D坂の殺人事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

D坂の殺人事件』(ディーざかのさつじんじけん)は、1924年(大正13年)に発表された江戸川乱歩の本格探偵小説。

またはこれを原作とした映画テレビドラマ

あらすじ[編集]

9月初旬、D坂の大通りにある「白梅軒(はくばいけん)」という喫茶店で冷やしコーヒーをすすっていた「私」は、この喫茶店で知り合いとなった明智小五郎と二人で、偶然向かいの古本屋で発生した殺人事件の第一発見者となる。やがて「私」は、その犯人が明智小五郎ではないかと推理するのだが・・・

解説[編集]

新青年』新年増刊号(第六巻第二号)に掲載された。D坂で起きた密室殺人事件を“私”と素人探偵“明智小五郎”が追及していくという短編推理小説。江戸川乱歩が自作に明智探偵を初登場させた記念碑的作品である。文中で心理学と犯罪の関係について触れられており、これは続編『心理試験』のテーマとなっている。 

本作には古本屋蕎麦屋が登場するが、乱歩は作家になる前に様々な職歴があり、大正8年には、東京市文京区本郷駒込林町の「団子坂」で弟2人とともに実際に「三人書房」という古本屋を営んでいた。この古本屋で乱歩は、居候の友人と二人で推理小説の案を練っていた。事件の舞台である「D坂」とは、この「団子坂」のことである。また劇中にはソバ屋も軒並びで登場するが、乱歩自身もシナ蕎麦屋を経営していたことがあった。

その後も職を転々とした後、大正11年に職を失った乱歩は妻子と共に大阪府守口市八島町の父の家へ移り、「江戸川乱歩」の筆名で、団子坂時代に考案した筋書きを基に『二銭銅貨』と『一枚の切符』を書き上げた。(詳細は江戸川乱歩の項目を参照のこと)。森下雨村が『二銭銅貨』を称賛し、人気推理作家の小酒井不木にこれを渡したところ、両作品を不木が激賞したため、大正12年に『二銭銅貨』と『一枚の切符』が探偵雑誌『新青年』に掲載されることとなり、「江戸川乱歩」のデビューとなった。

『新青年』で乱歩は『恐ろしき錯誤』、翌大正13年に『二癈人』、『双生児』と発表を続け、大正14年1月号に本作を発表した乱歩は、その続編『心理試験』の原稿を小酒井不木に送り、探偵小説作家としてやっていけるかどうか判定してもらった。2月号に掲載された『心理試験』は世評も良く、不木からも激励されたことから、当時、31歳だった作者の江戸川乱歩は専業の職業作家となることを決意した。

本作は、乱歩によると「誰かが不自然だといって非難した棒縞の浴衣と格子のトリックが実は出発点であった」という。乱歩は当時大阪の京阪電車沿線の外守口町に住み、毎日大阪まで電車で通っていたが、ある夕方、電車を降りて家に帰る途中、線路に沿った田舎道を歩いていて、鉄道の線路と人道との境に立ち並んでいる古い枕木を黒焦げに焼いて針金を張った通交止めの柵に目をひかれた。歩いていると柵の黒い棒がチラチラとあとへ流れ、棒と棒の間から向い側の地面が現れては消えた。乱歩は「そこに何かしら錯覚の種が潜んでいるような気がした」と語っている。そのうちに太い棒柄の浴衣が頭に浮かび、さらに大阪障子のマイラ戸が聯想され、あのトリックが作り上げられたのだという。乱歩にとってこういう思いつきは全く「運」のようなもので、あとになると案外つまらないが、この思いつきに陶酔する程度の大小によって、出来上がる小説のよしあしも定まるのではないかと語っている。

本作は乱歩自身「本格探偵小説」と銘打った、密室トリック作品である。乱歩によると、「その頃、日本の紙と木で出来た建物では『モルグ街』のような密室探偵小説は書けない、日本に探偵小説がないのはそういう生活様式が大きな理由になっているという説が行われていたので、必ずしもそうではない、こういう風に書けば、日本の建物でも密室が構成できるという一例を示す気持ちがあった」といい、「大南北の犯罪劇に心酔し、黒岩涙香の翻訳探偵小説に心酔し得た日本人は、紙と竹の家に住んでいても、決して探偵小説嫌いではないということを、主張したかったのである」と述べている。

乱歩は講釈師神田伯龍をモデルにした素人探偵(私立探偵のこと)、明智小五郎を本作で初登場させている。この頃、乱歩は伯龍をはじめて聞いてひどく感心し、顔や姿も気に入った。「当時は今よりももっと痩せていて[1]、いい意味の畸形な感じを多分に持っていた」といい、「そこで何気なく伯龍を素人探偵のモデルに使ってみた訳である」としている。

乱歩は明智を本作限りのキャラクターにするつもりだったが、評判がよく、以後の作品に引き続き登場することとなった。乱歩の「自註自解」では、「別に決まった主人公にするつもりはなかったのだが、方々から『いい主人公を思いつきましたねえ』と言われるものだから、ついその気になって、引き続き明智小五郎を登場させることになった。」と語っている。

本作の挿絵は、初出版では一木弴が担当した。明智の容貌はごつごつした怪人物風。創元推理文庫版では棟方志功による版画挿絵が使われている。

作中での明智の「君は、ポーの『ル・モルグ』やルルーの『黄色い部屋』などの材料になった、あのパリのRose Delacourt事件を知っているでしょう。」という台詞は、乱歩が『ストランド・マガジン』1915年10月号に掲載された、「"Originality in Murder"」(George Robert Sims著)という記事を参考にしたものである[2]

乱歩は本作の後、森下雨村の要望によって『新青年』誌上で『心理試験』(2月号)、『黒手組』(3月号)、『赤い部屋』(4月号)、『幽霊』(5月号)、『白昼夢』、『指輪』(7月号)、『屋根裏の散歩者』(8月増刊号)と推理短編を連作し、探偵小説家としての名を揺るぎないものとした。本作は乱歩自身も「私の短編の代表的なものに属する」と位置付けている。初出誌『新青年』では、冒頭に次のような編集部の一文が載せられた。

「厳密なる意味よりして、我国に於ける唯一の探偵作家たる江戸川亂歩氏の力作を紹介する。氏が探偵作家としての非凡なる手腕は、曾て本誌上に発表されたる『二錢銅貨』『恐ろしき錯誤』その他の作品により疾に認めらるゝところ。本篇は特に氏の力作にかゝり、構想の妙、取材の清新、而して文章の流麗暢達なる、眞にこれ海外探偵小説界にも容易に求めがたき傑作。あるいは本号所蔵の作品中にあつても、最も傑出したる作品の一つに算ふべきか。」

また本作末尾には、乱歩の次のような「作者付記」が載せられた。

「僅かの時間で執筆を急いだのと、一つは余り長くなることを慮れたためとで、明智の推理の最も重要なる部分、聯想診断に関する話を詳記することが出来なかつたことを残念に思ふ。しかし、この點はいづれ稿を改めて、他の作品[3]に於て充分に書いてみたいと思つてゐる。」

登場人物[編集]

「私」
本作品の語り手。『二銭銅貨』、『一枚の切符』の主人公達と同様、探偵趣味がある書生。
明智小五郎
煙草屋の二階に下宿している無職の書生。探偵小説好きな20代前半の一種の遊民で、喫茶店、『白梅軒』で「私」と知り合う。
古本屋の妻
明智の幼馴染。全身傷だらけの絞殺体で発見される。
古本屋の主人
『白梅軒』の向かいに構える古本屋。『白梅軒』のウェートレス達から、妻を虐待しているのではないかと噂されている。
ソバ屋(旭屋)の主人
古本屋の1軒置いて左に構えるソバ屋。古本屋の主人と同様、妻を虐待しているのではないかと噂されている。
ソバ屋(同)の妻
古本屋の妻と同様、全身に傷を負っている。
アイスクリーム屋の主人
古本屋の裏の路地の角に店を構える。「事件が起きた時間に路地を通った者はいない」と証言する。
菓子屋の主人
古本屋の1軒置いて右に構える。
工業学校の生徒達
犯人らしき男を目撃するが、証言が食い違う。
小林刑事
名探偵と噂の高い刑事。

参考文献[編集]

  • 『探偵小説十年』(昭和7年、江戸川乱歩)
  • 『江戸川乱歩傑作編』(新潮文庫)荒正人による解説
  • 『江戸川乱歩 推理文庫1 二銭銅貨』(講談社)中島河太郎による解説
  • 『D坂の殺人事件』(創元推理文庫)戸川安宣による解説

映像作品[編集]

映画[編集]

『D坂の殺人事件』と『心理試験』、『屋根裏の散歩者』を合わせて原作とした映画。嶋田久作の演じる明智小五郎は原作とは違って洋服姿である。また頭の毛もモジャモジャではなく、整髪したものになっている。

テレビドラマ[編集]

漫画作品[編集]

  • 『明智小五郎×絞男〜D坂の殺人事件〜』
山口譲司著。集英社 『江戸川乱歩 異人館』1巻(ISBN 978-4-088-79126-5 )に収録。

脚注[編集]

  1. ^ 昭和7年当時
  2. ^ しかし、Killis Campbell著"The Mind of Poe and Other Studies" (1933年、 Harvard Press)(165ページ)によれば、「同じ内容のものが1912年10月3日付の『ワシントンポスト』紙に"Facts Behind Poe's Story"という匿名記事として掲載された」となっている。Killis Campbellは「マリー・ロジェの謎」と同様に、エドガー・アラン・ポーが実在の事件を元に「モルグ街の殺人」を著したとしているが、Thomas Ollive Mabbott他編のポーの作品集"Tales and Sketches, vol. 1: 1831-1842"(2000年, University of Illinois Press)の注釈(524ページ)では、『ワシントンポスト』紙の記事にローズの死亡日時が具体的に記されていないことから、この匿名記事は信憑性に乏しく、むしろポーの作品からでっち上げたものではないかと推定している。
  3. ^ 次作品『心理試験』のこと

関連項目[編集]