大瀧詠一

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大瀧詠一
基本情報
出生名 大瀧榮一
別名 大滝詠一
出生日 1948年7月28日(59歳)
学歴 早稲田大学第二文学部中退
出身地 日本岩手県江刺郡
ジャンル ロックニューミュージック
職業 シンガーソングライター音楽プロデューサー
担当楽器 ボーカルギター
活動期間 1969年 -
レーベル ナイアガラ・レーベル※尚、エレックレコードコロムビアミュージックエンタテイメントソニーミュージックレコード(移籍した当初は、CBSソニーレコードであった。)と所属レコード会社は移籍している。
事務所 ザ・ナイアガラ・エンタープライズ
公式サイト Ami-go Gara-ge
  

大瀧 詠一(おおたき えいいち、本名:大瀧 榮一、1948年7月28日 - )は、シンガーソングライター作曲家アレンジャー音楽プロデューサーレコードレーベルのオーナー・ラジオDJレコーディングエンジニア著述家など、多くの顔を持つミュージシャン

岩手県江刺郡梁川村(のちに江刺市を経て、現・奥州市)生まれ、母親は教師。血液型AB型。釜石南高校卒業、早稲田大学第二文学部中退。

一般には歌手としての表記(1973年ごろから)である大滝詠一で知られている。代表曲に、『幸せな結末』、『夢で逢えたら』、『A面で恋をして』など。

目次

[編集] 略歴

最近は音楽家としては実質的に引退状態で、勉強家などと称している。非常に多くの別名を持ち、その時々・役割で使い分けている。熱心なファンは自らを「ナイアガラー」などと称し、大滝の才能に敬意をこめて「師匠」とか「福生の仙人」などと呼んでいる。非常に多趣味であるが、特に読売ジャイアンツの大のファンであり、敬愛する長嶋茂雄の復帰などは本人のその後の活動に大きな影響を及ぼしている。

[編集] 少年時代〜はっぴいえんど時代

少年時代からエルヴィス・プレスリーをはじめとするアメリカンポップスに親しみ、特に1962年夏から1966年までにチャートインした曲はすべて覚えているというほど精通している。また同時にハナ肇とクレイジーキャッツにも傾倒していた(1975年以降のソロ作品にその影響が見られ、その後クレイジーのメンバーとも仕事をしている)。高校卒業後の1967年春に上京し、製鉄会社でサラリーマンをしていたが、午後に出社したりと散々な勤務成績で、わずか3ヶ月の在籍期間の後、退社。一方で会社の宴会でビートルズの「ガール」を歌ったところ好評で、上司に「キミはこんな所にいてはいけない」とプロになる事を暗に薦められたというエピソードもある。翌1968年には早稲田大学に入学。友人の布谷文夫が所属していた「タブー」というバンドや、竹田和夫率いる「ブルース・クリエイション」に参加している。同時期に細野晴臣とも知り合い、共通の友人であり中田喜直の甥である中田佳彦と3人で「ランプ・ポスト」という私的な音楽研究会を開く。

1969年エイプリル・フール解散直後の細野と松本隆によって計画されていたバンドに加入。バンド名をヴァレンタイン・ブルーとし、細野、松本、大瀧、鈴木茂の4人で活動開始。1970年にはバンド名をはっぴいえんどと改名し、アルバム『はっぴいえんど』でデビュー。アルバム『風街ろまん』『HAPPY END』を発表するも、1972年末を持って解散。 プレイヤー志向の全く無かった大瀧にとってはっぴいえんどでの経験はその後の活動に大きな影響を与えており、後に「あのおっさん(細野)に誘われなければあんなこと(はっぴいえんど)やってない。」、「(はっぴいえんどに入っていなければ)何をやっていたか分からない。想像が付かない。」とはっぴいえんどなくしてミュージシャンとしての自分は無かったという趣旨の発言をしている。

[編集] 1970年代

はっぴいえんど活動中の1971年にソロ活動を開始し、アルバム『大瀧詠一』(1972年)を発表。はっぴいえんど解散後ソロ活動を本格化し、1973年には三ツ矢サイダーCMソング「Cider '73」を制作する。自身のレコード・レーベル「ナイアガラ」を立ち上げ、「サイダー」をシングルとして発売する計画で、所属するレコード会社を探すも、当時CMソングをシングルとして商品化することは考えられなかったことで、どこに行っても断られるという状態であった。最終的には1975年エレックレコードに所属することが決定し、アルバム『Niagara Moon』(1975年)を発表。また山下達郎大貫妙子が所属していたバンド・シュガーベイブのプロデュースなどを行う。

しかし、間もなくエレックレコードは倒産し、移籍した先のコロムビアレコードでは、16チャンネルのマルチトラックレコーダーを与えられる代わりに、1年間にアルバム4枚という、作品の大量生産を余儀なくされた。そんな中で発売された『ナイアガラCMスペシャル Vol.1』(1977年)は、どのレコード会社に持って行っても断わられていた、純粋にCMのために書き下ろされた曲を集めてレコード化する企画をようやく実現させたものだが、このアルバムは1970年代のナイアガラレーベルのアルバムの中で一番のヒットとなる(ソニー以前のナイアガラレーベルで実売が5桁だったのはこのアルバムだけだったといわれる)。だが、この時期のアルバムには、音頭や洋楽のパロディ、ノベルティ・ソングなど、本人が「シュミシュミ音楽」と呼ぶようなマニアックな曲が並び、当時は一般的に理解されることはなかなかなかった。1978年には自身の事務所(その当時のナイアガラエンタープライズ)も閉鎖(倒産?)するという不幸も重なり、不遇の時代を過ごした。

ただし、本人はナイアガラ時代の作品について、「売れないだろうし、何年経っても理解されないだろう」と、アルバム『Niagara Moon』の制作当初から考えいた様で、ナイアガラエンタープライズの立上げは、(セールス面においては)覚悟の上の船出であった。事実、大衆がどういったものを聴いてくれるか、という事は「Cider '73」で既に自覚しており、「Cider '74」にいたっては、大ヒットアルバム『A LONG VACATION』のサウンドに何ら劣らない出来であったと後にラジオ番組で語っている。

余談であるが、この時代に「千の風になって」の日本語訳詞と作曲を行った新井満の若き日の作品であるアルバム「マンダーランド」収録の「消防署の火事」と言う曲の作曲を手掛けている事は一般的には余り知られていない。この事を知っている「ナイアガラー」の中でも若い「ナイアガラー」は近年まで収録アルバムである「マンダーランド」がCD化されていなかった為どんな曲かは知らない。

[編集] 1980年代

しかし、この、いい意味でも悪い意味でも偏った作品群の制作の後、1980年にはCBSソニーに移籍。はっぴいえんど時代の盟友松本隆と組んだアルバム『A LONG VACATION』(1981年)がミリオンヒットし、商業的な大成功を収めた。1〜2年も売れなかったらアーティストとしては終わり、といった当時のニューミュージック的な考え方からすると、5年も売れなかったアーティストが(急に)売れるなどというのは考えられないことで、一部では奇跡とも言われている。

A LONG VACATION』は同年の「日本レコード大賞・ベストアルバム賞」も受賞した。

その後は、佐野元春杉真理とのアルバム『Niagara Triangle vol.2』(1982年)、松田聖子のアルバム『風立ちぬ』(1981年)のA面のプロデュースや、アルバム『EACH TIME』(1984年)等、『A LONG VACATION』と同系統の作品を発表。1985年にはシングル『フィヨルドの少女/バチェラーガール』を発表するが、翌1986年には全ての大瀧のレコードシングルを廃盤にしている。これは本人曰く「アルバム『A LONG VACATION』が邦楽第一号でCD化された事で人一倍レコードに思い入れのあった自分が結果的にCD普及を早める事になってしまったから」らしい。また、ベストアルバム『SNOW TIME』(1985年)をサンプル盤のみで配布するが、それが市場流出し、法外な高値を呼ぶことともなった(後に正規盤が発売することとともに、事態は収束していった)。

この頃、歌手としての活動を休業。歌手「大滝詠一」としてのライブ活動に関しては、1985年のはっぴいえんど再結成ライブなど「大滝詠一」以外のものを除くと、1983年7月24日西武球場で行われた、サザンオールスターズRATS&STARと競演した「ALL NIGHT NIPPON SUPER FES. '83」以後は一切していない。それに伴って、「快盗ルビイ」(小泉今日子1988年)などの曲提供以外では新曲を発表することもなくなった。

また、DJをつとめていたラジオ番組『ゴー・ゴー・ナイアガラ』は、クレージーキャッツ坂本九弘田三枝子を中心とする日本の'60Sポップスをかけており、カルト的な人気を博した。後の「昭和歌謡ブーム」に与えた影響も大きい。

1984年には、「ニッポン放送開局30周年記念」の“一日中音楽をかける”《ティーンズ放送局》と銘打たれたイベントが企画され、“総合プロデューサー”を勤める。その中で、ラジオ・ドラマ『マイケル・ジャクソン出世太閤記』を企画。プロット:小林信彦、脚色:藤井青銅、出演:片岡鶴太郎谷啓由利徹ビートきよしで制作され、伝説的な番組となった。

[編集] 1990年代~現在

しかし、1997年には12年ぶりにシングル『幸せな結末』を発表し、月9ドラマ『ラブジェネレーション』の主題歌としてミリオンセラーを達成。2003年には6年ぶりのシングル『恋するふたり』を発表。同じく月9ドラマ『東京ラブ・シネマ』主題歌となる。以降の作品はいまだ発表されていない。そのため、大滝自身が東京都福生を拠点していることから(正確には隣接する瑞穂町在住)「福生の仙人」とも呼ばれている。

新作発表は途絶えているものの、2005年より「ナイアガラ不滅プロジェクト」と題した各アルバムにおける30周年記念事業を展開し、自身でマスタリングを行い、解説を新たに書き下ろし、さらにボーナストラックを追加し再発売している。また、『幸せな結末』10周年の2007年には実に23年ぶりとなるアナログシングル『幸せな結末 / 恋するふたり』を発売した。なお、『EACH TIME』発売時には月刊「ミュージック・ステディ 大滝詠一徹底研究III」という特集で「1988年に『ナイアガラトライアングル Vol.3』、1989年に『ナイアガラカレンダー '89(復刻版)』、1991年にはソロでの新作『1991』でレコード番号も1991を予約。1994年には『ナイアガラトライアングル Vol.4』、2000年に『ナイアガラトライアングルVol.5』、2001年に再びソロの新作として『2001年ナイアガラの旅』」という構想を語っていた。『1991』が幻となった後には『2001年ナイアガラの旅』に期待を寄せるファンが多かったものの、結果的には『A LONG VACATION』の20周年記念盤ということになり、これも幻となった。同じ発言は同年「宝島」5月号のロング・インタビューでも語られ、構想としては実現させるつもりだったのではとも語られている。

[編集] 音楽性

海外の音楽についての豊富な知識をもち、それを駆使して制作される音楽は、時として極めてマニアックであり、本人が「シュミシュミ音楽」と呼ぶような、独特であり、かつ、閉じた世界を形作ることが多い。作品によっては、パスティーシュとも言えるような作品もあるといわれるが、海外の音楽に詳しくないと(あるいはある程度詳しくても)、どの作品に由来しているのか、よくわからないことが多いようである。そのせいか、本人の楽曲は他の音楽作品(特に洋楽)と似通った部分がいくつかあり、しばしば指摘されることもあるが、そのことについては本人も言及している。

また、定期的に自身の作品群をマスタリングする等し、多くの「バージョン違い」が存在することでも有名である(下記記載の「シングル」「アルバム」「プロデュース」の項についてもその詳細は大瀧詠一著『All About Niagara』(増補改訂版、白夜書房、2005年)に委ねられる)。

一方自ら音頭好きと称して多数の音頭を発表してもいる。これについては、1973年、伊藤銀次から薦められて、小林信彦(当時の筆名は中原弓彦)の『日本の喜劇人』を読んだことが大きく、いままで個人的に愛好していた「小林旭サウンド」「クレージーキャッツ・サウンド」を同じように愛する者がいることを知り、衝撃を受ける。この本を読んだのち1年間のうちに、中古レコード屋をめぐって、クレージーキャッツのシングルをすべて集めたという。「音頭」に限らず、「クレージーキャッツ」「小林旭」の音楽に関わっていくきっかけとなり、後に小林とは個人的な親交を結んだ。大瀧は「“サイダーCM”“伊藤銀次”“山下達郎”“小林信彦”と、この1973年は私にとって当たり年」「60年代はフィル・スペクター、70年代は小林信彦、この二人の影響からは逃れられない」と、のちに語っている。

代表曲に「ナイアガラ音頭」(アルバム『Niagara Triangle Vol.1』収録)、「クリスマス音頭」(アルバム『NIAGARA CALENDAR '78』収録)、金沢明子に提供した「イエローサブマリン音頭」、「ビックリハウス音頭」等がある。緻密に練られたポップス系とは異なるお気楽さが身上。1970年代から独自の路線を貫き、また、ライブでは洋楽と自身の楽曲をつなげて演奏したりと言った遊び心もあり、他のミュージシャンと競演した際にはよくこういった試みがなされていた。このことから、元祖日本のマッシュアップアーティストとの説もある。

日本のポピュラー音楽に与えた影響には小さからぬものがあり、特に、山下達郎の一部の作品、渋谷系などへの影響を指摘する声もある。また、早くからのCMソングの重視も、その後のニューミュージック・J-POPにおけるテレビのCMや番組とのタイアップという路線の先駆をなしている。音楽プロデューサーの小林武史もラジオではっぴぃえんどを特集するなど、非常に影響を受けていると語っており、タイアップの話が持ち上がった際に大滝の自宅まで出かけ相談したそうである。大滝は小林の楽曲の良さを認めたうえで、「自分はここまで長く自分の曲を封印しているからこそ、自分の手だけで次曲を作りたい」というふうに小林曰く「気持ちよく断られた」とのことである。桑田佳祐は英語の発音から意味不明的な歌詞を作ることで有名だが、「それは僕が先にやってたんだよね」と語っており、実際、その様な歌詞は多く見られる。桑田はラジオで「こんばんわ、大滝詠一です」とモノマネをすることもあった。

また、山下達郎と共に、多重録音コーラスを行うアーティストとして非常に有名である。山下の様にアカペラアルバムこそ制作していないものの、活動初期から多重録音コーラスを行った作品を数多く制作しており、特に『GO! GO! NIAGARA』(1976年)では大滝1人によるコーラスグループ「Jack Tones」を登場させている。また他人への提供曲においても、後にスターダスト・レビューで活躍する根本要が在籍していたクレージーパーティーへ「がんばれば愛」を提供した際には、作ったデモテープをスタッフに聞かせた所、入っていたコーラスをレコードでも入れてほしいと言われて多重録音コーラスを行っている。

[編集] 音楽プロデューサー

プロデューサーとしては、当初、フィル・スペクターのように、アイドルまたはガールグループをある程度「もの」としてとらえ、自分の考えを押し付けるという思想を持っていたふしがあり、その失敗例が吉田美奈子である。吉田の「夢で逢えたら」は客観的に見ると、作品としての質は高いが、大瀧の持っていたイメージに吉田を無理に合わせたということがあったようで、吉田は吉田で嫌いな作品と明言しており、大瀧の方も、決定盤は吉田の作品ではなくシリア・ポールの「夢で逢えたら」と考えているようである。このときの反省に基づいて松田聖子のプロデュースには成功した、という話もある。

もともと「夢で逢えたら」は、アン・ルイス用に書いた曲がお蔵入りになってしまい、大瀧、吉田の両者とも不承不承、製作側の強い意向によりアルバム「フラッパー」に収録することになり、レコーディング、発表されたもの。明らかに当時の方向性が違う吉田としては、この曲を代表曲扱いされてしまったことに対し激しい嫌悪感を抱くことになる。その為、吉田本人はシングルカットの際に拒否していたが、シリア・ポールのバージョンが一部で話題になったことを受けて、結局アルバム発売から2年後の1978年にシングルカットされた。カップリングは同じく「フラッパー」に収録されていた「Last Step」だった。

なお、大滝も方向性の違いを承知し、吉田の意向を理解していたため、これより前に、それまでの経緯から顔ぶれとして参加する必要があった事や、「シャレ」という意味からアルバム「MINAKO」のために「わたし」を提供・制作に参加した段階で吉田作品に自分が参加するのは最後にするつもりで、「フラッパー」には参加するつもりはなく、「夢で逢えたら」の提供についても彼女との方向性の違いを理由に大瀧は一旦断っている。しかし、制作側に押し切られる形で結局受諾せざるを得なくなり、ここでも「シャレ」という意味を強調する為に間奏に台詞を入れたりもしたが、編曲に協力した山下達郎を始めとしたレコーディングメンバーの才能が結集した事から、結果として「最高の作品」が出来てしまったという。そのため、彼女が嫌悪感を抱いた理由について「その気持がよく分かる」のコメントをしている。

こうした経緯から、吉田のデビュー前からの知り合いであり、吉田のデビューのきっかけに大瀧が絡んでいたにもかかわらず、その後の交流は私的なものは別として、音楽面では公的には行っていない。ただ、その「嫌いな曲」である「夢で逢えたら」を完全に自分のものとして消化しているとして、彼女の才能を高く評価している。

シリア・ポールのバージョン及び同曲を収録したアルバムは、この曲を高く評価していた朝妻一郎フジパシフィック音楽出版社長・音楽評論家)が、「せっかく出来た素晴らしい曲を埋もれされるのは勿体無い」として大瀧に持ちかけた企画だったという。

[編集] 勉強家

諸芸能を始めとした様々な分野についての深い見識を持ち、交友関係が広いことでも有名である。自身は音楽の系譜についての勉強をライフワークとしているが(『分母分子論』『ポップス伝』のように紙上・ラジオ上でその成果を垣間みることができる)、音楽のみにとどまらず広い分野にまで“関連性”を基底に置いて研究していることが「勉強家」と称する由である。

同じように、日本の大衆音楽を研究しているミュージシャンに近田春夫がいるが、彼には多数の著作があるのに対し、大瀧の「音楽研究」のメインの発表舞台は、「後に残らず消えてしまう」ラジオ放送である。今後、ラジオ放送のCD化・書籍化、あるいは、本格的な著作の刊行が待たれる。

[編集] レコーディングエンジニア

1970年代の大滝自身の作品はほぼ大滝自身が、笛吹銅次(親交のあるミキサーの吉野金次、NiagaraTRIANGLE Vol.1の伊藤銀次と来て次は「銅次」だということで、笛吹童子から考え出された)名義でレコーディングエンジニアを担当している。また、はちみつぱい唯一のシングル盤「君と旅行鞄(トランク)/酔いどれダンスミュージック」にもレコーディングエンジニアとして参加。現在、再発売された唯一のアルバム『センチメンタル通り』に2曲とも追加収録されていて聴くことができる。

[編集] ファンの切望

 大滝のファンいわゆる「ナイアガラー」の間では、本格的な活動再開が切望されている。
 しかし大滝が重い腰を上げず、活動再開は今のところ実現しそうにない状況である。
また、既発曲の中には、「恋するカレン」のアルバム音源よりもイントロの音量を上げた物等シングルバージョンがCD化していない曲もあり、それらを一枚にまとめたCDを出してほしいと言う者がいる。
 また、ラジオ番組に関しては2006年の「新春放談」で、山下達郎からの「大滝さんはもうラジオ番組はやらないですか?」と言う問いにもうやらないと言う様な事を言っている為、ゲスト出演以外の彼がメインのレギュラー番組は今後放送される可能性は低い為、ファンが切望しても無理だろう。  

[編集] 音楽

[編集] シングル(A面:B面)

  1. 恋の汽車ポッポ:それはぼくじゃないよ』
  2. 『空飛ぶくじら:五月雨』
  3. 『青空のように:Cobra Twist』
  4. 『霧の彼方へ:悲しき北風』 (多羅尾伴内楽團、BGMのみ)
  5. 『ブルー・ヴァレンタイン・デイ:お花見メレンゲ』
  6. 『君は天然色:カナリア諸島にて』
  7. 『恋するカレン:雨のウエンズデイ』
  8. 『哀愁のさらばシベリア鉄道(Organ Version):哀愁のさらばシベリア鉄道 (Guitar Version)』(FIOLD 7名義)
  9. 『A面で恋をして:さらばシベリア鉄道』*B面は太田裕美もカバーしているが、この際に編曲を一任した萩田光雄が大瀧バージョンのオケを聞いて「よく出来たデモテープですね」と話した(CDボックスセット『太田裕美の軌跡』のライナーの大瀧のインタビューより)。
  10. 『ハートじかけのオレンジ:ROCK'N'ROLL退屈男』
  11. 『雨のウエンズデイ:恋するカレン』
  12. 『EACH TIME SINGLE VOX』
    • 『夏のペーパーバック:木の葉のスケッチ』
    • 『1969年のドラッグレース:銀色のジェット』
    • 『魔法の瞳:恋のナックルボール』*B面イントロ時の「ブン!」という音は大瀧の振るバットの音
    • 『レイクサイドストーリー:ガラス壜の中の船』
    • 『ペパーミント・ブルー:ペパーミント・ブルー(Instrumental)』
  13. 『フィヨルドの少女:バチェラー・ガール』
  14. 幸せな結末:Happy Endで始めよう
  15. 『恋するふたり:恋するふたり (Strings Version)』
  16. 『幸せな結末:恋するふたり(限定EP盤)』

[編集] アルバム

  1. 大瀧詠一』 (1972.11.25 ベルウッド
  2. Niagara Moon』 (1975.5.30)
  3. 『僕は天使ぢゃないよ』 (1975.12.5 あがた森魚・大瀧詠一名義・ベルウッド)
  4. Niagara Triangle vol.1』 (1976.3.25)
  5. GO! GO! NIAGARA』 (1976.10.25)
  6. Niagara CM Special vol.1』 (1977.3.25)
  7. 『多羅尾伴内楽団 vol.1』 (1977.11.25)
  8. NIAGARA CALENDAR '78』 (1977.12.25)
  9. 『多羅尾伴内楽団 vol.2』 (1978.6.25)
  10. DEBUT』 (1978.8.25)
  11. 『LET'S ONDO AGAIN』 (1978.11.25)
  12. A LONG VACATION』 (1981.3.21)
  13. 『NIAGARA FALL STARS』 (1981.4.1)
  14. Sing ALONG VACATION』 (1981.7.21)
  15. 『NIAGARA VOX』 (1981.12.2)
    • 『MORE NIAGARA FALL STARS』
    • 『MORE MORE NIAGARA FALL STARS』
  16. Niagara Triangle vol.2』 (1982.3.21)
  17. 『NIAGARA SONG BOOK』 (1982.6.1)
  18. Niagara CM Special vol.2』 (1982.10.1)
  19. アーリー 大瀧詠一』 (1982.12.21)
  20. NIAGARA CM SPECIAL』 (1983.5.21)
  21. EACH TIME』 (1984.3.21)
  22. 『NIAGARA BLACK VOX』 (1984.4.1)
  23. 『NIAGARA SONG BOOK2』 (1984.6.1)
  24. B-EACH TIME L-ONG』 (1985.6.1)
  25. SNOW TIME』 (1985.12)
  26. Complete EACH TIME』 (1986.6.1)
  27. 『NIAGARA FALL STARS-2nd Issue』 (1986.6.1)
  28. 『NIAGARA CD BOOK』(1986.6.1)
  29. 『NIAGARA BLACK BOOK』 (1987.6.21)
    • 『TARAO BANNAI SPECIAL』 (多羅尾伴内楽団)
    • DEBUT SPECIAL
    • 『LET'S ONDO AGAIN SPECIAL』
  30. 『大瀧詠一Song Book vol.1』 (1991.3.21)
  31. 『大瀧詠一Song Book vol.2』 (1995.3.24)
  32. A LONG VACATION 20th Anniversary Edition』 (2001.3.22)
  33. Niagara Triangle Vol.2 20th Anniversary Edition』 (2002.3.21)
  34. EACH TIME 20th Anniversary Edition』 (2004.3.21)
  35. Niagara Moon 30th Anniversary Edition』 (2005.3.21)
  36. Niagara Triangle Vol.1 30th Anniversary Edition』 (2006.3.21)
  37. Go! Go! Niagara 30th Anniversary Edition』 (2006.9.21)
  38. Niagara CM Special 3rd Issue 30th Anniversary Edition』 (2007.3.21)
  39. 多羅尾伴内楽団 vol.1&vol.2』(2007.9.21)
  40. NIAGARA CALENDAR 30th Anniversary Edition』(2008.3.21)

(版違い他多数あり)

[編集] プロデュースした代表作(アルバム)

(他多数)

[編集] 作曲家としての代表作品

  • 『ナイアガラ音頭:あなたが唄うナイアガラ音頭』(作詞:大瀧詠一/作曲:大瀧詠一/編曲:多羅尾伴内/歌:布谷文夫 with ナイアガラ社中)
当時、大瀧が出演していたラジオ『ゴー!ゴー!ナイアガラ』に送られてきたハガキのアイディアを元に作られた。アルバム『Niagara Triangle vol.1』に収録されているが、シングルでは異なったヴァージョンとなっている。詳細は同アルバムの収録曲の節を参照。もともと、この曲をシングルカットする予定はなかったが、当時レーベルが置かれていたコロムビアからの要請を受けてシングルカットされた。なお、B面の「あなたが唄うナイアガラ音頭」はいわゆるカラオケ・ヴァージョンで、イントロが追加されている。当時B面にカラオケを入れることは珍しかったため、「手を抜いている」と言われたことがあったようだ。
のちにアルバム『A LONG VACATION』にてセルフカヴァー
1981年12月3日に行われた「ヘッドフォンコンサート」では大滝によるセルフカヴァーが披露された。本人曰く、これ以降は二度と歌わないとのこと。
のちに『SNOW TIME』で英語詞で「夏のリヴィエラ」としてセルフカヴァー。
のちにデモテープを用いた大瀧とのデュエット版が作成された。『KYON3〜KOIZUMI THE GREAT 51』に収録。
TBSわくわく動物ランド』のエンディング曲。1983年7月24日に行われたライブ「ALL NIGHT NIPPON SUPER FES. '83」でも歌唱された楽曲。
  • 『うなずきマーチ』(作詞:大瀧詠一/作曲:大瀧詠一/編曲:多羅尾伴内/歌:うなずきトリオ
ビートきよし島田洋八松本竜介の3人によるトリオの名称。『オレたちひょうきん族』内で歌われた楽曲。
  • 『熱き心に』(作詞:阿久悠/作曲:大瀧詠一/ストリンスアレンジ:前田憲男/歌:小林旭
大滝は小林の大ファンで、小林の代表曲である「さすらい」と「惜別の唄」を掛け合わせて作ったと言っている。ちなみに「熱き心」は阿久悠が色紙によく書いていた言葉である。
大瀧がこよなく愛するクレージーキャッツと、クレージーの数々のヒット曲を生み出した作曲家の萩原哲晶へのオマージュ。青島幸男の作詞を得て、往年のクレージーらしい作品になったが、大滝同様クレージーのファンであった所ジョージには酷評される。アレンジには昔のヒット曲のフレーズも垣間見える。
  • 夢で逢えたら』(作詞:大瀧詠一/作曲:大瀧詠一/編曲:大瀧詠一/コーラス&ストリングスアレンジ:山下達郎/歌:吉田美奈子
ラッツ&スターのカヴァーでも知られるように、現在日本の歌謡曲としては最も多くのカヴァーバージョンの存在する楽曲だが、大瀧自身によっては一度も歌われていない。
「君は天然色」の姉妹曲として作られた曲。アニメ「ちびまる子ちゃん」のオープニングテーマ。シングル等にクレジットされてはいないが、コーラスアレンジを山下達郎が手がけ、コーラスでも参加している。

[編集] トリビュート・アルバム

[編集] 主な別名・変名

  • 大滝栄一
  • 大滝詠一(アーティスト名)
  • イーチ大滝(DJ
  • 多羅尾伴内(アレンジャー、CM音楽作曲時)
  • ちぇるしぃ (CHELSEA) (アレンジャー)
  • 笛吹銅次(レコーディングエンジニア)
  • RINKY O'HEN(アレンジャー。多羅尾伴内の別名)
  • 多幸福(テレビドラマのプロデューサーとの共同ペンネーム)
  • 南部半九郎(ベーシスト)
  • イーハトヴ・田五三九(ドラマー)
  • Jack Tones(多重録音コーラス時の一人コーラスグループ。グループ名は楽曲提供したキングトーンズと、アメリカのコーラスグループQuin-tones、The Teen Queensから)
    • 宿霧十軒 (Bass)
    • 我田引水 (Baritone)
    • ちぇるしぃ (1st Tenor)
    • 金田一幸助 (2nd Tenor)
  • 遠山”桜吹雪”金五郎(「お花見メレンゲ」(『NIAGARA CALENDAR '78』)ヴォーカル)
  • 国定公園(「名月赤坂マンション」(『NIAGARA CALENDAR '78』)ヴォーカル)
  • 二宮損損(「座 読書」(『NIAGARA CALENDAR '78』)ヴォーカル)
  • 坂本八(「お正月」(『NIAGARA CALENDAR '78』)ヴォーカル、坂本九のパロディー)
  • トランク短井(「お正月」(『NIAGARA CALENDAR '78』)ヴォーカル、フランク永井のパロディー)
  • 厚家羅漢(評論家、解説者)
  • 鬼野盗作("ナイアガラ俳句友の会")
  • 馬耳東風("信じられる耳を持つ努力をしよう会"会長)
  • 吉川詠一

(その他多数)

[編集] CMソング

1976年は山下達郎が担当(映像は秋吉久美子)だが、これは大瀧曰く「当初は75、76年はシュガーベイブが担当することを制作会社と約束していたが、75年はスポンサー側の要望で再度自分が担当し、76年については、シュガーベイブが解散した為、約束を履行する意味からリーダーの山下がやる事になった」。
過去に発売されていた東ハトキャラメルコーンのライバル商品
大滝が最初に作ったバージョンは、却下された。
映像は渡哲也

[編集] 参考資料

  • All About Niagara(増補改訂版、白夜書房、2005年)
  • 各アルバムのライナー・ノーツ

[編集] 監修ビデオ、DVD

[編集] 書籍

  • All about Niagara 八曜社, 1982.1
  • テレビの黄金時代 キネマ旬報社 1983.5 -小林信彦監修によるクレージー・キャッツ本。谷啓による正しいガチョーンのやり方収録。谷啓、小林信彦、大瀧詠一による座談会も収録。
  • いちど話してみたかった─小林信彦デラックストーク 情報センター出版局 1983 -小林・大瀧の対談が収録。
  • All about Niagara 白夜書房, 2001.3
  • 小林旭読本 歌う大スターの伝説 小林信彦と共同で責任編集 キネマ旬報社, 2002.3.
  • All about Niagara 増補改訂版 白夜書房, 2005.12

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