松田優作
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| 松田 優作 | |
| 生年月日 | 1949年9月21日 |
|---|---|
| 没年月日 | 1989年11月6日(満40歳没) |
| 出生地 | |
| 民族 | 日本人 |
| 血液型 | A |
| ジャンル | 俳優(映画・テレビドラマ・監督) 歌手 |
| 活動期間 | 1972年-1989年 |
| 活動内容 | 1972年:文学座研究所入所 1973年:『太陽にほえろ!』 1976年:暴力事件で逮捕 1986年:映画初監督 1988年:ハリウッド進出 1989年:死去 |
| 配偶者 | 松田美智子(1975-1981、前妻) 松田美由紀(1983-、後妻) 松田龍平(長男) 松田翔太(次男) |
| 主な作品 | |
| 映画 『狼の紋章』『竜馬暗殺』 『暴力教室』『人間の証明』 『蘇える金狼』『野獣死すべし』 『家族ゲーム』『それから』 『ブラック・レイン』 テレビドラマ 『太陽にほえろ!』『探偵物語』 |
|
松田 優作(まつだ ゆうさく、1949年9月21日 - 1989年11月6日)は、山口県下関市生まれの日本の俳優。誕生年は1949年だが出生届の提出が遅れたため、戸籍上は1950年9月21日生まれになっている。身長185cm。
刑事ドラマ『太陽にほえろ!』で人気を獲得。1970年代後半から角川映画や東映セントラルフィルム作品の主演作でアクションスターとして出発し、1980年代からは演技派としても認められるようになる。主演したドラマ『探偵物語』などで後進への影響も大きく[1]ファンの間での呼び名は「~さん」や「~様」、ニックネームでは無く、敬意を込めて敢えて「優作」と呼ばれている。1980年代を通じて最も重要な日本の映画俳優の1人と評価する意見もある。[2]
目次 |
[編集] 経歴
- 1949年9月21日 - 山口県下関市に日本人の父と韓国人の母の元に産まれる。父親の違う2人の兄がおり、遊郭の家で私生児として母に育てられるという環境で育つ[3]。
- 1967年 - 下関市立第一高等学校(現:山口県立下関中等教育学校)を2年で中退し、叔母が滞在する米国に渡り、弁護士を志してシーサイド大学付属高校に入学。
- 1968年 - 9月にアメリカの高校を中退し帰国。下関には戻らずに東京の兄の家に居候して東京都豊島区にある私立豊南高等学校夜間部普通科の4年生に途中編入する。
- 1969年 - 3月に高校を卒業。下関在住時代、地元が漁師町で気の荒い人が多く、当時から背の高かった松田は何かと喧嘩を仕掛けられることが多かったため、中学生から空手を習う[4]。帰国後、極真会館池袋本部道場に通い(当時の本部師範は真樹日佐夫)、極真空手緑帯。その経験は、後の映画やテレビドラマにおけるアクションシーンに活かされる事になった。この年には、岸田森や草野大悟が所属していた劇団「六月劇場」に裏方として出入りし始め、この両名からは少なからず影響を受けた。岸田、草野両名ともに文学座出身であったことから、松田も文学座に入ることを考える。
- 1971年 - 3月に文学座の試験を受けるも、1次試験で不合格となる。ほかにも様々な劇団の試験を受け、金子信雄が主宰する劇団「マールイ」の演劇教室の生徒となる。ここで後に結婚する美智子と出会う。
- 1972年 - 3月、前年に続いて文学座の試験に挑み、合格。文学座付属演技研究所十二期生となった。研究所の同期には阿川泰子、高橋洋子、2期先輩に桃井かおりがおり、翌年に1期後輩として中村雅俊が入ってくる。6月、役者に集中するため関東学院大学文学部中退。この頃、特撮ヒーロー物『突撃! ヒューマン!!』の主役オーディションを受けている。また1969年頃の無名時代に新宿(トリスバー「ロック」)でバーテンダーをしていたときに、客として来ていたひし美ゆり子(『ウルトラセブン』の友里アンヌ隊員役)や原田大二郎、村野武範らと知り合いになり親交を結んでいる。
松田が文学座に入ったことにより劇団での4期先輩の立場ともなった村野は、自身が主演したドラマ『飛び出せ!青春』のプロデューサーだった日本テレビの岡田晋吉が新人俳優を探していることを聞いて松田を推薦した。このことが『太陽にほえろ!』への抜擢につながった。このあと『われら青春!』の主役を探していた岡田に、松田が後輩の中村雅俊を推薦している。なお岡田の著書によると村野が松田を推薦したのは松田の演技を評価したからではなく、村野が松田と麻雀をして負けたためだという[5]。 - 1973年7月20日 - 人気刑事ドラマ『太陽にほえろ!』にジーパン刑事として出演開始、その活躍が話題となる。また、「ジーパン刑事編」最終回の殉職シーンで「何じゃこりゃあ!」(より正しくは「何じゃあこりゃああ!!」。この後にさらにセリフは続く)と絶叫する演技は大きな反響を呼び、多くの人を魅すると同時に、アクションスターへの階段を駆け上がるきっかけともなった。現在でもこのセリフは松田の代名詞として認識され、モノマネされる事も多々ある。なお『太陽に~』にはレギュラー出演以前にテスト出演し、マカロニ刑事(萩原健一)とも共演している。また岡田の著書によると当初岡田は松田を『太陽にほえろ!』ではなく別の青春ドラマに起用するつもりだったが、萩原が『太陽にほえろ!』の降板を申し入れてきたため、松田を萩原の後釜にすえたという[5]。9月には、東宝映画『狼の紋章』で敵役で準主演し、スクリーン・デビュー。
- 1974年 - 8月に『太陽にほえろ!』の出演終了。番組プロデューサーの岡田は松田の次期作として、中村雅俊とダブル主演のドラマ『俺たちの勲章』の準備を始めた。その間、10月4日スタートの『赤い迷路』に出演し、山口百恵、中野良子、宇津井健らと共演。このドラマでも最期に死んでしまう役を演じる。
- 1975年 - 3月、雑誌記者を殴ったことが表沙汰になる。4月から『俺たちの勲章』放映開始、7月にはドラマのロケ先で暴行騒ぎを起こす。
- 1976年 - 1月、前年7月の喧嘩騒ぎでは示談が成立していたが、警察から出頭要請があり傷害容疑で逮捕。1週間で釈放となるが、新聞やテレビ等マスコミには大きくバッシングされることとなり、その後しばしの謹慎生活となる[3][6]。
- 1976年 - 東映映画『暴力教室』で映画復帰。初の時代劇となる大映映画『ひとごろし』で主演。
- 1977年 - 角川映画『人間の証明』棟居刑事役で主演。刑事ドラマ『大都会 PARTII』でテレビに本格復帰。
- 1978年 - 村川透監督の東映セントラルフィルム映画「遊戯シリーズ」第一作『最も危険な遊戯』主演。この映画でプロデューサーの黒沢満と出会う。「遊戯シリーズ」は、同年に『殺人遊戯』、翌年に『処刑遊戯』と計3本が製作され、本格的なアクションのできる俳優として活躍。
- 1979年 - 村川透監督による角川映画『蘇える金狼』主演。10月からは初の単独主演ドラマ『探偵物語』開始、後年の再放送などで名作として高い人気を得る。ボブ・ディランをもじった朴李蘭の名で、劇団の旗揚げも行う。
- 1980年 - 角川映画『野獣死すべし』に主演。所属していた「六月劇場」から独立し、個人事務所「夢屋」を設立。
- 1981年 - 鈴木清順監督の映画『陽炎座』出演、それまでと違い、アクションを求められない演技に葛藤を重ね、役者としての転機となる。また、黒沢満にマネージメント業務を依頼し、交際していた熊谷美由紀(現・松田美由紀)とともに、黒沢が代表を務めている映画制作会社「セントラル・アーツ」に所属することとなった。12月に妻・美智子と離婚届けを送付する。
- 1983年 - 森田芳光監督の映画『家族ゲーム』で、それまでの“アクションスター”イメージを一新する役柄を演じる。長男誕生を期にかねてから同居していた美由紀と入籍する。
- 1985年- やはり森田芳光監督の映画『それから』に出演。文芸的な役柄にチャレンジする。
- 1986年 - 映画『ア・ホーマンス』制作途中で、監督との方針の違いに喧嘩となり監督が降板、松田自らがメガホンを取ることなり、これが初監督作品となる[7]。しかし、興行的には不調だった。作品内容的には近未来的な状況設定から『ブレードランナー』との類似性を指摘する声が上がったが、松田はこの映画を観ていなかった[8]。やくざが松葉杖を使っていたり、早口であったりと実験的で独特の映像感覚・心理描写・ストイックなアクション表現・音楽やロケーションなどにあふれるアジアテイストなど、独特の作風である。この作品は石橋凌、寺島進の映画デビュー作でもある。ここで役者に開眼した石橋は松田を師と仰ぎ、松田の死後、遺志を継ぐ決心で自らのバンドA.R.B.を解散し役者に専心した。
- 1988年 - 日本を舞台にしたアメリカ映画『ブラック・レイン』のオーディションが6月から始まり、日本で活躍する300人近い俳優の中から数度のオーディションを経て、9月5日の最終選考にてマイケル・ダグラスとの実演選考の結果、松田の出演が決定、ハリウッドデビューの運びとなる。このころ、血尿が出るのが気にかかった為、9月27日に西窪病院(現在の武蔵野陽和病院)に入院、10日後に退院。検査の結果、癌の告知を受けるが、松田はそれほど深刻には受け止めず、不治の病であるとは考えていなかった。この時点では美由紀夫人にも報告しておらず、病気の事実を知る者は、撮影関係者では安岡力也のみであり、周囲にも口止めがされていた。10月31日から大阪で『ブラック・レイン』がクランクイン、12月16日から渡米してのロケ。1週間ほどで帰国し年末年始となるが、松田家での恒例の大忘年会の際には、周囲には風邪気味だと話していたが実際には癌の影響による高熱を出して点滴を打った状態であり、皆と楽しそうに会話を交わすものの、途中で自室に下がり姿を見せなくなるなど調子は万全でない様子であった[9]。
- 1989年 - 年末年始後、1月6日から再び収録の為に渡米、ニューヨークへ。3月14日『ブラック・レイン』撮影終了。4月に西窪病院に再度入院、このとき美由紀夫人も松田が癌であることを知ったが、やはりそれが「不治の病」であるとの認識では受け取っていなかった。退院後にはアメリカでの移動の際に必要性を感じた自動車免許取得のため教習所に通い、6月に無事免許取得。夏からは旧知の仲である日本テレビの岡田プロデューサーが企画し、村川透が監督した秋のスペシャルドラマ『華麗なる追跡』の制作が始まったが、撮影中に腰痛の症状を訴え、撮影終了後の9月26日に三たび西窪病院に入院。この時には一人では歩けない状態であった。再検査の結果、癌が骨盤骨から脊髄の一番下まで転移していた。黒沢満はこのときに松田が癌である事を美由紀夫人の口から初めて聞いた。10月5日に病院から特別に許可を取って渋谷での『ブラック・レイン』の舞台挨拶に立つはずだったが、会場には到着したものの腰痛がひどく、挨拶に参加できずに病院へと戻っていた。病状は好転せず、11月に入ると松田の盟友とも言える脚本家・丸山昇一にも黒沢の口から「覚悟しておくように」と深刻な状況である事が初めて伝えられた。11月6日午後6時45分に入院先の西窪病院で膀胱癌のため死去、40歳没。尚、『ブラック・レイン』は全米興行収入で3週間のあいだ1位になる等の好反応により、松田のマネージメントを請負う黒沢の元にはハリウッドからショーン・コネリーが監督を務めロバート・デ・ニーロと共演する作品のオファーも来ていた。亡くなった翌日放送の『夜のヒットスタジオSUPER』では松田出演時のVTRが流れた後に司会の加賀まりこが涙を流して追悼のコメントを語った。
遺作となったドラマ『華麗なる追跡』は、「世界一速い女」フローレンス・ジョイナーと、「世界で一番速く走っている様に見せられる男」松田の共演、というコンセプトであったが、病魔の為に思うように走れなくなっていた松田は、脚本や演出に手を入れてかなりの改変を加えた。スタッフの中には内心腹を立てた者もいたが、松田の死後にその理由を覚り、後悔したという。法名は、天心院釋優道。
[編集] 人物
- 『太陽にほえろ!』で「ジーパン刑事」として出演時、たまたま撮影を見学に来ていた松田と同じ文学座所属の桃井かおりが、その体当たりの演技をみて『恐竜みたい』と評したところ、(決してアクション志向ではなかったため)激昂した松田が失踪し、撮影が中断される事件があった。それを聞いた裕次郎は怒りもせず、「これでそれだけ怒ったアイツはいい役者になるぜ」と言ったという。『大都会 PARTⅡ』における松田のブッキングは、石原裕次郎のラブコールによるものである。
- 関東学院大学在学中、大学文化祭においてニューヨークから来たアングラ劇団「ラ・ママ」が来演。この芝居を観て役者への道を決定づける。そして役者になるため、自分でも嫌っていた一重まぶたを二重まぶたにする整形手術を受ける。手術後、抜糸する金が無く自分で抜糸した。
- 『太陽にほえろ!』を降板する際、後任の勝野洋へなにかアドバイスをと求められて、「走る姿を研究しろ」と答えたという。実際、彼の演じるジーパン刑事が疾走するシーンは多くのファンを魅了し、「走る」事は同番組の基本コンセプトのひとつとして後々まで受け継がれた。
- 185センチの長身でタフなキャラクター・抜群の運動神経と長い手足を生かしたその動きはそれまでの俳優にはない独自のものであり、アクション・スタント シーンにスタントマンを使わず、日本のアクション俳優像を刷新した。萩原健一と並んで同時代を代表するスターである。
- 野性的なルックスや演技でアクションスターとして売れるが、芝居に対しては非常に勉強熱心で、個性派俳優として次第に役の幅を広げていった。強烈なカリスマ性をもつ俳優であり、松田の演じたキャラクターや、本人そのものをイメージした格好を真似る若者を産み、また同業者である後輩にも、彼のスタイルを踏襲した俳優(古尾谷雅人、又野誠治など)を産んだ。漫画『北斗の拳』の主人公ケンシロウも造形面で松田をモデルにしている。
- 普段のファッションには無頓着で、放っておいたら何を着だすか分からない程(美由紀夫人)だったと言う。近視で、普段掛けていた眼鏡も上部が黒縁の所謂オヤジ眼鏡だった。
- 性格は短気な傾向があり、興奮すると手が出ることも多かったそうである。ただ、その一方で自分の仲間を非常に大事にし、丸山昇一の他にも、水谷豊、山西道広、佐藤蛾次郎など優作と親交が深かった多数の友人が優作の伝記で彼の人となりを熱く語っている。
- 映画『ミッドナイト・ラン』で主人公が彼の別居している子供に会いに行くシーンを見て、自分も同じ位の年の別居中の子供のことを想い出し泣いてしまったことがある(山口猛「松田優作 炎静かに」より)。
- 竹中直人が自分の物真似をレパートリーにしていると聞き、目の前でやってみせるよう要求したことがある。プライドが高く短気なところがある松田が怒らないかと周囲は心配したが、真剣に芸を披露する竹中の姿を黙って見た後「お前は面白いなぁ」と声をかけたという。
- 『野獣死すべし』の主演が決定した際、松田は「役作りをするから一人になる時間が欲しい」と関係者に頼み音信を絶っている。それから一月ほど経った後、松田は頬がこけ(更に際立たせるために奥歯を抜く徹底振りだった)貧相にさえ見えるほど体重を落とした姿で撮影所に現れた。原作のハードボイルドな雰囲気に相応しい屈強な主人公像をイメージしていた監督の村川透はこれに激怒し、「話が違う」と松田を激しく問い詰めた。やがて気の短い松田は村川と言い争いを始め、「ついこの間まで戦場にいた男が程よく太って健康的な姿であるわけが無い」と主張。結果として本作品の象徴ともいえる松田の鬼気迫る表情から出る迫真の演技が生まれることになり、後に村川も松田の(無断ではあったが)役作りを高く評価している。
- 幻想的な女性シンガー佐井好子のファンであった。佐井は松田優作にオリジナル曲『居酒屋』を作詞・作曲して提供している。またアルバム『まつりうた』では、佐井のオリジナル曲『ひとのいない島』を『無人の島 』と改題してカヴァーし、録音している。佐井のライブコンサートにも、松田は何度か足を運んだそうだ。
[編集] 国籍
父親は日本人であるが、韓国人の母親の私生児として生まれ、韓国籍を持つ。韓国名は金優作(キム・ウジャッ)。 妻・松田美智子は優作が出会った当初、暗に国籍を指して「俺の全てを受け入れるか」と再三迫ったが、ついに国籍について明かさなかったという。松田美智子の両親が興信所を使って優作の国籍を調べ、結婚に反対したことを松田美智子が明かしている。 『太陽にほえろ!』の出演が決まった時に帰化を申請し、当時の法務大臣宛の帰化の動機書には「番組出演が決まりました。番組は全国で放映される人気番組です」「もし、僕が在日韓国人であることがわかったら、みなさんが、失望すると思います。特に子供たちは夢を裏切られた気持ちになるでしょう」と書いた。当時の妻・美智子は「子供が親にものを頼んでいるかのような文章」に涙が止まらなかったと述懐している。当時、知人には「自分の子供には二つの名前で苦しむ様な思いをさせたくない」と語っていたと云う。1974年、日本籍となり、妻・松田美智子の戸籍に入る[10]。
[編集] 家族
- 劇団「マールイ」の研究生仲間であり、後に『完全なる飼育』などの代表作をもつ作家・松田美智子と1975年9月21日に結婚し、長女を設けるも、女優・熊谷美由紀(現・松田美由紀)との不倫が原因で1981年12月24日に離婚。この際、子供のために離婚後も松田姓のままでいるように、との希望が優作から一筆したためられていた。熊谷美由紀とは、主演したドラマ『探偵物語』での共演で出会い、龍平出産を機に1983年に入籍。
- 美由紀との間に、順に長男・龍平(1983年5月9日生)、次男・翔太(1985年9月10日生)、長女・夕姫(優作逝去時一歳)がおり、長男・次男は現在俳優として活動している。
[編集] 全出演作品
[編集] テレビドラマ
- 柔道一直線(1969年 - 1971年・TBS・エキストラ(試合を観戦する柔道部員)出演)
- 原生花園 アンラコロの歌(1972年・TBS ポーラテレビ小説・1話分のみ(人力車を引く車夫の役)出演)
- 太陽にほえろ!(1973年 - 1974年・東宝・日本テレビ)
- 赤い迷路
- 俺たちの勲章(1975年・日本テレビ)
- 大都会 闘いの日々(第4話ゲスト出演)
- 夫婦旅日記 さらば浪人(第17話 ゲスト出演)
- 大都会 PARTII
- 森村誠一シリーズ・腐食の構造(1977年10月 - 11月)
- 大追跡(1978年) - 最終回ラストシーンにゲスト出演
- あめゆきさん
- 探偵物語(1979年 - 1980年・日本テレビ)
- 春が来た
- 死の断崖
- 新・事件 ドクターストップ
- ホームスイートホーム(第8話~第11話 ゲスト出演)
- あんちゃん(第15話・第16話 ゲスト出演)
- 熱帯夜
- 断線
- 新・夢千代日記
- 女殺油地獄
- 追う男
- 桜子は微笑う
- 華麗なる追跡
[編集] 映画
- 初映画出演作にして主人公の敵・羽黒獰役を射止めている。主演は志垣太郎。
- あばよダチ公
- ともだち
- 竜馬暗殺(監督:黒木和雄)
- 暴力教室
- ひとごろし(1976年、永田プロ・大映・映像京都)
- 人間の証明
- 最も危険な遊戯
- 殺人遊戯
- 沖縄列伝第1 島小(監督:吉田豊)※ナレーション
- 乱れからくり
- 俺達に墓はない
- 蘇える金狼
- 処刑遊戯
- レイプハンター<狙われた女>(ゲスト出演)
- 薔薇の標的(ゲスト出演)
- 野獣死すべし
- ヨコハマBJブルース
- 陽炎座(監督:鈴木清順)
- 家族ゲーム
- 探偵物語(1983年、薬師丸ひろ子と共演)※テレビドラマの探偵物語とは全くの別物
- それから
- ア・ホーマンス(監督:松田優作)
- 嵐が丘(監督:吉田喜重)
- 華の乱(監督:深作欣二)
- ブラック・レイン(監督:リドリー・スコット)
[編集] CM
- アサヒビール(1982年)
- 日本ビクター ラジカセ「√2」・「√5」
- キッコーマン 焼酎「トライアングル」(1984年 - 1989年)
- マンダム「ギャツビー」(1985年 - 1987年)
- キリン「ライトビール」(1987年) - 原田芳雄、宇崎竜童と共演。
- 角川文庫(1987年)
[編集] 没後
- サッポロ飲料 缶コーヒー「JACK」(1997年) - 「探偵物語」でのコーヒーにまつわるシーンを再編集。
- Schick(2000年) - 「探偵物語」の工藤俊作をメインキャラクターにキャンペーンを展開。
- グンゼ(2008年) - 同じく「探偵物語」の工藤俊作の映像を再編集し製作された。
[編集] ゲーム
[編集] 歌手活動
1976年、東宝レコードからアルバム『まつりうた』で歌手デビュー。1978年、ビクター音楽産業(現:ビクターエンタテインメント)に移籍、5枚のシングルと7枚のアルバムを発売した。
[編集] シングル
すべてビクターから発売。
- Uターン(1978年7月25日発売)
- B面:ひとよ酒
- 白昼夢(1980年5月21日発売)
- B面:UPWARD MORE
- ブラザーズ・ソング(1981年4月21日発売)
- B面:LADY
- 夢・誘惑(1984年9月21日発売)
- B面:246の幾何学
- One From The Heart(1985年3月21日発売)※松田優作 with EX
- B面:Night Performance
[編集] アルバム
- まつりうた(1976年7月25日発売、東宝レコード)※バップからCD化された際にボーナストラック1曲を追加
- Uターン(1978年8月25日発売、ビクター)
- TOUCH(1980年5月1日発売、ビクター)
- HARDEST DAY(1981年5月21日発売、ビクター)
- HARDEST NIGHT LIVE(1981年11月21日発売、ビクター)
- INTERIOR(1982年11月21日発売、ビクター)
- DEJA-V(1985年3月21日発売、ビクター)※松田優作 with EX
- D.F. NUANCE BAND(1987年4月21日発売、ビクター)
[編集] ベストアルバム
- Yusaku Matsuda 1978-1987(1990年2月21日発売、ビクター)
[編集] 関連項目
- 『太陽にほえろ!』でジーパン刑事役として出演していた松田の役者性に早くから注目。松田の暴力事件では警視庁に情状酌量を願い出て、干された状態だった松田を『大都会 PARTII』にブッキングするなどお気に入りだった[11]。
- 『太陽にほえろ!』で萩原演じるマカロニ刑事が初代新人刑事であり、そのマカロニ刑事殉職後の後任が松田演じるジーパン刑事であった。松田が憧れ、最も影響を受け、最も意識した唯一の同世代の俳優、ミュージシャンでもある。
- 「ええ、ぼくは…愛してるっていうか、尊敬してるっていうかね、あの人のことは…」「ぼくは、彼のあとから追いかけ、しがみついている感じ。きっと生涯抜けないんじゃないですかねえ、あの人を。ぼくとは、妙な因縁といいますか」「(萩原が)ライバルっていうふうに自分で思うほどライバルじゃなかったんだけど、えらくでっかい人で。彼がいたんで、いつも追っかけてる。ここ何年間、彼のおかげで 触発されてきたっていうのはありますよね」- 松田談。
- 『大都会 PARTII』などで共演もし、松田が非常に尊敬していた俳優。
- 松田が公私ともに兄貴と慕う俳優。その慕い方は半端ではなく、自宅も原田の隣に構えたほどであった。クリスマスや正月等は原田・松田両家で友人を呼んでの盛大なパーティーを開いていたが参加者の多くが重複していて彼らの行き来が大変だったため、松田が「いっその事家の間の垣根を取っ払いましょうか」と提案し、それに対し原田が「幾ら俺たちの間でも、それはけじめがなさ過ぎるだろう」と返答した逸話もある。
- 松田が尊敬する俳優。『蘇る金狼』『探偵物語』などで共演。
- 無名時代から松田の面倒を見た先輩俳優。『俺たちの勲章』『最も危険な遊戯』などで共演。
- 文学座研究生時代から切磋琢磨した友人。『熱帯夜』などで共演。
- 売れない時代からつるんでいた仲間。『探偵物語』で共演。
- 『探偵物語』の松本刑事役。文学座付属演技研究所研究生時代から、松田と同じ時間を共有した俳優のひとり。奥さんが嫉妬するほどの仲だったという。松田のデビューアルバムに楽曲も提供している。
- 松田を「兄貴」と呼ぶ俳優。『噂の探偵QAZ』など、松田をイメージしたキャラクターの作品を演じた(その作品には、『探偵物語』のレギュラーキャラである松本刑事役の山西道広が、「松本警部」として登場している)。
- 松田と出会って才能を開花させた脚本家。丸山にとって松田は畏怖と尊敬の念が入り混じる存在で、脚本をアップする度に松田からどの様なチェックが入るか戦々恐々としていたそうである。
- 優作が最も信頼を寄せていたカメラマン。彼の出演作のほぼすべてを手がけている。
- 『大都会 PARTII』に柴田が出演した際に村川透監督の紹介で知り合う。晩年「一緒に映画をやろうぜ」と声をかけており、松田本人も一緒にやれなかった事を残念に思っていた(松田主演の「遊戯シリーズ」に端役で柴田が出演していた事はある)。また、ガン闘病中に再放送されていた『あぶない刑事』を病院のテレビで見た松田が「もう俺にはできねえな。今は恭兵が一番輝いてるよ」と黒沢プロデューサーに語っていた[12]。
- CM共演や原田芳雄を通して仲がよくなった。映画「ヨコハマBJブルース」でも共演している。
- 『最も危険な遊戯』や『探偵物語』、CM撮影で一緒に仕事をした仲。
- 松田を意識した役づくりをしていた後輩俳優。『太陽にほえろ!』のブルース刑事は、ジーパン刑事を意識した役であった。
- 樹原ちさと(少女漫画家)
[編集] 関連著書ほか
[編集] 柴田純(ジーパン刑事)コスチューム
純のスタイルは大まかにジーンズシャツ姿、デニムのサファリジャケット姿がある。これは長身の松田に合う衣装が無かったためで、ジーパンのあだ名の由来でもある(先行して別の役でテスト出演した際は背広姿だったが、サイズが合わずつんつるてんであった)。冬季にトレンチコートもあったが動き辛いので皮ジャンパーに変更。 殉職のラスト二本は白いサファリジャケット姿で、撃たれて血染めとなった衣装が映えるようにという演出上の配慮による選択という。しかし、一度血糊で染まってしまうとやり直しが効かない為、撮影はNGを出さないよう慎重に行なわれた。後にぼんぼん刑事田口良(宮内淳)も同じスタイルで殉職した。
[編集] 使用拳銃
- ハイパトカスタム・ジーパン専用タイプ
- スミス&ウェッソンミリタリーポリス22口径という設定で、実銃では存在しないオリジナルプロップである。MGCから発売されていたハイパトをベースに作られ、撮影用では22口径にシリンダを変更。発砲用には41口径に摩り替えている。「愛のシルクロード」で犯人の恋人から盗まれたのもこれ。命中度は高いが、殺傷能力は低い。
[編集] BGM
純のテーマ曲として通称『ジーパン刑事のテーマ』がある。正式には『青春のテーマ』という曲名で、100回放映記念シングルに初リリースされた。純の存命以降もアクション用BGMとして番組に定着した。バリエーションが豊富で、あらゆるシーンに多用された。
テレビ用モノラル音源は「サントラコレクション」に完全収録され、バップからも青春のテーマだけを集めたアルバムが発売された。
[編集] 運転
『太陽にほえろ!』出演当時は運転免許を有していなかったため、車の運転場面は全て代役である。勝野洋や下川辰平も同様であった。『探偵物語』では、岩城滉一の勧めでベスパ(イタリア製スクーター)を愛車にすることにしたが、免許を有していなかったため、急遽二輪免許を取得し撮影が開始された[12]。映画『華の乱』ではサイドカーを運転するシーンがある。『ブラックレイン』の撮影開始後、アメリカ国内での移動に不自由を感じたために自動車免許も取得した。
[編集] オマージュ
後に、TBSのテレビドラマ『ケイゾク』において、中谷美紀演じる主人公「柴田純」は松田優作の役へのオマージュである。また、同ドラマ内でジーパン刑事の殉職シーンが音声のみ流れる場面がある。
[編集] ライター
本人使用(仕様?)のライターは、点火すると炎が20cm以上は燃え上がる。そのライターを使ってクールにタバコに点火するシーンがよく見られる。そんなハードボイルドなシーンに感化された一部のファンが、使い捨てライターを同じように改造して真似をした。尚、そのライターを何も知らない人が使用して事故が起きた為問題にもなった。
[編集] 脚注
- ^ 竹中直人、加藤雅也、織田裕二、木村拓哉、上田晋也、太田光などファンも多い。
- ^ 四方田犬彦『日本映画史100年』集英社・集英社新書、2000年、213ページ。
- ^ a b 織川隆「松田優作とふたりの女」『新潮45 2006年1月号』新潮社
- ^ 雑誌取材の本人談
- ^ a b 岡田晋吉著『太陽にほえろ!伝説-疾走15年 私が愛した七曲署』(1996年、日本テレビ) ISBN 4-8203-9866-0
- ^ 鶴田浩司「松田優作の死」『ニッポン映画戦後50年』朝日ソノラマ、1995年
- ^ 併映は澤井信一郎監督作品『めぞん一刻』
- ^ 大下英治『蘇る松田優作』リム出版新社、1991年
- ^ 山口猛『松田優作 炎 静かに』立風書房、1990年
- ^ 松田美智子『越境者 松田優作』(新潮社, 2008年)。 元妻・美智子氏が初めて語る「松田優作 日本国籍への想い」『週刊文春2007年5月17日号』文藝春秋社
- ^ 岡田晋吉『青春ドラマ夢伝説 あるプロデューサーのテレビ青春日誌』日本テレビ放送網、2003年
- ^ a b 『甦れ!探偵物語』日本テレビ出版、1994年
- ^ 小林信彦「<正義>をめぐる木村拓哉の喜劇「HERO」」『コラムの逆襲 エンタテインメント時評 1999~2002』新潮社、2002年
- ^ 帰ってきた渡り鳥 渡り鳥・流れ者シリーズ・他研究サイト

