加藤一二三
| 加藤一二三 九段 | |
|---|---|
| 名前 | 加藤一二三 |
| 生年月日 | 1940年1月1日(72歳) |
| 棋士番号 | 64 |
| 出身地 | 福岡県嘉穂郡稲築村(現・嘉麻市) |
| 師匠 | 剱持松二八段 |
| 段位 | 九段 |
| 戦績 | |
| タイトル獲得合計 | 8期 |
| 一般棋戦優勝回数 | 23回 |
|
この表について
|
|
加藤 一二三(かとう ひふみ、1940年1月1日 - )は、将棋棋士。実力制6人目の名人。剱持松二八段門下(当初は南口繁一九段門下)。棋士番号は64。
目次 |
[編集] 略歴
現役棋士生活57年超、通算対局数、通算敗戦数は歴代1位(更新中)であり、1950年代、1960年代、1970年代、1980年代、1990年代、2000年代の各年代で順位戦最高峰A級に在籍したことがある唯一の棋士である。史上最年少(14歳)でプロ棋士になった記録は半世紀以上過ぎた今もなお破られていない。
大山康晴十五世名人、中原誠十六世名人、米長邦雄永世棋聖を相手に、それぞれ100回以上対局(百番指し)。
[編集] 人物
1940年1月1日、福岡県嘉穂郡稲築村(現・嘉麻市)生まれ。同年代の棋士からの愛称は「ピン(一)さん」。 カトリック教徒であり、1986年に聖シルベストロ教皇騎士団勲章受章。紫綬褒章受章(2000年)。
盤上・盤外においての独特なこだわり、その強烈な個性と言動は老年においてなお話題を欠かせない棋士であり数多くの逸話(伝説)を残し続けている。
[編集] 戦績
[編集] 神武以来の天才
1954年に史上最年少棋士・史上初の中学生棋士[注 1]となる。「加藤一二三四段」という、漢数字の並びが話題となった。
さらには、同年度から順位戦で4年連続昇級して18歳でA級八段となるという偉業を成し遂げ、「神武以来の天才」と呼ばれた。A級順位戦の1年目は負け越したが、2年目(1959年度)で第19期名人戦(1960年)の挑戦権を得、20歳でタイトル初挑戦。七番勝負は大山康晴名人に1勝4敗で敗れた。
[編集] タイトル戦での大山・中原との対決
1960年代は、上記の名人戦を含めタイトル戦に7回登場したが、相手はいずれも大山であった。当時は大山の全盛期であり、毎年全部ないしはほとんどのタイトルを大山が占めていた。しかし、6度目のタイトル挑戦となった1968年度の第7期十段戦において、大山十段(名人を含む四冠)をフルセットの接戦の末に破り、プロ15年目にして、ついに初のタイトル獲得を果たした。
1970年代から1982年にかけては、一転して中原誠との対決の時代となる(将棋界が「大山時代」から「中原時代」に移行したことも意味する)。 中原との対戦成績は一時1勝19敗という大差であったが、本人は特に苦手意識はなかったという。この期間、タイトル戦に14回登場したが、そのうち中原との対決は9回にも上った。当初は、1973年度の名人戦、および、1976年度・1977年度の十段戦で、中原の前に3回連続で敗退した。ところが、1977年度の第3期棋王戦では、前年に大内延介から奪った棋王位を、中原五冠王を相手に3-0のストレートで防衛し、六冠独占を阻止した。1978年度の王将戦では中原から王将位を奪取し、(直後に棋王戦で米長邦雄に敗れるまでの束の間ではあるが)自身初の二冠王となった。1980年度の十段戦では中原から4-1で奪取、翌年度も米長を相手に防衛を果たす。
[編集] 名人獲得とその後のタイトル戦
3度目の挑戦となった1982年の第40期名人戦では中原に挑戦、4勝3敗・1持将棋・2千日手(実質十番勝負)という名人戦史上に残る空前の名勝負の末、初挑戦から苦節22年、念願の名人位を初めて手中にした[注 2]。また、十段と合わせ自身2度目の二冠制覇でもあった。
中原とのタイトル戦での対決は、中原が5回獲得、加藤が4回獲得という結果であり、全盛期の中原に対して大善戦した[注 3]。1983年以降、両者はタイトル戦で相まみえることはなかった。
その後は、1984年度の第25期王位戦で高橋道雄から奪取するが、翌年に高橋に奪回され、以降、タイトル戦の舞台から遠ざかっている。
[編集] 順位戦
A級在籍期数(名人在位を含む)は通算36期であり、大山が44期、中原が29期であることを考えれば、非常に多いことがわかる。しかし、大山と中原が初のA級からの連続在籍であるのに対し、加藤の場合はA級とB級1組の間の往復がある。A級への復帰を決めたB級1組順位戦の期は、第16期(1961年度)、第21期(1966年度)、第23期(1968年度)、第51期(1992年度)の4回(= 4往復)である。このうち最初の3往復は、A級陥落から1期での即復帰である。
しかし、2002年のB級1組以降は陥落の道を歩む。名人経験者として順位戦B級2組に陥落したのは史上初である。2006年度は最終戦までB級1組昇級争いに絡んだが、2007 - 2008年度に棋士人生で初となる降級点を2年連続で喫し、C級1組へ降級する。加藤が順位戦のC級で指すことになるのは、プロデビューから2年目の1955年度以来、53期・54年ぶりである。
[編集] 1000勝と1000敗
1989年8月21日、大山に次いで史上2人目の通算1000勝(特別将棋栄誉賞)を達成。さらに勝ち星を重ね、2001年には史上3人目の通算1200勝達成。棋士会において、自身が‘九段昇段後の1000勝’を達成したことを示し、(タイトル称号の「十段」ではなく)段位としての「十段」の新設を提案した。 2011年11月、史上3人目の1300勝を達成した。
一方、2007年8月22日の朝日杯将棋オープン戦予選、戸辺誠(当時四段)との対局において、史上初の通算1000敗を記録する(1261勝1000敗[1])。これは、加藤のキャリアの長さもさることながら、トーナメント戦(1敗すれば終わり)以外の対局、すなわち、タイトル戦の番勝負や挑戦者決定リーグ戦に数多く登場したことをも表す。なお、本人はテレビでこの話題に触れられた際、「150局くらいは逆転負けでした」と述べている。ちなみに、同日時点での通算敗数の史上2位は、有吉道夫九段の955敗(1061勝)であり、その後、有吉も通算1000敗を記録した。
1954年8月1日に四段となってからの現役棋士生活57年超は、大山(1940年四段 - 1992年現役のまま死去)、関根茂(1953年四段 - 2002年引退)や有吉道夫(加藤より9か月遅れて1955年に四段、2010年引退)、史上最年長の丸田祐三(戦争によるブランクもあるが1946年四段 - 1996年引退)らを押さえて歴代1位であり、なお更新中である。
[編集] 棋風
半世紀にわたる棋士人生を通して居飛車党を貫き、数々の定跡の発展に貢献してきた。また、よいと思った戦型は何度も何度も採用し続ける傾向にある。羽生善治は「作戦が立てやすいことは立てやすいが100%同じ戦法で来るとなると不気味でもある。一つの戦法を突き詰めていくのも一つの行き方だし、一局一局が確実に次への知識になる。悪いことばかりでもないようだが、作戦が読まれて相手の研究にはまる危険性を考えると現実にそういう人はほとんどいない。だが加藤先生は全然恐れておられないようだ」と書いている(羽生善治「羽生善治 好機の視点」小学館文庫、初出は月刊将棋マガジン)。
対振り飛車戦の居飛車では、特に大山康晴との戦いの経験を生かして作り上げた居飛車舟囲い急戦の各種の定跡において、加藤の創案が多い。対三間飛車急戦も、加藤の創案した仕掛けが多い。基本的に振り飛車には急戦で立ち向かうが、大山康晴にタイトル戦で挑戦した際に居飛車穴熊を採用したことが2回ほどある。
相居飛車戦では、矢倉▲3七銀戦法や、中飛車に対する袖飛車からの急戦は「加藤流」と呼ばれ、多くの棋士が採用している。
何と言っても有名なのは、「加藤棒銀」と呼ばれるほど棒銀戦法の採用率が高いことである。四間飛車に対して居飛車穴熊が流行してもなお、加藤は棒銀で挑み続けている。また、相居飛車の一つである角換わりの将棋においても、加藤は棒銀を採用する傾向にある(棒銀よりも腰掛銀を採用する棋士が多い)。
また、ひねり飛車や横歩取り3三桂のような空中戦も得意としている。横歩取り3三桂戦法も、一時期後手番で採用した。さらに、その後は、後手番では矢倉中飛車を多用した。
- 長考派・1分将棋の神様
常に最善手を探すタイプのため、序盤からたびたび長考することが多い。有名なのは1968年の十段戦第4局で、一手に7時間も考えたことである(休憩時間も含む)。長考するため終盤では持ち時間がなくなり、秒読みに追い込まれることが多い。しかし、そこからがまた強く、「秒読みの神様」あるいは「1分将棋の神様」の異名を持つ[注 4]。その強さは早指しの棋戦でも発揮され、NHK杯戦では羽生、大山に次いで歴代3位の優勝7回を誇り、他の早指し棋戦(早指し選手権戦、日本シリーズ、早指し王位決定戦)でも数々の優勝をしている。ただしNHK杯戦においては、1993年の優勝以来、決勝の舞台に登場していない(もっとも、1993年当時53歳での優勝は大山には及ばないものの早指し戦としては際だった年長記録である)。
- 好きな駒は銀
駒の中では「銀将」が好きだと述べている。鋭角的でどんどん前に出るから、うまくいけば良くなり、会社で言えば、営業部長で改革して業績を拡大するイメージがあるからとのこと[2]。
[編集] 人物・エピソード
加藤は将棋の内容以外のエピソードが多々ある。たとえば、2006年5月より「BIGLOBEストリーム」の「将棋ニュースプラス」では「ザ・加藤一二三伝説」が配信されている。また、2007年刊行の著書『一二三の玉手箱』(毎日コミュニケーションズ刊)において、加藤自身が逸話のいくつかについて解説を加えている。
- 対局での流儀
- 対局中、時折、両膝をついたまま体を起こし、長く結んだネクタイを締め直すのも特徴。
- 1. すぐに届いて、すぐに食べられる。(鍋焼きうどんは冷めるまでに10分掛かり、昼食休憩時間60分の間に食べるには不向き。天麩羅定食を注文して届かなかったことが2回ある。などの過去の昼食に関する体験も語っている。)
- 2. 対局中に他のことに神経を使いたくない。なお、NHKの科学番組で鰻重は短時間で滋養を得られる食事として紹介され、自信を持って食べているとのこと。
- 甘いものが好きで、対局中に板チョコをばりばり食べる。NHK BS2で放送された「大逆転将棋2007」における米長との「はさみ将棋名人戦・最終章・陣屋決戦」でも、通常の対局のときのように持参してきた板チョコを対局中に食べ始め(同時にVTRにコミカルなBGMが流れ始め)、スタジオでVTRを見ていた出演者達の笑いを誘った。米長は「俺にも食べさせてくれないか」と申し出て、加藤から分けてもらって食べた。ちなみに対局内容の方は、加藤が絶対有利の局面から米長が‘泥沼流’で引き分けに持ち込み、指し直しの末に米長が勝った[注 5](米長が‘はさみ将棋名人’を防衛)。
- NHK杯戦で優勝した際、優勝セレモニーの祝辞で当時の日本将棋連盟会長・二上達也九段に、「アマチュアの人が(加藤の対局中の奇行を)真似すると困るのでマナーに気を付けて欲しい」と言われた。もっとも二上は著書で、そのようなしぐさは本人が形勢の容易でないと思っているときに出るもので、対局相手にとっては良い兆候だったと述べている[3]。
- 箱根の旅館での対局時に人工の滝の音が耳障りであったため、滝を止めさせた。また天童では庭の水車を止めさせた。なお、羽生がタイトル戦で地方を回った際、加藤が滝を止めたと聞いた場所で自分も止めたという話を羽生から聞いたとのこと。また羽生は、加藤が過去5回は滝を止めた話を人から聞いたとのことだが、加藤の記憶にあるのは前述の2回である[2]。
- クリスチャンとして
- 1970年12月25日に洗礼を受ける。
- 1986年にローマ法王ヨハネ・パウロ2世から聖シルベストロ教皇騎士団勲章を受章。有事の際には馬に乗って駆けつけなければならない、と、将棋観戦記者である東公平に語ったのは、湾岸戦争の話をしていた時であった[4]。
- 自戦記などを書くとき、必ずと言っていいほどキリスト教のことに触れる。「キリスト教について」という章名を入れることさえある。「将棋世界」誌で自戦記を連載した際も、毎回必ず冒頭にキリスト教の話題を持ち出した。
- 対局中の望ましい態度として、「元気いっぱい、明るい気持ちで、前向きに積極的に、快活で、勇気を持っていること(ひるんだり、弱気になったり、落ち込むのは良くない)」が大事であり、いい状態を持続させるために祈ったり歌を歌ったりする[2]。
- 奥さんと一緒に四谷のキリスト教会(聖イグナチオ教会)でカップル相手に結婚相談を行っている[5]。
- テレビでの解説役として
- ハイトーンの早口で、特に自分の勝った対局など、自慢とするエピソードを語るときになりやすい。NHK将棋講座の講師を務めたときも、やはり早口であった。2008年の第66期名人戦第3局の立会人を務めた際にNHK衛星放送の中継でゲスト解説も行ったが、解説に熱が入るあまり中継終了間際まで話し続け、司会者や放送解説の井上慶太らを慌てさせた。
- 両手でボディーランゲージをしながらしゃべる。両手を高い位置から下ろすときに、大きな丸を描きながら下げるのが癖である。
- 数字の「5」を短く発音する。たとえば、「△5三銀」の発音は「ごーさんぎん」が一般的であるが、加藤は「ごさんぎん」と発音する。
- 2007年10月14日放送のNHK杯戦(羽生善治対中川大輔)で解説役を務めた際、最終盤で中川の玉のトン死(急転直下で羽生の勝ち)の筋に気づき、「あれー?!あれ、あれ、あれ、待てよ、あれ、あれ、おかしいですねぇ?あれ、もしかしてトン死?えと、こういって、あれれおかしいですよ。あれー、あれ、あ、歩が三歩あるから、あれ、トン死なのかな?えー。これとん死?トン死なんじゃないですかねー?(中略)大逆転ですね。たぶん。これは詰んでますよ。ですねきっと。ヒャァー。」という驚嘆の声を連発した。さらには「NHK杯戦史上に残る大逆転、…じゃないかな?」と評した。
- 2008年6月22日放送のNHK杯(石田和雄対北浜健介戦)では北浜のことを何度も「北野さん」と誤って呼んだ。感想戦でも、ボヤくことで知られる石田とともにしゃべりまくった。
- トラブル
- 当初の師匠は南口繁一九段であったが、1998年に、剱持松二八段の門下に変わった(変えた)。剱持とは以前から懇意にしており、また、剱持の師匠である荒巻三之九段(1993年に死去)とは家族ぐるみの付き合いだったという縁もあった。南口については「私が奨励会に入る時の師弟関係は親が勝手に決めた名目上のことで、私は師匠から一切世話にならなかった。私の師弟関係は無効であるにも関わらず、あたかも関係があったかのように扱われて、不名誉な思いをしてきた。また妻や妻の親戚の人達に長年にわたり不名誉で不快な思いをさせてきた。」との旨を述べている[6]。
- 第13期銀河戦の阿部隆戦(2005年5月26日放映)の終盤で、桂馬を成らずで動かし、いったん指を離したが、直後に持ち直して成りに指し直してしまった。勝敗の記録自体は加藤の勝ちのまま変更はなかったが、視聴者から「待った」ではないかとの指摘があり理事会で検討した結果「待った」の反則と確認された[7]。加藤への処分として対局料没収の上、罰金が科せられ次期の銀河戦は出場停止になった[8]。(銀河戦の項参照)。
- 将棋会館の暖房は音がして気が散るため、電気ストーブを好んでいる。電気ストーブを用いた際に相手も寒くないようにと等距離に配置したものの顔に当たり熱かったため、嫌がらせと誤解を受け、位置を是正した[2]。
- 記録係の置いた将棋盤の位置を変えようとして、先に着席していた相手ともめたことがある。加藤はくじ引きを提案したが、相手が反対したため、手合係の仲介により先輩である加藤の顔を立てる案が提案をされ、また加藤が将棋盤の位置にこだわる理由(部屋の中央に置いた方が安定し、お互いに気持ちよい)を説明をした結果、相手は納得したが、今度は加藤が「対局場に入った場合は四段も名人も関係ない真剣勝負の場であるから、後輩が先輩の顔を立てるのは不本意であり、お互いに我慢をするのは良くない」とのことにより、結局くじ引きを行われ、当初の位置に落ち着いた[2]。
- 棋聖戦で相手棋士からの申し入れにより、理事会から空咳(咳払い)をしないように指導されたことがある。(なお空咳をするときは絶好調であり、また空咳は体の中に溜まったストレスを体の外に出すという心理が働ていたと述べている。)[2]
- 2008年12月、自宅マンションそばで野良猫を餌付けしたため、ふん尿をまき散らされるなどの被害を受けたとして、マンションの他の住人や管理組合から、餌やり中止と慰謝料など約645万円の賠償を求める訴訟を起こされた[9]。2010年5月13日、東京地裁は原告の訴えを認め、加藤に餌付け中止と慰謝料204万円をの支払いを命じた。[10][11]本人は「猫に長く生きてもらいたいと思ってした行動なのに、理解できない」と控訴する意向を示していたが、26日、控訴しない方針を明らかにした。毎日新聞の取材に加藤氏は「判決文を熟読すると、猫の命を大切にするという私の取ってきた行動を認めてくれている。私の主張は変わらないが、判決なのでルールとして受け入れる」と述べた。加藤自身は以前から、周辺住人の協力によらず、ほぼ一人で避妊や去勢手術を漸次施しているため、現在では4匹前後にまで野良猫は減っていたと報道されている。
- その他
- 昭和50年代のトップアマ棋士との駒落ち将棋に強く、昭和の真剣師小池重明にも勝利している。金銀の使い方のうまさから下手泣かせとして知られた。
- 1998年11月6日の対土佐浩司戦(棋聖戦)から1999年10月2日の対丸山忠久戦(A級順位戦)にかけて、21連敗した。トップ棋士であるはずのA級棋士が21連敗したことは、河口俊彦「新対局日誌」(「将棋世界」誌に連載)などで話題にされた。
- 2009年の名人戦(羽生-郷田)第2局で立会人を務めた際、羽生の封じ手が収められた封筒に対局者だけでなく自らもサインし、また、翌朝の封じ手開封の時には自分が封じ手を見る前に郷田に封じ手用紙を渡して見せるという趣向を見せた。これに関してNHK BS2の中継で司会を担当していた後藤理アナウンサーに問われると、「私がタイトル戦に出ていた当時は、第三者である立会人もサインしていた」「封じ手を最も見たい人に先に封じ手を見せたのは、私の‘新手’です」と自慢した。
- NHKでかつて放送されていた音楽の広場にゲスト出演した時には、対局中に相手の側に立って自陣を反対から眺めるというエピソードが紹介されたが、それを極めて早口で説明したために、早口で鳴らす司会の黒柳徹子から「将棋の棋士なのに早口でいらっしゃるんですね」と感心されてしまう。対して加藤は「将棋はじっくり考えるんですがしゃべるのは早いんです」と応じた。
[編集] 昇段履歴
- 1951年 3級(奨励会入会)
- 1952年 初段
- 1954年8月1日 四段(プロ入り、史上初の中学生棋士)
- 1955年4月1日 五段(順位戦C級1組昇級)
- 1956年4月1日 六段(順位戦B級2組昇級)
- 1957年4月1日 七段(順位戦B級1組昇級)
- 1958年4月1日 八段(順位戦A級昇級)
- 1973年11月3日 九段(九段昇格規定 30点)
[編集] 主な成績
[編集] タイトル
| タイトル | 番勝負 | 獲得年度 | 登場 | 獲得期数 | 連覇 |
| 竜王 | 七番勝負 10-12月 |
- | - | - | - |
| 名人 | 七番勝負 4-6月 |
82(第40期) | 4 | 1期 | - |
| 十段 | 七番勝負 (終了棋戦) |
68(第7期), 80-81 | 7 | 3期 | 2 |
| 棋聖 | 五番勝負 6-7月 |
- | 2 | - | - |
| 王位 | 七番勝負 7-9月 |
84(第25期) | 3 | 1期 | - |
| 王座 | 五番勝負 9-10月 |
- | - | - | - |
| 棋王 | 五番勝負 2-3月 |
76(第2期)-77 | 3 | 2期 | 2 |
| 王将 | 七番勝負 1-3月 |
78(第28期) | 5 | 1期 | - |
| 登場回数合計24、 獲得合計8期(歴代8位タイ) | |||||
(2010年度終了現在。最新は1985年度の王位失冠。)
[編集] 一般棋戦優勝
- 王座戦(非タイトル戦時代) 1回(1962年度=第10回)
- NHK杯将棋トーナメント 7回(1960年度=第10回、1966、1971、1973、1976、1981、1993年度)
- 早指し将棋選手権 3回(1977年度後期=第10回、1981年度=第15回、1990年度=第24回)
- JT将棋日本シリーズ 2回(1983年度=第4回、1987年度)
- 天王戦 1回(1985年度=第1回)
- 名将戦 1回(1982年度=第9期)
- 高松宮賞争奪選手権戦 3回 ・・・ 優勝2回(1956年度=第1回、1964年度)、高松宮賞1回(1966年度)
- 日本一杯争奪戦 2回(1958年度=第2回、1960年度)
- 六・五・四段戦 1回(1955年度=第1回)
- 早指し王位決定戦 1回(1959年度=第6回)
- その他優勝 1回
- 優勝合計23回
[編集] 在籍クラス
竜王戦と順位戦のクラスは、将棋棋士の在籍クラス を参照。
[編集] 将棋大賞
- 第 4回(1976年度) 最多勝利賞・連勝賞・技能賞
- 第 5回(1977年度) 殊勲賞
- 第 6回(1978年度) 殊勲賞
- 第 8回(1980年度) 殊勲賞
- 第 9回(1981年度) 最優秀棋士賞・連勝賞
- 第12回(1984年度) 最多勝利賞・最多対局賞
- 第29回(2001年度) 東京将棋記者会賞
[編集] 記録(歴代1位のもの)
- 最年少プロ棋士 14歳7ヶ月
- 最年少A級 18歳
- 最年少名人挑戦 20歳
- 順位戦でのデビューからの4期連続昇級(加藤の他には中原のみ)
- A級順位戦最多勝利 149勝
- A級順位戦最多対局 313局
- 2011年11月2日までの通算成績
- 最年少A級陥落 21歳
- 最多A級昇級(降級) 5回
- 最年少A級返り咲き 22歳[注 7]
[編集] タイトル戦全成績
| 年度 | タイトル | 勝敗 | 相手 | 備考 |
| 1960 | 名人 | ○●●●千● | 大山康晴 | |
| 1961 | 王将 | ●●● | 大山康晴 | 指し込み |
| 1963 | 王位 | ○●○●●● | 大山康晴 | |
| 1966 | 王将 | ●●○●● | 大山康晴 | |
| 1967 | 王将 | ●●○●○● | 大山康晴 | |
| 1968 | 十段 | ●●○○●○○ | 大山康晴 | 奪取 |
| 1969 | 十段 | ●●○○千●千● | 大山康晴 | 失冠 |
| 1973 | 名人 | ●●●● | 中原誠 | |
| 1976 | 十段 | ●○千●●○○● | 中原誠 | |
| 1976 | 棋王 | ○○○ | 大内延介 | 奪取 |
| 1977 | 十段 | ○●○●●○● | 中原誠 | |
| 1977 | 棋王 | ○○○ | 中原誠 | 防衛、中原の六冠独占を阻止 |
| 1978 | 王将 | ●○○○○ | 中原誠 | 奪取、束の間の二冠王 |
| 1978 | 棋王 | ●●○○● | 米長邦雄 | 失冠 |
| 1979 | 棋聖・前 | ●○●● | 中原誠 | |
| 1979 | 王将 | ●●○●○● | 大山康晴 | 失冠 |
| 1980 | 十段 | ○●○○○ | 中原誠 | 奪取 |
| 1981 | 十段 | ●○●○○○ | 米長邦雄 | 防衛 |
| 1981 | 棋聖・後 | ●●● | 二上達也 | |
| 1982 | 名人 | 持●○●○千○●千○ | 中原誠 | 奪取、「十番勝負」、二冠王 |
| 1982 | 十段 | ●○●○●● | 中原誠 | 失冠 |
| 1983 | 名人 | ●●●○○● | 谷川浩司 | 失冠 |
| 1984 | 王位 | ○●●○●○○ | 高橋道雄 | 奪取 |
| 1985 | 王位 | ●●●● | 高橋道雄 | 失冠 |
[編集] 栄典
[編集] 主な著書
- 加藤一二三名局集 現代将棋名局集5 (1981年1月、筑摩書房)
- 加藤流 矢倉+中飛車破り(1985年12月、筑摩書房、ISBN 4-480-67002-5)
- 楽しむ詰将棋(1992年12月、光文社、ISBN 4-334-71632-6)
- 加藤流 振り飛車撃破(2003年9月、毎日コミュニケーションズ、ISBN 4-8399-1236-X)
- 加藤流 最新棒銀の極意(2003年11月、毎日コミュニケーションズ、ISBN 4-8399-1285-8)
- 加藤流 最強三間飛車撃破(2004年6月、毎日コミュニケーションズ、ISBN 4-8399-1540-7)
- 加藤の振り飛車破り決定版(2005年3月、日本将棋連盟、ISBN 4-8197-0380-3)
- 一二三の玉手箱(2007年1月、毎日コミュニケーションズ、ISBN 4-8399-2277-2)
- 老いと勝負と信仰と(2011年4月、ワニブックス、ISBN 4-8470-6035-0)
[編集] 脚注
- ^ 加藤一二三がプロになったのは中学3年のときで、谷川浩司は中学2年でプロになっているが、加藤が早生まれで谷川が4月生まれのため、史上最年少は加藤である。
- ^ 谷川浩司は、この名人戦最終局の解説会(東京・将棋会館)で解説役を務めていた。谷川の夢は中原名人に勝って名人位に就くことであった。谷川は当時の心境について「加藤先生には申し訳ないが、中原先生に名人のままでいてもらわなければ困ると思った。(解説役を務める立場なのに)加藤先生の勝ちとなったときには呆然とした。」との旨を語っている(別冊宝島380「将棋王手飛車読本」)。翌年、谷川がA級1年目で加藤名人への挑戦権を得て、‘中原名人’ではなく加藤名人から名人位を初奪取することとなる。
- ^ 中原との対局が最も多かった棋士といえば米長邦雄であるが、中原の全盛期にあたるこの期間(1970年代 - 1982年)に関して言えば、中原を相手にして米長がタイトルを獲得した回数は3回のみである。
- ^ ただし、中原誠は、「加藤さんが‘1分将棋の神様’、‘秒読みに強い’とは言っても、随分、手を間違えている。むしろ、1分将棋・秒読みに強いと感じさせるのは‘羽生世代’だ。」と述べている。(別冊宝島380「将棋王手飛車読本」)
- ^ 先に3枚取れば勝ちというルールであったが、米長に3枚目を取られても負けたことに気づかず、次の手を指そうとした。
- ^ 同年3月31日付けで引退の中原誠(1308勝)を除く。
- ^ A級昇級年少記録全体で見ても、谷川浩司の19歳に次ぎ3位。
[編集] 出典
- ^ 加藤一二三九段・通算1000敗を記録(日本将棋連盟)
- ^ a b c d e f g (将棋ニュースプラス「ザ・加藤一二三伝説」本人談より)
- ^ 二上達也著『棋士』(晶文社、2004年)
- ^ 東公平、1996、『熱闘!100番勝負 将棋・珍プレー好プレー』、朝日ソノラマ 40.
- ^ 『こんなツレでゴメンナサイ。』(望月昭著、文藝春秋、p165)
- ^ 『将棋世界』1998年11月号
- ^ http://www.kansai-shogi.com/webmagazine/05-8-1.html
- ^ お知らせ(日本将棋連盟)
- ^ “野良猫に餌やりでトラブル 訴えられた将棋・加藤元名人の「言い分」”. 2009年3月1日閲覧。
- ^ 東京地方裁判所立川支部 平成20年(ワ)第2785号 猫への餌やり禁止等請求事件 平成22年5月13日判決
- ^ 野良猫餌やり、加藤・元将棋名人に慰謝料204万円命令 - asahi.com、2010年5月13日
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||
|
|||||