田園調布

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田園調布(でんえんちょうふ)は、東京都大田区の町名。郵便番号は145-0071。大田区の最西端に位置し、世田谷区最南端と隣接、日本の高級住宅街として有名[1]

田園調布駅西口から広がる放射状道路のイチョウ並木

概要[編集]

田園調布付近の空中写真(1989年撮影)。
画像中央付近が田園調布駅。駅から同心円状のエトワール型の道路と街路樹、また広場、公園が設けられている。特に駅の西側一体は街路樹等の樹木が多いことが分かる。
国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成

田園調布は、1918年大正7年)に実業家渋沢栄一らによって立ち上げられた『理想的な住宅地「田園都市」の開発』を目的とする田園都市株式会社[2][3]により開発、1923年大正12年)8月から分譲された地域である。 現在の大田区田園調布の大部分の地域が第一種低層住居専用地域第2種風致地区であり、東京でも有数の高級住宅街である[4]

大田区田園調布(でんえんちょうふ)以外に、田園調布本町(でんえんちょうふほんちょう)、田園調布南(でんえんちょうふみなみ)の住所表記もあるが、旧「大森区田園調布」に相当する地域で、大田区田園調布の南側に位置する。また隣接する世田谷区側に玉川田園調布(たまがわでんえんちょうふ)の表記があるが、田園都市株式会社が多摩川台住宅地として田園調布と一体に造成・分譲を行った地域である。

地域[編集]

現在の大田区田園調布は一丁目〜五丁目からなり、高級住宅街のイメージで語られる際の「田園調布」とは、田園調布駅西側に広がる扇状の街路付近の大田区田園調布三丁目、四丁目の一部、及び玉川田園調布の一部を中心とした一帯を指す[5]が、かつては田園調布一丁目から二丁目にかけての国分寺崖線に面した部分、及び田園調布四丁目から五丁目にかけての多摩川に面した国分寺崖線の辺りに大邸宅が集中し、現在、多摩川駅周辺の斜面に点在するマンション群はその名残である[6]

田園調布と表記のつく地域は、田園調布駅周辺の田園都市株式会社が開発し分譲を行った地域と、この分譲に合わせて周辺の地主が土地区画整理組合を結成して宅地造成した地域の二つからなる。前者は現在の二丁目の一部(田園調布駅の東側)、三丁目、四丁目の一部、及び玉川田園調布の一部からなる約30万坪(約100万平米)であり[7]、土地区画整理組合によって宅地開発が行われたのは一丁目、二丁目の一部、四丁目の一部、五丁目、田園調布本町、及び田園調布南である。前者の大田区の部分の町内会が社団法人田園調布会となっている。

大田区田園調布は昭和30年代初頭に住居表示変更が行われ、一丁目から五丁目だったのが一丁目から七丁目に変更された。さらに1970年(昭和45年)に地番改正が行われ、中原街道から北側の田園調布三丁目から七丁目を一丁目から五丁目に、中原街道と東海道新幹線品鶴線(現・横須賀線)に挟まれる田園調布二丁目を田園調布本町、線路の南側の田園調布一丁目を田園調布南と表記変更した。

大田区田園調布には、北から、東急東横線目黒線が乗り入れる田園調布駅と、この2線に加え東急多摩川線の始発駅でもある多摩川駅があり、田園調布本町には東急多摩川線の沼部駅がある。

地価[編集]

住宅地の地価は、2014年平成26年)1月1日公示地価によれば、田園調布3-23-15の地点で91万円/m2となっている。[8]

町のイメージ・周辺環境・環境保持[編集]

田園調布せせらぎ公園から多摩川台公園方面を望む(2013年4月撮影)。
左手は多摩川駅、正面方向が多摩川台公園にあたる。右手は田園調布カトリック教会、その先、約800メーターの所に宝来公園がある。

開発当初は日本の都市に新たに出現した中堅層向けの住宅地であったが、田園調布に居住しこの街の開発を推進した、渋沢栄一の子秀雄によると「私は田園調布の西側に半円のエトワール型を取り入れてもらった。この分譲地のサイト・プランを依頼した矢部金太郎君に注文をつけたのである[9]」とエトワール型の道路を造り街路樹を植え、広場と公園を整備し、庭を広くとり緑地の一部とし、街全体を庭園のようにするなど、良好な住宅環境であったことから次第に評価が高まった。また国分寺崖線の良好な地盤の上にある事から[10]関東大震災後に都心から多くの人が移住した[11]。開発当初からの駅西側に広がる扇状に整備された区画一体は、イチョウの並木と相まって「高級住宅街」としての趣を備えている[12]。地元自治会としては1926年(大正15年)に設立された「社団法人田園調布会」があり、住宅の新改築に際しては厳しい制限を求め、環境保全に努めている。同法人によると、田園調布が「日本で初めて計画的に開発され、分譲された庭園都市」とされている。

東急東横線目黒線が通る多摩川駅の東側、田園調布一丁目に約3万平米の広さの田園調布せせらぎ公園(旧多摩川園遊園地の一部)があり、多摩川駅の西側から多摩川の河川敷との間、一丁目と四丁目に約6万6千平米の広さの多摩川台公園が、そして三丁目には大正時代末期からある宝来公園があり、第2種風致地区による建築制限と相まって、良好な住環境が整っている。

田園調布一丁目、二丁目の主要区画道路には桜並木が植えられ、ちょうど学校の始業式の季節には満開の桜が花のトンネルのようであった。現在ではその多くが老木となり、最盛期よりも減ってはいるが、開花期には美しい花を咲かせている。

戦後には、長嶋茂雄など著名人が多く住み、1980年代には星セント・ルイスのギャグのネタ「田園調布に家が建つ[13]にもなった。

開発の理念[編集]

日本の田園都市建設の参考とするため、渋沢秀雄が田園都市視察のため1919年(大正8年)8月から欧米11カ国を訪問した。その時の回想記によると エベネザー・ハワードロンドン郊外に創設した田園都市レッチワースよりも、サンフランシスコ郊外の高級住宅地セントフランシス・ウッドの街並を田園都市建設の参考にしているようである[14]。また、分譲当時の「田園都市案内パンフレット」の中の理想的住宅地[15]によると、日本の田園都市を建設するにあたり「田園都市という言葉はその起源から考えてみますと、今日わが国で用いられている意味とは少しその趣を異にしているように思われます。本社の如きも田園都市株式会社という商号を用いていて居りますものの、英国では田園都市と銘打って始めた事業の内容に比べますとだいぶ相違した点もありますから、ここに簡略ながら田園都市ということについて一言申し述べようと存じます」「イギリスの田園都市では工業地域の工場へ通勤する勤労者の住宅地を主眼にするのに反して、わが田園都市に於いては東京市という大工場へ通勤される知識階級[16]の住宅地を眼目といたします結果、いきおい生活程度の高い瀟洒な郊外新住宅地の建設を目指しております」また「イギリスの田園都市は工業地域、農業地域も一体に作りますが、日本の田園都市は住宅のみの建設に限定し、田園を冠する限り、その住宅の建設される地域はつぎの要件を満たすことが必要であります」

1、土地高燥にして大気清純なること。
2、地質良好にして樹木多きこと。
3、面積少なくとも十万坪を有すること。
4、一時間以内に都会の中心地に到着し得べき交通機関を有すること。
5、電信、電話、電灯、ガス、水道などの完整させること。
6、病院、学校、倶楽部等の設備あること。
7、消費組合の如き社会的施設も有すること。

とし、「上記の如き住宅地を単に郊外市と呼び捨てるのはあまりにも物足りなく思います。天然と文明、田園と都市の長所を結合せる意味に於いて同じく田園都市と呼ぶのもあながち不当ではあるまいと思います。そしてわが社の田園都市はすなわちこの種類のものなのであります」と結んでいる。つまり、ロンドンのレッチワースは住宅街に隣接して工業地域を作り、住宅街の周囲を農業地域が取り囲み緑地帯にしたのに対し、日本の田園都市ではそれらを造らず、街全体を庭園とすることを目的としたのである。実際に田園調布の西側に半円のエトワール型の道路を取り入れ、広場と公園を整備し、採算を度外視し[17]、道路、広場、公園の面積は、総面積に対し18パーセントに達しており[18][19]、良好な住環境を提供している。

また、「田園都市案内パンフレット」には理想的な住宅地である田園都市において住宅建設をする上で守るべき条件として、

1、他の迷惑となる如き建物を建造せざること。
2、障壁はこれを設くる場合にも瀟洒典雅のものたらしむること。
3、建物は三階建て以下とすること。
4、建物敷地は宅地の五割以下とすること。
5、建築線と道路との間隔は道路幅員の二分の一以上とすること。
6、住宅の工費は坪当たり百二、三十円以上にすること。[20]

をあげている。

そして、これらの理念は現在の田園調布において「社団法人田園調布会」及び大田区都市計画による「田園調布憲章」「環境保全についての申し合わせ」及び「大田区田園調布地区地区計画」などにより受け継がれている。

地名「田園調布」[編集]

地名「田園調布」の起こり[編集]

  • この地は古くには上沼部村と下沼部村とがあって、1889年(明治22年)にこれらに鵜の木村と峰村とを合わせた4村が合併し「調布村」になった地域である。
  • 住宅地としての「田園調布」の起源は、1923年(大正12年)に田園都市会社が「田園都市多摩川台」として分譲を始めたことにある。その分譲地は多くが調布村に属し、一部が玉川村に属していた。
  • 同じ1923年に目蒲線が開通し、「調布駅」が開業した。駅名はここが「調布村」村内であったことによる。
  • 1926年(大正15年)1月に上記駅名に「田園」が冠され、「田園調布駅」となった。これは東急電鉄によれば「田園都市づくりから」となっている。この時点での分譲地の一般呼称は「調布田園都市」であり、その年の5月に創立した町内会組織「田園調布会」でも規約第1条に「本会は田園調布会と称し、調布田園都市地域内の居住者をもって組織す。」とあった。しかし、駅名「田園調布」が次第に地域名としても用いられるようになり、それも当初は田園都市会社が分譲した地域(現在の大田区田園調布二丁目の一部・三丁目、四丁目の一部、世田谷区玉川田園調布一丁目・二丁目にあたる地域)を指したが、次第に隣接する下沼部一帯を合わせて「田園調布」と呼ぶようになった。
  • 1928年(昭和3年) 調布村に町制が敷かれ、「東調布町」となった。
  • 1932年(昭和7年) 東京市へ編入、田園調布の東調布町町内域は上沼部を合わせて大森区田園調布一丁目 - 四丁目となった。また玉川村村内域は、住民は田園都市の一体性を理由に大森区への編入を望んだが叶わず、世田谷区玉川田園調布となった。ここに初めて行政区画としての地名「田園調布」が誕生した。それ以後の町名の変遷は歴史節を参照。
  • 同じ調布の地名を冠する東京都調布市とは、隣接はしていない。

施設名[編集]

1950年、田園調布南に開校した東京都立大田高等学校は、1953年2月東京都立田園調布高等学校に改称している。

田園調布学園中等部・高等部は1926年開校の調布女学校に起源を持つ私立の女子校である。戦後の新制度に適合して調布中学校、調布高等学校となったが、2004年4月に現校名に改称した。学校敷地は世田谷区東玉川にあるが、環八通りを挟んで田園調布と隣り合っており、最寄駅は東急東横線目黒線田園調布駅である。

警察署や消防署は、当初「東調布警察署」「東調布消防署」を名乗っていたが、1987年(昭和62年)12月に警察署が、1994年平成6年)11月1日に消防署がそれぞれ「田園調布 - 」と改称した。 ただし、田園調布警察署は田園調布一丁目にあるが、田園調布消防署の所在地は雪谷大塚町である。なお、田園調布を冠した施設には他に「田園調布郵便局」があるがその所在地は南雪谷であり、これら警察署、消防署、郵便局の三者は中原街道と環八通りとの交差点「田園調布陸橋」を囲んで向かい合って存在している。

過去にあった施設等[編集]

田園調布一丁目には、1925年大正14年)に「多摩川園遊園地」がオープンし、昭和30年代には年間90万人を超える観光客を集めたが、レジャーの多様化とともに経営不振に陥り、1979年(昭和54年)に閉園した。跡地は一時テニスクラブとなったが、現在は田園調布せせらぎ公園と宗教施設に分割されている。

田園調布二丁目の田園調布小学校南側には、慶應大学の野球場が設置されていたが、1936年(昭和11年)に、一部は多目的スタジアムである田園コロシアムに、残りの土地は「田園テニス倶楽部」に再整備された。田園コロシアムではテニスのデビスカップをはじめ、コンサート、プロレス、ボクシングなど大きなイベントが開催されたが、施設の老朽化に伴い、1989年(平成元年)に閉鎖解体された。跡地はマンションとなっている。

田園調布三丁目の多摩川台公園南側には調布浄水場があった。多摩川の調布取水堰から水を汲み上げていたが、水質の悪化により、1967年(昭和42年)に廃止された。跡地は隣接する旧東急「松籟荘」敷地とともに、多摩川台公園に組み込まれている。なお玉川田園調布には、より規模の大きな玉川浄水場があるが、ここも水質の悪化から休止中である。

田園調布四丁目の多摩川台公園虹橋下の多摩川河川敷に巨人軍多摩川グラウンドがあった。1955年(昭和30年)に読売ジャイアンツが国有地を借り受け、ファームの本拠地、練習場として使用していたが、よみうりランドに新施設が設置されたこともあり、1998年(平成10年)に国に返還された。現在は野球場として一般に開放されている。

  • 玉川温室村

田園調布五丁目を中心に、四丁目、玉堤一丁目にかけての多摩川と丸子川との間の低地に、玉川温室村があった。1930年代にカーネーション、スイートピーを中心とした花卉・高級果実栽培が広まり、最盛期には4haを超える温室農園が立ち並んだ。しかし戦後の宅地開発と共に温室の数は減少し、1980年代には大部分が姿を消したが、現在でも数軒の農園が存在する[21]。玉堤一丁目の東急バス停「玉川温室村」の由来である。

主な著名人[編集]

現在の住人[編集]

かつての住人、故人[編集]

歴史及び年表[編集]

始まりから調布村誕生まで[編集]

  • 4世紀始めに宝莱山古墳が築造され、6世紀までに亀甲山古墳など10数基の田園調布古墳群が造られる。
  • 多摩川沿いでは奈良時代頃に布を調(税としての特産物)として納めており、これに由来する調布という地名が散見する。
  • 鎌倉時代多摩川浅間神社が創建される。
  • 江戸期には上沼部、下沼部の2村が並立した。現在の田園調布本町、田園調布南の地域は古い文献には荏原郡沼部郷とみえる。
  • 1889年(明治22年) 調布村成立。
前年の市町村制公布・実施に伴い、この年、荏原郡の鵜の木・嶺・上沼部・下沼部の4村が合併し調布村となった。

田園都市会社発足から東調布町誕生まで[編集]

  • 1918年(大正7年) 田園都市株式会社設立。
  • 1922年(大正11年)
    • 6月 田園都市株式会社、荏原郡内の洗足大岡山、調布村、玉川村一帯で理想的な郊外住宅地「田園都市」の宅地開発を行い「洗足田園都市」の分譲を開始[22]
    • 7月 目黒蒲田電鉄設立(田園都市株式会社の鉄道部門を子会社として分離)
  • 1923年(大正12年)
    • 3月 目蒲線目黒-丸子(のちの「沼部駅」)間が開通し、「調布駅」が開業した。なお、同年11月に蒲田までの全線が開通。
    • 8月 「田園都市多摩川台」の名称で現在の田園調布の地の分譲を開始。
  • 1925年(大正14年) 調布村が5区に分割、田園都市地域が独立した一つの区となった。
  • 1926年(大正15年) 「調布駅」が「田園調布駅」と改称された。
  • 1928年(昭和3年) 調布村が町制施行し「東調布町」となった。
当時、東京府内には、北多摩郡調布町(現・調布市)が存在したので、荏原郡調布村は町制施行にあたり、既存の調布町との重複を避けるため、東を冠し東調布町とした。

東京市編入以後[編集]

東調布町の大字下沼部が田園調布一丁目 - 三丁目に、大字上沼部が田園調布四丁目となった。また、田園都市のうち玉川村に属する地域は世田谷区玉川田園調布となった。ここに行政区画としての地名「田園調布」が初めて誕生した。
  • 1943年(昭和18年) 東京に都制が敷かれ、田園調布は東京都大森区田園調布となった。
  • 1947年(昭和22年) 大森区と蒲田区が合併し大田区となり、田園調布は東京都大田区田園調布となった。
  • 1960年(昭和35年) 地番を整理するとともに、田園調布一丁目 - 四丁目を田園調布一丁目 - 七丁目に編成替えした。
  • 1970年(昭和45年) 住居表示制度施行に伴う町の境界地名地番の改正。
中原街道から北側の田園調布三丁目 - 七丁目が田園調布一丁目 - 五丁目になり、中原街道以南は田園調布二丁目を田園調布本町、田園調布一丁目を田園調布南とした。

脚注、参考文献[編集]

  1. ^ 『新・土地のグランプリ 日本で唯一の土地格付け 2009-2010年版』講談社、2009年3月25日
  2. ^ 『渋沢栄一伝記資料』第53巻 目次詳細 第13節 土木・築港・土地会社 第3款 田園都市株式会社
  3. ^ 田園都市株式会社は東急電鉄、東急不動産の始祖にあたる会社
  4. ^ 『東京土地のグランプリ 2012-2013 最新版』講談社 2012年3月15日
  5. ^ 高級住宅街の代名詞となった田園調布、田園調布と言うブランド - 「高級住宅街の真実 セオリー2008年Vol2」P16~21、講談社、2008年3月25日
  6. ^ 『土地のグランプリ マンション立地編』講談社 2010年1月25日
  7. ^ 「田園都市株式会社 業務報告書」第六回、1921年(大正10年)6月~11月
  8. ^ 国土交通省地価公示・都道府県地価調査
  9. ^ 『 随筆 街づくり わが町』渋沢秀雄、沿線新聞社、1971年(昭和46年)
  10. ^ 田園調布の地盤の良さは首都圏トップクラス - 地盤の強さをネット上で見て、調べる
  11. ^ 関東大震災後から都心で被災した富裕層が次々に移り住むようになった。 - 東京の高級住宅街、住むならどこがベスト/日本一のブランド力を誇る「田園調布」
  12. ^ 『日本の私鉄 東京急行電鉄』毎日新聞社 2011年1月30日
  13. ^ 実際は「弁がたつ、腕がたつ、田園調布に家が建つ」と韻を踏む
  14. ^ 「イギリスやドイツは冬のせいか、暗くて寂しかった。私はサンフランシスコ郊外のセントフランシス・ウッドという住宅地が気に入った」 - 「随筆 街づくり わが町」渋沢秀雄、沿線新聞社、1971年(昭和46年)
  15. ^ 「田園都市案内パンフレット」の一節 - 田園都市株式会社、1922年(大正12年)、1923年(大正13年)
  16. ^ 当初は、当時の旧制大学や旧制高校出身の管理職である中堅層を対象にしたが、実際は関東大震災後に都心から焼けだされた富裕層が多く移住した。
  17. ^ 経済効率を吹き飛ばした渋沢栄一の理想主義、高級住宅の秘密を語ろう - 「高級住宅街の真実 セオリー2008年Vol2」P76~81、講談社、2008年3月25日
  18. ^ 「街づくり50年」東急不動産、1973年(昭和48年)
  19. ^ 当時の東京は、住宅地における道路の面積は総面積の5パーセント程度であった。
  20. ^ 大正初期、石川啄木朝日新聞での月給が十七円であった。
  21. ^ 『世田谷の歴史と文化』世田谷区立郷土資料館 2005年3月31日
  22. ^ 洗足地区は田園都市株式会社が開発した45万坪のうち8分の1にあたる約5.5万坪であったが、完成前から分譲地の購入希望者が多数押し寄せた。「洗足のサイトプランが出来上がると、図面を印刷し、目蒲線開通前に売り出した。畑の土を掘って計画通りの道筋だけをつけた。だから道筋以外には青麦がはえ、馬鈴薯の花が咲いていた。そこをお客さんたちは図面を手にして、気に入った場所を物色して歩いた」 - 「随筆 街づくり わが町」渋沢秀雄、沿線新聞社、1971年(昭和46年)

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 『郷土誌 田園調布』社団法人田園調布会、2000年。