笑福亭鶴瓶

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笑福亭鶴瓶(しょうふくてい つるべ)は、上方落語名跡

当代は特に代数を名乗っていないものの、4代目笑福亭松鶴の門下で鶴瓶を名乗り、後に2代目林家染丸の門下に移り染八を名乗った噺家がいることから、当代は2代目であると思われる。

  • 初代 笑福亭鶴瓶(生年不詳 - 1944年2月)は、後の林家染八。初め4代目笑福亭松鶴の門下で、師が一旦芸界を離れた時に、2代目林家染丸の門下に移る。本名は金谷伊太郎。
  • 笑福亭鶴瓶(当代) - 本項を参照。

笑福亭鶴瓶
五枚笹は、笑福亭一門定紋である。
本名: 駿河 学(するが まなぶ)
ニックネーム: べー師匠 べーさん まーちゃん
生年月日: 1951年12月23日(57歳)
出身地: 大阪府大阪市平野区
血液型: O
身長: 173cm
方言: 大阪弁
最終学歴: 京都産業大学経営学部中退
師匠: 6代目笑福亭松鶴
芸風: 落語漫談
事務所: デンナーシステムズ松竹芸能
活動時期: 1972年 - 現在
同期: ビートたけし志村けん など
現在の代表番組: きらきらアフロ
ザ!世界仰天ニュース
笑っていいとも!
過去の代表番組: 突然ガバチョ!
鶴瓶上岡パペポTV
ざこば・鶴瓶らくごのご
平成日本のよふけ
鶴の間  ほか
他の活動: 社団法人上方落語協会副会長
配偶者: 既婚
親族: スルガタロウ
(実子・ミュージシャン
弟子: 笑福亭笑瓶 笑福亭晃瓶
笑福亭銀瓶 笑福亭瓶吾
など15名

笑福亭 鶴瓶(しょうふくてい つるべ、本名:駿河 学(するが まなぶ)1951年12月23日 - )は、日本落語家6代目笑福亭松鶴門下)、お笑いタレント俳優司会者ラジオパーソナリティーである。社団法人上方落語協会副会長。

目次

[編集] 来歴・人物

大阪府中河内郡長吉村長原(現在の大阪市平野区長吉長原)の出身で、兵庫県西宮市在住。

所属事務所はデンナーシステムズ[1]松竹芸能にも籍を残している。

落語家としては、現在は上方落語協会副会長を2008年6月20日より務めている。

あだ名は「師匠」「べーさん」、「まーちゃん」、「まなぶくん」。 身長は公称173cm。趣味はボクシング。好物はパンカレーライス

5人兄弟の末っ子で浪速高等学校卒業。その後、京都産業大学経営学部に進学するも中退。大学時代は京都産業大学落語長屋という落語研究会に所属しており、童亭 無学(どうてい むがく)を名乗る。一時期はここでの芸名を本名であるスルガ・マナブと名乗ったこともある。

しばしば、鶴瓶を「つるべぇ」「つるべぃ」と誤読されるが、出典が「釣瓶」なので正しくは「つる」である。同じく笑福亭一門であり、兄弟子でもある笑福亭鶴光もしばしば「つるこう」と誤読されるが正しくは「つる」。鶴瓶本人は関西においては「鶴瓶はな、『つるべえ』やあらへん、『つるべ』や」と六代目松鶴のまねで説明することが多い。また、一般に関東では「るべ」、関西では「つべ」と、関東と関西では「つる」のアクセントが全く逆になるため、「つるべ」の関東読みに違和感を覚える関西人も少なくない。田原俊彦は「つるへい」と呼んでいた。

名前から兄弟子の笑福亭鶴光、眼鏡をかけた外見から桂文珍と間違えられることが多い。宝塚の女優から「笑福亭仁鶴瓶」宛てへの手紙が送られたこともある。

笑っていいとも!』では標準語で話すようにタモリから言われたが全く話せず、ピーコから「30年外国に行って帰ってきた人みたい」と言われた。タモリから「ドラマに出るときに標準語(で話す人)の役(のオファー)こないの?」と聞かれた際に「大阪弁以外の役なんか一度もやったことない」と答えた。しかし浦沢直樹原作の『Happy!』では似非アメリカ訛り、『華麗なる一族』では標準語を使って演じていた。

芸能界で刺激を受ける存在は中村勘三郎SMAPとのこと。

好きなアーティストaikoで、洋楽のファンでもある。若者文化に対する造詣も深い。

長男は俳優の駿河太郎。2008年7月26日、浜松近郊の病院が生まれたことを『FNS27時間テレビ!! みんな笑顔のひょうきん夢列島!!』で発表した。ちょうどこの時は鶴瓶と明石家さんま大竹しのぶ元夫妻とののトークコーナーが放送されており、さんまがくだらない発言をすると「早く浜松行って、孫の顔見たいんや!」と叫んでいた。

[編集] 学生時代のエピソード

1961年頃、学校へ行く途中で近所のおじさんに競馬場に誘われて、駿河少年が適当に指名した馬券をおじさんが購入し、それが万馬券に化ける。驚き感嘆したおじさんは、約40万円の払戻金を丸々駿河少年に手渡し、貰った本人は何のことか意味が分からず大金を自宅に放置し、暫くして母親が発見し大目玉をくらい取り上げられてしまう。後になってこの出来事を思い出し、母親にお金の使途を執拗に問質した所、実家の建て増し資金になっていたことが発覚。この話をテレビ朝日の『徹子の部屋』で話したところ、さらに母親から叱られたという。

高校時代、裸で職員室を駆け抜けた事がある。当時男子校のため、在籍の教師は男性のみと思われる。

1969年、頭のいい人間に対抗心を持っていたため、受験していない京都大学や、大阪大学の入試の合格発表に行き、落ちていそうな生徒の隣で「あった!」と合格したフリをして、胴上げされるという悪戯をする。この時、大阪大学でNHKの取材を受け、模様が夕方のニュース番組で流れたため、それを見ていた親戚から祝電が届くなど両親に恥をかかせてしまう。

京都産業大学学生時代に、教授が教室に入る際に出囃子を鳴らして笑いを取ったことがある。

清水國明原田伸郎、後に結婚する玲子夫人とともに、あのねのねのメンバーでもあり、ヤマハのコンテストにも出場した(鶴瓶は踊るだけ)。この時玲子夫人が「ひょっこりひょうたん島」のテーマを歌っている。清水とは下宿で共同生活を送った時期もあった。あるトラブルから原田をトイレで殴って便器に顔を突っ込んだことがある。やがて、あのねのねがスターになり、鶴瓶の結婚式に二人が札束を持ってきたエピソードもよく語られる。鶴瓶の結婚式・披露宴の代金をあのねのねがすべて負担し、それでも余ったという。

[編集] 入門・弟子入り

在学中に6代目笑福亭松鶴楽屋に通いつめ入門を乞う。何度も断られるが、ようやく1972年2月14日に許され、11番弟子として入門。現在は7番弟子である。

弟子入りのきっかけは、入門前のある日、安井金比羅宮で開かれた米朝一門の落語会での松鶴の行いをみたことだという。高座に上がった松鶴は「あっ!」と固まった後、見えた僧侶を示して「あの坊さんの頭見たらネタ忘れてもた。オチだけ言うて降りま」と言い、本当にオチだけを言って2分ほどで降りてしまった。それを見て「エライ人や」と思い、松鶴への弟子入りを決めたという。

父は芸人になることに反対していたが、「親父さんを連れてこい」との師匠の意向もあり、騙して松鶴の自宅に連れていった。気づいた父は大人の対応を取っていたが怒っており、その気配を感じ取った鶴瓶は松鶴に修行について「今日からお願いします」と切り出した。弟子は松鶴宅に住み込みであり、自宅に帰らず、怒られずに済むからである。しかし「弟子になったら、親子ではなくなってしまう、今日のところはゆっくり水入らずで過ごしてきなさい」と松鶴から強く言われてしまい、父子で帰宅せざるを得なくなった。松鶴宅の門を出たとたん、近くにあった木製のゴミ箱の蓋を振りかざした父親に追い掛け回され、最後にはそれで殴られてしまったという。

入門を許されて4日目のこと、寄席の来場者の下足番を任された際に、いつも当たり前のように青田(無料、顔パスの意)で入場し横柄な態度で振舞う新聞記者に腹を据えかねて口頭でとがめたところ、「お前、辞めさせたるわ、ちょっと来い」と松鶴の楽屋に連れて行かれた。松鶴から下足番を離れたことをたしなめられると、破門等の処分を覚悟してこの経緯を話した。すると松鶴は新聞記者を「アホ! カス! 去ね(帰れ)!」と罵倒し、「この子は将来、あんさんらが取材で世話になる子や! それに対して何をさらす(何をする)!」と言い放った。その男気に、鶴瓶はたまらなく感動したという[2]。その後「鶴瓶」の名を与えられ、松鶴を「おやっさん」として慕い続ける。

[編集] 入門後

兄弟弟子の中では、鶴瓶は付き人として、師匠・松鶴と最も行動を共にしており非常に可愛がられた。テレビ番組での共演も多い。

しかし、松鶴からは決して落語の稽古を付けられることはなかった。兄弟子である笑福亭松枝のエッセイによると、鶴瓶は何度も稽古を付けてくれるよう直訴したが、松鶴の方が逃げ回っていたとのことである。また、松鶴が鶴瓶の素質を見込み、笑福亭の代々の伝統である「捨て育て」により個性を伸ばすため、あるいは松鶴が鶴瓶は古典の言葉ではなく現代の言葉で笑いを創っていったほうが良いと判断したためなど他にも諸説ある。

松鶴によって、高島屋大阪店ホール(現在はグランドホール)で行われた落語コンクールにエントリーされてしまった折は、入門前より学校などで披露していた『いらちの愛宕詣り』を覚え、その江戸版である「堀之内」(10代目桂文治の伸治時代のもの)の断片を交えつつ、古典落語なのにオートバイに乗った人物を登場させるなど、入門前より行っていたアレンジを適当に加えて演じた。審査員だった松鶴と香川登枝緒からは「時代錯誤も甚だしい」「こいつの落語は落語やおまへん。現にワタイ(落語の)稽古つけてない!」と酷評されてしまった[3]。そのほかにも、高座にラジカセを持ち込み、笑いが欲しいシーンでスイッチを入れて笑い声を出し、客の笑いをあおるなど、当時としては斬新なアイデアを披露したりしたが、これも松鶴に楽屋で叱られてしまった。ただしその松鶴も、若手時代には高座でバレリーナに扮して先代から怒られている。3代目桂米朝によれば、3代目桂米之助作の新作落語「白鳥の死」の口演のためだという。松鶴の若手時代のこの話をベテランのお茶子から教えてもらい、鶴瓶は気が楽になったという。

入門当時には、小学六年生で12歳の兄弟子・笑福亭手遊(おもちゃ、入門は1971年10月で廃業が1974年)がおり、入門順が序列となる落語界のしきたりに従い、彼を「兄さん」と呼んでいた。その頃は子供がお笑いの世界でデビューする例が他にも見られ、そのような背景もあってか手遊もあまり気を遣うことなく鶴瓶に「兄弟子」として振る舞うことがあったという。

一時期、笠置シヅ子の隠し子であると振れ込んでいたことがある。当時すでに笠置は晩年で闘病生活に入っており、二人が会うことはなかったが、後にその病院の看護婦だった女性から、「笑福亭鶴瓶って子がおるやろ、あの子、私の隠し子なんよ」と笠置が言っていた、と教えられ、驚いたという。

また、ユリ・ゲラーをはじめとする超能力エスパーブームの時期でもあり、「超能力がある」と言ってスプーン曲げをしていたこともある。洒落のつもりでスプーン曲げも力任せにやっていただけだが、上岡龍太郎の不興をかってしまった。鶴瓶は正直に事情を話し、上岡も笑って誤解を解いた。鶴瓶と上岡はこれが縁で互いの楽屋を訪れるようになり、その鶴瓶の楽屋話が面白い、ということで『激突夜話』『パペポTV』へとつながっていった。

一時「東の萩本欽一、西の笑福亭鶴瓶」と言われた程、プロデューサー感覚に溢れた自作自演ぶりを発揮したこともあり、お笑いタレントとしての評価は高い。

[編集] 兄弟子

同門の兄弟子には笑福亭仁鶴笑福亭鶴光笑福亭福笑6代目笑福亭松喬などがいる。また前述の笑福亭手遊の話を様々な場でネタにしている[4]

[編集] タレント活動

初のレギュラー番組は東海ラジオ深夜番組ミッドナイト東海』で、以降、近畿中京地区でラジオ・テレビを中心に活躍。関西芸能界の先輩からも所属事務所を問わず可愛がられ、松竹芸能所属であるにもかかわらず桂三枝がメイン司会の吉本興業系列の番組に出演するなど、吉本と松竹が強い対立関係にあった当時としては異例の存在であった。その後東京へも進出を図る。2001年コカコーラとのタイアップで、日本テレビと吉本興業が組んで制作されたドラマ『明日があるさ』にも、鶴瓶が松竹芸能からただ一人ゲスト出演するなど、所属事務所の垣根という面においては別格の存在である。

入門前から1981年頃までの若手時代は、アフロヘアーオーバーオール姿がトレードマークとなっていた。オーバーオールばかり履いていた理由は、電車内で自分の前に立つ女性の股間を見ながら自慰行為をするのに一番ばれにくい服装だったからである[5]。1990年代中頃からヘアースタイルは短髪である。前頭部の生え際がやや後退しM字型、2000年位からは頭頂部の頭髪も薄くなってきた、いわゆるMO型である。

1975年、東京12チャンネルの番組生放送中に、股間を露出(詳細は下記を参照)。同局から無期限の出入り禁止とされたため、東京進出は失敗に終わる。その後、出入り禁止は解除された。

1982年から4年間続いた毎日放送の『突然ガバチョ!』の司会で再び脚光を浴び、毎日放送のキー局であるTBSでも遅れネットで放送が開始されるも、関東では人気不振の為、わずか4カ月で打ち切りとなった。『突然~』が関西以外の地方でもネットされたのがきっかけとなり、1986年に東京へ再進出。だが、出演番組が早々と打ち切られることも多く、当時の週刊誌にも「再び東京進出失敗か」と叩かれた。ちなみにこの頃、鶴瓶が地元の電車に乗車している際に、このような記事の見出しが書かれた週刊誌の中吊り広告の真下に鶴瓶本人が立ってしまい、近くにいた乗客に「あんた、笑ってる場合やないよ。上見てみ」と指摘され、初めてそれに気づいたというエピソードがある。

しかしビートたけしは「この男を大阪に帰らせてはいけない」と鶴瓶を東京に留まらせたという。TBS系列の『世界No.1クイズ』が裏番組の『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』に太刀打ちできず打ち切りになった時、 面識はなかったものの鶴瓶の才能を認めていたビートたけしが、『世界No.1クイズ』を制作していたイーストの重役に対して「このまま大阪に返したら、イーストは笑われるぞ」「鶴瓶を活かせないような制作なら、お前らの仕事なんかしねえ」と鶴瓶をバックアップするように言った。このことは後に鶴瓶自身がいろもんの中で語っており「それ以来たけし兄さん[6]には頭が上がらない」とのことである。なおテレビ朝日系で『歌謡びんびんハウス』については8年間放送されており、すべての番組が早々に打ち切られたわけではない。また、当時の『歌謡びんびんハウス』のスタッフによって『鶴瓶噺』や『朝まで生つるべ』、『朝まで歌つるべ』が企画・制作されている。また、フジテレビ系『森田一義アワー 笑っていいとも!』には1987年4月から今日に至るまで約23年間木曜日のレギュラーとして出演している。

後にテレビ番組『鶴瓶上岡パペポTV』が全国放送化されて以降は、トークの面白さが評価され、全国区の人気を得るようになった。

あのねのねの当初のメンバーであったことや、ラジオのパーソナリティを長くやっていたことから、フォークソングに対する造詣も深く、『鶴瓶噺』や『朝まで生つるべ』、『朝まで歌つるべ』(テレビ朝日)などで、フォークソングを絡めている。

1994年に放送された『ラスタとんねるず'94』のカジノゲームに出演した際に事件を起こしている。負けたときの視聴者プレゼント用として持っていた巨大三笠焼きをいきなり一口かじり、そのかじりかけの三笠焼きをプレゼントとした。その後、コインベットした際に、モニターに座っていた木梨憲武に気づくと「そこ座んなや!」と木梨の尻を叩き、最後のベットでまたもモニターに座っている木梨を発見すると再び木梨の尻を叩き、今度はベットした自分のコインを絶叫しながら撒き散らした。居合わせた石橋貴明も絶叫しながら、鶴瓶の持ち分以外の約500枚のコイン全部を撒き散らし、収録が一時中断されている。

家族は、妻、長女、長男がいる。長男はロックバンド「sleepy dog」のボーカル、スルガタロウ。本名:太郎。妻と長女は芸能人ではないため、非公表。その他にはペットに犬を飼っている。

1974年10月12日に結婚。結婚式は大阪府交野市の「郡津神社」で執り行われた。その結婚式の仲人は師匠の笑福亭松鶴 (6代目)が務めたが、スピーチの際に「ウチの弟子は13人いてまっけど、こいつが一番アホだ。終い!」とだけ言い残し、そのまま結婚式場を後にした。

アレルギー(正確には鯖の寄生虫であるアニサキスアレルギー)。

タモリ明石家さんま島田紳助など鶴瓶よりも後輩の落語家またはタレントは、「師匠」「鶴瓶師匠」「鶴瓶兄さん」と呼ぶ。(ただしタモリは年齢では年上なので、鶴瓶と呼び捨てにすることもある。)また、タモリは「おっちゃん」、「おっさん」と呼んだりもする。ココリコなどは「べー師匠」もしくは「べーさん」角淳一やしきたかじんなどの悪友は「鶴瓶」と呼ぶ。さだまさしは、親交が深いゆえにわざと「つるべえ」と呼ぶこともある。所ジョージは以前、「しょうふくていつるびんさん」と、親しみを込め、冗談混じりで呼んでいたことがある。また、たけしを鶴瓶は「兄さん」と呼んでいる。

さんまの携帯電話電話帳には鶴瓶は「悪べぇ」と登録されている。たまに、レギュラー番組などで批判と称し使っている。ナインティナイン岡村隆史曰く、「悪べぇ」の由来は『めちゃ²イケてるッ!』と鶴瓶が出演していた番組の収録スタジオが隣同士であり、そこへ鶴瓶が訪れ、『めちゃイケ』出演者用のカレーライスを食べたうえに金で解決しようとしたことで、当時の岡村が「この人はものすごく悪い人や」と思ったことからであり、『ナインティナインのオールナイトニッポン』の人気コーナー「悪い人の夢」はこの出来事がきっかけで作られたコーナーである。

森田一義アワー 笑っていいとも!』には、1987年から木曜日に曜日移動なしで継続して出演し、木曜『いいとも!』の顔的存在となっている。「辞めたい」と言ったこともあるが、タモリに慰留され現在に至っている。なお、辞めたいとした理由は、明石家さんまの降板と「おもろい若手が沢山出てきて、自分のような古株はいらんと思うようになったから」であり、タモリに原因があるわけではない。むしろ、タモリの笑いに対する意識の高さを人一倍知っており、彼を「テレビの師匠」と仰ぎ、尊敬している。「『いいとも』を辞めたい」と言ったとき、タモリに「こういう場に出続けてるってことは、あんたにとって大事なんだよ」と言われ、当初は意味が分からず、年末恒例の『特大号』にだけは出演しない交換条件付きでしぶしぶ残留した。近年になって、定期的にタモリのような芸人と会うことや、若手などと生放送の場で絡むことの意義を感じ、「その意味がようやく分かった」と自身のラジオ番組内で語っている。これに関してタモリに対し、「あんた、何で(あの時に)そんなこと(=鶴瓶にとってそれが大事だということ)分かったの?」と感謝の意ともとれる疑問を投げかけている。また、その答えは、長年の生バラエティの司会で培われた、タモリにしかできない予見であったとしている。

派出所」を「はつしゅしょ」または「はしゅしゅしょ」、「違和感」を「ゆわかん」などと発生し、滑舌がよくない。カタカナ語に弱く、喋ると噛んでしまうことも多い。ブルース・ウィリスを「ブゥルース・ウィルス」、チャンピオンを「チャンピョン」と書いたこともある。また、ロシアを「ロシヤ」というが、ロシア語での発音は「ロシヤ」に近く、間違いというわけでもない。

50歳を過ぎてから、『笑っていいとも!』のクイズなどで、城咲仁など顔をよく知る芸能人ですら名前が出てこなくなっている。

2007年の『第58回NHK紅白歌合戦』の白組司会を務めた。紅白への出演は初。

[編集] 落語への回帰

2002年9月、江戸落語の春風亭小朝との二人会で『子別れ(子は鎹)』(落語を本格的に始めるにあたって4代目桂文紅にじきじき『子別れ』を稽古を付けてもらった)を演じたことを機に、落語への回帰を強めている。2003年には小朝、林家こぶ平(現:9代目林家正蔵)らと落語の「六人の会」を結成。また同年5月に「上方落語協会」理事に就任している。その後、同協会の広報委員長を経て、2008年6月に副会長に就任した。

良くも悪くも上方落語の噺家のクセが抜け切れていないが、しゃべりの面白さや、独特の飄々とした存在感で、広く親しまれている。自身の身の回りで起こった日常の話題を面白おかしく話すスタイルは「鶴瓶噺」(つるべばなし)と呼ばれ、独自のジャンルを構築し、2000年には上方お笑い大賞を受賞した。2007年まで年1回5日間、青山円形劇場にて「鶴瓶噺」を開催している(2008年からは会場が世田谷パブリックシアターに変更)。

現時点での「落語家・鶴瓶」に対する評価は概ね好意的であるが、創作の「長屋の傘」「青木先生」(南原清隆は「私落語(わたくしらくご)」と命名)については「鶴瓶噺を落語化した程度」といった批判的な意見もある。

多忙なタレント活動の合間を縫って「鶴瓶噺」、「笑福亭鶴瓶落語会」などの独演会を展開する他、六人の会が主催する「東西落語研鑚会」にも参加。大阪・帝塚山の6代目松鶴旧宅で行われる演芸イベント「帝塚山・無学の会」を主宰するなど、精力的に落語に取り組んでいる。古典落語にも「東西落語研鑚会」で「鴻池の犬」「らくだ」などに挑戦している。特に2004年の東西落語研鑚会で口演し、好評を得た「らくだ」は松鶴の十八番(おはこ)であり、松鶴門下では直々に稽古を付けられていた6代目笑福亭松喬しか、舞台での披露を許されていなかった題目である。

鶴瓶の最近の落語への取り組みは、弟子(ほとんどが落語をしない頃の鶴瓶に弟子入りを志願していたことで、落語家に弟子入りした感覚がない)に対する影響が少なくない。例えば筆頭弟子の笑福亭笑瓶は新作や古典の改作に取り組み、笑福亭純瓶は怪談噺に力を入れ、笑福亭銀瓶韓国語落語を打ち立てた。2007年3月には、銀瓶以降の6人の弟子が「シックスセンス☆六瓶の会」と題した落語会を大阪で開いている。

テレビドラマ『タイガー&ドラゴン』では元上方落語の天才だったヤクザの組長という役を演じ、少しだけ落語を演じている。この時の落語は、脚本が作られていたが、一切捨て、全てアドリブで演じていた。鶴瓶はこのドラマを最初単発ドラマだからと言われ引き受けたものの、連続ドラマになりこのような役柄になってしまったことに驚いていたことを告白した。

2004年より年に1回、桂南光桂文珍との落語会「夢の三競演 三枚看板 大看板 金看板」を開催。落語会としては異例の6,000円を超える料金も話題となる。チケットは、過去3回共完売。その他この3人は、2005年から「文珍南光鶴瓶+1 しごきの会」と題して、年に数回、baseよしもと(現在は天満天神繁昌亭)で若手落語家育成の為の会を開いている。過去にこの「しごきの会」において、一番多く弟子を持ちながらも、鶴瓶の弟子が1人も会に参加しなかったことがあり、このことに鶴瓶は憤慨。「お前ら、誰に食わせて貰ってんねん!俺は(師匠の)松鶴に食わせて貰ってる。俺は、恥ずかしいわ!」と自らの弟子に向かって怒鳴ったという。

[編集] 帝塚山・無学

「帝塚山・無学」は、師匠六代目松鶴の旧自邸を鶴瓶が改築した純和風ホール。月1回「無学の会」を開催し、一般にも公開している。毎回ゲストを招いているが、前もってゲストの名前を発表されることは無く、毎回シークレットになっている。今までのゲストにタモリ、明石家さんま、木梨憲武、イッセー尾形桂米朝桂春団治ら豪華な顔ぶれを迎えている。

[編集] つるべ、らくごのお稽古

帝塚山・無学と下北沢Live bar 440にて定期的に稽古会を行なっている(料金は後払い制で客の志納)。

[編集] 演目

古典落語 
子は鎹鴻池の犬らくだ愛宕山立ち切れ線香厩火事堪忍袋宮戸川二人癖粗忽長屋所帯念仏へっつい幽霊化物使い打飼盗人いらちの愛宕詣り大安売り、鶴瓶版 死神
私落語 
長屋の傘、青木先生、ALWAYS-お母ちゃんの笑顔- 、青春グラフィティ松岡、Mr,ドリーマー、春雷、回覧板
創作落語(桂三枝からネタを譲り受けたもの) 
湯けむり、悲しみよありがとう

[編集] 逸話

[編集] 裸の逸話

何かと裸にまつわるエピソードの多い人物である。以下代表的な事例を挙げる。

  • 笑福亭一門が集まる宴会では、常に裸踊りを披露していた。
  • 1975年、東京12チャンネル(現・テレビ東京)の「独占!男の時間」(生放送)で股間を露出したうえ、カメラに股間を押し付け、さらに社長の大事にしていた時価数百万円の錦鯉を踏み殺すという暴挙を働いた。これは担当ディレクターの傲慢な態度に反発しての行動であった。司会の山城新伍の計らいで番組最終回に出演したが、そこでさらに肛門を見せた。事件を重く見た東京12チャンネルは、鶴瓶を無期限の出入禁止とした。この処分は2003年、系列のテレビ大阪制作、『きらきらアフロ』の東京収録により、28年ぶりに解禁された。
  • その後、2008年6月16日『きらきらアフロ』で共演している松嶋尚美の結婚記念の『きらきらアフロ』生放送スペシャルで、前の番組の『メガスポ!』に引き続いて33年振りにテレビ東京での生放送番組に出演した。その際、「祝、33年ぶりテレ東生出演」と書かれたタスキをつけた。
  • 初期の『ヤングタウン』担当時、鶴瓶はスタジオに現れると、全裸になってからハガキの選定作業に入るのが常だった。1976年、放送禁止用語を連発し2ヶ月ほど謹慎処分になったこともある。また中森明菜をゲストに迎えるにあたり、鶴瓶自身の提案で、鶴瓶はおろかディレクターなどスタッフ全員が全裸で中森の入りを待ったことがある。なお先に入ったマネージャーたちの反応で悟ったのか、中森は全員がパンツをはくまでスタジオに入ろうとしなかったといわれる。
  • 1988年、当時全国ネットになって間もない頃の『鶴瓶上岡パペポTV』のオープニングで、鶴瓶が高校時代に朝礼台の前に整列し拍手している生徒たちの前で、朝礼台に立ってズボンとパンツを一気にを降ろし、生の尻を見せた瞬間一斉に拍手が止む、といった芸を披露していたと話した。その直後、上岡に「ほな、今ここでやってみい、で(鶴瓶が)ケツ出したら(拍手を)止めるねんで」とそそのかし、2分ほど躊躇・抵抗するものの、とうとう舞台の上で尻を丸出しにしてしまった。
  • 1995年大晦日、『裏番組をブッ飛ばせ!!'95大晦日スペシャル』において、泥酔していた鶴瓶は野球拳で負けが込み、最終的には生放送に関わらず、パンツを脱ぎ捨て全裸へ至り、スタジオ内を騒然とさせた。丁度ボディービルダーに隠れていた為、股間露出は免れたが、苦情の電話が殺到し、番組内で謝罪があった。
  • 1997年11月にテレビ朝日27時間チャレンジテレビの企画内で鶴瓶が泥酔し、その後パンツを脱ごうとした。共演のビートたけしも悪ノリし、今田耕司東野幸治が止めに入るなど番組は終始混乱した(詳しくはブリーフ4を参照)。
  • 2002年の27時間テレビの深夜コーナー「さんま・中居の今夜も眠れない」内でのココリコと鶴瓶の山形県酒田市・飛島中継で、深夜に酒を飲んで泥酔していた鶴瓶が尻を丸出しにして寝ている姿が全国に放送された。無理矢理起こされた鶴瓶は突然、「若手時代のさんま駆け落ち事件」を暴露し、さんまなどに“史上最悪の中継だ”と言われた。
  • 翌2003年の27時間テレビに出演した際、前回の件もあり、オープニングの長崎県松浦市・飛島中継で「絶対に酒を飲みません」と公言したにもかかわらず、次の中継では既に村長と酒盛りをしていた。夜10時には「居酒屋つるべ」をオープンさせ、隣に座った老婆の胸を揉んだり、放送禁止用語を叫ぶなど失態を連発した。さらにドラム缶の風呂に入るシーンでは、股間がカメラに映りそうになった。その後、「さんま・中居の今夜も眠れない」の中継の時点で鶴瓶は泥酔しており、中居に呼ばれて起き上がった瞬間に股間を露出してしまった。一緒にいたココリコの遠藤章造やスタッフが座布団等でフォローをしたが、手遅れであった。なお、同コーナーの終了後すぐに高島彩アナウンサーが謝罪。後日、鶴瓶はフジテレビに謝罪をした。普段鶴瓶は全裸で眠るのだが、眠っている間にスタッフに無理やりパンツをはかされていたとのことである[7]
  • 2003年12月18日放送の『ナインティナインのオールナイトニッポン』にゲスト出演。この日の放送は、この年鶴瓶が『27時間テレビ』で股間を露出したことを受けて、鶴瓶はどうやったら股間を出すのか、今年2回目の露出はあるのかを検証する為、鶴瓶には内緒で様々なことを試みるという内容だった。スタジオの温度を上げ、足元には脱衣籠を用意するなどし、最終的に岡村が脱ぎだすと鶴瓶はあっさりと全裸になった。この時、マイクのスポンジを股間に被せたり、尻の穴に入れたり、椅子に排泄をするなどした。岡村は笑いながらもリスナーに状況を説明していたが、鶴瓶は断固として「こいつらが脱いでるように言うてるだけ」「俺を陥れようとしている!」と言い張った。
  • 2005年6月11日に、テレビ朝日で放送された、くりぃむしちゅーロンドンブーツ1号2号と共演の『ゆく年くる年への道』の番組中で、2003年の27時間テレビでの失態について、寝ぼけながらも明石家さんまの声が聞こえたため、笑わそうとして、分別が付かず、脱いでしまったと明らかにした。
  • 2005年の27時間テレビで、メイン司会という立場ながら、冒頭企画で嫌いな鯖寿司を食べさせられそうになり、その後都内を逃走してTBSまで逃げ、最後はココリコに連れ戻された。これは番組演出で、その模様は随時中継された。番組のラストでは全身に金粉を塗ったパンツ一丁姿で、この年ライブドアによるニッポン放送・フジテレビ買収騒動を受け、本来のテレビのあり方や出演者やスタッフに感謝のコメントを述べた。
  • 2006年10月9日の『鶴瓶の家族に乾杯』で、西川きよしにそそのかされ、琵琶湖で泳がされる。このとき「僕はテレビの前で裸になることは本当にやめようと心に誓ったんですよ」と言ったが、最終的にはパンツ1枚になって水に入る。同じく裸で琵琶湖に飛び込んだきよしが着替える際には、きよしの前に立たされ、「芸能生活の中でモザイク(役を)やったん初めてです」と嘆いた。
  • 2007年1月2日放送の『鶴瓶・実は丸々一年ず~っとロケしてたんやで正月スペシャル』で、忘年会の席で若手とネタで共演するコーナーに出演したときのこと。酒がかなり進み、ほとんど泥酔状態のまま長州小力との即興コンビを組み、小力と同じ格好で舞台に立った鶴瓶であったが、海パンから股間の一部がはみ出していた。仕切り直して再度登場したが、今度は踊っている最中に失禁してしまった。
  • 2007年6月29日放送の『きらきらアフロ』で、鶴瓶がトーク中に体を反ったときにパンツが観客に見えてしまった。その後別の話題になっていたとき、今度はズボンがずり落ち、パンツ丸出し状態になる。慌てて履き直したもののスタジオは騒然。その後スタジオ裏にはけてマネージャーにズボンのチェックをしてもらい、「忘れてください」と言って進行を再開した。
  • 大阪のIMPホールで行われていた月刊つるべでは「俺はチ○○から空気を出せる」と言い、股間の先をつまんだ状態で小便をした。一見、先が膨らんで空気が出ているように見えたが、実際は排泄物がたまっているだけであり、辺りに排泄物が飛び散って女性客が悲鳴を上げた。
  • 上記の行為をテレビ局の楽屋で間寛平に見せたところ、寛平は驚嘆しながら大量の尿で膨らんだ鶴瓶の股間をギュッとつまんだ。その結果、鶴瓶の股間から大量の尿が飛び出して寛平の顔面にぶっかかってしまった。そのせいで、しばらくの間、鶴瓶は寛平と顔を合わす度に、顔面に尿をぶっかけられたことを非難される破目になった。
  • 大阪ローカルの番組『突然ガバチョ!』の本番で下半身を露出したことがある。また、MBSラジオ『ヤングタウン』の放送中(1987年10月)大便をした。
  • 芸人同士の飲み会でそそのかされ、全裸で店外に出た途端鍵を閉められ、約1時間半の間全裸のまま屋外へ放り出されたことがある。また、局部に蛍光塗料を塗って暗闇の中を走り回ったり、全裸に脱ぎかけのワイシャツ1枚で袖の部分だけ引っかかっている状態で踊る、陰部をガムテープで張ったりはがしたりする、など、宴会においても露出狂じみた芸を披露していることを本人自身が語っていた。
  • 2009年4月23日、番組での共演も多い草彅剛公然わいせつ容疑で逮捕(後に起訴猶予処分)されたが、一部の草彅擁護派が「(草彅は逮捕されたのに)なぜ鶴瓶はテレビの全国ネット(2003年の27時間テレビ)であそこを丸出ししたのに逮捕されないのか。」などと鶴瓶を槍玉に挙げる意見をネット上で述べた。

これらの逸話から露出狂と思われることが多いが、それについては著書で「僕は世にいう露出狂などでは、断じてない。…(中略)…僕の場合は、決して快感のためにやっているわけではないからだ」と述べて否定する一方、「ただ、快感を得るためにではないにしろ、例の部分を露出することに、さして抵抗を感じていないことだけは、事実かもしれない」とも語っている[8]。なお、2007年8月の『週刊文春』の対談記事で家庭では全裸で過ごしていることを明かした[9]

[編集] その他逸話

  • 下積み時代、余興を企画したイベント会社社長の、若手芸人をバカにするぞんざいな態度が気に入らず、出演せずに劇場を後にしたことがある。一年半後、スターとなった鶴瓶に同じ企画会社から仕事が入ったが「売れていない弱い立場の芸人には平気で高飛車に命令をしておいて、少し売れてくるとたちまち態度を変える。僕はそんな方と一緒にしたくないんです」と直接言って仕事を断っている。[8]
  • 内弟子になった頃から、鶴瓶はイタズラをエスカレートさせた。アフロヘアを師匠に咎められ、散髪代を渡されたが、「(金を)落としてしまいましたわ」と言って切らなかった。実は、酒代に化けていたのである。また、師匠の飼っていた大事な犬をコタツに入れフラフラにさせ、「これがホンマのホットドッグや!」と言ってのけた。が、師匠は、そんな鶴瓶の行動を黙認していた。
  • フォークロックの会」というライブイベントの司会をしたとき、ロックバンドのベーシストから「俺は、お前が嫌いや。嫌いやねん」と言われたことに激昂し、ベーシストを鼻血が出るまでマイクで殴り続けたことがある。これは、その侮辱的な発言はもちろん、同バンドのギタリストチューニングが遅れたため急遽繋ぎのトークを行ったのにも拘らず、謝るどころか鶴瓶の質問を無視し続けたその態度が気に入らなかったためである。なお、後日談としてこのベーシストと偶然再会して話す機会があり、「心のなかの汚点が、スッと洗い流されるような、さわやかな気持ちに、しばしひたったものだった」と述べている。[8]
  • 桂南光(当時・桂べかこ)と二人で交番の壁に向かって小便をしているところを警官に見つかり、取調べを受けたことがある。その際に二人とも本名ではなく芸名を名乗ったため、警官からさらに怒られた。
  • ラジオ番組『ミッドナイト東海』に出演していたとき、東海ラジオ放送の食堂でアルバイトをしていた当時無名の漫画家鳥山明と顔見知りになった。その縁で『Dr.スランプ』単行本第1巻に鶴瓶が登場している[10]
  • 1993年、『どちら様も!!笑ってヨロシク』の収録中に居眠りをしたことがある。このことが原因で鶴瓶は一時降板の処分となり、番組が1時間枠に拡大するまでの約1年間、出演が許されなかった。
  • ある番組の生放送で、ナインティナインの岡村がタモリに対して(悪意はなかったものの)喧嘩を売るように聞こえるツッコミを入れ、タモリが思わず怒ってしまった時、鶴瓶は突如「わぁー!」と奇声を上げ両手を振り回しながら二人の間に割り込み、その場を収めた。
  • そのナインティナインからは、ハプニングに見せかけ確信犯的に笑いを取ろうとすることや、若手芸人からいじられることで自分に利益があると思っていることなどを指摘され、「悪瓶」(悪い鶴瓶)とよく呼ばれている。また、眼鏡の奥の目が笑っていないなどともよく言われる。
  • 6代目松鶴の死後、笑福亭梅香(ばいか)を襲名させる計画があった。初代桂文枝(正確には桂梅香)、2代目曽呂利新左衛門の前座名という由緒名であるが、名前が自分に似合っていないということから辞退している(上方のイントネーションで「うめこ、うめこ」と読むと卑猥に聞こえて格好が悪い、というトークネタもある)。
  • あるローカルの番組で障害者の犯罪について聴かれた鶴瓶は怒った口振りで「精神障害を持った人間が犯罪を犯しても障害を理由に釈放され、そのことを利用して犯罪を犯し続けるですよ。(その事が)おかしい。」と現実におきた話の様に発言。共演者に「それは現実の話ですか?」と聞かれ「いや、本の話なんやけど」と答えた。たがまた同じ話を鶴瓶はし始め共演者に「え?それは現実の話ですか」と再度聞かれて「本の話なんやけど」と自身が読んだ本の架空の話をした。北野武舛添要一が精神障害者蔑視発言で問題視されたこともあったがローカル放送な為かそれ程の発言では無いのか鶴瓶の発言はあまり問題視されなかった。
  • 「夢の三競演 三枚看板 大看板 金看板」で南光、桂文珍に薦められ、6代目松鶴こそ演じていないが笑福亭に由緒のあるネタ「たち切れ線香」 を口演することになった。その稽古の為に文珍の弟弟子である桂かい枝が「たち切れ線香」が録画されたビデオテープを渡すはずが間違えてアダルトビデオが録画されたビデオテープを渡してしまった。
  • 落語会を開く際、桂「南光」(なんこう)をブッキングするはずが、スタッフ等の手違いで講談旭堂「南湖」(なんこ)をブッキングしてしまった。
  • 鶴瓶の実の姉は、兄弟子である鶴光と同級生である。
  • 初代笑福亭鶴瓶は昭和初期の人で、系図には「後に笑福亭をクビになり、アル中で死んだ」と記録されているという[11]
  • 2007年12月31日に行われた『第58回NHK紅白歌合戦』で白組司会を務めた際、SMAPの「弾丸ファイター」のことを「コウガンファイター」と失言した。同じく、クールファイブ宮本悦朗のツルツル頭を股間(こかん)で挟むパフォーマンスを披露。
  • 休暇はハワイの別荘で家族と共に過ごすが、常々別荘にある不信感を持っており、休暇する時期ではない時期に別荘を覗くと別荘を管理、維持するはずの人間の家族が勝手に住み着いており、くつろいでいた家族は鶴瓶の突然の訪問にパニックになった。
  • 2007年の紅白歌合戦の舞台裏でリア・ディゾンに消え入るような声で「コタロー」と呼ばれた。これに鶴瓶が「何でコタローなの?」と聞くとリアは「好きな名前」と答えた[12]
  • 村崎太郎栗原美和子夫妻の結婚式で祝辞を述べたが、大失敗した。その際に、陣内智則藤原紀香夫妻の結婚式で祝辞がうまくいかなかった舘ひろしから慰められた。
  • 2008年10月の笑福亭鶴瓶のメインキャスト!で、好みの女性を中井美穂 木村多江 上野樹里と化粧気のない人と、コメントしている。初恋の人の影響で微乳好きとも。
  • 2009年6月18日放送「笑っていいとも!」のオープニングコーナー「ゲストは誰だ!!マス埋めヒンター」において、抽選でヒンターに選ばれた。その日の秘ゲストはV6・トニセンの坂本昌行であったが、鶴瓶は4マスの欄に「カミセン」と書いてしまい、結局レギュラー陣は誰も答えられず、お笑い芸人がゲストの時を除けば珍しい時間切れとなってしまった。後のコーナー「出たいドルDX」にて鶴瓶はただ坂本に平謝りしていた。そして汚名返上をかけた翌週の6月25日放送の同コーナーにおいて、ヒンター青木さやかの出したヒント「鼻」「眼鏡」だけでゲストを当てた。そのゲストは鶴瓶の一番弟子である笑福亭笑瓶だった。

[編集] 脚注

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  1. ^ デンナーシステムズは元松竹芸能社員で鶴瓶のチーフマネージャーを担当していた千佐隆智が代表取締役を勤める芸能プロダクション。東京・東麻布に所在し、ジャパン・ミュージックエンターテインメントの系列でもある(ただし、ウェブサイト上には掲載されていない)。主に東京・全国区方面でのマネジメントを担当しており、マネージャーもデンナーシステムズの社員が就いている。
  2. ^鶴瓶上岡パペポTV』及び高田文夫編『ありがとう笑名人 第一集』での本人談。
  3. ^ 『ありがとう笑名人 第一集』より。この話には続きがあり、松鶴は会場を出る際に一転して「お前のが一番よかった」と鶴瓶を褒めている。
  4. ^ 鶴瓶噺、朝まで生つるべ、2007年8月12日放送分のおしゃれイズム等。
  5. ^ 「ためいき坂くちぶえ坂―松鶴と弟子たちのドガチャガ」 笑福亭松枝 著
  6. ^ 実際のところ、たけしと鶴瓶はともに昭和47年デビューの同期であり、さらに厳密に言えば鶴瓶の方が半年ほど先に師匠に入門している。しかし関東・関西の風習の違いや、年齢による立場からたけしが先輩・鶴瓶が後輩の立場で接している。
  7. ^ 鶴瓶噺2009
  8. ^ a b c 笑福亭鶴瓶 『哀しき紙芝居』 (新興楽譜出版社 1982年8月8日)
  9. ^阿川佐和子のこの人に会いたい 第693回」『週刊文春』2007年8月30日号、文藝春秋、p132
  10. ^ 2006年2月21日放送『鶴の間』で発言。
  11. ^ パペポTV第322回より。
  12. ^ これはおそらくリアが「鶴瓶」と言いにくかったのではと、鶴瓶が2008年2月1日(東京は4日)放送のテレビ大阪「きらきらアフロ」の中でコメント。ちなみに一部の外国語圏では「つるべ」のような音が発音しにくいところがあるらしく、他の外国人からも「つぶれ」と呼ばれたことがある

[編集] 出演番組

出演番組には即興のものが多く、即興落語・即興ドラマ・即興コント・即興漫才など多岐にわたる。本人曰く、企画書を書かないので即興企画が多いのであるということである。

[編集] 全国ネット

レギュラー番組

特番

[編集] 地方ローカル番組

また、関西テレビでの毎年1月2日の特別番組にも出演している。

[編集] ドラマ

出演したドラマもほぼ関西弁で演じている。

[編集] ライブトーク

[編集] 過去出演したテレビ・ラジオ番組

[編集] 出演映画

[編集] レコード

  • 酔い語り/友よ語りき(1977年11月)※駿河学名義
  • はやく人間になりたいッ!/初恋バンザイ(1978年)
  • TSU・RU・BE/それからね(1982年5月)

[編集] CM

[編集] 関連人物

糸井重里
NHK「YOU」以来の付き合い。また、ほぼ日刊イトイ新聞を通じて劇場スジナシをサポート。他にも「ほぼ日」内に特集記事あり。
河島英五
鶴瓶と公私にわたって親交が深かった。
鶴瓶が本名の駿河 学名義で1977年12月に発売した初のEP「酔い語り/友よ語りき」(東芝:ETP-10339)は2曲とも河島英五が鶴瓶のために書き下ろした曲(作詞・作曲)である。
名古屋のとある小さなホールで1976年1月15日にジョイントコンサートも行っている。(著書「悲しき紙芝居」に記載)
坂崎幸之助
2002年以降の「朝まで生つるべ」にゲストとして出演(鶴瓶はかねてからゲストに呼びたかった)。その後「朝まで歌つるべ」のレギュラーとなる。
2004年はTHE ALFEEのカウントダウンライブが大阪であるため、「朝まで生つるべ」も大阪のホールから放送された。この年から朝日放送でも放送されるようになった。
さだまさし(まっさん)
公私ともに大変に親しく、コンサートの飛び入りゲストとして鶴瓶が登場したこともあるほか、お互いに自らのラジオ番組のゲストとして呼んだこともある。また、この2人の親交が縁でNHK鶴瓶の家族に乾杯という名番組が生まれたことも見逃せない。
スルガタロウ
鶴瓶の息子でバンド「sleepydog」のボーカルを務める。
波田陽区
鶴瓶がメガネを外したときの顔に似ていると指摘されており、鶴瓶自身も番組などで面白がってネタにすることが多い。
やしきたかじん
鶴瓶が若かった頃特に親交が深く、よく一緒に女性を追いかけたり遊んだりしていたといわれる。その親交の深さはたかじんのコンサートツアーのパンフレットの鶴瓶からのメッセージにもある。
上柳昌彦(ニッポン放送アナウンサー)
『ぬかるみの世界』でマスコミの人が聞いてるかどうかを募ったところ、律儀にはがきを送り電話出演したことをきっかけに親交を深める。『日曜日のそれ』では事あるごとに鶴瓶から呼び出され出演している。鶴瓶いわく、現在のラジオアナウンサーで最高の人材の一人。まだフリーになっていないことが奇跡だという。
角淳一毎日放送パーソナリティ、元同社アナウンサー)
鶴瓶とは長年に渡り"悪友"である。
岡野昭仁(ポルノグラフィティ)
2008年紅白歌合戦の前、鶴瓶がラジオにメッセージを送った、自身のラジオにも出演した。紅白歌合戦出演の際はポルノグラフティのの部分をネタにして語っていた。ちなみに「音のない森」と「休日」が好き。
白川由美
1988年から1989年にかけて放送された『純ちゃんの応援歌』で親子役で共演。2009年3月30日・4月6日に放送された『鶴瓶の家族に乾杯』では、21年ぶりに、ドラマのロケ地であった、和歌山県日高川町を二人で訪れる。
RYTHEM
RYTHEMの2人が『日曜日のそれ』にゲスト出演したのがきっかけで親交を深めるようになる。双方の家族旅行に同行すほどの仲で、鶴瓶は2人のことを「娘みたいなもんですわ。肩車しても恥ずかしいとは思わない」と語っている。

 

[編集] 兄弟弟子

[編集] 弟子


[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク