広島東洋カープ

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広島東洋カープ
会社名 株式会社広島東洋カープ
創設年度 1950年
所属リーグ
セントラル・リーグ
歴代チーム名
  • 広島カープ(1950年 - 1967年
  • 広島東洋カープ(1968年 - 現在)
本拠地
MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島(広島市民球場)
広島県広島市南区
MAZDA Zoom-Zoom Stadium Hiroshima.jpg
収容人員 33,000人
(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)
フランチャイズの遍歴
永久欠番
3:衣笠祥雄 | 8:山本浩二
獲得タイトル
日本一(3回)
1979 | 1980 | 1984
リーグ優勝(6回)
1975 | 1979 | 1980 | 1984 | 1986 | 1991
成績(タイトル以外)
日本シリーズ出場(6回)(太字は勝利した年)
1975 | 1979 | 1980 | 1984 | 1986 | 1991
クライマックスシリーズ(1回)
(太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退)
0勝1敗
2013
球団組織
オーナー 松田元
運営母体 松田家(マツダ創業者一族)
監督 野村謙二郎
株式会社広島東洋カープ
Hiroshima Toyo Carp Co., Ltd.
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本
732-8501
広島市南区南蟹屋二丁目3番1号
マツダスタジアム
設立 1956年1月[1]
業種 サービス業
事業内容 プロ野球興行事業など
代表者 松田元代表取締役社長
資本金 3億2400万円(2012年12月31日現在)
売上高 117億1600万円(2009年12月期)
純利益 2億5200万円(2012年12月期)
純資産 35億5000万円(2012年12月31日現在)
総資産 59億3900万円(2012年12月31日現在)
従業員数 120人(2009年12月時点)
決算期 12月末日
主要株主 松田家関連
松田元 20.4%
カルピオ 18.5%
松田弘 12.2%
松田勢津子 10.1%
マツダ関連
マツダ 34.2%
(2005年現在)[2]
主要子会社 カルピオ(完全子会社)
関係する人物 松田恒次松田耕平
外部リンク http://www.carp.co.jp/
特記事項:1949年6月創業。勢津子は耕平の妻、元は耕平の長男、弘は耕平の次男でアンフィニ広島社長。
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広島東洋カープ(ひろしまとうようカープ、英語: Hiroshima Toyo Carp)は、日本プロ野球球団。セントラル・リーグに所属する。

広島県保護地域とし、同県広島市南区にあるMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島専用球場(本拠地)としている。また、二軍ウエスタン・リーグ所属)の本拠地は山口県岩国市にある広島東洋カープ由宇練習場である。

概要[編集]

親会社を持たない市民球団として結成されたという他の球団と比較して特異の歴史を有する。マツダは球団の3分の1以上の株式を保有する筆頭株主であり、球団名の「東洋」はマツダの旧社名「東洋工業」に由来するが、マツダは広島東洋カープを「持分法を適用していない非連結子会社」と位置づけており[3]、親会社としての球団への資金提供(赤字補填など)など球団経営への積極関与は行っていない(ただし、現在の常務取締役球団本部長である鈴木清明はマツダからの出向である)。その一方でマツダ創業家である松田家の所有する株式を全て合わせるとマツダの所有比率を上回り[2]、歴代のオーナーも松田家から輩出されていることから、実質的に同族経営を行っているという見方もある。市民が直接株式を保有するという意味での市民球団ではないが、特定の企業に依存しないという意味では今なお市民球団のイメージを有する[4][5]

球団の歴史[編集]

1950年〜1960年代[編集]

セ・リーグ優勝記念碑(旧広島市民球場横「勝鯉の森」内)
旧広島市民球場・三塁側より 2004年3月14日(広島対ダイエー(現ソフトバンク))撮影
1949年

リーグ拡張方針を受け、原爆による壊滅的被害からの復興を目指しプロ球団「広島野球倶楽部」を設立。同年9月28日日本野球連盟に加盟を申請[6]。広島市を流れる太田川は鯉の産地、しかも原爆で焼け落ちた広島城は“鯉城”とも呼ばれていたため、球団名を「広島カープ (Hiroshima Carp)」とした。12月3日、初代監督石本秀一が就任[6]、選手兼任助監督白石勝巳。本拠地は広島総合球場とした。核たる親会社がないため球団組織に関するバックアップが十分ではなく[7]、監督である石本秀一自らが選手集めに奔走。投手に長谷川良平内藤幸三、野手では白石勝巳岩本章らが中心となった。12月15日、セントラル・リーグに加盟。

1950年

3月10日に福岡市の平和台野球場でセ・リーグ開幕戦が行われ、西日本パイレーツとのこの年から加盟の球団同士の公式戦初試合となったが、5対6で敗れている[6]。チームは著しく低迷、チーム成績はこの年優勝した松竹ロビンスと59ゲーム差の8位(最下位)。勝率を3割に到達できなかったチームは、両リーグ通じて広島だけ(勝率.299)だった。白石勝巳が遊撃手としてベストナインを受賞した。

1951年

深刻な球団経営状態から給料の遅配や遠征費が払えない事態となり、3月14日の役員会で球団解散の決定がなされたが、石本監督らの説得で3月23日に存続が決定している[6]。当時下関市にチームがあった大洋ホエールズとの合併案が持ち上がった。その時、球団の資金難を救うべく広島市民が酒樽に募金を募った「樽募金」で球団存続に必要な400万円(当時)を集め、球団も四方八方手を尽くし解散を回避した[8]。この一件は、2001年5月1日放送のNHKプロジェクトX〜挑戦者たち〜」で「史上最大の集金作戦 広島カープ」として取り上げられた[9]。これらの事情から、この年の広島の公式戦の開幕は他より9日遅れて、4月7日の広島での対阪神戦となった[6]。シーズン途中には前年度クリーンナップとしてチーム最多の21本塁打・72打点を記録した樋笠一夫が契約で揉め、巨人に移籍してしまう。チーム成績は2年連続の最下位。この年は西日本パイレーツがパ・リーグの西鉄クリッパーズに吸収合併されたことで、7球団による20回総当り戦の120試合だったが、秋にアメリカ選抜チームの来日(日米野球)があったため順位決定後の試合は全て打ち切られた。特に広島は最下位決定の後、一番多い21試合が打ち切られ99試合しか消化出来なかった[10]12月25日には12月15日までに選手契約を行わなかったとして、エースの長谷川良平が自由契約選手として移籍を表明するが、翌年3月10日にコミッショナー裁定により長谷川の広島復帰が決まっている[6]

1952年

開幕前、同年のシーズン勝率3割を切った球団には処罰を下すという取り決めがリーグの代表者会議でなされた。これには、奇数(7球団)による日程の組みにくさを解消するため、下位の球団を整理する意図が含まれていた[11]。設立より2年連続最下位だった広島が処罰の最有力候補だったが、長谷川良平杉浦竜太郎の2人でチーム勝利数(37勝)の過半数(20勝)を稼ぎ、勝率.316で処罰を免れた[12]。勝率3割を割った松竹に対してシーズン終了後の代表者会議で合併を申し入れたが拒否されている(最終的には松竹ロビンスは大洋ホエールズと合併して大洋松竹ロビンスとなった)[13]。また、杉浦竜太郎が防御率でセ・リーグ9位に入ったが、これは球団として初の投手ベスト10入りとなった。

この年限りで石本は退任し、代わりに松竹から赤嶺昌志一派小鶴誠金山次郎三村勲)が集団で移籍。小鶴・金山の入団だけで大パレードを敢行し、続いて獲得した日系二世選手である銭村兄弟(銭村健三銭村健四)・光吉勉入団の際には更に盛大なパレードを行い、10万人の歓迎で市中を紙吹雪が舞った。

1952年から53年は球団の経営状態が極端に悪化し、ユニフォームは胸に「HIROSHIMA」と書かれた1種類だけだった。しかも、このユニフォームは大下回春堂(フマキラー)から提供されていたため、この2年間のユニフォームには左袖部分にフマキラーのロゴマークが入っていた。

1953年1960年

1953年のオールスターのファン投票で、長谷川良平、小鶴誠、白石勝巳の3選手が選出。「集団投票事件」などと批判を浴びた。

1954年二軍(広島グリーンズ)が新日本リーグに参加。

この年から1960年まで白石が監督を務める。この頃になると「極貧」が「普通の貧乏」になったという状況で、給料の遅配はなくなったものの、この頃でさえシーズンオフには白石が選手をスカウトしたり[14]、キャンプでは白石自ら外野でボールの球拾いという状況であった[15]。成績は低迷するが、1960年にはBクラス(4位)ながら球団創立11年目にして初のシーズン勝ち越し(勝率.504)を果たす。

1956年5月20日、広島総合球場で開催された対読売ジャイアンツ戦で木戸美摸投手負傷事件が起こる。

1957年7月22日に、広島市民球場に本拠地を移転し、広島県下初のナイターが行われた。

1960年5月7日の対阪神タイガース戦で球団通算500勝を達成。8月には二軍がウエスタン・リーグ初優勝達成[16]

1961年1967年

1962年まで門前眞佐人が監督を務めたが、いずれのシーズンも勝率5割を割り辞任。

1962年、前年に現役を引退した上田利治がコーチに就任。専任コーチとしては日本プロ野球史上最年少の25歳で就任している。しかし、1969年シーズン後、当時の監督である根本陸夫とチーム強化の方針をめぐっての意見の対立から退団している。

1964年5月5日の対巨人戦(後楽園)において、巨人の王貞治を抑え込む作戦として白石監督考案の王シフトが初めて使われる[16]

1965年5月1日、対大洋戦(川崎)に勝利し、球団初の単独首位に立つが、翌日には首位陥落で一日天下に終わり[16]、このシーズンは首位巨人と31ゲーム差の5位で終わる。

1966年6月5日、広島総合球場で開催された対阪神戦で山本一義が死球を受けたため一部のファンが暴徒化。一塁側内野席から投げられたウイスキー瓶が右翼線審の額に当たり全治10日の怪我を負う事件が発生。そのため一塁側応援団の応援を一時見合わせる措置をとった。

1963年1965年7月まで、白石が2度目の監督を担当、1965年7月からは長谷川良平が監督を務めた。

1968年

東洋工業(現・マツダ)社長の松田恒次が筆頭株主となりオーナーに就任。松田耕平がオーナー代行に就任。球団名を広島東洋カープに改称。市民球団としての体裁を保ちつつも、東洋工業をメインスポンサーとする松田家私有の同族経営球団となる。根本陸夫が監督就任。阪神との開幕3連戦に連勝し首位でスタートするも、5月に7連敗で一時3位に転落。しかし6月には首位に返り咲き、7月初めまで守った。外木場義郎安仁屋宗八両投手の活躍もあって3位となり、球団創立19年目にして初のAクラス入りを果たした。球団創立1年目(1950年)から1967年までの18年連続Bクラスは、当時の日本記録で、現在でもセ・リーグワースト記録[17]

1969年

前年とは一転し、最下位に終わる。根本時代は、当時巨人がV9時代を迎えている事もあり、成績こそ振るわなかったが、投手で外木場義郎、打者では衣笠祥雄山本浩二YK砲水谷実雄ら、後の「赤ヘル軍団」フィーバーを巻き起こし中核を成した選手の台頭を促した。

1970年〜1980年代[編集]

1970年1971年

1970年と翌1971年は2年連続でシーズンを勝ち越し4位と健闘。1970年10月19日より衣笠祥雄の連続試合出場が始まっている。11月15日に松田恒次オーナーが死去、後任オーナーには、オーナー代行の松田耕平が就任[18]

1972年1974年

1972年、開幕から不振が続いて根本はシーズン途中で監督を休養、森永勝也打撃コーチが代行を務める。この年は、最下位に終わる。

1973年は、別当薫が監督に就任する。開幕から6月頃までは大洋とともに首位争いの主導権を握り、前半戦こそ2位で折り返したが後半戦は急失速し最下位。しかし、結果的にリーグ優勝しV9を達成した巨人と最下位の広島までのゲーム差が6という大混戦だった。

1974年は、チームは最下位に終わるも金城基泰が最多勝・最多奪三振を獲得。しかし、10月12日に交通事故に遭い、あわや失明の重傷を負う。同年オフ、監督・森永勝也の退団および打撃コーチ・ジョー・ルーツの次期監督就任を発表。

1958年に胸ロゴが赤い縁取りとなったユニフォームを着用していたが、1973年に、ユニフォームがニット式のベルトレスに変更され、胸文字・胸番号・背番号に赤の縁取り、袖・腰・ストッキングに赤色のラインが入る。この「赤」は、後にチームカラーとなる。

1975年リーグ初優勝[編集]

1975年

球団初の外国人監督として、ジョー・ルーツが監督に就任。「野球に対する情熱を前面に出そう」というスローガンの元、燃える闘志を表す意味をこめて帽子・ヘルメットの色が紺色から赤になった。

しかし開幕早々の4月27日の対阪神戦において佐伯和司の投球判定を巡って猛抗議、試合のボイコットを起こす騒動となった。この時、重松良典球団代表が試合続行を支持したため、試合中の介入に不満を持ったルーツは4月30日に監督辞任、5月2日までの代行にコーチの野崎泰一が就き、翌5月3日古葉竹識がコーチから監督に就任[19]。この年のオールスターゲームの第1戦(甲子園)では山本浩二衣笠祥雄が共に1試合2本塁打を記録するなど、赤ヘル旋風を巻き起こした[19]

中日と阪神と熾烈な優勝争いの末、10月15日の巨人戦(後楽園)に勝利し、球団創立25年目にして、ついに初優勝を果たす[20]。結果的に2位中日と4.5ゲーム差、3位阪神と6ゲーム差と大混戦だった。日本シリーズでは阪急ブレーブスと対戦するも4敗2分で敗北。この年の首位打者となった山本浩二や衣笠祥雄、最多勝外木場義郎、盗塁王の大下剛史らの活躍が目立った。優勝後、平和大通りで行われた優勝パレードではファン約30万人を集め、空前の盛り上がりを見せた[21]

赤ヘル黄金時代[編集]

1976年

池谷公二郎が20勝を挙げ最多勝と沢村賞。巨人・阪神と優勝争いを繰り広げるも、3位に終わる。

1977年

5位に終わる。胸文字・胸番号・背番号・アンダーシャツ・ストッキングが赤一色になり、この年から“カープ=赤”が定着する。12月23日江夏豊南海ホークスより移籍[19]

1978年

カープ打線が最も破壊力を発揮したシーズンで、この年のチーム205本塁打は日本プロ野球記録を更新。44本の山本浩二や、40本のヘンリー・ギャレット、33本のジム・ライトル、30本の衣笠祥雄など4人が30本以上を記録した[22]。また打点692、得点713は、ラビットボールを使用して本塁打の増えた1948年1950年を除いてのプロ野球最多得点であった。しかし首位ヤクルトスワローズと5ゲーム差の3位に終わる。

1979年

開幕前から独走が予想されたが、開幕は4連敗スタート、序盤は苦戦が続いた。しかし、衣笠の死球による亀裂骨折や、高橋慶彦の33試合連続安打でチームに勢いが付き、8月になり一気に首位に立つと4年ぶり2度目のリーグ制覇。日本シリーズでは、近鉄バファローズを4勝3敗で下し、悲願の日本一を達成する。第7戦では、江夏がノーアウト満塁という絶体絶命の場面を無失点で切り抜け日本一に導く(江夏の21球)。

1980年

この年は前年とは打って変わり序盤から首位を独走し続け、2位以下に大差をつけて球団初の連覇を達成。勢いそのままに、近鉄を4勝3敗で下し、日本シリーズ2連覇を成し遂げた。同年オフ、江夏が日本ハムに移籍。

1981年

優勝した巨人と6ゲーム差の2位に終わり、3連覇を逃す。

1982年

結果は4位に終わる。津田恒美が活躍し、球団初の新人王を獲得。

1983年

優勝した巨人と6ゲーム差の2位に終わる。

1984年

山本、衣笠に加え山根和夫北別府学大野豊ら投手が活躍し4年ぶりのリーグ優勝。この年75勝を挙げたがこれは球団シーズン最多勝記録[23]。西武から復帰の小林誠二が最優秀防御率。小早川毅彦が新人王。日本シリーズでは、阪急ブレーブスと対戦。4勝3敗で3度目の日本一。

1985年

サウスポーの高木宣宏がブレイクしオールスター前までに9勝を挙げるも後半不調に陥る。2年目の川端順が新人王。高橋慶彦が5年ぶり3度目の盗塁王。優勝した阪神と7ゲーム差の2位に終わる。古葉がこの年限りで監督を勇退。同年、松田元がオーナー代行に就任している。

1986年

阿南準郎が監督となる。阿南は「山本浩二監督」実現までの繋ぎと言われたが、就任1年目にリーグ優勝[24]。レギュラーが固定され不動のオーダーと言われた。北別府が投手部門のタイトルを総なめ。長冨浩志が新人王。日本シリーズでは西武ライオンズと対戦し初戦引き分けの後3連勝、その後4連敗。史上初の第8戦まで縺れ込んだが3勝4敗1引き分けで敗退。

前年とこの年はチームに外国人選手は在籍しておらず、スターティングメンバーも「純国産打線」であった。またこの年限りで、長年チームの4番を務めてきた山本浩二が引退し、1990年代前半までチームは4番不足に悩まされるようになった。

1987年

6月13日、衣笠祥雄が、ルー・ゲーリッグの2130連続試合出場の世界記録(当時)を更新。衣笠はこの年の最終戦までに2215まで記録を伸ばし引退した。4番打者は5月末まではランス、その後小早川、もしくは片岡光宏が務めた。正田耕三が首位打者、ランスが本塁打王を獲得するも3位に終わる。

1988年

2年連続の3位。正田が2年連続の首位打者。大野が防御率1.70で最優秀防御率と沢村賞。阿南が監督を退任。同年オフ、山本浩二が監督に就任。

1989年

新外国人のロッド・アレンウェイド・ロードンが加入。アレンが故障で離脱するもロードン、小早川、西田真二もしくは長内孝でクリーンナップを形成。津田恒実が最優秀救援投手。優勝した巨人と9ゲーム差の2位に終わる。

1990年代~2000年[編集]

1990年

野村謙二郎がトップバッターに定着し盗塁王。2年目のアレンが好調も新加入のマイク・ヤング高沢秀昭が奮わず。開幕直後から巨人に独走を許し、結果的に優勝した巨人と22ゲーム差離されるも結果的に2年連続の2位に終わる。

1991年

4月に津田が戦線を離脱し闘病生活に入る。津田の穴を埋めるべく大野が抑えに転向。野手陣では野村謙二郎が高打率、盗塁王を獲得してチームを牽引。しかし長打不足で絶対的4番が不在(チーム最多本塁打は規定打席に達していない江藤の11本)の中勝負強い西田真二山崎隆造などが少ないチャンスの中奮闘する(優勝を決めた試合も初回に西田のタイムリーの1点を9回まで守りきった)。2年目の前田智徳がレギュラーに定着、江藤智も三塁手として出場し長打力の片鱗を覗かせる。投手陣は二年目の佐々岡真司がMVP 最多勝 最優秀防御率 沢村賞。川口和久が最多奪三振。北別府が最高勝率。大野が最優秀救援投手を獲得するなど投手力を核とする守りの野球でリーグ優勝。投打にわたりチームの殆どの選手を一軍起用する文字通り全員野球だった。リーグ優勝が本拠地だったので、ビールかけなど祝勝会は広島市民球場のグラウンドでファンが観客席にいる中で行われた。日本シリーズでは西武と対戦。川口が4試合に奮投するなどし先に王手をかけたが、最終的には3勝4敗で敗退。この年以降、優勝から遠ざかることとなる。

1992年

ヤクルト・巨人・阪神との四つ巴の優勝争いになる。優勝したヤクルトとは僅か3ゲーム差であったものの、ヤクルトと最終成績最下位の中日が9ゲーム差とセ・リーグ全体が例年に見ぬ大混戦となり、同率2位だった巨人と阪神に僅か1勝の差で及ばずに4位[25]となり、1982年以来10年ぶりのBクラスに沈んだ。北別府が200勝達成。達川が引退。

1993年

7月20日、津田恒実が脳腫瘍のため32歳の若さでこの世を去った。序盤は開幕6連勝するなど好調だったが、津田の死にショックを受けたチームはその後急降下。江藤智が初の本塁打王に輝くも、前年100試合守っていた達川の引退による捕手の急な若返りの影響か捕手陣と投手陣が噛み合わず大崩壊。9月には12連敗を喫しチームとして1974年以来19年ぶりとなる最下位に転落。山本は責任を取って監督を辞任した。山崎が引退。山本の後任には三村敏之

1994年

前年崩壊した投手陣を再編し主に中継ぎだった紀藤真琴近藤芳久を先発に抜擢。紀藤は16勝5敗で最高勝率を獲得。近藤は巨人キラーとして活躍しシーズン11勝をあげる。野手陣では控えだった金本知憲緒方孝市音重鎮等を積極的に起用、一定の成果を残す。前年苦しんだ捕手も西山秀二がゴールデングラブ賞・ベストナインを獲得する活躍。一時期は最下位から10連勝の快進撃で優勝争いに加わるものの、その後失速し3位に終わる。オフに川口和久が巨人にFA移籍。北別府が引退。

1995年

この年のドラフト1位山内泰幸とカープアカデミー出身ロビンソン・チェコが大活躍。しかし主軸の前田が序盤戦でアキレス腱断裂の大怪我。抑えの大野も不調でシーズン途中先発に周り、開幕投手を務めた佐々岡が抑えに回る等落ち着かない状況だった。チェコが15勝。山内が14勝で新人王、野村が3割30本30盗塁(最多安打のタイトルも取った)のトリプルスリーを達成。江藤が二年ぶりの本塁打王・初の打点王、緒方が規定打席不足ながら初の盗塁王獲得し投打に目立った活躍をしながらケガ人や不調者が相次ぎ勝負どころで勝てず、首位ヤクルトの独走を許し6.0ゲーム差の2位に終わる。

1996年

チーム打率.281の打線とダイエーから移籍した加藤伸一、5年目の山崎健が大活躍し前半戦を首位で折り返すも、後半戦江藤が負傷離脱。エース紀藤が後半6連続先発失敗。前年同様勝負どころで怪我人・不調者が出てしまい最大11.5ゲーム差をつけていた巨人に逆転され、最終的には中日にも抜かれ3位で終える。江藤が最高出塁率。緒方が2年連続の盗塁王。ルイス・ロペスが打点王を獲得。

1997年

野手陣では江藤が怪我の影響からか打撃守備に精彩を欠き、正捕手西山も開幕早々怪我でリタイア。緒方が3年連続盗塁王、ロペス2年連続打点王、他のレギュラー陣も数字は残したが3年連続で勝負どころで打てなかった。投手陣は前年合計41勝した山内、紀藤、加藤、山崎が合計で9勝に終わる(山崎は未勝利)。この年のドラフト1位澤崎俊和ドラフト2位黒田博樹、3年目の横山竜士、8年目の高橋英樹が穴を埋めようと奮闘。澤崎が新人王を獲得、横山がリリーフで10勝、黒田6勝、高橋英樹が苦しい8月に4勝を上げるが穴は埋めきれなかった。大野豊が42歳で史上最年長の最優秀防御率のタイトルを獲得。順位は3位ながら貯金は作れなかった。

1998年

新外国人のネイサン・ミンチー、この年のドラフト4位の小林幹英が活躍。前田も首位打者まで後少しの大接戦を繰り広げるが、ここまで支えていた投打の主力選手が軒並み不調・怪我に合い、5位に終わる。シーズン後に三村が監督を退任、後任は達川晃豊が就任。この年限りで大野豊や正田耕三が引退。

1999年2000年

伝統の猛練習でチームの底上げを図るも慢性的な戦力不足の結果、99年・00年とも5位に終わり、達川はわずか2年で辞任。99年オフに江藤智はFAで巨人に移籍した。また、引退直後から就任していた大野豊投手コーチと正田耕三守備走塁コーチ、6年ぶりに復帰した大下剛史ヘッドコーチは1年限りで辞任した。

第2次山本監督時代[編集]

2001年2005年

山本浩二が8年ぶりに監督として復帰。しかし、チーム成績は2001年は勝率3位ながら勝利数で横浜を下回り4位[26]。2002年、2代目オーナー松田耕平が死去し、3代目オーナーにオーナー代行の松田元が就任する。2002年2004年まで3年連続の5位。元大洋4番・松原誠をチーフコーチに招聘し、新井貴浩が中軸打者に成長する。一方で金本知憲が2002年オフにはFAで阪神に移籍する。2004年には嶋重宣が首位打者・最多安打・ベストナインを獲得。

2005年に、投手陣再生の切り札として安仁屋宗八コーチを招聘。新井貴浩が本塁打王を獲得し、エース格の、ジョン・ベイルを抑えに転向させるも初めての交流戦での失速や投手陣の不調が響いて最下位に転落。この年のシーズン終了後に、山本浩二は監督を辞任、2000本安打を達成した野村謙二郎も現役を引退。

ブラウン監督時代[編集]

2006年

ルーツ以来31年ぶり、球団史上2人目の外国人監督となるマーティ・ブラウンが監督に就任。戦力補強は、チームのモチベーション低下を懸念して最小限に抑え、先発投手の負担を抑えるため、投手の分業化を図った。キャプテンは野手陣・前田智徳、投手陣・黒田博樹が就任。

開幕戦から4月11日の巨人戦まで、1961年の国鉄スワローズが持っていた7試合連続2得点以内のプロ野球ワースト記録を更新し、9試合連続となった。その後も波に乗れず、黒田博樹以外の先発投手が期待に応えられずに借金を増やし、5位に終わる。

2007年

キャプテンは前年に引き続き、前田と黒田。交流戦までは5月の大型連勝で10以上あった借金を返済し、5割を維持していた。このシーズンからセ・リーグでは初となるプレーオフ制度(クライマックスシリーズ)が導入され、進出を目指したが、交流戦で最下位に沈み優勝争いから脱落。最終順位は前年と同じ5位に終わった。

課題の投手陣では黒田以外にも大竹寛が先発として一定の成績を残したものの3番手以降が続かず、守護神・永川勝浩がたびたび救援失敗するなど中継ぎ陣も安定感を欠いた。チーム防御率もリーグワーストの4.22に終わり、課題を克服することはできなかった。シーズンオフに新井貴浩と黒田博樹がFA宣言。新井は阪神に、黒田は大リーグ・ロサンゼルス・ドジャースに移籍。

投打の柱を失った球団は、思い切った組織改革を行うなど、新たな球団経営に取りかかった。

2008年

苦手の交流戦を13勝11敗として4年目にして初の勝ち越しを記録し、対巨人戦も12勝10敗2分けでこちらも勝ち越しを記録している。若手の台頭などもあり、中日やヤクルトと熾烈な3位争いをしたものの選手層の薄さ、慢性的な戦力不足や経験不足から終盤に息切れし11年連続Bクラス、シーズン成績も7年連続負け越しが確定したが、北京五輪での主力選手離脱による上位チームのもたつきなども幸いして最終的に7年ぶりの4位となった。[27]

延長戦、コールドゲームを除いた試合時間が12球団で最短だったことから、スピードアップ賞をチームで受賞した。

2009年

この年から、広島県を本拠地とするスポーツクラブの連携組織「トップス広島=広島トップスポーツネットワーク」に正式加盟。本拠地も旧・広島市民球場から「MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島(広島市民球場)(通称・マツダスタジアム)」に変更した。

オープン戦の最中に栗原健太WBC参戦に伴い、3月20日にスターティングメンバーを急遽変更した。

シーズン中は投打がかみ合わない試合が多く、低迷状態に陥り、対中日戦では11連敗で球団記録を59年ぶりに更新した。しかし、後半戦ではヤクルトの急失速から阪神・ヤクルトとの三つ巴状態で3位争いを展開し、一時は3位と0.5ゲーム差という僅差であったものの、阪神の粘りやヤクルトの追い上げなどから3位争いから離脱し5位。Aクラス入りという続投条件をクリアできなかったためブラウン監督と再契約せず退任が決定し、ブラウンは楽天の監督へ移籍した。[28]。この年、緒方孝市が現役引退している。ブラウンの後任は野村謙二郎。チーム勝ち頭であったコルビー・ルイスが残留目前から一転して退団。

野村監督時代[編集]

(動画) 広島東洋カープの前田健太
2010年

シーズンに入ると大竹、セットアッパーのマイク・シュルツ、守護神・永川が故障で離脱、4年目の前田健太が最多勝・最優秀防御率・最多奪三振の三冠に輝き孤軍奮闘したが、チーム防御率は前年から1点以上悪化するなど、投手陣が崩壊。また攻撃では梵英心が盗塁王に輝くなどチーム盗塁数はリーグ最多だったが、主砲・栗原が故障で離脱、前年3番の天谷宗一郎や新戦力のジャスティン・ヒューバーなど主力が打撃不振で得点に結びつかず、その結果、対巨人戦で8連敗を含む6勝18敗、対中日戦では昨年に続き11連敗記録するなど8勝16敗、対阪神で9勝15敗と3強に大きく負け越したことが影響し、ヤクルトを含む上位4チームに大きく離され1度も3位争いに加われずに2年連続の5位となった。

2011年

東日本大震災の影響で開幕が当初の3月25日から4月12日に変更となり、開幕直後は不振の前田健に代わり新加入のブライアン・バリントンデニス・サファテに新人の福井優也、打撃では4年目の丸佳浩が活躍し、一時は首位に立つなど2位で交流戦を迎えたが、その交流戦ではリーグワーストの50イニング連続無得点、球団ワーストの4試合連続完封負けと打線が沈黙、交流戦を最下位で終えリーグ順位も5位に急降下、前半戦も5位で終える。後半戦に入ると、7月までわずか3本塁打の栗原が8月だけで9本塁打、25打点と活躍し月間MVPを獲得、チームも当時首位を走っていたヤクルトの急失速もあり、8月終了時点で首位と3.5ゲーム差の3位に浮上した。栗原は9月も好調を維持し、広島の打者として初めて2か月連続で月間MVPを獲得したが、チームはサファテ、豊田清と救援陣の相次ぐ故障離脱などで6勝16敗1分けと大きく負け越しAクラス争いから脱落。10月8日にはBクラスが確定。結果は、3年連続の5位。

2012年

[29]中日との開幕3連戦は2敗1分としたものの、巨人との本拠地での開幕戦では1988年以来の3連勝で、4月6日の対横浜DeNAベイスターズ戦で前田健太がノーヒットノーランを達成するなど投手陣が球団新記録となる39回無失点[30]もあり、4月8日に一時首位に立つものの、その後は失速し4月を11勝11敗の5分とした。4月25日に栗原健太が離脱するなど故障者が続出し、交流戦は10勝11敗3分の6位とし、7月16日に5割復帰するなど、交流戦以降14勝7敗で前半戦を1997年以来の3位で折り返す[31]。8月は5割で3位をキープしたものの、9月に入り15日から25日にかけて8連敗するなど6勝17敗1分と負け越し[32]、9月29日の対阪神戦(甲子園)で敗れた事で、Bクラスが確定している[33]。最終的には首位巨人と26ゲーム、3位ヤクルトとは6.5ゲーム差の4位で終わっている。

2013年

3月、オーナー代行に松田一宏が就任[34]。開幕対巨人3連戦で1分2敗に終わり、前年から続く東京ドームでの連敗記録(引き分けを挟む)を10に更新したのを含め[35]、2008年以来5年ぶりの開幕から4連敗とつまずく[36]。4月13日に、前田健太がナゴヤドームでは2010年開幕戦以来となる勝利を挙げようやく勝率5割に戻すが、同じ試合で5試合連続2桁三振のリーグタイ記録を作るなど[37]必ずしも調子は上向かず、同月18日の試合終了後に2度目の勝率5割となり、翌19日に借金生活に戻って以降、レギュラーシーズン終了まで一度も勝率5割に戻ることはなかった。交流戦は11勝13敗で西武と同率の8位[38]。中日、DeNAとの3位争いとなるが、前半はオールスター直前の試合に敗れ5位で折り返す[39]9月25日の対中日戦(ナゴヤドーム)に2対0で勝利し、16年ぶりのAクラスと球団史上初のクライマックスシリーズ進出が決定[40]、10月3日の対中日戦(マツダ)に3対5で敗れ、12年連続シーズン負け越しとレギュラーシーズン3位が確定した[41]。2位の阪神とのCSファーストステージ(甲子園)は2連勝でファイナルステージ進出を決めた[42]が、巨人とのファイナルステージ(東京ドーム)では3連敗でCS敗退が決定[43]前田智徳菊地原毅が現役引退[44][45]。シーズンオフに大竹寛がFAで巨人に移籍。

チーム成績・記録[編集]

  • リーグ優勝 6回
    • (1975年、1979年、1980年、1984年、1986年、1991年)
  • 日本一 3回
    • (1979年、1980年、1984年)
  • Aクラス 21回
    • (1968年、1975年 - 1976年、1978年 - 1981年、1983年 - 1991年、1994年 - 1997年、2013年)
  • Bクラス 42回
    • (1950年 - 1967年、1969年 - 1974年、1977年、1982年、1992年 - 1993年、1998年 - 2012年)
  • 最下位回数 10回(1950年 - 1951年、1963年、1967年、1969年、1972年 - 1974年、1993年、2005年)
  • 最多勝 75勝(1984年)
  • 最多敗 96敗(1950年)
  • 最多引分 18分(1978年)
  • 最高勝率 .625(1984年)
  • 最低勝率 .299(1950年)
  • 連続Aクラス入り最長記録 9年(1983年 - 1991年)
  • 連続Bクラス最長記録 18年(1950年 - 1967年、南海ホークス・福岡ダイエーホークスに於ける1978年 - 1997年の20年に次ぐ日本プロ野球史上第2位)

その他の記録[編集]

  • 最小ゲーム差 3.0ゲーム(1992年)
  • 最大ゲーム差 59.0ゲーム(1950年)
  • 最多本塁打 205本(1978年)
  • 最少本塁打 29本(1952年)
  • 最高打率 .284(1978年)
  • 最低打率 .213(1956年)
  • 最高防御率 2.62(1959年)
  • 最低防御率 5.20(1950年)
  • 50イニング連続無得点(2011年5月26日、対埼玉西武ライオンズの5回~6月3日、対オリックス・バファローズの6回[46]

歴代本拠地[編集]

球団施設[編集]

  • 広島東洋カープ屋内総合練習場・大野寮(広島県廿日市市宮島口西1丁目) - 屋内練習場・若手選手専用合宿所
  • カープベースボールギャラリー(カルピオ・広島市中区八丁堀)- 入場券販売所・ギャラリー
  • 大州寮(広島市南区大州五丁目)- レギュラー選手専用合宿所
    • 1958年から2011年まで、レギュラー選手用の寮『三省寮』(広島市西区三篠町3丁目)が存在した[47]。老朽化のため大州寮に機能を移し解体。跡地ではMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島用の補修用芝を栽培している。

歴代オーナー[編集]

オーナー
世代 氏名 在任期間 備考
初代 松田恒次 1967年(昭和42年)12月17日[48]-1970年(昭和45年)11月15日[49] 同時期に東洋工業(現・マツダ)社長を兼任
2代目 松田耕平 1970年(昭和45年)11月18日[49]-2002年(平成14年)7月10日[50] 1977年まで東洋工業(現・マツダ)社長を兼任
恒次の息子
3代目 松田元 2002年(平成14年)7月15日[50]- 耕平の長男。
オーナー代行
氏名 在任期間 備考
松田耕平 1967年(昭和42年)12月17日[48]-1970年(昭和45年)11月17日[49]
松田元 1985年(昭和60年)[51]-2002年(平成14年)7月14日[50]
松田一宏 2013年(平成25年)3月25日[34]- 松田元の弟・松田弘広島エフエム放送社長)の長男。

チームの特徴[編集]

  • ニックネームの「カープ」は「」の英語『Carp』に由来。名付け親は政治家谷川昇公職追放指定を受けたため球団経営には参画せず)。このニックネームになった経緯は以下の通り。
    • 広島市を流れる太田川が鯉の産地であること
    • 広島城が鯉城と呼ばれていること、鯉は滝を登る出世魚であること、また当時、太平洋戦争での広島市への原子爆弾投下の後に生まれたチームであることから滝を登る鯉の姿に広島の復興の想いを込めようとしたこと
    • 谷川の発言「文献によると、鯉は諸魚の長となす。形既に愛す可く又神変乃至飛越をよくす、とある。また己斐(こい)〔広島市西区の地名〕は鯉から転化したものであり、にも通ずる」から
    • 当初は「カープス」だったが、Carpは単複同形という指摘を受け「カープ」に改め正式名称とした(ただしチーム名としてCarpを使用する場合には最後にsを付けるのが正しく「カープス」は間違いではない。実際、メジャーリーグでは単複同形のMarlinにsを付けたマイアミ・マーリンズがある)。他のニックネーム候補にはレインボー(虹)、アトムズ(原子)、ブラックベア(黒熊)、ピジョン(鳩)、グリーンズ(緑)などがあった。このうち「グリーンズ」は1954年に結成された二軍の前身チーム(広島グリーンズ)に使用された。また「アトムズ」はその後1966年から1973年サンケイ→ヤクルトが、フジテレビジョンのアニメ鉄腕アトムに由来する名称として採用していた。なお、現在のプロ野球12球団でチーム名が複数形のsのス、ズ、ツで終わらない唯一のチームである。
      • メディアなどで一文字の略称を用いる場合、漢字では「広」、アルファベットでは「C」で表記される[52]。また、一般的な略称は「広島」であって「広島東洋」の略称を使うのはドラフト会議などに限られている。
      • テレビやラジオのプロ野球中継などでは前の球団名である「広島カープ」と呼ばれる事が比較的多い。
  • チームをイメージさせるカラーとしてが知られている。1958年にユニフォームのロゴ・袖口・襟周りに赤い縁取りがなされ、1975年には当時のジョー・ルーツ監督のアイディア[53]で帽子を赤一色に変えたのがその由来で(前述)、1977年以降はホーム用ユニフォームに赤と白を基調としたデザインが用いられている。ただし、球団旗は1967年以来地の中央に白文字で「H」が描かれたシンプルなデザイン(5代目)であり、赤が用いられたのは創設期の「CARP」の文字(1955年まで)と1958年の鯉の絵(3代目)のみである。
  • 資金難もあって監督はチームの生え抜き、すなわち他球団への在籍経験がない選手が昇格することが多いが、球団の黎明期には白石勝巳門前眞佐人といった、他球団から選手として移籍してきた広島県出身者を中心とした選手が(選手兼任で、あるいは引退後に)監督をつとめることもあった。広島初の生え抜き監督は球団創設16年目に中途就任した長谷川良平で、当時35歳だった。基本的に広島の監督・コーチは生え抜きか、外様でも広島での選手経験者を優先し、純粋な外様(広島での選手経験無し)は少ないが[54]2001年には松原誠(1軍チーフ兼打撃コーチ)が、2012年オフには新井宏昌(1軍打撃コーチ)が純粋な外様として入団している。
  • 他球団が外国人選手を採用しても、平山智らのような日系人や、形式的に外国人登録がなされた場合でも日本人選手と同様に扱われていた在日コリアンの他は、外国人選手を長らく採用しなかったが、1972年にMLB・アメリカンリーグでMVPに輝いたことのあるソイロ・ベルサイエスが日系以外の外国人選手として初めて入団した。その後も、リッチー・シェーンゲイル・ホプキンスジム・ライトルマイク・デュプリールイス・ロペスエディ・ディアスネイサン・ミンチーアンディ・シーツコルビー・ルイスといった外国人選手が顕著な活躍を残している。しかしカープ在籍中に活躍したにも関わらずシーズンオフに年俸などの待遇で契約交渉が纏まらず、外国人選手が他球団に移籍する事例が後を絶たない。近年ではネイサン・ミンチー(2001年にロッテに移籍)が代表例である。また、戦力外になった選手の移籍後の活躍も近年目立ち、アンディ・シーツ(2005年に阪神に移籍)トム・デイビー(2006年にオリックスに移籍)グレッグ・ラロッカ(2006年にヤクルトに移籍→オリックス)などの例が見られる。
  • 1963年春から、宮崎県日南市で春・秋キャンプを行っているが、1966年日南市が巨人からキャンプのオファーを受けたこともあり、巨人キャンプ誘致を検討されたことがあった。しかし地元協力者などの請願により白紙撤回され、現在に至るまで40年以上、日南市は広島のキャンプ地として知られる。(日南市天福球場の項も参照)
  • 現存する日本プロ野球チームの中で、一度たりとも正式に企業の傘下に入らず独立採算制を貫く唯一の市民球団である。このため資金が豊富ではないこともあって、フリーエージェント (FA) 制度やドラフト希望枠での選手の獲得の活用には消極的(あるいは否定的)である。現在まで他球団のFA宣言選手の獲得も行っておらず、2005年までは所属選手のFA宣言をしての残留(一般的には再契約金が発生する)も認めていなかったが、2006年以降はFA宣言選手の残留も認め、希望枠選手の獲得も行っている。FAに関しては2006年に資格を取得した黒田博樹に対して球団として初めて宣言後の残留交渉を行うこととしていたが、結果的にその年は黒田は宣言せず、複数年契約(後述)を結んだ。2007年は阪神にFAで移籍した新井貴浩の人的補償として赤松真人を獲得した。希望枠選手の獲得は2006年の社会人・大学生ドラフトでの宮崎充登がある。また、2008年オフに相川亮二がFA宣言し横浜からヤクルトに移籍したことにより、セリーグでは唯一FA宣言した選手を獲得したことのないチームとなった。
  • 合宿所は一軍と二軍それぞれに設けている。以前は広島市内の三篠寮1ヶ所だけだったが施設の老朽化が進んだことから、1984年以後佐伯郡大野町(現廿日市市)にある「大野屋内練習所」(カーサ・デ・カルピオ〔Casa di CARPIO〕、イタリア語で「カープの館」の意味)の敷地内に二軍の合宿所を建設。三篠寮は一軍選手専用となった。
  • その後、三篠寮の老朽化がさらに著しくなったことから、2011年に閉鎖・解体され、1軍選手の寮はマツダスタジアムに近い南区の大州寮に移設され、三篠寮跡はマツダスタジアムの芝生補充のための養生用地となった。
  • 8月6日の広島原爆忌当日、仮に広島の主催試合が編成された場合は広島市民球場は使用せず、岡山県倉敷スポーツ公園野球場(マスカットスタジアム)、福山市民球場などで行う。これは球場を保有している広島市が、8月6日を原爆記念日として休日となっているためで、2009年に開場したマツダスタジアムも同様。初代広島市民球場最終年となる2008年には8月6日に試合を行う方向で検討もされたが、実現しなかった。2011年、53年ぶりに本拠地(マツダスタジアム)で開催された。2013年も対阪神戦を開催した。
  • かつては他球団に比べ地方球場での主催試合が多かった。上記の倉敷、福山以外にも、尾道しまなみ球場米子市民球場松山中央公園野球場(坊っちゃんスタジアム)等、中国・四国地方の球場で主催ゲームが開催される。なお2005年、松山では主催試合を開催していないが、ビジターでヤクルトと阪神のそれぞれ主催で2連戦ずつが編成されている。またビジター球団が地域保護権を有する自治体に程近い地域や、ビジター球団のファンが多い地域で主催試合を行うケースも多く、1989年には群馬県前橋市群馬県立敷島公園野球場新潟県新潟市鳥屋野運動公園野球場で対ヤクルト戦を、1990年から1997年にかけては岐阜市長良川球場で対中日戦を開催しており、更に近年は北陸地方福井県営球場石川県立野球場富山市民球場アルペンスタジアムハードオフ・エコスタジアム新潟)で対阪神戦を開催している。また他球団の地方主催試合の相手となることも多かった。
    • 但し近年は交流戦の影響や新本拠地の開場もあってか、地方試合は年々減少傾向にある(2003年頃までは地方での試合が大体10-13試合程度あったものの、2010年は4試合、2013年度は僅か2試合にまで減りセ・リーグで最小の開催数となっている)。詳細は広島東洋カープ主催試合の地方球場一覧を参照の事。
  • 1980年代後半から1990年代前半は、地方開催主催ゲームでもとりわけ東北地方への遠征が多く、5月から7月にかけての週末にはよく東北各地の野球場(福島県営あづま球場宮城球場岩手県営野球場秋田市八橋運動公園硬式野球場など)でデーゲームを開催していた。バブル経済全盛期には二軍の拠点を広島とは別途に、関東や東北に設置する構想もあった。
  • 新規竣工、もしくは大規模改修が竣工した地方球場で主催試合を開催するケースも多い。広島県内では1993年呉市二河野球場で改修後初のプロ公式戦を開催した他、2009年には竣工したばかりのみよし運動公園野球場(三次きんさいスタジアム)で「球場開き」を飾っている。また県外の地方主催公式戦でも同様のケースが多く、2003年には秋田県立野球場(こまちスタジアム)で、2009年にはハードオフエコスタジアム新潟でそれぞれ球場開きを飾った他、2000年には長野オリンピックスタジアムで同スタジアム初のセ・リーグ公式戦を開催している。
  • 1995年から2005年まで、広島市民球場でのナイターの試合開始時間は18時20分だった。これは広島市日照時間が日本一長いための措置。1994年以前は18時試合開始としたこともあったが、特に日没が遅い夏場に球場の外野・レフト側から西日が差し込み、試合運営、特に外野手の守備の面で支障をきたすという理由から18時20分にしたという経緯がある。しかし、対戦カードの集客力と遠方のファンの観戦に柔軟に対応する、更には球場周辺の滞在時間増加を見込む等の方針見直しに伴い、2006年よりナイター全試合を18時試合開始に変更している。一部試合(土曜・日曜・祝日など)は薄暮試合という処置を取り、15時から試合を行う。
  • 市民球団として早くから広島地域に根付いた活動をしていたことから私設応援団が多数存在していたため、公式ファンクラブが結成されたのは2007年からと12球団で最後の結成となっている。
  • 2010年までは三軍という区分けを公式に用いている唯一のNPBチームで、三軍担当のコーチも配属されている。三軍には主に故障した選手が属する。なお、2011年からは福岡ソフトバンクホークスも3軍を立ち上げ、読売ジャイアンツ阪神タイガースも公に「3軍」とは表示していないが、事実上の3軍が試合(社会人野球独立リーグチーム)などを通して実践感を養うための活動をしている。
  • 2012年6月21日にテレビ朝日系『アメトーーク!』で「広島カープ芸人」が放送され[55]、深夜枠ながら高視聴率を記録し大きな反響を呼んだ[56]。以降マスメディアで取り上げられる機会が増えて、カープの特集本が多数刊行された[57]

マスコット[編集]

球団マスコットは以下の2人。詳細はその項を参照。

なお、球団創立からカープ坊やデビューまでは、丸に鯉のペットマークを使用。当時のジャンパーにワッペンが張りつけられていた。また、1989年には、当時広島県内で開催された海と島の博覧会の公式マスコットのアビ丸広島市民球場での「ホームランガール」として起用した。

ユニフォームの変遷[編集]

  • 1950年 - 1952年 創設期はシールズやヤンキースを参考にしたユニフォームがあったが、球団の資金難などから1年で廃止された。その後ビジター用のグレーは1952年まで使用。
  • 1952年 - 1953年 大下回春堂から資金援助を受けるため、左袖にフマキラーのロゴが登場。創設期からユニフォームは紺色をチームカラーとしていた。
  • 1954年 - 1957年 フィリピン遠征を機にユニフォームが一新。ビジター用を南十字星がイメージし、「Hiroshima」の「i」の字の上部を「☆」にしている。帽子のマークに現在のデザインに似た「C」を採用。
  • 1958年 - 1962年 当時のボストン・レッドソックスを参考にしたユニフォームが登場。この時初めて胸文字及びラインに「赤」が取り入れられる。帽子マークは小文字の「c」と「h」を並べたデザインに変更。1960年にはビジター用がモデルチェンジされ、ドジャース型となり、この時初めて、現在使用されている筆記体ロゴの原型が登場する。(スペルはHirosima)。また、胸番号も登場。
  • 1963年 - 1972年 白石勝巳監督就任時より、やや緑のかかった紺色一色になり、首、袖、ベルトループに紺色のラインが入る。帽子のマークは「HIROSHIMA」のHマークになる。日本のプロ野球チームで自治体の名前を入れた唯一の例ともいわれた[58]。Hマークは現在の球団旗にも使われている。
    • ビジター用はグレー地で、胸ロゴは花文字書体のHIROSHIMA。胸番号は無く、左袖に番号が付く。
      • 1968年より、根本陸夫監督就任に伴い、袖、ベルトループのラインが太くなり、ビジター用の番号が袖から右胸につく。この年から「広島東洋カープ」と名称変更したことにより、ビジター用の右袖に東洋工業(現:マツダ)の「TOYO」の文字が入る。
      • 1971年より、袖、首、パンツ、ベルトループの紺ラインをオレンジで挟むラインとなり、胸ロゴ(ホーム用のCARP、ビジター用のHIROSHIMA)、背番号、胸番号、袖襟・ズボンのラインが紺にオレンジの縁取り、帽子のHマークがオレンジになる。また、ビジターの胸番号がホーム同様左側に統一される。
  • 1973年 - 1974年 別当薫監督就任に伴い、ニット素材の特徴を生かした丸首のベルトレスのユニフォームとなり、プルオーバーとなる。背番号、胸ロゴ、胸番号が赤の縁取り、袖と首周りに紺と赤のツートンライン、ストッキングに赤の2本ラインが入り、帽子のマークがHから、シンシナティ・レッズと同じ形状のC(赤に白の縁取り)に変わる。
    • ビジター用は、ブルーグレー地になり、1960年 - 1963年にかけて使用されていた筆記体ロゴが「Hiroshima」にスペルを変更の上で復活する。
  • 1975年 - 1976年 ジョー・ルーツ監督就任に伴い、帽子の色が赤に、Cマークが紺に白の縁取りとなる。さらに首周りがVネックとなる。また、ズボンの縦ラインが紺・赤・紺のストライプから赤・紺・赤のストライプに変更。
  • 1977年 - 1988年 背番号、胸ロゴ、胸文字、アンダーシャツ、ストッキングが赤一色になり、カープ=が完全に定着する。袖、腰ラインの紺と赤とが逆転し、外側に移動した袖の紺ラインが細くなる。また、スパイクが白地に赤のラインとなる。
    • ビジター用は、ブルーグレーから鮮やかなスカイブルー地になり、胸ロゴ、背番号、胸番号が光る素材のものになる。スパイクもスカイブルー地に赤のラインとなる。
      • 1978年より、背番号の上に選手名が入る、
      • 1988年のみ、ベルトレスからベルト式になる。
        • このデザインは12年の長きに渡り使用され、1979年1980年1984年の3度の日本一(1986年はリーグ優勝)を果たした。ちなみにビジターユニフォームは広島刑務所に寄贈され、受刑者がソフトボール大会で着用していた[59]
  • 1989年 - 1995年 山本浩二監督就任に伴い、ユニフォームを一新。当時のシンシナティ・レッズを意識したデザインになる。左胸にCマークとCARPのロゴ、胸番号は右腹部。袖には赤の2本ライン、左袖に「HIROSHIMA」のロゴが入る。球団創設時から定着していた紺色が消え、赤のみになる。帽子のCマークが白一色になり、シンシナティ・レッズと全く同じデザインとなる。
    • ビジター用は上下グレー。ホーム、ビジター共スパイクも白地に赤ラインとなる。プルオーバーから現在のボタン式(但し、第3ボタンまでがボタン脱着式で、あとは飾りボタン)に変更される。
    • なお1994年のみ、左袖に同年広島で開催されたアジア大会広島大会をPRするマークが入る。
  • 1996年 - 2001年 胸ロゴが正面に、胸番号が左胸に戻る。赤の前立てラインがつき、袖のラインが消え、パンツのラインが赤の細ラインになる。
    • ホーム用は、「CARP」の花文字が復活。
    • ビジター用は、「HIROSHIMA」(1963年 - 1972年使用)のロゴが復活する。1999年のみ、左袖に球団創設50周年のマークが入る。
    • この時代のユニフォームの背番号のサイズはホーム、ビジター共にそれまでのものより若干大きめだった。
  • 2002年 - 2008年 球団創設期に使われていた縦縞を復活。ロゴを桜文字からホーム用は筆記体デザインに、ビジター用はブロック体に変更。またビジター用では、左投げの選手には右袖に、右投げの選手には左袖にカープのロゴ(炎のボールマーク)が入る。
  • この時のビジターユニフォームは両袖の部分が赤色でアナハイム・エンゼルス(当時)に似たデザインで一見ノースリーブのように見えるデザインだった。
    • 2005年からホーム用のみ、袖とヘルメットにスポンサー・マツダの広告が入るようになった。同年からスパイクの色が赤地に白ラインとなる。
    • 2006年、ブラウン監督の発案により、投手および野手のキャプテン選手(野手陣・前田智徳、投手陣・黒田博樹)の右袖に黄色の「C」が入る。
    • 2007年より、ビジター用ユニフォームの胸ロゴが70 - 80年代に使われた「Hiroshima」の筆記体書体になる。また炎のボールマークからキャッチフレーズのALL-INのロゴに変わってそれが入る。
  • 2009年 - 本拠地のマツダスタジアム移転に伴い、ユニフォームを一新。縦縞が消え、創設時より採用されていた紺色が21年ぶりに復活する。帽子のCマークに紺色の縁取りが入り、パンツには赤と紺の細いラインが入る。
    • ホーム用は上下白を基調とし、赤い胸ロゴ、背番号、胸番号に紺の縁取り、袖に赤と紺の細いライン、左袖に「Hiroshima」の赤い筆記体ロゴに紺の縁取りが入る。
    • ビジター用は上着が赤、パンツは白。チーム史上初めてツートンカラーを採用。上着に紺の前立てライン、胸には「Hiroshima」の白いロゴに紺の縁取り、袖に紺の細いライン、左袖に「Carp」ロゴ、背番号と胸番号は白に紺の縁取りが入る。
    • 2013年公式戦よりヘルメットに、マツダが日本ペイントと共同開発した自動車塗装色「ソウルレッドプレミアムメタリック」をイメージした特別な赤色を採用[60]

スパイク[編集]

  • かつては全12球団で唯一、公式戦での球団指定メーカー(ミズノアシックスエスエスケイ)以外のスパイクの使用が認められていなかった。これには選手より以前から各自の契約メーカーの使用許可の要望が寄せられていた。近年はゼットアンダーアーマー製スパイク着用選手も登場していることから、元来の規制が緩和されている模様である。

期間限定ユニフォーム[編集]

復刻ユニフォーム[編集]

  • 2008年9月23〜25日の3日間の対巨人戦で、1977〜1988年のホーム用の復刻モデルを使用。背ネーム付・カバー付ベルト仕様の1988年モデルを採用。但し、ヘルメットは通常デザインのものを使用。
  • 2010年8月に行われたセ・リーグ主催の「オールド・ユニフォーム・シリーズ」では1989〜1995年のホーム用の復刻モデルを使用。
  • 2011年8月23〜25日の対横浜戦と同月26〜28日の対巨人戦で、1977〜1988年のビジター用の復刻モデルを使用し、カバー付ベルト仕様の1988年のビジター用の復刻モデルを使用。2008年と異なりヘルメットも当時のものを復刻。
  • 2012年8〜9月に行われたセ・リーグ主催の「レジェンド・ユニフォーム・シリーズ」では球団史上初のリーグ優勝を飾った1975年のビジター用の復刻モデルを使用[61]

※但し、復刻版にはユニフォームの袖やヘルメットに「MAZDA」の広告が張り付けられている。

その他[編集]

  • 2013年、「デニムデザインユニフォーム」を発表。ユニホーム上下及び帽子にデニム柄を採用。デニムのさわやかなブルーに、チームカラーである「赤」のステッチを施しアクセントにすることで、強さと勝利への執念を表現。8月23日からのヤクルト3連戦(マツダスタジアム)で着用する[62]。背ネームはオミットされている。但し、ヘルメットは通常デザインのものを使用。

ユニフォームのスポンサー[編集]

  • 球団の歴史ユニフォームの変遷の節にもあるように、1952年から1953年の2年間はユニフォームの左袖部分にフマキラーのロゴマークが入っていた。
  • 2005年から、ヘルメット、ユニフォーム袖にマツダがホームゲーム限定のスポンサーとなる[63]。ヘルメットはマツダ製の自動車のブランドロゴを入れる。(マツダの新型車発売と連動して広告の車種が変更される)
    • この関係で、2009年に加入した異競技連携組織「トップス広島」のロゴマークを掲示するスペースがない。(他競技のチームはロゴを掲出している)

球団旗の変遷[編集]

  • 1950年 - 1955年:白地に12本の青ストライプと赤文字でCarpの文字。
  • 1956年 - 1957年:白地に3本の横青ストライプと青文字で大きなCの中にCarpのロゴ。
  • 1958年:紫地に白文字でCARP。Cの部分に鯉のイラストが覆い被さるデザイン。
  • 1959年 - 1966年:白地と紫地を斜めで分け、前のデザインの鯉のイラストを大きなピンク色のCの文字で再現。
  • 1967年 - :紺色地に白文字でH。

歴代監督[編集]

太字は優勝達成監督

※1 ここから広島東洋カープ
※2 1972年は6月30日まで指揮、残り試合は森永勝也が代行
※3 1975年は4月30日まで指揮、5月3日までは野崎泰一が代行
※4 1999年から2000年の登録名は達川晃豊

永久欠番[編集]

永久預かり[編集]

カープでは永久欠番に準ずる制度として、前任者が推薦する選手が出て来るまではその番号を空き番とする「永久預かり」制度を導入している。この制度が適用されたのは以下の通り(カッコ内は空き番だった期間)。

下記の記述は現在使用者が不在の番号

  • 1(2014年 - )前任者は前田智徳。 引退時、背番号1の後継者はいるかと尋ねられ、「しばらくはこの背番号を休ませてやってほしい」と語った。
  • 15(2008年 - ) 前任者は黒田博樹

キーワード[編集]

経営事情[編集]

カープは当初、広島県、広島市、呉市中国新聞社日本専売公社(広島市に主力工場があった)、広島電鉄東洋工業などの広島政財界の出資で設立された。運営資金が極めて少なく、1951年には早くも解散ないしは当時同じ中国地方の山口県下関市を本拠地としていた大洋ホエールズとの合併が検討されたが市民の猛反対に遭っている(「#8人の侍」参照)。この経験から「樽募金」と呼ばれる、ファンによる運営資金募集活動が起り1960年代まで続いた。

また、1965年には近鉄バファローズとの合併計画が非公式に持たれ、仮に合併した場合は形式上カープが存続球団とする形で運営することが検討されていたが、カープの松田恒次オーナーがそれを拒んでいる。それについては当該項の記事を参照。

1960年代後半、東洋工業は創業家の松田家と共同で運営会社を全面買収したが、これには出資者間の主導権争いを収拾しチームの運営を安定させる意図があったといわれ、東洋工業はあくまでもスポンサーの立場にとどまり球団経営への介入を控えた。これは1970年代後半に松田家がマツダの経営から離れ、さらにマツダがフォード・モーター傘下に入った1980年代以降も変わっていない。実質的にオーナー会社ではなくなった現在でも、チーム運営に多大な貢献があったことを称え[要出典]、チーム名にマツダの旧社名が由来の「東洋」を現在も残している。

現在もマツダは筆頭株主として球団株式の34.2%(22万1616株)を保有しており[64]、運営会社はマツダグループに名を連ねている。またカープ選手のユニフォームの右袖やヘルメット、更にMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島のチケットにマツダの広告が出され、さらに2013年からは新型マツダ・アテンザに採用された新色「ソウルレッドプレミアムメタリック」がヘルメットカラーに採用されるなど両社の関係は深い。

官報」に掲載される各株式会社の決算公告によれば、広島市民球場 (初代)を本拠地としていた時代から球団の株主資本(=自己資本)は23億円程度、自己資本比率は常に50%前後であり、民間の情報調査会社による格付けに於いて「放映権料の減少から売上高は落ち込んでいるが、資本構成は充実、無借金経営を続けている」とAランクに評価されていた[65]。自己資本比率はプロ野球興行団体という特殊性はあるものの、資本金1億円~10億円の日本全国における営利法人の平均値である37.9%を大きく上回っており、球団負債額は約24億円で毎年一定している[66][67]

また2011年末時点での自己資本比率(57%)、資産額(58億円)、株主資本(=自己資本)(33億円)という数値は読売ジャイアンツ中日ドラゴンズ(この2球団は決算公告を未公表)を除くプロ野球10球団中、右からそれぞれ4位、3位、4位である[68]

またプロ野球12球団中、一度も選手年俸総額が20億円に到達したことがなく、年俸総額順位は2007年の10位を除き常に11位以下である[69]

これは、1993年オフに導入されたFA(フリーエージェント)制度[2]、そしてドラフトにおける希望入団枠制度の導入により、カープにおいては、1989年には8億円であった選手年俸総額が1997年には16億円と8年間で2倍に急騰、2002年には17億8900万円に達したものの、2003年以降はドラフトで獲得した選手の伸び悩み、江藤智金本知憲アンディ・シーツグレッグ・ラロッカと相次いだ主力打者の流出もあったため球団成績は低迷、結果として年俸総額が徐々に低下したことによる。ただしマツダスタジアムが完成した2009年以降は外国人選手を多数獲得してきた影響もあって、徐々にではあるが年俸総額が高騰している。[70][71]

このように、経営状態そのものは親会社の資金援助なしでは莫大な赤字を出すことが常態である日本のプロ野球球団の中では良好であり、1975年から2014年まで39期連続で黒字決算となっている。特に2009年度は新球場効果(入場料収入48億円(前年比20億円増)、グッズ販売20億円(同10億円増)、飲食収入20億円(同13億円増))もあり、当期売上高が初の100億円超えとなる117億円余と過去最高を記録した[72]

球団経営は堅実で安定しているものの、高額年俸を必要とするFA権所得選手獲得に向かわない理由について、松田元オーナーは「中国新聞」のインタビューで「長い間、勝てていないからファンに不満がたまっているのも分かる。しかし、しっかりと選手を育てるという方針を支持してくれる部分もあるはずだ。やはりカープは愚直なまでに選手を育成し、チームを作っていく。」「なんぼでも銭を積んで、(FAで)選手を獲得するような「らしく」ないことはしない。だからこそ、負けに大きな憎しみがある半面、勝った時の大きな愛情も生まれてくる。そういう面もカープの一つの魅力ではないか」と答えている。[73]

また、新球場元年の2009年における売上高117億円に対する黒字額は僅か4億円にとどまったことについて広島市民球場運営協議会において問われた松田オーナーは「警備コストや試合経費が相当かかっており、マツダスタジアムに投資した費用(22億円)を前倒しで償却した」と回答している。[74]

このように近年は新球場(マツダスタジアム)移転に伴う費用(2009年:球場内の球団専用施設に22億円、2014年:球場横の屋内練習場建設に16億円出資)、2軍寮・練習場の整備(食堂の改修、人工芝敷設)、2010年の1軍寮の建設(2億円)、2014年の2軍選手送迎バスの更新(5,000万円)等、これまでに老朽化した設備を一斉更新する必要があり、さらにマツダスタジアムの改修に2013年は1億円、2014年には1億4,400万円を投資しているため[75]、高額年俸選手の獲得には消極的である。

なお、広島エフエム放送の代表取締役は松田オーナーの実弟である松田弘氏であるが筆頭株主はカープ球団である。更に松田オーナーは広島テレビ放送の取締役も務めている。そして2011年からは山本治朗中国新聞会長が球団取締役に就任するなど、球団と地元メディアとの結びつきは強い。[65]

FA宣言選手への対応[編集]

1993年に日本プロ野球でもFA制度が導入されたが、導入当初の広島はFA権の行使後の残留(FA残留)は一切認めず、また他球団のFA宣言選手の獲得も見送っていた。これは、FA権を行使した選手の年俸および契約金が翌年以降の活躍如何に拘わらず高騰してしまうリスクがあるためであり、資金力に乏しい広島の経営を圧迫する危険性があるからである。また、松田耕平前オーナーの『球団は家族。選手は子供。両天秤にかけて家族を選ぶ子供が居るだろうか』というチーム観が遺訓として残っているという事もある。浅井樹(当時選手会長)や金本知憲などのベテラン選手はFA残留を認めるように球団と再三交渉をしてきたが、結局認められず、行使した金本は残留の選択肢がないため阪神へ移籍した。

そんな中、2006年にFA権を取得したエースの黒田博樹がFA宣言を示唆する発言をした(他球団の評価を聞くにはFA権の行使が必要である)。投手陣が弱体化している球団にとって、唯一安定成績の投手である黒田の流出はチームの死活問題となるので、今回ばかりは一転してFA残留を認める方針を掲げた。黒田はこの年は行使せず残留となったが、翌年2007年にロサンゼルス・ドジャーズに結局FA移籍となる。しかしこれを境に球団はFA残留においても認める方針に変わりつつある。まだ実例はないが、2007年の新井貴浩、2008年の東出輝裕がFA権を取得した際、球団はそれぞれの選手のFA残留を認める方針であった事を明らかにしている(新井はFA移籍で阪神へ、東出は行使せず残留)。

また、他球団のFA宣言選手の獲得においても、2009年に日本ハムからFA宣言した藤井秀悟について調査し[76]、2010年に横浜からFA宣言した内川聖一の獲得に参入していた。しかし、いずれも他球団へ入団したため(藤井は巨人、内川はソフトバンク)未だに獲得の実例はなく、2008年東京ヤクルトスワローズ東北楽天ゴールデンイーグルスが球団史上初めてFA選手を獲得したことにより、広島は消滅した大阪近鉄バファローズを含むセ・パ13球団の中で唯一のFA選手獲得経験のない球団となっている。

8人の侍[編集]

1951年開幕前、セ・リーグ内で「広島カープ解散」の案が浮上。広島球団の経営が選手の月給すら定期に払えない限界状態に達していること、補強策が整っておらず前年同様に最下位が決定的であること、それらの問題を抱えたカープがセ・リーグの評判を落としかねないこと、が主な理由だった。議案は同年3月16日に開かれるセ・リーグ理事会で可決の見通しまで立っていた。当時下関に本拠地を置いていた大洋ホエールズとの合併か、それとも解散かという瀬戸際の中、広島球団はあらゆる企業に出資の伺いを立てるが実らなかった。

3月13日NHK広島放送局が「カープ解散」を報じた。解散の報を聞いたカープファン8人が自然発生的に集い、白石勝巳ら主力選手のサインや「必勝広島カープ」のメッセージが記されたバットを手に県庁、市役所、広島電鉄、商工会議所、中国新聞社へ乗り込みカープへの支援交渉を行った。この8人の名も無きファンの行動によりカープが市民から如何に愛されているかが示され、多くの広島の企業、広島市民・県民から援助を受けることとなった。広く援助を呼びかけるために球場前には樽が置かれた。この「樽募金」などに代表される支援で経営は多少の改善を見せ、球団合併・解散危機は回避された。

疑惑の本塁打[編集]

1953年4月1日、尾道西高校(現・尾道商高)の校庭で開かれた大洋松竹ロビンス戦で、広島・白石勝巳選手の放った打球が右中間に飛び込むホームランとなったが、このプレーをめぐり洋松・小西得郎監督が異を唱えた。この試合の会場はフェンスがなく、客席とグラウンドはロープだけで仕切られた状態にあった。その為「広島を勝たせてやりたい、広島の選手に得点を与えたい」といったファンの欲望から「ロープをわざと前に押し出したのではないか」と猛抗議をした。

当時公式戦を開催できる基準の会場が広島県内には少なかったため、学校や企業のグラウンドを会場にした試合は珍しくなかった。福山三菱電機グラウンドや大竹警察学校グラウンドでの開催もある。

そのわずか11日後の4月12日、今度は広島総合球場を舞台にした同じカードで、広島の選手のホームランをめぐってファンがグラウンドに乱入し、小西監督と審判に暴行を加えるハプニングがあった。

沖縄県出身初のプロ野球選手[編集]

1964年入団の安仁屋宗八投手は、当時アメリカの占領下にあった沖縄県出身で沖縄高校(現、沖縄尚学高校)、琉球煙草を経てカープに入団、沖縄県初のプロ野球選手となった。その年は3勝しか上げられなかったが、その後入団する外木場義郎とともにカープを代表するエース投手として活躍し、通算119勝124敗の成績を残した。1975年阪神タイガースに移籍したため、カープのチーム初優勝は敵チームとして見守る形となったが、1980年に復帰し、チーム初の連覇・日本一連覇のメンバーとなった。2005年には投手コーチとして復帰、白い顎髭をたくわえたサンタクロースのような風貌に加え、チームのユニフォームカラーが赤と白だったので「安仁屋サンタ」とも呼ばれて注目が集まった。厳しい走り込み、投げ込みを欠かさない、などの『安仁屋流』を確立するも、投手王国復活はならず、その年限りで退団となった。

「カープを優勝させる会」[編集]

1966年東京都に在住する広島県人の著名人有志が「カープを優勝させる会」という団体を発足させた。発起人は東京で趣味の雑誌「酒」を編集・発行していた広島県出身の作家佐々木久子だった。この発足に梶山季之石本美由起新藤兼人藤原弘達木村功杉村春子森下洋子ら広島出身者と広島やカープ選手にゆかりのある灰田勝彦富永一朗、その他、アンチ巨人で有名だった大宅壮一や梶山の飲み友達だった田辺茂一らが参加した。佐々木によると東京は巨人のファンだらけでうんざりしていて、しかも当時の広島も最下位か5位が当たり前、よくてBクラスの勝ち越しと予想されるほど弱かったため、「西から太陽が昇ることがあってもカープが優勝するどころかAクラスに入ることなんか絶対にねぇっ!!」と馬鹿にされていた。「このままでは東京コンプレックスがひどくなる。それを跳ね除けるには郷土の花たるカープを優勝させるべく応援しようではないか!」と立ち上げたのだそうである。しかし発足させたのはいいが2年後(1968年)に初のAクラス(3位)に浮上したのが精一杯で、佐々木の「カープが優勝、巨人は最下位」という叫びは痛々しく聞こえていた。しかし1975年チームが初のセントラル・リーグ優勝、しかも巨人初の最下位も実現するというおまけつきで、そればかりか優勝が決定したのは巨人の本拠地・後楽園だった。

こうして「カープを優勝させる会」は1975年に解散したが、とたんに以前ほどではないが低迷。これではいけないと佐々木は「再びカープを優勝させる会」を1978年に発足。するとチームは1979年に初の日本一、翌1980年には巨人以外ではセ・リーグ初となる2年連続日本一を達成した。 しかし、90年代後半から続いている広島のふがいない成績や戦いぶりに「もう一度この会を復活させよう」という声が上がっている。[要出典]

日本シリーズMVPの自動車[編集]

カープは過去に1979、80、84年の3回、日本シリーズに優勝している。通常は日本シリーズの最優秀選手にはトヨタ自動車から自動車が贈呈されるが、この3回はそれぞれ最優秀選手になった高橋慶彦、ライトル、長嶋清幸の各選手には球団のスポンサー企業であるマツダからの自動車が贈呈された。

ただし、カープが敗れた1975、86、91年のMVP選手(75:阪急 86,91:西武)には通常と同じくトヨタ自動車製の車がプレゼントされている。

なお、マツダはその後NPBオフィシャルスポンサーとなったが、2007年以後日本シリーズ最優秀選手に対する自動車の贈呈は中止された。

日本球界初のアカデミー[編集]

アメリカMLBでは、各チームが将来有望な選手を育成するための研修組織としてドミニカ共和国ベネズエラにアカデミーを開設しており、毎年夏期にはそれらの対抗戦「サマーリーグ」が開催されているほど野球熱が高い。(マイナーリーグ・その他の項参照)

日本ではそれまで下部組織は国内の二軍だけだったが、チームがMLBなどで活躍する一線級の選手を獲得することでの予算の問題、また純国産打線での戦力低下などによる数々の難点を危惧したことを受けて、上記MLBのアカデミー制度に注目。1990年に日本球界史上初のアカデミー、カープアカデミーをドミニカ共和国に開設し、「開設5年後をメドに日本に送り出す」ことを目標とした。その結果1995年にチェコ投手がアカデミー出身選手初の現役選手登録を果たした。その後もペレスソリアーノペルドモらが同アカデミーから来日し公式戦でプレーした。この他、公式戦出場はなかったものの、1992年に同アカデミー出身の選手が支配下登録されている。

背番号0の男[編集]

1983年、長嶋清幸背番号0で公式戦に出場した。背番号0は戦後初期の頃に公式戦に出場しないブルペンキャッチャー等がそれをつけた事例があったが、公式戦出場者では日本プロ野球史上初のことだった。この長嶋が全試合出場を果たし、一躍レギュラーとなったことから背番号0は他球団にも広まっていった[77]

クモ男[編集]

1990年5月12日の対巨人7回戦(広島市民球場)。6回表の巨人の攻撃が始まろうとした19時20分、黄色の風呂敷で頭と顔を包み、黄色の忍者のような服装、背中にリュックサック、足に黒色の地下足袋を履いた男が出現。一塁側ダグアウト付近からバックネットの頂上までよじ登り、リュックサックから垂れ幕を取り出しネットに掛けて広げた。向かって右から「巨人ハ永遠ニ不ケツデス!」「ファンヲアザムクナ!」「天誅!悪ハ必ヅ滅ビル!」。この他にもう1本、「カープハ永久ニ不滅デス」と書いてあったと言われるものがあったが、リュックから取り出す際にグラウンドに落としたため掲げられなかった。垂れ幕をネットに掛け終えると、三塁側巨人ダグアウトに顔を向け何事かを怒鳴った。更にネット上で3本の発煙筒を焚き、煙玉とオモチャの手裏剣を投げた。

約9分後に男は降りて来たが、飛び降りた際に足を骨折、そのまま待ち構えていた警察官によって威力業務妨害の現行犯で逮捕された。男は東広島市に住む39歳の農業経営者で、この日の中継はNHKで19時20分から始まっており、中継開始時刻を計算しての行動だった。当時監督だった山本浩二はこの一件について「バカなことをするわな!!」と吐き捨てた。翌日の新聞では記事に垂れ幕の写真が掲載されたが、読売新聞は垂れ幕の写真を掲載しなかった。ちなみにクモ男は威力業務妨害罪で略式起訴され、罰金20万円の刑事処分をうけた。

この男は2001年頃のテレビ番組「あの人は今!?」で取材を受けた際、「今はメジャーリーグに興味が移った」という旨の発言をしている。2007年4月5日の対横浜戦におけるRCCインターネットラジオ内で、解説の安仁屋宗八は広島市民球場開設50年の想い出を聞かれ、最初にこの事件を挙げた。後に、この男と居酒屋で飲んでいたことも語った。

なお、2009年5月16日の対巨人8回戦(マツダスタジアム)でも、作務衣姿の男が5回裏終了後のグラウンド整備中に三塁側ベンチ横のバックネットによじ上る事件が起きた。男は5mほど登って観客に手を振ったあと、球場係員に注意されて自席に戻ったため不問とされた。試合にも影響はなかったが、スポーツ紙はこれを「19年ぶりにクモ男が出現」と報じた[78][79]

ベースボールドッグ[編集]

ファンサービスの一環として2005年3月12日に広島市民球場で行われたソフトバンクとのオープン戦で、日本球界初の試みとして審判にボールを渡す役目であるボールボーイならぬボールドッグを雄のゴールデン・レトリバーのミッキーが務めた。3回裏と5回裏終了後にボールが3個入ったカゴを口にくわえて登場したが、ボールを3つ全て渡さずに1個残したまま持ち帰ったり、ボールを審判ではなく捕手に渡そうとするハプニングもあった。ミッキーの8歳の誕生日でもある4月10日のヤクルト戦で公式戦デビューを果たし、5月21日の楽天戦では球団が特注で用意した背番号111のユニフォーム姿で登場している。その後カルビー社発行のベースボールカードプロ野球チップスに内包、数量限定)に採用されるなど、人気は全国区のものとなった。9月2日の巨人戦では5回裏終了後にミッキーを加え広島県下の101匹の犬が広島市民球場のグラウンドを行進するというイベントも開催された。

あまりの人気によりミッキーの自宅にまで押しかけるファンが現れたことや高齢(犬の8歳は人間年齢では50 - 60歳にあたる)などによって一時は引退騒動も起きたが、ファンからの続投要請の声を受け2005年シーズン終了まで登板した。結果この年のチームの成績自体は最下位と芳しくなかったものの[80]ミッキーの登板は観客動員に大きく貢献した。なお2006年シーズンも4月4日(阪神戦)、4月25日(巨人戦)、5月16日(西武戦)に登場した。

この人気は他球団に波及し、2006年からは千葉マリンスタジアムでもテレビ東京の番組『ペット大集合!ポチたま』とのコラボレーションでラブラドール・レトリバーのエルフをベースボールドッグとして採用。2006年6月4日(ロッテ戦)にミッキーと共演を果たした。また、オリックス・バファローズは、2006年にベースボールドッグに対抗した「ベースボール・モンキー」としてボールのかごを持った猿の「ゴウ(背番号555)」を起用。しかし、エルフもゴウも、大観衆・大声援を前にしたストレスから体調を崩してしまい、ミッキーほど長期間にわたる活動は出来ずに終わっている。

2006年7月21日神宮球場で開催されたオールスターゲームでは、球宴という大舞台でありながら完璧に仕事をこなした。ミッキーが広島市民球場以外でボールドッグを務めたのはこれが初である。

2007年以降は高齢のためベースボールドッグを引退し、広島県北広島町に住む飼い主の元で余生を過ごした。2009年4月8日、老衰のため11歳(ヒト換算で80歳)で死亡。同4月14日の本拠地の試合では球団旗を半旗にし、哀悼の意を示した。

応援方法の先駆者[編集]

広島は、プロ野球の応援スタイルに繋がる数々の応援方法を生み出したことでも知られている。 豊田泰光は、「今のプロ野球の応援スタイルの起源は1975年の、あの"赤ヘルブーム"にある。熱狂的な広島ファンが、初優勝に向けてあの応援スタイルを作り出した」と述べている[81]ベースボール・マガジン社も、「日本のプロ野球の応援スタイルは、多くがカープの応援団がそのスタイルを確立したものと言って過言でない」と論じている[82]。また、永井良和・橋爪紳也の共著『南海ホークスがあったころ』では、「広島の応援団は、日本のプロ野球界の共有財産となるような応援スタイルを生み出していった。その方向性は1975年の広島からもたらされたといっていい。広島カープのファンは、プロ野球の応援に関するかぎりイノベーターの称号を与えられるにふさわしい」と論じている[83]

  • トランペット応援・選手別応援歌
    • 鳴り物などを使用した騒がしい応援スタイルは、一高三高定期戦など、戦前から学生野球やアマチュア野球ではあった[84]。プロ野球でも戦前チームをグループ企業全体を上げて応援するスタイルが見られたが[85]、戦後は手拍子や声援(野次)を中心にした応援が主流で、プロ野球の応援は比較的騒がしくはなかった[84]。1950年代にテレビ放送が始まると都市対抗野球が人気が出て応援が騒がしくなったが、プロ野球の応援が徐々に変化していったのは、カープ応援団が1975年、球場にトランペットを持ち込みコンバットマーチを演奏したのが大きなきっかけ[86][87]。また1978年にはチームの中心選手である山本浩二を特別な形で応援するため、山本が打席に入る際に他の選手と異なる曲(通称"コージコール")を演奏したことが選手別応援歌の始まりとされている[82]。最初は声を合わせて「コージ」を繰り返すだけのものだったが、やがてトランペットのマーチに乗って、「かっとばせ! コージ」に変わり、トランペットは他の選手たち、そして他チームへも広がっていった[82]。1979年には「花咲かじいさん」のテーマがコンバットマーチとともにトランペット応援で使用されるようになった。その内に、個々人のマーチに歌詞がつき、応援団だけでなく、球場に詰め掛けたファンが声をそろえて、声援を送るようになる[82]。プロ野球の応援が騒がしくなり、お客が球技を観るより自分たちでパフォーマンスをやるようになったのは"コージコール"からで、騒がしい応援スタイルはこれ以降プロ野球に波及した[84]
  • ジェット風船
    • 1978年、カープの関西地区の私設応援団『近畿カープ後援会』のメンバーが、甲子園球場でジェット風船を飛ばしたのが起源という説[88][89][90][91][92]1984年甲子園を中心に関西地区で活動するカープ応援団「大阪河内楠公会」のメンバーが紙吹雪に代わるものとして、大阪松屋町の玩具問屋で購入した風船を飛ばしたのが起源とする説がある[82]。以後広島だけでなく、多くのチームファンが風船飛ばしを行っている。
    • 広島ファンの飛ばすジェット風船の色について、以前は統一せず、カラフルであった。後に基本は赤一色となり、鯉のマークが入っている。なお7回だけでなく、勝利時にも飛ばされる場合あり。
  • スクワット応援
    • 応援歌に合わせて立ったり座ったりするスタイルは、1993年のオープン戦から地元の高校生のグループが遊びで応援していたのが徐々に広まっていった[93]。最初はこの高校生のグループがやり始めると周りの数組が真似をしていただけだったが、数試合後には初回から誰かしらが始めるようになり、全体に広まった[94]。始めのうちはこの応援は立ったり座ったりするのが危険だという事で警備員に止められる事もあった。この応援を1試合続けるとなるとかなりの運動量(ズームイン!!朝!の放送によると、約200キロカロリー)になるため、「カープファンはスクワット応援のための自主トレを行っている」「巨人の選手よりカープファンの方が体力がある」などとジョークのネタにされることもある。
    • 高木豊が数えたところ、1試合のスクワット回数は約700回(「伊集院光 深夜の馬鹿力」豆知識予備校より)。
  • しゃもじ応援
    • 1975年の初優勝時、カープファンはスタンドでしゃもじを打ち鳴らして応援していた。しゃもじは広島湾に浮かぶ宮島の名産品として知られ、「勝ちを召し取る(=飯取る)」、また打ち鳴らした時の「カチカチ(=勝ち勝ち)」という音からゲン担ぎとして使用されていた。また、高校野球において広島県代表が試合をする際に、しゃもじが応援アイテムとして使われることもある。しゃもじは1980年代半ばまで使用され、以後は危険防止のためしゃもじを打ち鳴らす応援は行っていないが、しゃもじ応援にヒントを得た応援グッズメーカーが各球団のペットマークが描かれたチームカラーのメガホンやメガバットを製造し、球場で販売するようになり新たな応援グッズとして普及した。前述のスクワット応援でも用いられている。
  • カープ女子
    • 2013年、特に首都圏でのカープファンの急増と共にマスメディアに取り上げられたのが「カープ女子」[95][96][97][98][99]ネーミングの発祥は不明であるが、2013年9月30日NHKニュースウオッチ9」内で放送された「なぜ首都圏で急増? カープファン」という特集の中で「カープ女子」という言葉も使われ、一気にそのネーミングが拡散し、CSに進出が決まった頃は「カープ女子」という単語はすっかり一般化したといわれる[95][97]。女性ファンが増えた切っ掛けとして、首都圏で独特のスクワット応援による一体感に魅了された、カープを題材にした漫画球場ラヴァーズ」(石田敦子著)や、東京ドームで売り子をしていたカープファンの女子大生二人が2010年2月に発行を始めたフリーペーパー『Capital』などの影響があるといわれ[100]、女性ファンを取り込むという戦略は他球団にも波及している[95][101]

主な歴代の応援歌[編集]

  • 『カープの歌』(歌・RCC合唱団)
  • 勝て勝てカープ』(歌・塩見大治郎) - 初代球団歌「広島カープの歌」より改題。
  • それ行けカープ 〜若き鯉たち〜』(歌・塩見大治郎、南一誠、鯉してるオールキャスターズ、Marquee Marblish BAND) - 現球団歌。
  • 『燃える赤ヘル僕らのカープ』(歌・事崎正司=現・加納ひろし)ホームでビジターチーム先発ピッチャー交代時や9回裏に流れる(ビジターチームにリードされているゲーム)。
  • 『痛快! 赤ヘル音頭』(歌・柏村武昭
  • 『ゴーゴーカープ』(歌・富永一朗
  • 『Red 〜僕らの広島カープ〜』(歌・石田匠)
  • 『わしを市民球場に連れてって。』(歌・堂珍嘉邦(CHEMISTRY))
  • 勝利を我らに!〜Let's win!〜』(歌・鯉してるオールキャスターズ、Marquee Marblish BAND)
  • 『カープロード』(歌・矢野昌大) 球団公認

主なキャンプ地[編集]

チームスローガン[編集]

  • 1953年 闘志なき者は去れ
  • 1973年 スピードとスリルある野球
  • 1974年 HOTTER BASEBALL!
  • 1975年 100%の努力(ルーツ)/ハッスルプレーでスリルあるエキサイトしたゲームを(古葉)
  • 1976年 CHALLENGE '76CARP BASEBALL V2 DO ONE'S BEST
  • 1977年 LET'S GO TO CHAMPIONSHIP
  • 1978年 ALL MEN DASH!
  • 1979年 LET'S SPARK!
  • 1980年 3S BASEBALL (SUSPENCE SPEED START)
  • 1981年 3A BASEBALL (ACTIVE ACTION APPEAL)
  • 1982年 BIG JUMP HOT BASEBALL
  • 1983年 START FROM ZERO
  • 1984年 BLAZING BASEBALL
  • 1985年 CHALLENGE TO FRESH BASEBALL
  • 1986年 CONSISTENT CONCENTRATION (一貫した集中力)
  • 1987年 3C (COMMUNICATION COMBINATION CONCENTRATION)
  • 1988年 RETURN TO FUNDAMENTALS (基本に帰れ)
  • 1989年 WINNING SMILE
  • 1990年 STRIKING AVNEW (新たなる爆発)
  • 1991年 WILL TO VICTORY
  • 1992年 VALUE OF VICTORY
  • 1993年 RED CHARGE
  • 1994年 TOTAL BASEBALL
  • 1995年 TOTAL BASEBALL II FORWARD EVER
  • 1996年 TOTAL BASEBALL III OVER THE TOP
  • 1997年 TOTAL BASEBALL R S REALIZAR SUENO (夢の実現)
  • 1998年 TENGA CONFIANZA (己を信じて)
  • 1999年 YES, WE CAN
  • 2000年 START FROM ZERO ZERO
  • 2001年 レッドアタック「攻めろ!!」
  • 2002年 レッドパワー「燃えろ!!」
  • 2003年 ライジングハート「たかぶるハートで」
  • 2004年 WILL TO VICTORY
  • 2005年 REBORN TO WIN「赤ヘル再生」
  • 2006年・2007年 ALL-IN
  • 2008年 ALL-IN激
  • 2009年 ALL-IN烈
  • 2010年 We're Gonna Win 俺たちは勝つ
  • 2011年 STRIKIN'BACK 逆襲
  • 2012年 GROUND BREAKERS 破天荒
  • 2013年 RALLYING TO ATTACK!剣砥挑来
  • 2014年 赤道直火 RED ALL THE WAY 赤く、熱く、真直ぐに

応援番組[編集]

テレビ
ラジオ

取り扱う雑誌[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 中国新聞 (2010年1月1日). “2010年新春トップインタビュー”. 2010年1月6日閲覧。
  2. ^ a b 平野博昭「《特別寄稿》新球場建設とカープの経営方針について」 - 一橋総合研究所
  3. ^ 第145期有価証券報告書 (PDF) - マツダ株式会社
  4. ^ “「ベイスターズは市民球団に」自民党の小泉進次郎氏がベイ売却検討”. 神奈川新聞. (2010年10月2日). http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1010020005/ 
  5. ^ 【野球】優勝が遠い「赤ヘル軍団」 孤軍奮闘する老舗地方球団広島
  6. ^ a b c d e f ベースボールマガジン社刊「広島東洋カープ60年史 HISTORY 1950-2009」35ページ
  7. ^ 同じくセ・リーグの新規球団であった大洋ホエールズ(親会社は大洋漁業)は選手獲得資金として6000万円かけたが、広島の予算は800万円であったという(駒沢悟監修、松永郁子著『広島カープ 苦難を乗り越えた男たちの軌跡』宝島社文庫、2002年、19頁)
  8. ^ 新球場の夢キャッチ 今も昔も「支えたる」
  9. ^ BOOK asahi.com:朝日新聞社の書評サイト - プロジェクトX 挑戦者たち 熱き心、炎のごとく 史上最大の集金作戦 広島カープ
  10. ^ 定本「プロ野球40年」121頁(報知新聞社・1976年)参照のこと。
  11. ^ ただし、具体的な処罰内容は決められておらず、「3割を切ったら自動的に解散と決めていた」という記述は誤りである。
  12. ^ この年は松竹ロビンスが最下位で、勝率は.288だった。
  13. ^ 中野晴行『球団消滅 幻の優勝チーム・ロビンスと田村駒治郎』(筑摩書房、2001年)P208
  14. ^ 白石のスカウトによって西鉄でくすぶっていた大和田明を獲得している
  15. ^ 週刊ベースボール2011年11月14日号80ページ
  16. ^ a b c ベースボールマガジン社刊「広島東洋カープ60年史 HISTORY 1950-2009」41ページ
  17. ^ 現在の日本記録は1978年から1997年にかけて南海ホークス→福岡ダイエーホークスが記録した19年連続
  18. ^ ベースボールマガジン社刊「広島東洋カープ60年史 HISTORY 1950-2009」47ページ
  19. ^ a b c ベースボールマガジン社刊「広島東洋カープ60年史 HISTORY 1950-2009」53ページ
  20. ^ 感動再び!スポニチ選定「プロ野球名場面100選」 - 赤ヘル旋風猛威…広島悲願の初優勝
  21. ^ これは、現在5月の連休に行われているひろしまフラワーフェスティバルの発端となっている。
  22. ^ 講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」428ページ
  23. ^ セントラル・リーグに現存する6球団では唯一のシーズン80勝未到達球団である
  24. ^ この年後半戦開始時点で1位巨人と最大7.5ゲーム差を逆転しての優勝。
  25. ^ この年は勝率ではなく勝利数で優勝チームを決定していたため引き分けの数だけ試合数が増える(実質再試合制)のため勝利数の差=ゲーム差であった。
  26. ^ 2001年は勝率ではなく勝利数で順位を決定していた。
  27. ^ なお、8月19日からの本拠地での阪神3連戦はブラウンが母親の葬儀に参列するため一時帰国し、ジェフ・リブジー監督代行の3試合目、退場後は小早川毅彦コーチが監督代行代理に。
  28. ^ 広島が来季監督を野村謙二郎氏に要請 日刊スポーツ 2009年10月4日配信、同日確認
  29. ^ この年の記述の出典は特記ない場合、週刊ベースボール2012年12月10日号68ページとする
  30. ^ 広島39回無失点の球団新記録!スポーツニッポン 2012年4月8日
  31. ^ えっ!?広島負けて3位浮上 15年ぶりAクラスターンスポーツニッポン 2012年7月19日
  32. ^ 8連敗…広島、3位と7.5差でCS絶望的にスポーツニッポン 2012年9月26日
  33. ^ 広島零敗でヤクルトのCS進出&3位確定スポーツニッポン 2012年9月29日
  34. ^ a b カープオーナー代行に松田氏 - 中国新聞 2013年3月26日
  35. ^ “広島、最後に力尽きる…野村監督「よっしゃーという感じだったが」”. SponichiAnnex. (2013年3月31日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/03/31/kiji/K20130331005518930.html 2013年10月19日閲覧。 
  36. ^ “広島 5年ぶり開幕4連敗 12球団唯一の未勝利”. SponichiAnnex. (2013年4月4日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/04/04/kiji/K20130404005539610.html 2013年10月19日閲覧。 
  37. ^ “マエケン 1114日ぶり白星 鬼門ナゴヤDで8回零封”. SponichiAnnex. (2013年4月14日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/04/14/kiji/K20130414005605400.html 2013年10月19日閲覧。 
  38. ^ 2013年度 交流戦チーム勝敗表NPB公式サイト
  39. ^ 広島 救援陣が2日連続の乱調…5位に転落スポーツニッポン2013年7月17日配信
  40. ^ 広島 球団史上初CS進出決定 Aクラスは16年ぶりスポーツニッポン2013年9月25日配信
  41. ^ 広島 前田智引退試合●で12年連続負け越し&3位確定スポーツニッポン2013年10月3日配信
  42. ^ 3位広島が下剋上!阪神に2連勝、巨人とのファイナルS進出スポーツニッポン2013年10月13日配信
  43. ^ 産経新聞2013年10月18日スポーツ面
  44. ^ 前田智が引退表明 広島一筋24年、現役生活にピリオドスポーツニッポン 2013年9月27日配信
  45. ^ 広島・菊地原、今季限りで現役引退サンケイスポーツ 2013年9月28日配信
  46. ^ 1996年にヤクルトスワローズが記録した49イニングを上回りセ・リーグ新記録。
  47. ^ カープ三省寮 老朽化で閉鎖 - 47NEWS 2010年8月3日
  48. ^ a b 『カープの歩み 1949-2011』(中国新聞社)91ページ
  49. ^ a b c 『カープの歩み 1949-2011』(中国新聞社)93ページ
  50. ^ a b c 『カープの歩み 1949-2011』(中国新聞社)135ページ
  51. ^ オーナーに松田元氏 広島 - 47news 2002年7月15日
  52. ^ スポーツ紙などの紙上見出しでは「コイ」の略称も見られる。
  53. ^ ユニフォームを赤に代えようとしたが経費の都合でヘルメットと帽子のみに。 「我が道」山本浩二 スポーツニッポン 2010年10月14日より
  54. ^ 純粋な外様は監督では日本人では別当薫が、外国人を含めるとジョー・ルーツが最後。コーチ・二軍監督では芦沢真矢中利夫(登志雄)・伊勢孝夫片岡新之介らが在籍した
  55. ^ 2012年6月21日OA 広島カープ芸人|アメトーーク!【Web限定ムービー 】
  56. ^ 『アメトーーク!』高視聴率を記録! - 広島ホームテレビ『ロンドンハーツ』『アメトーーク!』の名プロデューサーが明かすヒットの秘密広島優勝ならアメトーーク再び | 東スポWeb – 東京スポーツ新聞社
  57. ^ 「ぴあ」とカープ密着情報誌「Athlete」が強力コラボ!球団公認のファンブックを発売!あの「広島カープ芸人」に直撃インタビュー!これがカープ愛だ
  58. ^ 斎藤元年!日本ハム ユニホームも刷新
  59. ^ 現に中畑清(当時・日本テレビ野球解説者)が日本テレビの特番「刑務所24時」の取材で広島刑務所を慰問中に緊急企画で中畑が巨人時代のユニフォームでソフトボールに出場し対戦し、刑務官や受刑者から拍手喝采を浴びた。
  60. ^ マツダ、日本ペイントと共同で広島東洋カープのヘルメット用に「ソウルレッドプレミアムメタリック」をイメージした特別色を提供 - マツダ公式、2013年3月19日配信
  61. ^ 但し、当時とは異なりベルトレスではなくカバー付ベルト仕様に変更。
  62. ^ 「デニムデザインユニフォーム」お披露目!!
  63. ^ セ・リーグではスポンサー広告の掲示がホーム用ユニフォームにしか認められていないため。
  64. ^ 平成17年9月30日「広島市議会本会議」谷口修議員の発言より
  65. ^ a b 東京商工リサーチ社「東商信用録 中国版」各年度版
  66. ^ 『官報』平成24年4月17日号外第89号、平成23年4月18日号外第82号、平成22年4月14日号外第81号、平成21年4月14日号外第80号、平成20年4月14日号外第78号、平成19年4月12日号外第76号より
  67. ^ 財務省「平成24年度 法人企業統計調査結果」[1]
  68. ^ 「官報」平成25年7月17日号外第154号、同7月12日号外第152号、同7月2日号外第142号、同6月21日号外第132号、同4月12日号外第79号、同4月8日号外第75号、同3月25日号外第60号、同3月21日号外第56号、平成24年4月17日号外第89号より。
  69. ^ 出典は日本プロ野球選手会による各年度年俸調査。「朝日新聞」2013年4月23日、2012年5月15日、2011年5月10日、2008年5月8日、2003年5月20日。「中国新聞」2010年4月27日、2007年5月15日、2006年5月2日、2005年4月26日、2004年5月18日。2009年のみ『週刊ベースボール』編集部による集計で同2月2日号
  70. ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「carpkeiei001」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  71. ^ 出典は日本プロ野球選手会による各年度年俸調査。「朝日新聞」1989年4月18日、1990年4月28日、1991年4月16日、1995年5月16日、1996年5月28日、1997年5月10日、1998年5月12日、1999年5月25日、2000年5月15日、2001年4月24日、2002年5月14日。「中国新聞」1992年4月21日、1994年5月31日。1985年から1988年及び1993年は『週刊ベースボール』1985年2月25日号、1986年3月3日号、1987年3月2日号、1988年2月29日号、1993年2月22日号より独自集計。
  72. ^ カープ売上高117億円 新球場効果で46億円増 - 中国新聞 2010年3月25日
  73. ^ 「中国新聞」2011年3月1日「カープQ&A」
  74. ^ 2010年3月30日「第1回広島市民球場運営協議会」会議要旨より
  75. ^ 第五回広島市民球場運営協議会 会議要旨
  76. ^ 出典:『ベースボールマガジン』2010年3月号、ベースボール・マガジン社
  77. ^ 北海道日本ハムファイターズでは2006年以降使用休止となり、2009年から永久欠番になった。
  78. ^ 19年ぶり!? 広島の巨人戦に「クモ男」日刊スポーツ 2009年5月17日付)
  79. ^ 19年ぶりクモ男出現!バックネットに登り手を振るスポーツニッポン 2009年5月17日付)
  80. ^ ミッキーが登場した公式戦に限定すれば、カープは15勝7敗と大きく勝ち越している。
  81. ^ 豊田泰光『プロ野球を殺すのはだれだ』ベースボール・マガジン社、2009年、125頁
  82. ^ a b c d e 『Forever広島市民球場』(B.B.MOOK 582、週刊ベースボール責任編集)、ベースボール・マガジン社、2009年、89頁
  83. ^ 永井良和・橋爪紳也『南海ホークスがあったころ』紀伊國屋書店、2003年、233、234頁
  84. ^ a b c 丸谷才一と16人の東京ジャーナリズム大批判、丸谷才一他著、青土社、1989年、126-128頁
  85. ^ 大阪タイガース阪急軍ブラスバンド演奏は数々の文献に出ている。
  86. ^ インタビュー|旧広島市民球場メモリアルサイト
  87. ^ トランペット応援の発祥がカープにあるというのは「プロ野球ヤジ講座」〔おかひろみ編・自由国民社〕、「巨人がプロ野球をダメにした」〔海老沢泰久著・講談社〕にも記述されている。
  88. ^ 中国新聞、2008年9月21日、30面
  89. ^ 広島「新球場専用ジェット風船」を開発中
  90. ^ 神戸新聞Web News
  91. ^ 西日本新聞 タカく飛べ ジェット風船
  92. ^ 旬の話題を斬る:@niftyビジネス
  93. ^ 読売新聞 2013年12月20日 朝刊25面 「赤い旋風 ファン熱狂」
  94. ^ 朝日新聞デジタル:カープ応援にはスクワット - 広島 - 地域朝日新聞デジタル:カープファン 首都圏席巻!?-マイタウン広島
  95. ^ a b c 「カープ女子」に対抗! オリックス女性ファン、候補は「オリ姫」「オリ嬢」
  96. ^ 東京都・銀座にてマエケンも参加した「カープ女子会」が開催 | マイナビ
  97. ^ a b ニュースウオッチ9の番組概要ページ -2013年9月30日
  98. ^ ZIP!の番組概要ページ - 2013年10月14日
  99. ^ 野球ファンの話題をさらう「カープ女子」現象とは!?
  100. ^ 「虎女」を増やすには?…“肉食”ウリで「カープ女子」に続け (産経新聞)ダメな子ほど…!? 赤ヘル人気拡大中 「カープ女子」激増関東にカープファンが多い理由は、『Capital』にあり?
  101. ^ カープ女子に対抗し「オリ嬢育成」計画 - プロ野球ニュース ... - 日刊スポーツヤクルト女性ファン増へ「つばみ会」結成 - プロ野球 ... - 日刊スポーツセレ女、増えてます セレッソにハマる女子 平均観客数11%増 サッカー

関連項目[編集]

外部リンク[編集]