米内光政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

米内 光政
(よない みつまさ)

37
日本の旗日本国 内閣総理大臣
在任期間 1940年昭和15年)1月16日
 - 1940年(昭和15年)7月22日

生年月日 明治13年(1880年3月2日
出生地 岩手県盛岡市
出身校 海軍大学校
学位・資格・称号 海軍大将
従二位
勲一等
功一級金鵄勲章
前職 軍事参議官
世襲の有無
選挙区 非議員
当選回数
党派 中間内閣
没年月日 1948年(昭和23年)4月20日

米内 光政(よない みつまさ、1880年明治13年)3月2日 - 1948年昭和23年)4月20日)は日本海軍軍人連合艦隊司令長官海軍大臣、第37代内閣総理大臣などを歴任、その後最後の海軍大臣として日本を太平洋戦争の終戦へと導くことに貢献した。海軍大将従二位勲一等功一級

目次

[編集] 生涯

[編集] 生い立ち

1880年明治13年)旧盛岡藩士米内受政の長男として現在の岩手県盛岡市に生まれる。父が選挙に落選したり事業に失敗したため一家は困窮の中にあった。その中で、米内は幼少の頃から新聞配達、牛乳配達などをして家計を助け苦学の後、盛岡高等小学校岩手県尋常中学校を経て、1901年(明治34年)に海軍兵学校を卒業。

1903年(明治36年)任海軍少尉。1905年(明治38年)日露戦争に従軍。1914年大正3年)海軍大学校を卒業。第一次世界大戦後のロシアとポーランドに大使館駐在武官として駐在し、革命の混乱のなかで冷静に国際情勢を分析していた。ロシア革命に関する論文もある。大戦後のドイツの首府ベルリンでも情報収集の任に当たっている。将官昇進後は中国勤務も多かった。

[編集] 海軍内部の良識派

連合艦隊司令長官当時(1936年頃)
連合艦隊司令長官当時(1936年頃)

1930年昭和5年)には中将になり、鎮海要港部司令官に任じられるが、この地位は「クビ5分前」と言われる閑職であり、本人も「いつでも辞める覚悟はできてるよ」と同期に語っているが、この時に読書三昧の日々を過ごし、その読書の範囲は漢書からロシア文学社会科学、果ては中学の後輩である野村胡堂の小説まで、軍人の範疇を超えたもので「本は三度読むべし。1回目は始めから終わりまで大急ぎで、2度目は少しゆっくり、3度目は咀嚼して味わうように読む」という米内独特の読書法もこの頃に確立したものと思われる。この読書で培った知識・教養は後に海軍大臣や総理大臣になった際に大いに役立てている。

1932年(昭和7年)以後、艦隊司令長官を歴任する。佐世保鎮守府長官のとき友鶴事件が発生する。米内は事件をあらゆる角度から検証して根本的な原因を見つけ出し、事件を解決に導いている。

海軍大将礼装(1936年頃)
海軍大将礼装(1936年頃)

二・二六事件の起こった1936年(昭和11年)年2月26日、米内は横須賀鎮守府司令長官だったが、新橋待合茶屋に泊まっていた。事件のことは何も知らず、朝の始発電車で横須賀に帰ったらしい。その直後に横須賀線はストップしたというから危ないところだった。鎮守府に着いた米内は参謀長の井上成美とともにクーデター部隊を「反乱軍」と断定、制圧の方向で大いに働いた。その後の人事異動で連合艦隊に転出、連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官に親補された。

1937年(昭和12年)林銑十郎内閣海軍大臣、任海軍大将。その後第一次近衛文麿内閣平沼騏一郎内閣でも海相を務めた。

極端に口数が少なく、演説の類が大嫌いだった。平沼内閣の閣僚中、演説回数が一番少なく、1回の演説字数が461字と、他の大臣の半分という記録が残る。終生抜けなかった南部弁を気にしたという説もあるが、面倒くさがり屋で、くどくど説明するのを嫌った。

近衛内閣時代、ナチス・ドイツを仲介とした対中和平交渉であるトラウトマン工作の打ち切りを主張。平沼内閣時代には山本五十六海軍次官、井上成美軍務局長とともに、ドイツやイタリアとの提携に反対する。

[編集] 首相就任

郷里岩手県の戦災遺児を官邸に招いて励ます米内総理(1940年3月29日)
郷里岩手県の戦災遺児を官邸に招いて励ます米内総理(1940年3月29日

1940年(昭和15年)1月16日予備役編入とともに内閣総理大臣に就任する。米内を総理に強く推したのは昭和天皇自身だったようだ。この頃、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーはヨーロッパで破竹の猛進撃を続け、軍部はもとより、世論にも日独伊三国軍事同盟締結を待望する空気が強まった。天皇はそれを憂慮し、良識派の米内を任命したと『昭和天皇独白録』の中で述べている。天皇に呼ばれた時、当初米内は組閣を断るつもりだった。しかし、「朕、卿に組閣を命ず」という天皇の甲高い声を聞き、「電気に打たれたようになって」断りを言い出せなくなったという。

衆議院本会議場の総理大臣席でメモに目を通す米内総理(1940年2月2日)
衆議院本会議場の総理大臣席でメモに目を通す米内総理(1940年2月2日)

そんな米内は陸軍とうまく行かず、倒閣の動きは就任当日から始まったといわれる。半年も経った頃、陸軍は日独伊三国同盟の締結を要求する。米内が「我国はドイツのために火中の栗を拾うべきではない」として、これを拒否すると、陸軍は畑俊六陸軍大臣を辞任させて後継陸相を出さず、米内内閣を総辞職に追い込んだ[1]。米内はその経過を公表して、総辞職の原因が陸軍の横槍にあった事を明らかにした。昭和天皇も「米内内閣だけは続けさせたかった」と後に述懐している。

[編集] 帝国海軍の幕引き役

小磯内閣で海相を務める(前列最右、1944年7月22日)
小磯内閣で海相を務める(前列最右、1944年7月22日
鈴木内閣で海相に留任(前列右、1945年4月7日)
鈴木内閣で海相に留任(前列右、1945年4月7日
東久邇宮内閣で再び近衛と閣内に(二列目左から二人目、1945年8月17日)
東久邇宮内閣で再び近衛と閣内に(二列目左から二人目、1945年8月17日
幣原内閣で「最後のご奉公」(前列左から三人目、1945年10月9日)
幣原内閣で「最後のご奉公」(前列左から三人目、1945年10月9日

1943年(昭和18年)、盟友・山本五十六国葬委員長をつとめる。だが軍人が神格化されることを毛嫌いしていた山本をよく知る米内は、後に山本神社建立の話などが出るたびに「山本が迷惑する」と言ってこれをつぶしていた[2]。山本五十六の戦死の直前、米内の夢の中に山本が現れたという。山本の戦死が公表されると、米内は朝日新聞に追悼文を寄稿、その中で「不思議だと思ふのは四月に實にはつきりした夢を見た、何をいつたか忘れたが、今でも顔がはつきりする夢を見た、をかしいなと思つてゐたが、まさかかうなるとは思はなかつた」とその夜のことを振り返っている[3]

1944年(昭和19年)現役に復帰して小磯内閣で海軍大臣となる。小磯國昭と共に組閣の大命を受けた経緯から副総理格とされ、「小磯米内連立内閣」とも呼ばれた。1945年(昭和20年)鈴木貫太郎内閣に海相として留任。米内本人は「連立内閣」の片方小磯だけが辞めてもう片方米内が残るというのは道義上問題があると考えていた。だが次官の井上成美が米内の知らないところで「米内海相の留任は絶対に譲れない」という「海軍の総意(実は井上の独断)」を、大命の下った鈴木や木戸幸一内大臣に申し入れていたのだった[4]

米内は海相として太平洋戦争終結の道を探った。天皇の真意は和平にあると感じていたからで、1945年5月末の会議では阿南惟幾陸相と論争し、「一日も早く講和を結ぶべきだ」、「この大事のために、私の一命がお役に立つなら喜んで投げ出すよ」と言い切った。終戦直前の1945年8月12日、主戦派の大西瀧治郎中将(軍令部次長)が豊田副武軍令部総長を通じ終戦反対の意を勝手に帷幄上奏し、激怒した米内は大臣室に大西・豊田の両名を呼びつけ叱責した。大西と豊田は抗弁したが、普段寡黙な米内は、このときばかりは大声で両名を叱りつけ、その声はドアごしに筒抜けになるほどであった。

阿南惟幾は終戦の日当日に「米内を斬れ」と言い残して自害したが、米内本人は軍人として法廷で裁かれる道を選んだ。戦犯として拘束されることを予期し、巣鴨プリズンへ収監される場合に備えていたものの、結局米内は容疑者には指定されなかった。戦後処理の段階に入っても米内の存在は高く評価され、東久邇宮稔彦王内閣幣原喜重郎内閣でも海相に留任して帝国海軍の幕引き役を務めた。幣原内閣の組閣時には健康不安から(血圧は最高250、戦前の豊頬が見る影もなく痩せ細っていた)辞意を固めていたにもかかわらずGHQの意向で留任している。

[編集] 東京裁判

戦後の東京裁判では証人として1946年3月・5月の2度に亘って出廷し、「当初から、この戦争は成算のなきものと感じて、反対であった」「天皇は、開戦に個人的には強く反対していたが、開戦が内閣の一致した結論であった為、やむなく開戦決定を承認した」と、天皇の立場を擁護する発言に終始した。その上で、満州事変日中戦争、日米開戦を推進した責任者として、土肥原賢二板垣征四郎武藤章、文官では松岡洋右の名前も挙げて、陸軍の戦争責任を追及している。しかし、何故か東條英機の責任については言明する事がなかった[5]

一方で、陸軍大臣単独辞任で米内内閣を瓦解させた事でA級戦犯として裁かれる事になった畑に対しては、これをかばって徹底的にとぼけ通し、ウィリアム・ウェブ裁判長から「こんな愚鈍な提督は見たことがない」と罵られても平然としていた。一方で、ジョセフ・キーナン首席検事はむしろ「あれは畑を庇っていたのだ。米内は素晴らしい」と敬意を表し、日本を離れる際、自筆の晩餐会招待状を送っている[6]

1948年(昭和23年)肺炎により死去。68歳と1ヵ月だった。軽い脳溢血に肺炎を併発したのが直接の死因だが、長年の高血圧症慢性腎臓病の既往症があり、さらに帯状疱疹にも苦しめられるなど、実際は体中にガタがきていた[2]。実際、戦後になって少し体調は落ち着きを見せていただけあって、帯状疱疹が彼の寿命を縮めたと言える。

米内の死後12年を経た1960年(昭和35年)、盛岡八幡宮境内に背広姿の米内の銅像[7]が立てられ、10月12日に除幕式が行われた。その直前に、巣鴨プリズンから仮釈放された81歳の畑俊六が黙々と会場の草むしりをしていたという[2]

[編集] 人物

  • 海軍兵学校での成績は良い方ではなく、卒業時の席次は67番であった。卒業時席次が退役に至るまで出世に影響した日本海軍にあって、この成績で海軍大将まで昇進し、海軍大臣連合艦隊司令長官に就任したのは極めて異例のことであった。後の研究で、当時の米内のノートを見ると記述の質・量が圧倒的であり、ひとつの問題に対して自分が納得が行くまであらゆる角度からアプローチをかけ問題を解決していた。これは詰め込み式教育が当たり前だった海軍教育においては異彩を放つ勉強法であり、海軍兵学校の試験の点数が上がらなかったのもそのためであったのだろうと推測される。米内の勉強法を知っていた当時の教官は「彼は上手くいけば化ける。いや、それ以上の逸材になるかも知れない」と目を掛け、多少の成績の不振でも米内をかばい続け、何とか米内を海軍兵学校から卒業させた。後に同期の藤田尚徳は人事局長時代、当時の谷口尚真呉鎮守府司令長官から「君のクラスでは誰が一番有望かね?」という質問に即座に「それは米内です」と答えたという。
  • 藤田尚徳が海軍次官の時、第三艦隊司令長官に就いていた米内がインフルエンザをこじらせて胸膜炎になり療養を必要としたが米内は拒絶した。藤田は高橋三吉軍令部次長と相談し、「米内君の気持ちはよくわかる。しかし第三艦隊司令長官は米内君でなくとも勤まる。だが帝国海軍の将来を考える時必ずこの人に大任を託す時期が来ると思う。今米内君を再起不能の状態に陥れてはならぬ。たとえ今はその気持ちを蹂躙しても、また後で怒られても良い」と結論に達し海軍次官と軍令部次長の権限で米内を療養させた。米内のを知る2人の同期の計らいで療養生活に入り、早期治療の効果か1ヵ月後には米内は職務に復帰することが出来た。
親睦会で米内(中央)を囲む「一六会」の面々(1940年10月)
親睦会で米内(中央)を囲む「一六会」の面々(1940年10月)
  • 米内は当時の軍人としては珍しい国際的視野を持っていた。ロシア語が堪能なことで知られ、大使館駐在武官としてロシアポーランドドイツ中国に赴任した経験があり、将官昇進後は中国勤務も多かった。日本の国力や国際情勢を見極め、英米と協調する現実的な政治姿勢を終始貫いた。
  • 米内が内閣総理大臣を辞した後、陸軍を除く秘書官達で米内の親睦会が作られた。米内内閣が成立した日も総辞職した日も16日だったことから「一六会」と名付けられ、戦後も長く存続した。戦前の閣僚中、米内は鈴木貫太郎と並び昭和天皇の信任が最も厚かったといわれている。首相退任の際、挨拶の際参内した米内に対して昭和天皇は使用していた硯をその場で直接下賜している。
  • 米内の下で軍務局長・海軍次官を務めた井上成美は戦後、「海軍大将にも一等大将、二等大将、三等大将とある」と述べており、文句なしの一等大将と認めたのは山本権兵衛加藤友三郎米内光政の三人だけであったという。井上成美自身は、「海軍の中で誰が一番でしたか?」の質問に「海軍を預かる人としては米内さんが抜群に一番でした」と語っている。また米内と親交のあった小泉信三は「国に大事が無ければ、人目に立たないで終わった人」と米内を評している。
  • 坊主頭が当然とされた日本の軍隊で、米内は髪をポマードで整えて七三に分け、若い頃から鼻眼鏡を愛用した。上官から髪を切るよう勧められても「ウフフ」と笑うだけ、切ろうとしなかった。米内は坊主頭が海外では囚人の髪型であることを知っており、海外と直接接する海軍軍人の髪型としてふさわしくない、という理念からであったという。
板垣征四郎陸相(中央右)の就任祝賀会に参加する米内海相(中央左)。板垣の右には陸軍次官の東條英機も見える。(1938年)
板垣征四郎陸相(中央右)の就任祝賀会に参加する米内海相(中央左)。板垣の右には陸軍次官の東條英機も見える。(1938年)
盛岡中学時代の恩師・冨田小一郎(左から二人目)を囲む板垣陸相(最左)と米内海相。(1939年6月3日)
盛岡中学時代の恩師・冨田小一郎(左から二人目)を囲む板垣陸相(最左)と米内海相。(1939年6月3日
  • また長身で日本人離れした風貌でもあったため女性によくもてたようで、特に花柳界では山本五十六とともに圧倒的な人気があった。長男の剛政は父の死後、愛人だったと称する女性にあちこちで会って困ったという。
  • 海相時代、華南でハンセン氏病に罹った兵が、戦いではなく病気で軍を離れたことに対する苦悩を手記にして清水光美人事局長に送った。人事局長を経てその手記を見た米内は、「これを送って慰めてやってくれ」と漢詩を書いた書と絵画を送ったという。
  • 同じく海相時代、下士官・兵の家族の福利厚生、特に病気になった時の対策が資金面の都合で滞っておりこれは歴代海相の共通の悩みだった。米内は大蔵大臣に相談してすぐに許諾をもらい、要港の大規模病院の建設は支出を大蔵省に渋られたため、民間からの寄付で補おうと海相官邸に財界の有力者を呼び集め寄付を呼びかけたところ、予定額をはるかに超える寄付金が集まった。これにより歴代海軍大臣の懸案であった医療問題が解決したのだが、これは米内の人柄によるものであろうと誰もが絶賛した。
  • 米内と板垣は政治的立場も思想も異なったが、同郷出身の先輩後輩ということで公務の外ではなにかとウマが合った。東京の料亭で開かれた盛岡中学時代の恩師・冨田小一郎への謝恩会も両大臣の呼びかけで行われたもので、他にも作家の野村胡堂、言語学者の金田一京助など、冨田の教え子たちが多く集った。
  • 1939年(昭和14年)に豊後水道で潜水艦が沈没し呉鎮守府が引き揚げ作業に当たったが、沈没場所が水深数百メートルである上に、潮の流れが速いため作業は難航、外部からも経費の無駄遣いと批判を浴びて現場も「こっちも好きでやっているのではない。非難があるならやめてしまえ」と意欲が低下していた。それを察した鎮守府参謀長が海軍省に報告に行ったところ、当時海軍次官であった山本五十六は「経費はいくらかかってもいいからしっかりやれ。しかし無理して人を殺さぬように」と激励した。米内も「次官から聞いた。御苦労」とただそれだけ述べた。参謀長は現場に戻り、伝えたところ非常にモチベーションが上がり作業も無事終了した。参謀長は戦後に「あの短い大臣の言葉と次官の人を殺すなという一言は、千万言にも勝る温かい激励でした」と回想している。
  • 戦後に昭和天皇も招かれた学士院会員の会食の際、天皇が小泉信三に、「雑誌(『心』昭和24年1月号)に米内のことを書いたね」と尋ねて小泉も「拙文がお目に触れてしまいましたか」と恐縮すると、「米内は懐かしいね。惜しい人であった」と語り、その後は参加者で米内の思い出を語ったと言う。

[編集] 評価

林銑十郎内閣で海軍大臣であった際、1938年1月15日大本営政府連絡会議において、蒋介石政権との和平交渉継続を強く主張する多田駿参謀次長に反対して交渉打切りを主張し、近衛総理をして「爾後国民政府を対手とせず」という発言にいたらしめたことが、中国における最も有力な交渉相手をみすみす捨て去って泥沼の長期戦に道を拓いた上、アメリカ政府の対日感情を著しく悪化させたとして批判の対象となることがある。

ただし当時のアメリカのメディアはというと、意外なほど米内に対して親米英派の提督として好意的な好奇心を抱いていた。ニュース雑誌の草分けとして1923年の創刊以来内外のさまざまな出来事を取材してきたタイム誌は、海軍大臣のとき[8]と総理のとき[9]の二度にわたって米内の特集記事を組んでおり、いずれも表紙を飾るカバーパーソンとして扱かっている。タイム誌の表紙を日本人が飾ったのは現在に至るまでたったの30回で、そのうち一人で複数回登場しているのは他には昭和天皇の6回と近衛文麿の2回を見るのみとなっており、米内に対する破格の関心が窺える。

米内にはその他にも、「言葉は不適当と思うが原爆やソ連の参戦は天佑だった」という発言をしたこと[10]、戦争への危機感が高まる中、海軍左派を自認しながら海軍部内への意思浸透を怠ったこと、同じ海軍左派である山本五十六を右翼勢力や過激な青年将校から護るためとして連合艦隊司令長官に転出させたことなどに対する批判や非難、また軍政家・政治家としての力量に疑問を投げかける意見もある。

その一方で、当時の状況下で、他には誰も何もしようとする者がいない中、公人として「アメリカと戦争をしても負ける。海軍は専守防衛の軍隊である」「統制経済のやりすぎは国を滅ぼす」「軍人は政治に深入りするな」と公の場で発言した唯一の人であり、やれるだけの事はやったという見方もある。重臣の一人として、また海軍の大御所として、小磯・鈴木の両内閣では重石のような役割を果たし、落ちるべきものを落ちるべきところへ落とさせたその手腕は並大抵のものではないという意見も根強く、山本五十六と同様、人によって「名将」か「愚将」で評価が二分されている。

[編集] 略歴

[編集] 米内を演じた俳優

[編集] 系譜

米内家は摂津国大坂から盛岡に移住し、南部信直に仕えた宮崎庄兵衛勝良を祖とし、三代目傳左衛門秀政の時に祖母で勝良の妻方の姓「米内」を名乗るようになった。この「米内」は祖母の出身地が出雲国米内郷から来るもので、本来の陸奥国米内氏の一族ではない。しかし、陸奥在住の縁で次第に陸奥米内氏の一族であるかのように自覚し、また周囲からもそのように評価されて幕末に至った。

陸奥米内氏は一方井氏の分家筋にあたり、一方井氏俘囚安倍頼良・貞任父子の末裔であることから、米内光政も自身を安倍貞任の末裔だと称していた。

三女和子が元竹中工務店会長の竹中錬一に嫁いでいる。


  ┏竹中藤右衛門━━┳寿美
  ┃        ┃
  ┃        ┣竹中宏平
  ┃        ┃  ┣━━竹中祐二
  ┗竹中藤五郎   ┃ りゅう子  ┃
           ┃       ┃
           ┃竹下登━━━━公子  
           ┃(首相)
           ┃
           ┃(15代)
           ┗竹中錬一
             ┣━━━竹中統一
    米内光政━━━┳和子
     (首相)  ┃
           ┗米内剛政

[編集] 伝記

[編集] 参考文献

  • 佐藤朝泰『豪閥 地方豪族のネットワーク』立風書房、2001年、213-216頁

[編集] 脚注

  1. ^ 倒閣は陸軍だけが考えた訳ではない。6月7日立憲政友会正統派総裁久原房之助が同様の要求を行って拒絶されると、内閣参議を辞職して松野鶴平鉄道大臣ら閣僚・政務官の引揚を通告した。だが、正統派内部では久原のように新体制運動を支持する意見と鳩山一郎のように立憲民政党と合同してでも政党政治を守るべきとの意見が対立しており、鳩山側の松野が辞任に同調しなかった事と、新体制運動を進めていた近衛の側近達からも久原の行動を時期尚早として相手にされなかったため、最終的に久原1人が辞任する羽目となった。
  2. ^ a b c 阿川弘之『米内光政』
  3. ^ 朝日新聞昭和18年5月22日号
  4. ^ この経緯を後年井上は「ワンマン次官、いけなかったかしら」と述懐している(井上成美『想い出の記』)。
  5. ^ 1941年(昭和16年)10月に近衞文麿が内閣を投げ出すと、後継首班を決める重臣会議では及川古志郎海相の名も候補に上ったが、これに猛反対して潰したのが米内と岡田啓介で、もう一人の候補だった東條はこの海軍の「消極的賛成」のおかげで次期首班に選ばれたという経緯があった。
  6. ^ 山田風太郎は、米内はこのような腹芸をするタイプではなく、通訳がいい加減だった為に頓珍漢なやり取りになったのではないかと記している(『人間臨終図巻II』徳間文庫 ISBN 4-19-891491-5)。また、そもそも米内内閣倒閣を推進した一派が参謀総長閑院宮載仁親王を御輿に担いでいたため、米内は皇室に累を及ぼす事を恐れて実状を口にする事を避けたともいわれている。しかし他の検事団も概ね米内を評価しており、ある若い検事が米内の後姿を見て「ナイス・アドミラル」と言っていたのを、『一軍人の生涯 提督・米内光政』を書いた緒方竹虎は聞いている。
  7. ^ 背広姿の米内の銅像
  8. ^ タイム 1937年8月30日号
  9. ^ タイム 1940年3月4日号
  10. ^ 読売新聞、2006年8月15日、第46850号 12版

[編集] 関連項目・人物

ウィキメディア・コモンズ

[編集] 外部リンク


          歴代内閣総理大臣          
第36代
阿部信行
37
1940年
第38・39代
近衛文麿

伊藤博文
黑田清隆
山縣有朋
松方正義
大隈重信
桂太郎
西園寺公望
山本權兵衞
寺内正毅
原敬

高橋是清
加藤友三郎
清浦奎吾
加藤高明
若槻禮次郎
田中義一
濱口雄幸
犬養毅
齋藤實
岡田啓介

廣田弘毅
林銑十郎
近衞文麿
平沼騏一郎
阿部信行
米内光政
東條英機
小磯國昭
鈴木貫太郎
東久邇宮稔彦王

幣原喜重郎
吉田茂
片山哲
芦田均
鳩山一郎
石橋湛山
岸信介
池田勇人
佐藤榮作
田中角榮

三木武夫
福田赳夫
大平正芳
鈴木善幸
中曾根康弘
竹下登
宇野宗佑
海部俊樹
宮澤喜一
細川護熙

羽田孜
村山富市
橋本龍太郎
小渕恵三
森喜朗
小泉純一郎
安倍晋三
福田康夫
麻生太郎
先代:
高橋三吉
連合艦隊司令長官
第23代:1936年 - 1937年
次代:
永野修身
先代:
永野修身
野村直邦
海軍大臣
第21代:1937年 - 1939年
第26代:1944年 - 1945年
次代:
吉田善吾
海軍省廃止(第二復員省へ移行)