小沢昭一

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おざわ しょういち
小沢 昭一
小沢 昭一
本名 小澤 昭一
生年月日 1929年4月6日
没年月日 2012年12月10日(満83歳没)
出生地 日本の旗 日本東京府豊多摩郡和田堀町大字和泉
(現・東京都杉並区和泉)
職業 俳優
俳人
エッセイスト
ジャンル 映画
テレビドラマ
舞台
ラジオ番組
活動期間 1954年 - 2012年

小沢 昭一(おざわ しょういち、本名:小澤 昭一(読み同じ)、1929年(昭和4年)4月6日 - 2012年(平成24年)12月10日)は日本の俳優タレント俳人、エッセイスト、芸能研究者、元放送大学客員教授。日本新劇俳優協会会長。俳号は小沢 変哲。劇団「しゃぼん玉座」主宰。見世物学会顧問。

来歴・人物[編集]

東京府豊多摩郡和田堀町大字和泉(現在の京王線代田橋付近)生まれ[1]。「下谷根岸生まれ」という記述は誤り[1]。父は現在の長野県長野市の出身で、新潟県高田市(現・上越市)で写真屋修行時代に結婚し東京に出てきた[1]。昭一2歳の頃、父親が写真館を始めたため日暮里へ引っ越し[1]、4歳のときに蒲田に移り住む。当時の蒲田は、松竹映画の撮影所があるモダンな街で、また寄席もあり、その猥雑な雰囲気が小沢の後の活動に影響を与えた。

戦争の匂いが身近に迫る中、旧制麻布中学に入学[2]し、同級に大西信行加藤武フランキー堺仲谷昇なだいなだ等多くの友人を得る。軍事教練や、学徒動員先でも天狗連として彼らと、しばしば落語を披露し合っていた。ネタを増やしに通学の帰り、大西、加藤らと、学生服姿で人形町末廣、神楽坂演芸場、銀座金春亭など禁演落語の時節真っ只中の寄席に入り浸り、そこで出会った演芸評論家・作家の正岡容の知遇を得て弟子になる。桂米朝、大西、加藤らとは正岡門下の兄弟弟子の関係である。さらに大西、加藤らと麻布中で演劇部を立ち上げた。その後、海軍兵学校第78期生として1945年(昭和20年)4月に入校(第703分隊)するが、終戦のために退校。そこで見た一面の焼け野原・終戦体験が昭一青年に大きな影響を与えた。

麻布に復学後、早稲田大学文学部仏文科卒。早大在学中にはやはり、大西、加藤らと共に、日本で初めての学校での落語研究会を創設する(名称は「寄席文化研究会」としたかったが、大学に認めてもらえず「庶民文化研究会」とした[3]。顧問は暉峻康隆(当時)助教授)。

1949年(昭和24年)、大学在学中に俳優座付属俳優養成所の二期生となり、千田是也に師事する。卒業後、俳優座公演で初舞台を踏む。1960年(昭和35年)には演出家の早野寿郎と「劇団俳優小劇場」を結成。1966年(昭和41年)に新劇寄席『とら』で芸術祭奨励賞を受賞した(俳優小劇場はのち、1971年(昭和46年)に解散)。

以降、舞台ラジオ番組映画テレビ番組などで芸能活動を行う。1966年(昭和41年)のNHKラジオドラマ『ゆびぶえ』など優れた作品を残している。

映画俳優としては、早稲田の同窓である今村昌平の紹介で、1954年(昭和29年)に映画デビュー。今村が、日活に移籍したのをきっかけに自身も日活と専属契約をした。ここで、小沢の心酔することになる川島雄三と出会う。

川島の『愛のお荷物』、『洲崎パラダイス赤信号』、そして『幕末太陽傳』で、脇役ながらその存在感を示した。その後、今村の『エロ事師たちより 人類学入門』で主役を務め、1966年(昭和41年)の「キネマ旬報」主演俳優賞、「毎日映画コンクール」男優主演賞など多数の賞を獲得した。小沢は川島に傾倒しており、日本経済新聞に掲載された『焼け跡派のこころ』(2004年(平成16年)連載)では「川島監督に演技を開眼してもらった」と述べている。なお、プログラムピクチャーにも多数出演しているが、怪しい訛り言葉を話す中国人役などが多かった。個性派のバイプレイヤーとして、200本以上の映画に出演している。

1973年(昭和48年)には、TBSラジオ小沢昭一の小沢昭一的こころが放送開始される。

また、1969年(昭和44年)、不惑の年に、それまでの新劇を基点とした活動に限界を感じ、またもともと、幼少期より落語など演芸・話芸が好きであったこともあり、「芸能の原点」を求めて日本の伝統的な芸能に憧れを抱き、著書『私は河原乞食・考』を刊行。またこの年から、早稲田大学演劇科の大学院に特別入学して、郡司正勝教授のもとに5年間通い、芸能史の研究を行った。

その流れで、放浪芸の収集、発掘に深い関心を寄せ、記録、保存、著述、そして実践を行うようになる。1971年(昭和46年)には全国を廻って収集した音源を元に制作したレコード『日本の放浪芸』LP7枚組を発売し、1971年度の第13回日本レコード大賞企画賞を受賞。続編の『又・日本の放浪芸』は、1974年度の芸術選奨新人賞を受賞。以降も、次々と続編を制作する。また三河万歳の才蔵役として門付に出るなど、実践を行う(『日本の放浪芸』に収録)。

その「芸能研究の実践活動」として、1975年(昭和50年)、小沢が主宰し加藤武山口崇山谷初男らと劇団「芸能座」を旗揚げする(旗揚げは永六輔作『清水次郎長伝・伝』で全国を巡業する)。1980年(昭和55年)までその活動は続いた。付属として「あたらしい芸能研究室」(出版社)をつくり、研究誌「季刊藝能東西」を創刊。「藝能東西」以外にも、芸能関係の書籍を多数刊行し、2001年(平成13年)まで出版社として活動した(現在は「しゃぼん玉座」の付属機関として小沢関係のCD等を企画)。また小沢自身も、時代と共に消え行く伝統芸能やストリップなどの猥雑な諸芸能を取材・研究した本を刊行し続ける。

1982年(昭和57年)には「俳優が小沢一人」の劇団「しゃぼん玉座」を創設し、晩年まで活動を行った。「引退興行」と称して『唐来参和』(井上ひさし原作)の一人芝居を各地で、1982年(昭和57年)から18年間続け、公演660回を数えた。

他に野坂昭如永六輔と「中年御三家」を結成し、1974年(昭和49年)の武道館でのコンサートはビートルズ以来と言われるほど盛況であった(2003年(平成15年)に「帰ってきた中年御三家」コンサートをNHKホールで行ったが、野坂は病気のため不参加)。 また晩年期(いわゆる「二代目小沢昭一」の時代)には「老謡」と称し、幼・少・青年期に親しんだ歌を多数歌うようになる。

小沢はまた、俳人でもあり、「小沢変哲」という俳号を持っている。1969年(昭和44年)に入船亭扇橋を宗匠にして、永六輔、江國滋酔郎らと共に「やなぎ句会」を発足。句集など俳句関連の出版物もある[4]

父が修業した新潟の写真館の建物が収蔵されていることから、博物館明治村村長も務め、また日本新劇俳優協会会長を務めた。

1994年(平成6年)に紫綬褒章、1999年(平成11年)に坪内逍遥大賞2001年(平成13年)に勲四等旭日小綬章及び徳川夢声市民賞、2003年(平成15年)に東京都功労者。2004年(平成16年)に早稲田大学芸術功労者。2005年(平成17年)に朝日賞。元放送大学客員教授。2008年(平成20年)したまちコメディ映画祭in台東において、『第1回コメディ栄誉賞』を受賞。

2005年(平成17年)、新宿末廣亭6月下席夜の部にて、主任の柳家小三治の依頼により、子どもの時分から憧れだった寄席の舞台に芸人(演目は「随談」)として出演した。そのときの様子は書籍[5]になっている。

1998年(平成10年)に前立腺がんが見つかったが長らく伏せており、仕事の間を縫って定期的に治療を行っていたことを2011年(平成23年)2月10日発売の「文藝春秋」に寄せた随筆で初めて公にしている[6]。2010年にがんは頸椎へ転移[7]2012年(平成24年)夏頃から体調を崩し、同年9月13日に入院。これに伴い、9月24日以降の『小沢昭一の小沢昭一的こころ』は過去の放送回の中より傑作選を放送していた。10月22日に退院した後も自宅で療養を続けていた。『小沢昭一の小沢昭一的こころ』11月16日放送回では、自宅で録音したというメッセージを寄せ、復帰に意欲を見せていたが、これが生涯最後の仕事となった。

2012年(平成24年)12月10日、前立腺がんのため東京都内の自宅で死去[8][9]。83歳没。12月14日に千日谷会堂で行われた本葬では生島ヒロシ、永六輔、乙武洋匡[10]、加藤武、桂米團治神津善行黒柳徹子篠田正浩春風亭小朝露木茂長峰由紀中村メイコ、野坂昭如、林家正蔵林家三平吉行和子ら850人が参列した。戒名は洽昭院澹然一哲居士。世の中に豊富な見識をユーモアと優しさを持って伝えた活眼の士という意味が込められている[11]。尚、式場となった千日谷会堂は、生前、死を覚悟した小沢がたまたま車で通りかかった際に「ここだな…」とつぶやき、心に決めた場所だったという[12]

九条の会」傘下の「マスコミ九条の会」呼びかけ人[13]、「世田谷・九条の会」呼びかけ人を務めていた[14]

出演映画[編集]

太字の題名はキネマ旬報ベストテンにランクインした作品

出演していた番組[編集]

  • 小沢昭一の小沢昭一的こころTBSラジオ、1973年1月8日-2012年12月14日)
    • 2012年(平成24年)9月24日放送分以降、テーマは「新宿今昔について考える」のはずだったが体調不良のため未収録となり小沢本人の収録は通算10355回で打ち切られた。
  • パパ行ってらっしゃい(ラジオ東京=TBSラジオ)
  • 趣味とあなたと(NHK教育テレビジョン)趣味の達人に話を訊くという番組。

著作等[編集]

詳細な一覧は「小沢昭一の著作等一覧」参照。

主な著作[編集]

  • 季刊藝能東西(小沢昭一編集、1975年 - 1977年)
  • 私は河原乞食・考(1969年)
  • 陰学探険(1972年、永六輔と共著)
  • 私のための芸能野史(1973年)
  • 珍奇絶倫 小沢大写真館(1974年)
  • 日本の放浪芸(1974年)
  • 小沢昭一的こころ(1974年 - ) - シリーズ化
  • 雑談にっぽん色里誌(1978年)
  • ドキュメント綾さん(1978年)
  • 芸双書(1981年 - 1982年) - 南博ほかと共著
  • 美人諸国ばなし(1986年)
  • ものがたり芸能と社会(1998年) - 1989年の放送大学講義が基。新潮学芸賞を受賞。
  • 友あり駄句あり三十年―恥多き男づきあい春重ね(1999年) - 東京やなぎ句会、編集

歌謡[編集]

  • 明日の心だ
『小沢昭一の小沢昭一的こころ』のテーマ音楽に歌詞をつけたもの。
ザ・ベストテン』にゲスト出演したときに熱唱。もともと戦後40年の節目で、という出演だったが、折りしも日航ジャンボ機墜落事故直後で、放送時点ではまだ安否が定かではなかった坂本九について触れながらの歌唱だったこともあり、出演者の多くが感極まって涙目になっていた。殊に坂本とは公私ともに仲の良かった司会の黒柳徹子は、号泣しそうになるのを堪えつつその後の番組を進行した。なお、この曲は小沢の葬儀・告別式の出棺の際にも流された[15]
小沢昭一全集~唸る、語る、歌う、小沢昭一的こころ』『唄う老謡? へッへのへ 小沢だァ(小沢昭一的こころBOX)』『小沢昭一的こころの歌(オリジナル編)』 - いずれもコロムビアミュージックエンタテインメント - に収録。国名のトルコを思わせる演出がなされているが、実際は言うまでもなくトルコ風呂の暗喩である。
  • 父チャン音頭
『小沢昭一的こころの歌(オリジナル編)』に収録。近年はラジオ番組『伊集院光 深夜の馬鹿力』のEDテーマで使用され有名に。「前立腺肥大症~」の歌詞が特徴的。
  • 唱う小沢昭一的こころ
『小沢昭一の小沢昭一的こころ』20周年記念放送の3週間・15回分をそのままCD化したもの。「シロクロ歌合戦」「新春かくさず芸大会」「正月気分は反戦気分」の3部からなり、小沢が往年の流行歌、都々逸軍歌などをアカペラで歌いまくる。

ほか、多数

放浪芸関連[編集]

  • ドキュメント〜日本の放浪芸 - LPレコード7枚組。『日本の放浪芸』としてCD化されている。
  • 又「日本の放浪芸」 - LPレコード5枚組。CD化されている。
  • また又「日本の放浪芸」 - LPレコード6枚組。CD化されている。
  • まいど「日本の放浪芸」 - LPレコード4枚組。CD化されている。
  • 小沢昭一の新・日本の放浪芸(1984年) - ビデオ。『小沢昭一の「新日本の放浪芸」〜訪ねて韓国・インドまで〜』としてDVD化されている。
  • 日本の放浪芸 - 番町書房(1974年)
  • 放浪芸雑録(1996年2月) - 白水社
  • 大系 日本歴史と芸能―音と映像と文字による(1990年 - 1991年) - ビデオブック全12巻、網野善彦、小沢昭一、宮田登大隅和雄服部幸雄山路興造監修、平凡社

研究本等[編集]

  • 小沢昭一の世界(1983年9月) - 白水社
  • 小沢昭一---芸能者的こころ (文藝別冊)(2010年6月) - 河出書房新社
  • NHK映像ファイル あの人に会いたい「小沢昭一(俳優)」 - NHK

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 『わた史発掘 戦争を知っている子供たち』 文藝春秋、1987年(昭和62年)、16-52、年表346-357頁
  2. ^ 麻布中学の門をたたく前は、府立一中受験で失敗しているが、口頭試問の控え室で水晶の標本を面白半分で頭にのせて割ってしまったためだと自嘲気味に述べている。 『麻布学園の百年』(麻布学園百年史編纂委員会、1995年(平成7年)10月28日) 二巻 文集 P338 - P339
  3. ^ OB・OGインタビュー / 俳優 小沢昭一さん”. 早稲田ウィークリー (1997年4月1日). 2014年8月1日閲覧。
  4. ^ 「変哲忌 鯵のひらきを 供えよかし」句会では不評句。出典:『昭和の肖像<芸>』。初出は『ふぁいんピープル』1986(4)~1987(3)
  5. ^ 「小沢昭一的新宿末廣亭十夜」
  6. ^ “小沢昭一がんを告白、10数年前に告知”. Sponichi Annex. (2011年2月8日). オリジナル2011年2月11日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110211180517/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2011/02/08/kiji/K20110208000205500.html 2014年8月1日閲覧。 
  7. ^ “個性派・小沢昭一さん死去…83歳”. デイリースポーツONLINE. (2011年12月11日). オリジナル2012年12月12日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20121212025521/http://daily.co.jp/gossip/2012/12/11/1p_0005590407.shtml 2014年8月1日閲覧。 
  8. ^ “訃報:小沢昭一さん死去83歳…映画、ラジオ、幅広く活動”. 毎日jp. (2012年12月10日). オリジナル2012年12月13日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20121213035308/http://mainichi.jp/select/news/20121210k0000e040104000c.html 2014年8月1日閲覧。 
  9. ^ “俳優の小沢昭一さん死去…ラジオで長寿番組”. YOMIURI ONLINE. (2012年12月10日). オリジナル2012年12月13日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20121213102958/http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20121210-OYT1T00341.htm?from=top 2014年8月1日閲覧。 
  10. ^ 小沢の長男・一郎は、講談社で長年編集者として多くの書籍に携わった。代表的な作品は乙武のベストセラー「五体不満足」である。現在は講談社児童局・第一出版部部長。小沢一郎さん(編集者ね)と飲んで”. イシブログケンゴ (2013年2月23日). 2014年8月18日閲覧。
  11. ^ “黒柳徹子「寂しい…」小沢昭一さん通夜”. nikkansports.com. (2012年12月15日). オリジナル2014年8月5日時点によるアーカイブ。. https://archive.today/dfTgU 2014年8月5日閲覧。 
  12. ^ “「小沢昭一的」通夜 式場は生前から決めていた「ここだな…」”. Sponichi Annex. (2012年12月15日). オリジナル2012年12月19日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20121219000446/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2012/12/15/kiji/K20121215004779350.html 2014年7月20日閲覧。 
  13. ^ マスコミ九条の会(よびかけ人はだれですか)
  14. ^ 「世田谷・9条の会」申し合わせ
  15. ^ “小沢昭一さん追悼 「ハーモニカブルース」で雨中の出棺”. zakzak. (2012年12月17日). オリジナル2014年8月1日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140801095825/http://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20121217/enn1212171538010-n1.htm 2014年8月1日閲覧。 

外部リンク[編集]