夢一族 ザ・らいばる

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夢一族 ザ・らいばる
監督 久世光彦
脚本 田中陽造
出演者 森繁久彌
郷ひろみ
内田裕也
岸本加世子
伊東四朗
音楽 都倉俊一
撮影 増田敏雄
製作会社 東映京都撮影所
配給 東映
公開 日本の旗 1979年12月22日
上映時間 90分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
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夢一族 ザ・らいばる』(ゆめいちぞく ザ・らいばる)は、1979年公開の日本映画森繁久彌郷ひろみ主演:久世光彦監督。東映京都撮影所製作、東映配給。

概要[編集]

コーネル・ウールリッチの小説『睡眠口座』(1956年)[1]を基にしたコメディ映画[2]。1979年1月にあった『ムー一族』の打ち上げで、樹木希林によって不倫スキャンダルが暴露され[3]TBSを退社した久世光彦の芸能界復帰作[2][3]

連絡を取っても何の返事もないまま20年を経過した預金口座を巡り、80歳に近い老サギ師と20代の若い軟派師の交流、寺の住職飲み屋おかみらが綾なす人間模様をコメディタッチで描く[2][3][4]

出演者[編集]

スタッフ[編集]

製作[編集]

企画[編集]

企画は岡田茂東映社長[4]。久世光彦は1979年1月の不倫スキャンダルでTBSを退社したが「あたら才能を埋もれさせてはいけない」と森繁久彌が岡田に話を持ち掛け[5]、氷川佳助ビックル社長や俊藤浩滋らの後押しもあって製作が決まった[4]。「TBSを退社した久世監督で大型喜劇を作ろうと話を持ち掛けた」と岡田は話している[4]。久世にはTBS退社後の1979年3月初めに森繁から「秋に一ヶ月(スケジュールを)空けるから映画を撮れ」と勧めがあり、久世は感激し他の仕事はしなくてもこの映画だけは撮ると決めた[4]。1977年夏に岡田東映社長が「映画は必ずしも映画会社で作るものでない」と公言し[6]、積極的に外部資本と提携した映画の製作方針を打ち出し[6][7][8]角川映画オフィス・アカデミーとの提携の他[8][9]東映セントラルフィルム東映シネマサーキット(TCC)を発足させた[8][10]。本作も若い観客層の開拓と久世の人脈を活かして従来の東映作品にない配役を狙い、東映カラーを破るコメディを期待した[3][8]。久世は映画初監督だが、1974年公開の『任侠花一輪』の原案「小谷夏」として東映と縁があった。

製作発表[編集]

1979年7月20日に東映の1979年9月以降、1980年2月までの予定番組発表があり、本作が『トラック野郎・故郷特急便』との併映で1980年の正月映画になるとの告知された[11][12]クランクインは1979年10月を予定[3]。この時点では脚本は田村孟が執筆中と報道されたが[3]田中陽造に変更になった。1979年秋の製作会見の際は、脚本は田中と久世の共同との説明であった[4]

久世は24ページに渡る大企画書を東映に提出し東映サイドの度肝を抜いた、と当時の文献には書かれたものがあるが[13]、今日では24ページ程度では大企画書と呼ばないかもしれない。企画書には「寅サンシリーズ」を10年も続かせている日本の映画界がだらしない!活動屋は何しているのか、情けない。おれが叩き潰す」などと日本の映画界の現状批判から映画を売るポイント、CFコンテまで細部に至るまでビッシリ記載され、ラストは役の上で84歳の森繁久彌が24歳の郷ひろみが連れションし、森繁のイチモツを見て郷がションボリ、それを見た樹木希林が「寅サンより面白いと叫ぶ」と書かれてあったといわれる[13][14][15]。久世は1979年夏には樹木を出演させるつもりだった[13]。樹木の代わりに内田裕也がお詫びで出たのかは分からない。久世の強い意気込みに東映は大いに期待した[14]

1979年9月26日、東映本社で製作会見があり[4]、岡田社長、俊藤浩滋、氷川佳助、久世、森繁、郷らが出席[4]。久世は元気いっぱいで、「喧嘩するなら大通り。強い相手とやりましょう。弱い者いじめは生来好きじゃありません。つまり正月映画で寅さんに喧嘩を売ろうというのです。勝って見せようと正気で考えているのです。寅さんの価値、十分認めます。でも、そろそろお引き取りいただきたいと思います。もういい頃です」などと捲し立て「寅さん」に喧嘩状を叩きつけた[2]。また本作のタイトルの意味について、「全く関係のない者同士が偶然に出会い、奇妙な関係に陥る」という『ムー一族』とテーマは同じ。地縁血縁重視の『寅さん』とは対照的で『寅さん』が"愛"を売り物にするのに対して『夢一族』は"夢"がテーマ。貧しくたって"愛"があればだけではない」等の説明があった[2]

撮影[編集]

1979年10月3日クランクイン[4]。撮影日数40日を予定した[4]

評価[編集]

  • 本作は「トラック野郎シリーズ」の第10作『トラック野郎・故郷特急便』の併映作品で、「トラック野郎シリーズ」は、第3作『望郷一番星』から第8作『一番星北へ帰る』まで4週間(28日間)の興行を打ち[16]、コンスタントに配収10億円を上げてきたが[17]、この二本立てが興行不振により、公開期間を4日短縮し『動乱』が繰り上げ公開された[15][16][18][19]。このため「トラック野郎シリーズ」を終わらせた原因の一つとして併映作である本作の出来の悪さが理由として語られることが多い(トラック野郎#シリーズの終了)。それまでの9作は、1970年代後半の盆正月に松竹の「男はつらいよ」、東宝山口百恵三浦友和主演映画と興行争いを演じていたが、急に6億円[17]、前年比約30%減[18]前年比約40%減[20]と成績を落としたことで、当時のマスメディアから「テレビ映画もどき」[16]「正月映画にしては地味ですし、見せ場が少ない。やはりテレビ的過ぎた(東映宣伝部)[18]、「併映の『夢一族』が悪過ぎた。監督にテレビ屋なんか連れてくるからだ」(東映宣伝部サイド)、身内の中傷合戦が自然発生する」[17]等と叩かれ、白井佳夫は、本作を含めて同時期に作られた『金田一耕助の冒険』や『ピーマン80』をひっくるめて「CMディレクターテレビ畑のディレクターさんたちが映画畑に進出して作った映画以前の映画ともいうべきおふざけギャグ映画」などと酷評した[19][21]テレビ局主導の映画作りが増え[22][23][24]、テレビディレクターが映画の監督をするのは普通になった昨今では考えられないが[24]、当時は映画人だけでなく、マスメディアもこぞって[22]、テレビディレクターやCMディレクターが映画監督をやってコケると、「それ見たことか」と徹底的に叩いた[19][22][24]。なお、9年前にはTBSで久世の2期後輩である実相寺昭雄が先んじて監督デビューしているが、実相寺は在籍中から映画部所属でフィルム作品の仕事が多く映画界の人材と交流が深かったこと、個人プロダクションとATGの提携による小編成低予算作品でデビューしたこと、第1作でいきなり海外の大きな賞を獲得したことなど、スタートの条件としてかなり異なっていた。その実相寺も大手映画会社のメジャー作品をコンスタントに撮るようになるまでにはかなり時間を要している。
  • 久世は映画公開後「映画のことは、今回よく判りました。テレビと映画は迫力が違うし、もう一本撮りたいですね」と話した[18]。公開当時、東映洋画に在籍していた野村正昭は、久世の二本目の監督作『自由な女神たち』(1987年・松竹)撮影時に松竹大船撮影所で久世にインタビューする機会があり、本作『夢一族 ザ・らいばる』について久世が「不本意なもの」と切り出したため、あまり触れなかったと話している[24]。ただ、「テレビ演出から映画監督への転身は難しい」と話したと言い、「久世さんは映画界での共同作業の難しさの反動で小説やエッセイに本気で取り組んだのではないか」と野村は話している[24]

同時上映[編集]

トラック野郎・故郷特急便

その他[編集]

脚注[編集]

  1. ^ あなたの銀行口座、「休眠口座」になってない?
  2. ^ a b c d e 「夢は寅さん打倒!! 東映がライバル松竹にアノ久世さん起用で果たし状」『週刊朝日』1979年10月12日号、朝日新聞社、40頁。 
  3. ^ a b c d e f 「邦画新作情報 『元TBSの久世光彦が映画を監督』」『キネマ旬報』1979年8月下旬号、キネマ旬報社、185頁。 
  4. ^ a b c d e f g h i j 「東映『夢一族』で"寅さん"に喧嘩状 久世光彦監督、製作発表で意気込み語る」『映画時報』1979年11月号、映画時報社、19頁。 
  5. ^ “邦洋異色話題の記者会見”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 1. (1979年10月6日) 
  6. ^ a b 高橋英一・鳥畑圭作・土橋寿男・西沢正史・嶋地孝麿「映画・トピック・ジャーナル 東映両撮影所を合理化縮小か」『キネマ旬報』、キネマ旬報社、1977年7月上旬号、206頁。 
  7. ^ “〈娯楽〉 テレビの人気シリーズ 水戸黄門映画化へ 東映と松下電器提携で 出演者ら同じ顔ぶれ 宣伝効果など共に大きな利点が”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 7. (1977年10月4日) 高橋英一・島畑圭作・土橋寿男・西沢正史・嶋地孝麿「映画・トピック・ジャーナル 低迷を続ける東映の今後」『キネマ旬報』1977年8月下旬号、キネマ旬報社、190 - 191頁。 “〈邦画界〉 一本立てへ急傾斜 好調な配収に自信もつ”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 9. (1977年11月9日) 高橋英一・西沢正史・脇田巧彦・黒井和男「映画・トピック・ジャーナル 多様化する東映の製作システム」『キネマ旬報』1977年10月上旬号、キネマ旬報社、206 - 207頁。 
  8. ^ a b c d 文化通信社 編『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』ヤマハミュージックメディア、2012年、87-125頁。ISBN 978-4-636-88519-4 
  9. ^ 金田信一郎「岡田茂・東映相談役インタビュー」『テレビはなぜ、つまらなくなったのか スターで綴るメディア興亡史』日経BP社、2006年、211-215頁。ISBN 4-8222-0158-9 NBonlineプレミアム : 【岡田茂・東映相談役】テレビとXヤクザ、2つの映画で復活した(Internet Archive)“角川春樹氏、思い出語る「ひとつの時代終わった」…岡田茂氏死去(archive)”. スポーツ報知 (報知新聞社). (2011年5月10日). オリジナルの2011年5月28日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/20110528133933/http://hochi.yomiuri.co.jp/feature/entertainment/obit/news/20110510-OHT1T00006.htm 2019年4月29日閲覧。 asahi.com(朝日新聞社):ヤマトは「文芸もの」だった?
  10. ^ セントラル・アーツ 起動40周年記念!【初回生産限定】 遊戯シリーズ ... - 東映“東映映画が変わる 社外監督に門戸開放 製作費は折半”. 読売新聞 (東京: 読売新聞社): p. 7. (1979年4月18日) 「映画界の動き 東映、東西2館を拠点にT・C・C創設」『キネマ旬報』1979年6月上旬号、キネマ旬報社、175頁。 高平哲郎『スラップスティック・ブルース』冬樹社、1981年、236-239頁。 
  11. ^ “高岩淡製作企画担当が出席し東映久々の番組発表の会見”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 2. (1979年7月28日) 
  12. ^ 「東映、九月以降の基本番組を発表」『映画時報』1979年8月号、映画時報社、15頁。 
  13. ^ a b c 「〈ルック 人と事件 映画〉 サスガTVのエース久世サン 評判の企画書 映画CFの内容までビッシリの異色作」『週刊現代』1979年8月16日号、講談社、48頁。 
  14. ^ a b 高岩淡(東映常務取締役・企画製作部長・京都撮影所長)・鈴木常承(東映取締役・営業部長)・小野田啓(東映宣伝部長)、司会・北浦馨「東映百億のダイヤモンド計画 先ず人間環境の調和を計り製作・営業・宣伝の連帯が鍵」『映画時報』1978年9月号、映画時報社、6頁。 
  15. ^ a b 「〈This Week〉 早くも打ち切り決定の久世演出ドラマ」『週刊文春』1980年5月1日号、文藝春秋、21頁。 
  16. ^ a b c 佐藤忠男山根貞男責任編集『日本映画1981 '80年公開日本映画全集 シネアルバム(82)』芳賀書店、1981年、190-192頁。ISBN 4-8261-0082-5 
  17. ^ a b c 「〈NEWS OF NEWS〉 『トラック野郎』人気ガタ落ちで内輪もめ」『週刊読売』1980年2月3日号、読売新聞社、32頁。 
  18. ^ a b c d 「〈LOOK 今週の話題・人と事件〉 久世光彦監督作品が不入りで急遽、打ち切りになって」『週刊現代』1980年1月24日号、講談社、49頁。 
  19. ^ a b c 白井佳夫「〈邦画 今週の焦点〉 高倉健の魅力を生かしきれない東映の体質 『時代を先取りしたダイナミックな東映映画が見たい』」『週刊平凡』1980年1月31日号、平凡出版、157頁。 
  20. ^ 高橋英一・西沢正史・脇田巧彦・黒井和男「映画・トピック・ジャーナル 『トラック野郎』製作中止か?」『キネマ旬報』1980年3月上旬号、キネマ旬報社、173頁。 
  21. ^ 白井佳夫「〔邦画スタート 今週の焦点〕 万能タレント山城新伍が映画製作に挑戦! その結果は…… てんやわんやのパロディー映画のむずかしさ」『週刊平凡』1980年4月10日号、平凡出版、134-135頁。 
  22. ^ a b c 川端靖男「2008年日本映画外国映画業界総決算」『キネマ旬報』2009年2月下旬号、キネマ旬報社、169頁。 
  23. ^ 前原利行 (2008年2月15日). “テレビ局主導の日本映画復活は本物か”. ダイヤモンドオンライン. ダイヤモンド社. 2019年4月29日閲覧。
  24. ^ a b c d e 野村正昭「映画ラウンジ 今、面白い映画とは 連載第116回 海難パニック映画の快作 『LIMIT OF LOVE/海猿』」『シナリオ』2006年6月号、日本シナリオ作家協会、96 - 97頁。 

外部リンク[編集]