堤康次郎

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堤 康次郎(つつみ やすじろう、明治22年(1889年3月7日 - 昭和39(1964年4月26日)は、日本実業家政治家西武グループ(旧コクド及び旧セゾングループ)の創業者。第44代衆議院議長滋賀県大津市名誉市民。正三位勲一等ピストル堤」の異名を持つ[1]

五島慶太東急対西武戦争(箱根山戦争伊豆戦争)でライバルとも言われた。身長180センチを超える巨漢であり、柔道の有段者(6段)だった。

目次

[編集] 生涯

滋賀県愛知郡八木荘村大字下八木(現・愛荘町、旧・秦荘町)に農業仲買商・堤猶次郎、みをの長男として生まれた。堤家は代々の農家で、「代々小地主自作農を主業とし、副業として麻布工場などを経営しており、村では一応旧家に属していた」[2]とも、「いわゆる五反百姓だった。田畑は7反だったという説を唱える土地の古老もいたが、いずれにしても貧農である」[3]とも、「 家業は製麻業であったが、数反歩の田畑を所有し、一部は小作に出すなど暮らし向きは豊かな方であった。」[4]ともいわれる。

4歳のとき、父・猶次郎が腸チフスで急死する。母親は実家に戻され、妹・ふさとともに祖父・清左衛門、祖母・キリの手で育てられる。

明治35年(1902年)八木荘小学校高等科卒業。彦根中学(現・滋賀県立彦根東高等学校)に入学手続までしたが、祖父が「せっかくここまで育ててきたのに、彦根のような繁華なところへやって悪い人間になられたら大変だ」とひどく心配した[5]ため、進学を断念。農業に従事する。

明治36年(1903年)6月 祖母キリ死去。祖父とともに彦根へ出て米相場をやり失敗。又、肥料商をやり失敗する。明治37年(1904年)耕地整理と土地改良に精出す。明治39年(1906年京都の海軍予備学校入学。明治40年(1907年)予備校卒業 郡役所の雇となる。祖父・清左衛門が「堤の家の再興は、金を儲けよというのではない金儲けもよいが、それより名誉ある堤家にしてくれ」と遺言し死去。

明治42年(1909年)故郷の田地を担保に入れて5000円の金をこしらえて[6]上京し、早稲田大学政治経済学部入学。弁論部と柔道部に入る。学校へは試験のときだけ行くぐらいで平常はあまり顔を出さずアルバイトに重点をおく[7]大阪中橋徳五郎の応援演説に行く。後藤毛織の株で6万円儲ける[8]明治44年(1911年日本橋蛎殻町三等郵便局長となる。渋谷で鉄工所の経営を行う。

大正2年(1913年)3月早稲田大学政治経済学部卒業。大隈重信が主宰で主筆に永井柳太郎をすえた政治評論雑誌『新日本』(1911年発刊)に、社長として経営に参画する。首相桂太郎立憲同志会の結成計画を発表しこれに参加し創立委員となる。桂に可愛がられ後藤新平を紹介される 後藤新平を通じて藤田謙一を紹介される。

大正4年(1915年)夏頃、早稲田の学生服姿で沓掛駅(現・中軽井沢駅)に降り立つ。村長に「別荘地をつくりたいからできるだけ大きな土地が欲しい」旨のべる。沓掛区の村民の議論は3年越で続いた。

郵便局、鉄工場、雑誌の経営、真珠の養殖などつぎつぎに手を出すが失敗する。堤は『私の履歴書』の中で「もう自分は世の中に生きている値打ちのない人間だとまで思った。思い悩んだ末考え付いたのがもうけよう、もうけようと考えたのがいけない。自分はもうけなくてもよいからこの世の中のために少しでもできるだけのことをしようという奉仕の心だった。そして最初に考えたのが不毛地の開発事業だった」と書いている。『感謝と奉仕』を生活信条とする。ちなみに西武グループの社是は堤家支配が崩壊するまで長きにわたり『感謝 奉仕』であり、事業所内には康次郎の写真とともに彼直筆の社是が掲出されていた。

大正6年(1917年)12月沓掛区の村有地売却に関する最後の区民総会が開かれ、60万坪(後の再測量では80余万坪)を30,000円(現在の数億円)で買収。隣の軽井沢が欧米の宣教師達の別荘地として発展していくのに危機感を抱いていた村は、50軒の別荘を売ることを条件に契約した。堤は当時の妻の川崎文の実家などから買収金を工面した。契約時点でこの大金を実際に持っていたわけではなく、佐久の銀行から1万5千円借り、不足分は新聞紙を10円札の大きさに切って上下に本物の札を重ねて束ねたものを見せた。区民総会はこうした経緯を知らなかった[9]。千ヶ滝遊園地株式会社を設立(資本金25万円)、無名の自分の名前では株は売れないと判断して、社長に財界の大物だった藤田謙一を招聘、沓掛の土地を元に軽井沢開発に乗り出す。軽井沢沓掛の土地を、一軒500円で簡易別荘として分譲販売を始める。大正8年(1919年箱根の強羅に10万坪の土地を買う。

大正9年(1920年)千ヶ滝遊園地を清算(計画倒産説あり)し、箱根土地株式会社(後のコクド、現在は消滅)を設立、資本金2000万円(現在の1000億円近い)、社長は藤田謙一。箱根軽井沢の開発を推進する このころ永井柳太郎の選挙参謀として活躍。

大正10年(1921年)頃、土地分譲の目的で湯の花沢10万坪を13万5千円で買収、この分譲地は全く売れず[10]

大正12年(1923年)駿豆鉄道(現・伊豆箱根鉄道)を経営。関東大震災を契機として都内皇族華族の大邸宅跡の分譲着手。

大正13年(1924年)滋賀県から衆議院議員に立候補。堤は『私の履歴書』の中で「大体私は人生で最高の仕事は政治だと思っている。金をかけて事業をやってみたところでそれは国全体のある一部分でしかない。国全体を考え、国民全部を幸福にするのはかかって政治にある。それで私は早くから政治を志していた」と書いている。対立候補は旧彦根藩家老職を務めた家柄である堀部久太郎。かなりの差で初当選を果たす。衆議院議員には計13回当選している。立憲民政党に所属する。大泉学園都市開発着手。小平学園都市開発着手。昭和7年(1932年)6月斎藤実内閣拓務政務次官に就任。

昭和15年(1940年浅野財閥系から武蔵野鉄道の株式を購入し、多摩湖鉄道をこれに合併させた。太平洋戦争中も、B29の空襲の中、自宅地下壕に電話線を何本も引いていた。その電話口で、常に土地を買いつづけていた。戦後も、皇籍剥奪で経済的に行き詰まった旧宮家都心の土地を次々と買収。華族の生活の面倒を見たとも言われる。また大戦中、大戦後にかけて、都内の糞尿処理対策や流木対策に西武グループを挙げて対処した。

昭和27年(1952年)10月前年に公職追放が解け、衆議院議員に8回目の当選。昭和28年(1953年)5月衆議院議長に就任(~1954年12月)。それまで属していた改進党を離党し、山下春江らと新党同志会を結成保守合同を画策するなどした。また衆議院議長の認証式に、当時内妻の青山操を伴ったことで大きく批判された。

昭和38年(1963年)11月衆議院議員に13回目の当選。この時地元後援会の堤会から選挙違反で180名余が逮捕、後に150名余が有罪となる。

昭和39年(1964年)4月24日恒子を連れて熱海に向うため、1時15分発の「いでゆ号」に乗ろうと東京駅の地下道を急いでいた。倒れたのはその途中だった。4月26日に心筋梗塞で死去。本葬は自民党葬として豊島園でとり行われ、約3500人が参列。東京オリンピックのために建設を計画した東京プリンスホテルの完成を見ることはできなかった。

[編集] 人物像

家庭での康次郎は絶対君主そのものだった。彼が出かけるときには、操親子をはじめ義明、使用人ら全員が正座をして見送らなければならなかったし、帰ってきたときには、これまた全員が三つ指をついて迎えなければならなかった。義明の返事や対応が気に入らなければ、すぐに暴力に及んだ。[11]

評論家の大宅壮一は康次郎の強引な土地取得について、『文藝春秋』(昭和三十三年十一月号)に掲載した「日本ユダヤ教総本山・滋賀県」の中で書いている。「しかし百億をこえるという財産をどうしてつくったかというと、関東大震災の直後、一家全滅したようなところの焼跡に、かたっぱしから「堤康次郎所有地」と書いた棒杭(ぼうぐい)を立てた。どこからも文句がでなければそのまま、出れば法廷でお抱えの弁護士をつかって、所有権を証明する物的証拠を示せ、と争ったという。これはデマだろうが、彼ならやりそうだという気がする。というのは箱根軽井沢、国立などで、彼に土地をとられて泣いているものが、どれだけいるかしれない。長谷川如是閑門下で早大教授の市村今朝蔵などもその一人で、彼は軽井沢の大地主だったが、広大な土地を争って、弁護士の費用などで、泣くに泣けぬ状態におとしいれられた。この事件には、彼の友人たちが多く関係しているし、私もその一人だったので、自信をもっていえる。」。そして大宅は康次郎 に“近江の知能犯”というレッテルを貼り、彼のやり方を徹底的に批判した。

[編集] 年譜

[編集] その他

晩年は、軽井沢での冬季オリンピック開催に執着する。雪の降らない軽井沢のスキー場代替地として、万座に用地を確保している。この活動が、1998年の長野オリンピック開催へつながったと見る向きもある。

[編集] 栄典

[編集] 家族 親族

  • 祖父 清左衛門
  • 祖母 キリ
  • 父 猶次郎(農業仲買商)
  • 母 みを
  • 妹 ふさ(永井外吉夫人)[12]
    • コト(滋賀県の堤家の縁戚西沢家の娘)
    • 文(千葉県の風祭家の長女として生まれ、母方の川崎家の養女となる。風祭家、川崎家ともに士族の出身で、東大医学部出身の医師を多く出している名家だった[13]。康次郎との間に子供はできなかった)
    • 操(入籍している戸籍上の妻[14]、歌人大伴道子の名でも知られる。元東京土地社長青山芳三の娘。弟青山二郎は西武百貨店の取締役。青山家は士族の出身)
  • 長女 淑子(元西武鉄道社長小島正治郎夫人)
  • 長男 清(元・近江鉄道社長)
    • 母は康次郎が学生のころ経営していた3等郵便局の事務員岩崎ソノ(未入籍)
  • 二男 清二(セゾン文化財団理事長)
  • 二女 邦子(エッセイスト 参議院議員森田重郎夫人、のち離婚)
  • 三男 義明コクド前会長)
  • 四男 康弘(豊島園前社長)
    • 母は石塚恒子
  • 五男 猶二(東京テアトル取締役、元プリンスホテル社長)
    • 母は石塚恒子

[編集] 系譜

康次郎は艶福家として知られ、複数の女性との間に数多くの子供を残した[15]。20歳の時、滋賀の堤家の縁戚西沢コトと結婚し長女淑子が生まれた。上京後、康次郎が学生のころ経営していた三等郵便局の事務員岩崎ソノとの間に長男が生まれた。次に日本女子大学を出て、ジャーナリストになっていた川崎文と結婚。子供はできなかった。青山操との間の子に、次男清二、次女邦子がおり、文と協議離婚後に入籍。新潟県選出の石塚三郎元衆院議員の娘で24歳下の石塚恒子との間に、三男義明、四男康弘、五男猶二が生まれる。跡は義明に継がせている。

                岩崎ソノ
                 ┃
                 ┃
                 ┣━━━━━━━堤清
堤清左衛門            ┃
   ┃             ┃西沢コト 小島正治郎
   ┣━━堤猶次郎       ┃ ┃     ┃
   ┃    ┃    ┏ふさ ┃ ┣━━━━━淑子
   キリ   ┣━━━━┫   ┃ ┃
        ┃    ┗━━━堤康次郎
        みを       ┃ ┃┃
                 ┃ ┃川崎文
                 ┃ ┃
                 ┃ ┃
                 ┃ ┣━━━━━堤清二
                 ┃ ┃      ┃
                 ┃ ┃     麻子
                 ┃ ┃
                 ┃ ┣━━━━━邦子
                 ┃ ┃
                 ┃青山操  
                 ┃
                 ┃
                 ┣━━━━━━━堤義明
                 ┃
                 ┣━━━━━━━堤康弘
                 ┃
                 ┣━━━━━━━堤猶二
                 ┃
                石塚恒子        

[編集] 著作

  • 叱る
  • 太平洋の架け橋
  • 苦闘30年

[編集] 関連人物

[編集] 参考文献

  • 私の履歴書 経済人1』(日本経済新聞社、1980年) - 1956年7月日本経済新聞連載
  • 筑井正義『堤康次郎傳』(東洋書館、1955年)
  • 辻井喬(堤清二) 『彷徨の季節の中で』 (新潮社、1969年)
  • 上之郷利昭 『西武王国 堤一族の血と野望』(講談社、1982年)(1985年講談社文庫 ISBN 4061835807
  • 猪瀬直樹ミカドの肖像』 (小学館、1986年) ISBN 4093942358 
  • 上林国雄 『わが堤一族血の秘密』(文藝春秋、1987年) 第65巻、第10号、156-176頁
  • 永川幸樹 『野望と狂気』(経済界、1988年)
  • 由井常彦編著 『堤康次郎』 リブロポート 1996年
  • 神一行 『閨閥 特権階級の盛衰の系譜』(角川書店、2002年)316-327頁 - 初版(毎日新聞社、1989年)
  • 辻井喬(堤清二)『父の肖像』(新潮社、2004年)
  • 中嶋忠三郎『西武王国 その炎と影』(サンデー社 2004年)
  • 昭和・平成 日本 黒幕列伝 時代を動かした闇の怪物たち』(宝島社、2005年)30-31頁
  • 立石泰則 著『淋しきカリスマ堤義明』講談社 2005年

[編集] 脚注

  1. ^ 「選挙で実弾(金)を惜しみなく打ちまくったから、または土地や企業を買収する際のやり方が非情だったから、実際にピストルで撃たれたことがあったから」などの理由でこのような異名で呼ばれたとされる。駿豆鉄道買収騒動の際眼前で右翼に銃撃された際には、堤は微動だにせず、相手を感服させ自分の側に引き込んでいる。
  2. ^ 永川幸樹著『野望と狂気』33頁
  3. ^ 猪瀬直樹 著『ミカドの肖像』304頁
  4. ^ 立石泰則 著『淋しきカリスマ堤義明』22頁
  5. ^ 『私の履歴書 昭和の経営者群像2』 9頁
  6. ^ 『私の履歴書 昭和の経営者群像2』 12頁
  7. ^ 『私の履歴書 昭和の経営者群像2』 15頁
  8. ^ これは現在の貨幣価値でいえばおよそ7000万円になるという(永川幸樹著『野望と狂気』84頁)
  9. ^ 猪瀬直樹 著『ミカドの肖像』
  10. ^ 『堤康次郎傳』 57頁
  11. ^ 立石泰則 著『淋しきカリスマ堤義明』73-74頁
  12. ^ 永井外吉 略歴
  13. ^ 立石泰則 著『淋しきカリスマ堤義明』50頁
  14. ^ 2008年10月18日読売新聞35面「叙情と闘争 辻井喬/堤清二回想録」
  15. ^昭和・平成 日本 黒幕列伝 時代を動かした闇の怪物たち』31頁には「本妻を含めて同居した女性は4人、作った子供は12人。愛人の数は有名な女優を含めて正確な数は誰もわからないし、本人もわからなくなっていた。子供12人というのは嫡子として認めた数にすぎず、100人を超えるという説もある。」、「葬儀は康次郎そっくりの子供の手を引いた女性が行列を作ったという。」とある

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク


先代:
大野伴睦
衆議院議長
第44代: 1953 - 1954
次代:
松永東
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