小林信彦

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小林 信彦(こばやし のぶひこ、1932年12月12日 - )は、小説家評論家コラムニストである。筆名は中原弓彦。筆名を作ったのは、小林が正業につかないのを親戚から嫌われていたからであるという。「日本のことを勘違いして論じるアメリカ人」という設定のウィリアム・C・フラナガン名義の作品もある。また1958年、失業中に書いた「消えた動機」という推理短篇が江戸川乱歩時代の『宝石』誌1959年2月号に掲載され、のち三木洋(処女長篇『虚栄の市』の登場人物の一人と同名)という変名のもとにテレビ化および映画化(山田洋次監督『九ちゃんのでっかい夢』)されたことがある。その他の筆名に有馬晴夫、類十兵衛、スコット貝谷など。

ある意味で「元祖おたく」とでも呼ぶべき存在であり、日本のサブカルチャーに与えた影響は絶大である。

目次

[編集] 略歴

東京市日本橋区米沢町2-5(のちの東京市日本橋区両国18-5、現在の東京都中央区東日本橋2-18-5)に生まれる。江戸時代から九代続いた老舗和菓子屋「立花屋」の長男。

代々、婿養子が跡をつぐ家風であったが、やり手であった祖父は、自分の息子に跡をつがせようと考えていた。だが、その「長男」(小林の父)は、自動車の運転・修理が趣味であるような、モダンな趣味人であり、商人としては無能で、後に小林の一家が没落する原因となった。小林はこの父親に、歌舞伎寄席などに連れていかれ、「芸人のうまい下手を、くどくどと説明するのは野暮」と教わった。

両国は商人町であり、小林は「このような町が本来の江戸以来の下町である」と、作家となった後に繰り返し主張。浅草柴又を「下町」と呼ぶ安易な「下町ブーム」に嫌悪を感じ、自分の生地について、何度もエッセイや小説に描写している。

落語に淫して育つ。慶應義塾幼稚舎を受験したが失敗し、日本橋区立千代田小学校(のち国民学校と改称)に入学。小学1年生の時の志望職業は、第1が「上野動物園園長」、第2が落語家だった。

1944年8月、千代田国民学校在学中に埼玉県入間郡名栗村(現在の飯能市)へ集団疎開。疎開先でいじめに遭い、この時の悲惨な体験は、後に純文学長篇『冬の神話』となって実を結んだ。小説『東京少年』(2005年)もこの時の体験を扱っている。この時の体験が、のちの「他人を容易に信じられない。執念深く、恨みがましい」性格を生んだと思われる。

戦争末期に、担任教師から将来の希望を問われ「小説家になりたいであります」と答えた。

1945年、3月5日の下町大空襲で生家が焼失。かつて父が病気で中退した文京区大塚の東京高等師範学校附属中学(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)に無試験入学するが、空襲で校舎が焼失していたため、再疎開先の新潟県高田市(現在の上越市)の県立高田中学校(のち新制の新潟県立高田高等学校)に学んだ。

1946年12月、東京に戻って青山の母方の実家に住み、東京高等師範学校附属中学に復学。このころ下町山の手の文化的なギャップに開眼。中学では美術研究会に所属し、一学年上に美術評論家高階秀爾がいた。中学時代、神田冨山房シムノン徳川夢声の著書を万引きしようとして店員に捕らえられ、袋叩きにされたことがある。

1948年、東京高等師範学校附属高校(1949年に東京教育大学附属高校と改名)に進む。友人たちと映画研究会を設立。高校の文化祭(桐陰祭)では、アメリカ人劇作家"H・B・ガーガン"なる人物の作品と称して(実は架空の人間)、自作の西部劇を上演したことがある。

1951年早稲田大学慶應義塾大学のそれぞれ文学部を受験して合格。東京大学を受けるのが当たり前とされる高校に在って、文系科目の成績は全校で一桁の実力だったため東大受験を勧められたが、理系科目が苦手だったため東大を受験しなかった。実家が没落して経済的に貧しかった引け目から早稲田に入学。面接試験では英文科志望の理由を問われて「物語性に惹かれたからです」と答え、教授から苦笑された。山本山アルバイトしながら学業を続け、大学図書館では戦前の『キネマ旬報』を渉猟した。早大英文の同級生に作家生島治郎映画評論家河野基比古がいる。

1955年、早稲田大学第一文学部英文学科を卒業。卒論ではサッカレー悪漢小説ピカレスク)の関係を扱った。この年の春、埴谷雄高編集の同人誌近代文学』1955年3月号(近代文学社)に有馬晴夫名義で短篇「白い歯車」を発表。母校早大を舞台に学生運動を扱っており、後年の短篇「ある晴れた午後に」の原型とも言える作品である。

いざとなれば英語教師で食べて行けると考えて英文科に入学したにもかかわらず、教職課程の単位を「意図的に」取り損ねたため、公立校の教員になることができなかった。唯一採用の口があった私立高校は校内暴力の評判があったため、就職を辞退。マスコミ関係への就職を望み、讀賣新聞社光文社、さらにスポーツ新聞社や映画会社の入社試験を受けたが、折あたかも空前の就職難時代だったため、ことごとく失敗。三省堂に英語辞書の校正係として採用される話はほぼ決まりかけたが、直前で不採用になった。飯島小平教授に研究者への道を勧められ、小林自身も早稲田大学に残ってフィールディングを研究する希望を持っていたが、大学時代に父を結核で亡くしていた(1952年6月)うえ、日本橋の実家の土地を騙し取られていたことによる生活苦もあり、不本意ながらセールスマンとして叔父経営の塗料会社に就職し、鬱屈した日々を送る。気晴らしに推理小説を耽読した。

1956年6月、横浜市中区矢口台に転居し、日英混血の親類が米兵相手に営んでいた貸家会社<有限会社レオポルド&サン>に勤務。エルビス・プレスリーを聞き、衝撃を受ける。このころの体験は、後年の純文学長篇『汚れた土地』に反映されている。同じころ、400枚のユーモア本格ミステリを江戸川乱歩賞に応募して落選。

駐留軍の縮小という時代の流れの中で会社が経営不振に陥り、不渡り手形を出した上、社内の派閥抗争に巻き込まれて社長から暴行を受け、1958年7月に失職。失業保険を受給しつつ職安に通う毎日を送る。一度は浜松航空自衛隊の英語教師の口を紹介されたこともあるが、再軍備反対論者として辞退。

1958年9月「大学院を受験する」と身分を偽って池袋の学生下宿に潜り込み、ここに逼塞して江戸川乱歩が社主の推理小説雑誌「宝石」に「雑誌の改善案」を投稿する。先の見通しが立たず、しばしば自殺を考えた。

1958年秋、失業保険が切れる直前に、投稿していた「雑誌改善案」で実力が見込まれ、宝石社の顧問として採用された。月俸は当時としても格安の5000円。

1959年1月、6月創刊予定だったミステリ雑誌「ヒッチコックマガジン」の編集長に、江戸川乱歩の後押しで抜擢された。これは、先輩の田中潤司厚木淳たちが就任を拒んだために小林のもとに回ってきた仕事で、「3号まで赤字ならクビ」という条件で始まったが、実際には13冊目でやっと黒字に転じたものである。このときの月俸は、当時の一般会社員の初任給に満たない1万円(金額は「地獄の読書録」巻末の田中潤司との対談内での発言による)。当時、宝石社に戦前の『新青年』のバックナンバーが全冊揃っていたため、この雑誌を耽読して大きな影響を受けた。

同誌の編集長としては、最初期の星新一筒井康隆の活動をサポートした功績も大きい。また海外のショート・ショートを紹介し、日本に根付かせた。一方で、「ヒッチコックマガジン」は、大薮春彦の協力を仰いだ増刊号『ガン特集』が好評を得るなど、小林の趣味とは違う方向に進み、「若者のライフスタイル・マガジン」の様相を帯びた。その、洗練された「ライフスタイル・マガジン」としての面は、後に木滑良久らが、平凡出版(のちのマガジンハウス)で、『平凡パンチ』、『アンアン』、『ポパイ』等の雑誌を創刊するにあたって、大きな影響を与えた。

また、薄給を補う目的と雑誌の宣伝を兼ねてテレビラジオにたびたび出演したところ人気を博し、マルチタレントの走りとして、当時のマスコミの寵児となった。1962年3月には、青島幸男永六輔前田武彦の3人とともに「多角経営派」の名のもと、『サンデー毎日』から記事にされたことがある(「俺たちゃ"職業不定族"」)。

1963年1月、常盤新平萩原津年武大坪直行ら折り合いが悪かった者たちの策謀で宝石社を解雇された(表向きは自主退職)。この時の苦い体験は<信じていた者に裏切られる>テーマとして、以後たびたび小林作品のモチーフとなった。また、疎開経験に加えて、この際の体験が「容易に他人を信用しない」性格に拍車をかけたと思われる。

フリーになった後は、映画、ミステリ、テレビなどの評論の執筆や、「九ちゃん!」「植木等ショー」などテレビバラエティ番組の構成作家業のかたわら純文学を発表するようになり、1964年に中原弓彦名義で処女長篇『虚栄の市』を河出書房から刊行(なお、前年の1963年に校倉書房から喜劇映画論『喜劇の王様』たちを刊行しているが、本の半分を取次が受け取らない事態になり、また出版社からの金銭もでず「本で」といわれ、途方にくれていた)。

『虚栄の市』は好評ではあったが、「コミック・ノベル」自体が当時の日本の文壇には受け入れられず、十分な理解を得られなかった。そのため、小林は私小説的な「個人的体験を書けばよいのか」と考え、集団疎開時の陰惨な体験を描いた第二作、『冬の神話』を1966年11月に上梓。だが、今度は「あまりに暗すぎる」といわれ、不評であった。なおこの作品から、本名(小林信彦)で発表するようになった。

また『地獄の読書録』にまとめられるような、膨大な書評をこなしたが、SFでは小松左京筒井康隆の才能を、一早く発見。また、アリステア・マクリーンギャビン・ライアルが冒険小説の第一人者になることを、予言した。また、山田風太郎の忍法帖も繰り返し、高評価した。

1969年10月以降はテレビの仕事が途絶えたため小説の執筆に専念。その後『オヨヨ』シリーズや『唐獅子』シリーズなどのパロディ性に富んだエンターテインメント作品、『神野推理』シリーズや『紳士同盟』シリーズなどのミステリ系の作品等を執筆。またそれとともに、長編『夢の砦』、連作短編『家族漂流 東京・横浜二都物語』としてまとめられた自伝的要素の強い純文学作品を発表。たびたび直木賞芥川賞候補にノミネートされた。しかし放送作家としてのキャリアが災いして、選考委員たちから「新人の資格がない」「テレビの世界で金を稼いでいるのは不純」との反対を受けて受賞を逸し、その事情は文壇諷刺的作品『悪魔の下回り』に反映されている。

また、自らの文学観が、日本の文学界とあまりに違うことに業を煮やし、1989年、夏目漱石にはじまり、ジョーゼフ・へラーフレドリック・ブラウンなど「笑いの文学」を中心に論じた、文学論『小説世界のロビンソン』を刊行した。『我輩は猫である』は、落語の知識がないとギャグが楽しめないことを指摘。また、文芸評論家の常套句「人間が描けていない」に対抗し、「フラット・キャラクター」という、ディケンズの小説に登場するような「典型的なキャラクター」の有効性も、提示した。

他に、連作エッセイ『パパは神様じゃない』は、のちに浅倉久志によって「ユーモア・スケッチ」と名づけられる、かつてアメリカで人気を博した、「生真面目な文体で、馬鹿馬鹿しいことを記す」内容で、日本人作家には他に追随例がほとんどない、ユニークなものである。

また、70年代、晶文社から「バラエティ・ブック」と称するコラム集を何冊か、刊行。これは、当時のサブカルチャー愛好者に大きな影響を与え、後に、小西康陽「これは恋ではない」(幻冬社 編集舎:高畑圭)、安田謙一「ピントがボケる音」(国書刊行会 編集者:樽本周馬)などの、その様式を真似た「リスペクト本」を生んだ。

1986年、「戦前の下町アメリカニズム」と「戦争を楽しんでしまう日本人」を描いた、自伝的かつ<笑いの文学>の集大成的作品『ぼくたちの好きな戦争』で、「小説家・小林信彦・第一期終了」を宣言。

以降の小説は、<笑いの文学>は封印し、現在・過去の時代風俗を丹念に描いた作品(業界小説や、タイムトラベル物、自伝的な作品を含む)や、谷崎潤一郎を意識したフェテシズム的な作品、ルース・レンデルの影響を受けた「異常者が日常に入り込んでくる」小説、などを発表。

だが「小説家・第二期」は、最初の2作、『極東セレナーデ』『世間知らず』は好評であったが、以降の作品は、第一期の作品と比べて、特筆して優れているとはいいがたく、失望している小林ファンも多い。(小林も、『マニアックは読者ばかりいて「カルト作家」とよばれるのは、決してありがたいことではない。読者は同じような作品を求めるが、自分の作家的必然性から、作風を変えざるを得ない。失望して離れていく読者も出るだろう』と言っている。)

一方、『世界の喜劇人』や『日本の喜劇人』などで、初めて喜劇を本格的な評論の対象に採りあげた。その後も、『天才伝説 横山やすし』、『おかしな男 渥美清』、『植木等藤山寛美』など喜劇役者の評伝、また『私説東京繁昌記』、『私説東京放浪記』などの東京を題材としたエッセイも高く評価されている。

これらの評論は、小林のポリシーとして、間接的な資料類に頼らず、「なるべく、自分自身が体験したり、自分の目で見聞きした物から」論じられている。個人的体験から普遍性を導くという、稀有な傑作となっている。また、背広を着た立川談志のピンでのトークや漫談時代の明石家さんまのトークが「アメリカのスタンダップ・コミック芸」にあたることや、「ビートたけしのオールナイト・ニッポン」での村田英雄をからかう企画が「キャンプ・ユーモア」であることを指摘するなど、「笑いの本場」であるアメリカの笑芸との、的確な比較も行っている。

映画評論についても、双葉十三郎に私淑して「映画評論」誌を中心に60年代から盛んに行い、マルクス兄弟再評価や、「日活無国籍アクション映画」を同時代から既に評価、映画作家としての「クリント・イーストウッド」を一貫して支持する、などしている。映画評論が本業ではないが、豊富な鑑賞経験からくる「確かな映画見巧者」として、多数の映画ファンの信頼を得ている。

60年代を「テレビの黄金時代」と呼び、それ以降はテレビ番組はほとんどみなくなったが、80年代の深夜番組「オールナイトフジ」を一早く評価するなど、アンテナは鋭くはっている。「オールナイトフジ」については、蓮実重彦編集の映画研究雑誌「リュミエール」創刊号で、「アイドル伊代ちゃんの暴力性」という、松本伊代を称える文章を書いている。

またマスコミ不信から、新聞は読まず、情報はもっぱらラジオから得ている。

1991年から1992年にかけて松村雄策ビートルズ論争を行った。

東京オリンピック前の東京の無計画な開発については歴史的な愚行として、再三激しい怒りと批判を表明している。東京オリンピック開催中は、東京の喧騒をいやがり、関西に滞在していた。

近年は、戦中再評価的な風潮に警鐘を鳴らすことが多い。随筆連載誌の週刊文春は保守色の強い雑誌だがまったく頓着がなく、映画「パッチギ」を同誌で褒めちぎって、保守派からの疑義も出されたこの映画が各賞総なめの大絶賛に覆われる口火を切った(結果的に)こともある。

また、以前は「権威的な朝日・岩波文化に対する過激な批判者」であった小林が、1980年代以降、マスコミなどで、あまりに幼稚な笑いや、基本的な知識が不足した評論類などが氾濫したため、「皮肉にも、私が伝統的なことを教えなければならない『文化的には保守的』な立場になってしまった。私の姿勢自体は一貫しているのだが、『世の中』が変わってしまった」と嘆いている。

[編集] エピソード

  • 実弟の小林泰彦は『平凡パンチ』で「イラスト・ルポ」を生み出したことで知られるイラストレーターで、「ヒッチコックマガジン」のデザイン、イラストはすべて泰彦が担当した。そのため、『回想の江戸川乱歩』では、巻末で乱歩の思い出について兄弟で対談をしている。また、角川文庫版の「オヨヨ」シリーズの装画なども担当していり、二人の合作絵本『クネッケ博士のおかしな旅』もある。
  • 往年の名番組『ゲバゲバ90分』の「ゲバゲバ」というネーミングは小林信彦の創作による。ネーミング料は当時の金で10万円。
  • 1976年の1月ごろには、桂三枝が「オヨヨ」というギャグを使っていたのを、自著『オヨヨ』シリーズからの盗用とみなして抗議し、このギャグを使用禁止にするとともに、三枝に詫びを入れさせたことがある(いわゆるオヨヨ騒動)。しかし、三枝の「オヨヨ」は、俳優大河内傳次郎の物まねから派生したものであり、小林信彦の主張は無知による誤解である。
  • 森繁久弥のように「初期はコメディアンであったが、年齢とともにシリアスな俳優になる」路線をとりたがるコメディアンが非常に多いことに業をにやし、『日本の喜劇人』の中で「森繁病」と命名した。また、『日本の喜劇人』では小林旭のことを「無意識過剰」と評すなど、名フレーズが多い。
  • 有名になる以前から横浜中華街に熱心に通うなど、グルメでもあるが、エッセイ等では食べ物についての記述は抑制しており、その知識は、グルメ小説としての『大統領の晩餐』『ドジリーヌ姫の優雅な冒険』にのみ、結実している。
  • ある年齢から、煙草の煙に非常に弱い体質になり、大人数が集まるパーティ等を避けるようになった。
  • 現在でも「アイドル・マニア」であり、コラム類にお気に入りのアイドル(といっても「広義のアイドル」で、若い女優が多いが)をしばしば書いている。
  • 若い頃より「大勢の中から、将来スターになる人を一目で見抜く能力があった」と語っているが、「この能力は、特に役に立つものではなかった」とも言っている。
  • 2007年比較文学者・小谷野敦が、自身のブログ[1]で、小説「うらなり」に対し、「ちっとも面白くない」「下手である」「作者の衒いが激しい」などと酷評を書き並べ、さらに同様の内容の批評文を、小谷野が当時連載していた「文學界」に持ち込んだが、編集部はこれを拒否し、連載そのものが打ち切られた。小林信彦本人はその騒動すべてを黙殺している(編集者が耳に入れていなければ知らない可能性も高い)。
  • 小林の妻は、結婚前は映画関係の仕事に従事しており、その関係で知りあい結婚した。また夫婦そろって、古今亭志ん生古今亭志ん朝親子の大ファンである。志ん朝については、名古屋で毎年行われていた独演会に、毎回、参加していた。一方で、志ん朝のライバルであった立川談志については、「芸人は理屈を語るモノではない」として、好んでいない。
  • 若い頃より、詳細な日記を日々、記載している(母方の祖父も「記録魔」で、その遺伝という)。その一部は『1960年代日記』として刊行された。その中にも、常盤新平永六輔への非難等が書かれているが、原本には、かなりの量の恨みや悪口が書かれていると思われる。またこの日記は、過去の出来事についての文章を書く際の、貴重な資料源となっている。
  • 自分の作品についての書評類は、可能な限り集め、スクラップ・ブックにまとめている。

[編集] 連載中

  • 「本音を申せば」(「週刊文春」)
  • 「黒澤明という時代」(「本の話」2007年7月号~)

[編集] 受賞歴

  • 1964年 -「衰亡記」で52回直木賞候補
  • 1973年 -『日本の喜劇人』で芸術選奨新人賞を受賞
  • 1975年 -「丘の一族」で74回芥川賞候補
  • 1976年 -「家の旗」で76回芥川賞候補
  • 1977年 -「八月の視野」で77回芥川賞候補
  • 1978年 -「小林信彦のコラム」で「キネマ旬報」読者賞を受賞
  • 1978年 -『唐獅子株式会社』で79回直木賞候補
  • 1978年 -「みずすましの街」で80回直木賞候補
  • 1981年 -「小林信彦のコラム」で2度目の「キネマ旬報」読者賞を受賞
  • 2006年 - 第54回菊池寛賞を受賞

[編集] 小説作品

  • 「虚栄の市」1964年
  • 「汚れた土地 ―我がぴかれすく―」1965年
  • 「冬の神話」1966年
  • 「オヨヨ島の冒険」1970年
  • 「ある晴れた午後に」(※のち「監禁」と改題)1970年
  • 「怪人オヨヨ大統領」1970年
  • 「大統領の密使」1971年
  • 「大統領の晩餐」1972年
  • 「オヨヨ島の冒険」1972年
  • 「合言葉はオヨヨ」1973年
  • 「秘密指令オヨヨ」1973年
  • 「オヨヨ城の秘密」1974年
  • 「オヨヨ大統領の悪夢」1975年
  • 「クネッケ博士のおかしな旅」1976年(小林康彦が絵の絵本)
  • 「家の旗」1977年
  • 「神野推理氏の華麗な冒険」1977年
  • 「唐獅子株式会社」1978年
  • 「ドジリーヌ姫の優雅な冒険」1978年
  • 「唐獅子惑星戦争」1978年
  • 「中年探偵団」1978年
  • 「ビートルズの優しい夜」1979年
  • 「唐獅子超人伝説」1979年
  • 「夢の街 その他の街」1979年
  • 「袋小路の休日」1980年
  • 「紳士同盟」1980年
  • 「悪魔の下回り」1981年
  • 「超人探偵」1981年
  • 「サモアン・サマーの悪夢」1981年
  • 「変人十二面相」1981年
  • 「唐獅子源氏物語」1982年
  • 「ちはやふる奥の細道」1983年
  • 「夢の砦」1983年
  • 「発語訓練」(※のち「素晴らしい日本野球」と改題)1984年
  • 「紳士同盟ふたたび」1984年
  • 「ぼくたちの好きな戦争」1986年
  • 「極東セレナーデ」1987年
  • 「悲しい色やねん」1987年
  • 「世間知らず」(※のち「背中あわせのハートブレイク」と改題)1988年
  • 「裏表忠臣蔵」1988年
  • 「イエスタデイ・ワンス・モア」1989年
  • 「世界でいちばん熱い島」1991年
  • 「ハートブレイク・キッズ」1991年
  • 「ミート・ザ・ビートルズ」(※のち「イエスタデイ・ワンス・モアPart2 ミート・ザ・ビートルズ」と改題)1991年
  • 「ドリーム・ハウス」1992年
  • 「怪物がめざめる夜」1993年
  • 「イーストサイド・ワルツ」1994年
  • 「侵入者」1994年
  • 「ムーン・リヴァーの向こう側」1995年
  • 「笑いごとじゃない ユーモア傑作選」1995年
  • 「家族漂流 東京・横浜二都物語」1996年
  • 「結婚恐怖」1997年
  • 「東京少年」2005年
  • 「うらなり」2006年
  • 「日本橋バビロン」2007年

[編集] 評論・エッセイ作品

  • 「喜劇の王様たち」(※のち「笑殺の美学」「世界の喜劇人」と改題)1963年
  • 「笑う男・道化の現代史」1971年
  • 「日本の喜劇人」(※のち「定本・日本の喜劇人」と改題)1972年
  • 「パパは神様じゃない」1973年
  • 「東京のロビンソン・クルーソー」1974年
  • 「われわれはなぜ映画館にいるのか」(※のち、収録作品を組み替えて「映画を夢みて」と改題)1975年
  • 「つむじ曲がりの世界地図」1976年
  • 「東京のドン・キホーテ」1976年
  • 「エルヴィスが死んだ」1977年
  • 「地獄の読書録」1980年
  • 「地獄の観光船」(※のち「コラムは踊る」と改題)1981年
  • 「笑学百科」1982年
  • 「地獄の映画館」(※のち「コラムは歌う」と改題)1982年
  • 「道化師のためのレッスン」1984年 大瀧詠一糸井重里との対談を含む
  • 「私説東京繁昌記」(※のち「[新版]私説東京繁昌記」と改題)1984年
  • 「小林信彦60年代日記」(※のち「1960年代日記」と改題)1985年
  • 「時代観察者の冒険」1987年
  • 「小説世界のロビンソン」(※のち「面白い小説を見つけるために」と改題)1989年
  • 「コラムは笑う」1989年
  • 「セプテンバ-・ソングのように」1989年
  • 「映画を夢みて」1991年
  • 「植木等と藤山寛美」(※のち「喜劇人に花束を」と改題)1992年
  • 「コラムにご用心」1992年
  • 「小説探険」(※のち「読書中毒」と改題)1993年
  • 「本は寝ころんで」1994年
  • 「回想の江戸川乱歩」1994年
  • 「日本人は笑わない」1994年
  • 「一少年の見た〈聖戦〉」1995年
  • 「コラムの冒険」1996年
  • 「〈超〉読書法」1996年
  • 「和菓子屋の息子 ―ある自伝的試み―」1996年
  • 「現代〈死語〉ノ-ト」1997年
  • 「天才伝説 横山やすし」1998年
  • 「コラムは誘う」1999年
  • 「人生は五十一から」1999年
  • 「現代〈死語〉ノ-トII」2000年
  • 「おかしな男 渥美清」2000年
  • 「読書中毒 ブックレシピ61」2000年
  • 「最良の日、最悪の日」2000年
  • 「2001年映画の旅 ぼくが選んだ20世紀洋画・邦画ベスト200」2000年
  • 「出会いがしらのハッピー・デイズ」2001年
  • 小林旭読本―歌う大スターの伝説」2002年(※大滝詠一と共著)
  • 「物情騒然。―人生は五十一から」2002年
  • 「昭和の東京、平成の東京」2002年
  • 「テレビの黄金時代」2002年
  • 「名人―志ん生、そして志ん朝」2003年
  • 「にっちもさっちも―人生は五十一から」2003年
  • 「定年なし、打つ手なし」2004年
  • 「花と爆弾 人生は五十一から」2004年
  • 「回想の江戸川乱歩」2004年
  • 「本音を申せば」2005年
  • 「東京散歩 昭和幻想」2005年
  • 「昭和の東京、平成の東京」2005年
  • 「昭和のまぼろし―本音を申せば」2006年
  • 「映画が目にしみる」2006年
  • 「昭和が遠くなって―本音を申せば」2007年
  • 「定本・日本の喜劇人」2008年

[編集] 対談等

 

[編集] 編集本

[編集] 翻訳

  • ポ-ル・D・ジンマ-マン「マルクス兄弟のおかしな世界」1972年永井淳と共訳)

[編集] 映画関係

  • 「大冒険」(クレージーキャッツ 1965) ギャグマン(古沢憲吾監督)
  • 「九ちゃんのでっかい夢」(1967) 原作(山田洋二監督)
  • 「進め!ジャガーズ 敵前上陸」(1968) 脚本担当(前田陽一監督)
  • 「長靴をはいた猫」 (1969) アニメーション・ギャグ監修(矢吹公郎監督)
  • 「唐獅子株式会社」 (1983) 原作 曽根中生監督
  • 「紳士同盟」 (1986) 原作 那須博之監督
  • 「悲しい色やねん」(1988) 原作 森田芳光監督
  • 「イーストサイドワルツ 悦楽の園」(1998) 原作 武田一成監督
  • 「新・唐獅子株式会社」(1999) 原作 前田陽一監督

[編集] 研究本

  • 別冊新評・小林信彦の世界」1981年
  • 藤脇邦夫「仮面の道化師 定本小林信彦研究」1986年
  • 弓立社編集部編「小林信彦の仕事 <第II期小林信彦>への完全研究読本」1988年 -小林信彦自筆年譜・著作目録あり。

[編集] 関連人物

  • ビートたけし - たけしのオールナイトニッポン初回の放送から聞いて、雑誌連載で取り上げ絶賛した。

後にたけしは、「自分の娘を『若い世代』の代表として、新しい笑いへのアンテナ的存在として扱う」小林信彦を、「親馬鹿」とたしなめる発言をした。

  • 吉田照美 - 小林信彦はラジオ、特に文化放送のヘビーリスナーで特に吉田照美を高く評価している。

吉田照美のラジオに出演し照美に対し理不尽とも思える悪態をついた天本英世の発言を「気にすることないですよ」などフォローし、よき理解者である。

  • 青島幸男 - 小林信彦とは同年齢で、老舗の食べ物屋の跡取りとして日本橋に生まれ育った点も同じ、大学も同じなど共通点が多い。小林や前田武彦永六輔ともどもタレント文化人の走りとして珍重され、この四人は昭和30年代に「才能多角経営人間」の名のもと、週刊誌からクローズアップされたことがある。『夢の砦』に登場する川合寅彦のモデルの一人と目される。青島が東京都知事に当選したとき小林は喜んだが、やがて青島都政に失望するに至った。
  • 秋元康 - 小林ファンとしては「非常に意外」に感じざるを得ないが、小林は一貫して、秋元の仕事および発言を評価しており、対談もしている。
  • 甘糟章 - マガジンハウス編集者。料理雑誌『クロワッサン』編集長時代に、村井弦斎食道楽』の現代版をということで、小林に、小林作品としても一番の奇書である、『ドジリーヌ姫の優雅な冒険』の連載を依頼した。
  • 新井素子 - 独特の文体で知られる小説家。ちくま文庫版『オヨヨ島の冒険』及び、新潮文庫版『ミート・ザ・ビートルズ』の解説を担当。彼女があの独特の文体を作る際、子どもの頃に読んだ小林の文章(特に『オヨヨ島の冒険』)に、影響を受けたという。また小林も、『小説探検』において、「外国は知らず、日本では〈ポストモダン〉と銘打つ小説の大半はイモであり、クズである。(略)はっきりいって、読者はこんな本を相手にしない。翻訳ミステリを読む方がマシにきまっている。あるいは新井素子さんの『おしまいの日』を読む。」と、新井を評価している。
  • 荒木経惟 - 東京三ノ輪出身。小林からは同じ下町出身者として親愛感を持たれており、『私説東京繁盛記』『私設東京放浪記』では、小林の文章に写真を寄せている。漫画家高信太郎は小林の面前で荒木を馬鹿呼ばわりしたため小林の怒りを買い、『天才伝説 横山やすし』では醜悪な酔態を実名で暴かれた。小林は、荒木の亡き妻荒木陽子も含め、夫婦ぐるみで交際していた。
  • アルフレッド・ヒッチコック - 『ヒッチコックマガジン』時代に『北北西に進路を取れ』の宣伝で来日。小林は、江戸川乱歩双葉十三郎淀川長治等との座談会のセッティングをした。
  • 安藤鶴夫 - 名著『落語鑑賞』の著者として小林から尊敬されており、小林の芸能研究に少なからぬ影響を与えた。
  • 石川喬司 - 小林の理解者の一人。1963年、『サンデー毎日』編集部にいたころ、自分の首をかけて「これがタレントだ」の連載企画を通した。また、小林の処女長編『虚栄の市』の原稿をあずかり、あちこちの出版社に声をかけて、出版につなげた。
  • 石堂淑朗 - 放送作家時代の友人の一人。
  • 稲葉明雄 - 小林の最も親しい友人で、仕事についての相談もよくしていた。小林の熱愛する小説、フレドリック・ブラウン『火星人ゴ-ホ-ム』の翻訳者でもある。『唐獅子株式会社』執筆に際しては、作中人物の大阪弁を監修した。
  • 井原高忠 - 1965年秋に小林をテレビの世界に引き込み、台本を書かせた張本人。4年間、小林とともにバラエティショーを作った。
  • 伊東四郎 - 伊東を「最後の喜劇人」として、高く評価している。
  • 井上ひさし -井原高忠の元で「九ちゃん!」の台本をともに書いた。
  • 色川武大 - 昔の喜劇や、古いアメリカ映画について同好者であり、色川の膨大なビデオ・コレクションからビデオを借りたこともある。  
  • 植木等 - クレージーキャッツのボーカリスト、ギタリスト、俳優。小林は無名時代から高く評価し、80年代には再評価にも力を尽くした。私的な交流も長いが、年長者であり、謹厳な人柄もあって谷啓ほど気安い友人関係ではなっかったようだ。
  • 植草甚一 - 『ヒッチコックマガジン』寄稿者の一人。当時の植草は気難しく、時に小林を怒鳴りつけた。
  • 内田春菊 - 小林の作品『極東セレナーデ』で、「若い女の子の会話帯」を把握するのに、内田のエッセイ集を参考にした。
  • 宇野利泰 - 『ヒッチコックマガジン』のご意見番の一人。『虚栄の市』に登場するゴシップ狂の老紳士・蓮池教授のモデルの一人。
  • 永六輔 - 若い頃の一時期、小林信彦と最も多くの時間を過ごした人物。小林ともども植草甚一から面罵されたことがある。ただし、永が製作した和製ミュージカルを、小林は酷評し、「日本人にはミュージカルは無理だ」と失望した。
  • 江戸川乱歩 - 小林を『ヒッチコックマガジン』編集長に抜擢した張本人。のち、小林は短篇「中年探偵団」の中で乱歩の文体をパスティーシュしてみせた。『夢の砦』に登場する城戸草平のモデルの一人。
  • エドワード・ボンド - 1934年生まれ。イギリスの過激で反体制的な劇作家。労働者階級出身で中学までの教育しかなく、ローマ法王やイギリス王室などを茶化す劇を書いた。1968年の『奥の細道(The Narrow Road to the Deep North)』(1968年)は松尾芭蕉が主人公で、最後には彼が首相になってしまう。この舞台の記事を当時、小林は新聞で読んで「喜劇的想像力」を刺激され、15年後に『ちはやふる奥の細道』を書いた。
  • 大島渚 - 映画界における小林の親友の一人。小林の才能を高く買い、1961年秋には、富永一朗の『チンコロ姐ちゃん』を映画化するにあたって映画監督の仕事を世話しようとしたことがある。小林の著書『笑殺の美学』の題は大島が命名した。
  • 大瀧詠一 - 「クレイジーキャッツ」「小林旭」の音楽を愛するものとして、70年代から小林の著書を愛読。のち小林と個人的に親交を結ぶに至る。
  • 大坪直行 - 元『宝石』編集長。『夢の砦』金井のモデル。
  • 大橋巨泉 - 「11PM」東京は当初は、月水が小島正雄、金が大橋巨泉だった。1968年に小島がなくなった際、小林に「後任を」という話があったが断ったため、巨泉が月水金と担当することとなった。
  • 大平和登 - 小林の友人の中で屈指の米国通。東宝アメリカ代表をつとめてニューヨーク在住歴が長く、ブロードウェイの最新の演劇情報を小林にもたらした。
  • 大藪春彦 - 大学の後輩。『ヒッチコックマガジン』寄稿者の一人。大藪が、伊達邦彦がアメリカに行き、アメリカのハードボイルド探偵たちと対決するパロディ作品『野獣死すべし(渡米編)』を書く際には、小林が助言を行った。
  • 鴨下信一 - TBSの演出家、エッセイスト。小林とは「植木等ショー」「おれが一番!!」等で、ディレクターとして仕事を一緒にした。
  • 佐藤忠夫 -「映画評論」編集長時代に小林に「長い評論」を書くよう勧め、小林は「喜劇映画の衰退」(『世界の喜劇人』の原型)を執筆した。
  • 佐藤信 -劇団黒テント創設者。小林はしばしば、黒テントの公演を見た。晶文社版『日本の喜劇人』で「解説対談」をしている。
  • 荻昌孝 - 教育大附属時代からの、最も古い友人の一人。『ヒッチコックマガジン』寄稿者の一人荻昌弘の弟。本当に親友と呼べるのは稲葉と彼だけだという発言もある。
  • 長部日出雄 - 大学の後輩。讀賣新聞社時代から小林と交際。
  • 各務三郎 - 「ミステリマガジン」三代目編集長。小林の『大統領の密使』を連載させた。また料理物の文章が好きで、それで小林と意気投合し、<料理人教養小説>『大統領の晩餐』を生んだ。
  • 香川登志緒 - 「てなもんや三度笠」脚本家。番組のファンだった小林が、大阪を訪れ知り合った。のちに、1963年に小林がNHKで「漫才の歴史」の番組「漫才繁盛記」を作る際、小林が知識がない「大阪の笑い」について香川に教えを請い、個人的な交際が始った。
  • 景山民夫 - 『ヒッチコックマガジン』愛読者の一人。高平哲郎を通じて1970年に小林と初めて面会。小林を深く尊敬していたが、幸福の科学に入信した景山が大川隆法の著書を小林のもとに送りつけ始めたため、宗教嫌いの小林から疎んじられるようになった。
  • 片岡義男 - 『ヒッチコックマガジン』寄稿者の一人。エルビス・プレスリーとその時代を巡って、対談集を刊行した。
  • 河村要助 - 1980年代以降、小林の本のカバーアートを多数担当。 
  • 久保田二郎
  • 黒川光弘 - 中日新聞文化芸能局長。小林がコラムをずっと中日新聞に連載しているのは、この人がいるため。
  • 古今亭志ん生古今亭志ん朝 - 小林は夫婦で、親子2代の大ファンであった。
  • 古波蔵保好
  • 坂本一亀 - 河出書房の名編集者。いくつもの出版社にもちこんで断られていた、小林の処女長編小説『虚栄の市』を評価して、刊行させた。
  • 澤田隆治 - 「てなもんや三度笠」演出家。番組のファンだった小林が、大阪を訪れ知り合った。1963年に小林がNHKで「漫才の歴史」の番組「漫才繁盛記」を作る際、協力した。
  • 品田雄吉 -「映画評論」編集部時代に小林の評論を担当。
  • 清水俊二 - 『ヒッチコックマガジン』で翻訳の仕事をした
  • 城昌幸 - 詩人、作家。ショートショートの元祖とも言われ、一般には時代小説で名高い。『宝石』編集主幹、のち宝石社社長。『夢の砦』に登場する城戸草平のモデルの一人。
  • 高平哲郎 - 晶文社編集者として『喜劇の王様たち』復刊に貢献。親友の景山民夫を小林に引き合わせた。ただし、小林は、のちに高平が構成したテレビ番組「今夜は最高!」について、「つまらない」と批判している。
  • 滝大作 -演出家。1963年に小林がNHKで「漫才の歴史」の番組「漫才繁盛記」を作る際のアシスタント。
  • 谷啓 - クレイジーキャッツのトロンボーン奏者、俳優。メンバーの中で最も小林と親しく交際している。
  • つかこうへい -つかの『熱海殺人事件』を喜劇として高く評価した。
  • 筒井康隆 - SF界で不遇をかこっていた折、小林の勧めで中間小説誌に進出し、大成功を収めた。のち『』で純文学を書き始めたのも小林や大江健三郎たちの紹介による。また、同世代の映画マニアであり、ともにマルクス兄弟を愛好している。「笑いの文学」を書いていることについても、互いに同志感があり、筒井は『唐獅子株式会社』の解説で、その元ネタを詳細に書いている。
  • 都筑道夫 - 推理作家、SF作家。小林が『ヒッチコックマガジン』編集長だった時代に『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』の編集長を務めた。当時、小林はライバル視してモチベーションとしたが、3ヶ月語に都筑は早川書房を退職し、小林を落胆させた。
  • 寺山修司 - 寺山が書いた映画脚本をめぐって、小林と大喧嘩したことがある。
  • 常盤新平 - 都筑が退社後の、『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』二代目編集長。外部から画策して小林を宝石社から追放した中心人物。『夢の砦』の井田実のモデル。
  • トニー谷 - かつては一世風靡した芸人だが忘れられていた。小林が『日本の喜劇人』の中で彼を大きく扱ったことから、再評価され、テレビ出演や、没後にレコードが再発される等した。
  • とんねるず - 一貫して彼らの「笑い」を評価している。 
  • 永井淳 -『マルクス兄弟のおかしな世界』の共訳者。ユニークな性格で、小林に、洋式トイレの使い方を滔々と語って聞かせ、それも、「騎乗位」だの「後背位」だのといったコトバを使って、実際にそのポーズまでして見せたという。
  • 野坂昭如 - 小林を最初にテレビ局へ連れて行った張本人。「ヒッチコックマガジン」の表紙のモデルをつとめたことがある。六本木四谷に住んでいたころ互いに住まいが近く、家族ぐるみで親しく交際した。『東京十二契』は、野坂版『私設東京繁盛記』の趣きがある。
  • 萩本欽一 - コント55号時代からの小林の友人。短篇「踊る男」の風間典夫のモデルとなった。
  • 爆笑問題 - 近年の「お笑いブーム」中では、唯一彼等を評価している。
  • 蓮實重彦 - 雑誌『』で、小林の小説『ちはやふる奥の細道』の抱腹絶倒の書評を執筆。小林がこの小説の「原題」とした「ROAD TO THE DEEP NORTH」はビング・コロズビーボブ・ホープの「珍道中シリーズ」の原題のパロディだが。それに呼応して、「アラバマ珍道中」(ROAD TO THE DEEP SOUTH)という架空の映画を話題にし、この映画の脚本家が、「W・C・フラナガンの祖父である」などと、小林のギャグにさらに悪乗りする内容であった。この書評は『小林信彦の仕事』に収録されている。 
  • 長谷川修二 - 元『新青年』編集者として、『ヒッチコックマガジン』の後見人的存在の一人だった。
  • 橋本治 - 『1960年代日記』の単行本版の解説対談、及び文庫本の解説を担当。小林同様に「60年代では、前半のほうが面白かった」という、一般の評価とは逆の見解を示している。 
  • ハナ肇 クレージーキャッツのリーダーでドラマー。俳優。小林はその善良だが押しの強い性格を敬遠したが、死後に「迷惑だが懐かしい人柄だった」と回想。一方では自他をプロデュースする才腕を早くから高く評価しており、これは山田洋次とのコンビ作から晩年の「会社物語」に至るまで話題作出演の多さで見事に証明された。
  • 花田清輝 - 『ヒッチコックマガジン』寄稿者の一人。
  • 弘田三枝子 - 歌手。その稀有な歌唱力、リズム感、躍動感は傑出していて、小林も「大天才」「戦後の17年は無駄ではなかった」と、高く評価した。また個人的にも交友関係があり、彼女を登場人物のモデルにした短編も書いている。
  • 氷室冴子 - 彼女の小説をいち早く評価。のち、対談もしている。
  • 藤山寛美 - 「喜劇役者としては、最高の人」と高く評価しており、一時は「松竹新喜劇」の東京公演には通いつめるほど、熱中していた。だが、楽屋を訪れた小林に現金を渡すなどの、寛美の性格には閉口し、個人的には交際しなかった。また、千葉蝶三郎死後は、寛美の舞台から足が遠のいた。
  • 藤脇邦夫 - 白夜書房営業部勤務。営業サイドの目から「良書幻想」を斬る『出版幻想論』などを刊行している。一方、小林信彦マニアで、唯一の個人による研究本『仮面の道化師 定本小林信彦研究』(1986年)を執筆し、当時、刊行されていた小林の全作品のレビューを行っている(なお、「唯一好きになれなかった作品」ということで、取り上げられていないのが『サモアンサマーの悪夢』)。また、「小林の『下町への拘り』には、どうしても共感できない」と記している。
  • 双葉十三郎 - 小林が少年時代に最も尊敬していた映画評論家の一人。双葉が『スタア』という映画雑誌を編集していたとき、小林は高校時代にファンレターを出し、「おひまなときには遊びにいらっしゃい」という返事を貰ったことがある。のち『ヒッチコックマガジン』寄稿者の一人となった。
  • 細野邦彦 -日本テレビ・プロデューサー。70年代前半に野球拳で人気を博した「コント55号の裏番組をぶっとばせ!」などの「俗悪番組」を制作。小林は直接一緒に仕事をしたことはなかったが、日本テレビによく出入りしていて面識があり、「オヨヨ」シリーズの「辣腕プロデューサー・細井忠邦」のモデルとした。
  • 松本清張 - 『ヒッチコックマガジン』寄稿者の一人。『夢の砦』に登場する佐伯一誠のモデル。
  • 真野律太 - 博文館の『講談雑誌』『譚海』の元編集長。小林が宝石社に入った頃、校正者として同社に勤務していた。短篇『隅の老人』のモデル。
  • 峰岸達 - イラストレーター。80年代後半~90年代にかけて、小林の本のカバー絵を担当。
  • みうらじゅん -著書『定年なし、打つ手なし』において、名指しはしていないが「みうら的な生き方」がこれからの時代にあっていると、評価した。
  • 虫明亜呂無 - 大学の先輩。『ヒッチコックマガジン』寄稿者の一人。小林の結婚式仲人を務めた。
  • 森卓也 - 『ヒッチコックマガジン』寄稿者の一人。本業はアニメーション評論だが、映画、落語にも詳しく、60年代の「新鋭映画評論家」どうしだった頃からの友人。
  • ヤクルト・スワローズ - 小林はルールも知らないほどの野球音痴で、60年代には「長島を知らない男」との異名をとったが、80年代にふとしたことから、プロ野球好きとなり、ヤクルトの熱狂的なファンとなった。そして、ついにはW・C・フラナガランに「素晴らしい日本野球」を「執筆」させた。また、野茂英雄などの、メジャーリーガーたちも、応援している。
  • 安原顯 - 編集者。荒木経惟と組んで『私説東京繁盛記』『私設東京放浪記』を著したのは安原の薦めによる。また、安原が編集長を務めていた頃の『リテレール』によく寄稿していた。が、没後、村上春樹により生原稿流出疑惑が暴露された際には、自分も被害者である旨の告白がされた。
  • 山川方夫 - 『ヒッチコックマガジン』寄稿者の一人。小林の処女長篇『虚栄の市』に跋文を寄せた。小林は「山川スクールの最後の生徒」を名乗っている。
  • 山田智彦
  • 山藤章二 - 山藤の「”笑い”に関係者する重要人物をほぼ網羅した、座談会3部作」、『「笑い」の構造』『「笑い」の解体』『「笑い」の混沌』に、小林は登場しておらず、不仲であると思われる。(ちなみに、もう一人、登場していないのが高信太郎である)
  • 横田順彌 - 小林が『ぼくたちの好きな戦争』の作中に「日本が勝利する架空小説」を登場させる際、実際に戦前に書かれた「日米架空戦記」についての情報を提供した。
  • 横溝正史 - 日本に本格推理小説を根づかせた大御所。もと「新青年」編集長。江戸川乱歩とは生涯の盟友でもあり、宝石社時代の小林とも接触があった。一時引退後、70年代後半に空前のブームとなってカムバック。その際に小林は自ら企画して数回のロングインタビューを行ない「横溝正史読本」をまとめた。起こしまで自分で手がけており、作家として地位を築いたのちの彼としては異例の労作である。また『オヨヨ大統領の悪夢』において、横溝の作品『真珠郎』の冒頭文をもじり、ご本尊を苦笑させた。
  • 横山やすし - 自作『唐獅子株式会社』の主役をやすしが演じたことから交際がはじまったが、深夜に酔っ払って電話をかけてくるなどの、やすしの性行に閉口した。なお、小林が執筆したやすしの評伝で、「やすしが殴打された事件」の犯人について、ある推理を行っている。
  • 吉田秋生 - 漫画家。小林は彼女の絵を気に入り、一時、小林の本のカバー絵をよく描いていた。
  • 吉本隆明 - 「オールナイト・フジ」をいち早く評価するなどの、1980年代の吉本のメディア論を評価していた。 
  • 渡辺武信 - 詩人、建築家、映画評論家。教育大附属の後輩。『笑殺の美学』の解説を担当。
  • 渡辺美佐 - 60年代、渡辺家に招かれ、渡辺プロ所属のクレージーキャッツのブレインを依頼され、引き受けた。