伊東四朗

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いとう しろう
伊東 四朗
本名 伊藤 輝男
(いとう てるお)
別名 ベンジャミン伊東
生年月日 1937年6月15日(74歳)
出生地 日本の旗 日本東京府東京市下谷区竹町 (現:東京都台東区
血液型 O型
職業 俳優
タレント
司会者
活動期間 1958年 -
家族 伊東孝明(次男)
公式サイト 伊東四朗オフィシャルサイト
主な作品
バラエティ番組など
笑って笑って60分
みごろ!たべごろ!笑いごろ!
ザ・チャンス!
伊東家の食卓
脳内エステ IQサプリ』ほか
テレビドラマ
ムー一族
おしん
ダブル・キッチン
十津川警部シリーズ
笑ゥせぇるすまん
私の青空』ほか
伊東 四朗
本名 伊藤 輝男
生年月日 1937年6月15日(74歳)
出身地 東京府東京市下谷区
(現在の東京都台東区
血液型 O型
方言 標準語
最終学歴 東京都立市ヶ谷商業高等学校
師匠 石井均一座
出身 浅草軽演劇
トリオ名 てんぷくトリオ
相方 三波伸介
戸塚睦夫
芸風 漫談コント
立ち位置
事務所 オルテ企画
活動時期 1958年 -
過去の代表番組 『笑って笑って60分』
『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』
『ザ・チャンス!』
『伊東家の食卓』
『脳内エステ IQサプリ』 他
他の活動 俳優
親族 妻、次男(伊東孝明

伊東 四朗(いとう しろう、1937年昭和12年)6月15日 - )は、日本コメディアン俳優タレント司会者。本名は伊藤 輝男(いとう てるお)。東京都出身。血液型はO型。五人兄弟(兄2人姉1人妹1人)の三男[1]

オルテ企画所属(「オルテ」は、本名「てるお」の逆読み)。兄は教育評論家[2]の伊藤竹三。次男は俳優・タレントの伊東孝明

目次

[編集] 来歴・人物

[編集] てんぷくトリオ

東京府下谷区竹町(現在の台東区台東)にて、服地商の子として生まれる。父親は静岡県相良町、母親は同県掛川市の出身[3]。戦時中は母親の実家のある掛川市に疎開した。

東京都立市ヶ谷商業高等学校卒業後は就職を希望し数多くの面接を受けるも、目付きが悪い人相が悪いことを理由に不採用が続いた(過去のTV出演時の本人コメントより)。1958年早稲田大学生協職員だった当時、石井均一座の舞台を見に足繁く通っていたため、一座の役者が伊東の顔を憶えるほどになっていた。そんな経緯もあり、石井一座の役者から「君も(舞台で)やってみないか?」と誘われ、石井一座に参加。同期には財津一郎らがいた。

最初の芸名は、師匠の石井均に「いとうにしよう」と言われたことから「伊藤証(いとうしょう)」であったが、ポスターなどに名前が連なる時に、名前が一文字なため、先輩より目立ってしまっていけないということで、「伊東四朗」と改名した。

石井一座は、浅草松竹演芸場新宿新宿松竹文化演芸場を拠点に人気となる。新宿時代、一座の戸塚睦夫が元々軽演劇の仲間であった三波伸介と夜間キャバレーの営業に出ていたが、三波が大阪に行ってしまったために、一座の伊東が三波の代役で営業に参加(この頃伊東は、三波伸介という芸名を使うことがあった)。のちに三波が東京に戻ったため、三人で営業用のトリオを結成。石井一座解散とともに1962年に正式にてんぷくトリオ(当初「ぐうたらトリオ」)を旗揚げした。軽演劇の流れを汲むコントで、舞台・テレビで徐々に人気となり、三波のギャグ「びっくりしたなぁ、もぅ」が大当たりして、茶の間の人気お笑いグループとしての地位を確立した。

1970年頃、『笑点』の札幌公演において、当時司会の前田武彦が天候不順で来られなくなり、急遽代理として三波伸介が司会をしたことがあった(三波は後に正式な司会に抜擢)。その際、座布団運びの代理は伊東が務め、伊東が正式な座布団運びになっていた可能性もあったというエピソードがある。

1973年戸塚睦夫が42歳の若さで逝去し、てんぷくトリオの活動に困難が生じるも、三波と2人で「てんぷく」の名を守った。1972年から毎週日曜日に、三波らと共に出演していたNHKの『お笑いオンステージ』内「てんぷく笑劇場」での活躍が代表的である。

[編集] 電線マン

1975年以降、三波の意向で「てんぷく」名での活動を抑制した頃、小松政夫との共演が話題になり、テレビ番組『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』での親子コントや「電線音頭」でのベンジャミン伊東(この名前の由来は、イギリスの作曲家ベンジャミン・ブリテンから)、『笑って笑って60分』での「小松の親分さん」などのネタで人気に火がついた。小松と2人で生み出したギャグがいくつもあるが、正月によく流れる琴による演奏の『春の海』を口で表現する「つん、つくつくつくつん。つん、つくつくつくつん。ひやーひんひらひらりー、べんべらべんべらべんべらべんべらべん」は伊東のオリジナルである。

また、「ずん」や「ニン」、「どーかひとつ」といったギャグも有名になった。「ベンジャミン伊東」としてのスタイルは、藤田まことら古くからのコメディアン仲間から「あいつはバカになったのか!?」と驚嘆されるほどのインパクトがあり、小林信彦からは大いに絶賛された。それまで「てんぷくトリオ」のサブ的役割だった伊東が、にわかに芸能界で存在感を示し始め、1979年には『ザ・チャンス!』(TBS系)の3代目司会者に抜擢された。

「ベンジャミン伊東」のキャラクター案は、伊東が自身の威圧的な顔にコンプレックスを持っていたため、「怖い顔でも面白い人はいないのか?」と考えた時に、「サーカスの団長」が思い浮かんだ事が発端となっている。

[編集] 喜劇役者として

1982年12月8日、盟友・三波伸介が52歳の若さで急死、伊東は訃報を聞いた際、三波が安置されている病院に向かい、報道陣の問いかけに「(三波の遺体を触った際に)まだ温かいんですよ。温かいものだから死んだ気がしなくて…」とショックを受け、葬儀でも号泣した。「てんぷくトリオ」は早くも伊東だけとなってしまう。翌1983年、NHK連続テレビ小説おしん』の父親役に抜擢され、同ドラマが大ヒット。以後、活動の中心を俳優業に変え、シリアスな演技もできる実力派としての評価を得て、活躍の場を大きく広げた。また、俳優業のほか、バラエティ番組の司会も数多く担当する。数多くのドラマで父親役をやってきた事や、『伊東家の食卓』などのイメージで、他の芸能人からは「お父さん」と呼ばれる事も多い。

自らを「喜劇役者」と位置づけており、いつまでもそうあり続けたいと語る。「三波も戸塚も死んだが、てんぷくトリオは解散したものではない」とも述べ、コメディへのこだわりも見せる。かつての喜劇役者仲間であり、親しい友人でもあった東八郎関敬六、また渥美清由利徹などといった浅草喜劇出身の役者たちが次々にこの世を去った今、「浅草喜劇の伝統を後代へ引き継ぎたい」という思いと、「彼らの分まで、体が動く限り現役で頑張りたい」との思いが年々強くなっているという。

1997年に、後輩の三宅裕司小倉久寛らと共演したオムニバスコントの舞台『いい加減にしてみました』(2002年・2010年にも上演)の流れで、今ではあまり見られない典型的な喜劇軽演劇舞台を再現してみようと、2004年、試みで『伊東四朗一座 〜旗揚げ解散公演』(タイトルからも分かるように最初で最後の予定であった)を上演した。この公演は当日券を求める客があふれるほどで、多くのリクエストを受けて、翌2005年に『伊東四朗一座 〜急遽再結成公演〜』を上演した。その後、2006年・2007年には伊東が参加しなかったため、「熱海五郎一座」と銘打って活動する。2008年には再び伊東が加わり「伊東四朗一座」として公演を行う。2009年には「伊東四朗一座・熱海五郎一座合同公演」が上演された。現在は年1回のペースで活動。伊東四朗一座の舞台公演作品はDVD化もされている。このほかにも舞台公演は精力的に行っている。角野卓造松金よね子佐藤B作あめくみちこ夫妻らとともに「西荻窪エリアでお酒を飲みながら語らう会」(西荻の会)を結成し、実際に西荻窪エリアで酒を飲みながら語らっていたが、ある時会の外から「このメンバーで芝居を」との提案を受けたことから2011年、本多劇場にて西荻の会による介護コメディー『ロング・ロスト・フレンド』を公演することになった。

[編集] その他

  • テレビではあまり見られないが、歌の素養もあり、ギターの弾き語りもするなど、幅広いエンターテイナーとしての素地を持った芸人である。優れたリズム感は70歳近くになっても衰えず、『伊東家の食卓』での体を使ったゲームなどは若者に先駆けてクリアしていた。2005年舞台ではラップも披露した。次男・孝明と海外旅行する番組『ホンモノの伊東一家は海外嫌い!?』では、英会話もこなしている。百人一首を暗記したり、円周率を100桁以上暗記、さらに500桁を目指す、アメリカ合衆国の州を毎日暗唱するなど、脳の活性化のためにと自分なりの工夫を実行している。趣味とストレス解消はテニス。
  • 保守的思想の持ち主であり、新しい歴史教科書をつくる会などの保守派団体の賛同者となっている。毎年靖国神社で行われる「みたままつり」には、日本の現状を憂いた句などを自書した献灯を奉納している。
  • 戸塚ヨットスクールの支援者の一人でもある。上之郷利昭によるスクールのルポ『スパルタの海』が映画化された際には戸塚役を演じたが、戸塚ヨットスクール事件により未公開(戸塚宏が出獄した後に支援者等がDVD化)となりお蔵入りになった。
  • 昨今の若者が話す言葉(日本語の乱れ)にも憤りを感じており、特にいらだつ言葉は「『何気に』という言葉だ」とワイドショーでのインタビューで答えている。
  • 所謂「マイ箸」を持ち歩いているが、森林伐採による環境破壊に反対する意思表示ではなく、中国などから輸入されている割り箸に対する不信感(例えば漂白されているなど)によるものである。
  • 自身が出演した舞台の公演名称について、スティーブ・マックイーンによって訴訟されそうになったが、邦題に変更して事無きを得た。
  • 笑ゥせぇるすまん』に出演した際、目を瞬きしなかった経緯からドライアイになってしまい、現在もドライアイの症状がある。
  • 好きな漬物山芋である。
  • いわゆる「江戸弁」のアクセントがあり、かつてタクシーに乗って行き先を「日比谷」と言ったところ「渋谷」に連れて行かれたことがあるという(江戸弁では「しびや」の発音に近くなるため。ラジオ「伊東四朗のあっぱれ土曜ワイド」での発言)。
  • 2011年2月4日放送の「ザ★芸能界ウラ芸大賞」放送内の企画で見事にスタジオ生放送の「円周率500桁暗記」を見事成し遂げた。答え合わせを終えた後、司会堺正章が「もう一回なぞりますか?」と訪ねたところ「うわー、もうやめてくれ!!」と叫び笑いを誘った。
  • 2011年、したまちコメディ映画祭in台東において、『第4回コメディ栄誉賞』を受賞。
  • かつて、ドラマ『竜馬におまかせ!』や『明日があるさ』でも共演したダウンタウンは、自身がホストを務める番組『ダウンタウンDX』や『HEY!HEY!HEY!』に度々ゲスト出演しており、現在においても親交が深い事から、親しみを込めて伊東本人を「お父さん」と呼んでいる。

[編集] 出演

[編集] テレビ

[編集] 情報・クイズ・音楽・バラエティほか

現在
過去

[編集] ドラマ

連続ドラマ

ほか多数

単発・不定期

[編集] ラジオ

  • 伊東四朗のあっぱれ土曜ワイド(文化放送、1984年4月7日 - 1996年9月28日、土曜9時00分 - 13時00分)
  • 伊東四朗・吉田照美 親父熱愛(文化放送、1997年4月13日 - 、1998年3月まで日曜16時00分 - 16時55分、1998年4月から土曜15時00分 - 15時55分)
  • ラジオ深夜便インタビュースペシャル(NHK、2011年10月2日・3日)

[編集] 映画

[編集] 舞台

  • 雪之丞変化(1991年)
  • その場しのぎの男たち(1992年・1994年・2003年)
  • エニシング・ゴーズ(1995年)
  • おしん(1995年)
  • アパッチ砦の攻防(1996年)
  • いい加減にしてみましたシリーズ
    • いい加減にしてみました(1997年)
    • いい加減にしてみました2(2002年)
    • いい加減にしてみました3(2010年)
  • アパッチ砦の攻防 決定版(1998年)
  • 追いつ! 追われつ!!(2001年)
  • バッドニュース☆グッドタイミング(2001年)
  • 伊東四朗一座
    • 伊東四朗一座 〜旗揚げ解散公演〜「熱海迷宮事件」(2004年)
    • 伊東四朗一座 〜急遽再結成公演〜「喜劇 芸人誕生物語」(2005年)
    • 伊東四朗一座 〜帰ってきた座長奮闘公演〜「喜劇 俺たちに品格はない」(2008年、本多劇場
    • 伊東四朗一座・熱海五郎一座合同公演「喜劇 日本映画頂上決戦〜銀幕の掟をぶっとばせ!〜」(2009年、青山劇場
    • 〜三宅裕司生誕60周年記念〜伊東四朗一座・熱海五郎一座合同公演「こんにちは 赤ちゃん」(2011年、赤坂ACTシアター
  • 疑惑のアパート(2006年) - 作・演出のみ
  • 社長放浪記(2007年、「伊東四朗生誕?!七十周年記念」公演、本多劇場)
  • 学おじさん(2008年、本多劇場)
  • 介護コメディー ロング・ロスト・フレンド(2011年、「西荻の会」公演。本多劇場)

[編集] CM

[編集] 脚注

  1. ^ 2011年10月2日NHKラジオ第一ラジオ深夜便』インタビュースペシャルより
  2. ^ 伊藤竹三(いとうたけぞう)”. 株式会社パワービーンズ. 2011年8月13日閲覧。
  3. ^ スポーツニッポン連載 『我が道』伊東四朗 2011年8月2日18面

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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