土井たか子

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日本の旗 日本の政治家
土井 たか子
土井 多賀子
どい たかこ
Takako Doi in Tokyo congressist election 2.jpg
生年月日 1928年11月30日(85歳)
出生地 日本の旗 日本 兵庫県神戸市
出身校 旧制京都女子専門学校
同志社大学
同志社大学大学院
前職 同志社大学講師
所属政党 日本社会党→)
社会民主党
称号 法学修士(同志社大学)

任期 1996年9月28日 - 2003年11月15日

日本の旗 第68代 衆議院議長
任期 1993年8月6日 - 1996年9月27日

任期 1986年9月8日 - 1991年7月31日

選挙区 旧兵庫2区→)
兵庫7区→)
比例近畿ブロック
当選回数 12回
任期 1969年12月28日 - 2005年8月8日
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土井 たか子(どい たかこ、土井 多賀子1928年11月30日 - )は、日本政治家法学者兵庫県神戸市出身。愛称はおたかさん

衆議院議長(第59代)、日本社会党委員長(第10代)、社民党党首(第2代)、衆議院議員(12期)などを歴任。

日本において、女性初の衆議院議長と政党党首を務めた。

来歴・人物[編集]

生い立ち[編集]

父親は広島県出身の開業医、母親は京都府の出身[1][2]1941年兵庫県立第三神戸高等女学校に入学。1945年に卒業。同年3月17日神戸大空襲に見舞われ、焼け出される。1945年に旧制京都女子専門学校(1949年より新制京都女子大学)支那語科入学。1949年に卒業。

同志社大学での講演「平和主義憲法九条」に感動し、京都大学法学部に合格、入学したが、1949年に同志社大学法学部3年に編入学。憲法学者田畑忍の指導を受ける。1956年、同志社大学大学院法学研究科修了。1958年 - 1970年に同志社大学、1963年 - 1969年関西学院大学1967年 - 1969年に聖和女子大学(現・聖和大学)にて講師を務める[3]。専攻は憲法学

衆議院議員[編集]

1969年の第32回衆議院議員総選挙旧兵庫2区日本社会党から出馬し、初当選。

1980年には国会性差別法に的を絞り、政府を追及。「男女雇用差別」、「女性のみ必修家庭科」、「父系しか認めない国籍法」などの質問を行う。

自身と69年社会党新人代議士同期横路孝弘北海道知事就任直後の1983年9月に、田中寿美子の後任として日本社会党副委員長に就任。

日本社会党委員長[編集]

1986年衆参同日選挙の大敗を受けて石橋政嗣委員長が辞任すると、9月、第10代社会党委員長に就任。党史上初の女性の委員長であり、憲政史上でも初の女性党首であった。書記長は山口鶴男。前・石橋体制の末期に階級政党からの脱皮と国民政党への指向をうたう「日本社会党の新宣言」が難航の末に採択されたばかりでそのしこりもあり、従来の社会党委員長同様に党内の左右対立をまとめる党運営が求められた。しかし、土井のはっきりした物言いのキャラクターが一般からの好感を獲得したことが土井の立場を後押しした。

時の首相は、かつて改憲論者として知られた中曽根康弘であったが、土井は護憲軍縮を掲げてこれに対抗。しかし中曽根は改憲の動きには出ないものの、社会党が堅持を強く求めていた防衛費1%枠を撤廃している。一方で中曽根が提案した売上税構想は、世論の反発もあり撤回に追い込んでいる。中曽根から政権を引き継いだ竹下登消費税導入を強行するが、土井は消費税導入およびリクルート事件を激しく追及、宮澤喜一大蔵大臣を辞任させ、そして竹下内閣を退陣に追い込む。

1989年第15回参院選では、消費税・リクルート事件の追及の際に強化された社公民路線を基礎とし、連合の会候補を3党が推薦するといった選挙協力体制を構築する。結果、社会党が改選議席の倍以上を獲得、改選分では社会党が第一党、総議席では自民党が過半数割れの比較第一党という結果となる。これは土井の個人人気に支えられた面も大きく、土井ブームと称される。この時「山が動いた」が名文句として有名になった。

選挙後も社公民路線を維持し、与野党が逆転した参議院での主導権を握る。その皮切りとして女性初の参議院内閣首班指名を受ける(衆議院の優越により、首相には衆議院で指名された自民党総裁海部俊樹が41年ぶりの両院協議会(不一致)を経て就任)。また、消費税廃止公約が参院選大勝の要因であったこともあり、消費税廃止法案を社会党・公明党連合の会民社党の4党で提出し、12月11日、参議院で可決・通過させた(衆議院で廃案)。

1990年第39回総選挙でも「おたかさんブーム」は続き、土井は総選挙で180人の候補を擁立する計画を立てたものの、中選挙区制で目標を満たすには複数候補の擁立が必須になることから、2人目を立てる対象になった選挙区の現職候補や、他の野党などから反発が起きた。また資金難から勧誘した人物と条件が折り合わないことも多く、実際の候補者は149人に留まった(他に無所属として推薦7、公認漏れ3)。それでも総選挙の結果、社会党は136議席(他、追加公認3で139議席)と51議席増やした。しかし、自民党は275議席(他、追加公認11で286議席)と安定多数を維持した。さらに、野党での社会党の一人勝ちに公明党、民社党は距離を置き、両党は連合政権協議を打ち切り、自公民路線に舵を切った。そのため前回の参議院内閣首班指名の際と参議院の構成はほぼ変っていないにも拘らず、両党が決選投票で棄権したため[4]、今度は海部が参議院でも首班指名を受けることとなった。

1991年統一地方選挙で社会党は敗北し、土井は委員長を引責辞任した。

衆議院議長[編集]

1993年に行われた第40回総選挙で社会党は議席半減の惨敗をしたものの、自身は旧兵庫2区で再選(なお同区では参議院から鞍替えした小池百合子も当選を果たしている)。

総選挙後に細川護煕を首班とする非自民・非共産連立政権の枠組みが固まると、両院で過半数を確保している連立与党は土井を衆議院議長に推すことを決定、衆参通じ女性初の議長となることが固まった。しかし帝国議会時代より当時まで、議長は与野党問わず比較第一党から出すという伝統が続いていたため、野党に転落した自民党は議長ポストを要求し、通常は全会一致で議長が選出されるところを、異例の競合投票によって議長が選出されることとなった。結局、数に勝る連立与党の票により土井が選出されたものの、当選後の議長挨拶の際に野党自民党から激しく野次が飛ぶ中での議長職のスタートとなった。

土井は、学校教育の場などにおいての「君付けさん付け」の対男女使い分けがジェンダーフリーの観点から問題視されていることを踏まえ、議員指名には従来慣行の「君付け」に代わり「さん付け」を用いた。しかし後任の議長らはいずれも「君付け」を用い、この試みは土井一代のものに終わった(なお横路孝弘議長は男女で君・さんを呼び分けていた)。また土井は議長席の位置が諸外国の議会と比べても高すぎることを指摘し、議長席の位置を低くするべきであると述べた。

1994年1月、与党社会党一部議員の造反による政治改革4法案の参議院での否決を受け、細川首相と河野洋平自民党総裁の会談を斡旋する。この席で、造反した社会党議員らのより望まない方向(小選挙区選出議員の比率割増)での合意がなされ、両院協議会を経て両院で可決・成立となった。この顛末について、出身の社会党や土井の支持者から「土井の失策」という声が上がった。

1995年6月、自社さ連立政権下で、「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」(終戦50年決議)案が上程される。従来はこの種の決議は全会一致でなされるところであるが、与野党の右派・左派議員らが正反対の理由でこれに反対し、結局6月9日に、半数近くの議員が退席し、少数の議員が反対する中、在職議員数の半数に満たない数の議員の賛成で可決されるという異例の事態となった。この議事運営に対して野党は土井議長・鯨岡副議長不信任案を提出するが、13日にいずれも否決される。

1996年9月、衆議院解散により退任。

社会民主党党首[編集]

1994年に自由民主党と新党さきがけとの連立政権を組んだものの、翌年の第17回参院選で惨敗したことを受け、1996年に社会党は社会民主党に改称する。同年、社民党とさきがけの議員を糾合する新党として旧・民主党が発足するが、いわゆる「排除の論理」によって土井や村山富市党首らは新党への参加を拒否される。半数以上の代議士を民主党に引き抜かれた社民党は党首を村山から土井に交替させて同年の第41回総選挙に臨むが、解散前の30議席から15議席へと半減。しかし選挙敗北の責任は問われず、むしろ土井の党の大黒柱としての地位が強化される形となった。1998年、社民党は連立与党を離脱。

2000年社会主義インターナショナルの副議長に就任(~2008年)。

2002年3月に、辻元清美政策秘書給料略取事件で詐欺の指南役をかばったことから、土井たか子事務所の政策秘書・五島昌子の関与が取りざたされる[5]

2003年静岡空港建設反対の国会議員署名活動で署名者に加わっている[6]。しかしこれとは反対に、土井の選挙区近くへの建設が計画され、市民団体を中心に反対運動が繰り広げられたものの建設された神戸空港の建設には「地元経済への貢献」などを理由に賛成している[7]

2003年の第43回総選挙では、北朝鮮による日本人拉致問題に対する言動をはじめとする過去の北朝鮮寄りの姿勢や、朝鮮総連との親密な関係、さらに辻元清美政策秘書給料略取事件における態度が様々な方面から大きな批判を受けた。その結果、自由民主党の大前繁雄に小選挙区で敗北。比例復活により落選は免れたが、同年11月13日に党勢衰退の責を取り党首を辞任した。

落選[編集]

2005年第44回総選挙では、比例近畿ブロック単独名簿順位5位で立候補したものの落選(社民党の比例代表近畿ブロック当選者は1人、復党の辻元)、国会の議席を失った。落選後のインタビューでは引退を強く否定したため、再立候補の意向であると見られたが、参議院議員転進も取り沙汰される中2007年7月の第21回通常選挙には不出馬、更に2008年10月、第45回総選挙に立候補しない意向を示した。政治活動自体は続ける意思を示した。

1990年12月に設立し、代表を務めていたアジア人権基金が2010年1月末、同基金は役目を終えたとして解散した[8]

エピソード[編集]

  • 選択的夫婦別姓制度導入を支持している。「結婚をするほとんどの女性が改姓をしている現状は、戦後、新たに憲法が制定され、 民法の家族編の大改正で家制度がなくなったとはいえ、 未だに男性血統重視の「イエ」意識が根強くあることの表れ。」とも述べている[9]
  • 象徴天皇制を積極的に支持する立場である。佐藤優は土井を「尊皇家」であるとし、「私は共和制論者ではありません」と発言していたとエッセイの中で書いている[10]
  • 長年の政敵とも言える中曽根康弘は、土井のことを「非常に生一本な、理念を重んずる、そして真一文字に進んでいく、立派な社会党の党首だと、そういう風に敬意を表していましたね」と述べている[11]
  • 花岡信昭は、北朝鮮による日本人拉致事件に対し、土井と社民党の対応を批判する文章の中で、土井の事を「在日朝鮮人で本名は李高順」と、インターネット上でのみ流布していたデマ情報をあたかも事実であるかのように書き、「このこと(出自)が土井氏の拉致事件を見る目を曇らせたのか」と結論付けた。これに対して土井は「記述は事実でなく、土井本人への取材もないまま虚偽を書いたものであり、信用や名誉などを毀損された」ことを理由として、報道を行った月刊誌『WiLL』発行元のワックや編集長花田紀凱らに慰謝料1000万円と新聞への謝罪広告掲載を求めて提訴。ワック側は誤報を認め、土井に対し謝罪の意を表したが、条件面で折り合わず、判決にまで持ち込まれた。被告側は一審判決直前に発売された『WiLL』2008年11月号で誤報を認めた謝罪広告を掲載した[12]。2008年11月13日、神戸地裁尼崎支部(裁判長竹中邦夫)は「明らかに虚偽で原告の名誉感情、人格的利益を侵害する」としてワックや花田らに慰謝料200万円を支払うよう命じる判決を出した[13]。2009年4月、大阪高裁も一審判決を支持、ワックや花田からの控訴を棄却した。2009年9月29日、最高裁第3小法廷(田原睦夫裁判長)は、被告側の上告を棄却する決定し、土井の勝訴が確定した。
  • 歌唱にも秀で、1980年には『題名のない音楽会』の「花の政党対抗紅白歌合戦」に出演し、朗々とした歌声で「マイ・ウェイ」を歌ってトリを務めた。チャリティー合唱団である神楽坂女声合唱団にも所属している。
  • フジテレビ笑っていいともでは横山やすしから紹介をされてテレホンショッキングに出演をした。
  • 社会党委員長時代には数々のクイズ番組に出演した。特にクイズダービーでは全問正解(女性ゲストでは唯一の記録である。)、世界まるごとHOWマッチではホールインワンを2発+ニアピン賞を獲得するなどの好成績を収めた。
  • 「『共謀罪』に反対する超党派国会議員と市民の集い」で呼びかけ人を務めた。

選挙歴[編集]

当落 選挙 施行日 選挙区 政党 得票数 得票率 得票順位
/候補者数
比例区 比例順位
/候補者数
第32回衆議院議員総選挙 1969年12月27日 兵庫県第2区 日本社会党 69,395 10.6 5/12 - -
第33回衆議院議員総選挙 1972年12月10日 兵庫県第2区 日本社会党 99,341 14.9 4/8 - -
第34回衆議院議員総選挙 1976年12月5日 兵庫県第2区 日本社会党 106,725 13.6 4/9 - -
第35回衆議院議員総選挙 1979年10月7日 兵庫県第2区 日本社会党 93,954 13.1 4/11 - -
第36回衆議院議員総選挙 1980年6月22日 兵庫県第2区 日本社会党 113,338 15.1 3/9 - -
第37回衆議院議員総選挙 1983年12月18日 兵庫県第2区 日本社会党 101,219 12.9 3/10 - -
第38回衆議院議員総選挙 1986年7月6日 兵庫県第2区 日本社会党 121,594 15.1 3/8 - -
第39回衆議院議員総選挙 1990年2月18日 兵庫県第2区 日本社会党 225,540 24.8 1/10 - -
第40回衆議院議員総選挙 1993年7月18日 兵庫県第2区 日本社会党 220,972 24.5 1/7 - -
第41回衆議院議員総選挙 1996年10月20日 兵庫県第7区 社会民主党 102,684 46.6 1/4 - -
第42回衆議院議員総選挙 2000年6月25日 兵庫県第7区 社会民主党 144,168 62.8 1/4 - -
当(比) 第43回衆議院議員総選挙 2003年11月9日 兵庫県第7区 社会民主党 96,404 40.8 2/3 比例近畿 -
第44回衆議院議員総選挙 2005年9月11日 - 社会民主党 ' ' ' 比例近畿 5/5
当選回数12回 (衆議院議員12)

著書[編集]

  • 『「国籍」を考える』(1984年2月、時事通信社ISBN 4788784033
  • 『We love憲法』(1985年6月、すくらむ社)
  • 『土井たか子マイウェイ』(1987年、出帆新社)
  • 『土井たか子 政治とわたし』(1987年、日本社会党中央本部機関紙局)
  • 『土井たか子 憲法講義 人間が人間らしく生きていくために』(1988年5月、リヨン社)ISBN 457688042X
  • 『山の動く日 土井たか子政論集』(1989年10月、すずさわ書店)ISBN 4795405336
  • 『せいいっぱい 土井たか子半自伝』(1993年12月、朝日新聞社ISBN 4022567066
  • 『21世紀の平和構想 核も不信もないアジアを』(2001年、社会民主党全国連合)

共著[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『せいいっぱい 土井たか子半自伝』(1993年、朝日新聞社)152、153頁
  2. ^ 田中章『土井たか子 人間・思想・政策』(1989年、東京出版)15頁
  3. ^ 『やるっきゃない! 吉武輝子が聞く土井たか子の人生』(2009年、パドウィメンズオフィス)
  4. ^ 民社党は参議院で土井が選出された時も棄権。また日本共産党も、土井が選出された時は決選投票で土井に投票したが、この時は棄権を選んだ。
  5. ^ 当時の事務所の構成…政策秘書:五島昌子、第一秘書:今井真理、第二秘書:友松信也
  6. ^ 国会議員署名これまでと今後の展望 - 空港はいらない静岡県民の会(2009年3月7日時点のアーカイブ
  7. ^ 田中康夫『東京ペログリ日記』(1995年、幻冬舎)
  8. ^ 「アジア人権基金」が活動終了 土井たか子氏ら設立 神戸新聞 2010年2月6日 09:15、2010年3月10日閲覧(2010年2月10日時点のアーカイブ
  9. ^ 別姓訴訟を支える会 応援メッセージ
  10. ^ 「ナショナリズムという病理」第28回(『創』2009年5月号、103頁)
  11. ^ TBS『時事放談』
  12. ^ 柳原滋雄コラム日記 2008/09/26(Fri)
  13. ^ 土井前社民党首の名誉毀損訴訟:「WiLL」に勝訴--神戸地裁支部判決 - 毎日新聞 2008年11月14日(2008年11月14日時点のウェブ魚拓

参考文献[編集]

関連項目[編集]

議会
先代:
櫻内義雄
日本の旗 衆議院議長
第68代:1993年 - 1996年
次代:
伊藤宗一郎
党職
先代:
村山富市
社会民主党党首
第2代 : 1996年 - 2003年
次代:
福島瑞穂
先代:
石橋政嗣
日本社会党委員長
第10代 : 1986年 - 1991年
次代:
田邊誠