谷啓

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たに けい
図々しい奴』(1964年)より
基本情報
出生名 渡部 泰雄(わたべ やすお)
別名 谷 敬
生誕 (1932-02-22) 1932年2月22日
出身地 日本の旗 日本東京府荏原郡東調布町
(現・東京都大田区田園調布
死没 (2010-09-11) 2010年9月11日(78歳没)
東京都三鷹市新川杏林大学医学部付属病院[1]
学歴 中央大学経済学部中退
ジャンル ジャズ
職業 トロンボーン奏者、歌手コメディアン俳優
担当楽器 トロンボーン
活動期間 1953年 - 2010年
事務所 ワタナベエンターテインメント
公式サイト プロフィール

谷 啓(たに けい、本名:渡部 泰雄(わたべ やすお)、1932年昭和7年〉2月22日 - 2010年平成22年〉9月11日)は、日本俳優コメディアントロンボーン奏者。「ハナ肇とクレージーキャッツ」のメンバー。

東京府荏原郡東調布町(現・東京都大田区田園調布)出身・三鷹市大沢に居住していた。渡辺プロダクション所属。中央大学経済学部中退[注釈 1]、中央大学学員会三鷹支部会員。日本トロンボーン協会名誉会員。

写真家の吉田ルイ子は従妹にあたる。長男の渡部泰裕は映像ディレクター。

来歴・人物[編集]

ハナ肇とクレージーキャッツ(1964年)

日新製鋼(現・日本製鉄)に勤めていた父・四郎(1895年〜1989年)の転勤により、生後すぐ広島に転居[3]。5歳までに東京に戻り、小学校から横浜へ移り六浦尋常小学校へ通う[3]1945年4月に旧制逗子開成中学校に進学。入学式の時のブラスバンドの演奏でトロンボーンに出会い、一目惚れして、当時の音楽部(現:吹奏楽部)に入部。しかし、トロンボーンという名前を知らず、また、あの楽器はなんというのかとも聞けず、担当楽器を決める際に適当にチューバを希望し担当した。8月に敗戦を迎えると、連合国軍ジャズを持ち込み、それを聞いて「こんなに楽しい音楽があったのか」と夢中になる。また、大量に上映されたアメリカ産のコメディ映画にも夢中になる。

逗子開成高校時代から、キャバレーでバンドマンのアルバイトをしていた。逗子開成高校卒業後、関東学院大学に進むが[4]、1年後、高校時代の音楽仲間を追って、中央大学経済学部経済学科に進学。音楽研究会に所属し、バンドを組んでキャバレーや米軍向けに演奏していた。中大音楽研究会時代の後輩には高木ブーがいる。一方、喜劇俳優にもなりたくて、劇団民藝俳優座を訪ねたが相手にされなかった。中大在学中に、耳の肥えた米軍将校相手に培われた確かな腕前とコミカルな演奏が原信夫に注目され、トロンボーン奏者としてシャープス&フラッツに参加。本格的な演奏のほかに、トロンボーンのスライドを足で動かして吹くなどのコミカルな演奏も行う。その腕前は「スイングジャーナル」誌上でトロンボーン奏者として上位にランキングされるまでになる。

芸名の由来は、アメリカの名コメディアン、ダニー・ケイを日本語風にしたもの。名乗り始めた当初は、「ダニー・ケイを敬う」という意味で『谷敬』だったが、ファンから「谷敬という字はいけません。なぜかというと、谷底でいつも敬っているんじゃ、ずっと底にいることになるから」という指摘を受け[5]、『谷をひらく』という意味の『谷啓』と改名した。ただし、髪型や芸風は、『アボット&コステロ』のルー・コステロに似せている。『クレージーキャッツ』の他のメンバーはみな、ミュージシャン志望で役者になろうとは全然思っていなかったが、ただ一人、谷だけがコメディアン志望でもあった。

1953年フランキー堺から「スパイク・ジョーンズのような音楽をやろう」と誘われ、谷もスパイク・ジョーンズの大ファンだったため、フランキー堺とシティ・スリッカーズに参加し、音楽ギャグを盛んに行う。だが、フランキーが日活に引き抜かれ、フランキー不在のシティ・スリッカーズは『普通のジャズバンド』になってしまう。そのため、同じバンドの植木等の紹介でハナ肇に会い、「ハナ肇とキューバン・キャッツ」に1956年2月に移籍。のちにバンド名はハナ肇とクレージーキャッツと変わる。ジャズ喫茶に出演し、多彩なギャグで人気を博す。

1959年の『おとなの漫画』以降、コメディアンとして多くのTVバラエティ番組に出演。「ガチョン」(当時は伸ばさなかった)「びろーん」「アンタ誰?」「ムヒョーッ」といった各種のギャグで不動の人気を獲得した。「谷だァ!」というギャグも一時期使っていたが、これは当時の流行語にもなった青島幸男の「青島だァ!」に対抗する形で発せられたもの。

俳優としてもテレビドラマや映画に多数出演している。1975年には、かねてからの夢だった本格的ミュージカル、森繁久彌主演の『屋根の上のバイオリン弾き』に出演、肉屋のラザール役を演じ、4年の間出演した。演出家の福田陽一郎の『好みの役者』で、福田が演出する舞台に多数出演している。

1975年ごろから、自身のバンド『谷啓とザ・スーパーマーケット』を結成し活動していた(結成時には、キーボード担当として、若き日の近田春夫も参加していた)。またハナ肇が晩年に結成したバンド『ハナ肇&オーバー・ザ・レインボー』(ドラム:ハナ肇、トロンボーン:谷、ピアノ:宮川泰、トランペット:中川善弘、ベース:江藤勲、テナーサックス:稲垣次郎)にも参加し、ハナが亡くなる直前まで活動していた。

晩年はバラエティ番組への出演がめっきりと減ったが、1990年代後半から2000年代前半にはスーツサングラス姿で、『笑う犬の冒険』のオープニングMCを務めた。

2006年渡辺プロダクション創立50周年、クレージーキャッツの結成50周年を記念した、松任谷由実とのコラボレーション・シングル『Still Crazy For You』では松任谷のデュエット・パートナーを務め、クレージー名義最後のシングルにして、初めて単独でフィーチャーされた。

また2006年から2009年まで『美の壺』(NHK教育テレビジョン)に出演、飄々としたご隠居の主人として番組の案内役を務めた。

2008年ごろから体調を崩し始め、2009年3月までにレギュラー番組をすべて降板し、療養生活をはじめていた。ハナ肇の付き人を務め、長く親交があったなべおさみによると「2008年ころから(谷について)物忘れがひどくなっていた。今年(2010年)春に見舞いに訪れた際にはもう私(なべ)のことが分からなかったこともあった」と語り、晩年の谷に認知症の症状が進行していたことを示唆している[1]

2010年9月10日、自宅の階段から転落して頭などを強打。杏林大学医学部付属病院に搬送されたが、翌11日午前5時7分に脳挫傷のため死去した。78歳没[1]

葬儀は密葬で執り行われ、親族以外はクレージーキャッツのメンバーの犬塚弘桜井センリが参列した。戒名は日蓮宗のもので、『玄妙院殿谷啓日雄大居士げんみょういんでんこくけいにちゆうだいこじ』。芸名の『谷啓』と本名から『雄』の字をとっており、「奥深い悟りがあり一生懸命精進し大きな仕事を成し遂げた」という意味が込められている[6]。墓所は多磨霊園(13区1種43側23番)。

没後[編集]

2010年10月2日号の『週刊現代』で、妻・和子が認知症の症状出現の事実とその後亡くなるまでの経緯について、詳細を明らかにしている。遺作は2009年に出演した『釣りバカ日誌20 ファイナル[注釈 2]

2010年9月20日、不忍池水上音楽堂で開催された「第3回したまちコメディ映画祭in台東」のクロージングイベントで谷のこれまでの業績を讃えて『第3回コメディ栄誉賞』授賞式が行われた(なお、生前から受賞が決定していた)[7]

谷の死去を受け、NHK Eテレでは9月26日深夜に『美の壺』の第2回「盆栽」(2006年4月14日放送)を、NHK総合テレビジョンでは10月24日に『NHKアーカイブス 谷啓 〜飄々と時代を駆け抜けた名脇役〜』をそれぞれ追悼番組として放送した。

2010年11月11日には関係者による「お別れの会」が、ザ・プリンスパークタワー東京で行われ、約800人が参列した。司会は徳光和夫が担当し、芸能人では西田敏行松任谷正隆由実夫妻、桜井センリ、青木さやかアグネス・チャン浅香光代いしのようこ内田裕也加藤和也上川隆也加山雄三グッチ裕三小松政夫小柳ルミ子島崎俊郎城田優せんだみつお高見恭子地井武男仲本工事中山秀征鳩山邦夫ビビる大木布施明藤村俊二松本明子ミッキー・カーチス三宅裕司恵俊彰モト冬樹山田邦子山田洋次アンガールズネプチューン我が家らが参列しその死を悼んだ[8]

参列者を代表して犬塚弘が来賓あいさつを行い、天を仰ぎながらクレージーキャッツの再結成を宣言し、メンバー間の強い絆を印象付けた。

「谷啓、みんなのところに届いたか。渡辺晋社長もハナも植木屋も石橋のエーちゃんもヤッさんも、みんな一緒に手つないで少し降りてきてくれよ。みんな、聞いてるかい。俺と桜井さんと2人だけになったんだよ。もうあと数年か…、2、3年かな、たったらみんなのところへ行くから、そしたらまた、晋社長にプロデュースしてもらって、向こうでクレージーキャッツ再開しよう。変な話だけど楽しみにしてる。いまね、2人だけで寂しいよ。会いたい。約55年間かな。谷啓、本当にありがとう。待っててくれ。みんな待っててくれよ。」[9]

2010年11月19日第52回日本レコード大賞で特別功労賞を受賞。

エピソード[編集]

  • 植木のあだ名『植木屋』は、谷が最初に、つい『植木屋』と呼んでしまったのが始まり。ハナのあだ名は『ハナちゃん』だったが、谷は他人を『ちゃんづけ』で呼ぶのが恥ずかしく、口笛で「スィー・スィー」と吹いて、ハナを呼んでいた。
  • 目をしばたたかせるクセがあった。
  • テレビに出演するようになった後に、友達から「音楽をやっているのなら、和声学を勉強したほうがいい」と助言され、多忙の中、音楽学校の通信教育で勉強し、4年かけて卒業した。
  • 妻・和子はペギー葉山の元マネージャー。長年交際しても、恥ずかしがり屋の谷が一向にプロポーズしないため、夫人の側からプロポーズした。
  • プロレタリア文学に関心を持ち、古本屋を回って戦前に発刊された作品を買い集めていたことがある。
  • 弟の成二は知的障害者だが、兄弟仲は非常によく、谷が結婚後も同居を続けた。初主演のテレビドラマ『日立ファミリー劇場「女のしあわせ 第7回 田辺死す」』(1962年)で、谷が演じた知的障害者は、この弟がモデルである。谷の死去から4年後の2014年に駅の階段からの転落事故により80歳で他界した。
  • 1964年東京オリンピックの際は、テレビでオリンピックの選手たちを観て「ものすごく素晴らしい」と大感動し、「それに比べてオレのやっていることは」と、仕事中は欝状態におちいったという。また 植木の証言によれば、東京オリンピック当時はオリンピック選手に間違われたくて、当時の選手団のユニフォーム一式(赤いジャケットと白いスラックス、白に赤いラインの入ったソフト帽)を身につけて出歩いたり、自宅の電話の受話器を重量挙げのバーベルに見立て、電話の横にロージンバッグを起き、電話に出る前はそれで滑り止めの粉を付け、「フンッ」と勢いをつけてから受話器を取るなど、奇行に及んでいたという[注釈 3]
  • クレージーキャッツとして都内及び地方公演終了後は全員で食事会、その後は下戸の谷、植木、犬塚の3人だけがそのまま店に留まり、ギャグネタを考えた。植木はステージで疲れきって寝てしまうのが通常で、谷のアイディアに犬塚が助言やダメだしで決まるパターンが多かった。
  • アイディアを出す際も、照れ屋らしく決して自分から積極的には話さず、アイコンタクトで犬塚にメモ帳の入った自分の上着のポケットを指してから始まった。
  • 恥ずかしがり屋の反面、その自分を嫌って『逆に派手なこともする』性格で、自家用車はずっと外車に乗っていた。一時は、ど派手なアメ車サンダーバードばかりに乗っていた。
  • 1968年に三鷹市に家を新築したが、1969年1月19日に火事になり全焼。谷はこの時、「火事のシーンを撮りたい」と、わざわざ家にひきかえし、家庭用8ミリ映画のカメラを持ち出したが、フィルムが入っておらず、撮影できなかったという。また、当時は麻雀に熱中しており(メンバーは、小野ヤスシなべおさみ人見明など)、焼け跡に麻雀牌と麻雀卓が残っていたことから、焼け跡で見舞い客たちと麻雀を打った。これは、平静であることを示して見舞い客を安心させるための行為と説明されている。このように、谷の奇行には、目立つのを避けるために大きなサングラスをかけて逆に目立ってしまう、という類の「天然」なものが多い。
  • 火事の後に建て直した家は、玄関から全部屋に音が流れるようになっており、谷が深夜に帰宅すると「ただいま帰りました、起きている子供は集合するように」と放送して、子供たちを集め、思いつくままの空想やひらめきをアクションまじりで話し、子供たちと夜中に大熱中していたという。
  • 怪奇映画、ホラー映画の大の愛好家である。
  • 『足の水虫が好き』で、まったく治療せず常に水虫状態だったという。靴を履いている時に『むずがゆいのを我慢する』のが気持ちよく、また、耐え切れなくなって掻く時の開放感もたまらないという。
  • タレントの所ジョージと親交があったおり、所が面倒を見られなくなった巨大なアロワナを押しつけられた事があったようだが、断れない性格故に苦笑いしながらも引き取ってくれたと所が番組で述懐している。
  • 「僕は夕日に向かって散歩するのが好きなんだ」と、自分が好きなことについて語っていたという[10]
  • 10年以上の長期に渡りファミリーコンピュータ用ソフト『ボンバーマン』をプレイしており、多くの人に目撃された[11]

谷啓のギャグ[編集]

谷の一連のギャグの多くは、主に仲間と麻雀で、谷が牌をツモる時に発する奇声が起源になっている[12]

ガチョーン[編集]

  • ガチョーン
    追い詰められたときやCM前のオチに使用される。『素敵なデイト』で初めて使われたとみられ、当時は伸ばさず、「ガチョン」と発音していた(谷の初シングル『愛してタムレ』でも最後に「ガチョン」と言っているのが確認できる)。また、手の動作は『右手を前後させる』と思われがちで、そのように報道されたこともある[13] が、前述の通り麻雀が元ネタとなっているので実際に動いているのはテレビカメラのほうであり伸ばした手を引き込む[注釈 4] のが正しい。ただし起源については諸説あり。山下勝利は麻雀から生まれたギャグと伝えており、「いい牌をつもってきたときや、相手の大きな手に打ちこんでしまったときなど、このガチョーンをやっていた。そのときの心境を音にすると、ちょうどこれだった」と記している[14]。また、テレビ番組のコントで魚釣りの話をした時、谷啓が「でかい魚をつりあげたのに、ガチョーンと逃げられちゃって」といつもの口癖を出すと、それを聴いていた放送作家の塚田茂が「いいね、それ、使おうよ」と言い出したのが起源であるとも山下は伝えている[14]

ガチョーンの補足

  • 日刊スポーツが2011年に実施した「お笑い史上最高の一発芸は?」アンケートにおいて、有効投票数3084票中354票を獲得して1位となった[15]。2位はビートたけしの「コマネチ」、3位は志村けんの「アイ~ン」であった。
  • 平成時代のドラマ・アニメ作品において、昭和を代表する一発ギャグ・流行語として用いられることが多い。
  • 1980年代のバラエティー番組「オレたちひょうきん族」に準レギュラー出演した素人の男性(通称「吉田君のお父さん」)が持ちギャグとして使用した。ただし、手を引く正式な仕草ではなく「ガッチョーン」と連呼して手を突き出す動作を繰り返す我流のものであった[19]
  • 間違ったガチョーンの仕草が広まってしまったことから、後年、「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」ガチョーンでハラホロヒレハレずっこけ大会など[20] 、に本人が正しい動作をレクチャーするテレビの企画などが度々あった。また、1983年発行の『テレビの黄金時代』(キネマ旬報社。後年の同名著書ではなく、小林信彦責任編集のムック)の巻頭特写グラビア「正しい〈ガチョーン!〉のやり方」では、連続写真でガチョーンをレクチャーしている[21]
  • 本来の意味ではなく「ガビーン」のようにショックや落胆を表す時にも用いられることがある。特に宇多田ヒカルが多用していた[22]
  • 1992年に、川崎重工業(現・カワサキモータース)から発売された250㏄の二輪車「エストレア」の広告コピーにも採用された。

ガチョーンの派生作品

その他[編集]

  • ビローン
    両腕を上下に上げるもので、『あんた誰?』の冒頭で使われている。
  • ムヒョー
    両手を開きながら前に出すもの。このほかの擬音ギャグに「オジョー」や「アリョーン」など。
  • ハラホロヒレハレ
    シャボン玉ホリデー』のコントのオチに谷が発したのが最初。その後オチに全員で発して崩れ落ちるというのが定着し、植木等の「お呼びでない?」や自身の「ガチョーン」の後にこの言葉が多用された。
  • あんた誰?
  • 谷だァ!
    青島幸男のギャグ「青島だァ!」をそのまま模倣したもの。コントでは「谷だァ!」と言っている背後に青島本人が現れ、それに気付いた谷の声が上ずり、最後は泣き出すというオチがあった。2006年12月27日に営まれた青島の告別式の際の弔辞では「青ちゃん、谷だ…」と話しかけ、「返ってきませんね。さみしいです。」とコメント、参列者の涙を誘った[25]

他に金だらいを使用したギャグや悪人を表す際の頬の大きな十字傷、極端に目が悪いのを表すための牛乳瓶の底のような丸メガネなどをコントに使用したのも谷が最初である(谷は初期のクレージーのコントをほとんど手がけたほか、『シャボン玉ホリデー』でも脚本を務めた回がある)。

出演[編集]

太字は役名

映画[編集]

主演作[編集]

出演作[編集]

テレビドラマ[編集]

テレビアニメ[編集]

バラエティ[編集]

教養番組[編集]

ラジオ[編集]

コンピュータゲーム[編集]

映画吹き替え[編集]

CM[編集]

作品[編集]

映像作品[編集]

ディスコグラフィ[編集]

  • 愛してタムレ/図々しい奴
  • あんた誰?/天下の若者
  • ヘンチョコリンなヘンテコリンな娘/小指ちゃん
  • 虹を渡ってきた男/プンプン野郎
  • オムライスチョンボNo.5
  • おらぁグズラだど
  • グズラ音頭
  • アイヤ・ハラホロ
  • あんた誰? 『タワーリングナンセンス』 - スチャダラパー ※クレジットなし
  • 僕はしゃべれるんだ
  • 愛してタムレnewバージョン

著書[編集]

  • 『ふたつの月』日之出出版、1989年
  • 『七人のネコとトロンボーン』読売新聞社、1995年

演じた俳優[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 有楽町日本劇場にトロンボーン奏者として出演していた時、舞台と舞台の間に大学の月謝を払おうとして現金持参で中大駿河台校舎まで飛んでいったが、月謝を納める学生たちが行列しており、列に並んでいては次の舞台に間に合わなかったため「カネを払うのに行列まですることはねえだろう」と思って日劇に戻り、そのまま除籍になったという[2]
  2. ^ 映画本編には登場していないが、本編終了直後における出演者全員の舞台挨拶「納竿」の1シーンのみ登場し、エンドクレジットには名前も記載されている。
  3. ^ このことは『植木等とのぼせもん』第三話「俺たち戦友」でとりあげられている。
  4. ^ 『ガッ』とつかんで『チョン』と引く。
  5. ^ 後任は伊東四朗

出典[編集]

  1. ^ a b c “ガチョーンもう見られず…谷啓さん転倒死”. nikkansports.com. (2010年9月12日). https://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20100912-677372.html 2014年5月28日閲覧。 
  2. ^ 『七人のネコとトロンボーン』p.56
  3. ^ a b 『「家」の履歴書』 光進社 2001年、104-106頁
  4. ^ 『新撰 芸能人物事典 明治~平成』
  5. ^ 五歩一勇シャボン玉ホリデー スターダストを、もう一度』p.152(日本テレビ放送網、1995年
  6. ^ “谷啓さんの通夜しめやかに 祭壇には優しい微笑みと愛用のトロンボーン”. ORICON STYLE. (2010年9月13日). https://www.oricon.co.jp/news/80001/full/ 2014年5月28日閲覧。 
  7. ^ コメディ栄誉賞 谷啓授賞式”. 第3回したまちコメディ映画祭in台東. 2014年5月28日閲覧。
  8. ^ “谷啓さんにドリフメンバーら追悼続々”. nikkansports.com. (2010年9月12日). https://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20100912-677539.html 2014年5月28日閲覧。 
  9. ^ 「向こうでクレージーキャッツ」谷啓お別れ会で犬塚弘「再結成宣言」”. J-CAST テレビウォッチ (2010年11月12日). 2021年3月12日閲覧。
  10. ^ 「谷啓さん、どうもありがとうございました!」 / チーフプロデューサー紙屋聡”. スタッフ制作日記|NHK鑑賞マニュアル 美の壺 (2010年9月13日). 2014年5月28日閲覧。
  11. ^ 『SWITCH公式ガイドブック』2002年11月1日、小学館発行。P89
  12. ^ 『七人のネコとトロンボーン』P.118
  13. ^ 中国新聞』9月14日付朝刊
  14. ^ a b 山下勝利『ハナ肇とクレージーキャッツ物語』p.97-98
  15. ^ 史上最高の一発芸は「ガチョーン」日刊スポーツ 2011年6月4日
  16. ^ 『おそ松さん』はTVアニメ復活の“のろし”となるか? 社会現象となった理由を徹底解剖Real Sound 2016.03.27
  17. ^ 「ひよっこ」9話。こんなにも清く正しいのには裏があったエキサイト 2017年4月13日
  18. ^ 志尊淳、懐かしのギャグ”ガチョーン”に大笑いニュースウォーカー 2017年8月24日
  19. ^ オレたちひょうきん族 THE DVD 1981〜1982
  20. ^ 超天才たけしの元気が出るテレビ!!That’sメモリアルPart.2(VHS)
  21. ^ 小林信彦 責任編集『テレビの黄金時代』キネマ旬報社、1983年5月10日、8 - 9頁。NDLJP:12275394/5 
  22. ^ 宇多田ヒカル@utadahikaru2015年2月12日
  23. ^ あの「マイケル・ジャクソン出世太閤記」をもう一度”. 踊る大香港. 2020年12月6日閲覧。
  24. ^ 最新作「beatmania IIDX 20 tricoro」のサウンドディレクター陣に聞く,IIDXシリーズの今昔。新曲から制作秘話までみっちり語った2時間を凝縮してお届け4gamer.net 2012/10/11
  25. ^ “青島幸男さん告別式に700人参列”. 日テレNEWS24. (2006年12月28日). オリジナルの2014年5月28日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140528000153/http://www.news24.jp/articles/2006/12/28/0774219.html 2014年5月28日閲覧。 
  26. ^ ジャングル大帝 劇場版(1997)”. 手塚治虫公式サイト. 2016年6月8日閲覧。
  27. ^ 全日本CM協議会 編『CM25年史』講談社、1978年1月15日、180 - 181頁。NDLJP:12025175/95 

外部リンク[編集]