金森栄治

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金森 栄治
千葉ロッテマリーンズ コーチ #75
Kanamori eiji.jpg
2011年8月6日、QVCマリンフィールドで。
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 石川県金沢市
生年月日 1957年1月24日(55歳)
身長
体重
170cm
72kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 外野手捕手
プロ入り 1981年 ドラフト2位
初出場 1982年9月9日
最終出場 1996年10月9日
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
監督・コーチ歴

金森 栄治(かなもり えいじ、1957年1月24日 - )は、石川県金沢市出身の元プロ野球選手外野手捕手)・指導者・野球解説者。1985年から1992年の登録名は「金森 永時」(読み同じ)。学生時代「鈍臭い」というキャッチフレーズが付いており、プロでのあだ名は「ドンちゃん」「ドンガメ」。

目次

[編集] 経歴

PL学園高校を経て早稲田大学に入学。早大時代は3年まで山倉和博の控え。4年時に頭角を現し、1978年春のリーグ戦で首位打者を獲得。岡田彰布の後の5番を打ち、その年秋の9季ぶりのリーグ優勝に貢献した。リーグ通算32試合出場、97打数39安打、打率.402、2本塁打、25打点。

主将の中屋恵久男と共に、結成間もないプリンスホテル硬式野球部に進み、1981年都市対抗野球大会で首位打者に輝き、社会人ベストナインに選ばれ、同年オフに西武ライオンズドラフト2位で入団。

[編集] プロ時代

2年目の1983年、74試合出場で打率.293と台頭。読売ジャイアンツとの1983年の日本シリーズ第6戦では延長10回に江川卓からサヨナラヒットを放った。1985年には打率.312を記録し、ベストナインゴールデングラブ賞に選ばれた。また、足を投げ出し実際に当たったが、球審から死球を認めてもらえず、その打席で本塁打を放ったこともある。

1984年、1985年と2年連続して死球王でもあり、体に近い投球が来ると叫ぶ。死球の多さから、「東の金森、西の達川(光男)」「爆笑生傷男」と呼ばれる。1985年のオールスターには監督推薦で選出され全3試合で出場機会を与えられた。その後は負傷もあって出番は減ったが森祇晶監督時代の1987年はPLの後輩清原和博や同じ外野手の秋山幸二吉竹春樹と共にオールスターゲームファン投票選出され連続日本一に貢献、1988年シーズン途中に北村照文との交換トレード阪神タイガースに移籍。1989年には打率.306の成績を残したが、1992年限りで自由契約野村克也監督率いるヤクルトスワローズに拾われ、代打の切り札として再生し、低打率ながら出塁率.370で日本一に貢献。1995年には代打で.324の高打率を記録し、期待に応えた。野村に「ただ数字だけで判断しないでほしい。ベンチのムードメイク、練習の態度など若手の見本、ウチの貴重な戦力。私が監督をやっている限り、置いてくれ」と球団に頼み込ませるなど、その評価は高かった。

[編集] コーチ・監督時代

1996年限りで現役引退し、ヤクルトの打撃コーチ補佐に就任。球団に打撃コーチ補佐として推薦したのは当時の野村監督で「あいつは選手に何も教えなくていい。ベンチにいてくれるだけでいい」と言わしめた程である。その後は古巣・西武の打撃コーチ補佐、ダイエーのスコアラー、阪神のコーチ、ソフトバンクの打撃コーチを務めた。打撃コーチとしての評価は高く、現役時代のイメージとは裏腹な理論派である。謙虚な性格ゆえ広岡、野村といったクセのある指揮官にも可愛がられた。

2007年よりNHK-BS大リーグ中継の野球解説者となる。同時にBCリーグ石川ミリオンスターズの監督に就任。初年度からチームを優勝に導き、プロ野球ドラフト指名選手(内村賢介)を送り出した。2009年限りで退団した[1]

2010年からは千葉ロッテマリーンズの一軍打撃兼野手チーフコーチに就任[2]清田育宏岡田幸文らを指導し日本一に貢献した。

[編集] コーチ

西武コーチ時代、アレックス・カブレラが非常に慕い、任期満了でコーチを退任した時に「僕も辞める」と言った。

ダイエーのスコアラーとしてはフリオ・ズレータを発掘。スコアラーという肩書きではあったが、王貞治監督から打撃補佐的な役割を依頼され、金森はしばしばグラウンドに出ては選手の練習を手伝った。2003年春季キャンプでは、城島健司井口資仁にアドバイスすることも多く、その後2人の打撃開眼に大きな役割を果たした。なお、城島とはその後も強い師弟関係で結ばれ、城島が出場した日米野球や佐世保自主トレなどにも金森は必ず姿を見せている。岡田については自著で「すこぶるつきの好人物」と評する。

指導は基本的にボールを手元まで引き付けて、脇を締めて腰回転を使って打つというものであり、それを赤星憲広藤本敦士のような非力な打者にまで当てはめているとして藤田平は批判する[3]和田一浩は「今でも北陸遠征に行った時は、食事を一緒にします。弟子はどこまでいっても弟子ですので」と語る[4]

マリーンズでは相手投手が代わった時などに、次打者の元へ向かいアドバイスすることがよく見られる。

[編集] エピソード

  • 前述の通りデッドボールになりそうな投球が来ると人目憚らず「アー~ッ」と大声を出す。以前、よくあったTVの珍プレー好プレーにおいては「生キズ男、金森特集」としてその大声をあげデッドボールになる多くのシーンを編集したコーナーもあった。
  • 現役時代から広岡を父親のように慕っていた。選手とは一線を画していたと言われる広岡だが、早稲田の後輩ということもあってか、金森を「ドンちゃん」と呼び、息子の様に接していた。しかし広岡は金森が入団した当初「あの子は体が小さいから駄目だな」と言っていたらしく、長期にわたって活躍するとは思っていなかったようである。
  • 1985年に15個を記録した死球数だが、1986年は6個と半分以下に減少した。これについて金森は、「(1986年)シーズン前のキャンプでマシン相手にボールの避け方を練習した」「一般女性(西宮球場でリリーフカー運転の経験あり)との婚約が決まって、自分だけの体ではなくなりましたから」と述べている。[5]
  • 阪神移籍後、最初のデッドボールを食らった際、観衆から「おめでとう!」の声が飛び交った。
  • 阪神時代の1988年、対大洋戦(阪神甲子園球場)で外野への飛球をグラブに収めようと、当時まだあったラッキーゾーンのフェンスによじ登る。しかし無常にもボールには届かなかったばかりか、バランスを崩した金森もラッキーゾーンの内側に転落してしまった。その瞬間読売テレビの実況アナウンサーは「金森も入った!」と絶叫。この場面はテレビの『珍プレー』番組で何度も取り上げられた。
  • ヤクルト在籍時の1993年9月19日の対巨人戦(東京ドーム)で、橋本清(PL学園の後輩)からの背中を通過する投球に激怒し、橋本にツカツカ詰め寄ろうとした。だが、ベンチから両チーム選手総動員の大乱闘となり、乱闘の途中で巨人・堀内恒夫コーチが輪の中でユニフォームを破られ、顔を引っ掻き回され、古田敦也から脇腹を殴られるなど、凄まじいものとなってしまった。その後、金森は騒ぎを起こした原因を作ったことを関係者に謝罪している。また、死球(寸前を含めて)に絡んで激怒したのもこれが唯一だった。
  • 大学時代は加藤久(元:京都サンガF.C.監督)と同学科であったが、加藤は体育会の学生としては勤勉であったため、レポートや試験の答案を写させてもらうこともあったと著書に記している。

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別打撃成績

















































O
P
S
1982 西武 4 10 9 3 2 0 0 0 2 2 0 0 0 0 1 0 0 2 0 .222 .300 .222 .522
1983 74 210 174 26 51 7 1 3 69 22 3 1 7 2 22 0 5 17 5 .293 .384 .397 .781
1984 65 181 148 19 37 9 0 2 52 19 0 0 5 1 15 0 12 17 0 .250 .364 .351 .715
1985 129 514 413 71 129 18 2 12 187 55 2 3 30 1 55 0 15 50 11 .312 .411 .453 .864
1986 112 405 336 42 100 18 5 3 137 34 3 3 23 3 37 2 6 37 13 .298 .374 .408 .782
1987 91 291 268 21 65 13 1 2 86 22 3 1 8 1 13 1 1 25 6 .243 .279 .321 .600
1988 4 13 11 1 1 0 0 0 1 0 0 0 2 0 0 0 0 1 0 .091 .091 .091 .182
阪神 79 201 177 13 37 6 4 2 57 14 0 2 3 0 20 1 1 16 2 .209 .293 .322 .615
'88計 83 214 188 14 38 6 4 2 58 14 0 2 5 0 20 1 1 17 3 .202 .282 .309 .591
1989 77 138 121 13 37 5 2 0 46 17 0 0 2 0 13 1 2 11 4 .306 .382 .380 .763
1990 68 120 95 11 25 9 0 0 34 13 0 1 0 1 20 2 4 5 4 .263 .408 .358 .766
1991 73 148 136 13 32 8 1 2 48 14 0 0 0 1 9 0 2 9 3 .235 .291 .353 .643
1992 42 44 44 1 10 0 0 0 10 3 0 0 0 0 0 0 0 9 2 .227 .227 .227 .455
1993 ヤクルト 46 55 41 3 7 1 1 0 10 3 0 0 1 0 13 0 0 7 1 .171 .370 .244 .614
1994 71 72 70 1 19 3 0 0 22 5 0 0 0 0 2 0 0 10 4 .271 .292 .314 .606
1995 67 80 71 8 23 6 1 1 34 10 0 0 1 1 5 0 2 5 4 .324 .380 .479 .859
1996 46 46 45 3 8 1 0 0 9 6 0 0 0 0 1 0 0 1 2 .178 .196 .200 .396
通算:15年 1048 2528 2159 249 583 104 18 27 804 239 11 11 82 11 226 7 50 222 61 .270 .351 .372 .724
  • 各年度の太字はリーグ最高

[編集] 表彰

[編集] 記録

  • 初出場・初安打・初打点:1982年9月9日 対ロッテ戦(西武) 8番・捕手で先発。5回、深沢から2点適時打
  • 初本塁打:1983年5月13日 対近鉄戦(日生) 7回、柳田からソロ
  • オールスターゲーム出場:3回 (1985年 - 1987年)
  • 通算1000試合出場 1995年9月29日(328人目)

[編集] 背番号

  • 26 (1982年 - 1988年途中)
  • 5 (1988年途中 - 1992年)
  • 32 (1993年 - 1996年)
  • 89 (1997年 - 1999年)
  • 75 (2001年 - 2002年、2010年 - )
  • 88 (2004年)
  • 81 (2005年 - 2006年)
  • 2 (2007年 - 2009年)

[編集] 登録名

  • 金森 栄治(かなもり えいじ)(1982年 - 1984年、1993年 - )
  • 金森 永時(かなもり えいじ)(1985年 - 1992年)

[編集] BCリーグ監督としてのチーム成績

レギュラーシーズン
年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
2007年 石川 1位 72 43 22 7 .662 12 .266 3.02 50歳
2008年 2位 72 31 30 11 .508 51歳
2009年 1位 72 42 27 3 .609 52歳
通算:3年 216 116 79 21 .594 地区優勝2回
ポストシーズン
年度 球団 大会名 対戦相手 勝敗
2007 石川 日本独立リーグ・グランドチャンピオンシップ 香川オリーブガイナーズ(IL1位) 1勝3敗
2008 北陸地区プレーオフ 富山サンダーバーズ(BC北陸1位) 1勝1敗(※2)
2009 北陸地区プレーオフ 富山サンダーバーズ(BC北陸2位) 1勝2敗(※3)
BCリーグチャンピオンシップ 群馬ダイヤモンドペガサス(BC上信越1位) 1勝3敗
※1 勝敗の太字は勝利したシリーズ
※2 富山が前後期優勝のため石川は2戦全勝が条件。富山がBCリーグチャンピオンシップに出場
※3 石川が前後期優勝のため富山は3戦全勝が条件。石川がBCリーグチャンピオンシップに出場

[編集] 脚注

  1. ^ [1]
  2. ^ 時事通信社. “ロッテ、西村新監督の就任発表”. 2009年10月8日閲覧。 記事内で金森の一軍打撃コーチ就任も発表されている。
  3. ^ この理論について金森は、「力のない打者こそ、やるべきだ」「腕が伸びた状態より、脇を締めて身体の近くでバットを振った方が操作しやすいし、力も伝わる。腕相撲だって一緒でしょ」と述べる。「猛打ロッテ 引き出す指導」朝日新聞2010年4月20日付。
  4. ^ Number Web(2009年6月23日閲覧)
  5. ^ 1986年度 プロ野球珍プレー・好プレー大賞出演時の発言。この発言の後、婚約者の女性がスタジオにゲストとして登場し、実際に西宮球場でリリーフカーを運転している映像が流された。

[編集] 関連項目

個人用ツール
名前空間
変種
操作
案内
ヘルプ
ツールボックス