平沼騏一郎
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ひらぬま きいちろう
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大礼服を着用した平沼
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| 生年月日 | 慶応3年9月28日 (1867年10月25日) |
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| 没年月日 | 1952年8月22日(満84歳没) |
| 出身校 | 帝国大学法科大学卒業 |
| 前職 | 大審院検事局検事総長 |
| 称号 | 正二位 勲一等旭日桐花大綬章 男爵 法学博士 |
| 親族 | 平沼赳夫(養子) |
| サイン | ![]() |
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| 内閣 | 平沼内閣 |
| 任期 | 1939年1月5日 - 1939年8月30日 |
| 天皇 | 昭和天皇 |
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| 任期 | 1921年10月5日 - 1923年9月6日 |
| 天皇 | 大正天皇 |
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| 内閣 | 第2次近衞内閣 |
| 任期 | 1940年12月21日 - 1941年7月18日 |
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| 内閣 | 第2次近衞内閣 |
| 任期 | 1940年12月6日 - 1940年12月21日 |
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| 内閣 | 第2次山本内閣 |
| 任期 | 1923年9月6日 - 1924年1月7日 |
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その他の職歴
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(1924年1月9日 - 1924年2月7日) |
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平沼 騏一郎(ひらぬま きいちろう、慶応3年9月28日(1867年10月25日) - 昭和27年(1952年)8月22日)は、日本の司法官僚、政治家。位階は正二位。勲等は勲一等。爵位は男爵。学位は法学博士。号は機外。
大審院検事局検事総長(第8代)、大審院長(第11代)、日本大学総長(第2代)、大東文化学院総長(初代)、財団法人大東文化協会会頭(第3代)、司法大臣(第26代)、貴族院議員、枢密院副議長(第11代)、枢密院議長(第17・21代)、内閣総理大臣(第35代)、国務大臣、内務大臣(第62代)などを歴任した。
目次 |
概要 [編集]
東京控訴院部長や大審院検事局検事を務めたのち、司法省にて民刑局の局長などを経て次官に就任した。その後、大審院検事局にて検事総長に就任し、さらに、大審院の院長を務めた。法曹界で権力を持ち、保守・右派勢力の中心人物として暗躍し、帝人事件や企画院事件を引き起こす。
第2次山本内閣にて司法大臣として入閣を果たす。貴族院議員、枢密顧問官などを経て、枢密院の副議長や議長を務めた。内閣総理大臣に指名され、平沼内閣を組閣した。これにより、三権の長のうち2つを務めたことになる。内閣総理大臣退任後は、第2次近衞内閣にて国務大臣や内務大臣を務めた。太平洋戦争後、極東国際軍事裁判でA級戦犯として訴追される。終身刑の判決を受け、獄中で死去した。
政治以外の活動としては、慶應義塾大学法学部教授、日本大学総長、大東文化学院(のちの大東文化大学)総長、大東文化協会(大東文化大学の設立母体)会頭、皇典講究所(國學院大學の設立母体)副総裁などを務めた。東洋文化学会でも第2代会長を務め、後に東洋文化研究所を創設して、初代所長を務めた。
また、国本社の創設者であり、第2代修養団団長でもある。無窮会の創立者として、相談役、第2代会長、理事などを歴任した。
生涯 [編集]
生い立ち [編集]
慶応3年9月28日(1867年新暦10月25日)、津山城下南新座(のちの岡山県津山市)に津山藩士平沼晋(1832 - 1914、天保3 - 大正3)の次男としてうまれる。 明治5年(1872年)に上京して同郷・箕作秋坪の三叉学舎(さんさがくしゃ)にて英語・漢文・算術を学び、明治11年(1878年)に東京大学予備門入学。明治21年(1888年)帝国大学法科大学(のちの東京帝国大学法科大学、戦後の東京大学法学部)を卒業し、その後司法界で出世していった。
首相就任まで [編集]
明治年間の第1次桂内閣末期、実業界の資金不足のために民間から資金を集める方法が議論され、社債の相談を持ちかけられた司法部の平沼が、社債信託法採用の意見を述べた。当時はまだ先進国でも英国のみに存在する法律であったが、曾禰荒助大蔵大臣に直に頼まれて、池田寅二郎試補を相手にほとんど平沼一人で社債信託法を立案し、審査を経て成立させた。
明治41年(1908年)、刑法改正(現行刑法制定)を機に設置された犯罪者の前科を記録するための方法を検討する「犯罪人異同識別法取調会」の中心メンバーとなる。平沼の報告書に基づいて、指紋による前科登録が導入される事となった。
明治43年(1910年)の幸徳事件(大逆事件)では、検事として幸徳秋水らに死刑を求刑した[1]。
大正2年(1913年)4月、司法大臣の松室致と協力し、「裁判所廃止及名称変更ニ関スル法律」「判事及検事ノ休職並判事ノ転所ニ関スル法律」を成立させ、229人の判事・検事を一挙に休・退職とし、443人にのぼる異動を発令した。それまでの大逆事件などでの功績から、特に1910年代以降、司法部内での検察権の独立が公然と実態化し、絶対的優位化したのにともない、大正10年(1921年)、裁判所構成法改正で検事総長の地位が司法大臣、大審院長と同レベルに引き上げられた。また俗に、平沼 - 鈴木喜三郎 - 小山松吉 ラインが思想検事系列の礎として形容されていった[2]。
政治姿勢はきわめて保守的かつ国粋主義的であり、民主主義や社会主義、またナチズムやファシズム、共産主義といった外来思想を、常に危険視していた。自身の経歴を生かして主に司法界と枢密院に大きな影響力を持ち、これに国本社を中心とした大衆的な支持を加えて、教化運動や自己の政治思想の高調を行ったが、官界に軸足を置きすぎたその政治姿勢は、庶民からはあまり支持されなかった[要出典]。
過去、第2次若槻内閣や浜口内閣に対する攻撃、天皇機関説排撃事件などで、元老西園寺公望に嫌われており、本人のつよい希望にもかかわらず首相候補に推されることがなく、また枢密院議長に就任できずに副議長に留め置かれたままであった。そこで平沼は西園寺と彼が育てた立憲政友会を潰すために国策捜査を行わせたとされるが(帝人事件)、彼の意向を受けた検事達の捜査は政友会幹部らの逮捕を優先して裏付けとなる証拠収集があまりにも杜撰であったために、公判では全員無実無根であるとして無罪判決が出されてしまった。
さすがに帝人事件後は慎重を期して西園寺が老齢により政治の表舞台から一歩引いた後に、枢密院議長に就任すると国本社を解散し、親英米派と妥協することでようやく首相の座に就くことができた。
平沼自身も西園寺を敵視しており、戦後、A級戦犯として収監された巣鴨プリズン内における重光葵との会話の中では、「日本が今日の様になったのは、大半西園寺公の責任である。老公の怠け心が、遂に少数の財閥の跋扈を来し、政党の暴走を生んだ。これを矯正せんとした勢力は、皆退けられた」と語ったことがある[3]。
平沼内閣 [編集]
「平沼内閣」も参照
昭和14年(1939年)1月に発足した平沼内閣は、基本的に第1次近衛内閣の後継内閣としての性格がつよく、政策・人事の大部分を引き継ぐとともに、枢密院に転じた近衛文麿自身も班列 (無任所大臣) として残留してこれに協力した。そのうえ、近衛内閣から塩野法相兼逓相、荒木貞夫文相、木戸幸一内相、有田八郎外相、八田嘉明商工相兼拓務相、米内光政海相、板垣征四郎陸相の七閣僚が留任、あたかも首のすげ替えの様相を呈した。週刊『アサヒグラフ』はこれを「平沼・近衛 交流内閣」と皮肉っている。
しかし同時に、末次信正、有馬頼寧、風見章らのような熱烈な制度改革論者は、平沼の閣僚名簿からは除かれていた。これは観念右翼である平沼が、新体制運動・制度改革論者をナチス型国家社会主義の亜流として警戒しはじめたことを意味している。
最大の懸案である対中問題では「爾後國民政府ヲ對手トセズ」という近衛声明に基づき、汪兆銘政権を成立させ、これと外交的解決を図ることで日中戦争の幕引きを狙ったが、意図したような中国国民党内部の分断が成功せず、まったくの失敗に終わる。
一方内政問題としては、戦争にともなう経済圧迫に対応するために第1次近衛内閣以来の国民総動員体制を実務的に推進し、警防団の設置など、米穀配給統制法・国民徴用令などの制定とともに、国民精神総動員委員会などを設置して挙国一致体制を整えてゆくものの、天津の親日派海関監督がイギリス租界で抗日派に暗殺される事件がおこり、事件調査をめぐってイギリスと対立した陸軍が同租界封鎖するという問題に発展してゆく。
平沼は外交交渉によってこの問題の解決を図り、有田・クレーギー協定で英国の譲歩を勝ち取るものの、これがアメリカの反発を呼び、また閣内の英米派とドイツ派との対立を深める結果となり、政権は混迷する。さらに8月20日にノモンハンで日本軍が記録的大敗を喫する国境紛争がおきた。(ノモンハン事件)、また8月23日に独ソ相互不可侵条約が締結され、防共を標榜しドイツとともに反ソ連勢力の結集を政治課題としつつ軍事同盟をドイツと討議していた平沼は、日本政府を無視したドイツのやり方に驚き呆れ、8月28日「欧洲の天地は複雑怪奇」という声明とともに総辞職した。
退陣後 [編集]
近衛文麿の新体制運動に関しては皇道派軍人とともに批判的な立場をとった(二・二六事件以降、皇道派勢力は弱体化していたが、この時期には陸軍の反主流派としていくらか勢力を回復していた)これは観念右翼の総帥であった平沼が、新体制運動をナチスドイツの模倣と見做し反発していたからである。後述のように平沼は、ナチスを社会主義思想の一種として軽蔑していた。
昭和15年(1940年)、11月の下旬に新体制推進派から手を距離を置くことを考え始めた近衛は、第2次近衛内閣で平沼を無任所国務相として閣内に迎えた後、新体制推進派を閣外に追放、皇道派軍人の大物である柳川平助を法相、平沼を内相とした。これは近衛の観念右翼への屈服、新体制運動からの後退を意味するものであった。
内相に就任した平沼は財界から批判のあった経済新体制要綱を骨抜きにし、新体制推進派から協力的であるとして賞賛されていた矢野兼三富山県知事を休職処分したのを手始めに内務省の人事を一新、この原案を作成した企画院の官僚らを共産主義運動・人民戦線運動にかかわったものとして逮捕を指令し(企画院事件)、その余波で岸信介商工次官を辞職に追い込んだ。こうして平沼はナチス型統制経済を目指す官僚グループを次々に追放した。また平沼は大政翼賛会を公事結社として政治活動を禁じ、有馬頼寧らを辞職させ、新体制推進勢力をさらに後退させる。また平沼は米国駐日大使であるジョセフ・グルーらと面会して、悪化していた米国との関係修復を目指している。「親ドイツ色」を中央政界から取除くことがこの時期の平沼の行動目的であった。
このような平沼の行動は革新勢力の批判を浴び、ドイツ・ソ連から帰国した松岡洋右外相は平沼を強く非難し、松岡と平沼は閣内で対立した。結局、松岡は、陸海軍と天皇からも不興をかい閣外に追放される。昭和16年(1941年)の第3次近衛内閣においては平沼は内閣参議・無任所国務大臣となり、自分の代わりとして田辺治通を内務大臣に据えた。こうして平沼は対米関係修復を目指す第3次近衛内閣での実力者と目され、右翼団体勤王まことむすびから狙撃される。弾丸6発を被弾する重傷だったが一命をとりとめた。開戦の賛否を討議する開戦直前の重臣会議では、平沼は開戦に消極的な見解を表明した。
戦時下では重臣として岡田啓介・近衛文麿・若槻禮次郎らとともに東條内閣倒閣に活躍。内務省、検察、右翼勢力などに影で大きな権力をもつ平沼の存在は、和平派重臣にとって大きな力であり、平沼の邸宅で反東條派の重臣の秘密会合が開かれることもあった。東條内閣辞職後の重臣会議では「敬神家」として小磯國昭を推し、小磯内閣辞職後には他の重臣とともに鈴木貫太郎を推した。昭和20年(1945年)4月には首相となった鈴木貫太郎の後をついで枢密院議長となった。
しかし平沼は戦時下、一貫して和平派重臣だったかというと必ずしもそうではなく、彼は和平派と協調するかと思えば降伏反対を唱えることもあり、天皇への上奏の折には明確な主張を見せないなどその立場は一貫していない。たとえば枢密院議長であった平沼は、原爆投下・ソ連参戦直後、ポツダム宣言受諾を決定する御前会議のメンバーであったが、会議の直前、和平派の米内光政海相は「平沼男爵は和戦どちらにつくか、危ないぞ、大丈夫か」と心配している。この御前会議では平沼は曖昧な表現ながらポツダム宣言受諾側に一票を投じ米内の心配は杞憂におわった。しかし、東郷茂徳外相が受諾案において天皇の扱いを「国法上の地位を変更する要求を包含し居らざる了解の下受諾する」としていたことに異議を唱え、「国家統治の大権に変更を加うるが如き要求は之を包含し居らざる」に変更させ、連合国から当初の受諾案を拒絶される結果も招いた[4]。こうした曖昧な態度は『昭和天皇独白録』で天皇に厳しく批判され「結局、二股かけた人物というべきである」と酷評されている。世論全体や強硬派からは和平推進派とみなされており、このため終戦決定に反発する横浜警備隊長であった佐々木武雄陸軍大尉を隊長とした横浜高等工業学校の学生らによって構成された「国民神風隊」のテロリズムによって終戦未明、自宅を焼き討ちされた(宮城事件)。平沼も鈴木同様に二度も強硬派に命を狙われかけた。
A級戦犯 [編集]
太平洋戦争後、A級戦犯として終身刑が言い渡されるが、昭和27年(1952年)、病気仮釈放。直後に死去した。刑務所内では深夜に泣き叫ぶなどの奇行が多かったという。
逸話・語録 [編集]
- 「どうも日本人は西洋かぶれをしたがる。殊に地位に在る人―政治家と云はれる人、学者と云はれるやうな人がさうである。一時は民主説とか国際説とかにかぶれた。近頃は米英崇拝をやめて独逸崇拝となり、ナチスにかぶれている。そしてあんなものを作らねばならぬと言つて居るが、それは国体に反する」「これは国家社会主義で、ソ聯の赤とそんなに距たりがあるものでない。日本の国体に反する点は殆ど同様で、共々に害を流すものと思ふ」(昭和17年(1942年)5月19日)
- 「日本は君主国であると云ふ。君主国なら西洋にもあるでないかと反問される。すると日本は万世一系であると云ふ。さう云ふことならエチオピヤが日本より古いではないかと反駁される。君主は統治権をもつとか、万世一系とか、そんな形式的なことでは国体は明らかにされない。どこに万世一系があるか、皇室と国民との関係を明らかにせねばならぬ。日本で親子の関係は自然であるから誰でも判る。日本の国体もその方面から論じなければならぬ」(昭和17年(1942年)5月19日)
- 「非常に危機に瀕したのは維新当時である。それから我々が覚えて危機であつたのは欧洲大戦である。知識階級はデモクラシーにインターナショナルである。国家主義などは古い、国際主義でいかねばならぬ、皇室は存してもデモクラシーでいかねばならぬと立派な人でも言つてゐた。真向から之に反対したのは私だらう。その故に頭が古い奴だと言はれた。皇室はあつても置物にしやうとした。そこで私は皇室神聖を説いたので、迷信家だとか、頑迷だとか西園寺から言はれた」(昭和18年(1943年)2月23日)
栄典・授爵 [編集]
- 1916年1月19日:勲一等瑞宝章
- 1919年9月29日:勲一等旭日大綬章
- 1926年10月28日:男爵
- 1928年4月21日:勲一等旭日桐花大綬章
その他 [編集]
家族 [編集]
終生独身であった。なお、衆議院議員の平沼赳夫は、騏一郎の兄である経済史学者で早稲田大学学長(注:総長ではない)を務めた平沼淑郎の曾孫である。赳夫の父は大協石油勤務の中川恭四郎で、彼は石川県金沢市出身の内務官僚・中川友次郎の四男であった。また、赳夫の母は淑郎の孫娘節子(東京裁判で平沼の代理として証言台に立つ)である。つまり、赳夫は平沼家とは女系繋がりとなる。当初は赳夫のみ養子にする予定だったが、結局、恭四郎一家を養子として平沼姓を名乗らせた。
祖父織右衛門は能書家で津山藩士で祐筆をつとめている。騏一郎の父晋は津山藩(儒学者)織右衛門保信の子で詩書に堪能で、廃藩置県までは旧藩主松平慶倫の教育係をつとめた。騏一郎はその二男で、妹もいる。祖母千鶴は、子守歌として孫たちに唐詩を唄っていたという。
系譜 [編集]
平沼家
- 平沼家は江戸時代、津山藩士として松平家に仕えた武士の家系だった。平沼家について『日本現今人名辞典』(1900年〔明治33年〕)によれば、「…其先詳ならず八代の祖織右衛門延良駿府[7]與力たり弓術に長ず享保中[8]津山藩の士籍に列す」という。
- 騏一郎から7代前に駿府から津山に移った。平沼家は代々養子が家督を相続していたが、騏一郎の父・晋が初めての実子であった。
平沼騏一郎を演じた人物 [編集]
- 明石潮『日本のいちばん長い日』(東宝、1967年)
- 宮城幸生『プライド 運命の瞬間』(東映、1998年)
- 伊藤幸純『太陽』(スローラーナー、2006年)
著書 [編集]
- 『祭祀と事業』財団法人修養団、1938年4月
- 『祭祀と事業衍義』興文社、1939年6月 平沼騏一郎述、相良政雄著
- 『機外清話』財団法人修養団、1939年7月
- 『平沼騏一郎回顧録』平沼騏一郎回顧録編纂委員会、1955年8月
研究一覧 [編集]
- 藤野豊「国本社における水平運動観―平沼騏一郎,中央融和事業協会会長就任の背景」、『部落問題研究』通号84、1985年8月
- 加藤陽子「昭和一四年の対米工作と平沼騏一郎」、『史学雑誌』第94編11号、1985年11月
- 滝口剛「満州事変期の平沼騏一郎―枢密院を中心に―」、『阪大法学』通号151、1989年8月
- 滝口剛「平沼騏一郎と太平洋戦争―対外態度における2重性を中心に」、『阪大法学』通号159、1991年7月
- 高橋勝浩「首相平沼騏一郎と「道義外交」―防共協定強化問題と「支那事変」処理―」、『国史学』通号164、1998年2月
- 高橋勝浩「重臣としての平沼騏一郎―終戦と国体護持へむけて」、『軍事史学』通号142、2000年9月
- 鈴木望「平沼騏一郎博士と神習文庫―帝室制度審議委員会との関連に就きて―」、『東洋文化』復刊第100號(通巻第332號)、2008年4月
脚注 [編集]
関連項目 [編集]
参考文献 [編集]
外部リンク [編集]
- 平沼騏一郎 | 近代日本人の肖像
- 平沼赳夫オフィシャルホームページ「平沼は語る」(平沼騏一郎に関するエッセイあり)
- 平沼騏一郎について(おかやま人物往来)
- 平沼騏一郎関係文書 | 国立国会図書館 憲政資料室
- 平沼騏一郎 内閣 第74回帝国議会(通常会)における施政方針演説
- 平沼騏一郎 内閣 第74回帝国議会(通常会)における国務大臣の演説
- 墓所(多磨霊園)
- 墓所(安国寺)
| 官職 | ||
|---|---|---|
| 先代: 近衛文麿 |
第35代:1939年 |
次代: 阿部信行 |
| 先代: 一木喜徳郎 鈴木貫太郎 |
第17代:1936年 - 1939年 第21代 : 1945年 |
次代: 近衛文麿 鈴木貫太郎 |
| 先代: 安井英二 |
第62代:1940年 - 1941年 |
次代: 田辺治通 |
| 先代: 倉富勇三郎 |
第11代:1926年 - 1936年 |
次代: 荒井賢太郎 |
| 先代: 田健治郎 |
第27代:1923年 - 1924年 |
次代: 鈴木喜三郎 |
| 先代: 松室致 |
第8代:1912年 - 1921年 |
次代: 鈴木喜三郎 |
| 司法職 | ||
| 先代: 富谷鉎太郎 |
第11代:1921年 - 1923年 |
次代: 横田秀雄 |
| 学職 | ||
| 先代: 松岡康毅 |
日本大学総長 第2代 : 1923年 - 1933年 |
次代: 山岡萬之助 |
| その他の役職 | ||
| 先代: 秋月左都夫 |
無窮會會長 第2代 : 1924年 - 1945年 |
次代: 清水澄(代表理事) |
| 先代: 大隈重信 |
東洋文化學會會長 第2代 : 1922年 - 1943年 |
次代: 無窮會へ合併 |
| 先代: 田尻稲次郎 |
修養団団長 第2代 : 1924年 - 1936年 |
次代: 二木謙三 |
| 第34代 近衛文麿 |
第35代 1939年 |
第36代 阿部信行 |
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