梶山季之

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

文学
File:Lit.jpg
ポータル
各国の文学
記事総覧
出版社文芸雑誌
文学賞
作家
詩人小説家
その他作家
お知らせ
このテンプレート解説ページができました。使用されるべき記事が決まりましたので一度ご確認ください。

梶山 季之(かじやま としゆき、1930年1月2日 - 1975年5月11日)は、日本の小説家ジャーナリスト週刊誌創刊ブーム期にトップ屋として活躍、その後『黒の試走車』『赤いダイヤ』などの産業スパイ小説、経済小説でベストセラー作家となり、推理小説時代小説、風俗小説などを量産するが45歳で死去。ルポライターとして梶季彦、少年向け冒険小説として梶謙介のペンネームがある。

目次

[編集] 人物

[編集] 生い立ち

土木技師の父が朝鮮総督府に勤務していたため、朝鮮京城で生まれた。五木寛之は南大門小学校の後輩である。子供の時から作家志望で、小学3年頃には科学冒険小説を書いて級友に読ませていた。1942年京城中学入学。敗戦後引き揚げ両親の郷里、広島県佐伯郡地御前村(現廿日市市)で育つ。広島二中(現広島観音高)を経て広島高等師範学校国語科に入学。在学中から地元の同人誌を糾合し、広島文学協会を設立するなど精力的に活動し、広島ペンクラブの設立、運営にも加わった。また私淑していた作家原民喜の自殺に衝撃を受け、原を記念する碑の建立に奔走した。

卒業後の1953年、家出同然にして上京。後を追って上京した同人誌仲間と結婚。横浜鶴見工業高校の国語教師を務めた後、喫茶店の経営をしながら『新早稲田文学』『希望』などの同人誌で活動。1955年村上兵衛の紹介で三浦朱門らのいた『新思潮』(第15次)同人になり小説を書く一方、1958年にフリーライター専業となって『文芸春秋』『週刊新潮』などに記事を書いた。『週刊明星』の創刊から関わり、また「大宅壮一ノンフィクションクラブ」にも参加。1959年週刊文春』創刊に際しトップ屋グループを作り名を売った。またこの時期「梶謙介」のペンネームで小学館の学年誌などに多くの冒険小説を書き、三谷晴美(瀬戸内寂聴)と双璧の人気と言われる。1958年から64年にかけてはラジオドラマの脚本も執筆、「蛸が茶碗を抱いていた」「愛の渦潮」などがある。

[編集] 流行作家へ

1961年結核を患い約3ヶ月間の入院生活を余儀なくされるが、これを機にトップ屋をやめ本格的に小説の執筆に乗り出し、翌1962年、自動車企業間の苛烈な競争を背景にした経済小説『黒の試走車』がヒット。「企業情報小説」、「産業スパイ小説」という新分野を開拓した。多くのベストセラー小説やルポを書き、高度成長期の潮流に乗った流行作家になった。1966年、『週刊新潮』連載の小説「女の警察」により、刑法175条(猥褻物頒布)の容疑で略式起訴され、同誌編集長野平健一と共に罰金5万円の有罪判決を受ける。1969年には文壇長者番付第1位となった。

ジャーナリストの世界において、記事執筆のためのデータ収集を専門とする「データマン」、そしてデータマンの集めた情報を元に記事を執筆する「アンカーマン」という分業体制を確立したのは、日本では梶山が最初であると言われている。

1969年、夫人を社長として株式会社季節社を設立。1971年文壇マスコミ界の埋もれた逸話を記録するため月刊『噂』を自費創刊するが、赤字により1974年終刊。

1972年に結核が再発し、北里研究所付属病院に入院後、伊豆の別荘で療養。この時別荘に書斎を増築し、27日で完成したため「二十七日庵」と名付け、今東光に扁額と表札を書いてもらって掛けた。また土地を借りて畑仕事も行う。。同年、国際会議の運営をめぐり日本ペンクラブを脱退。1973年、今東光の文壇野良犬会に参加。

あらゆるジャンルの作品を手掛けたが、生涯のテーマは、朝鮮移民原爆とも言われ、日韓併合期の朝鮮を題材にした「族譜」「李朝残影」などの作品も残している。

[編集] 死とその後

1975年5月7日、ライフワークである長編小説『積乱雲』の取材のために訪れた香港のホテルで突如吐血。一時は容態が安定するもののその後急変、5月11日早朝、食道静脈瘤破裂肝硬変で死去。今東光が命名した戒名は「文麗院梶葉浄心大居士」、棺には愛飲していたサントリーオールドを注がれ、缶入りピース、原稿用紙とモンブランの万年筆、『李朝残影』が納められて、大宅壮一と同じ鎌倉瑞泉寺に葬られた。毎年5月11日は梶葉忌として偲ばれている。またこの直前に出席していたNHKテレビ市民大学講座「大衆文学をこう書く」の座談会の録画は、5月12、13日に放送された。

収集していた蔵書1万7千点のうち、朝鮮・原爆・移民関係の7千点は1977年ハワイ大学図書館に寄贈し「梶山季之記念文庫」としてコレクションされた。その他で雑誌類4千点と書籍2千店が大宅壮一文庫に寄贈された。1977年12月には、生前描き溜めていた油絵やスケッチを展示する「梶山季之遺作展」が東京近代美術クラブで開催。十数年の作家活動であったが作品数は多く、死後も人気は衰えずに12年後までに120冊の文庫が出版され、1300万部の売り上げをあげた[1]。サービス精神の旺盛な作家という評に加え、編集者や周囲の人々への気配りについてもしばしば語られている。17回忌となる1991年、広島市に6百数十名の出資による梶山季之文学碑が建立された。碑文には直筆の「花不語」が刻まれている。1992年には夫人の拠出による「梶山季之文学碑建立記念基金」が設立され、研究振興に充てられている。近年は雑誌などの特集により、その膨大な作品群を再評価する動きが出ている。

[編集] 作家活動

小説の分野としては、生地である朝鮮をテーマにしたもの、トップ屋としての視点と情報収集力を活かした企業小説、推理小説、風俗小説、時代小説などがある。在学中の1952年に『広島文学』に日韓併合による創氏改名を扱った「族譜」を発表、同年本作を収めた短編集で、友人の坂田稔との共著『買っちくんねえ』を自費出版、「族譜」は後に加筆されて1961年に『文学界』に発表される。1958年『新思潮』に終戦の日を描いた「性欲のある風景」を掲載、1960年『新潮』に同人雑誌推薦作品として「合はぬ貝」掲載、1963年には提岩里事件を取り上げた「李朝残影」を『別冊文藝春秋』に発表し、直木賞候補となる。朝鮮、内地に帰って育った広島の原爆、母の経験したハワイ移民という三つのテーマをライフワークとしようとしており、それらを一つにまとめた作品を書こうと、1974年に題を『積乱雲』として資料収集、取材を進めながら執筆を開始していた。

原爆に関わるテーマの作品としては、1970年「憑かれた女」、1971年「ケロイド心中」がある。「ケロイド心中」を『小説現代』に発表した時には、広島県原水協、同被団協、原爆文献を読む会などから、被爆者差別を助長するとの抗議が寄せられた。これに対して梶山は、被爆者の立場で、実話をモデルにして書いたというコメントを『中国新聞』に掲載。何度か抗議の手紙が届いたが、それ以上のことにはならなかった。またこの当時梶山は、原爆被災資料研究会の活動に資金援助をしていたことが、死後明かされた。

また1958年、『新潮』に「地面師」発表。1960年『週刊文春』で推理小説『朝は死んでいた』を連載。1961年に北里研究所付属病院に入院中から、あずき相場を扱った『赤いダイヤ』を『スポーツニッポン』連載開始。また酒場で知り合った種村季弘の依頼で書き始めた、書き下し長編『黒の試走車』を1962年にカッパ・ノベルスで出版。同年には『青いサファイヤ』『影の凶器』『夜の配当』『男の階段』『女の斜塔』と連載を開始、月産1000枚と言われる執筆量となり、数年後には1300枚を記録した。ルポライターとしての視点、情報収集力を活かした『黒の船渠』『夢の超特急』『小説GHQ』などを発表。1967年から翌年に『中間小説誌や娯楽雑誌の発刊が相次いだ際には、その創刊号の多くに小説、エッセイ、ノンフィクションを執筆、「創刊号男」「突破口」と称された。執筆誌は『月刊現代』『月刊タウン』『別冊アサヒ芸能』『ビッグコミック』『PocketパンチOh!』『プレイコミック』『小説セブン』『マイウェイ』『別冊サンデー毎日 読物専科』『小説エース』『小説宝石』。1971年には休筆を宣言し、1972年1年間は月刊誌への小説を休んだが他の執筆は続け、仕事量が減るにとどまり、翌年は元に戻った。

ルポライター時代の1960年、広島時代につき合いのあった記者の依頼で、「中国新聞」に頼山陽の青春時代を描いた「雲耶山耶」(くもかやまか)を連載。また時代小説として、1970年以降『彫辰捕物帖』シリーズ全6巻、「辻斬り秘帖」などを発表。

鉄道弘済会のベストセラー作家」とも呼ばれ、作品は常に新鮮な時代感覚に溢れ読書サービスに徹した。サービス精神の赴くまま材料の仕込みには惜しげもなく金を注ぎ込んだ。天性のストーリー・テラーで筆力抜群、印刷屋への発注ミスで8万枚の原稿用紙を購入する羽目になったが10年足らずで使い切ってしまった[2]、三日二晩で300枚の長編を書き上げる(『ミスターエロチスト』)、短編小説を電話で頼めばすぐに取りに行っても原稿が出来上がっている、原稿を取るために出版社がヘリを飛ばす[3]、といった伝説まで生まれた。一文ごとに改行するスタイルは、時に原稿料目当ての枚数稼ぎとも揶揄された。

後年はエロティシズムへの傾斜を深め、ポルノ作家、性豪作家とも呼ばれるようになる。1968年に『別冊文芸春秋』に『ミスターエロチスト』252枚を一挙掲載。当時は「なにもあそこまで書かなくても」「サービス精神のいきすぎ」などと言われ、1972年まで単行本化もされなかったが、後に「先駆的作品」「現在の、性を扱った小説の、あらゆる原型がここにある」などと評される。これは元々有馬頼義に原稿を依頼していたのが締切一週間前に病に倒れたため、急遽梶山に依頼され二日半で書き上げたものだが、以前から構想を温めていことがその後取材ノートから伺われている[4]。また女性の名器を指す「ミミズ千匹」を一般に知らしめたのは『女の警察』と言われる。

文学論として残されている言葉に、「文学といえばすぐに愛だの恋だのを書く。(略)金の動きにもロマンはある」(1966年広島大学懇談会)、「私の小説は、文章はカサカサに乾いていて、手垢がついているけれども、材料にだけは自信がある−−と自慢しておく」(「私の小説作法」)などがある。徹底した調査を元にした作品は「調べた小説」などとも言われ、自身ではジャーナリズムとして報道できる限界があるため、事実を小説に仮託して書くという方法としても考えていたという。

現代の女岩窟王というべき復讐譚『罪の夜想曲』を1973年から『週刊明星』に連載していたが、急死によって72回で絶筆となり、残されたメモを頼りに夫人が結末を加筆して完結された。書きかけていた長編『積乱雲』は、10年間に1万2千枚の予定で新潮社から書き下ろしで出版の予定だったが、書き出し部分が『別冊新評 梶山季之の世界 追悼号』(1975年)に掲載された。

[編集] ジャーナリスト活動

1958年に『文芸春秋』の編集長田川博一に自薦の手紙を出し、ルポライターとして採用。続いて同年創刊の『週刊明星』にも起用され、無署名で書いた警職法改正案に関する「またコワくなる警察官-デートも邪魔する警職法!」と題した記事は、自民党幹事長田中角栄が編集部に抗議に来るほどの大きな反響を呼んで法案は撤回に追い込まれた。また同年の皇太子妃決定に際しては梶謙介名義で話題小説「皇太子の恋」を掲載、新聞社間のスクープ禁止の協定を破り、他社に先駆けてすっぱ抜いた。

1959年の『週刊文春』創刊では、岩川隆、中田建夫、有馬將祠、加藤憲作、恩田貢の5人で梶山グループを作り、「週刊文春特派員」として特集記事作りに2年間参加。東京都知事選挙立候補者の有田八郎を落選に追い込んだ怪文書「般若苑マダム物語」の作者を突き止めるスクープなどを書いた。

1961年に『週刊文春』から撤退して小説に専念するが、その後もノンフィクションの依頼を受け、1963年には『小説現代』で「実力経営者伝」として、本田宗一郎小佐野賢治ら8人の評伝を掲載。1965年に創刊した『宝石』で「日本の内幕」連載、創刊号での防衛庁の日米共同実戦計画などをルポ、翌年に猥褻容疑で逮捕されたのはこれらが目障りになったために梶山の信用失墜を狙ってのこととも言われた。1968年にも『かんぷらちんき』『スリラーの街』で同容疑の取り調べを受け、これも「小説防衛庁」での内幕暴露のしっぺ返しと言われた。

1965年に「小説・創価学会」を『婦人生活』誌に連載すると抗議が殺到、その後大規模な言論出版妨害事件に発展し、1970年には連名で創価学会系雑誌への執筆拒否宣言をする。

1967年に大宅壮一マスコミ塾が開講した際には、実践教育編の講師も務めた。

[編集] 月刊『噂』

梶山と講演会で一緒になった伊藤整と、作家の裏話を集めて活字にしようという相談をし、梶山の担当編集者が毎月第三土曜に集まる「三土会」を編集母体、その中で高橋吾郎を編集長として1971年8月『月刊噂』を創刊した。創刊号記事は特集「知られざる大宅壮一」、「内田百閒を偲ぶ座談会」、「阿部定と坂口安吾対談」(再録)など。発行当初は政財界人の購読申し込みが多かったともいう[5]。1974年3月までで5000万円の赤字を出して終刊。

また噂賞を制定し、受賞者は以下:

  • 第1回 1973年 小説賞:藤本義一、さしえ賞:宮田雅之
  • 第2回 1974年 小説賞:田中小実昌、さしえ賞:浜野彰親

第1回の賞金は10万円で、贈呈者は今東光が務めた。

1972年には噂発行所から第15次新思潮同人の自選作品集『愛と死と青春と』を刊行。

[編集] 主な作品

[編集] 経済小説

同人誌時代から行動力旺盛だった梶山は、『新思潮』でも営業部長を自任して広告取りなど金策に奔走し、輸出振興外貨資金制度やあずき相場も利用しようと情報を集めた。この過程で小説化の思いが浮かび、1956年に「振興外貨(りテンション)」を『新思潮』に発表、1958年『新潮』に企業乗っ取りを扱った「地面師」を発表。続いてルポライター時代を経て小説に専念しようとした1961年に、スポーツニッポンの連載小説の作家が急病のため新連載を依頼され、あずき相場を扱った「赤いダイヤ」を発表して好評を博す。同年に書き貯めた、自動車業界の産業スパイを扱った『黒の試走車』を1962年に書き下ろしで出版し、産業スパイという題材の新しさや、従来の小説とは異なった情報の詰まった小説として注目されてベストセラーとなり、産業界にも大きな反響をもたらして「産業スパイ」は流行語になった。また映画化もされて、大映の「黒」シリーズの元となった。これで一躍人気作家となり、引き続き高度成長期の産業界を描いた経済小説を続々と発表する。

産業スパイものとして、家電業界もの『影の凶器』(講談社、1964年)、造船業界を舞台にした『海の薔薇は紅くない』、腕利きの産業スパイシリーズ『白い廃液 産業ミステリー調査資料(秘)』 、『赤い妖精』などがある。

また企業の裏側を描く経済小説として、『赤いダイヤ』の続編『青いサファイヤ』、新幹線汚職を扱った『夢の超特急』、東京オリンピックを巡る土地開発を描く『のるかそるか』、広告業界を舞台にした『罠のある季節』、黒の試走車の続編にあたるサスペンスタッチの『傷だらけの競走車』、株相場を扱った『見切り千両』『みんな黙れ』、中東紛争による石油危機を扱った『血と油と運河』、化粧品業界を扱った『狂った脂粉』などがある。

  • 『黒の試走車』光文社 1962年
  • 『赤いダイヤ(上)(下)』集英社 1962、63年
  • 『SEXスパイ』集英社 1963年(1,2話は『小説中央公論』、3話は『別冊週刊漫画TIMES』)
  • 『青いサファイア』講談社 1963年(『スポーツニッポン』連載)
  • 『夢の超特急』光文社 1963年
  • 『のるかそるか』文芸春秋新社 1964年(1963年5月-64年2月、地方紙掲載)
  • 『海の薔薇は紅くない』集英社 1964年(『週刊明星』連載、1965年『黒い船渠』と改題)
  • 『虚栄の館 産業ミステリー調査資料㊙』サンケイ新聞出版局 1964年(短編集、『週刊サンケイ』連載「調査資料(秘)」シリーズ)
  • 『影の凶器』講談社 1964年(『新週刊』連載13回で中断のち大幅加筆)
  • 『甘い樹液』サンケイ新聞出版局 1964年(短編集、「調査資料(秘)」シリーズ)
  • 『白い廃液』サンケイ新聞出版局 1965年(短編集、「調査資料(秘)」シリーズ)
  • 『罠のある季節』文藝春秋新社 1965年(『週刊文春』連載)
  • 『狂った脂粉』光文社 1966年(『時』1964年連載)
  • 『赤い妖精』桃源社 1967年(表題作は『小説中央公論」1962/7月号掲載、他)
  • 『傷だらけの競走車(ラリー・カー)』光文社 1967年(『別冊宝石』連作)
  • 『見切り千両』講談社 1971年(『別冊小説現代』1970年)- 1970年第2回小説現代ゴールデン読者賞受賞
  • 『みんな黙れ(天の章)(地の章)』徳間書店 1971-72年(『アサヒ芸能』連載<小説総会屋>)
  • 『血と油と運河』集英社 1975年(『週刊読売』1974年連載)

[編集] 企業人物誌

企業や経済を舞台した作品の中でも、実在の人物をモデルにしたものも含め、高度成長期を背景に活躍する人物の生き様に焦点を当てたものも多い。特に戦後の混乱期を生き抜いて企業経営に成功するまで、その後の挫折や私生活までを包括的に描いている。国会の爆弾男の異名を取った代議士をモデルにした長編『色魔』、短編「"火消し"新八」、またルポライター時代から東急グループ創設者五島慶太西武グループ創設者堤康次郎に注目しており、堤をモデルにした『悪人志願』や、電力業界の松永安左エ門を題材にした「小説 松永安左衛門」がある。『どないしたろか』は義弟をモデルにした薬品業界での「ど根性出世譚」だが、夜の部分はまったくの脚色という。

  • 『悪人志願』講談社 1966年
  • 『色魔(青春篇)(怒濤篇)(完結篇)』徳間書店 1968-70(『アサヒ芸能』連載)
  • 『どないしたろか』徳間書店 1974年(『アサヒ芸能』1973年連載)

[編集] 痛快小説

政界、経済界における成功者の他に、一匹狼的な立場で金と女を獲得する人物や、任侠界の人物を描く、サラリーマンにとってのファンタジー的作品も多い。『夜の配当』と続編『非常階段』では一流企業を退職してトラブルコンサルタント業を開いて違法合法すれすれのアイデアで成功する人物、『野望の青春』は観光業界で活躍する若者3人組、『濡れた銭』では「脱税の鬼」と呼ばれる男が主人公。『銀座遊侠伝』ではヤクザの異端児、祐天のテルを描いた。『うぶい奴ら』は浮世絵ブーム、『お待ちなせえ』も絵画業界が舞台。『と金紳士』は文庫版では最も売れて、4巻で85万5千部、次いで『野望の青春』(2巻)が40万4千部。『と金紳士』『色魔』などは後に漫画化されてアダルト漫画の先駆となった。

海外を舞台にした作品として、アメリカを舞台にした「カポネ大いに泣く」「ルーズベルト大いに笑う」「めりけん無宿」の三部作、メキシコを舞台にした「甘い廃坑」、アメリカでビジネスを成功する男を描いた『日本人ここにあり』がある。これらの執筆のために、当時は珍しかった海外への取材旅行もしばしば行った。

  • 『夜の配当』光文社 1963年(『週刊朝日』連載)
  • 『非常階段』光文社 1965年(『週刊漫画サンデー』連載)
  • 『どんと来い』桃源社 1965年(『大和ニュース』連載)
  • 『てやんでぇ』光文社 1966年(『北国新聞』『愛媛新聞』他1964-65年連載)
  • 『野望の青春』実業之日本社 1969年(『週刊漫画サンデー』連載「出世三羽烏」改題)
  • 『濡れた銭』サンケイ新聞出版局 1969年(『週刊サンケイ』連載)
  • 『と金紳士』文藝春秋 1969-71年(『週刊文春』1968-71年連載)
  • 『銀座遊侠伝』文藝春秋 1970年(『オール讀物』1970/4-9月号、同誌初の連載小説)
  • 『びかたん(鼻下短・受け唇・片えくぼ)』光文社 1970年(『小説宝石』掲載、1982年角川文庫化時に『びかたん・うけくち』に改題)
  • 『すけこまし(大望篇)(完結篇)』徳間書店 1970-71年(『アサヒ芸能』連載)
  • 『うぶい奴ら』祥伝社 1971年(『週刊ポスト』連載)
  • 『やらずぶったくり(やらずの巻)(ぶったくりの巻)』集英社 1971年(『週刊明星』連載)
  • 『流れ星の唄』桃源社 1971年(「週刊実話」連載)
  • 『カポネ大いに泣く』講談社 1971年(中編集)
  • 『にぎにぎ人生(疾風怒濤篇)(獅子奮迅篇)(猪突猛進篇)(大願成就篇)』集英社 1971-73年(『プレイボーイ』連載)
  • 『かんぷらちんき』徳間書店 1972年(『週刊現代』連載)
  • 『日本人ここにあり(立志編)(成功編)』実業之日本社 1974年(『週刊小説』連載)

[編集] 風俗小説

戦後の混乱期、高度成長に翻弄され、多様化するモラルの中に色と欲に生きた男女の有り様を描いた作品群。直接的な性描写を用いた作品はポルノ小説とも呼ばれ、猥褻罪で3度検挙され、自身も「どこまで書いたらワイセツ文書になるか実験中だ」と話したとも言われる。

『男を飼う』は、SM女装、様々なフェティシズムを扱っている。『苦い旋律』はレズビアンニューハーフ物の実質的嚆矢で、女性誌『女性セブン』に連載されて大反響を呼び、続いてエッセイ「浮世さまざま」、小説『青い旋律』を連載。他にも『薔薇の咲く道』など、女性を主人公にした風俗小説も多く書いた。

  • 『女の踏絵』講談社 1965年(短編集、『小説現代』1965年掲載)
  • 『女の警察』新潮社 1967年(『週刊新潮』連載)
  • 『薔薇の咲く道』集英社 1968年(『婦人生活』1967-68年連載)
  • 『苦い旋律』集英社 1968年(『女性セブン』1967-68年連載)
  • 『青い旋律』集英社 1970年(『女性セブン』1969年連載)
  • 『男を飼う(鞭と奴隷の章)(蛇と刺青の章)』集英社 1969年(『週刊明星』連載)
  • 『女巡拝記』徳間書店 1971年(『問題小説』連載)
  • 『梶山源氏(いろは・の巻)(ほへと・の巻)』文藝春秋 1972年(『週刊文春』連載、1983年角川文庫版で『好色源氏物語』に改題)
コンツェルンの御曹司の愛人遍歴ストーリー。章題にも「桐壺」「帚木」など「源氏物語」の巻名が付けられている。
  • 『銀座ナミダ通り』徳間書店 1974年(『問題小説』1974/1-9月号連載)
  • 『ミスターエロチスト』光文社 1977年(『別冊文藝春秋』1968年掲載)
  • 『すたらまんち 艶笑小説傑作集』1987年 光文社文庫(短編集、『小説宝石』1974/9-1975/5月号に「日本縦断艶笑千一夜」と題して掲載、「四国の女」は生前未発表)

[編集] 推理・サスペンス

1960年に『週刊文春』の「新鋭作家五人による競作推理小説シリーズ」第三弾として『朝は死んでいた』を連載、当時の実際の梶山グループを彷彿とさせる記者チームによる犯人調査を描いた。現実に起きた事件を題材にした作品集『知能犯』、架空の国での経済成長の影にある陰謀を描く『大統領の殺し屋』、下山事件を題材にした「俺が殺した」、防衛庁の不祥事を題材にした「小説 防衛庁」、建築学会を舞台にした復讐物語『女の斜塔』などがある。返還直後の沖縄を舞台にした「那覇心中」、GHQ報道統制化の「スワッピング心中事件」など、世情に深く関わる作品もある。

  • 『朝は死んでいた』文藝春秋新社 1962年
  • 『知能犯』桃源社 1964年(『別冊漫画サンデー』連載「知能犯シリーズ」)
  • 『大統領の殺し屋』光文社 1974年(『オール讀物』、『小説宝石』1974/1月号)
  • 『女の斜塔(愛欲篇)(復讐篇)』集英社 1964、66年(『女性明星』1964年連載)
  • 『罪の夜想曲(上)(下)』集英社 1975年(『週刊明星』1973-75年連載)
  • 『那覇心中』講談社 1976年(短編集、表題作、「スワッピング心中事件」など。1989年講談社文庫版では「ケロイド心中」収録)
  • 『汚職 さんずい』角川文庫 1987年(短編集、「俺が殺した」「小説 防衛庁」収録)

[編集] 時代小説

  • 『彫辰捕物帖帖(一)-(六)』読売新聞社 1972-74年(『週刊読売』1970/10/23-1973/10/27号連載)
  • 『雲か山か-若き日の頼山陽』集英社 1974年(「中国新聞」1960/1/11-7/9連載「雲耶山耶」を改題、光文社文庫化時に『頼山陽 雲か山か』に改題)

[編集] 実録小説・モデル小説

当時の事件や世相、話題の人物などをモデルにした小説を多く発表。ただし内容は虚実入り交ぜたものもあった。

  • 『生贄』徳間書店 1967年(『アサヒ芸能』1966/5/29-67/1/23日号) - インドネシアへの賠償汚職を描く。モデルとなったデヴィ夫人から名誉毀損で訴えられたため絶版。ただし仮処分までの間に10万部ほど出たと言う[6]
  • 「実名小説 カルーセル麻紀」(『小説セブン』1968/7月創刊号)
  • 「小説三億円事件」(『オール讀物』1969/5月号)
  • 「青い群像-小説・全学連-」(『小説セブン』1969/6-11月号)
  • 「炎は流れる-小説大宅壮一」(『別冊文藝春秋』1971年115号、前年に死去した大宅壮一について)
  • 今東光との対談「何が彼らを残忍な殺人に追い立てたか」(『週刊小説』1972/3/31号、あさま山荘事件について)

[編集] 他の小説

  • 『李朝残影』文藝春秋新社 1963年 - 朝鮮物の中編集、表題作は第49回直木賞候補。
  • 『わが鎮魂歌』講談社 1968年(『月刊現代』1968/3-8月号) - 自伝的長編小説で、高等師範時代から『新思潮』の時期が舞台。ただし死後に夫人により、多くの"換骨奪胎"があったことが明かされている。これと同じ中山俊吉を主人公にした自伝的作品に「髪結いの亭主」(1970年)、「負け犬」(1975年)、「人生至る所に」(1975年)、「小説・梶山交友録 孟宗竹」(1975年)がある。
  • 『せどり男爵数奇譚』桃源社 1974年(『オール讀物』1974/1-6月号) - 古書の世界を描いた小説。

また、生前出版された短編を再編集した文庫版も多く出ている。

[編集] ノンフィクション・エッセイ

  • 『松田重次郎 一業一人伝』時事通信社 1966年 - マツダ創業者松田重次郎の伝記。
  • 『浮気心の旅』文藝春秋 1966年(エッセイ、『週刊文春』1966/3-連載)
  • 『性科学XYZ』集英社 1970年(『ビッグコミック』『女性セブン』など各誌に発表したエッセイをまとめたもの)
  • 『ぽるの日本史』桃源社 1973年(歴史上の逸話集、『週刊新潮』連載)
  • 『「トップ屋戦士」の記録 無署名ノン・フィクション』季節社・祥伝社 1983年
  • 徳間文庫「梶山季之 ノンフィクション選集」(全5巻)
1『日本の内幕』1985年 - 1965-66年に『宝石』掲載
2『実力経営者伝』1985年(1963年講談社版の再刊) - 1963年に『小説現代』連載の11名のうち8名収録。
3『日本事件列島』1986年
4『昭和人物伝』1986年
5『ルポ戦後縦断』1986年 - 1958-68年に『文藝春秋』、『週刊読売』、『中央公論』、『週刊文春』、『文芸朝日』に掲載。2007年岩波現代文庫版で『週刊明星』掲載「皇太子の恋」収録。

[編集] 作品集

  • 『梶山季之傑作シリーズ(全7巻)』講談社 1965-66年
  • 『梶山季之自選作品集(全16巻』集英社 1972-73年
  • 『梶山季之集成(全30巻)』桃源社 1972-75年

[編集] 交友・行動録

友人関係

親しかった友人は、ルポライター時代からの付き合いで、講演旅行でもしばしば同行し、心友と呼んだ山口瞳、義兄弟の契りを結んだという黒岩重吾など。1974年に自民党から参議院全国区での立候補を要請されたときに止めたのは結城昌治で、『噂』編集顧問に結城への依頼を考えていた。山口の『男性自身』でも梶山が幾度か題材にされている[7]

同じ広島出身で同年生れの、雑誌『酒』編集者佐々木久子は公私ともに親しく、また毎年同誌正月号での「文壇酒徒番附」では西の横綱を張り続けた。1957年に広島県出身者の阿川弘之藤原弘達木村功、桂芳久、杉村春子で「7の会」を結成(または毎年故郷の銘酒「賀茂鶴」を呑む「カモツル会」)。また成瀬数富と相談し、1965年に大宅壮一と梶山が発起人代表となって「広島カープを優勝させる会」を結成し、毎年激励会を開いた。広島カープは梶山の没した1975年秋に初優勝を果たす。

1962年から都市センターホテルの一室を借り切って仕事場にし、死去まで続いていた。当時そこでフロントクラークとして勤めていたのが森村誠一で、原稿を預かって編集者に渡す時に盗み読みしていたという[8]

『漫画サンデー』に『非常階段』など4本を連載した縁で、編集長だった峯島正行が1972年に『週刊小説』を創刊する際にも『日本人ここにあり』を連載するとともに、先輩の柴田錬三郎、黒岩重吾も紹介し、また広告面で京城中学からの友人である電通成田豊を紹介した。1975年に『週刊小説』に連載中だった「渡り鳥のジョー・北投の椿事」が最後の発表原稿となり、死後発売された掲載号では柴田、黒岩の対談も掲載された。

柴田錬三郎にドボンで負け続けて多額の借金を作ってしまった時、あるホテルの開業記念式典での来賓としての挨拶で「××××(女性器の卑語)と言ったら、これまでの借金を全部帳消しにしてやる」と言われ、「私はポルノ作家の梶山季之であります。人生は、××××であります」と挨拶した[9]

その他の行動

生年について当時の資料には、大正生まれ、昭和2年、3年、4年など諸説が記載されており、これは当人が曖昧にしていたためだが、その理由は明かさないままだった。

『女の警察』執筆は、中国地方で400万円のマンションを建てたという温泉芸者に会いに行ったことがきっかけ。某有名人が毎月30万を送ってくれ、他にもいろいろ旦那がいて、その訳は「私のはミミズ千匹らしいのです」と答えた。さらに「30秒我慢できたら、私のマンションを差し上げます」とまで言われ、梶山は17秒フラットでダウンしたが「お強い方ですわ」と言われた。梶山のバイタリティーは女に対しても同様で、講演旅行では4日間のうち3晩は女を変え、一晩に2人相手にすることもあったという。その体験は読者への情報とサービスになった。しかし梶山の浮気は律儀型浮気と言われ、生活に乱れたところはなく、人に恨まれることもなかったという。(東京スポーツ、日本性豪列伝 有栖川寧文、2007年7月11日)

1974年にはクイズ番組「本ものは誰だ」(日本テレビ)のレギュラー回答者として出演した。

[編集] 再評価

死後30年が経ち、『赤いダイヤ』(2004年)『見切り千両』(2005年)がパンローリングから再刊。2007年には広島で、シンポジウム「時代を先取りした作家 梶山季之をいま見直す」開催。続いて同年、岩波現代文庫で『黒の試走車』『族譜・李朝残影』『ルポ・戦後縦断』が相次いで刊行、2008年には論創社から『彫辰捕物帖』が再刊された。

[編集] 原作作品

[編集] 映画

  • 『黒の試走車(テストカー)』大映東京 1962年
  • 『夜の配当』大映東京 1963年
  • 『のるかそるか』東宝 1963年
  • 『赤いダイヤ』東映 1964年
  • 『夢の超特急』大映東京 1964年
  • 『李朝残影』1967年(初の日韓合作映画)
  • 『族譜』貨泉公社 1978年(文化広報部優秀映画賞受賞)
  • 『カポネ大いに泣く』ケイエンタープライズ 1985年

[編集] テレビドラマ

  • 『赤いダイヤ』TBS 1963年
  • 『のるかそるか』日本テレビ 1964年 - 自身も流行作家の役でドラマ初出演した。

[編集] マンガ

[編集] 関連書籍

  • 『別冊新評 梶山季之の世界 追悼号』新評社 1975年夏号
  • 橋本健午『梶山季之 20世紀の群像1』日本経済評論社 1997年
  • 梶山美那江編『積乱雲-梶山季之 その軌跡と周辺』季節社 1998年
  • 梶山季之資料室『梶山季之と月刊「噂」』松籟社 2007年

[編集] 関連項目

[編集]

  1. ^ 加藤憲作「解説」(『鱶のような紳士』集英社文庫 1987年)
  2. ^ 高橋吾郎「解説」(『狂った脂粉』光文社文庫 1987年)
  3. ^ 1968年に大森実の太平洋大学講師で渡米した際に台風で帰国が遅れ、『小説・太平洋大学』の連載第1回の原稿を間に合わせるために船上からヘリコプターで吊り上げて運んだ。(橋本健午「解説」(『日本一匹狼』角川文庫 1980年))
  4. ^ 野坂昭如「解説」(『ミスター・エロチスト』徳間文庫 1983年)
  5. ^ 「作家の芸談」(尾崎秀樹対談集)
  6. ^ 佐高信『経済小説の読み方』光文社 2004年
  7. ^ 山口瞳『男性自身 英雄の死』新潮文庫 1987年
  8. ^ 森村誠一「解説」(『夜の配当』角川文庫 1979年)
  9. ^ 立川談志『酔人 田辺茂一伝』講談社 1994年 p.187

[編集] 外部リンク

他の言語