クロード・シャブロル

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クロード・シャブロル
Claude Chabrol
Claude Chabrol
(2008年、アミアン国際映画祭にて)
本名 Claude Henri Jean Chabrol
生年月日 1930年6月24日
没年月日 2010年9月12日(満80歳没)
出生地 フランスの旗 フランスパリ
死没地 フランスの旗 フランス・パリ
職業 監督・脚本家
ジャンル 映画・テレビ
活動期間 1956年 - 2010年
配偶者 アニエス・グート(1952年 - 1964年)※離婚
ステファーヌ・オードラン(1964年 - 1980年)※離婚
オロール・シャブロル(1981年 - 2010年)※死別
家族 トマ・シャブロル(息子)
マチュー・シャブロル(息子)

クロード・シャブロルClaude Chabrol, 1930年6月24日 - 2010年9月12日)は、フランス映画監督映画プロデューサー脚本家

来歴・人物[編集]

1930年6月24日パリに生まれる。父親は薬剤師。彼自身も薬学を専攻。

1952年6月、最初の結婚をする。妻アニエスとの間には、ジャン=イヴとマチューの2人の息子がいる。

1953年、初代編集長アンドレ・バザン時代の「カイエ・デュ・シネマ」誌で映画評を書き始める。このときのペンネームはシャルル・エテル Charles Eitelとジャン=イヴ・グート Jean-Yves Goute名義。のちのヌーヴェル・ヴァーグの旗手たち、批評家時代のジャン=リュック・ゴダールジャック・リヴェット、兵役から帰ったばかりのフランソワ・トリュフォーらと出会う。当時、それと平行し『ミステール』誌に探偵小説を書き、20世紀フォックスのパリオフィスで宣伝アシスタントの仕事をしていた。

1956年、妻の祖母の巨額の遺産を相続し、この潤沢な資金で製作会社AJYMフィルムを設立、リヴェットの短編『王手飛車取り』を製作、脚本をリヴェットと共同執筆、ゴダールやトリュフォー、リヴェットとともに出演する。ヴィルジニー・ヴィトリジャック・ドニオル=ヴァルクローズジャン=クロード・ブリアリが主演し、ジャン=マリー・ストローブが助監督であった本作は、シャブロルをはじめ彼らにとって初のプロフェッショナルな短編映画製作となった。

1957年エリック・ロメールとの共著『ヒッチコック』が出版になる[1]。ヒッチコックはサスペンス主流の彼の作品に大いに影響を与えている。

1957年12月、つづいて自らの監督デビュー作『美しきセルジュ』を製作(1959年1月10日公開、ジャン・ヴィゴ賞受賞)。1959年3月11日公開の監督第二作『いとこ同志』(第9回ベルリン国際映画祭金熊賞受賞)が興行的にも成功をおさめ、この収入が、ロメールの処女長編『獅子座』の製作費に当てられ、1959年夏のパリで撮影されることになる。

1960年、トリュフォーの会社レ・フィルム・デュ・キャロッスとシャブロルのAJYMフィルムとの共同製作で、リヴェットの処女長編『パリはわれらのもの』を製作・公開。本作にはシャブロルもリヴェットもゴダールもジャック・ドゥミまでもが出演し、トリュフォーは『突然炎のごとく』の劇中でジャンヌ・モローにこの作品のタイトルを叫ばせている。当時のヌーヴェルヴァーグの熱狂のなかにシャブロルはいた。

1962年にアニエスと離婚、女優ステファーヌ・オードラン1963年4月24日にはオードランの間にすでに息子トマ(現俳優)をもうけ、翌年正式結婚。しかし、1980年にオードランと離婚。83年には古くからのスクリプトを担当していたオロール・パキス、ことオロール・シャブロルと再再婚した。

1995年、永年の業績に対して第12回ルネ・クレール賞を受賞、晩年を含め非常に多作である。1985年の『意地悪刑事 Poulet au vinaigre』(日本未公開、東京日仏学院での特集上映題)以降、晩年のほぼ全ての作品をマラン・カルミッツがプロデュース、カルミッツの会社MK2が出資している。

2010年9月12日早朝、パリにて死去[2]

フィルモグラフィ[編集]

主な監督作品[編集]

主な出演作品 (自作除く)[編集]

脚註[編集]

  1. ^ Éric Rohmer, Claude Chabrol, Hitchcock, Paris, Éditions Universitaires, collection Classiques du cinéma, 1957年 (1992年英語版、ISBN 1-85710-006-9)
  2. ^ クロード・シャブロル氏死去 フランスの映画監督 共同通信 2010年9月12日閲覧

外部リンク[編集]