進め!電波少年
| 進め!電波少年 | |
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| ジャンル | バラエティ番組 |
| 放送時間 | 日曜 22:30 - 22:54(24分) |
| 放送期間 | 1992年7月5日 - 1998年1月1日 |
| 放送国 | |
| 制作局 | 日本テレビ |
| 製作総指揮 | 棚次隆(CP) 吉川圭三(CP) |
| 演出 | 土屋敏男(1993年6月以降P兼任) |
| プロデューサー | 篠木為八男 長濱薫 小西寛 土屋敏男 |
| 出演者 | 松本明子 松村邦洋 ほか(出演者を参照) |
| オープニング | The Wall 〜長城〜(BEYOND) |
| エンディング | テーマ曲を参照 |
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特記事項: ナレーター:木村匡也 |
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『進め!電波少年』(すすめ でんぱしょうねん)は、日本テレビ系列局で放送された日本テレビ製作のバラエティ番組である。製作局の日本テレビでは1992年(平成4年)7月5日から1998年(平成10年)1月1日まで、毎週日曜 22:30 - 22:54 (JST) に放送。
目次 |
[編集] 概要
当初『笑撃的電影箱』枠内でスタートしたこの番組は、本来はウッチャンナンチャンの『七人のおたく』の撮影専念のため休止を余儀なくされた前番組『ウッチャン・ナンチャン with SHA.LA.LA.』のつなぎ番組として、制作局から急遽土屋敏男に「何かやれ」と持ち上がったものであった。
[編集] 制作の経緯
当時ビッグタレントにお伺いを立て、自分の本当にやりたい企画もすぐに拒否されるテレビ番組作りにうんざりしていた土屋は、視聴率を取れなくてもいいからそのストレスを全部ぶつけてやろうと考えたが、出演者の松本明子と松村邦洋は編成で既に決められており、当時2人を全く知らなかった土屋は「このツーショットなんて誰も見たくないだろう」と後述の顔だけのCG合成を決めた。
構成作家の小山薫堂によると、テレビがどこまでやれば取材拒否されるかという境目を探る番組として企画されたという。当初の仮タイトルは『やったろうじゃん』。それではなんだからと、構成作家の都築浩が当時争論の的となった中村敦夫の発言から『怪傑電波芸者』を提案。しかし製作局長から「芸者はダメ」とNGが出たことを受け、同じく構成作家のそーたにが『電波将軍』と滑舌悪く言ったところ、土屋らに「電波少年か、いいねえ」と勘違いされ、さらに「少年なら『進め』だろう」ということでタイトルが完成した。この『電波少年』及び『進め!電波少年』という名称は、日本テレビ放送網株式会社が所有する商標(商標登録番号第3137022号他)にもなった。
社内的にはひっそりと始まった番組ではあったが、初回の視聴率は12%と好調な滑り出しを見せた。また改編期における海外ロケを中心としたスペシャル『電波少年 INTERNATIONAL』や、1997年(平成9年)以降に放送された大晦日特番も多大な人気を獲得。1998年(平成10年)には1月1日のスペシャルを区切りに『進ぬ!電波少年』へとリニューアルし、以後2003年(平成15年)までの10年強にわたる長期シリーズへと発展した。
後の2010年(平成22年)3月12日より、CS放送の日テレプラスで放送されることが決定した(CS放送ではそれ以前にもCS★日テレで1996年(平成8年)から2000年(平成12年)9月まで地上波との同時放送を行っていた)。さらに同年4月9日に初のDVDの発売、それを記念して同年3月31日の深夜(4月1日午前)に約7年振りに放送され、同年7月23日にDVD第2弾が発売、さらに同年9月に第3弾、第4弾と続けて発売した。それに合わせて、2010年(平成22年)3月29日からは電波少年ホームページもリニューアルされた。
[編集] 特徴・内容
スタジオトークではセットを用いず、松本と松村の2人とゲストの顔だけを映し、CGアートをバックにクロマキーで出演者の顔あるいは上半身だけを合成するという、それまでにない斬新な手法が用いられた。たまに出演者の顔が横に伸びたり、破裂するなどの映像効果があったのもこの番組の特徴である。なお、その映像効果を付けるための機械「ヒット9000」は、当時、日本テレビを含め全世界に数台しか無かったという。
一方でVTRのナレーションでテロップをつけて突っ込む(「好感触♡」とオチをつける、など)手法もそれまでにないもので、後のバラエティ番組に多大な影響を与えたとされている。また、画質が悪かろうがスタッフが映っていようがお構いなしに、ストーリーさえ成立していれば放送するスタイルも斬新であった。
形式上は松本と松村はMCであるが、スタッフはロケの内容を知らせないなどMCというよりリアクターとして割り切った扱いをしており、特に松村には当日のゲストも知らされなかった。ロケの同行スタッフの人数は他番組に比べて少なく、ヒッチハイクの企画では同行ディレクターがカメラマンを兼ねるなど、番組の人気が出るにつれスタッフの人数が反比例して少なくなっていったのも特徴のひとつである。土屋曰く、ビデオカメラの進化、小型化により、少人数でもそれなりの画質を提供できるようになったとのことである。
番組のプロデュースと演出を手がけた土屋は、番組内でも「Tプロデューサー」として若手芸人に使命を伝える場面でたびたび登場。彼の名を大きく知らしめた。
- アポなしロケ
- 当初は「アポなしロケ」という、2人やゲストが事前許可(アポイント)を取らず多くの著名人に様々な依頼を敢行するという企画を中心に行われた。そのスリリングさから人気を博したが、たびたび「無礼だ」などと抗議の的となるお騒がせ番組でもあった。
- アポなし企画は政治家をネタにすることも多かったため、松本と松村の2人は永田町周辺ではブラックリストに載っていたとされている。南アフリカ共和国でのロケでは実際に当時の大統領ネルソン・マンデラと対面し、わざわざ日本から来た松村に驚くどころか感心していた。他にもアポなしでマフィアのボスに会いに行ったり、暴力団の事務所に行ったり、夜のスラム街に行ったりと、生命に関わる危険なロケも多かったが(松村は拳銃で脅されたことすらある)、それが視聴者の興味をそそり高視聴率を記録した。またアポ無し取材で原水爆禁止日本協議会(原水協)に「核廃絶推進番組」のお墨付きをもらったこともある。
- ヒッチハイク企画
- 1996年(平成8年)4月に始まった「猿岩石のユーラシア大陸横断ヒッチハイク」によって番組は空前の人気を博し、社会現象とまでなった。それ以降は無名のタレントを使ってまさに体を張った体験取材企画が中心となったことで、前出のアポなし取材は1997年(平成9年)以降ほとんど行われなくなり、松村も後述の理由から降板を余儀なくされた。
[編集] 出演者
[編集] 司会
[編集] ナレーター
[編集] 電波少年INTERNATIONALに登場したタレント
[編集] その他の主な企画出演タレント
[編集] 代表的なアポ無し企画
[編集] 憧れの227cmの岡山さんに会いたい!
第1回目の企画。松本が会いたい人は、「羽田のモノレールで見かけた大きい人」ということでスタッフが調査したところ、住友金属工業に務めている元バスケ選手の岡山さんということが判明した。会社に取材申請を入れたが、案の定拒否。しかし、Tプロデューサーの「いっちゃえ」という独断でロケ敢行。4時間待った後、会社前で帰宅途中の岡山さんを発見。「ファンなんです」「日本一のタカイタカイをして下さい」とお願いし、見事してもらうことに成功。松本は岡山さんにお礼を言いながら見送り感涙。ここにアポなしロケのスタイルが始まった。
[編集] 森英恵にスタッフジャンパーを作ってもらいたい
開始から3か月ほど経ち軌道に乗りだした頃、松本と土屋が食事をしている時に松本が、「番組のスタジャン欲しいですね」といったところ土屋が「よし、森英恵に頼もう!」と発案し、松本は「エーッ!」と仰天したという。土屋は「絶対無理だろう」と内心確信していたが、後日松本によりこのロケは実行され、意外にも森は「いいじゃないの。やりましょう」と面白がり、作ってくれた。これが最初の大物ロケの成功だったと土屋は語っている。
[編集] アラファト議長とてんとう虫のサンバをダジャレたい!
『PLO議長アラファトと「てんとう虫のサンバ」(チェリッシュ)をデュエットしたい!』という企画。「♪あなたと(アラファト)私が…」という歌詞に引っ掛けている。紛争地帯であるガザ地区に行き実際に会ったが、当然曲を知らず松本が一生懸命教えるが困惑するばかりで結局デュエットは失敗に終わった。直筆のサインももらい、立ち去る松本に議長は優しく微笑みながら手を振ってくれた。アラファト死後、芸能人において唯一の接触者である松本には、マスコミからの取材が殺到した。土屋は行かせたもののまさか本当に会えるとは思っておらず、松本から「会えた」と言われたときも信用しなかったという。土屋はこのロケで手ごたえをつかみ、「アポ無しで海外に行ったらだいたい会えるもんだと思った」とのこと。
[編集] 有名人の豪邸のトイレでウンコがしたい!シリーズ
松村がロケ弁を食べ、その後下剤を服用し便意を催したら有名人にトイレを利用したい旨を交渉。ロケ途中で失敗(脱糞)してしまうことの方が多かったが、峰竜太・海老名美どり夫妻宅では成功している。 電波少年を代表する下ネタロケであるが、回を重ねるごとに松村が下剤に耐性を付け始め、シリーズ後半になるにつれ下剤の飲む量が増えていったが、最後には下剤を克服してしまった。 土屋は当時(1996年(平成8年))アポ無しロケに限界を感じて始めていたがこのVTRに久々に手ごたえを感じたという。よって、撮りだめをして小出し小出しで世間の目を電波少年に引きつけておいて、猿岩石の企画をスタートさせる目論見だった。 PART1~7とシリーズ化され、2010年(平成22年)に発売されたDVDにも特典映像等で収録されている。
[編集] 入れ墨バンドに「バウバウ」って刺青を入れてほしい!
ライブ突入シリーズロケでの第1弾。盛り上がるライブ会場に何のアポもなく、警備、客を押しのけ松村とスタッフが突入。松村は舞台に上がり、入れ墨をお願いしようとするが、会場スタッフに取り押さえられ、ステージ下に下ろされる。警備、ファンから殴られ蹴られ、服は破られる松村。スタッフが必死に謝ってロケは終了した。突入から退散まで3分程度の非常に短いロケであったため、画面右上に秒数を表示させたうえノーカットで放送した。これ以降、ライブ突入はシリーズ化したが、各所で警戒されることが多くなり突入が難しくなった。
[編集] 村山富市の長い眉毛を切ってあげたい!
当時社会党の委員長を務めていた村山富市の眉毛を切ろうと、松村がハサミ持参で社会党本部に乗り込んだ。突然の申し出に最初は難色を示すが、松村の必死の願いに最終的には笑顔で対応。見事成功するも切り落とした眉毛をなくしてしまう。このアポ無しロケの成功により、政治に対してナンセンスなこと(大臣の椅子に座りたい、豪華な会議室で電波少年の会議がしたい、など)に挑戦していくこととなる。
[編集] 豪邸のプールで泳ぎたい!
海外にある豪邸のプールで泳ぎたいと松村がアポ無しで訪問する企画。
- アラブ首長国連邦編(砂漠で遭難)
移動中に車が砂漠のど真ん中で故障するトラブルが発生。その場にいた全員が歩いて脱出するには水が足りないため、松村ら3名を車に残し他のスタッフらが徒歩で脱出し救助を求めることになった。スタッフは無事脱出しその夜には故障車に戻ったが、松村らはなかなか救助がこないことや水が足りないことを心配し自力で脱出しようと試み故障車を後にしていた。スタッフは一晩中必死に捜索するが見つからずついに夜が明け、ヘリコプターに救助を要請、陸と空で無線で連絡を取り合いながらの大がかりな捜索へと発展する。一方、松村らは歩けど歩けど辿り着かず気温の上昇とともに体力が消耗しついに動けない状態まで陥り、水も底をつき脱水症状が見られるほど追いつめられていた。スタッフに絶望感と焦りの色が見え始めていたが昼過ぎについに松村らを発見、砂漠で遭難してから24時間後に奇跡の生還を果たしたのであった。
[編集] 「ヨッ大統領憎いねコノ~!」と言ってあげたい!
松村が海外の大統領に会いに行き、「ヨッ大統領憎いねコノ~!」と言ってあげる企画。会えないで終わることもあったが、南アフリカのマンデラ大統領や、アメリカのジミー・カーター元大統領などには対面することに成功した。
[編集] その他の企画
- 一億円棋士、羽生善治と金銀飛車角桂馬香車歩落ちで戦いたい!
- 松村が羽生の自宅を突然訪問。「対決したい」との旨を伝えたところ了承してくれた。羽生は王しか使えなかったが、松村に勝利。
- 明石康代表に明石焼を食べさせたい!
- 出川哲朗が成功させたロケ。
- この高価なお茶碗で、ご飯が食べたい!
- 『人生が変わる1分間の深イイ話』2008年(平成20年)6月9日放送分で紹介。坂本瀧山(陶芸家)製作高級茶碗で松本がご飯を食べた。坂本曰く「用の美」(実際の使用時こそ、陶器の美しさそのものが最大限になる)。
上記以外にも、経営があぶなくなった新宿末広亭を「広末亭に改名すればいい!」と、勝手に作った看板を持って山田花子が突撃するも、受付で門前払いされたり、フランスの世界的作曲家ポール・モーリアを松本が訪れ、作曲を無理やり懇願。「ネコなんだもん」というタイトルで作曲してもらうことに成功するなどの企画も放送された。
[編集] その他の企画
[編集] 渋谷のチーマーを更生させたい!
番組の名物企画。夜毎、暴力事件を起こすチーマーたちを立ち直らせたいと、松村がチーマーに変装し渋谷センター街へ。更生した若者には更生証明書を渡す準備をしていた。数人のチーマーに注意すべく近づいたところ「なんだこいつ? チーマー? テメエが?」と、あっという間に大勢のチーマーに囲まれ、路地の奥へと引っ張り込まれていく。カツラをはぎ取られ松村であることが判明、また隠しカメラも見つかりチーマーは激昂。松本は無線で「松ちゃん、ものまねでなごませろ!」と指示を出すも、皮ジャンをはぎとられた松村は「やっちゃおうぜ」と、チーマーたちに腕をつかまれどこかへ強引に連れ去られようとする。松村、腕を振り切り、ロケバスへ一目散。辛うじて最悪の事態は免れた。
[編集] 本当に強いのか体を張って確かめたい! シリーズ
- ユン・ピョウは本当に強いのか体を張って確かめたい
日テレ前、仕事を終え車に向かおうとしていたユンピョウを待ち伏せしていた松村がハリセンで「ユンピョウ覚悟〜」と襲いかかる。しかしハリセンは届かず、周りの数人のボディーガードに捕まった挙句本気で蹴られ、ユン・ピョウからも攻撃を喰らうなど散々な目に遭う。当時の篠木プロデューサーは「これはテロだ」と、オンエアに反対したが、スタッフでもう一度見直したところウケが良かったのでオンエアした。このあとジャッキー・チェン、宮沢喜一とシリーズ化する。
- 海外対決シリーズ
電波少年INTERNATIONALではターゲットは動物。ライオン(アフリカ)、熊(カナダ)、ワニ(オーストラリア)、マウンテンゴリラ(アフリカ)、コモドドラゴン(ジャカルタ)とシリーズ化した。松村がハリセンを持って立ち向かうのだが、追いかけられたり至近距離に接近したり危険な目にあって戦意喪失して終わるのが定番であった。コモドドラゴンのロケでは、コモドドラゴンに追いかけられ死の恐怖を味わったうえ〆谷ディレクターの方へ逃げたことでディレクターにも本気で怒られるなど散々なロケだったようで、様々な危険なロケを経験してきた松村でさえ一番きついロケだったと回顧している。
[編集] 牛のゲップを吸い切りたい(地球温暖化を食い止めたい)!
温室効果が二酸化炭素の20倍もあるとされるメタンが多く含まれた牛のゲップを松村が吸い取る企画。さらには3年後、一人の力では温暖化が食い止められないとして、出川哲朗、山崎邦正、ウド鈴木の3人が加わった『牛のゲップを吸い切りたい(団体戦)』も行われた。なお、この企画が2008年(平成20年)6月8日放送の日本テレビ開局55年記念特番『Touch! eco 2008 明日のために…55の挑戦?スペシャル』のコーナーとして16年ぶりに復活し、松村と関ジャニ∞の横山裕がこのロケに挑んだ。
[編集] NHK紅白に出たい!
元々アイドル歌手でもあった松本明子のはかない願いから、「紅白に出たい!」とNHKに猛アピール。頻繁にNHKに通っていた。紅白歌合戦の最中、NHK前で前述の「ネコなんだもん」を絶唱。紅白にも「入れてやれ」という意見が多く届いたという。3年後、ついに合唱団員として潜入し紅白のステージに立った。NHKのカメラに松本が映し出されたが、手には「紅白もらった」という幟があった。現在でも、松本がNHKのバラエティ番組のゲストとして出演すると、「松本さんは実は紅白に出てたんですよ」と、必ずといっていいほどこの映像が紹介される。ちなみに「ネコなんだもん」は「天才てれびくん」のエンディングテーマとしてNHKの電波に流れることとなった。
[編集] バツイチになりた〜い!
松村と実際に婚姻→離婚する女性を番組で募集、プレゼントとして指輪(婚約指輪扱い)が用意された。これに当時26歳の看護婦(交際相手なし)が応募し、松村・松本とあるレストランで対面した。
まず、女性と松村は婚姻届にサイン、松村から女性に婚約指輪が渡された。女性は婚姻期間(3日間・1週間、1ヶ月)と生活形態(別居・同居)を選ぶことになっていたが、迷わず「3日間の別居」を即答で選択。「初夜を共にできる」と期待に膨らんでいた松村の落ち込みは激しかった。
ここで松本が登場し、「バツイチになるために離婚届を書いていただきます」と書類を渡すと、女性は「はい」と即答でサイン。松村は「離婚し……ますか?」と苦悶する。レストランの玄関で見送る際に「僕達夫婦だったんですよね」「別れても幸せになってください」としつこいまでに別れを惜しんだ。
後日、松本が実際に中野区役所へ婚姻届を、3日後に離婚届を提出。これにより、今の松村は戸籍上「バツイチ」である。
[編集] 松村の本名を変えたい!
放送当時はバルセロナオリンピックに沸く1992年(平成4年)。飛躍の年にすべく五輪にちなみ、「松村バルセロナ」に戸籍上の改名をしようと番組側が提案。実家に行き松村が父に「お父さん、ここでひとつ松村バルセロナという名前に改名しようと思うんです」と告げたところ、父は「そら、えかろうよ」「名前はお前のものだから」と何と了承。家庭裁判所に申請し、結果を待ったが家庭裁判所が却下した為、許可は下りなかった。ちなみに松村と裁判官のやり取りは、ニュースの裁判報道のように絵で表現した。
[編集] 恐竜の化石を掘り起こして御利益で結婚したい!!
タイのジャングルに幸運の恐竜化石があると聞き、三十路を越えたばかりの松本は「ご利益で結婚したい!」と意気込んで探しに向かった。しかし移動途中に車が突然故障、ジャングルの中を歩いて向かうことにするが、松本やスタッフはヒルに襲われ血だらけになり、ADが崖から転落するなどトラブルが続いてしまう。さらに地元のハンターに出くわし周囲にトラの足跡があり危険と知らされロケを断念。引き返そうとするが人のいる村までかなりの距離を歩かなければならず、松本の疲労は限界に達していた。厳しい山道を抜け、たまたま通りかかったトラックのヒッチハイクに成功し帰れる目途がついたが、荷台には極限状態で奇声をあげる変わり果てた松本の姿があった。松本曰く、電波少年史上最も過酷なロケだったらしい。
[編集] その他
- エアMAX狩りをやめさせたい!
- 当時人気のナイキエアMAX95を履いた松村が、(しかも靴が目立つようにとパンツ一枚で)池袋西口公園に1人で突入するも、すぐに人がたかり蹴られるなどの暴行を受ける。さらに、エアMAXを履いていることをチーマーたちに気づかれて一気に襲われたためにロケバスに戻ったが、靴を盗まれてボロボロになっていた。だが、接着剤でくっつけていた靴底だけは死守したと満足げだった。
- 青島東京都知事に会いたい!
- 何かと理由をつけては「青島さんに会いたい!」と都庁を突撃し断られ続けていたが十数回に渡るアタックの末、海外にてようやく対面。「電波少年迷惑でした?」という問いに青島都知事は「いやいや、時間とってあげたいんだけど」と回答。都庁サイドから番組スタッフには「いい加減にしろ」と相当な圧力があったらしい。
- アポなしサンタ
- リースの掛かっている家に、松村・松本がサンタの格好でプレゼントを渡しに行く企画。プレゼントのおもちゃは松村・松本が玩具・ゲームメーカーに赴いて直接ゲットしたもの。電波少年にしては珍しく毒気の無い企画で「年に1度の心温まる企画」。1995年(平成7年)12月24日放送ではこの企画の1時間スペシャルが放送されている。『進め』終了後は『雷波少年』に移行。また、『進ぬ』でも小池栄子がプレゼントを持って「アンコールワットへの道の舗装」の応援へ向かう『小池栄子のアポなしサンタ in カンボジア』が行われた。
- 山崎邦正男を磨く旅
- 山崎邦正がヘタレキャラを返上するための企画。イタリアのシチリア島のマフィアに詫びを入れさせようとしたり[1]、スペインの牛追い祭りに参加したり、タイで虎と対決したり、アンデス山脈でコンドルの羽を取ろうとしたり、メキシコで吸血コウモリを退治しようとした。マフィアのボスの元に乗り込んだ際は、ロシアンルーレットで銃口で脅されるなどかなり危険なロケであった(スタッフが山崎の追跡に失敗し見失ったためマフィアとのやりとりの一部始終は山崎が撮影していた)。牛追い祭りに参加したときは、地元のニュースに取り上げられて、「韓国人が空手で牛と戦っていました」という内容で放送されていた(この時のゲストは木村拓哉)。虎との対決では、タイガーマスクのマスクを被って待機&対決用の檻に入れられ[2]、虎が出たときに、山崎は「パンチ野郎」なる武器で攻撃したにも拘らず、失禁してしまった。
- 無敵のセールスマン
- ふかわりょうがカラオケボックス専用ゲームソフト、『電波少年的ゲーム』(開発はハドソン。後にセガサターン・プレイステーションで全国発売)をセールスマンとして売り歩く企画。マイクロソフトのビル・ゲイツ会長にも自宅に赴き売り込みを図ったが、敷地にも入れず、さらには不審人物扱いされ失敗に終わった。この企画は『進ぬ』初期でも引き続き放送された。
- ハウス加賀谷の助っ人シリーズ
- ハウス加賀谷が世界遺産などの修復作業に助っ人として参加する企画。アンコール遺跡、マチュ・ピチュなどに赴いた。サグラダ・ファミリアの建築の手伝いをしに行った際、名前を聞かれて「カガヤ!(Caga ya!=スペイン語で大便しろの意)」と答え失笑を買う一幕もあった。このとき勝手に立入禁止の場所に入ったとの理由で、現場監督から追い出され、数時間にわたってサグラダファミリアの前で正座をさせられた。
- キャイ〜ンのはじめてのおつかい
- キャイ〜ンの天野ひろゆきとウド鈴木がドイツとオランダへ別々に入国し、何とかして国境へ辿り着き「この帽子ドイツんだ?」「オラんだ〜」というダジャレを言うという「おつかい」をする、という企画。天野は順調に国境へ辿り着くが、ウドをこっそりと付けていたスタッフが途中で見失うというハプニングに見舞われるも、数日後れでウドが到着し、無事おつかいをこなした。後半ではこの番組初となるヒッチハイクロケを決行。スタッフ・視聴者に好評で、後の猿岩石の企画にも繋がった。以降、「もうタイへん!どうもすみミャンマーせん」「チェコだけよ~、あんたもスロバキアねぇ~」「ひと目会ったその日ガーナ、恋も花咲くコートジボワール」「このインドが目にスリランカ」「スイスィスイスダラダッタ フラフランスイスイスイ」とシリーズ化する。また、『電波少年に毛が生えた 最後の聖戦』の中でカラテカにより復活した。
- 48時間テレビ
- 1992年(平成4年)8月に、本家の『24時間テレビ』に対抗して電波少年独自で『48時間テレビ』と題したイベントを行った。この功績が本家に認められたのか、1993年(平成5年)の『24時間テレビ16「愛の歌声は地球を救う」』に松本・松村がチャリティーパーソナリティとして参加した(正式には「お手伝い」という名目)。
- 行くバウ来るバウ
- 1992年(平成4年)大晦日受験生の合格祈願を願って、除夜の鐘に合わせて松村の持ちギャグ「バウバウ」を108つ受験生みんなで叫ぶ、という企画。集客人数の見込みを大きく上回る一万人もの受験生が集まり開催が危ぶまれるが、無事決行された。しかし、あまりに人が集まりすぎたため用意していた合格祈願のお守りやとん汁を配ることができず、余興として企画されていたカラオケ大会は中止せざるをえなかった。
- 電波少年刑事
- ビビるが出演。ある事件の取材中に被害者女性宅をカメラで撮影し110番通報されるトラブルが発生。取材は打ち切りとなり、警視庁からの抗議を受けた日本テレビから土屋が厳重注意処分を受けた。無敵のセールスマン同様、『進ぬ』初期に1回のみ放送された。後に『雷波少年』で『雷波少年刑事』という企画も放送された。
- 最高の書き初めがしたい!(途中でドロンズのゴール設置に変更)
- アラスカに生息するジャコウ牛の毛を使って書き初めをしようと、松村が探しに向かったが結局発見することはできなかった。途中でTプロデューサーから連絡が入り、ドロンズのゴールゲートの設置を命じられる。オーロラを見るなど貴重な経験をしたが、スノーモービルで凍傷したりマネージャーが行方不明になったり過酷なロケだったようだ。
- STOPエイズキャンペーン
- 出川哲朗が番組オリジナルコンドームである「バウドーム」を配布する企画。ロンドン・サンフランシスコ・シドニーで配布を行ったが、出川はワイヤレスマイク1つで配布先に潜入するのだが、配布先でマッチョな男などに襲われ、さすがにスタッフも救出をためらっていた。
- ダイアナ元妃の意思を継ぎたい
- 松本がカンボジア国内に無数に埋められている地雷を撤去しに向かう企画(生前ダイアナ元妃は地雷撲滅キャンペーンに力を入れていた)。現地の撤去作業員の同意のもと、実際に地雷の撤去作業を行った。
上記以外にも、番組から電波子(現・滝島梓)というアイドルタレントを生み出し、それの妹分・電波子2〜28号を登場させるという企画や、女性タレントの広告ポスターに対し「小便を漏らしているようだ」と抗議していた(地方)議員に、「それはお漏らしとは言わない」と松村が自らオムツ姿で出向き、実際にお漏らししているポスターを持っていった企画も放送された。
[編集] ヒッチハイク横断
[編集] ユーラシア大陸横断ヒッチハイク
1996年(平成8年)4月、進め!電波少年のオーディションに参加した当時無名のお笑いコンビ芸人猿岩石が、Tプロデューサーに香港で番組の前説をするように頼まれて連れて行かれた。しかし、番組の放送中に突然呼び出されて、そこで「ユーラシア大陸をヒッチハイクで横断、ロンドンがゴール」という壮大な目的を果たすよう告げられる。猿岩石が選ばれた理由は、むこう半年間のスケジュールが全く白紙だから、という理由だった。
- 企画の推移
軽い気持ちで引き受けた2人だったが、中国入国の際にビザが必要である事を知らず、いきなり香港で数日足止めを食らう事になった。所持金の10万円はすぐに底をつき、その後は日雇いアルバイトをしながら食費、交通費を稼ぎ心身ボロボロになりながらヒッチハイクを繰り返し西へと向かった。インドを過ぎた辺りから高い人気が出始め、視聴率は急上昇。他の企画が押されるはめとなり、松村降板にもつながった。爆風スランプによる応援歌『旅人よ』も発売されたり、ヒッチハイク時代を書いた「猿岩石日記」もシリーズ累計で250万部のベストセラーになったりと反響は大きかった。
一方で、猿岩石は全行程をヒッチハイクだけでゴールしたとされていたが、道中で3回ヒッチハイクでない飛行機を使っていたことが判明した。ルートの途中には内戦などのため治安が悪いところがあり、大事をとって飛行機に乗ったものとしているが、番組では判明するまで全く触れていなかった。日本テレビの氏家齊一郎社長(当時)は「(バラエティという)番組の性質上、倫理とか道義的な責任はないと考える」とコメントし各方面から非難を受けた。
また、バックパッカー経験者からは、番組中で猿岩石が「治安の悪い地域で野宿をする」「生水を飲む」といった実際の旅行者なら絶対に行わない行動をしていることから「番組を真似した視聴者が実際にやれば命に関わる」と警告の声が出ている[3]。
- 企画終了とその後
幾度のリタイヤの危機を乗り越え、1996年(平成8年)の10月にゴール。この時は船越雅史(当時日本テレビアナウンサー)が実況レポートを担当し、生放送が予定されていたが、当日に読売ジャイアンツの優勝決定試合が入ったため、急遽録画に切り替わった。ゴール直後、番組から「今度はアメリカ南北大陸縦断」と提案され、日本行きかスタート地点のマゼラン海峡行きのチケットのどちらか選択するよう迫られる。この件について、日本テレビへの抗議電話が殺到し回線がパンクする事態となった。猿岩石は結局日本行きを選択するが、後年「帰りの飛行機の中、スタッフは般若の如く怒り狂っていた」と語っている。なお、土屋は著書において、電波少年がお笑い番組なのに感動へ向かっていることに危機感を覚え、猿岩石は絶対に日本行きを選ぶと確信していたからこそ、予防注射をさせるなどの敢えてお馬鹿な演出をしたことを明かしている。猿岩石は帰国後、西武球場で凱旋帰国ライブを行い、超満員の客に迎えられた。
また、アメリカ南北大陸縦断ヒッチハイクの企画はドロンズに受け継がれ(後述)、猿岩石ほどではないが高い人気を博した。ヒッチハイクは番組の顔となり、『進ぬ』でも『アフリカ・ヨーロッパ大陸縦断』『80日間世界一周』などとシリーズ化された。
この番組とは関係ないものの、2007年(平成19年)11月には有吉弘行が「ブレイクした頃の輝きをもう一度取り戻すキッカケにしたい」という自らの希望で東北横断ヒッチハイクを行い、DVDも発売された。また、2009年(平成21年)8月30日の『24時間テレビ』で、有吉がインドの恩人にヒッチハイクで会いに行く企画が放送された。
[編集] 南北アメリカ大陸大陸縦断ヒッチハイク
1996年(平成8年)11月、電波少年の前説を担当していたドロンズに突然カンペが出され、南北アメリカ大陸の縦断ヒッチハイクを命ぜられる。ヒッチハイクといえば猿岩石のイメージが強いが、実際のところ1997年(平成9年)大晦日にゴールするまでにかかった日数は猿岩石の2倍の1年2カ月であった。
- 企画の推移
彼らの旅は常に出会いを大切にする旅であり、ドキュメンタリー色が強かった。アルゼンチンで、地元の人のアドバイスにより小学校でスペイン語を勉強し、日常会話に支障がないほどに習得する。ペルーでは地元テレビ局のプロデューサーに気に入られ1カ月近くバラエティ番組に出演し、またアメリカではキャンピングカーで旅をしている男性に体調不良になった大島の入院費を全額負担してもらうなど、人との触れ合いが多かった。一方、同行ディレクターが見知らぬ男に暴行される、ヒッチハイクした車がスピードの出しすぎで横転する事故に遭うなど、一歩間違えば生死に関わるようなトラブルも多かった[4]。 なお、前田亘輝による応援歌『君だけのTomorrow』も爆風スランプ同様ヒットを記録した。
- 企画終了とその後
ゴールの模様は1997年(平成9年)大晦日NHK紅白歌合戦の裏番組として生中継され、紅白の裏番組の最高視聴率(当時)15.9%を記録した。そして翌日元旦にも生放送で特番が組まれるが、「進め!電波少年は本日をもって終了します」と知らされドロンズは呆然としたまま番組は終了する(しかし実際は「進ぬ」がスタートするため後日談は「進ぬ」内で放送)。帰国後ドロンズは、24時間凱旋帰国ライブを行った(24回あると知らされたのは1回目のライブ直後である)。
その後ドロンズは、後にスタートする『雷波少年』でロバのロシナンテとともに日本をヒッチハイクして縦断する企画に参加した。
[編集] 松村降板騒動
1997年(平成9年)4月13日にテレビ朝日系列で放送された朝日放送(ABCテレビ)制作『ゴールデンナイター』阪神×巨人戦(甲子園)の中継に松村邦洋がゲスト出演した際、当時土曜日の『サタデージャングル』レギュラーであったことから「この後の『サンデージャングル』を見てください」と発言。
「サンデージャングル」は11時からで電波少年は10時半からの放送だが、その日は『おしゃれカンケイ』が60分スペシャルのため、30分遅れで11時からの開始になった。このため電波少年の裏番組を応援する発言をしたという理由で強制的に番組出演自粛させられる。しかし、視聴者から「松ちゃんを許してあげて」などの要望が多数寄せられたため、松村はすぐに復帰を果たす。ところが今度は逆に「松村を許してんじゃねーよ!」などの苦情が殺到したとして、再度降板となる。すると、態度をはっきりしない日テレに対して「ふざけているんですか」という苦情が寄せられるようになったとして、番組内で(木村匡也が軽薄な口調で)「ふざけてます♥」と回答。これが新たに批判を生み出すことになり、結局テレゴングによる視聴者投票によって再び復帰するが、『進め』の終了に伴い卒業という形で勇退となった。また、『進め』末期では一時期松村のロケしてきたVTRがほとんど放送されず、松村が「僕のロケ映像が全然放送されない」と言い、深夜のフィラーの時間に『松村邦洋のひとり電波』という5分程度のミニ番組が放送されたが、2回で打ち切りとなった。
後になって土屋は自分の著書の中で、「番組改編であり、最初から決まっていた」と証言している。また、土屋は電波少年が有名になったことで、アポなしをしても相手が歓迎してしまうという、今までのケースが成立しないロケも出てくる一方、猿岩石の大成功から「これからはヒッチハイクが主になる」と考えていたことを明かし、アポなしの顔である松村も同時期に「豪邸でウンコ」シリーズなどで奮闘したが、松村は「自分の出番が無い!」という事自体が一番ウケており、司会進行役の松本は残すにしても、その後の番組の構成上、外さざるをえなかった、としている。
すなわち、「アポなし企画をやめる以上、松村の降板は避けられなかった」というのが真相で、松村はただひっかけられていただけであり、「サンデージャングル発言」は全くの無関係であった。但し、『進め! 電波少年』といったら松村』と土屋もその功績を認めている。
松村は1997年(平成9年)大晦日のドロンズゴール特番には出演したが翌日の元旦の特番には出演せず、後に松村不在の「進ぬ」がスタートするため、大晦日が最後の出演となった。この突然の降板について、番組や本人からは何の挨拶も説明もなくその後の番組内でも松村について一切触れることはなかった。土屋は降板騒動について「実はマッちゃんがノイローゼになったとか周囲から言われて心配していた」と語ったが、何の挨拶もなかったことについては「電波少年に花束はいらねぇだろう」とのこと。ちなみに、この松村の降板に対する抗議電話は一本もなかった。
猿岩石が日テレ系列のバップから歌手デビュー(「白い雲のように」はコロムビアから発売された)しなかったことにより、松村と猿岩石の所属事務所である太田プロと日本テレビの関係が悪化したことが原因であるという説もある。実際に「進ぬ!」以降、2003年(平成15年)3月1日の「恥ずかしながら帰って参りましたスペシャル」まで電波少年シリーズと太田プロの絶縁状態が続いた。
[編集] エピソード
- 初回の放送で、「イラン人AD募集」として日本語の流れないペルシャ語だけの映像を流した(映像の意図は後日判明する)。土屋は視聴率よりも視聴者を驚かせたい気持ちで流したらしい。実際に一人のADが採用された。
- アポなしのロケに急遽抗議があり放送できなくなり、穴埋めとしてアルプスの美しい風景を1分ほど流したことがある。この手法は「進ぬ」以降も何度か行った(電波少年ヨーデル祭り)。
- 海外ロケでは、ホテルを予約せずに安い金額でホテル探しをするのが定番であった。
- ゲストに明石家さんまが来た際、照明がないことや雪山を歩きまわる、動物と闘うといった番組のスタイルに驚き、「なんぼギャラつまれてもやらん。あかん」と語り言葉を失っていた。
- 番組初期にはテレビ番組にめったに出演しない松任谷由実や、当時物議を醸していた悪魔ちゃんもゲスト出演した。構成作家のおちまさとの妻(当時)がなぜかゲスト出演したこともある。また、ゲストが決まっておらず急遽日テレ内にいるタレントにアポ無しで出演交渉をすることもあった。
- 松村は「我々が行くところは安全じゃないけど、景色はいい」と語り、松本や土屋も同調している。現にアラスカでオーロラを見たり砂漠を彷徨ったり他番組では味わえないような貴重な景色に出くわしている。
- 松本は「電波少年は『オシャレ30・30』と『ガキの使い』のつなぎですから」と発言したことがある。
- 土屋は女優・高橋ひとみが番組の熱烈なファンと聞き、ゲストに呼んだ回で「おっぱい見せて欲しい」と番組でお願いしたが(当然ながら)通じる訳も無く、当の高橋はこの言葉にショックを受け、泣いて帰ってしまったという。その模様は放送されなかった。
- 一方で番組スタッフはロケ後、謝罪を繰り返し、オンエアーにつなげた。長濱プロデューサーは「ディレクターや作家の力量もありますが、この番組成功のおおもとは人柄だと思います。僕らは何度も何度も広報の人に頭を下げてオンエアーできるようにがんばってきたんです」と語っている。
- 「松村が貴女のストーカー問題を解決します」として視聴者からの依頼を募集したことがあったが、結局その企画が放送されることはなかった。
- 松本が日本テレビの連続ドラマに出演している時期、そのドラマに出演している俳優がゲストの回では必ずと言っていいほど最後に「先週の電波少年見た?」もしくは、「先週の猿岩石見た?」というセリフを言ってほしいというアポ無し企画があった。
- 土屋は著書やDVDの中で、追いつめられる松村はチャーミングであると評し、この表情が見たいがために過酷なロケを繰り返したと語っている。このキャラクターだからこそ我々は大人のいじめっこにならずにすんだ、と松村の功績を高く評価している。
- 他局の番組でもある志村けんはいかがでしょうに出演していた桑野信義にコント中に志村けんに対し、台本にないセリフとして「このハゲ」と言うように命じたことがある(その命令は実行され、その模様は実際に番組内でオンエアされた)。
[編集] 各地方の放送時間
放送枠がローカルセールス扱いとなっている関係上、系列局であってもローカル番組の放送や他番組の遅れネットなどを優先して同時ネットしない地方局が存在した。
- 中京テレビ(『P.S.愛してる!』)、テレビ信州(『信州2230TV』)、よみうりテレビ(『大阪ほんわかテレビ』)、広島テレビ(『進め!スポーツ元気丸』)、福岡放送(『ナイトシャッフル』)
- 上記ローカル番組を同じ時間帯で放送している都合上、同時ネット化はされておらず、日本テレビでの放送から6日遅れの土曜17時から放送されており、『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』も続いて放送されていた(よみうりテレビでは未ネットや月曜深夜での時差ネットの期間も有り)。
- 福井放送、秋田放送、四国放送
- いずれも『ナショナル劇場』の遅れネットのため、特番を除いて同時ネット化はされていない。四国放送では、末期までは特番を除き未ネットだった。
- 南海放送
- 伊予テレビ(現:あいテレビ)開局以前は『ナショナル劇場』、あいテレビ開局後はテレビ朝日のテレビ朝日日曜8時連続ドラマ(→『世界とんでも!?ヒストリー』→『TVダイジェスト』)の遅れネットを行っていたので同時ネットではなかったたが、1995年(平成7年)4月から同時ネットになった。
- 山口放送
- 山口朝日放送開局以前は、テレビ朝日の時代劇のうち、本来は木曜20時台に放送される作品(『名奉行 遠山の金さん』ほか)の時差ネットのため、やはり特番を除いて同時ネットされなかった。
- 高知放送
- 札幌テレビ
- 『日高晤郎のスーパーサンデー』(一時期青森放送でも同時ネットされていた)の放送を優先したため、開始当初は日曜昼の時差放送だったが同番組の終了後同時ネットになった。
- 山梨放送
- 青森放送
- 1997年3月までは1週遅れで日曜正午→水曜深夜に時差ネットしていたが、1997年(平成9年)4月以降日本テレビ同時ネットとなった(お祭り特番などの場合は時差ネットであった)。
- テレビ岩手
- 当初より遅れネット(日曜正午→日曜深夜)となっており(同時ネットされていた時期や未放送期間もあり)、後番組である『進ぬ』がスタートしてからも、2000年(平成12年)4月に日本テレビ同時ネットとなるまで遅れネット状態が続いていた。
- 西日本放送
- 番組スタートから同時ネットしていたものの、初期ではローカルの特番で潰れることがちょくちょくあった。
- ミヤギテレビ
- 『笑撃的電影箱』時代にはこの時間は『モット!モット!TV』を放送していたため、木曜深夜に3か月半遅れで放送していたが、後に同時ネットになった。
- 大分放送 → テレビ大分
- 当初の3か月程は大分放送でネットされ、その後テレビ大分での遅れネットとなった。
- 琉球放送
- TBS系列であるため、最後まで同時ネットされることはなかった。基本的に2週間遅れで深夜帯の放送であった。
- その後の『進ぬ!電波少年』や『雷波少年』などの電波少年シリーズに属する番組群も同局で放送された。
[編集] テーマ曲
[編集] オープニングテーマ
- The Wall 〜長城〜(BEYOND)
[編集] エンディングテーマ
- 「The Wall 〜長城〜」BEYOND(1992年7月5日 - 1993年3月28日)
- 「アポなしの恋」電波子・松村邦洋・松本明子(1993年4月4日 - 8月8日)
- 「ただ抱きしめるだけの愛で悲しませないつもりなんて」パーコパコ(1993年8月15日 - 1994年1月30日)
- 「ネコなんだもん」松本明子(1994年2月6日 - 3月20日)
- 「たとえば、ずっと…」松本明子(1994年3月27日 -)
- 「シンネコしましょう」MASAHARU & NAMIKO
- 「レミレミ」神森徹也
- 「I LOVE FIFA WORLD CUP」李博士
- 「YELLOW YELLOW FIRE」CASCADE
- 「Ivory trees」La'cryma Christi
- 「FOOL」PARADISE LOST
- 「とまらない鼓動」VINYL
[編集] スタッフ
- 構成:小山薫堂、鮫肌文殊、そーたに、おちまさと、都築浩、海老克哉、田中直人、中野俊成、澤井康成
- チーフプロデューサー:棚次隆(前期)、吉川圭三(後期)
- 演出・プロデューサー:土屋敏男(1993年5月30日までは演出のみ、同年6月6日よりプロデューサー兼任)
- プロデューサー:篠木為八男(1992年7月5日 - 1993年5月30日)、長濱薫(NTV映像センター・当時)、小西寛(THE WORKS)
- ディレクター:〆谷浩斗(NTV映像センター・当時)、香川春太郎、飯山直樹、川端基浩、塩野智章、飯島冬貴、中西太、中村元信(読売テレビ)、小笠原豪、似鳥利行、北村英樹など
- 制作協力:THE WORKS、NTV映像センター
[編集] 参考文献
- 土屋敏男「電波少年最終回」(日本テレビ放送網、2001年、ISBN 4-8203-9790-7)
[編集] 脚注
- ^ 他にもローマのテルミニ駅前で麻薬撲滅を訴えたり、イタリアのひったくり撲滅を訴えたりした。
- ^ 檻の中には食料やゲームボーイなども入れられ、対決に備えていた。
- ^ 『猿岩石大ウソ日記』(鹿砦社、ヒッチハイク愛好会)
- ^ また、放送はされなかったが、アメリカでのヒッチハイクの最中通りすがりの車に銃で発砲されていたことが2011年(平成23年)8月5日放送の『情報ライブ ミヤネ屋』に出演した石本の証言により明らかになった。
[編集] 関連項目
- 電波少年シリーズ
- 電波少年INTERNATIONAL
- ヒッチハイク
- ユーラシア大陸
- 南アメリカ大陸
- 北アメリカ大陸
- 松村邦洋のひとり電波
- 雷電為右衛門 (テレビ番組)(特番)
- 電波少年的放送局(CS放送)
- 電波少年的放送局企画部 放送作家トキワ荘
- 雲と波と少年と
- 第2日本テレビ
- 新電波少年(第2日本テレビのみで視聴可能)
- 1or8 - アポ無し、ゲリラ企画、ヒッチハイク企画の原点。
- お笑いタレント
- リアクション芸人
- COCO
[編集] 外部リンク
| 日本テレビ 日曜22時台後半 | ||
|---|---|---|
| 前番組 | 番組名 | 次番組 |
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ウッチャン・ナンチャン with SHA.LA.LA.
(1991.10 - 1992.6.28) |
進ぬ!電波少年
(1998.1.11 - 2002.9.29) |
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