伊藤若冲
伊藤 若冲(いとう じゃくちゅう、 正徳6年2月8日(1716年3月1日) - 寛政12年9月10日(1800年10月27日))は、近世日本の画家の一人。江戸時代中期の京にて活躍した絵師。名は汝鈞(じょきん)、字は景和(けいわ)。初めは春教(しゅんきょう)と号したという記事がある[2]が、その使用例は見出されていない。斗米庵(とべいあん)、米斗翁(べいとおう)とも号す。
写実と想像を巧みに融合させた「奇想の画家」として曾我蕭白、長沢芦雪と並び称せられる。
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生涯 [編集]
生い立ち [編集]
正徳6年(1716年)、京・錦小路にあった青物問屋「枡屋」(家名と併せて通称「枡源(ますげん)」)の長男として生を受ける。問屋の仕事は小売ではなく、生産者や仲買・小売の商人に場所を提供して販売させ、彼らの関係を調整しつつ売場の使用料を徴収する流通業者である。桝屋は多数の商人を管轄していたらしく、商人たちから場所代を取れば十分な利益を上げることが出来たという[3]。23歳のとき、父・源左衛門の死去に伴い、4代目枡屋(伊藤)源左衛門を襲名する。「若冲」の号は、禅の師であった相国寺の禅僧・大典顕常から与えられたと推定される居士号[4]であり、『老子』45章の「大盈若沖(冲は沖の俗字)」から採られた。大典の書き遺した記録「藤景和画記」(『小雲棲稿』巻八)によると、若冲という人物は絵を描くこと以外、世間の雑事には全く興味を示さなかったという。商売には熱心でなく、芸事もせず、酒も嗜まず、生涯、妻も娶らなかった。商人時代、若冲は家業を放棄して2年間丹波の山奥に隠棲してしまい、その間、山師が枡源の資産を狙って暗躍し、青物売り3千人が迷惑したという逸話が残る[5]。
隠居、絵師として自立 [編集]
齢40となった宝暦5年(1755年)には、家督を3歳下の弟・白歳(宋巌)に譲り、名も「茂右衛門」と改め、はやばやと隠居する(当時、40歳は「初老」であった)。宝暦8年(1758年)頃から「動植綵絵」を描き始め、翌年10月、鹿苑寺大書院障壁画を制作、明和元年(1764年)には金刀比羅宮奥書院襖絵を描く。明和2年(1765年)、枡屋の跡取りにしようと考えていた末弟・宗寂が死去した年、「動植綵絵」(全30幅のうちの)24幅と「釈迦三尊図」3幅を相国寺に寄進する。このとき若冲は死後のことを考えて、屋敷一箇所を高倉四条上ル問屋町に譲渡し、その代わり、問屋町が若冲の命日に供養料として青銅3貫文を相国寺に納めるよう契約した。
町年寄若冲の活躍 [編集]
隠居後の若冲は作画三昧の日々を送っていたと見るのが長年の定説であった。ところが、隠居後も町政に関わりを持ち、明和8年(1771年)には枡屋があった中魚町の隣にある帯屋町の町年寄を勤め、錦高倉市場の危機に際して市場再開に奔走していた事が、平成20年(2008年)美術史家にも認識されるようになった[6]。
事の発端は明和8年(1771年)12月、京都東町奉行所から帯屋町と貝屋町に奉行所へ出頭するよう通達が来た。奉行所に赴く(若冲は同町の者に代役させている)と、奉行所から市場の営業を認められた時期や、「棒銭」の使い道、百姓たちの商売許可の有無、などを返答するよう命じられる。早速書類を作成し提出したが、翌年正月15日に帯屋町・貝屋町・中魚屋町・西魚屋町の営業停止の裁定が下される。若冲は奉行所と交渉を続けるなか、商売敵であった五条通の青物問屋が錦市場を閉鎖に追い込もうと謀っていることを知る。そんな折、五条問屋町の人物から帯屋町だけは助けてやるから錦市場は諦めろと、持ちかけられる。明らかな切り崩し工作だが、若冲はこれを拒否する。その後2月に、冥加金を年16枚上納することを条件に一旦市場は再開されるものの、五条問屋町が冥加金銀30枚を上納する代わりに錦高倉市場を差し止めて欲しいと請願したことを受けて、7月に再び営業停止になってしまう。
若冲は、「市場を止められたままでは、町年寄として末代まで汚名を残すことになり、また数千人の人々が難儀する」と、錦市場存続のために奔走する。若冲は中井清太郎なる人物に知恵を仰ぐと、彼の打開策は市場に関わる農民たちに市場が営業停止になると年貢が納められず、生活も苦しくなると御上に訴えさせる、というものだった。若冲はその助言通りに、取引先の農民に掛け合って市場存続の嘆願運動を起こさせた。しかし事態は好転せず、同8月若冲は町年寄を辞任する。これは町全体に累が及ばないように「ヒラ」の町人になって活動するためで、いざという時は農民に天領の住人が含まれているのを口実に幕府評定所への出願も覚悟しての決断だった。その後も奉行所等の役所と交渉を重ね、途中四町の中でも、若冲の帯屋町と弟が町年寄を勤める中魚屋町のニ町と、貝屋町・西魚屋町で、市場再開への対応に微妙な違いがあり、内外とも調整に難儀する一幕もあった。最終的に3年後の安永3年(1774年)8月29日、年に銀35枚の冥加金を納める条件でついに市場は公認された[7]。こうした事情のためか、この時期の作品は皆無に等しい。
晩年 [編集]
若冲の墓は2つ、上京と伏見にある。一箇所は相国寺の生前墓の寿蔵(右の画像)。もう一箇所は伏見深草の石峯寺である。若冲は85歳の長寿を全うするまでに多くの名作を残したが、晩年、石峯寺の五百羅漢石像(通称:若冲五百羅漢。cf.)や天井画などの制作に力を注ぎ、没後、同寺に葬られた。のちに枡源7代目の清房が、若冲の遺言に従い、墓の横に筆形の石碑を立て、貫名海屋が碑文を書いている。伊藤家は幕末の頃に没落し、慶応3年(1867年)、家屋敷を売り渡して大阪へ去った。
作風 [編集]
『続諸家人物志』(青柳文蔵)には、若冲が狩野派の画家・大岡春卜に師事したとの記述があり、大典による若冲の墓碑銘にも狩野派に学んだとある。一方で木村蒹葭堂は、若冲は、鶴沢探山の門人で生写(しょううつし)を得意とした青木言明の門弟だったと記す(『諸国庶物志』)が、それを裏付ける証拠は見つかっていない。現存作品の作風から狩野派の影響を探すのは困難であるが、一部の図様について、狩野派の絵画や絵本との類似点が指摘されている[8]。
前記の墓碑銘によると、若冲は狩野派の画法に通じた後、その画法を捨て、宋元画[9](特に濃彩の花鳥画)に学び、模写に励んだとしている。さらに、模写に飽いた若冲はその画法をも捨て、実物写生に移行したと伝える。実物写生への移行は、当時の本草学の流行にみられる実証主義的気運の高まりの影響も受けていると言われる。また、大典が読書を通じて宋代の画家の写生の実践を知り、それを若冲に伝えたとも言われる。ほかにも、美術史家の研究により、明代や清代の民間画工の影響、特に南蘋派の画僧・鶴亭との類似が指摘されている。
山水画・人物画の作品は少ないが、若冲が尊敬していた売茶翁の肖像画だけは何度も描いている。濃彩の花鳥画、特に鶏の絵を得意とした。美しい色彩と綿密な描写を特徴とするが、写生画とは言い難い、若冲独特の感覚で捉えられた色彩・形態が「写生された物」を通して展開されている。
代表作の「動植綵絵」30幅は、多種多様の動植物がさまざまな色彩と形態のアラベスクを織り成す、華麗な作品である。綿密な写生に基づきながら、その画面にはどこか近代のシュルレアリスムにも通じる幻想的な雰囲気が漂う。また、当時の最高品質の画絹や絵具を惜しみなく使用したため、200年以上たった現在でも保存状態が良く、褪色も少ない。「動植綵絵」は、若冲が相国寺に寄進したものであるが、のち皇室御物となり、現在は宮内庁が管理している。
「動植綵絵」と同時期に、若冲はそれとは対照的な木版画「乗興舟」『玄圃瑤華』『素絢帖』なども制作している。拓本を取る手法に似ていることから「拓版画」と呼ばれる。通常の木版画と逆に、下絵を裏返しせずそのまま版木に当て、地の部分ではなく描線を彫り、掘り終えた版面に料紙を乗せ表から墨を付ける結果、彫った図様が紙に白く残り、地は墨が載った深い黒の陰画のような画面が出来上がる。また、これに更に着色を施した「著色花鳥版画」(平木浮世絵財団蔵)も6図伝わっている。
再評価 [編集]
生前の若冲は、『平安人物志』の上位に掲載される[10]ほどの人気と知名度を持っていたが、明治以降一般には忘れられがちな時期もあった。しかし、大正15年(昭和元年、1926年)、秋山光夫によって本格的な研究が着手され、昭和45年(1970年)に辻惟雄の『奇想の系譜』が出版されて以来注目を浴びるようになった。特に1990年代後半以降その超絶した技巧や奇抜な構成などが再評価され、飛躍的にその知名度と人気を高めている。
作品群 [編集]
- 日出鳳凰図[にっしゅつ ほうおうず]:絹本着色。日出の旭日を背に飛翔する鳳凰。米国、ボストン美術館蔵(公式サイトに画像あり[1])。
- 隠元豆 玉蜀黍図[いんげんまめ とうもろこしず]:紙本墨画、2幅。和歌山県、草堂寺蔵。
- 糸瓜群虫図[へちまぐんちゅうず]:絹本着色、1幅。実る糸瓜に飛蝗や蝸牛など様々な虫が戯れる。本格的に絵筆を取って間も無い頃の作。文人大名として知られ、自らも書画をよくした伊勢長島藩主・増山雪斎のかつての愛蔵品。現在は京都の細見美術館が所蔵。
- 風竹図[ふうちくず]:絹本墨画、1幅。京都、細見美術館蔵。
- 旭日鳳凰図[きょくじつ ほうおうず]:絹本着色。宝暦5年(1755年)。雲海から昇る旭日と2羽の鳳凰。宮内庁三の丸尚蔵館蔵(旧御物)。
- 雪梅雄鶏図[せつばい ゆうけいず]:白雪の頂いて咲く赤い山茶花の花に、雄鶏。京都、建仁寺両足院蔵。
- 竹梅双鶴図[ちくばい そうかくず]:梅と竹に丹頂の番(つがい)。エツコ&ジョー・プライス・コレクション蔵。
- 松鷹図(松に鷹図)[しょうようず / まつにたかず]:絹本墨画、1幅。松の枝に留まる鷹。エツコ&ジョー・プライス・コレクション蔵。
- 紫陽花双鶏図[あじさい そうけいず]:絹本着色。「動植綵絵」内の同名作品とは同工異曲[12](描かれた時期はこちらが先)。米国カリフォルニア州、エツコ&ジョー・プライス・コレクション (Etsuko and Joe Price Collection)[13] 蔵。(本ページ冒頭の画像参照)。
- 鹿苑寺大書院障壁画[ろくおんじ だいしょいん しょうへきが]:50面の水墨障壁画。禅の師であった大典顕常との縁もあって宝暦9年(1759年)10月、44歳のときに手がけた代表作。鹿苑寺蔵、承天閣美術館保管(公式ウェブサイトに画像あり[2])。重要文化財。
- 葡萄図[ぶどうず]:一の間襖絵4面。
- 葡萄小禽図[ぶどう しょうきんず]:一の間床・違棚・壁貼付絵11面[14]。
- 松鶴図[しょうかくず]:二の間襖絵8面。松に丹頂1羽。
- 月夜芭蕉図[げつや ばしょうず]:三の間床壁貼付絵4面。芭蕉の木が大きく茂る満月の夜。
- 芭蕉叭々鳥図[ばしょう ははちょうず]:三の間襖絵8面。西側襖4面は右に芭蕉の木、左に飛翔する1羽の八哥鳥(叭々鳥)。南側襖4面は芭蕉の木と岩上に止まる1羽の八哥鳥。
- 秋海棠図[しゅうかいどうず]:四の間襖絵6面。可憐な花咲く秋海棠の叢(くさむら)。
- 双鶏図[そうけいず]:四の間壁貼付1面。
- 菊鶏図[きっけいず]:四の間襖絵4面。
- 竹図[たけず]:狭屋の間襖絵4面。
- 釈迦三尊図[しゃかさんぞんず]:絹本着色、3幅対。当時東福寺に所蔵されていた伝張思恭作、実際は高麗仏画だと思われる「釈迦三尊像」[15]を見て感動した若冲が、原図をかなり忠実に模写した作品。ただし若冲は、原本の経年劣化を補うために衣紋線や色彩のコントラストを強調し、より装飾的な画面に仕上げた。明和2年(1765年)、「動植綵絵」中の24幅とともに相国寺に寄進された。相国寺蔵(公式ウェブサイトに画像あり[3])で、今でも文殊・普賢菩薩像は「観音懺法会」で伝吉山明兆筆の「白衣観音像」の両側に掛けられて礼拝の対象になっている。
- 動植綵絵[どうしょく さいえ]:絹本着色。宝暦7年頃(1757年)- 明和3年(1766年)頃。経済的憂いの無かった若冲が時間と労力を存分に費やして描きあげた、30幅におよぶ大作。若冲によって相国寺に寄進されたものであったが、明治22年(1889年)、皇室に献上され、現在は宮内庁三の丸尚蔵館が保管(旧御物)。詳しくは当該項目を参照のこと。
- 石峯寺 五百羅漢石像[せきほうじ ごひゃくらかん せきぞう]:羅漢石像群。通称「若冲五百羅漢」。安永5年(1776年)、61歳頃に着手。若冲が下図を描き、石工が彫刻。
- 果蔬涅槃図[かそ ねはんず]:紙本墨画、1幅。釈迦涅槃図に見立てて果蔬(果物と青物[蔬、野菜])を描く。一見すると戯画的な手法だが、濃淡の墨を巧みに使い分け、筋目描きや墨のにじみ・カスレを駆使する多種多様な技法で、もの言わぬ野菜たちを本当に悲しんでいるように描き出す。従来は若冲の母が亡くなった安永8年(1779年)頃の制作とされたが、印章の欠損具合や、寛政期に下る「菜蟲譜」や「蔬菜図押絵貼屏風」と類似のモチーフや描法が認められる事から、寛政6年(1794年)以降の制作とする説が有力になりつつある。京都国立博物館蔵(「文化遺産オンライン」に画像あり[4])。
- 白象群獣図[びゃくぞう ぐんじゅうず]:紙本着色。正対する白象を中央に配し、周囲にさまざまな種類の獣を描く。製作過程が極めて手が込んでおり、まず画面に薄墨で9mm間隔に方眼を作り、その上から全体に薄く胡粉を塗る。そうして出来た碁盤目を淡い灰色で彩り、更に灰色の正方形すべてに4分の一よりやや大きい正方形を、先程より濃い墨で必ず方眼の上辺と左辺に接するように塗り分ける。ここまでが下地作りで、その上に動物たちを淡彩を用い隈取りを施しながらグラデーションで描くという特異な技法から成る。この描き方は「枡目描き」と呼ばれ、若冲は西陣織の下絵から着想を得、織物の質感を絵画で表現しようとしたと考えられる。個人蔵。
- 樹花鳥獣図屏風[じゅかちょうじゅうず びょうぶ]:紙本着色、六曲一双。無款。右隻では正面を向く白象を中央に配し、周囲に獅子・豹・猪・栗鼠・麒麟・牛・兎・鹿・手長猿等さまざまな種類の獣と樹花を、左隻では鳳凰を始めとし、鶏・鵞鳥・雉・錦鶏・孔雀・七面鳥・鸚鵡・鴛鴦・白鷺等、多種多様な鳥と樹花を描く。「白象群獣図」と同様の技法だが、桝目の描き方が四角というより円に近くなり、濃い彩色の部分もやはり円くなり左上ではなく中央に塗ってある所も多く、下地であるはずの正方形の形が絵の彩色に影響してるといったいい加減な箇所が目立つ一方で、動植物のフォルムは若冲らしさを止めている事から、若冲自作ではなく若冲の下絵を元に弟子たちが描いた工房作と考えられている[16]。静岡県立美術館蔵。
- 仙人掌群鶏図襖絵[さぼてん ぐんけいず ふすまえ]:襖絵6面。寛政元年(1789年)か。75歳の款記がある。左端と右端の2面に仙人掌(サボテン)を配し、6面のそれぞれに品種・歳・性の異なる鶏12羽を描き分ける。大阪府、西福寺蔵。重要文化財。
- 蓮池図襖絵[れんちず ふすまえ]:紙本墨画、6幅(襖絵から改装)。寛政元年(1789年)か。大阪府、西福寺蔵。重要文化財。
- 群鶏図障壁画[ぐんけいず しょうへきが]:紙本墨画、9面。寛政元年(1789年)か。京都、海宝寺の方丈に描かれたもので、わずかに失われた部分を加えればおよそ10mにも及ぶ大作。京都国立博物館蔵(「文化遺産オンライン」に画像あり[5])。
- 鶏頭蟷螂図[けいとう とうろうず]:絹本着色、1幅。寛政元年(1789年)か。鶏頭の真っ赤な花穂に留まる小さな蟷螂(カマキリ)1匹。個人蔵。
- 菜蟲譜[さいちゅうふ]:160種類の野菜・茸・虫達が戯れる図巻。佐野市立吉澤記念美術館蔵。重要文化財(公式サイトに画像と解説あり[6])。
- 石灯籠図屏風[いしどうろうず びょうぶ]:六曲一双。霧に包まれる山々を遠望し、立ち並ぶ石灯籠と老松の枝を描く。西洋の銅版画からの刺激も推測される点描技法が用いられている。京都国立博物館蔵(館蔵品データベースに画像あり[7])。
- 群鶏図押絵貼屏風[ぐんけいず おしえばり びょうぶ]:石峯寺で暮らしていた頃の作品。京都、金戒光明寺蔵。
- 象鯨図屏風(象と鯨図屏風)[ぞうとくじらず びょうぶ]:左隻に潮を吹く鯨の黒く巨大な背、右隻に不思議な造形の白象を描く、大胆な構図の作品。若冲に特有の筋目描き[17]による。平成20年(2008年)8月、北陸地方の旧家から発見された水墨画。落款に「米斗翁八十二歳画」とあり、晩年にあたる寛政7年(1795年)前後の作とされる。ただし、昭和3年(1928年)に紛失した同名の一図とは別物。滋賀県、MIHO MUSEUM蔵。外部リンク先に画像あり。
- 鼠婚礼図[ねずみのこんれいず]:水墨画、1幅。落款「米斗翁八十一歳画」。婚礼を挙げ、酒を酌み交わす鼠達。京都、細見美術館蔵。
- 百犬図[ひゃっけんず]:最晩年にあたる寛政11年(1799年、歿年の前年)の作か。59頭の仔犬を描く。個人蔵。
- 虻に双鶏図[あぶにそうけいず]:ふくよかな2羽の鶏とその上を飛ぶ1匹の虻。
- 付喪神図[つくもがみず]:紙本墨画、1幅。付喪神達の百鬼夜行。若冲画の写しと考えられている。福岡市博物館蔵。
展覧会 [編集]
1926年(大正15年):東京帝室博物館にて、「動植綵絵」30幅すべてが陳列される。
1971年(昭和46年):東京国立博物館にて、特別展観「若冲」開催。「動植綵絵」30幅すべて、鹿苑寺・西福寺の襖絵など主要作品が陳列される。
1989年(平成元年) - 1990年(平成2年):米国ニューヨークのアジア・ソサエティー・ギャラリー(10月5日-12月6日)とロサンジェルスのロサンジェルス・カウンティー・ミュージアム(12月21日-2月2日)にて、「The Paintings of Jakuchu(若冲展)」を開催。
2000年(平成12年):京都国立博物館にて、没後200年を記念した展覧会開催。爆発的ブーム起こる。
2006年(平成18年):伊藤若冲に関する展示、各地でなされる。
2007年(平成19年):若冲ゆかりの相国寺境内にある承天閣美術館にて、「動植綵絵展」開催。
- 若冲・動植綵絵展:承天閣美術館(京都) 2007年5月13日 - 6月3日
2009年(平成21年):MIHO MUSEUMにて、若冲の作品100点を集めた展覧会「若冲ワンダーランド」開催。
2010年(平成22年):静岡県立美術館と千葉市美術館で「伊藤若冲 アナザーワールド」開催。
脚注 [編集]
- ^ 英語表題:"Rooster and Hen with Hydrangeas".
- ^ 『続諸家人物誌』。
- ^ 大典顕常 「若冲居士寿像の碣銘」、『小雲棲稿』巻九。
- ^ 居士:在家の仏教信者のこと。
- ^ 平賀蕉斎 『蕉斎筆記』。ただし、この逸話はこの後の錦市場に起こった事件を元に、作り変えられた話と考えられる(福士雄也「伊藤若冲に関する史料について(「美術に関する調査研究の助成」研究報告)」、『鹿島美術財団年報』27号、2009年、所収。佐藤康宏『もっと知りたい伊藤若冲 - 生涯と作品 改訂版』69頁など)。
- ^ 明和8年(1771年)12月22日から9年2月晦日までと、明和9年12月22日から安永3年(1774年)9月30日までの事跡が記録された『京都錦小路青物市場記録』(2冊、京都大学蔵)を研究した論文、宇佐美英機「京都錦高倉青物市場の公認をめぐって」、中村勝責任編集『市と糶』 中央印刷出版部、1999年、所収。美術史家がこの論文に、若冲に関する重要な論考が含まれているのを知ったのは、2008年3月出版『新修茨木市史 第9巻 史料編 美術工芸』で奥平俊六の紹介による。なお、若冲以後の錦高倉青物市場の動向については、宇佐美英機 「近世後期の京都錦高倉青物市場の動向」(PDF)(『東北学院大学 経済学論集』第177号、2011年、所収)を参照の事。
- ^ 特別展図録「若冲ワンダーランド」収録の宇佐美英機の論文より。辻惟雄はこれを受け、これまでの「おたく(ここでは狭義。日本で言うところの、社交性に乏しい、内に籠もりがちな趣味人)」のように語られてきた若冲観を見直す必要があると述べている。
- ^ なお、大岡春卜は狩野派の絵本の出版を通して、その図像・画法の普及に貢献した人物である。
- ^ 中国の宋代および元代の絵画の総称。日本では特に鎌倉時代から室町時代にかけて伝えられた院体画・水墨画・仏画などを指す。
- ^ 明和5年(1768年)版は大西酔月、円山応挙についで3番目。安永4年(1775年)と天明2年(1782年)の版では応挙の次で2番目。
- ^ 英語表題:"the God of Longevity and Wisdom".
- ^ 同工異曲:[日本美術用語]同じ拵(こしら)え(同じ技法、同じ技量)であるが、趣きが異なること。
- ^ http://www.panacheprivee.com/Arts_Culture/Etsuko_and_Joe_Price_Collection.asp
- ^ 床貼付絵:[日本美術用語]とこはりつけえ。床壁貼付絵、床貼付とも称する。床の間の壁面に貼り付けた絵。
- ^ 現在、中幅の「釈迦如来像」はクリーブランド美術館蔵。左右の「文殊・普賢菩薩像」は静嘉堂文庫蔵。
- ^ 佐藤康宏 「若冲・蕭白とそうでないもの」、東京大学大学院人文社会系研究科・文学部美術史研究室編 『美術史論叢』26号、2010年、所収。また同論文では、若冲の代表作として紹介されることが多いプライスコレクションの「鳥獣花木図屏風」を、動植物の形態が単純化し緊張感に欠け若冲らしさが失われている事、彩色も「樹花鳥獣図」より丁寧であるが桝目内部の彩色に一貫性がなく、グラデーションを用いず桝目に沿って塗り分けされるといった単純な手法で「白象群獣図」の彩色論理を全く無視した図案化・装飾化が見られることから、作者不明の模倣作(若冲の落款や印章はないので贋作ではない)としている。
- ^ 筋目描き:墨が滲みやすい画箋紙に墨を落とし、滲んだ墨と墨の接点(境目)に白く残る線を利用する画法。
参考文献 [編集]
- 秋山光夫 「若冲の人と芸術」(『日本美術論攷』 第一書房)、1943年。
- 小林忠・辻惟雄・山川武 『水墨美術大系第14巻 若冲・蕭白・蘆雪』 講談社、1973年。
- 辻惟雄 『若冲』 美術出版社、1974年。
- 徳力富吉郎・前川文夫・山内長三編 『若冲の拓版画』 瑠璃書房、1981年。
- サントリー美術館編集 『異色の江戸絵画』 サントリー美術館、1984年。
- 佐藤康宏編 『日本の美術256 伊藤若冲』 至文堂、1987年。
- 佐藤康宏 「若冲概説」(『小学館ギャラリー新編名宝日本の美術第27巻 若冲・蕭白』) 小学館、1991年、ISBN 978-4-093-75127-8。
- 狩野博幸 『〈アートセレクション〉目をみはる伊藤若冲の[動植綵絵]』 小学館、2000年、ISBN 40-9-607007-6。
- 京都国立博物館編集 『伊藤若冲大全』(伊藤若冲、狩野博幸) 小学館、2002年、ISBN 40-9-699264-X。
- 佐藤康宏 『もっと知りたい伊藤若冲 - 生涯と作品』 アート・ビギナーズ・コレクション:東京美術、2006年、ISBN 978-4-80-870793-4。2011年に改訂版、ISBN 978-4-8087-0934-1。
- 狩野博幸、森村泰昌、ほか 『異能の画家伊藤若冲』 新潮社、2008年、ISBN 978-4-10-602166-4。
- 宮内庁三の丸尚蔵館・東京文化財研究所編 『伊藤若冲 動植綵絵』 小学館、2010年、ISBN 978-4-09-699849-6。
- 狩野博幸 『若冲 広がり続ける宇宙 Kadokawa Art Selection』 角川文庫、2010年 ISBN 978-4-04-394349-4。
- 辻惟雄責任編集 『日本美術全集 第14巻 江戸時代3 若冲・応挙、みやこの奇想』 小学館、2013年2月 ISBN 978-4-09-601114-0
- NHKハイビジョンスペシャル 『神の手をもつ絵師 若冲』前後編、2001年。
特別展図録
- 『没後200年 若冲』 京都国立博物館、2000年。
- 『開基足利義満六〇〇年忌記念 若冲展』相国寺承天閣美術館、2007年。
- 『若冲ワンダーランド』 MIHO MUSEUM、2009年、ISBN 978-4-903-64204-8。
関連項目 [編集]
外部リンク [編集]
- 相国寺に関わる人物
- キーパーソンに訊く 若冲ブーム(辻惟雄/MIHO MUSEUM館長・東京大学名誉教授):『象鯨図屏風』の画像あり。