岸部一徳

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きしべ いっとく
岸部 一徳
本名 岸部 修三(きしべ しゅうぞう)
別名 岸部 修三(きしべ おさみ)、岸部 おさみ
生年月日 1947年1月9日(65歳)
出生地 京都府京都市
国籍 日本の旗 日本
職業 俳優ミュージシャン
ジャンル テレビドラマ映画
活動期間 1967年 - 現在
活動内容 1967年:ザ・タイガースとしてデビュー
1971年:ザ・タイガース解散、PYG結成
1975年:俳優に転身
家族 弟:岸部四郎
息子:岸部大輔
主な作品
映画
死の棘
テレビドラマ
悪魔のようなあいつ
相棒』シリーズ

岸部 一徳(きしべ いっとく、本名:岸部 修三(きしべ しゅうぞう)、1947年1月9日 - )は、京都府京都市出身の俳優ミュージシャン。旧芸名:岸部 修三(きしべ おさみ)、岸部 おさみ。愛称:サリー一徳兄さんザ・タイガースPYG井上堯之バンドベーシスト京都市立伏見工業高等学校卒業。

目次

[編集] 来歴・人物

[編集] THE TIGERS時代

1967年2月5日ザ・タイガースベーシスト及びリーダー岸部修三(きしべ・おさみ)としてシングル『僕のマリー/こっちを向いて』でデビュー。愛称は、岸部が181cmの長身であったことから、『ロング・トール・サリー』(のっぽのサリー)に引っ掛けて『サリー』。B面の「こっちを向いて」は岸部によるボーカル曲である。ジャッキー吉川とブルーコメッツザ・スパイダースとは異なる若手GSとして脚光を浴び、ボーカルの沢田研二ドラムス瞳みのるの大人気も相まって、シングル4枚目の『君だけに愛を』で一気に頂点へ上り詰め、以降解散まで「GSの王者」として君臨する。

ザ・タイガース時代にはベーシストとしてだけでなく、GS界では唯一とも言える本格的なバリトンヴォイスで聴衆を魅了した。タイガース時代のみならず、後のPYG井上堯之バンド時代を通して、岸部のコーラスは沢田研二のボーカルを引き立てるために欠かせない要素であった。

当時のザ・タイガースのファン層は10代の少女が中心だったこともあり、アイドルとしての人気は華やかな沢田と瞳に集中する反面、大人びた雰囲気であった岸部には男性ファンが多く付いていた。また、リーダーとして沢田をはじめメンバーから厚く慕われていた。例えば、ベトナム戦争が激化していた当時に行われた雑誌インタビューに於いて「一番怖いものは何?」との問いに他のメンバーが「戦争」「武器」などと答えている中、岸部ひとりが「人の心」と答えるなど、当時から後の「俳優・岸部一徳」としてのキャラクターに通ずる落ち着いた大人の風格を漂わせていた。

岸部は、メンバーの中でもかなりの音楽通として知られ、当時アメリカに滞在していた弟の岸部四郎からの最新音楽情報もあり、タイガースのステージでのレパートリーは、主に岸部が選曲し、ギターの森本太郎がアレンジをするといった形で決められていった。

1969年にはメンバーの加橋かつみの脱退を受け、岸部四郎を帰国させ、新メンバーとして加入させる。そして1970年には、岸部四郎(通称シロー)と『サリー&シロー』名義でアルバム『サリー&シロー トラ70619』を発売した。沢田単独でのテレビ出演などが増えてきたこの頃には、「10円コンサート」などのロックフェスティバルに、沢田を除くタイガースのメンバーにムッシュかまやつミッキー吉野らを加えた布陣で『岸部おさみグループ』と名乗り出演することもあった。1971年1月24日、日本のミュージシャンとしては初の単独日本武道館公演となった「ザ・タイガース・ビューティフル・コンサート」をもってグループを解散した。

[編集] PYG時代

1971年2月1日に元ザ・タイガースの沢田研二、元ザ・テンプターズの萩原健一、大口広司、元ザ・スパイダースの大野克夫、井上堯之らとPYGを結成し、同年4月シングル『花・太陽・雨/やすらぎを求めて』でレコードデビューした。

岸部自身が志向していた音楽はディープ・パープルレッド・ツェッペリンブラック・サバスといったハードロックであり、ライブではそういったレパートリーも数多く演奏していたが、所属事務所である渡辺プロダクションのあくまでも商業ベースを貫く姿勢に、オリジナルにおいては思うような音楽が出来ず、また1972年中盤からは、既に俳優としての活動が多くなっていた萩原の主演するテレビドラマ『太陽にほえろ!』が人気番組となり、音楽活動への参加が難しくなったために、同年秋PYGは事実上解散した。沢田研二と萩原健一を除いたメンバーで「井上堯之バンド」として独立する。

[編集] 井上堯之バンド時代

その後、井上堯之バンドのベーシストとして、沢田のバッキングや萩原主演作品のサントラを中心に活動した。各種音楽誌の人気ベーシスト投票でトップ3の常連になるなど、人気ベーシストの地位を築く。1975年6月19日の鶴岡市民会館「沢田研二コンサート」をもって井上堯之バンドを脱退、ミュージシャンを廃業する(レコーディング作品としては、沢田のシングル「時の過ぎゆくままに」が最後)。これは、岸部自身が『音楽的に向上する努力をしなくなったため』と語っているように、1970年代に入りファンクフュージョンといった新しいジャンルの音楽の台頭を受け、沢田の楽曲や井上バンドの音楽性も時代に合わせた変化を遂げようとしていた時期において、元来のストレートなハードロックを志向する岸部がその流れに懐疑的であり、かつスラップ奏法などの新しい演奏テクニックの修得に消極的だったことが一因となっている。それにより、リーダーの井上との関係が複雑化し、「脱退」という形で公表されたが、事実上は解雇に近いものであった。

アマチュア時代から「兄貴分」として岸部を慕っていた沢田は、この決定に泣いて猛抗議したといわれている。ザ・タイガースの母体となったバンド「サリーと彼のプレイボーイズ」(沢田加入後に「ザ・ファニーズ」と改名)はもとより、ザ・タイガース解散後のPYGも、岸部の誘いを受けた沢田が『サリーがいてくれるなら』という理由で参加を決めており、岸部が傍らにいること自体が、沢田の大きな精神的支えとなっていた。

その反動から、岸部の脱退を境に井上バンドを単なる「バックバンド」として割り切るようになり、それまでのような公私にわたっての深いつながりはなくなり、沢田単体で音楽番組に出演して歌う頻度も圧倒的に増えていった。またミュージシャン廃業後の岸部のために、同年の結婚を機に住まなくなった中野に所有していたマンションを無条件で貸したり、俳優転向の根回しを積極的にサポートし、沢田が主演していたTBSドラマ「悪魔のようなあいつ」において、岸部は俳優としてのキャリアをスタートさせる。

岸部と沢田は、その後も現在に至るまで親密な関係を築いており、ザ・タイガース再結成や後述の「TEA FOR THREE」、また2011年9月よりスタートした沢田のコンサートツアー「沢田研二LIVE 2011-2012」[1]では再びベーシストとして沢田と共に活動している他、2007年1月の還暦祝いには、沢田から「赤いちゃんちゃんこ」ならぬ「赤いベースギター」を贈られた。

[編集] エピソード

  • 初期の『太陽にほえろ!』メインテーマ及び「傷だらけの天使」のメインテーマでベースを弾いている。
  • 日本を代表するベーシストとして有名な後藤次利にベースの手ほどきをしたのは、岸部である。
  • 日本公演のため来日していたレッド・ツェッペリンのジョン・ポール・ジョーンズが、テレビで観た岸部のプレイに感動し、しきりに会いたがっていたという逸話もある。「プレイヤー」誌(1981年)のインタビューにおいてジョーンズは、「初めて日本に行ったとき、『PYG』という日本のバンドをテレビで見た。そして、俺達の『I Gonna Leave You』をやっていたんだ。ボーカルは冴えない奴だったが、ベースの奴はとんでもないスゴ腕でね。俺よりもいいんじゃないかと思ったぐらいだ。会いたかったんだが、結局会えずじまいだった。後にテツ(山内テツ)に会った時に『あれはお前か』と聞いたんだが、テツではなかったらしいよ」と述べている。

[編集] 俳優転向から現在まで

1975年に、久世光彦プロデューサーの薦めで『悪魔のようなあいつ』に出演して、本格的に俳優に転身する。転身にあたり、悠木千帆安田道代が興していた芸能事務所に面接を経て所属する。1976年には、悠木の考案で「岸部おさみ」から実父である岸部徳之助の徳、そして一から再出発という意味合いで「岸部一徳」へと改名する。

1990年、映画『死の棘』にて、日本アカデミー賞最優秀主演男優賞受賞など数々の賞を受賞した。この作品のように、主演級でも優れた仕事は少なくないが、主に助演で無類の存在感を発揮しており、数々のドラマ作品やCMに出演して名脇役と呼ばれている。マスクが個性的なこともあり常に一瞬で岸部だと判るタイプの俳優であるにもかかわらず、徳の高い人格者から気弱で善良な小市民まで、また冷酷残忍な大悪人から卑劣で間抜けな小悪党まで、幅広い役柄をこなす。

俳優転向後も度々音楽活動を行っており、1981年から1983年のザ・タイガース再結成に参加したほか、1988年タイガース・メモリアル・クラブ・バンドに参加し、2年程在籍した。現在もそのベースの腕前は衰えておらず、1997年には沢田研二、森本太郎と共に、ロック・ユニットTEA FOR THREEを結成し(現在、活動休止中)、PYG時代~井上堯之バンド時代を髣髴とさせるようなハードなプレイをレコーディングしている。

2003年には、木村拓哉との共演がシリーズとなっていた富士通FMV」のCMの「バンド編」が制作され、木村とCharをギターに従えベースの腕前を披露した。

弟の四郎が借金で苦しんでいる時、マネージャーを介してまとまった金銭を四郎に貸した。四郎が、マネージャーを通して後で返すと伝えると「返済不要」と告げたという[2]

息子・岸部大輔が『パウンチホイール』のベーシストとして2004年10月にCDデビューをしている。2008年11月公開の映画『GSワンダーランド』では同一の場面での登場はないものの、親子共演を果たした。また、2010年10月4日放送の『世にも奇妙な物語』にて、堀北真希主演でザ・タイガースのサリー似の男性に恋をしている作品に、書店の店主役で出演している。

2011年9月には沢田研二のコンサート・ツアー「LIVE2011~2012」に森本太郎、瞳みのると共に参加[3]、33都市、全38公演すべて、全曲においてベーシストとして参加する。

また、中学校時代からの親友で、ザ・タイガースのドラマーであった瞳みのるへのメッセージ・ソングとして「Long Good-by」を作詞した。その詞に沢田が補作詞し、森本が作曲して沢田が歌っている。この曲がきっかけとなり、瞳との38年ぶりのツアーでの再会となった。

[編集] 主な出演

[編集] 映画

[編集] テレビドラマ

(*)のつく作品は、関西出身の人物で関西弁で演じている。

[編集] CM

[編集] ディスコグラフィ

ザ・タイガース時代の作品はザ・タイガース#ディスコグラフィを参照、PYG時代の作品はPYG#ディスコグラフィを参照。

[編集] 参加シングル

  • いいのかな(ザ・ワイルド・ワンズ、コーラスのみ参加)
  • 太陽にほえろ!メインテーマ(井上堯之バンド)
  • 許されない愛(沢田研二)
  • 危険なふたり(沢田研二)
  • あなただけでいい(沢田研二)
  • 魅せられた夜(沢田研二)
  • 恋は邪魔もの(沢田研二)
  • 白い部屋(沢田研二)
  • 時の過ぎゆくままに(沢田研二)
  • 兄貴のブギ(萩原健一&水谷豊)
  • 君を真実に愛せなくては他の何も続けられない(Tea for three)

など

[編集] 参加アルバム

  • サリー&シロー トラ70619 (サリー&シロー)
  • 太陽にほえろ!サウンドトラック(井上堯之バンド)
  • 傷だらけの天使サウンドトラック(井上堯之バンド)
  • JULIE Ⅲ '71 日生リサイタル(沢田研二)
  • JULIE IV 今僕は倖せです(沢田研二)
  • JEWEL JULIE 追憶(沢田研二)
  • 比叡山フリー・コンサート(沢田研二)
  • タイガース・メモリアル・クラブ・バンド(タイガース・メモリアル・クラブ・バンド)
  • タイガース・メモリアル・クラブ・バンド Ⅱ 「ぼくと、ぼくらの夏」(タイガース・メモリアル・クラブ・バンド)

など

[編集] ザ・タイガース時代の岸部によるボーカル曲一覧

[編集] オリジナル曲

  • こっちを向いて
  • 雨のレクイエム
  • 730日目の朝(加橋かつみとの掛け合いボーカル)
  • ハーフ&ハーフ
  • 世界はまわる
  • 脱走列車
  • 自由の哲学(サリー&シロー)
  • マザー・ネイチャー(サリー&シロー)
  • どうにかなるさ(サリー&シロー)
  • しま模様の空(サリー&シロー)
  • 羊大学校歌(サリー&シロー)
  • 愛についての一考査(サリー&シロー)
  • めちゃめちゃ陽気なバンドのテーマ(再結成タイガース・1982年

[編集] カバー曲

  • イエスタディ(ザ・ビートルズ)
  • アズ・ティアーズ・ゴー・バイ(ザ・ローリング・ストーンズ)
  • テル・ミー(ザ・ローリング・ストーンズ)
  • ザ・ラスト・タイム (ザ・ローリング・ストーンズ)
  • アイム・オールライト(ザ・ローリング・ストーンズ)
  • ドック・オブ・ザ・ベイ(オーティス・レディング)

[編集] 主な使用楽器

カール・ヘフナー500-1(Karl Höfner 500-1)(1965年製)
ザ・ビートルズポール・マッカートニーの使用で有名なベースギター。そのボディーシェイプから通称「バイオリン・ベース」とも呼ばれる。アマチュア時代、ザ・ファニーズとして大阪・道頓堀筋のジャズ喫茶「ナンバ一番」で活動していた1966年3月26日、大阪にて¥61000で購入(「ザ・タイガース日本の青春」森本太郎の日記より)。以後、ザ・タイガース時代を通して岸部のメインベースとして使用される。ザ・タイガース解散後、PYG井上堯之バンド時代は表舞台に出ることはなかった。1981年の「さよなら日劇ウエスタン・カーニバル」でのザ・タイガース再結成で久しぶりに使用しようとしたが、あまりの保管の悪さに加えメンテナンスの無さに既に使用に耐えうるものにはなっておらず、この時新しいカール・ヘフナー500-1を購入している。
1982年のザ・タイガース同窓会コンサートの模様を収録したビデオ「ALIVE」のインタビューシーンでは、タイガース時代の激しいステージアクションで腰骨が当たった裏面の塗装が剥げ落ち、ピックアップのエスカッションをガムテープでかろうじて固定してある状態の1本目を抱え、「もう音は出ないんですけど・・・」と語っていた。
以後、ザ・タイガースの再結成イベント等ではこの2本目のカール・ヘフナー・500-1を使用している。
また、経緯は不明であるが、2003年木村拓哉Charと共演した富士通のCM「FMV バンド編」で使用したカール・ヘフナー・500-1は岸部本人のものではなく、ザ・タイガースのギタリストで親友の森本太郎が率いるバンド「森本太郎とスーパースター」のベーシスト・海老沢雄一のものである。
フェンダー・ジャズベース(1本目)
ザ・タイガース時代の1967年銀座山野楽器にて購入。色はサンバースト。ローズウッド指板で、リアピックアップ部分に大型のブリッジカバーが取り付けられている。ライヴやTV出演時に時折使用されたほか、ザ・タイガース主演映画「ザ・タイガース 華やかなる招待」でも使用している。
またタイガース解散後もサブとしてスタンバイされており、昭和47年のNHK紅白歌合戦において、沢田研二の「許されない愛」のバックを演奏した際には、この1本目が使用された。
フェンダー・ジャズベース(2本目)
ザ・タイガース時代の1968年に旅行先のアメリカにて購入。色はサンバースト。メイプル指板で、ブロック(四角い)ポジションマークのモデルである。ザ・タイガース最後期のライヴやTV出演時に時折使用され、ザ・タイガース解散後はPYG、井上堯之バンド時代を通してメインベースとして使用された。また、1982年のザ・タイガース同窓会コンサートツアーでも使用された。

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

  1. ^ 沢田研二 LIVE2011~2012 沢田研二オフィシャルサイト ライブツアー告知参照
  2. ^ 「文藝春秋」2009年8月号で、四郎本人が語っている。
  3. ^ 沢田研二 LIVE2011~2012 沢田研二オフィシャルサイト ライブツアー告知参照

[編集] 外部リンク

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