プリンスホテル硬式野球部

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プリンスホテル硬式野球部
チーム名(通称) プリンスホテル
加盟団体 日本野球連盟
加盟区分 企業チーム
創部 1979年
廃部 2000年
チーム名の遍歴

  • プリンスホテル (1979 - 2000)
本拠地自治体

練習グラウンド プリンスホテル練習グラウンド(東京都武蔵村山市
チームカラー えんじ色
都市対抗野球大会
出場回数 14回
最近の出場 1997年
最高成績 優勝
日本産業対抗野球大会
出場回数 ※創部前に大会終了
社会人野球日本選手権大会
出場回数 6回
最近の出場 2000年
最高成績 準優勝
全日本クラブ野球選手権大会
出場回数 ※出場資格なし

プリンスホテル硬式野球部(プリンスホテルこうしきやきゅうぶ)は、東京都に本拠地を置き、日本野球連盟に加盟していた社会人野球の企業チームである。2000年に解散。

概要[編集]

1979年西武グループに属するプリンスホテルが『プリンスホテル硬式野球部』として創設。東京都を本拠地として、日本社会人野球協会(現:日本野球連盟)に加盟した。

運営母体は、西武グループに属するホテル・レジャー事業会社のプリンスホテル。チームカラーは、グループの総帥だった堤義明の母校である早稲田大学と同じえんじ色で、背番号や背番号上ネームの書体は西武ライオンズのユニフォームと同じであった。ビジター用は上下ともにえんじ地であった。後にプロで活躍する野球選手も数多く輩出しており、同じグループ内の西武に入団する選手も多数存在したことから、「ライオンズの三軍」とも称されたことがある。

元々、西武ライオンズ誕生前にプリンスホテル野球部の創設が決まっており指導者として早大監督を務めた石山建一が起用されたがライオンズ誕生によって同氏は建設中の西武球場の設計アドバイスも求められたという。チーム1期生には石毛宏典堀場秀孝中尾孝義デレク・タツノ等のプロが注目した多くの有力選手が入部した。1980年のドラフト会議では、有力選手にプロ野球と同等かそれ以上の支度金を提示し、指名選手のうち入団を拒否した3名全員が翌年に入部。日本ハムと阪急が「プロアマの秩序を守ってほしい」とパ・リーグ会長に訴えるなど、プリンス・西武による囲い込みが問題になった[1]。同年のドラフト1位だった川村一明高山郁夫は後に西武へ入団している。

1989年には第60回都市対抗野球大会橋本武広石井浩郎らを擁して優勝を飾る。

2000年4月、不況によるリストラの一環として同年シーズン限りでの廃部が発表された[2]。また西武グループは、西武ライオンズを保有していることもあり、ライオンズに経営資源を集中させたい意向もあった[2]。同年は、都市対抗野球には出場出来なかったが、秋の日本選手権に出場。2回戦でNTT西日本に敗れ、活動に幕を下ろした。

西武球団のチーム強化策を追って1992年オフに根本陸夫を招いた福岡ダイエーホークスがグループ内にローソン硬式野球部を誕生(リクルートから衣替え)したが、全国大会には1度も出場できずに2002年廃部。

2004年武蔵村山市にあった練習グラウンド跡地に拓殖大学第一高等学校が移転している。

設立・沿革[編集]

主要大会の出場歴・最高成績[編集]

主な出身プロ野球選手[編集]

かつて在籍していた主な選手・コーチ・監督[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ a b 高卒2年目であり、NPB及び日本野球連盟との規定で「高卒で社会人野球加入した選手は3年間ドラフト指名不可能」の規則で2001年のドラフト会議まで指名不可能であったが、当チームの廃部に伴い救済措置・特例で指名されプロ入りした。

出典[編集]

  1. ^ 田所龍一 (2021年7月7日). “【勇者の物語】プリンス攻勢「希望球団からの指名待て」選手囲い込み 虎番疾風録番外編264”. 産経ニュース. 2023年1月26日閲覧。
  2. ^ a b “プリンスホテル今季限り 社会人野球の強豪が廃部発表”. 毎日新聞: p. 20. (2000年4月12日) 

関連項目[編集]