進め!電波少年

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進め!電波少年
ジャンル バラエティ番組
放送時間 日曜 22:30 - 22:54(24分)
放送期間 1992年7月5日 - 1998年1月4日
放送国 日本の旗 日本
制作局 日本テレビ
製作総指揮 棚次隆(CP)
吉川圭三(CP)
演出 土屋敏男1993年6月以降P兼任)
プロデューサー 篠木為八男
長濱薫
小西寛
土屋敏男
出演者 松本明子
松村邦洋
ほか(出演者を参照)
オープニング 「The Wall 〜長城〜」(BEYOND
エンディング テーマ曲を参照

特記事項:
ナレーター:木村匡也
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進め!電波少年』(すすめ でんぱしょうねん)は、日本テレビ系列局で放送された日本テレビ製作のバラエティ番組である。製作局の日本テレビでは1992年(平成4年)7月5日から1998年(平成10年)1月4日まで、毎週日曜 22:30 - 22:54 (JST) に放送。

概要[編集]

アポなし、突撃、ヒッチハイク、さまざまな無茶に挑戦したテレビ史上類を見ない伝説的バラエティ番組として幅広く認知されている。マフィア、暴力団、スラム街までも番組の題材にし、生命に関わる危険なロケも多かった。企画によっては警視庁都庁サイドからも抗議や抑圧があり、それこそ現在では到底、制作不可能な番組である。

当初『笑撃的電影箱』枠内でスタートしたこの番組は、本来はウッチャンナンチャンの『七人のおたく』の撮影専念のため休止を余儀なくされた前番組『ウッチャン・ナンチャン with SHA.LA.LA.』のつなぎ番組として、制作局から急遽土屋敏男に「何かやれ」と持ち上がったものであった[1]

制作の経緯[編集]

当時ビッグタレントにお伺いを立て、自分の本当にやりたい企画もすぐに拒否されるテレビ番組作りにうんざりしていた土屋は、視聴率を取れなくてもいいからそのストレスを全部ぶつけてやろうと考えたが、出演者の松本明子松村邦洋は編成で既に決められており、当時2人を全く知らなかった土屋は「このツーショットなんて誰も見たくないだろう」と後述の顔だけのCG合成を決めた。

構成作家小山薫堂によると、テレビがどこまでやれば取材拒否されるかという境目を探る番組として企画されたという。当初の仮タイトルは『やったろうじゃん』。それではなんだからと、構成作家の都築浩が当時争論の的となった中村敦夫の発言から『怪傑電波芸者』を提案。しかし製作局長から「芸者はダメ」とNGが出たことを受け、同じく構成作家のそーたにが『電波将軍』[2]と滑舌悪く言ったところ、土屋らに「電波少年か、いいねえ」と勘違いされ、さらに「少年なら『進め』だろう」ということでタイトルが完成した。この『電波少年』及び『進め!電波少年』という名称は、日本テレビ放送網株式会社が所有する商標(商標登録番号第3137022号他)にもなった。

「どうせ2ヵ月だけ」のつもりで放送し、社内的にはひっそりと始まった番組ではあったが、初回の視聴率は12%と好調な滑り出しを見せた。また改編期における海外ロケを中心としたスペシャル『電波少年INTERNATIONAL』や、1997年(平成9年)以降に放送された大晦日特番も多大な人気を獲得。1998年(平成10年)には1月1日のスペシャルを区切りに『進ぬ!電波少年』へとリニューアルし、以後2003年(平成15年)までの10年強にわたる長期シリーズへと発展した。

後の2010年(平成22年)3月12日より、CS放送の日テレプラスで放送されることが決定した(CS放送ではそれ以前にもCS★日テレ1996年(平成8年)から2000年(平成12年)9月まで地上波との同時放送を行っていた)。さらに同年4月9日に初のDVDの発売、それを記念して同年3月31日の深夜(4月1日午前)に約7年振りに放送され、同年7月23日にDVD第2弾が発売、さらに同年9月に第3弾、第4弾と続けて発売した。それに合わせて、2010年(平成22年)3月29日からは電波少年ホームページもリニューアルされた。

特徴・内容[編集]

スタジオトークではセットを用いず、松本と松村の2人とゲストの顔だけを映し、CGアートをバックにクロマキーで出演者の顔あるいは上半身だけを合成するという、それまでにない斬新な手法が用いられた。たまに出演者の顔が横に伸びたり、破裂するなどの映像効果があったのもこの番組の特徴である。なお、その映像効果を付けるための機械「ヒット9000」は、当時、日本テレビを含め全世界に数台しか無かったという。

一方でVTRのナレーションでテロップをつけて突っ込む(「好感触」とオチをつける、など)手法もそれまでにないもので、後のバラエティ番組に多大な影響を与えたとされている。また、画質が悪かろうがスタッフが映っていようがお構いなしに、ストーリーさえ成立していれば放送するスタイルも斬新であった。

形式上は松本と松村はMCであるが、スタッフはロケの内容を知らせないなどMCというよりリアクターとして割り切った扱いをしており、特に松村には当日のゲストも知らされなかった。ロケの同行スタッフの人数は他番組に比べて少なく、ヒッチハイクの企画では同行ディレクターがカメラマンを兼ねるなど、番組の人気が出るにつれスタッフの人数が反比例して少なくなっていったのも特徴のひとつである。土屋曰く、ビデオカメラの進化、小型化により、少人数でもそれなりの画質を提供できるようになったとのことである。

番組のプロデュースと演出を手がけた土屋は、番組内でも「Tプロデューサー」として若手芸人に使命を伝える場面でたびたび登場。彼の名を大きく知らしめた。

アポなしロケ
当初は「アポなしロケ」という、2人やゲストが事前許可(アポイント)を取らず多くの著名人に様々な依頼を敢行するという企画を中心に行われた。そのスリリングさから人気を博したが、たびたび「無礼だ」などと抗議の的となるお騒がせ番組でもあった。
アポなし企画は政治家をネタにすることも多かったため、松本と松村の2人は永田町周辺ではブラックリストに載っていたとされている。南アフリカ共和国でのロケでは実際に当時の大統領ネルソン・マンデラと対面し、わざわざ日本から来た松村に驚くどころか感心していた。他にもアポなしでマフィアのボスに会いに行ったり、暴力団事務所に行ったり、夜のスラム街に行ったりと、生命に関わる危険なロケも多かったが(松村は拳銃で脅されたことすらある)、それが視聴者の興味をそそり高視聴率を記録した。またアポ無し取材で原水爆禁止日本協議会(原水協)に「核廃絶推進番組」のお墨付きをもらったこともある。
ヒッチハイク企画
1996年(平成8年)4月に始まった「猿岩石のユーラシア大陸横断ヒッチハイク」によって番組は空前の人気を博し、社会現象とまでなった。それ以降は無名のタレントを使ってまさに体を張った体験取材企画が中心となったことで、前出のアポなし取材は1997年(平成9年)以降ほとんど行われなくなり、松村も後述の理由から降板を余儀なくされた。

出演者[編集]

司会[編集]

ナレーター[編集]

  • 木村匡也
  • 西本聖(1994年11月20日放送の「西本投手にナレーターになってほしい!」というコーナ後,この日の番組後半のみナレーターを担当)

その他の主な企画出演タレント[編集]

代表的なアポ無し企画[編集]

憧れの227cmの岡山さんに会いたい![編集]

第1回目の企画。松本が会いたい人は、「羽田のモノレールで見かけた大きい人」ということでスタッフが調査したところ、住友金属工業に務めている元バスケ選手の岡山さんということが判明した。会社に取材申請を入れたが、案の定拒否。しかし、土屋の「いっちゃえ」という独断でロケ敢行。4時間待った後、会社前で帰宅途中の岡山さんを発見。「ファンなんです」「日本一のタカイタカイをして下さい」とお願いし、見事してもらうことに成功。松本は岡山さんにお礼を言いながら見送り感涙。ここにアポなしロケのスタイルが始まった。この辺りについて、最初からアポなしを趣旨としていたわけではなかったが、「事前に打ち合わせをしていなかったことが逆に感動を呼んだ」ことに土屋が気付いたからだと、後年「人生が変わる1分間の深イイ話」で明かされた。

森英恵にスタッフジャンパーを作ってもらいたい[編集]

開始から3か月ほど経ち軌道に乗りだした頃、松本と土屋が食事をしている時に松本が、「番組のスタジャン欲しいですね」といったところ土屋が「よし、森英恵に頼もう!」と発案し、松本は「エーッ!」と仰天したという。土屋は「絶対無理だろう」と内心確信していたが、後日松本によりこのロケは実行され、意外にも森は「いいじゃないの。やりましょう」と面白がり、作ってくれた。これが最初の大物ロケの成功だったと土屋は語っている。

入れ墨バンドに「バウバウ」って刺青を入れてほしい![編集]

ライブ突入シリーズロケでの第1弾。盛り上がるライブ会場に何のアポもなく、警備、客を押しのけ松村とスタッフが突入。松村は舞台に上がり、入れ墨をお願いしようとするが、会場スタッフに取り押さえられ、ステージ下に下ろされる。警備、ファンから殴られ蹴られ、服は破られる松村。スタッフが必死に謝ってロケは終了した。突入から退散まで3分程度の非常に短いロケであったため、画面右上に秒数を表示させたうえノーカットで放送した。これ以降、ライブ突入はシリーズ化したが、各所で警戒されることが多くなり突入が難しくなった。

有名人の豪邸のトイレでウンコがしたい!シリーズ[編集]

松村がロケ弁を食べ、その後下剤を服用し便意を催したら有名人にトイレの利用を交渉。ロケ途中で失敗(脱糞)してしまうことの方が多かったが、峰竜太海老名美どり夫妻宅では成功している。 電波少年を代表する下ネタロケであり、回を重ねるごとに松村が下剤に耐性を付け始め、シリーズ後半になるにつれ下剤の飲む量が増えていった(最後には下剤を克服してしまった)。 土屋は当時(1996年・平成8年)、アポ無しロケに限界を感じて始めていたが、このVTRに久々に手ごたえを感じたという。よって、撮りだめをして小出し小出しで世間の目を電波少年に引きつけておいて、猿岩石の企画をスタートさせる目論見だった。 PART1~7とシリーズ化され、2010年(平成22年)に発売されたDVDにも特典映像等で収録されている。

村山富市の長い眉毛を切ってあげたい![編集]

当時社会党の委員長を務めていた村山富市の眉毛を切ろうと、松村がハサミ持参で社会党本部に乗り込んだ。突然の申し出に最初は難色を示すが、松村の必死の願いに最終的には笑顔で対応。見事成功するも切り落とした眉毛をなくしてしまう。このアポ無しロケの成功により、政治に対してナンセンスなこと(大臣の椅子に座りたい、豪華な会議室で電波少年の会議がしたい、など)に挑戦していくこととなる。

その他の企画[編集]

一億円棋士、羽生善治と金銀飛車角桂馬香車歩落ちで戦いたい!
松村が羽生の自宅を突然訪問。「対決したい」との旨を伝えたところ了承してくれた。羽生は王しか使えなかったが、松村に勝利。
明石康代表に明石焼を食べさせたい!
出川哲朗が成功させたロケ。
この高価なお茶碗で、ご飯が食べたい!
『人生が変わる1分間の深イイ話』2008年(平成20年)6月9日放送分で紹介。坂本瀧山(陶芸家)製作高級茶碗で松本がご飯を食べた。坂本曰く「用の美」(実際の使用時こそ、陶器の美しさそのものが最大限になる)。

上記以外にも、経営があぶなくなった新宿末広亭を「広末亭に改名すればいい!」と、勝手に作った看板を持って山田花子が突撃するも、受付で門前払いされたり、フランスの世界的作曲家ポール・モーリアを松本が訪れ、作曲を無理やり懇願。「ネコなんだもん」というタイトルで作曲してもらうことに成功するなどの企画も放送された。

その他の企画[編集]

渋谷のチーマーを更生させたい![編集]

番組の名物企画。夜毎、暴力事件を起こすチーマーたちを立ち直らせたいと、松村がチーマーに変装し渋谷センター街へ。更生した若者には更生証明書を渡す準備をしていた。数人のチーマーに注意すべく近づいたところ「何だこいつ? チーマー? テメエが?」と、あっという間に大勢のチーマーに囲まれ、路地の奥へと引っ張り込まれていく。カツラをはぎ取られ松村であることが判明、また隠しカメラも見つかりチーマーは激昂。松本は無線で「松ちゃん、ものまねでなごませろ!」と指示を出すも、皮ジャンをはぎとられた松村は「やっちゃおうぜ」と、チーマーたちに腕をつかまれどこかへ強引に連れ去られようとする。松村、腕を振り切り、ロケバスへ一目散。辛うじて最悪の事態は免れた。

本当に強いのか体を張って確かめたい! シリーズ[編集]

ユン・ピョウは本当に強いのか体を張って確かめたい
日テレ前、仕事を終え車に向かおうとしていたユン・ピョウを待ち伏せしていた松村がハリセンで「ユン・ピョウ覚悟〜」と襲いかかる。しかしハリセンは届かず、周りの数人のボディーガードに捕まった挙句本気で蹴られ、ユン・ピョウからも攻撃を喰らうなど散々な目に遭う。当時の篠木プロデューサーは「これはテロだ」と、オンエアに反対したが、スタッフでもう一度見直したところウケが良かったのでオンエアした。このあとジャッキー・チェン宮沢喜一とシリーズ化する。

牛のゲップを吸い切りたい(地球温暖化を食い止めたい)![編集]

温室効果二酸化炭素の20倍もあるとされるメタンが多く含まれた牛のゲップを松村が吸い取る企画。さらには3年後、一人の力では温暖化が食い止められないとして、出川哲朗山崎邦正ウド鈴木の3人が加わった『牛のゲップを吸い切りたい(団体戦)』も行われた。なお、この企画が2008年(平成20年)6月8日放送の日本テレビ開局55年記念特番『Touch! eco 2008 明日のために…55の挑戦?スペシャル』のコーナーとして16年ぶりに復活し、松村と関ジャニ∞横山裕がこのロケに挑んだ。

NHK紅白に出たい![編集]

元々アイドル歌手でもあった松本明子のはかない願いから、「紅白に出たい!」とNHKに猛アピール。頻繁にNHKに通っていた。紅白歌合戦の最中、NHK前で前述の「ネコなんだもん」を絶唱。紅白にも「入れてやれ」という意見が多く届いたという。2年後、遂に合唱団員として潜入しその年の紅白のステージに立った。NHKのカメラに松本が映し出されたが、手には「紅白もらった」というがあった。松本がNHKのバラエティ番組のゲストとして出演時に、必ずと言っていい程この映像が紹介される。ちなみに「ネコなんだもん」は「天才てれびくん」のエンディングテーマとしてNHKの電波に流れることとなった。

バツイチになりた〜い![編集]

松村と実際に婚姻離婚する女性を番組で募集、プレゼントとして指輪婚約指輪扱い)が用意された。これに当時26歳の看護師交際相手なし)が応募し、松村・松本とあるレストランで対面した。

まず、女性と松村は婚姻届にサイン、松村から女性に婚約指輪が渡された。女性は婚姻期間(3日間・1週間、1ヶ月)と生活形態(別居同居)を選ぶことになっていたが、迷わず「3日間の別居」を即答で選択。「初夜を共にできる」と期待に膨らんでいた松村の落ち込みは激しかった。

ここで松本が登場し、「バツイチになるために離婚届を書いていただきます」と書類を渡すと、女性は「はい」と即答でサイン。松村は「離婚し……ますか?」と苦悶する。レストランの玄関で見送る際に「僕達夫婦だったんですよね」「別れても幸せになってください」としつこいまでに別れを惜しんだ。

後日、松本が実際に中野区役所へ婚姻届を、3日後に離婚届を提出。これにより、松村は戸籍上「バツイチ」となっている。

松村の本名を変えたい![編集]

放送当時はバルセロナオリンピックに沸く1992年(平成4年)。飛躍の年にすべく五輪にちなみ、「松村バルセロナ」に戸籍上の改名をしようと番組側が提案。実家に行き松村が父に「お父さん、ここでひとつ松村バルセロナという名前に改名しようと思うんです」と告げたところ、父は「そら、えかろうよ」「名前はお前のものだから」と何と了承。家庭裁判所に申請し、結果を待ったが家庭裁判所が却下したため、許可は下りなかった。ちなみに松村と裁判官のやり取りは、ニュースの裁判報道のように絵で表現した。

未成年の犯罪を防止したい! シリーズ[編集]

池袋西口公園(池袋ナンパコロシアム)にたむろする若者達を松村が注意するシリーズ。第一弾の「男子中高生のナンパを注意したい!」ではナンパを注意しようとしたところ大量の若者に取り囲まれて肩をパンチされるなど散々な目に遭い、続編の「エアMAX狩りをやめさせたい!」では当時人気のナイキエアMAX95を履いた松村が、(しかも靴が目立つようにとパンツ一枚で)西口公園に1人で突入するも、すぐに人がたかり蹴られるなどの暴行を受ける。さらに、エアMAXを履いていることをチーマーたちに気づかれて一気に襲われたためにロケバスに戻ったが、靴を盗まれてボロボロになっていた。だが、接着剤でくっつけていた靴底だけは死守したと満足げだった。

その他[編集]

青島東京都知事に会いたい!
何かと理由をつけては「青島さんに会いたい!」と東京都庁を突撃し断られ続けていたが、十数回に渡るアタックの末海外にてようやく対面。「電波少年迷惑でした?」という問いに青島は「いやいや、時間とってあげたいんだけど」と回答。一方で、都庁サイドからは「いい加減にしろ」と相当な圧力があったという。
アポなしサンタ
リースの掛かっている家に、松村・松本がサンタの格好でプレゼントを渡しに行く企画。プレゼントのおもちゃは松村・松本が玩具・ゲームメーカーに赴いて直接ゲットしたもの。電波少年にしては珍しく毒気の無い企画で「年に1度の心温まる企画」。1995年(平成7年)12月24日放送ではこの企画の1時間スペシャルが放送されている。『進め』終了後は『雷波少年』に移行。また、『進ぬ』でも小池栄子がプレゼントを持って「アンコールワットへの道の舗装」の応援へ向かう『小池栄子のアポなしサンタ in カンボジア』が行われた。
無敵のセールスマン
ふかわりょうカラオケボックス専用ゲームソフト、『電波少年的ゲーム』[3](開発はハドソン。後にセガサターンプレイステーションで全国発売)をセールスマンとして売り歩く企画。電波少年INTERNATIONALではマイクロソフトビル・ゲイツ会長にも自宅に赴き売り込みを図ったが、敷地にも入れず、さらには不審人物扱いされ失敗に終わった。この企画は『進ぬ』初期でも引き続き放送された。
48時間テレビ
1992年(平成4年)8月に、本家の『24時間テレビ』に対抗して電波少年独自で『48時間テレビ』と題したイベントを行った。この功績が本家に認められたのか、1993年(平成5年)の『24時間テレビ16「愛の歌声は地球を救う」』に松本・松村がチャリティーパーソナリティとして参加した(正式には「お手伝い」という名目)。
行くバウ来るバウ
1992年(平成4年)の大晦日、受験生の合格祈願を願って、除夜の鐘に合わせて松村の持ちギャグ「バウバウ」を108回受験生と一緒に叫ぶ、という企画。集客人数の見込みを大きく上回る1万人もの受験生が集まり開催が危ぶまれるが、無事決行された。しかし、あまりに人が集まりすぎたため用意していた合格祈願のお守りや豚汁を配ることが出来ず、余興として企画されていたカラオケ大会は中止せざるをえなかった。
電波少年刑事
ビビるが出演。ある事件の取材中に被害者女性宅をカメラで撮影し、110番通報されるトラブルが発生。取材は打ち切りとなり、警視庁からの抗議を受けた日本テレビから土屋が厳重注意処分を受けた。無敵のセールスマン同様、『進ぬ』初期に1回のみ放送された。後に『雷波少年』で『雷波少年刑事』という企画も放送された。

上記以外にも、番組から電波子(現・滝島梓)というアイドルタレントを生み出し、それの妹分・電波子2〜28号を登場させるという企画や、女性タレントの広告ポスターに対し「小便を漏らしているようだ」と抗議していた(地方)議員に、「それはお漏らしとは言わない」と松村が自らオムツ姿で出向き、実際にお漏らししているポスターを持っていった企画も放送された。

電波少年INTERNATIONAL[編集]

ヒッチハイク[編集]

ユーラシア大陸横断ヒッチハイク[編集]

1996年(平成8年)4月、進め!電波少年のオーディションに参加した当時無名のお笑いコンビ猿岩石が、Tプロデューサーに香港で番組の前説をするように頼まれて連れて行かれた。しかし、番組の放送中に突然呼び出されて、そこで「ユーラシア大陸をヒッチハイクで横断、ロンドンがゴール」という壮大な目的を果たすよう告げられる。猿岩石が選ばれた理由は、むこう半年間のスケジュールが全く白紙だから、という理由だった。

企画の推移[編集]

軽い気持ちで引き受けた2人だったが、中国入国の際にビザが必要である事を知らず、いきなり香港で数日足止めを食らう事になった。所持金の10万円はすぐに底をつき、その後は日雇いアルバイトをしながら食費、交通費を稼ぎ心身ボロボロになりながらヒッチハイクを繰り返し西へと向かった。インドを過ぎた辺りから高い人気が出始め、視聴率は急上昇。他の企画が押されるはめとなり、松村降板にもつながった。爆風スランプによる応援歌「旅人よ」も発売されたり、ヒッチハイク時代を書いた「猿岩石日記」もシリーズ累計で250万部のベストセラーになったりと反響は大きかった。

一方で、猿岩石は全行程をヒッチハイクだけでゴールしたとされていたが、道中で3回ヒッチハイクでない飛行機を使っていたことが判明した。ルートの途中には国境での外国人入国禁止となった国や内戦や治安が悪いところがあり、大事をとって飛行機に乗ったものとしているが、番組では判明するまで全く触れていなかった。日本テレビの氏家齊一郎社長(当時)は「(バラエティという)番組の性質上、倫理とか道義的な責任はないと考える」とコメントし各方面から非難を受けた。

またバックパッカー経験者からは、番組中で猿岩石が「治安の悪い地域で野宿をする」「生水を飲む」といった実際の旅行者なら絶対に行なわない行動をしていることから「番組を真似した視聴者が実際にやれば命に関わる」と、警告の声が出ている[4]

企画終了とその後[編集]

幾度のリタイヤの危機を乗り越え、1996年(平成8年)の10月にゴール。この時は船越雅史(当時日本テレビアナウンサー)が実況レポートを担当し、生放送が予定されていたが、当日に読売ジャイアンツが出場する日本シリーズ第1戦の中継が入ったため、急遽3日後の同時間帯での録画に切り替わった[5] 。ゴール直後、番組から「今度はアメリカ南北大陸縦断」と提案され、日本行きかスタート地点のマゼラン海峡行きのチケットのどちらか選択するよう迫られる。この件について、日本テレビへの抗議電話が殺到し回線がパンクする事態となった。猿岩石は結局日本行きを選択するが、後年「帰りの飛行機の中、スタッフは般若の如く怒り狂っていた」と語っている。なお、土屋は著書において、電波少年がお笑い番組なのに感動へ向かっていることに危機感を覚え、猿岩石は絶対に日本行きを選ぶと確信していたからこそ、予防注射をさせるなどの敢えてお馬鹿な演出をしたことを明かしている。猿岩石は帰国後、西武球場で凱旋帰国ライブを行い、超満員の客に迎えられた。『ゴッドタン』ドスベリサミットで有吉弘行が述懐したところによると、この時あくまで感動を味わいたかった客の前でネタを見せたが、スベるどころか怒りを買ってしまったという。

2014年3月31日の『有吉反省会』2時間スペシャルに土屋は反省人として出演。司会の有吉を巻き込もうとするが、有吉は土屋に対して「日本縦断ヒッチハイク」を言い渡し、土屋自身の禊として「日本縦断ヒッチハイク」を決行。[6]

2014年7月28日深夜(7月29日)の『SKE48 エビショー!』で土屋が登場し、谷真理佳松村香織宗谷岬からSKE48劇場までヒッチハイクする企画が行われている[7]

また、アメリカ南北大陸縦断ヒッチハイクの企画はドロンズに受け継がれ(後述)、猿岩石ほどではないが高い人気を博した。ヒッチハイクは番組の顔となり、『進ぬ』でも『アフリカ・ヨーロッパ大陸縦断』『80日間世界一周』などとシリーズ化された。

この番組とは関係ないものの、コンビ解消後(有吉弘行はタレント活動を継続、森脇和成は実業家に転身)の2007年(平成19年)、11月には有吉が「ブレイクしたころの輝きをもう一度取り戻すキッカケにしたい」という自らの希望で東北横断ヒッチハイクを行ない、DVDも発売された。また2009年(平成21年)8月30日の『24時間テレビ』で、有吉がインドの恩人にヒッチハイクで会いに行く企画も放送された。

南北アメリカ大陸縦断ヒッチハイク[編集]

1996年(平成8年)10月末、電波少年の前説を担当していたドロンズに突然カンペが出され、南北アメリカ大陸の縦断ヒッチハイクを命ぜられる。ヒッチハイクといえば猿岩石のイメージが強いが、実際のところ1997年(平成9年)大晦日にゴールするまでにかかった日数は、猿岩石の倍である1年2カ月であった。

企画の推移[編集]

彼らの旅は常に出会いを大切にする旅であり、ドキュメンタリー色が強かった 。アルゼンチンで、地元の人のアドバイスにより小学校でスペイン語を勉強し、日常会話に支障がないほどに習得する。ペルーでは地元テレビ局のプロデューサーに気に入られ1カ月近くバラエティ番組に出演し、またアメリカではキャンピングカーで旅をしている男性が、体調不良になった大島直也の入院費を全額負担してもらうなど、人との触れ合いが多かった。一方、同行ディレクターが見知らぬ男に暴行される、ヒッチハイクした車がスピードの出しすぎで横転する事故に遭うなど、一歩間違えば生死に関わるようなトラブルも多かった[8]

なお猿岩石の時と同様に、TUBE前田亘輝による応援歌「君だけのTomorrow」がヒットを記録するほか、『ドロンズ日記』も発売された。

企画終了とその後[編集]

ゴールの模様は1997年(平成9年)12月31日の大晦日NHK紅白歌合戦の裏番組として生中継され、紅白の裏番組の最高視聴率(当時)15.9%を記録した。そして翌日1998年(平成10年)1月1日の元旦にも生放送で特番『電波少年INTERNATIONAL14』が組まれるが、ED時に「実は 進め!電波少年は本日をもって終了します」と書かれたボードを突然見せられ、ドロンズが呆然としたまま番組は終了する[9]

帰国後ドロンズは、24時間凱旋帰国ライブを行なった(24回あると知らされたのは1回目のライブ直後である)。

その後ドロンズは、のちにスタートする『雷波少年』でロバのロシナンテとともに日本をヒッチハイクして縦断する企画に参加した(こちらを参照)。

松村降板騒動[編集]

1997年(平成9年)4月13日にテレビ朝日系列で放送された朝日放送ABCテレビ)制作『ゴールデンナイター阪神×巨人戦(甲子園)の中継に松村邦洋がゲスト出演した際、当時土曜日の『サタデージャングル』レギュラーであったことから「このあとは『サンデージャングル』を見てください」と発言。

本来『サンデージャングル』は11時からで電波少年は10時半からの放送だが、その日は『おしゃれカンケイ』が60分スペシャルのため、30分遅れで11時からの開始になった。このため、電波少年の裏番組を応援する発言をしたという理由で強制的に番組出演を自粛させられる。

しかしその後、視聴者から「松ちゃんを許してあげて!」などの要望が多数寄せられたため、松村はすぐに復帰を果たす。ところが、今度は逆に「松村を許してんじゃねーよ!」などの苦情が殺到したとして、再度降板となる。すると、態度をはっきりしない日テレに対して「ふざけてんのか!」という苦情が寄せられるようになったとして、番組内で(木村匡也が軽薄な口調で)「ふざけてます♥」と回答。これが新たに批判を生み出すことになり、結局テレゴングによる視聴者投票によって再び復帰するが、『進め』の終了に伴い卒業という形で勇退となった。また、『進め』末期では一時期松村のロケしてきたVTRがほとんど放送されず、松村が「僕のロケ映像が全然放送されない」と言い、深夜のフィラーの時間に『松村邦洋のひとり電波』という5分程度のミニ番組が放送されたが、2回で打ち切りとなった。

視聴者の気持ちを一切考えず、自分が出ている企画の内容が良くても悪くても関係なく放送されればそれでいいという考えを持っていたせいか、それが裏目に出てしまい、アンチ[10]を大量に増やす結果となった。「無様な姿をテレビにさらしてまで自分を棚に上げる松村に我慢ができなくなった」という視聴者も増え、番組降板を求める者も出たほどである。ちなみにテレゴングによる視聴者投票では、「好き嫌い関係なく無様な姿はもう見たくない」という意見もあり、許さないと投票した人もたくさんいた。

後年、土屋は自身の著書の中で「番組改編であり、最初から決まっていた」と証言している。また、土屋は電波少年が有名になったことで、アポなしをしても相手が歓迎してしまうという、今までのケースが成立しないロケも出てくる一方、猿岩石の大成功から「これからはヒッチハイクが主になる」と考えていたことを明かし、アポなしの顔である松村も同時期に「豪邸でウンコ」シリーズなどで奮闘したが、松村は「自分の出番が無い!」という事自体が一番ウケており、司会進行役の松本は残すにしても、その後の番組の構成上外さざるをえなかった、としている。

すなわち、「アポなし企画をやめる以上、松村の降板は避けられなかった」というのが真相で、松村はただ引っかけられていただけであり、「サンデージャングル発言」は全くの無関係であった。ただしその一方で「『進め! 電波少年』といったら松村」と、土屋もその功績を認めている。

松村は1997年(平成9年)大晦日のドロンズゴール特番には出演したが、翌日の特番には出演せず、後に松村不在の「進ぬ」がスタートするため大晦日が結果的に最後の出演となった。この突然の降板について番組や本人からは何の挨拶も説明もなくその後の番組内でも松村について一切触れず、土屋は降板騒動について「実はマッちゃんがノイローゼになったとか周囲から言われて心配していた」と語ったが、何の挨拶もなかったことについては「電波少年に花束はいらねぇだろう」とのこと。ちなみに、この松村の降板に対する抗議電話は一本もなかった。

猿岩石のデビューシングルが読売・日テレ系列のバップから発売されなかったことにより[11]、松村と猿岩石の所属事務所である太田プロと日本テレビの関係が悪化したことが原因であるという説もある。実際に「進ぬ!」以降、2003年(平成15年)3月1日の「恥ずかしながら帰って参りましたスペシャル」まで電波少年シリーズと太田プロの絶縁状態が続いた。

降板後、松村は芸能人として一時期低迷し、当時レギュラー出演していた番組もいくつか降板している。その反面、本業のモノマネ芸を磨くことができたとも語っている。

問題となった事例[編集]

  • 伊藤悟は、電波少年の企画で、松村が赤ちゃんの恰好で養子にしてくれと自宅に無理やり入ろうとした企画について、押し問答の末、その場でディレクターに抗議をし、映像化しないよう求めた。後に、伊藤はゲイのカップルは子供ができないからかわいそうという思い込みでアポなしを行ったことに驚き、暴力的な感じさえしたと述べている。[12]
  • ペルーのアルベルト・フジモリ大統領(1995年当時)に離婚調停中ということで、当時レポーターをしていた宮前真樹が花嫁候補にしてほしいと詰め寄ったことについて、問題となった。[13]

エピソード[編集]

  • 初回の放送で、「イラン人AD募集」として日本語の流れないペルシャ語だけの映像を流した(映像の意図は後日判明する)。土屋は視聴率よりも視聴者を驚かせたい気持ちで流したらしい。実際に一人のADが採用された。
  • アポなしのロケに急遽抗議があり放送できなくなり、穴埋めとしてアルプスの美しい風景を1分ほど流したことがある。この手法は「進ぬ」以降も何度か行った(電波少年ヨーデル祭り)。
  • 海外ロケでは、ホテルを予約せずに安い金額でホテル探しをするのが定番であった。
  • ゲストに明石家さんまが来た際、照明がないことや雪山を歩きまわる、動物と闘うといった番組のスタイルに驚き、「なんぼギャラ積まれてもやらん。あかん」と語り言葉を失っていた。
  • 番組初期にはテレビ番組にめったに出演しない松任谷由実や、当時物議を醸していた悪魔ちゃんもゲスト出演した。構成作家のおちまさとの妻(当時)がなぜかゲスト出演したこともある。また、ゲストが決まっておらず急遽日テレ内にいるタレントにアポ無しで出演交渉をすることもあった。
  • 松村は「我々が行くところは安全じゃないけど、景色はいい」と語り、松本や土屋も同調している。現にアラスカでオーロラを見たり砂漠を彷徨ったり他番組では味わえないような貴重な景色に出くわしている。
  • 松本は「電波少年は『オシャレ30・30』と『ガキの使い』のつなぎですから」と発言したことがある。
  • 土屋は女優・高橋ひとみが番組の熱烈なファンと聞き、ゲストに呼んだ回で「おっぱい見せて欲しい」と番組でお願いしたが(当然ながら)通じる訳も無く、当の高橋はこの言葉にショックを受け、泣いて帰ってしまったという。その模様は放送されなかった。
  • 一方で番組スタッフはロケ後、謝罪を繰り返し、オンエアーにつなげた。長濱プロデューサーは「ディレクターや作家の力量もありますが、この番組成功のおおもとは人柄だと思います。僕らは何度も何度も広報の人に頭を下げてオンエアーできるようにがんばってきたんです」と語っている。
  • 「松村が貴女のストーカー問題を解決します」として視聴者からの依頼を募集したことがあったが、結局その企画が放送されることはなかった。
  • 松本が日本テレビの連続ドラマに出演している時期、そのドラマに出演している俳優がゲストの回では必ずと言っていいほど最後に「先週の電波少年見た?」もしくは、「先週の猿岩石見た?」というセリフを言ってほしいというアポ無し企画があった。
  • 土屋は著書やDVDの中で、追いつめられる松村はチャーミングであると評し、この表情が見たいがために過酷なロケを繰り返したと語っている。このキャラクターだからこそ我々は大人のいじめっこにならずにすんだ、と松村の功績を高く評価している。
  • 他局の番組でもある志村けんはいかがでしょうに出演していた桑野信義にコント中に志村けんに対し、台本にないセリフとして「このハゲ」と言うように命じたことがある(その命令は実行され、その模様は実際に番組内でオンエアされた)。

各話リスト[編集]

各地方の放送時間[編集]

放送枠がローカルセールス扱いとなっている関係上、系列局であってもローカル番組の放送や他番組の遅れネットなどを優先して同時ネットしない地方局が存在した。

テーマ曲[編集]

オープニングテーマ[編集]

  • The Wall 〜長城〜(BEYOND

エンディングテーマ[編集]

  1. 「The Wall 〜長城〜」BEYOND(1992年7月5日 - 1993年3月28日)
  2. 「アポなしの恋」電波子・松村邦洋・松本明子(1993年4月4日 - 8月8日)
  3. 「ただ抱きしめるだけの愛で悲しませないつもりなんて」パーコパコ(1993年8月15日 - 1994年1月30日)
  4. 「ネコなんだもん」松本明子(1994年2月6日 - 3月20日)
  5. 「たとえば、ずっと…」松本明子(1994年3月27日 - )

スタッフ[編集]

脚注[編集]

  1. ^ [伝説の極悪P(土屋敏男元プロデューサー)が語る『電波少年』秘話とテレビの未来] http://gendai.ismedia.jp/articles/-/37668?page=2]
  2. ^ なお、このタイトルは後に中京テレビで「宮地佑紀生の電波将軍」として使われた。
  3. ^ 【オタク旦那と一般人嫁】電波少年的ゲーム2の謎
  4. ^ 『猿岩石大ウソ日記』(鹿砦社、ヒッチハイク愛好会)
  5. ^ 当初、10月19日に放送を予定されていたが、10月22日に変更。
  6. ^ 有吉弘行いわく、「20年越しの仕返し」。
  7. ^ SKEが猿岩石!? ヒッチハイクに挑戦 日刊スポーツ 2014年7月28日
  8. ^ また放送はされなかったが、アメリカでのヒッチハイクの最中通りすがりの車に銃で発砲されていたことが、2011年(平成23年)8月5日放送の『情報ライブ ミヤネ屋』に出演した石本の証言により明らかになった。
  9. ^ ただしあくまでも演出上であり(当日の新聞番組欄では最終回扱いとされておらず、[終]マークはついていなかった)、実際は11日より「進」としてリニューアル。後日談は「進ぬ」内で放送。
  10. ^ その中にも松村をしばき上げたチーマーもいた。
  11. ^ ちなみに「白い雲のように」は、日本コロムビアから発売された。
  12. ^ [フツーに生きてるGAYの日常 メディアと性的マイノリティ10●進め!電波少年の松村邦洋が赤ちゃんで・・・「今晩一晩、お宅のお子さんにしてください」
  13. ^ 宮前資料室 雑誌etc4 ]

参考文献[編集]

  • 土屋敏男「電波少年最終回」(日本テレビ放送網、2001年、ISBN 4-8203-9790-7

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

日本テレビ 日曜22時台後半
前番組 番組名 次番組
進め!電波少年
(1992.7.5 - 1998.1.4)
※1994年3月27日まで『笑撃的電影箱』枠
進ぬ!電波少年
(1998.1.11 - 2002.9.29)