笑福亭鶴瓶

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笑福亭 鶴瓶(しょうふくてい つるべ)は、上方落語名跡

当代は特に代数を名乗っていないものの、4代目笑福亭松鶴の門下で鶴瓶を名乗り、後に2代目林家染丸の門下に移り染八を名乗った噺家がいた。命名時に松鶴もその存在を語り、2代目であると告げている[1]

  • 初代 笑福亭鶴瓶(生年不詳 - 1944年2月)は、後の林家染八。初め4代目笑福亭松鶴の門下で、師が一旦芸界を離れた時に、2代目林家染丸の門下に移る。本名は金谷伊太郎。
  • 笑福亭鶴瓶(当代) - 本項を参照。

笑福亭 鶴瓶
Gomaisasa.svg
五枚笹は、笑福亭一門定紋である。
本名 駿河 学(するが まなぶ)
ニックネーム べー師匠
べーさん
鶴瓶師匠
キング
まーちゃん
はっちゃん
生年月日 1951年12月23日(62歳)
出身地 大阪府中河内郡長吉村(後の大阪市東住吉区、現在の大阪市平野区
身長 170cm
方言 大阪弁
最終学歴 京都産業大学経済学部中退
師匠 6代目笑福亭松鶴
芸風 落語漫談
事務所 デンナーシステムズ松竹芸能
活動時期 1972年 -
同期 ビートたけし志村けんなど
現在の代表番組 鶴瓶の家族に乾杯
きらきらアフロ
ザ!世界仰天ニュース
笑っていいとも! ほか
過去の代表番組 突然ガバチョ!
鶴瓶上岡パペポTV
ざこば・鶴瓶らくごのご
平成日本のよふけ
鶴の間
鶴瓶・新野のぬかるみの世界 ほか
他の活動 俳優
社団法人上方落語協会副会長
配偶者 既婚
親族 駿河太郎
(長男・ミュージシャン俳優
弟子 笑福亭笑瓶
笑福亭晃瓶
笑福亭純瓶
笑福亭達瓶
笑福亭恭瓶 など13名
受賞歴
キネマ旬報賞主演男優賞
ブルーリボン賞主演男優賞
日刊スポーツ映画大賞主演男優賞
おおさかシネマフェスティバル2010主演男優賞

笑福亭 鶴瓶(しょうふくてい つるべ、1951年12月23日 - )は、日本上方噺家6代目笑福亭松鶴門下)、タレント俳優歌手司会者ラジオパーソナリティである。本名、駿河 学(するが まなぶ)。出囃子は「トンコ節」(かつては「拳」)。

兵庫県西宮市甲陽園在住。公益社団法人上方落語協会副会長。

2013年現在、松鶴の6番弟子[2]

来歴・人物[編集]

大阪府中河内郡長吉村長原(現在の大阪市平野区長吉長原)出身。5人兄弟の末っ子で浪速高等学校卒業。高校在学中、当時大阪で人気だった笑福亭仁鶴桂三枝(現:6代目桂文枝)に刺激されて、高校に落語研究会を作る。

京都産業大学経済学部に進学するも中退。大学時代は京都産業大学落語長屋という落語研究会に所属しており、童亭 無学(どうてい むがく)を名乗る。一時期はここでの芸名を本名であるスルガ・マナブと名乗ったこともある。この落語研究会であのねのね原田伸郎と出会い、清水国明を含めた3人で音楽活動をする(鶴瓶夫人も参加していた時期あり。後述)。

入門・弟子入り[編集]

弟子入りのきっかけは、入門前のある日、安井金比羅宮で開かれた米朝一門の落語会での6代目笑福亭松鶴の行いを見たことだという。高座に上がった松鶴は「あっ!」と固まった後、見えた僧侶を示して「あの坊さんの頭見たらネタ忘れてもた。オチだけ言うて降りま」と言い、本当にオチだけを言って2分ほどで降りてしまった。それを見て「エライ人や」と思い、松鶴への弟子入りを決めたという。

1972年2月14日、11番弟子として入門、「鶴瓶」の名を与えられる。同年9月26日に島之内寄席にて「東の旅発端」で初舞台[3]。内弟子になっても師匠から全く稽古を受けられず何としてでも活動の場が早く欲しかった鶴瓶は、超能力(透視とスプーン曲げ)が使えることを松鶴に打ち明け、鶴瓶の超能力を目の当たりにした松鶴は驚愕し「ウチに超能力を使う弟子がおる」と松鶴自らがテレビ局に鶴瓶を売り込む。当然ながら超能力はテーブルマジックの類で、周囲に仕掛けを漏らしつつ頭から超能力を持つ弟子と信じ切っている松鶴という場面に持ち込み、必死になって売り込む松鶴に便乗して業界関係者に顔と名前を覚えてもらい、これを手がかりにテレビ、ラジオと進出する足場を作る。後に兄弟子の笑福亭仁鶴が鶴瓶のイカサマ超能力を暴き、梯子を外された格好になった松鶴は体よく利用され、騙されていたことに苦り切る。

タレント活動[編集]

初のレギュラー番組は近畿放送(現KBS京都)の『丸物ワイワイカーニバル』で、以降、近畿中京地区でラジオ・テレビを中心に活躍。大阪芸能界の先輩からも所属事務所を問わず可愛がられ、松竹芸能所属であるにもかかわらず桂三枝(現:6代目桂文枝)がメイン司会の吉本興業系列の番組に出演するなど、吉本と松竹が強い対立関係にあった当時としては異例の存在であった。その後東京へも進出を図る。2001年コカコーラとのタイアップで、日本テレビと吉本興業が組んで制作されたドラマ『明日があるさ』にも、鶴瓶が松竹芸能からただ一人ゲスト出演するなど、所属事務所の垣根という面においては別格の存在である。

1975年東京12チャンネルの番組生放送中に、股間を露出するなどの問題行動を起こす(詳細は下記を参照)。同局から無期限の出入り禁止とされたため、東京進出は失敗に終わる。その後、出入り禁止は解除された。

1978年に始まった『ぬかるみの世界』で人気が上昇し、1982年から4年間続いた毎日放送の『突然ガバチョ!』の司会で再び脚光を浴びる。この番組が関西以外の地方でもネットされたのがきっかけとなり、1986年に東京へ再進出。だが、出演番組が早々と打ち切られることも多く[4]、当時の週刊誌にも「再び東京進出失敗か」と叩かれた。ちなみにこの頃、鶴瓶が地元の電車に乗車している際に、このような記事の見出しが書かれた週刊誌の中吊り広告の真下に鶴瓶本人が立ってしまい、近くにいた乗客に「あんた、笑ってる場合やないよ。上見てみ」と指摘され、初めてそれに気づいたというエピソードがある。

しかし、ビートたけしが「この男を大阪に帰らせてはいけない」と鶴瓶を東京に留まらせた。TBS系列の『世界No.1クイズ』が打ち切りになった時、当時面識はないものの鶴瓶の才能を認めていたビートたけしが、『世界No.1クイズ』を制作していたイーストの重役に対して「このまま大阪に返したら、イーストは笑われるぞ」「鶴瓶を活かせないような制作なら、お前らの仕事なんかしねえ」と鶴瓶をバックアップするように助言した。このことは後に鶴瓶自身が『いろもん』の中で語っており、「それ以来、たけし兄さんには頭が上がらない」とのこと。

後にテレビ番組『鶴瓶上岡パペポTV』が全国放送化されて以降は、テレビ・ラジオ問わず全国区の人気を得るようになった。関西のラジオ局でレギュラー番組を持っていないのはラジオ関西程度である(鶴瓶はラジオ関西には出演歴自体が極めて少ない)。

落語への回帰[編集]

2002年9月、江戸落語の春風亭小朝との二人会で『子別れ(子は鎹)』(落語を本格的に始めるにあたって4代目桂文紅にじきじき『子別れ』を稽古を付けてもらった)を演じたことを機に、落語への回帰を強めている。2003年には小朝、林家こぶ平(現:9代目林家正蔵)らと落語の「六人の会」を結成。また同年5月に「上方落語協会」理事に就任している。その後、同協会の広報委員長を経て、2008年6月に副会長に就任した。

多忙なタレント活動の合間を縫って「鶴瓶噺」「笑福亭鶴瓶落語会」などの独演会を展開する他、六人の会が主催する「東西落語研鑚会」にも参加。大阪・帝塚山の6代目松鶴旧宅で行われる演芸イベント「帝塚山・無学の会」を主宰するなど、精力的に落語に取り組んでいる。古典落語にも「東西落語研鑚会」で『鴻池の犬』『らくだ』などに挑戦している。特に2004年の東西落語研鑚会で口演した『らくだ』は松鶴の十八番(おはこ)であり、松鶴門下では直々に稽古を付けられていた6代目笑福亭松喬しか、舞台での披露を許されていなかった題目である。

鶴瓶の最近の落語への取り組みは、弟子(ほとんどが落語をしない頃の鶴瓶に弟子入りを志願していたことで、落語家に弟子入りした感覚がない)に対する影響が少なくない。例えば筆頭弟子の笑福亭笑瓶は新作や古典の改作に取り組み、笑福亭純瓶は怪談噺に力を入れ、笑福亭銀瓶韓国語落語を打ち立てた。2007年3月には、銀瓶以降の6人の弟子が「シックスセンス☆六瓶の会」と題した落語会を大阪で開いている。

テレビドラマ『タイガー&ドラゴン』では元上方落語の天才だったヤクザの組長という役を演じ、少しだけ落語を演じている。この時の落語は、脚本が作られていたが、一切捨て、全てアドリブで演じていた。鶴瓶はこのドラマを最初単発ドラマだからと言われ引き受けたものの、連続ドラマになりこのような役柄になってしまったことに驚いていたことを告白した。

2004年より年に1回、桂南光桂文珍との落語会「夢の三競演 三枚看板 大看板 金看板」を開催。落語会としては異例の6000円を超える料金も話題となる。チケットは、過去3回共完売。その他この3人は、2005年から「文珍南光鶴瓶+1 しごきの会」と題して、年に数回、baseよしもと(現在は天満天神繁昌亭)で若手落語家育成の為の会を開いている。過去にこの「しごきの会」において、一番多く弟子を持ちながらも、鶴瓶の弟子が1人も会に参加しなかったことがあり、このことに鶴瓶は憤慨。「お前ら、誰に食わせて貰ってんねん! 俺は(師匠の)松鶴に食わせて貰ってる。俺は、恥ずかしいわ!」と自らの弟子に向かって怒鳴ったという。

なお、弟子に笑福亭笑瓶笑福亭晃瓶笑福亭純瓶笑福亭達瓶笑福亭恭瓶笑福亭瓶太笑福亭銀瓶笑福亭瓶吾笑福亭瓶二笑福亭瓶生笑福亭由瓶笑福亭鉄瓶笑福亭べ瓶がいる。

芸に関して[編集]

落語[編集]

良くも悪くも上方落語の噺家のクセが抜け切れていないが、しゃべりの面白さや、独特の飄々とした存在感で、広く親しまれている。自身の身の回りで起こった日常の話題を面白おかしく話すスタイルは「鶴瓶噺」(つるべばなし)と呼ばれ、独自のジャンルを構築し、2000年には上方お笑い大賞を受賞した。2007年まで年1回5日間、青山円形劇場にて「鶴瓶噺」を開催している(2008年からは会場が世田谷パブリックシアターに変更)。

現時点での「落語家・鶴瓶」に対する評価は概ね好意的であるが、創作の『長屋の傘』『青木先生』(南原清隆は「私落語(わたくしらくご)」と命名)については「鶴瓶噺を落語化した程度」といった批判的な意見もある[要出典]

2007年から全国ツアーを開催。2009年には「Japan Tour『White』」と称してファースト、セカンドツアーに分けて全国ツアーを開催。鶴瓶に縁のある落語家や、開催都市出身の落語家が出演。

大物タレントながら、ネタおろしや型の変更、東京-上方のネタ移植などの際には客の反応を見るために若手噺家の落語会や勉強会に飛び入りで参加することがあり、客を驚かせることがある[5]

帝塚山・無学[編集]

「帝塚山・無学」は、師匠6代目松鶴の旧自邸を鶴瓶が改築した純和風ホール。月1回「無学の会」を開催し、一般にも公開している。毎回ゲストを招いているが、前もってゲストの名前を発表されることは無く、毎回シークレットになっている。今までのゲストにタモリ明石家さんま木梨憲武イッセー尾形桂米朝桂春団治ももいろクローバーZら豪華な顔ぶれを迎えている。また、松嶋尚美を迎えた際は、「無学版きらきらアフロ」として、『きらきらアフロ 2008 DVD』に収録されている。

つるべ、らくごのお稽古[編集]

帝塚山・無学と下北沢Live bar 440にて定期的に稽古会を行なっている(料金は後払い制で客の志納)。

演目[編集]

古典落語 
子は鎹』、『鴻池の犬』、『らくだ』、『愛宕山』、『立ち切れ線香』、『厩火事』、『堪忍袋』、『宮戸川』、『二人癖』、『粗忽長屋』、『所帯念仏』、『へっつい幽霊』、『化物使い』、『打飼盗人』、『いらちの愛宕詣り』、『大安売り』、『鶴瓶版 死神』、『転宅』、『錦木検校』、『お直し』、『癇癪
私落語 
『長屋の傘』、『青木先生』、『ALWAYS -お母ちゃんの笑顔-』、『青春グラフィティ松岡』、『Mr.ドリーマー』、『春雷』、『回覧板』、『CHINGE』、『琵琶を弾く観音像』
創作落語(桂三枝(現:6代目桂文枝)からネタを譲り受けたもの) 
『湯けむり』、『悲しみよありがとう』

エピソード[編集]

所属事務所はデンナーシステムズ[6]松竹芸能にも籍を残している。落語家としては、現在は上方落語協会副会長を2008年6月20日より務めている。

1974年10月12日に結婚。結婚式は大阪市中央区の「高津神社」で執り行われた。その結婚式の仲人は師匠の笑福亭松鶴 (6代目)が務めたが、スピーチの際に「ウチの弟子は13人いてまっけど、こいつが一番アホだ。終い!」とだけ言い残し、そのまま結婚式場を後にした。

家族は妻、長男、長女がいる。妻は、あのねのねメンバーだった玲子夫人(後述)。長男は俳優兼音楽ユニット「Human Note」のボーカル・駿河太郎。長女は有限会社バグケット代表取締役。2008年7月26日、浜松近郊の病院(長男の第一子)が生まれたことを『FNS27時間テレビ!! みんな笑顔のひょうきん夢列島!!』で発表した。ちょうどこの時は鶴瓶と従兄弟弟子の明石家さんま大竹しのぶ元夫妻とののトークコーナーが放送されており、さんまがくだらない発言をすると「早く浜松行って、孫の顔見たいんや!」と叫んでいた。また2010年8月31日深夜(9月1日未明)に、鶴瓶にとって2人目の孫(長女の第一子)が誕生したことを『きらきらアフロ』(テレビ大阪・9月10日放送分)で明かした。その他、ペットに犬を飼っている。

名前[編集]

あだ名は「べー師匠」「べーさん」、「まーちゃん」、「まなぶくん」、「鶴瓶師匠」、「鶴瓶ちゃん」(最後の晩餐で浜村淳より)。

しばしば、鶴瓶を「つるべぇ」「つるべぃ」と誤読されるが、出典が「釣瓶」なので正しくは「つる」である。同じく笑福亭一門であり、兄弟子でもある笑福亭鶴光もしばしば「つるこう」と誤読されるが正しくは「つる」。鶴瓶本人は大阪においては「鶴瓶はな、『つるべえ』やあらへん、『つるべ』や」と六代目松鶴のまねで説明することが多い。また、一般に関東では「るべ」、関西では「つべ」と、関東と関西では「つる」のアクセントが全く逆になるため、「つるべ」の関東読みに違和感を覚える関西人も少なくない。田原俊彦は「つるへい」と呼んでいた。売れる前には、「つるびん」と呼ばれることもあったという。

名前から兄弟子の笑福亭鶴光、眼鏡をかけた外見から桂文珍と間違えられることが多い。宝塚の女優から「笑福亭仁鶴瓶」宛てへの手紙が送られたこともある。

タモリ明石家さんま島田紳助など鶴瓶よりも後輩の落語家またはタレントは、「師匠」「鶴瓶師匠」「鶴瓶兄さん」と呼ぶ。(ただし、タモリは年齢では年上なので、鶴瓶と呼び捨てにすることもある。)また、タモリは「おっちゃん」、「おっさん」と呼んだりもする。また、本名の「学ちゃん」、「学」で呼ぶことも度々ある。ココリコなどは「べー師匠」もしくは「べーさん」角淳一やしきたかじんなどの悪友は「鶴瓶」と呼ぶ。さだまさしは、親交が深いゆえにわざと「つるべえ」と呼ぶこともある。所ジョージは以前、「しょうふくていつるびんさん」と、親しみを込め、冗談混じりで呼んでいたことがある。また、たけしを鶴瓶は「兄さん」と呼んでいる。

さんまの携帯電話電話帳には鶴瓶は「悪べぇ」と登録されている。たまに、レギュラー番組などで批判と称し使っている。ナインティナイン岡村隆史曰く、「悪べぇ」の由来は『めちゃ²イケてるッ!』と鶴瓶が出演していた番組の収録スタジオが隣同士であり、そこへ鶴瓶が訪れ、『めちゃイケ』出演者用のカレーライスを食べたうえに金で解決しようとしたことで、当時の岡村が「この人はものすごく悪い人や」と思ったことからであり、『ナインティナインのオールナイトニッポン』の人気コーナー「悪い人の夢」はこの出来事がきっかけで作られたコーナーである。

兄弟子[編集]

同門の兄弟子には笑福亭仁鶴や笑福亭鶴光、笑福亭福笑6代目笑福亭松喬笑福亭松枝笑福亭呂鶴などがいる。また後述の笑福亭手遊の話を様々な場でネタにしている[7]

趣味・嗜好[編集]

芸能界で刺激を受ける存在は18代目中村勘三郎SMAPである。

好きなアーティストaikoで、洋楽のファンでもある。また、デューク・エイセスさだまさし吉田拓郎小田和正とも古くから親交がある。若者文化に対する造詣も深い。

趣味はボクシング

嘗ては喫煙者であったが、『鶴瓶上岡パペポTV』1988年1月12日放送分にて禁煙を宣言し、見事成功した。

身長は公称173cmであったが、最近測定すると170cmになっていた(と、2014年2月9日放送のMBSラジオ番組ヤングタウンで自身から訂正発表)。

派出所」を「はつしゅしょ」または「はしゅしゅしょ」、「違和感」を「ゆわかん」などと発声し、滑舌がよくない。カタカナ語に弱く、喋ると噛んでしまうことも多い。ブルース・ウィリスを「ブゥルース・ウィルス」、チャンピオンを「チャンピョン」と書いたこともある。また、ロシアを「ロシヤ」というが、ロシア語での発音は「ロシヤ」に近く、間違いというわけでもない。

ある日の『笑っていいとも!』の「テレフォンショッキング」のゲストがHIDEの時、楽屋で「おいおい! 今日のゲストの『ハイド』って誰やねん!?」と言っていたことを、本番中にタモリに暴露されたことがある。

アレルギー(正確には鯖の寄生虫であるアニサキスアレルギー)、蕎麦は好き。

学生時代のエピソード[編集]

1961年(昭和36年)頃、学校へ行く途中で近所のおっちゃんに競馬場に誘われて、駿河学少年が適当に指名した馬券をおじさんが購入し、それが万馬券に化ける。驚き感嘆したおじさんは、約40万円の払戻金を丸々、学少年に手渡した。夜中に家族が寝静まった時を見計らい、貰ったお札を数えだしたが、その現場を母親に発見され大事に発展した。夜中にもかかわらず、競馬に連れ出した近所のおっちゃんをたたき起こし、事の顛末を聞き出したことにより、正式に駿河家のお金となった。後になってこの出来事を思い出し、母親にお金の使途を執拗に問質した所、実家の建て増し資金になっていたことが判明。この話をテレビ朝日の『徹子の部屋』で話したところ、さらに母親から叱られたという。

1969年(昭和44年)、頭のいい人間に対抗心を持っていたため、受験していない京都大学や、大阪大学の入試の合格発表に行き、落ちていそうな生徒の隣で「あった!」と合格したフリをして、胴上げされるという悪戯をする。この時、大阪大学でNHKの取材を受け、模様が夕方のニュース番組で流れたため、それを見ていた親戚から祝電が届くなど両親に恥をかかせてしまう。

京都産業大学学生時代に、教授が教室に入る際に出囃子を鳴らして笑いを取ったことがある。

清水國明原田伸郎、後に結婚する玲子夫人とともに、あのねのねのメンバーでもあり、ヤマハのコンテストにも出場した(鶴瓶は踊るだけ)。この時玲子夫人が『ひょっこりひょうたん島』のテーマを歌っている。清水とは下宿で共同生活を送った時期もあった。アルバイトは京都の修学旅行旅館「みきはん」で、歌や話芸で誰が一番人気か競いあったという。また、原田がサークルをサボって女の子と遊んでいた所を目撃し、彼をトイレで殴って便器に顔を突っ込んだことがある。やがて、あのねのねがスターになり、鶴瓶の結婚式に二人が札束を持ってきたエピソードもよく語られる。鶴瓶の結婚式・披露宴の代金をあのねのねがすべて負担し、それでも余ったという。

入門時[編集]

入門を許されて4日目のこと、寄席の来場者の下足番を任された際に、いつも当たり前のように青田(無料、顔パスの意)で入場し横柄な態度で振舞う新聞記者に腹を据えかねて口頭でとがめたところ、「お前、辞めさせたるわ、ちょっと来い」と松鶴の楽屋に連れて行かれた。松鶴から下足番を離れたことをたしなめられると、破門等の処分を覚悟してこの経緯を話した。すると松鶴は新聞記者を「アホ! カス! 去ね(帰れ)!」と罵倒し、「この子は将来、あんさんらが取材で世話になる子や! それに対して何をさらす(何をしやがる)!」と言い放った。その男気に、鶴瓶はたまらなく感動したという[8]。その後「鶴瓶」の名を与えられ、松鶴を「おやっさん」として慕い続ける。

入門後[編集]

兄弟弟子の中では、鶴瓶は付き人として、師匠・松鶴と最も行動を共にしており非常に可愛がられた。テレビ番組での共演も多い。

しかし、松鶴からは決して落語の稽古を付けられることはなかった。兄弟子である笑福亭松枝のエッセイによると、鶴瓶は何度も稽古を付けてくれるよう直訴したが、松鶴の方が逃げ回っていたとのことである。また、松鶴が鶴瓶の素質を見込み、笑福亭の代々の伝統である「捨て育て」により個性を伸ばすため、あるいは松鶴が鶴瓶は古典の言葉ではなく現代の言葉で笑いを創っていったほうが良いと判断したためなど他にも諸説ある。

松鶴によって、高島屋大阪店ホール(現在はグランドホール)で行われた落語コンクールにエントリーされてしまった折は、入門前より学校などで披露していた『いらちの愛宕詣り』を覚え、その江戸版である「堀之内」(10代目桂文治の伸治時代のもの)の断片を交えつつ、古典落語なのにオートバイに乗った人物を登場させるなど、入門前より行っていたアレンジを適当に加えて演じた。審査員だった松鶴と香川登枝緒からは「時代錯誤も甚だしい」「こいつの落語は落語やおまへん。現にワタイ(落語の)稽古つけてない!」と酷評されてしまった[9]。そのほかにも、高座にラジカセを持ち込み、笑いが欲しいシーンでスイッチを入れて笑い声を出し、客の笑いをあおるなど、当時としては斬新なアイデアを披露したりしたが、これも松鶴に楽屋で叱られてしまった。ただしその松鶴も、若手時代には高座でバレリーナに扮して先代から怒られている。3代目桂米朝によれば、3代目桂米之助作の新作落語「白鳥の死」の口演のためだという。松鶴の若手時代のこの話をベテランのお茶子から教えてもらい、鶴瓶は気が楽になったという。

入門当時には、小学六年生で12歳の兄弟子・笑福亭手遊(おもちゃ、入門は1971年10月で廃業が1974年)がおり、入門順が序列となる落語界のしきたりに従い、彼を「兄さん」と呼んでいた。その頃は子供がお笑いの世界でデビューする例が他にも見られ、そのような背景もあってか手遊もあまり気を遣うことなく鶴瓶に「兄弟子」として振る舞うことがあったという(しかし先輩風の度が過ぎると鶴瓶が逆襲し、手遊を泣かせたというエピソードもある)。

一時期、笠置シヅ子の隠し子であると振れ込んでいたことがある。当時すでに笠置は晩年で闘病生活に入っており、2人が会うことはなかったが、後にその病院の看護婦だった女性から「笑福亭鶴瓶って子がおるやろ、あの子、私の隠し子なんよ」と笠置が言っていたと教えられ、驚いたという。

また、ユリ・ゲラーをはじめとする超能力エスパーブームの時期でもあり、「超能力がある」と言ってスプーン曲げをしていたこともある。洒落のつもりでスプーン曲げも力任せにやっていただけだが、上岡龍太郎の不興を買ってしまった。鶴瓶は正直に事情を話し、上岡も笑って誤解を解いた。鶴瓶と上岡はこれが縁で互いの楽屋を訪れるようになり、その鶴瓶の楽屋話が面白いということで『激突夜話』『パペポTV』へとつながっていった。

一時「東の萩本欽一、西の笑福亭鶴瓶」と言われた程、プロデューサー感覚に溢れた自作自演ぶりを発揮したこともあり、お笑いタレントとしての評価は高い。

タレント活動時[編集]

入門前から1981年頃までの若手時代は、アフロヘアーオーバーオール姿がトレードマークとなっていた。オーバーオールばかり履いていた理由は、電車内で自分の前に立つ女性の股間を見ながら自慰行為をするのに一番ばれにくい服装だったからである[10]。1990年代中頃からヘアースタイルは短髪である。前頭部の生え際がやや後退しM字型、2000年位からは頭頂部の頭髪も薄くなってきた、いわゆるMO型である。

あのねのねの当初のメンバーであったことや、ラジオのパーソナリティを長くやっていたことから、フォークソングに対する造詣も深く、『鶴瓶噺』や『朝まで生つるべ』、『朝まで歌つるべ』(テレビ朝日)などで、フォークソングを絡めている。

『鶴瓶・新野のぬかるみの世界』(ラジオ・OBC)では、80年代深夜番組として関西で、日曜の深夜にもかかわらず熱狂的な人気を誇る。ファンであるリスナーに会った際の口癖。「覚えてるよー」は、当時関西で鶴瓶のモノマネ定番セリフになった。ラジオ局で松山千春の女性ファンがカメラ忘れていった際、密かに自分の股間を写真で写して、カメラを返したという。リスナーにイベントで、前向きに行動するよう「がんばりやー」もよく口にしていた。ソープランドで働くひとりの女性リスナーと、客としてばったり会って、「覚えてるよー」「がんばりやー」と言いつつ、することはしてもらったという。

1994年に放送された『ラスタとんねるず'94』のカジノゲームに出演した際に事件を起こしている。負けたときの視聴者プレゼント用として持っていた巨大三笠焼きをいきなり一口かじり、そのかじりかけの三笠焼きをプレゼントとした。その後、コインベットした際に、モニターに座っていた木梨憲武に気づくと「そこ座んなや!」と木梨の尻を叩き、最後のベットでまたもモニターに座っている木梨を発見すると再び木梨の尻を叩き、今度はベットした自分のコインを絶叫しながら撒き散らした。居合わせた石橋貴明も絶叫しながら、鶴瓶の持ち分以外の約500枚のコイン全部を撒き散らし、収録が一時中断されている。

タモリとのエピソード[編集]

森田一義アワー 笑っていいとも!』には、1987年から木曜日に曜日移動なしで継続して出演し、木曜『いいとも!』の顔的存在となっている。「辞めたい」と言ったこともあるが、タモリに慰留され現在に至っている。なお、辞めたいとした理由は、明石家さんまの降板と「おもろい若手が沢山出てきて、自分のような古株はいらんと思うようになったから」であり、タモリに原因があるわけではない。むしろ、タモリの笑いに対する意識の高さを人一倍知っており、彼を「テレビの師匠」と仰ぎ、尊敬している。「『いいとも』を辞めたい」と言ったとき、タモリに「こういう場に出続けてるってことは、あんたにとって大事なんだよ」と言われ、当初は意味が分からず、年末恒例の『特大号』にだけは出演しない交換条件付きでしぶしぶ残留した。近年になって、定期的にタモリのような芸人と会うことや、若手などと生放送の場で絡むことの意義を感じ、「その意味がようやく分かった」と自身のラジオ番組内で語っている。これに関してタモリに対し、「あんた、何で(あの時に)そんなこと(=鶴瓶にとってそれが大事だということ)分かったの?」と感謝の意ともとれる疑問を投げかけている。また、その答えは、長年の生バラエティの司会で培われた、タモリにしかできない予見であったとしている。2014年3月を以って『いいとも!』の放送が終了したが、実に延べ27年間も木曜レギュラーを務めた。

笑っていいとも!』では標準語で話すようにタモリから言われたが全く話せず、ピーコから「30年外国に行って帰ってきた人みたい」と言われた。タモリから「ドラマに出るときに標準語(で話す人)の役(のオファー)こないの?」と聞かれた際に「大阪弁以外の役なんか一度もやったことない」と答えた。しかし浦沢直樹原作の『Happy!』では似非アメリカ訛り、『華麗なる一族』では標準語を使って演じていた。

裸にまつわるエピソード[編集]

何かと裸にまつわるエピソードの多い人物である。以下代表的な事例を挙げる。

  • 笑福亭一門が集まる宴会では、常に裸踊りを披露していた。
  • 東京でまだ無名だった頃に、東京12チャンネル(現・テレビ東京)の深夜番組『独占!男の時間』で、2度にわたって生放送の最中に裸にまつわる騒動を起こしている。2014年3月2日放送の『テレビ東京開局50周年記念番組 50年のモヤモヤ映像大放出!この手の番組初めてやりますスペシャル』では、以下に記す騒動の再現映像が放送されるとともに、スタジオパートで鶴瓶自身が騒動の顛末を語った。
    • 1975年に「セクシー美女による温泉リポート」の“出オチ”役で出演した際に、テレビカメラが鶴瓶をアップで写すタイミングを狙って、カメラの前で股間を露出。カメラに股間を押し付けた末に、スタジオから強制的に退場させられた。この背景には、リハーサルで披露したギャグを担当のプロデューサーが傲慢な態度で批判したことへの反発があったという。
    • 1977年3月26日放送分の最終回には、司会の山城新伍の計らいで特別に出演。山城から「カメラの前で一発芸をやって欲しい」と促されたことをきっかけに、テレビカメラの前で肛門を見せてスタジオから逃走。その勢いで、当時同局の敷地内にあった池に飛び込むと、当時の社長・中川順が大事に育てていた時価数百万円の錦鯉を踏み殺してしまった。
    • 最終回での暴挙を重く見た東京12チャンネルは、鶴瓶を無期限の出入禁止に処した。しかし、テレビ東京へ改称した後の2003年に、系列局・テレビ大阪制作の『きらきらアフロ』をテレビ東京の第1スタジオ(当時)で収録[11]。この収録によって、深夜番組への出演が28年振りに認められた。さらに、2008年6月の『きらきらアフロ』生放送スペシャルで、テレビ東京の生放送番組に初めて出演。前述の開局50周年記念番組で、同局がゴールデンタイムで放送する番組への初出演を果たしている。
  • その後、2008年6月16日『きらきらアフロ』で共演している松嶋尚美の結婚記念の『きらきらアフロ』生放送スペシャルで、前の番組の『メガスポ!』に引き続いて33年振りにテレビ東京での生放送番組に出演した。その際、「祝、33年ぶりテレ東生出演」と書かれたタスキをつけた。
  • 初期の『ヤングタウン』担当時、鶴瓶はスタジオに現れると、全裸になってからハガキの選定作業に入るのが常だった。1976年、放送禁止用語(猥語)を連発し2ヶ月ほど謹慎処分になったこともある。また中森明菜をゲストに迎えるにあたり、鶴瓶自身の提案で、鶴瓶はおろかディレクターなどスタッフ全員が全裸で中森の入りを待ったことがある。なお先に入ったマネージャーたちの反応で悟ったのか、中森は全員がパンツをはくまでスタジオに入ろうとしなかったといわれる。
  • 1988年、当時全国ネットになって間もない頃の『鶴瓶上岡パペポTV』のオープニングで、鶴瓶が高校時代に朝礼台の前に整列し拍手している生徒たちの前で、朝礼台に立ってズボンとパンツを一気にを降ろし、生の尻を見せた瞬間一斉に拍手が止む、といった芸を披露していたと話した。その直後、上岡に「ほな、今ここでやってみい、で(鶴瓶が)ケツ出したら(拍手を)止めるねんで」とそそのかし、2分ほど躊躇・抵抗するものの、とうとう舞台の上で尻を丸出しにしてしまった。
  • 1995年大晦日、『裏番組をブッ飛ばせ!!'95大晦日スペシャル』において、泥酔していた鶴瓶は野球拳で負けが込み、最終的には生放送に関わらず、パンツを脱ぎ捨て全裸へ至り、スタジオ内を騒然とさせた。丁度ボディービルダーに隠れていた為、股間露出は免れたが、苦情の電話が殺到し、番組内で謝罪があった。2013年2月に放送された日テレ×NHK 60番勝負(本人もゲスト出演)でも番組を収録したVTRが紹介された。
  • 1997年11月にテレビ朝日27時間チャレンジテレビの企画内で鶴瓶が泥酔し、その後パンツを脱ごうとした。共演のビートたけしも悪ノリし、今田耕司東野幸治が止めに入るなど番組は終始混乱した(詳しくはブリーフ4を参照)。
  • 2002年の27時間テレビの深夜コーナー「さんま・中居の今夜も眠れない」内でのココリコと鶴瓶の山形県酒田市・飛島中継で、深夜に酒を飲んで泥酔していた鶴瓶が尻を丸出しにして寝ている姿が全国に放送された。無理矢理起こされた鶴瓶は突然、「若手時代のさんま駆け落ち事件」を暴露し、さんまなどに“史上最悪の中継だ”と言われた。
  • 翌2003年の27時間テレビに出演した際、前回の件もあり、オープニングの長崎県松浦市・飛島中継で「絶対に酒を飲みません」と公言したにもかかわらず、次の中継では既に村長と酒盛りをしていた。夜10時には「居酒屋つるべ」をオープンさせ、隣に座った老婆の胸を揉んだり、放送禁止用語(猥語)を叫ぶなど失態を連発した。さらにドラム缶の風呂に入るシーンでは、股間がカメラに映りそうになった。その後、「さんま・中居の今夜も眠れない」の中継の時点で鶴瓶は泥酔しており、中居に呼ばれて起き上がった瞬間に股間を露出してしまった。一緒にいたココリコの遠藤章造やスタッフが座布団等でフォローをしたが、手遅れであった。なお、同コーナーの終了後すぐに高島彩アナウンサーが謝罪。後日、鶴瓶はフジテレビに謝罪をした。普段鶴瓶は全裸で眠るのだが、眠っている間にスタッフに無理やりパンツをはかされていたとのことである[12]
  • 2003年12月18日放送の『ナインティナインのオールナイトニッポン』にゲスト出演。この日の放送は、この年鶴瓶が『27時間テレビ』で股間を露出したことを受けて、鶴瓶はどうやったら股間を出すのか、今年2回目の露出はあるのかを検証する為、鶴瓶には内緒で様々なことを試みるという内容だった。ナイナイとスタッフの計らいによりスタジオの温度を上げ、足元には脱衣籠を用意するなどし、最終的に岡村が脱ぎだすと「脱いどこか?」と言い、鶴瓶はあっさりと全裸になった。とこの時、マイクのスポンジを股間に被せたり、尻の穴に入れたり、椅子に放尿をしたり、自らの包皮を剥くなどした。矢部は鶴瓶に対し「あんたは最悪や!他の番組でも使うんやで」と一喝し、岡村は笑いながらもリスナーに状況を説明していたが、鶴瓶は断固として「こいつらがさも脱いでるように言うてるだけや」「お前らが俺を陥れようとしとるだけやないか!」と言い張った。
  • 2005年6月11日に、テレビ朝日で放送された、くりぃむしちゅーロンドンブーツ1号2号と共演の『ゆく年くる年への道』の番組中で、2003年の27時間テレビでの失態について、寝ぼけながらも明石家さんまの声が聞こえたため、笑わそうとして、分別が付かず、脱いでしまったと明らかにした。
  • 2005年の27時間テレビで、総合司会という立場ながら、冒頭企画で嫌いな鯖寿司を食べさせられそうになり、その後都内を逃走してTBSまで逃げ、最後はココリコに連れ戻された。これは番組演出で、その模様は随時中継された。番組のラストでは全身に金粉を塗ったパンツ一丁姿で、この年ライブドアによるニッポン放送・フジテレビ買収騒動を受け、本来のテレビのあり方や出演者やスタッフに感謝のコメントを述べた。
  • 2006年10月9日の『鶴瓶の家族に乾杯』で、西川きよしにそそのかされ、琵琶湖で泳がされる。このとき「僕はテレビの前で裸になることは本当にやめようと心に誓ったんですよ」と言ったが、最終的にはパンツ1枚になって水に入る。同じく裸で琵琶湖に飛び込んだきよしが着替える際には、きよしの前に立たされ、「芸能生活の中でモザイク(役を)やったん初めてです」と嘆いた。
  • 2007年1月2日放送の『鶴瓶・実は丸々一年ず〜っとロケしてたんやで正月スペシャル』で、忘年会の席で若手とネタで共演するコーナーに出演したときのこと。酒がかなり進み、ほとんど泥酔状態のまま長州小力との即興コンビを組み、小力と同じ格好で舞台に立った鶴瓶であったが、海パンから股間の一部がはみ出していた。仕切り直して再度登場したが、今度は踊っている最中に失禁してしまった。
  • 2007年6月29日放送の『きらきらアフロ』で、鶴瓶がトーク中に体を反ったときにパンツが観客に見えてしまった。その後別の話題になっていたとき、今度はズボンがずり落ち、パンツ丸出し状態になる。慌てて履き直したもののスタジオは騒然。その後スタジオ裏に戻りマネージャーにズボンのチェックをしてもらい、「忘れてください」と言って進行を再開した。
  • 大阪のIMPホールで行われていた月刊つるべでは「俺はチ○○から空気を出せる」と言い、股間の先をつまんだ状態で小便をした。一見、先が膨らんで空気が出ているように見えたが、実際は尿がたまっているだけであり、辺りに尿が飛び散って女性客が悲鳴を上げた。
  • 上記の行為をテレビ局の楽屋で間寛平に見せたところ、寛平は驚嘆しながら大量の尿で膨らんだ鶴瓶の股間をギュッとつまんだ。その結果、鶴瓶の股間から大量の尿が飛び出して寛平の顔面にぶっかかってしまった。そのせいで、しばらくの間、鶴瓶は寛平と顔を合わす度に、顔面に尿をぶっかけられたことを非難される破目になった。
  • 大阪ローカルの番組『突然ガバチョ!』の本番で下半身を露出したことがある。また、MBSラジオ『ヤングタウン』の放送中(1987年10月)大便をした。
  • 芸人同士の飲み会でそそのかされ、全裸で店外に出た途端鍵を閉められ、約1時間半の間全裸のまま屋外へ放り出されたことがある。また、局部に蛍光塗料を塗って暗闇の中を走り回ったり、全裸に脱ぎかけのワイシャツ1枚で袖の部分だけ引っかかっている状態で踊る、陰部をガムテープで張ったりはがしたりする、など、宴会においても露出狂じみた芸を披露していることを本人自身が語っていた。
  • 2011年9月MBSラジオの開局記念番組31.5時間ラジオ「ラジオの力」 対話が日本を元気にする!』のコーナー・明石家さんまと2人だけの対談で「(開チン事件について)兄さんだから笑えるけど俺が出しても笑えない」とコメントしていた。

これらの逸話から露出狂と思われることが多いが、それについては著書で「僕は世にいう露出狂などでは、断じてない。…(中略)…僕の場合は、決して快感のためにやっているわけではないからだ」と述べて否定する一方、「ただ、快感を得るためにではないにしろ、例の部分を露出することに、さして抵抗を感じていないことだけは、事実かもしれない」とも語っている[13]。なお、2007年8月の『週刊文春』の対談記事で家庭では全裸で過ごしていることを明かした[14]

その他エピソード[編集]

  • 下積み時代、余興を企画したイベント会社社長の、若手芸人をバカにするぞんざいな態度が気に入らず、出演せずに劇場を後にしたことがある。一年半後、スターとなった鶴瓶に同じ企画会社から仕事が入ったが「売れていない弱い立場の芸人には平気で高飛車に命令をしておいて、少し売れてくるとたちまち態度を変える。僕はそんな方と一緒に仕事したくないんです」と直接言って仕事を断っている。[13]
  • 内弟子になった頃から、鶴瓶はイタズラをエスカレートさせた。アフロヘアを師匠に咎められ、散髪代を渡されたが、「(金を)落としてしまいましたわ」と言って切らなかったが、実際には酒代に使われていた。また、師匠の飼っていた大事な犬をコタツに入れフラフラにさせ、「これがホンマのホットドッグや!」と言ったが、師匠はその鶴瓶の行動を黙認していた。
  • フォークロックの会」というライブイベントの司会をしたとき、ロックバンドのベーシストから「俺は、お前が嫌いや。嫌いやねん」と言われたことに激昂し「なんやその言い方は!! 勝手に自分たちで司会をしとけ!!」と言いながらベーシストを鼻血が出るまでマイクで殴り続けたことがある。これは、その侮辱的な発言はもちろん、同バンドのギタリストチューニングが遅れたため急遽繋ぎのトークを行ったのにも拘らず、謝るどころか鶴瓶の質問を無視し続けたその態度が気に入らなかったためである。なお、後日談としてこのベーシストと偶然再会して話す機会があり「心のなかの汚点が、スッと洗い流されるような、さわやかな気持ちに、しばしひたったものだった」と述べている。[13]
  • 桂南光(当時の桂べかこ)と2人で交番の壁に向かって小便をしているところを警官に見つかり、取調べを受けたことがある。その際に二人とも本名ではなく芸名を名乗ったため、警官からさらに怒られた。
  • 日本テレビが「チャリティー番組」として放送している『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』への出演を拒否している。
  • ラジオ番組『ミッドナイト東海』に出演していた時、東海ラジオの食堂でアルバイトをしていた当時無名の漫画家鳥山明と顔見知りになった。その縁で『Dr.スランプ』単行本第1巻に鶴瓶が登場している[15]
  • 映画で共演した中井貴一と青山で話しながら歩いていた際に前を歩く中井をびっくりさせようと歩きながら小便をし始めた。途中で異変に気付いた中井は驚いて逃走したがすぐに転んでしまい鶴瓶の小便がかかってしまった。それ以来二人は大の仲良しに[16]
  • 1993年『どちら様も!!笑ってヨロシク』の収録中に居眠りをしたことがある。これが原因で鶴瓶は一時降板の処分となり、番組が1時間枠に拡大するまでの約1年間出演が許されなかった。
  • 明石家さんまナインティナインからは、ハプニングに見せかけ意図的に笑いを取ろうとすることや、若手芸人からいじられることで自分に利益があると思っていることなどを指摘され「悪瓶」(わるべ、悪い鶴瓶)とよく呼ばれている。また、眼鏡の奥の目が笑っていないなどともよく言われる。
  • 後輩のウッチャンナンチャン東野幸治からは先輩扱いされないというやり取りが定番になっている。
  • 6代目松鶴の死後、笑福亭梅香を襲名させる計画があった。初代桂文枝(正確には桂梅香)、2代目曽呂利新左衛門の前座名という由緒名であるが、一門での慣例から、読みは「ばいこ」「うめこ」のいずれではないかと(本人は)推察。遺書に読み仮名が無かったために「梅香」の正確な読みは不明のままとなっており、名前が自分に似合っていないということから辞退している(上方の発音で「うめこ、うめこ」と読むと卑猥に聞こえて格好が悪いというトークネタもある)。
  • 「夢の三競演 三枚看板 大看板 金看板」で南光、桂文珍に薦められ、6代目松鶴こそ演じていないが笑福亭に由緒のあるネタ「たち切れ線香」 を口演することになった。その稽古の為に文珍の弟弟子である桂かい枝が「たち切れ線香」が録画されたビデオテープを渡すはずが間違えてアダルトビデオが録画されたビデオテープを渡してしまった。
  • 落語会を開く際、桂「南光」(なんこう)をブッキングするはずが、スタッフ等の手違いで講談旭堂「南湖」(なんこ)をブッキングした。
  • 関西ローカルの番組で障害者の犯罪について聴かれた鶴瓶は怒った口振りで「精神障害を持った人間が犯罪を犯しても障害を理由に釈放され、そのことを利用して犯罪を犯し続けるですよ。(その事が)おかしい。」と現実におきた話の様に発言。共演者に「それは現実の話ですか?」と聞かれ「いや、本の話なんやけど」と答えた。だが、また同じ話しをはじめ、再度「それは現実の話ですか?」と共演者に聴かれ物語の話と答えた。北野武舛添要一が精神障害者蔑視発言で問題視されたこともあったがローカル放送な為かそれ程の発言では無いのか鶴瓶の発言はあまり問題視されなかった。
  • 鶴瓶の実姉は、兄弟子である鶴光と同級生である。
  • 初代笑福亭鶴瓶は昭和初期の人で、系図には「後に笑福亭をクビになり、アル中で死んだ」と記録されているという[17]
  • フジテレビの27時間で2002年・2003年と続けて下半身露出の大失態をしたため、反省から2004年の27時間テレビへの『出演辞退』を申し入れていたが、フジテレビと所属事務所側が説得して出演した。
  • 2004年に島田紳助が所属する吉本興業女性マネージャーに暴行し、その女性に傷害罪で告訴された件に関し、「紳助が手を出したのは悪いけど、もうええやんか。 あんだけ謝ってんのやから、いい加減許してやれや。 おんなじ会社のことやろが」とコメントし、紳助を擁護する立場を取った。
  • 2007年12月31日に行われた『第58回NHK紅白歌合戦』で白組司会を務めた際、SMAPの「弾丸ファイター」のことを「コウガンファイター」と失言した。
  • 2007年の紅白の舞台裏でリア・ディゾンに消え入るような声で「コタロー」と呼ばれた。これに鶴瓶が「何でコタローなの?」と聞くとリアは「好きな名前」と答えた[18]
  • 2008年10月の『笑福亭鶴瓶のメインキャスト!』で、好みの女性を中井美穂 木村多江 上野樹里と化粧気のない人と、コメントしている。
  • 2009年6月18日放送『笑っていいとも!』のオープニングコーナー「ゲストは誰だ!! マス埋めヒンター」において、抽選でヒンターに選ばれた。その日の秘ゲストはV6・トニセンの坂本昌行であったが、鶴瓶は4マスの欄に「カミセン」と書いてしまい、結局レギュラー陣は誰も答えられず、お笑い芸人がゲストの時を除けば珍しい時間切れとなった。後のコーナー「出たいドルDX」にて鶴瓶はただ坂本に平謝りしていた。そして汚名返上をかけた翌週の6月25日放送の同コーナーにおいて、ヒンター青木さやかの出したヒント「鼻」「眼鏡」だけでゲストを当てた。そのゲストは鶴瓶の一番弟子である笑福亭笑瓶だった。
  • 2009年7月16日放送『笑っていいとも!』は、休暇中のタモリの代行でテレフォンショッキングの司会を担当。その際、同コーナーでかつて定番だったフレーズ「友達の輪!」を観客とともに行った。
  • 『ディア・ドクター』での受賞後に日本外国特派員協会で外国人記者相手に会見を行っている。
  • 2009年10月 - 12月の『笑っていいとも!』で自身が子ブタの「つるブー」に扮し、登場するコーナーがあった。
  • 自身とIMALU明石家さんまの長女)が司会を務めるTBS系『A-Studio』の2010年6月11日放送分に北野武がゲスト出演した際、北野に「TBSで、自分、鶴瓶、さんまで『32時間テレビ』をやろう」と持ちかけられた。

出演番組[編集]

バラエティ[編集]

レギュラー

特番

過去に出演した番組[編集]

テレビドラマ[編集]

映画[編集]

吹き替え[編集]

「笑っていいとも!ラストクリスマス特大号」でもグルーの実写版をやった。

ラジオ[編集]

ライブトーク[編集]

レコード・CD[編集]

  • 酔い語り/友よ語りき(1977年11月)※駿河学名義 作詞作曲 河島英五
  • はやく人間になりたいッ!/初恋バンザイ(1978年)
  • 慎吾ママのおはロック - 香取慎吾
  • TSU・RU・BE/それからね(1982年5月)
  • 帰って来たヨッパライ - SMAP(2010年7月21日)※神様役として参加
  • うろこ雲の絵(?)西岡たかし作品、お笑いタレント歌合戦CDにオムニバスで収録。
  • それからね

CM[編集]

その他参加作品[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ テレビ大阪きらきらアフロ』2010年3月12日放送、鶴瓶本人の発言
  2. ^ 上から順に仁鶴、鶴光、福笑、松枝、呂鶴の兄弟子5人がいる。
  3. ^ 上方タレント101人 新野新
  4. ^ 『突然ガバチョ!』も関東地区ではTBSで遅れネットされたが4か月で打ち切られている。
  5. ^ ただし、飛び入りゆえにネタに合わない会場になってしまうことがある。『死神』の型を変えて大阪でネタおろしするために桂三金の落語会に飛び入りしたところ、会場が病院の一室だったということがあった。(エンターテイメント日誌『鶴瓶と笑子と三四郎 落語会』2010年5月19日付 2013年8月17日閲覧)
  6. ^ デンナーシステムズは元松竹芸能社員で鶴瓶のチーフマネージャーを担当していた千佐隆智が代表取締役を務める芸能プロダクション。東京・東麻布に所在し、ジャパン・ミュージックエンターテインメントの系列でもある(ただし、ウェブサイト上には掲載されていない)。主に東京・全国区方面でのマネジメントを担当しており、マネージャーもデンナーシステムズの社員が就いている。
  7. ^ 鶴瓶噺、朝まで生つるべ、2007年8月12日放送分のおしゃれイズム等。
  8. ^ 鶴瓶上岡パペポTV』及び高田文夫編『ありがとう笑名人 第一集』での本人談。
  9. ^ 『ありがとう笑名人 第一集』より。この話には続きがあり、松鶴は会場を出る際に一転して「お前のが一番よかった」と鶴瓶を褒めている。
  10. ^ 「ためいき坂くちぶえ坂―松鶴と弟子たちのドガチャガ」 笑福亭松枝 著
  11. ^ テレビ東京の局舎は1985年12月に現在の虎ノ門に移転。『きらきらアフロ』も、2011年7月の収録分から、東京タワースタジオ(東京12チャンネル→テレビ東京旧局舎の跡地にあるスタジオ)に変更している。
  12. ^ 鶴瓶噺2009
  13. ^ a b c 笑福亭鶴瓶 『哀しき紙芝居』 (新興楽譜出版社 1982年8月8日)
  14. ^ 阿川佐和子のこの人に会いたい 第693回」『週刊文春』2007年8月30日号、文藝春秋、p132
  15. ^ 2006年2月21日放送『鶴の間』で発言。
  16. ^ 2007年8月12日放送『おしゃれイズム』で発言。
  17. ^ パペポTV第322回より。
  18. ^ これは恐らくリアが「鶴瓶」と言いにくかったのではと、鶴瓶が2008年2月1日(東京は4日)放送のテレビ大阪「きらきらアフロ」の中でコメント。一部の外国語圏では「つるべ」のような音が発音しにくいところがあり、他の外国人からも「つぶれ」と呼ばれたことがある
  19. ^ ORICON life (2011年4月15日). “笑福亭鶴瓶、CMで長男・駿河太郎と親子初共演 「ありがたい事ですよ」”. 2011年4月15日閲覧。[リンク切れ]

関連人物[編集]

駿河太郎
鶴瓶の息子。バンド「sleepydog」のボーカルを務めた。2008年に俳優デビュー後は俳優業を主軸に活動している。

兄弟弟子[編集]

弟子[編集]


廃業した弟子

関連項目[編集]

外部リンク[編集]