

1890年(明治23年)2月11日、「金鵄勲章創設ノ詔勅」

日清戦争開始後の1892年(明治27年)9月29日には、金鵄勲章年金令(明治27年勅令第173号)が制定されて、「功級ニ応シ終身年金」を賜ることとなった(令1条)。

1945年(昭和20年)の太平洋戦争大東亜戦争)の敗戦により、金鵄勲章に関する事務を所管していた陸軍省海軍省は廃止されてそれぞれ第一復員省第二復員省が事務を引き継ぎ、翌1946年(昭和21年)には生存者に対する叙勲が一時停止された[1]。1947年(昭和22年)5月3日には日本国憲法が施行され、同日施行された「内閣官制の廃止等に関する政令」(昭和22年政令第4号)1条により「金鵄勲章叙賜条例」(明治27年勅令第193号)、「金鵄勲章ノ等級製式及佩用式」などが廃止されたため、金鵄勲章は廃止された。

意匠[編集]

功二級金鵄勲章
(功一級金鵄勲章副章)
功五級金鵄勲章

金鵄勲章は神武天皇が東征のみぎりに金色の霊鵄が弓にとまり、長髄彦の軍勢がそれに目が眩んで降参したという逸話に基づいている。赤色七宝の旭光の上に金色の霊鵄を配し、下に大神宮の盾、矛、剣を配した物である。功級により金鍍金の範囲が異なるが、ほとんどの等級で意匠は同一。裏面の装飾は無い。功一級の副章及び功二級の正章のみ、斜めの旭光部分に黄色の七宝が用いられている。

綬は浅葱色と呼ばれる鮮やかな緑色を織地に白の双線が配されている。佩用式は旭日章などと変わらないが、功一級の大綬は日本で唯一、左肩から右脇に掛けた。

功級[編集]

金鵄勲章に付随して、叙せられた軍人の功績を示す等級。位階勲等と並び「功○級」と表示した[2]。各級は正式には功一級金鵄勲章のように等級+金鵄勲章の形で呼ばれる。また功級に合わせて年金が下賜された。

  • 功一級:天皇直隷部隊の将官(親補職)たる司令官に対して特別詮議の上授与。
    正章は大綬を以て左肩から右脇に垂れ、副章を左肋に佩用する。
    年金額900円
  • 功二級:功労ある将官、佐官最高位の功級。
    正章(功一級金鵄副章と同じ)は右肋に佩用する。
    年金額650円
  • 功三級:将官の初叙。功労ある佐官、尉官の最高位の功級。
    正章(功二級金鵄副章と同じ)は中綬を以て喉元に佩用する。
    年金額400円
  • 功四級:佐官の初叙せられる功級。功労ある尉官、准士官、下士官の最高位の功級。
    正章は小綬を以て左肋に佩用する。
    年金額210円
  • 功五級:尉官の初叙せられる功級。准士官、下士官の中で功労を重ねた者の功級。また兵の最高位の功級。
    正章は小綬を以て左肋に佩用する。
    年金額140円
  • 功六級:准士官下士官の初叙せられる功級。また功労ある兵の功級。
    正章は小綬を以て左肋に佩用する。
    年金額90円
  • 功七級:の初叙せられる功級。
    正章は小綬を以て左肋に佩用する。
    年金額65円


運用[編集]

位階や旭日章・瑞宝章などのその他の勲章は仕官して公務員(当時は官吏)となれば勤続年数などの一定の条件で大抵誰でも受勲することができ、また官吏では無い民間人でも対象となったが、金鵄勲章は軍人軍属のみでかつ相応の戦功がなくては授与されず、大将[3]皇族軍人[4]といえども相応の武功がなければ授与されなかった[5]。ただし、大臣や総長としての功績も「武功」に含まれたため、寺内正毅米内光政のように前線に出ずに功一級を受けた例もある。

また、受章者には功一級で900、功七級で65円の年金が支給された。昭和初期当時の二等兵の月給は8円80であり、かなりの高額であった。この年金は終身年金であったが、戦争の拡大に次ぐ拡大で受章者が急増し国庫の大きな負担になった。そのため1940年に一時金制に変更になり、国債の形で支給された。しかし、敗戦によりその国債は1円の価値もないものになった。また、生存者への授与は1940年を最後に戦争激化のため一時停止され、以後は戦功を挙げた戦死者に与えられるのみとなった。このため、前線部隊では勲功抜群なものに対しては「金鵄勲章の確約」として軍刀感状、記念品などを与えたり、陸軍では陸軍武功徽章を制定するなどして対処していた。

金鵄勲章は日本の勲章の中で唯一、先に授与された功級の低い物と後に授与された功級の高い同じ勲章の併佩が許されていた勲章でもある。金鵄勲章併佩ニ関スル件(昭和16年勅令第726号)[6]

宮中席次に於いて、功級は同じ数字の勲等よりも上位にあったため、その運用中は最も上位に佩用するものとされていた。功一級に関しては勲一等旭日桐花大綬章よりも下位であったが、陸軍の正装に於いては、両方の勲章を受章している場合、功一級の方を佩用するのが正式とされていた。

後年の金鵄勲章復権運動[編集]

戦後一旦停止されていた生存者叙勲制度が1963年に再開され、他の勲章の叙勲は再開されたが、金鵄勲章は廃止されたままで公の場での佩用も禁止されていた。その為金鵄勲章叙勲者達は名誉と年金の復活を求めて「金鵄連盟」をつくり、運動を始めた。1985年には「旧勲章名誉回復に関する懇談会」という国会議員の集まりがつくられ、当時の中曽根康弘内閣総理大臣に同様の要請をしている。叙勲者の高齢化等により活動は下火になったが、佩用は翌1986年に認められた。

金鵄勲章受章者[編集]

受章者数[編集]

(概数)

功一級金鵄勲章受章者[編集]

功一級金鵄勲章受章者は45人いて、海軍が18人、陸軍が27人である。また、大将がほとんどだが、中将(死後特進を含む)にも5人贈られている。(爵位・階級は最高位のもの)

陸軍軍人[編集]

陸軍正装の向かって右胸端、勲一等旭日桐花大綬章に並列して功一級副章を佩用した川村景明
陸軍略装に功一級副章(向かって右)を佩用した岡村寧次
日露戦争の功[編集]
第一次世界大戦の功[編集]
満州事変の功[編集]
支那事変の功[編集]
大東亜戦争の功[編集]


海軍軍人[編集]

海軍正装に功一級正章を佩用した伊集院五郎
海軍正装に功二級(向かって左上)・功三級(喉下)を併佩した島村速雄
日露戦争の功[編集]
支那事変の功[編集]
大東亜戦争の功[編集]

※功一級は陸海軍少将に対して授与の前例がなかったが、山口多聞・有馬正文の両少将(死後中将に特進)は特旨を以って授与された。

脚注[編集]

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  1. ^ 官吏任用叙級令施行に伴ふ官吏に対する叙位及び叙勲並びに貴族院及び衆議院の議長、副議長、議員又は市町村長及び市町村助役に対する叙勲の取扱に関する件、1946年(昭和21年)5月3日閣議決定。
  2. ^ 肩書きにおける表示順は、職、階級位階勲等、功級、爵位学位氏名となる(例:枢密院議長元帥陸軍大将従一位大勲位功一級公爵山縣有朋)。
  3. ^ 例として、陸大恩賜の軍刀組で陸軍内の各要職は勿論、軍務官僚として内閣総理大臣まで歴任した阿部信行陸軍大将は授与されていない。
  4. ^ 皇族は自身が迎える年齢によって自動的に大勲位菊花大綬章勲一等旭日桐花大綬章といった最高位の勲章が授与されるが(皇族身位令皇族#叙勲身位)、金鵄勲章に関しては例外とされていた。
  5. ^ 将官の身であり旭日章や瑞宝章は勲一等や二等を受勲しているにもかかわらず、金鵄章に関しては若い頃に受けた功五級や四級のみという軍人ももちろんいた。
  6. ^ 1 金鵄勲章ヲ有スル者更ニ同級ノ金鵄勲章ヲ賜ハリタルトキハ之ヲ併佩スベシ
    2 金鵄勲章ヲ有スル者更ニ上級ノ金鵄勲章ヲ賜ハリタルトキハ前ニ賜ハリタル金鵄勲章ヲ併佩スルコトヲ得

関連項目[編集]