森繁久彌

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もりしげ ひさや
森繁 久彌
森繁 久彌
映画『ロマンス娘』(ポスター)での森繁(右下)
本名 同じ(旧姓:菅沼すがぬま
生年月日 1913年5月4日
没年月日 2009年11月10日(満96歳没)
出生地 日本の旗 日本大阪府枚方市上之町[1][2]
死没地 日本の旗 日本東京都
身長 171cm
血液型 B型[3]
職業 俳優作曲家作詞家歌手アナウンサー
ジャンル 映画舞台テレビドラマ
活動期間 1936年 - 2007年
活動内容 1934年早稲田大学商学部に入学
1936年東京宝塚劇場に入社
1939年NHKに入社
1947年:『女優』で映画初出演
1950年:映画初主演
1962年:森繁劇団を結成
1967年:『屋根の上のヴァイオリン弾き』を帝国劇場で初演
2009年:死去、国民栄誉賞追贈
著名な家族 父:菅沼達吉
長男:森繁泉
主な作品
次郎長三国志』シリーズ
夫婦善哉
警察日記
社長シリーズ
駅前シリーズ
恍惚の人

森繁 久彌(もりしげ ひさや、1913年5月4日 - 2009年11月10日[4])は、日本俳優歌手コメディアン[5]、元NHKアナウンサー。最終期はアクターズセブン所属。別表記に森繁久弥

昭和平成の芸能界を代表する国民的名優であり[6][7]映画テレビ舞台ラジオ歌手エッセイストなど幅広い分野で活躍した。早稲田大学を中退後、NHKアナウンサーとなって満州へ赴任。帰国後、舞台やラジオ番組の出演で次第に喜劇俳優として注目され、映画『三等重役』『社長シリーズ』『駅前シリーズ』で人気を博した。人よりワンテンポ早い軽快な演技に特色があり、自然な演技の中で喜劇性を光らせることができるユニークな存在として、後進の俳優たちにも大きな影響を与えた[7]。また、『夫婦善哉』『警察日記』等の作品での演技が高く評価され、シリアスな役柄もこなした。映画出演総数は約250本を超える。舞台ではミュージカル屋根の上のバイオリン弾き』で主演し、上演回数900回・観客動員約165万人の記録を打ちたてた[8]。『知床旅情』の作詞・作曲者でもあり、歌手として紅白歌合戦に7年連続で出場している。語りのうまさには「森繁節」と言われるほど定評があり[6]ラジオ番組日曜名作座』への出演のほか、朗読作も多い。先に亡くなっていく俳優たちへの弔辞を読む姿でも知られる[7]。慈善活動にも尽力し、自身の寄付活動を伴淳三郎らとともにあゆみの箱として法人化している。著書に自伝『森繁自伝』、エッセイ『品格と色気と哀愁と』など多数。

1991年(平成3年)に大衆芸能分野で初の文化勲章を受章。ほかの栄典称号紫綬褒章文化功労者名誉都民国民栄誉賞従三位など。

来歴[編集]

生い立ち[編集]

1913年(大正2年)5月4日大阪府枚方市上之町に父・菅沼達吉と母・馬詰愛江の3人兄弟の末っ子として生まれる。祖父は江戸幕府大目付・森泰次郎で、彼の実弟は儒学者成島柳北である[7]。父の達吉は旧制第二高校教員、日本銀行大阪支店長、大阪市高級助役、大阪電燈取締役常務を歴任した実業家[7][9]で、母の愛江は大きな海産物問屋の娘であった。久彌という名前は、父が実業家・岩崎久彌と深い親交を持っていたことに由来する。

2歳の時に父が死去。長兄の弘は母方の実家の馬詰家を継ぎ、次兄の俊哉はそのまま菅沼家を継ぐ。久彌は枚方尋常小学校1年生の時に、母方の祖父で南海鉄道の鉄道技師であった森繁平三郎の家を継ぎ、森繁姓となる[7][10]兵庫県西宮市鳴尾に移り住み[10][11]、小学校5年まで鳴尾小学校に在学。6年生の時に、教育熱心な母親が北野中学校へ入学させるために堂島小学校へ転校させられる[12]

旧制北野中学から早稲田第一高等学院に進み、1934年(昭和10年)に早稲田大学商学部へ進学。在学中は演劇研究部(略称:劇研)に所属し、先輩部員の山本薩夫谷口千吉と共に活動、彼らが左翼活動で大学を追われたからは部の中心的存在となった[2]。この頃に萬壽子夫人(当時、東京女子大学の学生)と知り合う。その後、劇研を脱退してアマチュア劇団・中央舞台(後に人間座)を創立し、築地小劇場を借りて『アンナ・クリスティ』を上演した[10][11]

演劇の世界へ[編集]

1936年(昭和11年)、必修とされていた軍事教練を拒否して大学を中退。同年に長兄・弘の紹介で東京宝塚劇場(現・東宝)に入社し、日本劇場の舞台進行係を振出しに、東宝新劇団、東宝劇団、古川ロッパ一座と劇団を渡り歩いて下積みを過した[2][7][10]。下積み時代は馬の足などしか役が付かなく、日劇で藤山一郎ショーの舞台進行を務めた時、藤山に頼み込み通行人の警官役で舞台に立つも全くウケなかったなどの辛酸を嘗めた。しかし、ロッパ一座では座長の古川から認められ、のちのちまで目をかけられた[2]。この頃に盟友となる山茶花究と出会う。1937年(昭和12年)にロッパ一座を退座[2]1938年(昭和13年)に応召されるが、耳の大手術をした後だったため即日帰郷となった[7]

1939年(昭和14年)、NHKアナウンサー試験に合格。アナウンサーになったきっかけは「徴兵制度を避ける為。海外へ赴任出来る当時としては数少ない仕事であったから」と、後の著書に記している。3ヶ月の養成期間終了後、満州・朝鮮各地の放送局網拡大によるアナウンサーの海外赴任策により希望通り満洲に渡り、満洲電信電話の新京中央放送局に赴任した。アナウンサー業務のほか満洲映画協会製作の映画のナレーション等も手掛け、満映理事長だった甘粕正彦とも交流があった。また、満州各地を回った時のルポルタージュ国定教科書(高等国語二)に採用された[2]。さらに、満州巡業に来た5代目古今亭志ん生6代目三遊亭圓生らとも親交を結び、新京の劇団に所属していた芦田伸介とも知り合った。アナウンサー時代に指導した後輩に糸居五郎がいる。

満州時代には、川一本を隔てたソ連軍に対する謀略放送(見つかれば確実に生きて帰れないほどの接近をしたこともあったという)を行ったり、蘭花特別攻撃隊(B29に体当たり攻撃を行う航空隊(本土での「震天隊」に相当))の為の歌『空に咲く』の作詞も行っている。1945年(昭和20年)、敗戦を新京で迎えソ連軍に連行されるなどして苦労の末、1946年(昭和21年)11月に帰国。この年、徳島県海陽町の旅館で宿泊中に昭和南海地震に遭遇している[13]

人気タレント・俳優として[編集]

帰国後は帝都座ショーや空気座などの劇団を転々とし[2][11][14]、この間の1947年(昭和22年)、衣笠貞之助監督の『女優』に端役で映画に初出演する。1948年(昭和23年)7月には菊田一夫の紹介で、創作座公演の『鐘の鳴る丘』に出演し、井上正夫と共演した[2][7]。翌1949年(昭和24年)に再建されたばかりのムーラン・ルージュに入団し、同年4月の舞台『蛇』で川田順をモデルとした主人公を演じ[2]、10月にはミュージカル『太陽を射る者』に出演、演技だけでは無くアドリブのギャグを混ぜて歌も歌うなど、他のコメディアンとは一線を画す存在として次第に注目を集めた。

1950年(昭和25年)、ムーラン・ルージュを退団。同年に古川の推薦でNHKのラジオ番組『愉快な仲間』にレギュラー出演。メインの藤山一郎の相手役を演じ、2人のコンビネーションが人気を呼んで、3年近く続く人気番組となった。この番組でその才能に注目が集まり、映画や舞台に次々と声が掛かるようになる。同年、並木鏡太郎監督の喜劇映画『腰抜け二刀流』で映画初主演。以来B級喜劇映画に多数出演する。1951年(昭和26年)、再び菊田に起用され、帝劇ミュージカル『モルガンお雪』で古川、越路吹雪と共演[2]

1952年(昭和27年)、源氏鶏太原作のサラリーマン喜劇映画『三等重役』が出世作となり[7]河村黎吉演じる社長役に対し、要領のよい人事課長役で助演した。また、1953年(昭和28年)からはマキノ雅弘監督の『次郎長三国志』シリーズに森の石松役で出演、第8作の『海道一の暴れん坊』で無念の死を遂げるまで大活躍する。

1955年(昭和30年)、久松静児監督の『警察日記』で田舎の人情警官を演じた後、同年公開の豊田四郎監督の名作『夫婦善哉』に淡島千景と共に主演。大阪の金持ちのドラ息子を好演し、生涯の代表作とした。翌1956年(昭和31年)には久松監督『神阪四郎の犯罪』で小悪党を演じ、豊田監督の『猫と庄造と二人のをんな』では猫を溺愛するダメ男役で主演、これらの演技で次第に単なるコメディアンから実力派俳優へと転身していった。さらに同年から『社長シリーズ』、1958年(昭和33年)から『駅前シリーズ』に主演し、両シリーズとも東宝を支えた大ヒットシリーズとなった。

1960年代以降は豊田監督の『珍品堂主人』『恍惚の人』等に主演、後者ではボケ老人を抜群の演技力でリアルに演じきった[2]。ほか、森崎東監督による『女シリーズ』ではストリッパー斡旋所の人情味ある親父を演じ、森谷司郎監督の『小説吉田学校』では吉田茂をそっくりに演じた。1980年代以降は舛田利雄監督『二百三高地』、森谷監督『海峡』、市川崑監督『四十七人の刺客』などの作品で重要な役どころで出演した。1997年(平成9年)公開のアニメ映画もののけ姫』では乙事主の声で声優を務めた。

映画出演の一方、舞台では1958年から芸術座の東宝現代劇に第1回公演の『暖簾』から数多くに主演[2]し、1959年(昭和34年)に淡島と自由劇団を旗揚げ[15]1961年(昭和36年)5月に明治座で『佐渡島他吉の生涯』を上演し、1962年(昭和37年)1月には森繁劇団を結成。東京宝塚劇場で自ら演出した『南の島に雪が降る』で旗揚げした[2]。また、ミュージカル屋根の上のバイオリン弾き』ではテヴィエ役を演じ、1967年(昭和42年)年に帝劇で初演以降、1986年(昭和61年)までに900回もの公演を行い、舞台の代表作とした。

テレビドラマでは草創期から活躍しており、1958年に放送された、テレビ対映画の人間模様を描いた芸術祭参加の『マンモスタワー』では特別出演。ほか『七人の孫』、竹脇無我と親子を演じた『だいこんの花』、『おやじのヒゲ』で活躍。1957年(昭和32年)からは出演者が加藤道子の二人だけという、NHKのラジオ番組『日曜名作座』で声色を変えて何役も演じ、再放送を含めて半世紀の間放送された。

1959年の第10回から1965年(昭和40年)の第16回まで、7年連続で歌手としてNHK紅白歌合戦に連続出場。このうち、第10回は森繁の歌のラジオ中継の音声が現存し、第14回と第16回は映像が現存する。1960年(昭和35年)に映画『地の涯に生きるもの』の撮影で知床に長期滞在した際に『知床旅情』を作詞・作曲し、それを自ら歌うシンガーソングライターとしての活動も行っていた。同曲は1970年(昭和45年)に加藤登紀子によってカバーされた。

ラジオやテレビでのトーク番組・バラエティ番組等では、その独特な話り口が「森繁節」として親しまれた。『徹子の部屋』第1回(1976年2月2日)放送分のゲストであり、放送中に突然黒柳徹子の胸を触るというハプニングシーンは、バラエティ番組で『徹子の部屋』第1回放送シーンが流れるたびに使われている。森繁は同番組に通算13回ゲスト出演している。

1982年(昭和57年)、佐々木孝丸の後任として日本俳優連合の理事長に就任。2007年(平成19年)に勇退後は永世名誉会長となった。1986年、早稲田大学の卒業式に記念講演の講師として招かれ、大学から卒業証書を受け正式に卒業を認められた。

晩年[編集]

1990年(平成2年)に妻・杏子(本名・満壽子)、1999年(平成11年)に長男・泉に先立たれる。長男が行っていた事業清算のため世田谷区船橋にあった大邸宅を売却し、等価交換の形で跡地に建設されたマンションのワンフロアに転居、家族及び身の回りの世話をする事務所関係者と住んでいた。

2000年(平成12年)に胆管結石のために緊急入院[6]2002年(平成14年)12月、静養先の沖縄県で心筋梗塞で倒れ[6]、一時危険な状態に陥ったが無事に回復し、映画『死に花』で復帰、これが最後の映画出演となった。2003年(平成15年)には90歳を迎えたことを機に、作家・演出家の久世光彦と『大遺言書』(語り森繁、文は久世)を週刊新潮で連載を開始。後に単行本4冊にまとめられた。当初はこれが最後の仕事と森繁は熱意を持って望んでいたが、諸般の事情から連載終盤は森繁の話が殆ど出て来なくなっていった。

2004年(平成16年)1月2日放送のテレビドラマ『向田邦子の恋文』が俳優として最後の演技となり、1980年代半ば以降慣例となっていた大物芸能関係者の葬式における弔辞も同年1月の坂本朝一元NHK会長のものが最期となった。

2006年(平成18年)3月に22歳年下の久世が急逝。同年3月6日、健康上の理由から周囲が止めたがそれを押し切って久世の通夜に参列。焼香後一旦は帰路に着くも再び会場へ引き返し焼香を行った。この通夜で「如何して僕より先に逝っちゃうんだよ…、長生きするって辛いのう…。」と嘆き哀しむ姿が森繁が公の場へ現れた最期の姿となった。

2007年(平成19年)2月23日、「最後の作品」と銘打った朗読DVD『霜夜狸(しもよだぬき)』が出されたが、これは1991年(平成3年)に舞台用に録音されながらもお蔵入りになった作品を元に新たに編集したものである。現代社会への憂いを込めた「久弥の独り言」も収録されている(元々は森繁自身が録音する予定であったが、声が弱っていることから親交の深い竹脇無我が代読。主題歌担当者とのツーショット写真は公開されている)。このDVD発売の際、森繁の近況が関係者から明かされた。それによれば天気のいい日は散歩や観劇に出掛け、食欲も旺盛でフォアグラステーキ等の肉料理を平らげ、ホットブランデーを愛飲するという元気な日々を送っているという。またこの際、森繁自身も「体は思うように動かないが心は現役である」というコメントを発表している。

2009年(平成21年)8月、同年7月に風邪を引きそのまま8月3日に至るまで入院中である事が発表された。発熱などの重い症状は7月中に回復したが、が出る等の症状が治まらない為に大事をとって退院せずに病院で経過を診る措置がとられた。その後、9月15日に自身が在住する東京都世田谷区内のイベント「第十一回世田谷フィルムフェスティバル」において開かれた『名優・森繁久彌展』へメッセージを寄せ、その中で入院の件にも「皆さんに多大なご心配をおかけしましたが、私自身はおだやかに秋をむかえております」と触れた。

同年11月10日午前8時15分、東京都内の病院で老衰のため死去[4]。96歳没。10日夜には多くの新聞社で号外が発行され、テレビ各局もニュース速報テロップを流し、ニュース番組ではほぼトップ扱いで森繁の訃報を報じた。更に翌11日付の各社朝刊では1面に訃報が掲載された。ちなみに、奇しくも3年後の同日に森光子が92歳で、5年後の同日に高倉健が83歳で没している。

葬儀は故人の「こじんまりとしてほしい」との意向で、11日に家族葬に近い密葬形式で送られた[16]。同日午後に記者会見で、所属事務所の守田洋三代表はお別れ会については「関係者に挨拶した後改めて考えたい」[16]と述べた。

没後[編集]

11月20日青山葬儀所で、葬儀・告別式とファンによる「お別れの会」が行われた。告別式には小泉純一郎首相を始め、小林桂樹、竹脇無我、加山雄三里見浩太朗伊東四朗ペギー葉山樹木希林梅宮辰夫西郷輝彦あおい輝彦黒沢年雄森公美子関口宏林家正蔵野際陽子、黒柳徹子、加藤登紀子、中村玉緒中村メイコ司葉子西田敏行和田アキ子ら多くの芸能・政財界関係者が参列した[17]。祭壇には今上天皇からの祭粢料(一般の香典に当たる物)と生前に贈られた文化勲章などが飾られた。法名は「慈願院釋浄海」(じがんいんしゃくじょうかい)。

12月8日、日本政府は大衆芸能の発展に尽くし、多くの人材を育てた生前の功績に対して、従三位に叙せられると同時に国民栄誉賞を授与する閣議決定が行われた[18]。国民栄誉賞の受賞は森光子以来18人目で、俳優での受賞は長谷川一夫渥美清、森光子に次いで4人目。表彰式は12月22日に執り行われた。

2010年(平成22年)2月6日、出身地の大阪府枚方市で市葬が行われ、地元(大阪11区)選出で内閣官房長官平野博文(当時)も参列した。

同年6月に次男・森繁建と長女・和久昭子による、対談共著『人生はピンとキリだけ知ればいい わが父、森繁久彌』(新潮社)が刊行された。

同年11月の一周忌に当たり、東京都世田谷区小田急電鉄千歳船橋駅から旧森繁私邸へ抜ける世田谷区道を『森繁通り』と命名することを決定し、11月13日に命名式典が世田谷区長・熊本哲之と森繁建(次男)を始めとする関係者列席の下に執り行われた[19]2014年(平成26年)11月22日、千歳船橋駅前に森繁が『屋根の上のバイオリン弾き』で演じたテヴィエ役姿の胸像「テヴィエ像」の除幕式が行われた[20]

人物[編集]

1975年(昭和50年)に『屋根の上のヴァイオリン弾き』の役作りの一環として(白い)口髭と顎髭を蓄え、以後それがトレードマークとなった。本人も気に入り、また一度剃ると蓄えるまで時間がかかるということで、オファーがあった際に髭があっても差し支えない役かを尋ねたという。ただし役の上で髭は邪魔ということであれば剃っている(映画『小説吉田学校』など)。

1977年(昭和52年)に、60歳から80歳までの年齢層を「熟年」と呼ぶことを提唱した原三郎(東京医科大学名誉教授)からパーティーでこの言葉について説明を受ける[21]。以後、森繁もこの意見に賛同[22]、1981年にテレビ朝日系で放映されたテレビドラマ『森繁久彌のおやじは熟年』では主役を務めた。このドラマの主人公は65歳の実業家という設定で、森繁本人と同じく「老年と目されることを嫌って"熟年"だとしきりにこだわる人物」とされていた[23]

趣味[編集]

射撃を趣味にしていた時期があった。所有していた散弾銃は、独創的な機構を持つイタリア製の銘銃「コスミ」(外部リンク)であったことが射撃界では知られている。また芸能人・文化人の射撃好きで結成している『芸能文化人ガンクラブ』会長を結成以来務めていた。但し晩年は健康上の理由もあり表舞台には出ず、会の運営は会長代行(2代目理事長)の高木ブー(ハワイアンミュージシャン)に委ねていたという。

ゴルフも若い頃にやっており、広島県東広島市賀茂カントリークラブの設立に携わり初代社長も務めていた。ちなみに賀茂カントリークラブには森繁のライフワークであったミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』の像が設置されている。

人間関係[編集]

駆け出しの放送作家だった向田邦子の才能を高く買い、自身のラジオ番組スタッフに抜擢し、本格的な放送作家となるきっかけを作った。その後『七人の孫』や『だいこんの花』シリーズなど多くの番組でタッグを組んだ。向田の墓石に刻まれた『花ひらき はな香る 花こぼれ なほ薫る』の詩は森繁の作である。

竹脇無我の父・竹脇昌作とはアナウンサー時代からの親友であった。無我は森繁と自殺した自分の父の姿とがだぶることから、彼を「オヤジ」と呼び慕っていた。

舞台、ドラマで多くの共演者から慕われ、その結束は森繁ファミリーと言われたほどで、竹脇無我、松山英太郎林与一西郷輝彦あおい輝彦らが薫陶を受けた[6]藤岡琢也小林桂樹を実弟のように大変可愛がっていた。

吉本興業の社長であった八田竹男は北野中学校時代からの同級生である。

評価[編集]

森繁の成功の影響でコメディアンの中からベテランになるにつれてシリアスな演技者となりたがる者が多発したため、作家の小林信彦は著書『日本の喜劇人』でそのような傾向の人々を「森繁病」と呼んだ。ただ小林は同書で森繁は元来シリアスな役者志望者であり、たまたまコメディアンとしての才能もあったため一時的にそのように注目されたのであってそのため彼の「転身」を他のコメディアンが単純に真似するのはおかしいとしている。

2000年にキネマ旬報が発表した「キネマ旬報20世紀の映画スター」で著名人選出の日本男優部門で第9位にランクインされている(同率9位に渥美清萬屋錦之介)。

受賞・受章歴[編集]

栄典・称号[編集]

受賞[編集]

役職[編集]

出演作品[編集]

映画[編集]

シリーズ作品

その他

声の出演[編集]

テレビドラマ[編集]

その他のテレビ番組[編集]

  • 華やかなる饗宴(1955年、NHK)
  • 徹子の部屋(NET)
    • 1976年2月2日放送(第1回ゲスト、ゲスト出演1回目)
    • 1977年1月4日放送(ゲスト出演2回目)
    • 1977年12月1日放送(ゲスト出演3回目)
    • 1980年5月15日放送(ゲスト出演4回目)
    • 1984年2月2日放送(ゲスト出演5回目)
    • 1986年2月3日放送(ゲスト出演6回目)
    • 1989年2月2日放送(ゲスト出演7回目)
    • 1993年1月28日放送(ゲスト出演8回目)
    • 1993年5月4日放送(ゲスト出演9回目)
    • 1997年4月29日放送
    • 2001年2月2日放送(最後のゲスト出演13回目)
    • 2009年11月12日放送(追悼特別番組)
    • 2010年2月1日放送(35周年特別番組)
  • 森繁対談・日曜日のお客様(1982年、毎日放送

CM[編集]

ラジオ番組[編集]

舞台[編集]

作詞・作曲[編集]

LPレコード[編集]

  • おらが唄さ(1963年、日本コロムビア
  • 森繁久彌 魅力のすべて(1969年、日本コロムビア)
  • しれとこ旅情(1971年、日本コロムビア)
  • 我がセンチメンタルの碑(発売年不明、日本フォノグラム

コンパクトディスク[編集]

NHK紅白歌合戦出場歴[編集]

年度/放送回 曲目 出演順 対戦相手 備考
1959年(昭和34年)/第10回 カチューシャ 23/25 越路吹雪(1)
1960年(昭和35年)/第11回 2 フラメンコ・ソーラン節 15/27 江利チエミ
1961年(昭和36年)/第12回 3 五木の子守唄 17/25 寿美花代
1962年(昭和37年)/第13回 4 しれとこ旅情 20/25 越路吹雪(2)
1963年(昭和38年)/第14回 5 フラメンコかっぽれ 08/25 楠トシエ
1964年(昭和39年)/第11回 6 戦友 21/25 越路吹雪(3)
1965年(昭和40年)/第12回 7 ゴンドラの唄 15/25 吉永小百合

(注意点)

  • 対戦相手の歌手名の( )内の数字は、その歌手との対戦回数、備考のトリ等の次にある( )はトリ等を務めた回数を表す。
  • 曲名の後の(○回目)は、紅白で披露された回数を表す。
  • 出演順は「(出演順) / (出場者数)」で表す

著書[編集]

  • 『こじき袋』読売新聞社 1957 のち中公文庫
  • 『森繁久弥の朝の訪問』日本放送出版協会 NHK新書 1957
  • 『アッパさん船長』中央公論社 1961 のち文庫
  • 『見て来た・こんな・ヨーロッパ』雪華社 1961 のち中公文庫
  • 『森繁自伝』中央公論社 1962 のち文庫
  • 『はじのうわぬり 森繁らくがき帖』今野書房 1964
  • 『友よ明日泣け 今晩は森繁です』編 サンケイ新聞出版局 1966
  • 『ブツクサ談義』未央書房 1967
  • 『猛烈社員の条件 社長さん森繁です』東京12チャンネル制作部編 新人物往来社 1969
  • 『一片の雲 森繁久彌随筆集』ちはら書房 1979
  • 『にんげん望遠鏡』朝日新聞社 1979
  • 『わたしの自由席』中公文庫 1979
  • 『さすらいの唄 私の履歴書』日本経済新聞社 1981
  • 『こぼれ松葉 森繁久弥の五十年』日本放送出版協会 1983
  • 『にんげん望艶鏡』朝日新聞社 1983
  • 『人師は遭い難し』新潮社 1984
  • 『ふと目の前に 自伝エッセイ』東京新聞出版局 1984 のち小池書院・道草文庫
  • 『あの日あの夜 森繁交友録』東京新聞出版局 1986 のち中公文庫
  • 『左見右見』扶桑社 1987
  • 『海よ友よ メイキッスIII号日本一周航海記』朝日新聞社 1992
  • 『隙間からスキマへ』日本放送出版協会 1992 のち日本図書センター「人間の記録」
  • 『森繁久弥の碧い海をもとめて "めいきっすIII世号"日本一周クルージング フォトエッセー』佐々木正和写真 東京新聞出版局 1992
  • 『夜光虫』新潮社 1993
  • 『帰れよや我が家へ』ネスコ 1994
  • 『青春の地はるか 五十年目の旧満州への旅』日本放送出版協会 1996
  • 『もう一度逢いたい』朝日新聞社 1997 のち文庫
  • 『品格と色気と哀愁と』朝日新聞社 1999 のち文庫
  • 『森繁久彌86才芸談義』倉本聰聞き手 小学館文庫 1999
  • 『大遺言書』語り 久世光彦文 新潮社 2003 のち文庫
  • 『今さらながら 大遺言書』語り 久世光彦 文 新潮社 2004
  • 『生きていりゃこそ』語り 久世光彦 文 新潮社 2005
  • 『さらば大遺言書』語り 久世光彦 文 新潮社 2006

共編著[編集]

揮毫など[編集]

  • NHK大河ドラマ / 秀吉(1996年、NHK) - 題字
  • 吟醸酒「神の座」 - 命名・題字(青森県・尾崎酒造)
  • 日本酒「泉正宗」 - 題字(兵庫県・泉酒造

脚注[編集]

  1. ^ 森繁久弥さんの枚方市葬は来年2月6日 - 日刊スポーツ、2014年12月16日閲覧
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 『日本映画俳優全集・男優篇』p.589
  3. ^ 森繁久彌”. Yahoo!検索(人物). 2014年10月4日閲覧。
  4. ^ a b “「俳優の森繁久弥さんが死去」”. 朝日新聞13版 (朝日新聞社). (2009年11月10日) 
  5. ^ 2009年11月11日『サンケイスポーツ』21面
  6. ^ a b c d e 国民的俳優の森繁久弥さん96歳老衰で逝く (2009年11月11日)
  7. ^ a b c d e f g h i j 新撰 芸能人物事典 明治~平成「森繁久彌」の項
  8. ^ 日本大百科全書「森繁久弥」の項
  9. ^ 20世紀日本人名事典「菅沼達吉」の項
  10. ^ a b c d 倉本聰著『森繁久彌86才芸談義』p.160
  11. ^ a b c 森繁久彌著『隙間からスキマへ』p.225-226
  12. ^ 森繁久彌語り・久世光彦文『大遺言書』
  13. ^ 『先人の教えに学ぶ 四国防災八十八話』国土交通省四国地方整備局、2008年、p.70
  14. ^ 阿佐田哲也著『無芸大食大睡眠』
  15. ^ 『銀幕の昭和 「スタア」がいた時代』p.222
  16. ^ a b 森繁久彌さん死去で次男が会見 「命、全うしたと思います」”. オリコン (2009年11月11日). 2011年1月10日閲覧。
  17. ^ 故森繁久弥氏の告別式、共同通信11月14日閲覧
  18. ^ 故森繁久彌氏に国民栄誉賞 産経新聞 2009年12月8日閲覧
  19. ^ 森繁通り(もりしげどうり) 設定年月日:2010年8月4日、 起点:世田谷区船橋一丁目10番先(小田急線)、 終点:世田谷区船橋三丁目5番先(旧・森繁久彌邸前)、 路線延長660m 故・森繁久彌さん:世田谷に「森繁通り」誕生! 一周忌迎え命名式 毎日新聞 2010年11月14日閲覧
  20. ^ 森繁久彌さんと高倉健さん交流秘話 - デイリースポーツ
  21. ^ 「『熟年』論争の運命は?」朝日新聞1981年4月5日
  22. ^ 1980年に放映されたテレビドラマ『機の音』出演の際、新聞の取材で「60歳から80歳は熟年ですよ」と答えている(朝日新聞1980年8月22日)。
  23. ^ 朝日新聞1981年3月19日(番組紹介記事)

外部リンク[編集]