山口多聞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
山口 多聞
TamonYamaguchi.jpg
山口 多聞
渾名 人殺し多聞丸
生誕 1892年8月17日
日本の旗 日本 東京市小石川区
死没 1942年6月6日(満49歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ミッドウェー島近海
所属組織 大日本帝国海軍の旗 大日本帝国海軍
軍歴 1912 - 1942
最終階級 OF-7 - Kaigun Chujo (collar).gif 海軍中将
墓所 東京都港区青山墓地
テンプレートを表示

山口 多聞(やまぐち たもん、1892年明治25年)8月17日 - 1942年昭和17年)6月6日)は、日本海軍軍人海兵40期ミッドウェー海戦において戦死。最終階級は海軍中将[1]

生涯[編集]

1892年(明治25年)8月17日東京市小石川区に旧松江藩士山口宗義の三男として生まれる。名前の「多聞」は南北朝楠木正成の幼名「多聞丸」から取っており、幼少の頃父から「大楠公のようになってもらいたい」と諭された。

1909年(明治42年)3月開成中学卒業。開校以来の秀才といわれた[2]。1909年(明治42年)9月海軍兵学校40期に150人中21位の成績で入学。同期に大西瀧治郎宇垣纏多田武雄岡新などがいる。棒倒しの奮闘では大西と双璧と言われ、剣道は兵学校で最高の1級であった[3]1912年(明治45年)7月、144人中次席の成績で卒業。少尉候補生1913年(大正2年)12月海軍少尉任官。1914年(大正3年)5月防護巡洋艦筑摩」乗組。1915年(大正4年)2月戦艦安芸」乗組。1915年(大正4年)12月海軍中尉昇進。砲術学校普通科学生。1916年(大正5年)6月水雷学校普通科学生。1916年12月第3潜水艇隊付。1918年(大正7年)5月第二特務艦隊司令部付。第一次世界大戦に参加、地中海での連合国艦船護衛の任にあたり、大戦後、戦利艦であるUボート回航要員を経験した。1918年(大正7年)7月駆逐艦」乗組。

1918年(大正7年)12月海軍大尉昇進。1919年(大正8年)1月旧ドイツ帝国潜水艦回航員。1919年(大正8年)7月横須賀防備隊付。1919年(大正8年)10月呉防備隊付。1919年(大正8年)12月海軍水雷学校高等科学生。1920年(大正9年)佐世保防備隊付。1921年(大正10年)2月アメリカ駐在。1923年(大正12年)5月帰国。6月戦艦「長門」分隊長。12月潜水学校教官兼分隊長。

1924年(大正13年)12月1日海軍少佐昇進。海軍大学校甲種学生拝命。同期の五十嵐恵と料亭に出向き四人前の料理を頼み、それに五十嵐が「今日は他所で食べてきたので一人前減らしてくれ」と頼んだところ、山口が「俺が三人前食うつもりで注文したんだ」と言い、本当に三人前の料理を平らげてしまったという。

1926年(大正15年)3月第一水雷戦隊司令部付。11月25日海軍大学校を首席で卒業。12月第一水雷戦隊参謀。1927年昭和2年)11月軍令部出仕。第一班第二課部員着任。1928年(昭和3年)12月海軍中佐1929年(昭和4年)11月ロンドン海軍軍縮会議全権委員随行員。山本五十六と共に条約締結に強硬に反対している[4]1930年(昭和5年)7月軽巡洋艦由良」副長。11月第一艦隊参謀兼聯合艦隊参謀。1932年(昭和7年)9月20日先妻・敏子が三男を出産後急死。その後、山本五十六の紹介で四竈孝輔の姪である孝子と再婚した。多聞は孝子を溺愛しており、戦地から250通にのぼる手紙を孝子に送っている。11月海軍大学校教官。12月海軍大佐1934年(昭和9年)6月米国在勤日本大使館武官。東部駐在員黛治夫によれば「山口は情報収集に熱心だったが、その後軍令部や連合艦隊がその情報を活用するように働いてくれなかった。そこがだめだったと思う」という[5]1936年(昭和11年)10月帰国。

支那事変[編集]

左2人目から一連空司令官当時の山口、嶋田繁太郎大西瀧治郎

1936年(昭和11年)12月軽巡洋艦「五十鈴」艦長。1937年(昭和12年)7月支那事変勃発。12月戦艦「伊勢」艦長。1938年11月15日海軍少将昇進。軍令部出仕。12月第五艦隊参謀長。1939年(昭和14年)11月第一艦隊司令部付。12月戦艦「長門」乗艦。

1940年(昭和15年)1月15日 第一連合航空隊司令官。大西瀧治郎の案で大西を司令とする第二連合航空隊とともに第一空襲部隊を編成し、山口がその指揮官を務め、101号作戦(重慶爆撃)を開始する。5月12日山口は准士官以上の搭乗員に「これから開始する101号作戦では兵力が半減しても重慶に連続猛攻撃を加え蒋介石政権を壊滅させる」と訓示する[6]。爆撃を護衛戦闘機がないまま強行したために大きな犠牲を出してパイロットからは「人殺し多聞丸」と呼ばれた。重慶爆撃に関して大西が「日本は戦争をしている。イギリスは負けている。アメリカも戦争に文句はあるまい。絨毯爆撃で結構」と言い、山口は中央からの指示もあったため「重慶には各国大使館もあるし慎重に」と言って、二人は喧嘩になったが、山口が「俺も徹底したいけど中央が言うから」と漏らすと大西も「それが戦争だよな」と答えた[7]。7月10日山口は長慶爆撃を強行しようと考えたが、大西は「一週間待てば援護戦闘機がつけられる」と反対して対立するが、山口が折れて後に大西は「山口の方が一枚上手だったよ」と回想した[8]。 7月中旬に横山保十二試艦上戦闘機(零戦)を持って現れ、山口はその十二試による敵本拠地の敵戦闘機撃滅を命じた。横山によれば、機体の問題が解決するまでの猶予を求めると山口は「貴様は命が惜しいのか」と急き立てたという[9]

太平洋戦争[編集]

第一段作戦[編集]

日本軍機の魚雷攻撃を受ける米戦艦

1940年(昭和15年)11月1日第二航空戦隊司令官に着任。1941年(昭和16年)9月海大図上演習で井上成美ラバウルを確保するにはソロモン東部ニューギニアに前進基地を確保する必要があると考え、ラバウル攻略後はラエサラモアまで進出することを主張した。これに対して山口は宇垣纏中将とともに消極的な意見を述べ、攻略範囲は決まらなかったが、連合艦隊はそれらを加味し、他方面が有利に展開するなら早く実行するとした[10]

山口の二航戦は、南雲忠一中将を司令長官とする第一航空艦隊として真珠湾攻撃作戦に参加した。山口は朝も夜も航空部隊に猛訓練をさせて事故が多発し、気違い多聞、人殺し多聞と呼ばれた[11]。軍令部からの要請で航続力の優れた空母三隻(「加賀」、「翔鶴」、「瑞鶴」)に最も優秀な第一航空戦隊、第二航空戦隊を乗せて作戦を行う案が作られ、この案を知った山口は「今まで訓練してきた人と飛行機を取られ、母艦だけ残されては部下に会わす顔がない、攻撃の後は置き去りにしてくれて構わない」と反対した。第一航空艦隊は最終的に空母6隻案でまとまり解決した[12]。山口はネルソンの「旗艦見えず戦闘の処置に困りたる時は敵艦に横付けして死闘をなせ、しからば予の意図に合致せん」という言を信条としており、1941年(昭和16年)10月「時局は重大な転機を迎えている。十年兵を養うには一にしの日のためである。緊褌一番、実力の涵養に努めよ。戦場においては混戦となり、信号も届かない場面もあろう。その時は躊躇無く敵に向かって猛進撃すべし。それが司令官の意図に沿うものである」と訓示した[13]

1941年(昭和16年)12月7日真珠湾攻撃は成功し、大戦果を納めた。山口は攻撃後、機動部隊指揮官(南雲)が再攻撃準備を命じたまま攻撃を下令しないので、南雲長官の今までの言動から再攻撃の意志がないものと見たか「第二撃準備完了」と信号してそれとなく催促した。また搭乗員や航空参謀から再攻撃の意見がだされ、意見具申をするよう強く要望されたが、山口司令官は「南雲さんはやらないよ」と洩らして、意見具申を行なわなかった[14]。帰還中に連合艦隊からミッドウェー島基地を攻撃し、再使用不能にして帰るように命令があったが、その達成が不可能と判断した南雲は攻撃へ向かわなかったので、山口は信号を送り、直談しようとした。幕僚の鈴木栄二郎中佐はこれが第二攻撃具申と誤って伝わったのではないかと戦後話している。[15]

その後、第一航空艦隊は南進して連戦連勝を続けた。山口も1941年(昭和16年)12月ウィーク島攻略支援、1942年1月アンボン攻撃、1942年(昭和17年)2月19日ポートダーウィン攻撃、1942年3月ジャワ海掃討戦、1942年4月インド洋作戦に参加した。

1942年(昭和17年)2月、山口は私見として連合艦隊参謀長宇垣纏中将などに航空主兵に徹底した艦隊編成を航空整備進捗状況に合わせて拡大し、対米作戦を積極的に進めてアメリカを屈服させるという意見書を提出した[16]

二段作戦の研究では、米本土空襲を提案している。山口案は、1942年5月インド要地占領、7月フィジーサモアニューカレドニアおよびニュージーランドオーストラリア要地の占領、8、9月アリューシャン占領、11、12月ミッドウェージョンストンパルミラ占領、12月、1943年1月ハワイ占領、その後パナマ運河破壊、カリフォルニア州油田地帯占領、北米全域爆撃という計画であった[17]

ミッドウェー海戦[編集]

第一航空艦隊が帰国すると、すぐにミッドウェー作戦が命令された。ミッドウェー作戦を知った山口は太平洋のアメリカの艦隊を壊滅できると乗り気であった[18]。しかし、準備期間が短く、搭乗員の練成など準備が間に合わないことを理由に山口は源田実中佐とともに反対したが、山本五十六長官以下連合艦隊司令部は聞く耳を持たなかった[19]。さらに、1942年(昭和17年)4月29日戦艦「大和」で行われた作戦研究会で山口は第一航空艦隊のような集団を空母3隻で作り、その集団4つほどで輪形陣を行い、車掛りで襲来する空母部隊の構想を提案する。提案は了とされ、生産状況から近く実現できるものであったが、ミッドウェー作戦を急いだため、後回しにされて実現しなかった[20]

また、同期で連合艦隊参謀長の宇垣纏によれば、「山口第二航空戦隊司令官は常に機動部隊として活躍したるが、第一航空艦隊の思想にあきたらず、作戦実施中もしばしば意見具申を為したる事実あると共に、計画以外妙機を把握して戦果の拡大を計り、或は状況の変化に即応する事絶無なること余輩に語りし事三回に及べり。彼の言概ね至当にして余輩と考えを一にし今後も大いに意見を具申すべきを告げたり。尚艦隊司令部は誰が握り居るやの質問に対し、『長官は一言も云わぬ、参謀長先任参謀等どちらがどちらか知らぬが億劫屋揃である』と答えたり。」という[21]

1942年(昭和17年)6月ミッドウェー海戦に二航戦司令官として空母「飛龍」で参加。ミッドウェー島基地攻撃中にアメリカ機動部隊発見の報告を受け、南雲忠一長官に「直二攻撃隊発進ノ要アリト認ム。」と電文を送り、帰還部隊の収容をあきらめ、陸上爆弾装備中の部隊の発進を急ぎ、敵機動部隊に攻撃することを意見具申した[注釈 1]。しかし、南雲司令部は帰還したミッドウェー基地攻撃隊の収容を優先させた[22]

主力四空母中「赤城」「加賀」「蒼龍」の三空母が敵急降下爆撃により大被害を受けると、第八戦隊旗艦「利根」と機動部隊全艦に対し、山口は「我レ今ヨリ航空戦ノ指揮ヲ執ル」と発光信号を発し、また「飛龍」艦内には、「赤城・加賀・蒼龍は被爆した。本艦は今より全力を挙げ敵空母攻撃に向かう」と通報した。二航戦先任参謀伊藤清六中佐の手記によれば、山口は攻撃隊搭乗員に「飛龍一艦、少數の飛行機を驅つて敵空母二隻に全艦隊の仇を報じ得たるいはれなきにあらず。體當りでやつて来い、俺も後から行くぞ」と訓示した[23]

米軍機の急降下爆撃を受け炎上する「飛龍」

山口は次席指揮官の第八戦隊司令官阿部弘毅少将の命令を待たずに敵空母との間合いを詰めて、敵が攻撃を終えた機体を収容する時を狙い雷撃準備を終えた部隊で攻撃した。先任の阿部をおいて山口が主導したのは、その性格と第二航空戦隊が主力と考えて重要な戦機でもあったためである。接近したのは攻撃力発揮と攻撃隊を収容をするためであった[24]。二次に亘る航空攻撃の結果、敵主力空母「ヨークタウン」を大破(後、潜水艦伊一六八により撃沈)させるも、第三次攻撃は攻撃力消耗から薄暮れを待ち夜戦を予定していた。山口は「飛龍には他の空母の艦上戦闘機もあるので上空警戒機で阻止できる」という判断をした。戦艦「榛名」が敵機を発見し触接警戒しているので警戒を厳にし13機を上空に上げていたが、急降下爆撃機SBDドーントレスの攻撃を受けて飛行甲板が破壊され、発着艦不能となった[25]

提督の最後北蓮蔵東京国立近代美術館保管(アメリカ合衆国より無期限貸与) 1943年(昭和18年)山口の最期を描いた戦争画。画面中央での罐の蓋で水を受けるのが山口、その向かって右奥は飛龍艦長・加来止男で、右手前から参謀が降ろされた軍艦旗を掲げ持って歩み寄る[26]

山口は総員集合をさせ「皆が一生懸命努力したけれども、この通り本艦もやられてしまった。力尽きて陛下の艦をここに沈めなければならなくなったことはきわめて残念である。どうかみんなで仇を討ってくれ。ここでお別れする。」と告げ、一同水盃をかわし皇居を遥拝し聖寿の万歳を唱え軍艦旗将旗を降納した。部下は退艦を懇請したが、山口は受け入れなかった。山口と艦長加来止男は艦に残り、首席参謀・伊藤清六中佐が「何かお別れに戴くものはありませんか」と頼むと黙って自分の被っていた戦闘帽を渡した[27]。 「飛龍」を雷撃処分した第10駆逐隊司令阿部俊雄大佐が連合艦隊司令部で証言した事によれば、山口は訓示のあと退艦を願う部下達の制止をふりきり『マスクを被り艦橋に昇られたるが後、再び姿を見せられず』だったという[28]。このあと「飛龍」は第10駆逐隊「巻雲」に雷撃処分されたがすぐには沈まず、空母「鳳翔」偵察機が飛龍飛行甲板で帽子をふる生存者を発見、駆逐艦「谷風」が飛龍処分のために派遣されたが、既に「飛龍」は沈没していた[28]。飛行甲板で手を振っていた人影は、「飛龍」の雷撃処分を知らなかった機関科部員で、のちに米軍によって救助された[29]

山口と加来の戦死は、1943年(昭和18年)4月24日夜に放送された『提督の最期』と題する番組で公表された[30]。戦死により海軍中将に特進。

空母「飛龍」に掲げていた少将旗は生還した第二航空戦隊首席参謀伊藤清六中佐に託され、現在広島県呉市呉市海事歴史科学館に展示されている。「大君につくすまことの一と筋は孝の道にも通ふなるらん」の和歌も残されている[31]。墓所は東京都港区青山墓地

人物[編集]

宇垣纏中将(ミッドウェー海戦時連合艦隊参謀長。山口と海軍兵学校同期)は、山口は潜水艦を専務とするも剛毅果断にして見識高いと評価、戦死を聴いて『痛恨限りなし』と悼み、『餘の級中最も優秀の人傑を失ふものなり』と最大級の賛辞をおくっている[28]。のちに山口戦死時の詳しい状況を聴き『見事なる覺悟立派なる最後、彼満足して逝きたり。死處を得て其の精神を萬代に貽し得る士は幸なり』と偲んでいる[23]大西瀧治郎中将は「山口の死は一時に大艦数隻失う以上の損失」と死を惜しんだ[32]福留繁中将によれば、山口は航空に関しては素人であったため幕僚にいいかと聞く、いいかいいか司令と自称していたという[33]草鹿龍之介中将は、山口を「部内にも名望ある三拍子も四拍子もそろった名提督」と評価する[34]角田覚治少将[注釈 2]は、山口の戦死を聞き、「山口を機動部隊司令長官にしてあげたかった。彼の下でなら、喜んで一武将として戦ったのに」と死を惜しんだ[35]。源田実大佐は山口をネルソンにも匹敵する名将と讃えた[36]

山口は、真珠湾攻撃での反復攻撃の意見具申説、ミッドウェー海戦の即時攻撃の意見具申説で高く評価されることがあるが、前者の意見具申はなく、後者もアメリカの資料との食い違い[注釈 3]から虚構だったとする指摘もある[37]。 作家の保坂正康によれば、ニミッツ提督山本長官機の撃墜の是非を「ヤマモトを殺しても、後任により優れた指導者が現れては困る」と情報部のレイトンらに諮った際、山本の後継者として真っ先に多聞の名が挙がり、レイトンは「彼は既に戦死しているから安心だ、ヤマモトに代わり得る人物は日本には他にいない」と返答したという話もある[38]。だが、アメリカ側の記録にこの時多聞の名が挙がったというものはなく、信憑性が薄い説である。

山口家の祖先は戦国時代北陸の武将山口宗永まで遡る。父・宗義は旧松江藩士であり、大蔵省から日本銀行理事、父の次弟は日本初の工学博士で建築家の山口半六、父の末弟は京都大学教授、学習院院長、宮中顧問官を歴任した山口鋭之助。また兄の三菱銀行常務山口堅吉の妻テルは、大久保利通の姪である。戦後の親戚に、日塗エンジニアリング社長、日本塗料常務の山口宗樹、レーシングドライバーの山口礼がいる。

経歴[編集]

栄典[編集]

演じた俳優[編集]

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ ミッドウェー島基地攻撃用に陸上爆弾を装備転換中だった艦載機の搭載作業が行われており、現地時間7時15分から始まった兵装転換は7時40分の利根4号機からの「敵艦見ゆ」の報を受け45分に一時停止させていた
  2. ^ 角田は兵学校で山口の1期先輩であったが、大佐昇進、少将昇進とも山口より1年遅れており、指揮継承順位は山口が上である。
  3. ^ 日本側空母の甲板に攻撃隊が準備できていない写真があり即時攻撃を意見具申できる状況になかった。

出典[編集]

  1. ^ #大東亜戦争記録画報. 續篇p.98『山口多聞中将』
  2. ^ 『昭和史の軍人たち』「山口多聞」
  3. ^ 秋永芳郎『海鷲の割腹』光人社16頁
  4. ^ 『山本五十六再考』「ロンドン会議の山本五十六」
  5. ^ 生出寿『勇断提督山口多聞』徳間書店29-34頁
  6. ^ 生出寿『勇断提督山口多聞』徳間書店70頁
  7. ^ 草柳大蔵『特攻の思想 大西瀧治郎伝』文春文庫82-83頁
  8. ^ 生出寿『勇断提督山口多聞』徳間書店75-76頁
  9. ^ 吉田俊雄『指揮官たちの太平洋戦争』光人社NF文庫80-82頁
  10. ^ 戦史叢書49南東方面海軍作戦(1)ガ島奪回作戦開始まで26頁
  11. ^ 江草聖子『二つの時代 夫は艦爆の神様と言われて』光人社 惜別の人17-18頁
  12. ^ 戦史叢書10 ハワイ作戦 p.110-111、文芸春秋『完本・太平洋戦争〈上〉』1991年39-40頁
  13. ^ 生出寿『勇断提督山口多聞』徳間書店
  14. ^ 戦史叢書10 ハワイ作戦343-344頁
  15. ^ 戦史叢書10 ハワイ作戦 412頁
  16. ^ 戦史叢書43ミッドウェー海戦160-161頁
  17. ^ 秦郁彦『実録太平洋戦争』光風社35頁
  18. ^ プランゲ『ミッドウェーの奇跡上』千早正隆訳 原書房38頁
  19. ^ 草鹿龍之介『連合艦隊参謀長の回想』光和堂40頁
  20. ^ 吉田俊雄『栄光と悲劇 連合艦隊 東郷平八郎と山本五十六』秋田書店 p339-340
  21. ^ #戦藻録(1968)128頁
  22. ^ 戦史叢書43ミッドウェー海戦290-291頁
  23. ^ a b #戦藻録(1968)243頁
  24. ^ 戦史叢書43ミッドウェー海戦336-337頁
  25. ^ 戦史叢書43ミッドウェー海戦342-343頁
  26. ^ 針生一郎他編 『戦争と美術 1937-1945』 国書刊行会、2007年、214頁
  27. ^ #日本海軍の話p.84
  28. ^ a b c #戦藻録(1968)141-142頁
  29. ^ 戦史叢書43ミッドウェー海戦380-382頁
  30. ^ #日本海軍の話p.73『皆様、皆様は去る四月二十四日の午後七時十分から四十五分にわたって、大本営の報道部部長平出英夫大佐が血涙と共に放送された山口多門中将と如来止男少将との悲壮な御最後の有様をまだまざまざと覚えてゐられることと思ひます。』
  31. ^ #日本海軍の話p.86
  32. ^ 山口宗敏『父・山口多聞』光人社NF文庫116頁
  33. ^ 山口宗敏『父・山口多聞』光人社NF文庫96-97頁
  34. ^ 草鹿龍之介『連合艦隊参謀長の回想』光和堂
  35. ^ 淵田美津雄、奥宮正武『ミッドウェー』学研M文庫
  36. ^ 秦郁彦『昭和史の軍人たち』文藝春秋256頁
  37. ^ 澤地久枝『滄海よ眠れ』
  38. ^ 半藤一利保坂正康『昭和の名将と愚将』
  39. ^ 『官報』第1930号、「叙任及辞令」1919年01月11日。

参考文献[編集]

  • 近代デジタルライブラリー - 国立国会図書館
    • くろがね会編 「ある提督の死 山口多聞中将と如来止男少将」『日本海軍の話』 四方木書房、1943年7月。
    • 英文大阪毎日学習号編輯局 編 「艦と共に壮烈の最期 山口如來両提督歴戦の偉功」『大東亜戦争記録画報. 續篇』 大阪出版社、1943年6月。

関連項目[編集]