飯島勲

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いいじま いさお
飯島 勲
生誕 1945年(昭和20年)10月13日
現況 第2次安倍内閣 内閣官房参与
職業 国会議員秘書
著名な実績 内閣総理大臣秘書官
影響を受けたもの 小泉純一郎

飯島 勲(いいじま いさお、1945年(昭和20年)10月13日 - )は、日本国会議員秘書

内閣総理大臣秘書官厚生大臣秘書官郵政大臣秘書官、衆議院議員公設秘書内閣官房参与などを歴任した。

駒沢女子大学人文学部客員教授(2007年~2011年)、松本歯科大学歯学部特任教授。

衆議院議員小泉純一郎の初当選時から議員秘書、小泉の内閣総理大臣在任中は内閣総理大臣秘書官を務めた。元自民党秘書会副会長。表彰歴には永年秘書衆議院議長表彰、永年公務員内閣総理大臣表彰など。

経歴[編集]

生い立ち[編集]

長野県辰野町に生まれた[1]。飯島家は江戸時代伊那市郊外の東春近で庄屋を務めた名門家柄だった[2]

父はIHKの工場のトラック運転手を長くつとめた[3]。木造二階建ての生家は物置小屋に手を加えた程度で、ごく粗末なつくりである[4]。飯島の従兄で飯島本家の当主によれば「子どもの頃は貧しくて、電報の配達をしたり、納豆を売ったりしていた[3]。彼は家庭的には本当に恵まれなかったんです[3]。」という。

学生時代[編集]

辰野町立辰野中学校を卒業し長野県箕輪工業高等学校(現・長野県箕輪進修高等学校定時制入学。定時制高校在学中、昼間は父親と同じ職場のIHKの施盤工として働いた[5]

上京し、東京電機大学高等学校夜間部から東京電機大学短期大学電気科第二部に入学。短期大学卒業後は都内の法律特許事務所で職員となる。

小泉の秘書となる[編集]

1972年、知り合いの紹介で小泉純一郎の秘書となる。その採用面接の際、苦しかった生活のことや家族のことを小泉に話したが、政治家の家庭に生まれた小泉には理解されないと思っていたという。しかし、小泉は黙々と話を聞き、最後に一言「よし」と言い採用が決定。その瞬間、飯島は「この人のために生涯頑張りぬこう」と決意したという[6]

総理大臣秘書官[編集]

その後、竹下内閣改造内閣及び宇野内閣において厚生大臣秘書官、宮沢内閣改造内閣において郵政大臣秘書官、第2次橋本内閣第2次橋本内閣改造内閣において厚生大臣秘書官を務め、小泉内閣の誕生にともない内閣総理大臣秘書官(政務担当)に就任。メディア戦略や情報操作に長けており、日本のメディアからは「官邸のラスプーチン」、アメリカのメディアからは「日本のカール・ローブ」と評され、歴代の総理秘書官と比較してメディア露出が多い。

総理大臣秘書官として首相官邸に各省庁連絡室を置き、事務担当の首相秘書官の出身省庁である財務省・外務省・警察庁・経済産業省以外の省庁からもキャリア官僚を1人ずつ参事官として常駐させた上で、事務担当の首相秘書官と参事官を束ねた。また全省庁による指定ポスト化となるのを避けるために特定省庁の常駐を避け政治事情に応じてキャリア官僚の出身省庁枠を変えることを示唆したため、中央省庁間の緊張関係を維持させたことで、個々の省庁の情報が官邸に入りやすくするようにして首相官邸の政治的影響力を増大させることに成功する(小泉政権前半は農林水産省キャリアが除外されており、小泉政権後半は農林水産省キャリアを入れる代わりに文部科学キャリアが除外された)。各省庁連絡室などの首相官邸の事務組織は俗に飯島機関と呼ばれた。

小泉との決別[編集]

小泉が首相を退任した後は、以前のように小泉の議員秘書を務めていた。2007年の自民党総裁選では、小泉チルドレンなどによる「小泉前総裁の再登板を実現する有志の会」のメンバーと接触し、小泉再登板への準備を進めていたが、小泉は再登板を否定して飯島とは不仲とされる福田康夫を支持。飯島は同年9月13日付で小泉事務所に辞表を提出した[7]。小泉事務所は飯島の辞表を直ちに受けずに保留にしている。

飯島と福田の対立の発端は、小泉が首相に就任した2001年終戦の日靖国神社参拝を目指した際、参拝を是とする飯島と安倍晋三首相官邸に不在の間隙を突く形で福田が小泉を説得。参拝を前倒しさせたことだとされる。この内幕を取材したジャーナリスト須田慎一郎によると、小泉は福田の、「唐家璇が終戦の日を外せば中国政府は問題視しない」とする説得を受け入れたものの、中国は最大限の糾弾を小泉に対し行い、小泉は福田に対する強い不信感をこのときに抱いたことを明らかにしている。他方、飯島と安倍はこのことをきっかけに関係を強めていったとされ、安倍が短期間で自民党幹事長官房長官首相に上り詰めた裏には、飯島との良好な関係が存在したこともその一因に挙げられる。

第二次訪朝の際には、裏の交渉ルートである朝鮮総連許宗萬(許は北朝鮮最高人民会議代議員というもう一つの肩書きも有する)とのパイプを重視する飯島と、正規の外交ルートである田中均を中心とした日朝両外務省を重視する福田との間で対立が再燃。小泉が飯島の主張を重視したことにより、福田は官房長官を辞任した。一方で、この訪朝劇は自民党幹事長だった安倍との間でも軋轢を生む結果になり、小泉と安倍の関係が一時険悪化する(同年末頃には修復)。訪朝後、小泉は甘利明副幹事長代読の形で朝鮮総連に祝電を送っている。

第2次安倍内閣[編集]

2012年12月、第2次安倍内閣において内閣官房参与に就任した。特命担当として主に危機管理や広報、メディア戦略に関する助言をする考えであると見られる[8]

着任早々、民主党時代を通して首相官邸の情報セキュリティーが大幅に低下していると主張した。なおこれは個人的な調査の結果としているが、具体的な調査方法は明らかにしていない[9]

北朝鮮訪問[編集]

2013年5月14日、安倍政権の要人として初めて北朝鮮の平壌を訪問。菅義偉官房長官は官邸が主導したことを認めた[10]。飯島は15日に金永日朝鮮労働党書記[11]、16日に平壌で北朝鮮のナンバー2の金永南最高人民会議常任委員長と会談。北朝鮮メディアは表敬訪問と報じたが会談内容は明らかになっていない[12]

この訪朝は日朝対話の再開や拉致問題解決への道筋を探る目的とみられ[13]、九州大学の小此木政夫特任教授は「拉致問題の進展としか考えられない」とし、「実務者だけではなく、その上の政治家にも会えれば進展が期待できる」「日本側は拉致被害者が何人かでも帰ってこないといけない。まとまるかどうかはきびしいが、やってみないとわからない」と解説。また法政大学教授でジャーナリストの萩谷順は「アメリカ、韓国は驚いていると思いますね。日本はガラパゴスといわれているが、拉致問題では交渉する正統性があることを示した。外交的に強いカードを持った。が、冒険でもある。三振かホームランかです」と述べた[14]

一方で、国際社会が北朝鮮の非核化を迫っているさなかの訪問は抜け駆けととられる可能性が指摘されており、韓国政府が「日米韓協調の役に立たない」との見解を日本に伝達した他、アメリカのデービース北朝鮮担当特別代表も「(飯島氏訪朝は)私にはニュースだった」と不快感を示した。また日本国内からも「この時期に行ってどんなプラスがあるのか」(外務省関係者)、「米韓から不信感が出るだけだ」(防衛省幹部)との声があがっている[15]。また日朝の二国間協議が可能となることで、北朝鮮から妥協を迫られる懸念があるアメリカが警戒を強めているとの指摘がある[16]

北朝鮮側には、日本人拉致問題の解決に前向きな姿勢を示し日本から制裁解除を引き出すことで、日米韓を離間させ国際社会による制裁包囲網を突き崩したいとの思惑や、朝鮮総連中央本部の競売問題で日本の譲歩を引き出す狙いがあるとみられている[11]

22日、飯島は「再訪朝は100%ない」と明言した[17]

極秘訪中[編集]

7月28日の講演で、7月13日から16日まで中国の北京を極秘訪問していたことを明らかにした。習近平国家主席に近い要人と会談した一方で、北朝鮮関係者との接触はなかったとしている[18]。この訪中は日中首脳会談の地ならしが目的とみられるが、飯島は「個人の調査研究の一環の行動。プライベートだ」と述べている[19]。なお中国外務省洪磊・副報道局長は飯島が訪中ビザを申請したことは認めたものの、中国政府当局者との接触は否定した[20]

人脈[編集]

鈴木宗男との関係[編集]

叩き上げ・議員秘書という共通点から、小泉政権下で失脚・逮捕・起訴されることになる鈴木宗男とは親しい間柄で、鈴木は飯島を通じて小泉とも実は近しい関係にあった。鈴木はアメリカ同時多発テロ事件後のアフガニスタン侵攻の際、小泉の特使としてタジキスタンを訪問(その際には後に鈴木に連座する佐藤優が通訳として同行)、エモマリ・ラフモノフ大統領から、米英軍に対する「領空通過」、「国内の基地使用」の成果を引き出している。小泉政権下の日米関係は、戦後最良と言われるほど親密であったが、それに対する鈴木の貢献は決して少なくない。

だが、その後鈴木を取り巻く状況は一変する。鈴木の圧力によるとされる、NGO出席拒否事件の発覚で政局は大混乱を来す。その際に飯島は田中真紀子外相野上義二外務事務次官両名の更迭と鈴木の衆議院議院運営委員会委員長辞任で事態の収拾を図ろうとする。その際鈴木は二つ返事で飯島の申し出を快諾している。後に鈴木は、週刊新潮に寄せた手記の中で飯島から申し出があったことを明らかにしている。

鈴木は政界復帰を果たした郵政選挙後の特別国会で、郵政民営化法案には反対票を投じる傍ら、首班指名選挙においては小泉に票を投じている。一方飯島は田原総一朗との対談で田中更迭について次のように語っている。「あの人の官僚をひたすら罵倒する姿勢は、いたずらに士気を低下させるだけ」と田中の政治手法を激しく批判。飯島は安倍内閣2007年3月27日に閣議決定を行った「公務員制度改革」についても真っ先に慎重論を唱えている。

松岡利勝との関係[編集]

第1次安倍内閣発足時、松岡利勝農水相起用を実現させたのは飯島であるとされる。松岡は自殺した際、国民や安倍首相、後援会などにあてた複数の遺書を残しているが、その中には飯島宛のものも存在した。官邸の内幕を取材したジャーナリスト上杉隆によれば飯島は安倍に対し「松岡先生をどうか宜しくお願いします。”身体検査”は全てクリアーしています」と語ったとされる[21]。ただ、飯島が語ったとされる”身体検査”は政治資金の受け取り・つまりは古典的な贈収賄を指すと見られ、政治資金の出・計上経費・事務所費に関しては想定外だったことが伺える。現実に安倍内閣発足までは計上経費は問題視すらされていない。

松岡は、小泉内閣の中期までは典型的な農水族議員・抵抗勢力の代表格で、農業自由化はおろか、「改革」と名のつく全ての政策に反射的・無条件に反対する論者として知られていたが、安倍内閣に入閣以降は農業自由化の急先鋒に立場を転換し、小泉改革の裏の担い手として活動するようになった。

2005年に入り、郵政民営化の議論が本格化し始めると松岡は衆議院・郵政民営化特別委員会理事として小泉を支え、所属派閥領袖だった亀井静香と対応が分かれた。同年8月8日午後、郵政法案参議院で否決されると間髪入れず小泉は憲法7条に基づき郵政解散を断行するが、同日午前に小泉は官邸を訪問した松岡を前に「これから新しい時代が始まる! 古い自民党をぶっ壊して新しい自民党を作る」とその決意を語っている。

発言[編集]

安倍首相の北朝鮮訪問[編集]

2013年4月、テレビ朝日のインタビューで「安倍総理大臣の北朝鮮電撃訪問もあり得る。拉致問題の進展も期待してもらって良い」と自信をのぞかせた[22][23]

北朝鮮による拉致問題など[編集]

2013年5月22日、「ある程度やることはできた。そのうち分かる」と述べ、日本人拉致問題などの進展に含みを残した[17]

安倍首相の靖国神社参拝[編集]

2013年7月28日の講演で、安倍首相の靖国神社参拝について「靖国には堂々と行ってもらいたい。秋の例大祭には何としてでも安倍晋三という政治家として参拝してもらいたい」と述べた[24]

日中首脳会談[編集]

2013年7月28日の講演で、日中首脳会談について「私個人の考えでは、そう遠くない時期にできる」と述べ、早ければ11月にも実現するとの見方を示した[18][19]。また10月7日の講演では「(靖国神社の)秋の例大祭に仮に行っても、そう遠くない年内に間違いなくそうなると信じて行動している」と述べた[24]

その他[編集]

  • 首相秘書官在任中は、メディア対策の一環として、テレビのニュースキャスターと懇談会を開くなどしたが、その際になぜかオムライスが出てくることが一部メディアで報じられ話題になったことがある。
  • 愛飲しているタバコはゴールデンバット
  • 身長167cm、体重100kg近い巨漢である。
  • ウガンダ共和国政府顧問。コソボ共和国名誉総領事[25]。2012年6月1日、シエラレオネ駐東京名誉総領事に就任した[26]

家族・親族[編集]

飯島家[編集]

長野県上伊那郡辰野町[1]伊那市東春近[2]東京都
ノンフィクション作家の佐野真一によれば「飯島の生家のすぐ前に石川島播磨重工業子会社の石川島汎用機械(以下、IHKと略)の工場がある[2]。八年前に他界した飯島の父親の出里は、伊那市郊外の東春近(ひがしはるちか)で庄屋をつとめる名門家柄だった[2]。後で飯島から送られてきた家系図をみると、飯島の曽祖父はその地域一帯を支配した高遠藩主の内藤家に仕える代々の名主年寄と書かれていた[2]。(中略)飯島本家の表門と裏門を配した立派な屋敷構えは、庄屋時代の名残を今もかすかにとどめている。」という。飯島本家の屋号は「大杉」である[27]
父は家業の農業を嫌って一時東京に出た[2]。辰野に戻ってからは、船舶などのタービン類を製造するIHKの工場のトラック運転手を長くつとめた[3]
母は辰野の警察官の家に生まれ、女学校を出て飯島家に嫁いだ[3]。母は飯島の中学時代に脳溢血で倒れ、寝たきりの生活を30年近く送った[3]

著書[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 佐野眞一『小泉純一郎 - 血脈の王朝』(2004年、文藝春秋)27頁
  2. ^ a b c d e f 佐野眞一『小泉純一郎 - 血脈の王朝』(2004年、文藝春秋)33頁
  3. ^ a b c d e f g 佐野眞一『小泉純一郎 - 血脈の王朝』(2004年、文藝春秋)34頁
  4. ^ a b c d 佐野眞一『小泉純一郎 - 血脈の王朝』(2004年、文藝春秋)28頁
  5. ^ 佐野眞一『小泉純一郎 - 血脈の王朝』(2004年、文藝春秋)41頁
  6. ^ 浅川博忠『小泉純一郎とは何者だったのか』(講談社文庫、2006)
  7. ^ “飯島元秘書官 小泉前首相と決別”. Sponichi Annex (スポーツニッポン). (2007年9月15日). http://www.sponichi.co.jp/society/special/2006sosaisen/KFullNormal20070915049.html 2014年6月28日閲覧。 
  8. ^ 橋下市長と飯島氏は不倶戴天の敵なのか 内閣参与就任で二人の関係に微妙な変化が…」『J-CASTニュース』2012年12月26日
  9. ^ 官邸に「左翼80人」入り込んでいた 飯島内閣官房参与が明かした「惨状」」『J-CASTニュース』2013年1月14日
  10. ^ 飯島参与訪朝「私が判断、首相が了解」 官房長官朝日新聞デジタル2013年5月22日
  11. ^ a b 北朝鮮の狙いは 日米韓の離間 日本による制裁解除朝日新聞デジタル2013年5月19日
  12. ^ 訪朝の飯島氏、ナンバーツーの金永南氏と会談MSN産経ニュース2013年5月16日
  13. ^ 拉致問題“特使”飯島勲参与が訪朝 北朝鮮幹部と接触の可能性
  14. ^ 飯島勲「隠密訪朝」拉致問題進展に感触?「最後は金正恩・安倍会談」『J-CASTワイドショー事件簿』2013年5月15日>
  15. ^ 飯島氏訪朝、日米韓連携に影=北朝鮮は「厚遇」発信時事ドットコム2013年5月17日
  16. ^ 飯島氏訪朝に対して米国はとりあえず静観の構え。米国のホンネはどこにあるのか?『BLOGOS』2013年5月17日
  17. ^ a b 「68歳の血の叫びは終わった」飯島参与、再訪朝を否定朝日新聞デジタル2013年5月22日
  18. ^ a b 飯島参与「日中首脳会談、遠くない時期に可能」 2週間前に訪中、明かすMSN産経ニュース2013年7月28日
  19. ^ a b 飯島参与 電撃訪中していたnikkansports.com2013年7月29日
  20. ^ 訪中の飯島氏「接触なし」 中国外務省
  21. ^ 上杉隆『官邸崩壊』(2007)
  22. ^ 飯島参与が電撃訪朝…拉致問題に進展あるかテレ朝news2013年5月14日
  23. ^ なぜ飯島氏訪朝かMSN産経ニュース2013年5月14日
  24. ^ a b 靖国例大祭「安倍首相は堂々参拝を」=飯島氏時事ドットコム2013年10月7日
  25. ^ 大学生の自主的な活動を社会に発信する「学生団体メッセ」 明治大学・柳屋本店=産学連携プロジェクト主催で10月11日から開催共同通信PRワイヤー2013年9月10日
  26. ^ 飯島元秘書官が名誉総領事 西アフリカ最貧国任命共同通信2012年6月21日
  27. ^ 佐野眞一『小泉純一郎 - 血脈の王朝』(2004年、文藝春秋)29頁
  28. ^ a b 佐野眞一『小泉純一郎 - 血脈の王朝』(2004年、文藝春秋)57頁

参考文献[編集]

  • 佐野眞一『小泉純一郎 - 血脈の王朝』(2004年、文藝春秋)

関連項目[編集]