大橋巨泉

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おおはし きょせん
大橋 巨泉
本名 大橋 克己
生年月日 1934年3月22日(80歳)
出生地 日本の旗 日本東京府東京市本所区両国(千葉育ち)
職業 タレントラジオパーソナリティ放送作家馬主など
ジャンル バラエティ番組
活動期間 1960年代 -
公式サイト KYOSEN.COM
主な作品
クイズダービー
11PM
世界まるごとHOWマッチ
日本の旗 日本の政治家
大橋 巨泉
おおはし きょせん
生年月日 1934年3月22日(80歳)
出生地 日本の旗 日本東京府東京市本所区
出身校 早稲田大学第一政治経済学部新聞学科中退
所属政党 民主党→)
無所属
配偶者 マーサ三宅(1956年-1964年)
浅野順子(1969年-)

選挙区 比例区
当選回数 1回
任期 2001年7月29日 - 2002年1月31日
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大橋 巨泉(おおはし きょせん、1934年3月22日 - )は、日本タレント放送作家司会者ラジオパーソナリティ音楽評論家、時事評論家、政治家、元参議院議員オーケープロダクション(旧:大橋巨泉事務所)前取締役会長兼エグゼグティブタレント、芸能プロモーター、エッセイスト競馬評論家馬主

東京府東京市本所区(現:東京都墨田区両国生まれ。千葉県に育つ。祖父は江戸切子の名人・大橋徳松岐阜県出身)[1]

本名・大橋 克巳(おおはし かつみ)。芸名の「巨泉」は元々は自身の俳号である。多くの芸能人や関係者が「巨泉」「巨泉さん」と呼び、「大橋(さん)」と呼ばれることは皆無に近い。MBSTBS世界まるごとHOWマッチ』では「巨ちゃん」と呼ばれたことがある。

プロフィール[編集]

ジャズ司会者[編集]

実家は両国でカメラの部品製造・小売を生業とする「大橋商店」を経営していた。同じく実家がカメラ屋の萩本欽一とは店同士取引があり、幼い萩本と大橋はその当時からの知り合いである[2](更に巨泉の実家製作のカメラ「ロールライト」は現存する2機の所有者は萩本とすぎやまこういちしか持っていないと言う事も語っていた[2])。自宅で叔父が所有するジャズレコードを見つけアメリカへの憧れが強くなる。

アメリカへ行くには英語の習得が必要と考え、当時朝鮮戦争の特需もあり、家業のカメラ商売に役立つと親を説得しアテネフランセ英語科で英語を学ぶ。日本大学第一中学校・高等学校を卒業し、ジャーナリストになってアメリカへ行こうと早稲田大学政治経済学部新聞学科(後に廃科)へ進学するも中退。大学生の頃はほとんど勉強をせず、テストではカンニングをしていたという[3]。大学卒業を諦めた理由は、当時の大学は一般教養部があり、1年次から2年次に理数系科目の単位取得が必修であったため、理科、数学が全くできず、単位取得の見込みが望めなかったためである。後に「早稲田大学を中退したタレントは出世する」という伝説のはしりとなった。早稲田大学の学生時代から当時ブームだったモダンジャズ、コンサートの司会者として活躍していた。

なお、早稲田大学在学中に俳人としての活動もしており、「巨泉」という芸名はこの時期に付けた俳号で、戦前の郷土玩具画家である川崎巨泉とは関係ない。アイデアが泉のように湧き出るようにと、最初「大泉」を考えたが、それでは、名字も名前も大がつくので、大の巨人ファンということから大を巨に変えて「巨泉」となった。2年後輩の寺山修司と出会った時に「こいつにはかなわん」と思って俳句の道から足を洗ったという。

芸能界へ[編集]

最初の妻マーサ三宅と結婚後、中野区野方へ住まいを移し、実家の大橋商店に勤め始めるも「自分にはサラリーマン生活は無理」とすぐに辞める。ジャズ喫茶に出入りするうち、ジャズ評論家・放送作家からテレビ司会者に進出、弁舌家のマルチタレントとして人気を得る。この方面では、やはり放送作家出身の前田武彦と人気を二分し、この2人で日本テレビ巨泉×前武ゲバゲバ90分!』の司会を務めた。

放送作家としてテレビの裏側にいた巨泉が、テレビ出演という表舞台に進出するきっかけになったのは『11PM』の開始だった。新番組の感想をディレクターに尋ねられた巨泉は「麻雀、競馬、ゴルフ、釣りなどの遊びを取り上げてみたら」と提案。テレビにとってギャンブルはまだタブーだった時代。アイデアは採用された。しかし、そのコーナーの進行役を務める適任者が見当たらなかったため、ディレクターが巨泉自身の出演をもちかけ、コーナー司会者として起用。その後、番組全体の司会者の急逝もあり、巨泉がメイン司会を務めることになった[4]

11PM・クイズダービーなど司会者で活躍[編集]

1960年代から1980年代にかけ、テレビデビューとなった日本テレビ『11PM[5]や、TBS『クイズダービー』、MBS・TBS『世界まるごとHOWマッチ』などの司会で名を馳せる。「野球巨人、司会は巨泉」のキャッチフレーズ通り、競馬野球麻雀の評論でも活動し、ニッポン放送大橋巨泉の責任プロデュース 日曜競馬ニッポン』のメインパーソナリティーも務めた。その後、1990年3月に「56歳になったし、身を引いて司会業は長くやるものではない!」とTBS『ギミア・ぶれいく』以外のテレビ・ラジオのすべてのレギュラー番組を降板。メディア業界から「セミリタイア」(後述)した。

特に『クイズダービー』内で巨泉は女性出演者に対して、よく下の名前で呼んでいた。例として、長年の「4枠」レギュラーだった竹下景子には「けいこちゃん」、2枠レギュラーだった山崎浩子には「ひろこ」など。ただし、山崎の後の2枠レギュラーだった井森美幸に対しては、「みゆき」よりも上の苗字の「イモリ」で呼ぶことが多かった。また、2004年5月に放送されたクイズダービー復活版では、当時既に50歳となっていた竹下に対しても「けいこちゃん」と呼んでいた。

また「11PM」ではお色気だけでなく硬派の社会ネタ「巨泉の考えるシリーズ」が月曜日を中心に行われており、当時のプロデューサーがたまたまアメリカ合衆国での福祉取材中に見た「レイバー・デイ・テレソン」をヒントに、「考えるシリーズ」内で行われた「世界の福祉」を取り上げた番組からの派生企画として「24時間テレビ 「愛は地球を救う」」に発展。日テレ開局25周年記念の目玉企画として行われた記念すべき第1回放送(1978年8月26日-8月27日)で、萩本欽一ピンク・レディーらとともに総合司会を担当している。

OKギフトショップ[編集]

1973年カナダバンクーバーに日本人観光客が日本語で買い物できる土産物店「オーケーギフトショップ」を開店し実業家に転進。その後、バンフナイアガラオーストラリアゴールドコーストケアンズニュージーランドオークランドクライストチャーチ(2011年にクイーンズタウンへ移転)にも店舗を開店し、幾多の倒産の危機を乗り越え、7店舗まで事業を拡大した。湾岸戦争アメリカ同時多発テロ事件クライストチャーチ地震などの影響があったものの、同店舗のみ取り扱う限定商品の販売、大手旅行代理店とのタイアップ(来店粗品や割引が効くクーポン券の配布)、日本語の通じる店員が常駐するなどの面で評判が良く商売は軌道に乗っている。

オーケーギフトショップは、カナダ以外にもニュージーランドとオーストラリアに進出している。これはカナダとは季節が逆の南半球に出店することで、観光客が激減する冬季の売上を補う必要があったためだという。一方で、隣国アメリカには地元からの強い要望があったにもかかわらず出店していない。巨泉はその理由として「アメリカは銃犯罪などの治安がものすごく悪化していたため、自分の店の中でお客様、従業員に銃口が向けられるのをひどく恐れたためである」と述べている。

なお、「オーケー」のオーは大橋巨泉のイニシャルであり、日本のスーパーマーケット「OKストア」とは関係がない。

競馬評論家[編集]

競馬評論家としても積極的に活動していた。「プロの調教師が出してくる以上、八分以上の出来」[6]にあるとして、出走各馬の調教を見ないで予想したことから、書斎派の筆頭格であった。サンケイスポーツや、1980年代後半まで「巨泉でバッチリ」のタイトルで競馬エイトの競馬予想のコーナーで執筆していたほか、『中央競馬ダイジェスト』(フジテレビ系・土曜深夜放送分)や『日曜競馬ニッポン[7]ニッポン放送)に出演していた。「府中の千八、展開要らず[8]、「競馬は所詮いい加減なもの」いう競馬格言は、巨泉が作ったもの。血統と展開と騎手で推理し、しばしば長距離の逃げ馬を的中させていた(トーヨーアサヒが勝った1973年ダイヤモンドステークスなど)。谷岡一郎が「本命2000円、対抗1000円、穴・大穴・枠流し500円」で巨泉の予想と結果をGIレースのみ計算した結果、戻って来る金は賭け金の80.83%であった(谷岡一郎『ツキの法則』)。これでは負け越しだが、競馬の控除率が25%前後であることから、平均してそれ以上の戻りがあった巨泉の予想を優れたものと結論づけている。また、巨泉の予想の影響力が大きく、巨泉が本命に推した馬がそのまま実際の本命(倍率が最低)になったことも多々あり、その結果巨泉の回収率は下がっていると指摘。もし巨泉が予想を公表せず、自分一人で買う金額も決めていたなら、もっと回収率は上がった可能性があるとしている。

また中央競馬馬主でもあり(本名の大橋克巳、オーケー商事名義)、1973年には所有馬ロックプリンス東京優駿(日本ダービー)に出走している(27頭中11着)。「タケシツービート」という名前の馬も所有していた。

シンボリ牧場オーナーだった和田共弘、騎手・調教師だった野平祐二と親交が深く、スピードシンボリが海外遠征した際には、ロンシャン競馬場フランスパリ)へ両者と行動を共にした。

1988年に競馬評論から引退した。引退のきっかけとなったのは、1988年の天皇賞(秋)の「オグリキャップタマモクロスの一騎打ちムードの状況で、登録料が1万円と安いから勝負になりそうもない馬が何頭も出てきている」といった内容を巨泉が当日のラジオの中継で話したことが発端であった。それに対し、同競走にレジェンドテイオーを出走させていた美浦田村駿仁[9]調教師(当時。後に勇退)が『週刊競馬通信』(競馬通信社)に「大橋巨泉氏に物申す」と題する抗議文を送付し掲載された。それに対し巨泉がサンケイスポーツのコラムで反論し、さらに田村が反論するという論争にまで発展した。

そうしたやりとりの中で巨泉は競馬サークルの閉鎖性やぬるま湯体質に失望し、サンケイスポーツ紙上にて休筆を宣言。やがて競馬評論家をセミリタイアするに至った。

セミリタイア後、2006年に『keiba01』(ケイバゼロワン、2006年12月20日発行)誌上において約20年ぶりに競馬をテーマに「シンザンスピードシンボリ」と題するコラムを執筆した。

2009年の著書『やめたら』では、三連単馬券について言及し、「三連単はギャンブラー射幸心を煽る」と反対、否定的な考えを示した。また「マフィアボスは三連単は買わない」とも言及した。また、三連複馬券や、馬単馬券についても同様に反対、否定的な見解を示した。

ディープインパクトの引退が発表された際、ファン、記者などのマスコミとも「来年も走ってほしかった」という意見が多勢だった中、巨泉はただ一人「あんな小さい体で来年も現役だの、海外遠征だの冗談じゃないよ!!」と陣営の引退の判断を支持した。その他、藤田伸二騎手の著書「騎手の一分」の感想を週刊現代の自身のコーナー「今週の遺言」(2013年7月8日発売号)で述べたりもしていた。

セミリタイア[編集]

「セミリタイア」は巨泉が出演中の『ギミア・ぶれいく』以外の全番組を降板する際の記者会見で使った表現で、完全に芸能界・放送界と縁を切る「リタイア」ではないことを強調したものである。

なお巨泉は50歳には「セミリタイア」をする人生設計を描いていたが、各方面からの慰留、また49歳の時に司会を始めた『世界まるごとHOWマッチ』に本人の意向で起用したビートたけし石坂浩二との絡みが楽しかったこともあり、56歳まで仕事を継続した。

その後「セミリタイア」は、早くから蓄財しておき仕事が好調の内に辞め、悠々自適に過ごしながら余裕のある時に仕事もする、という意味合いの言葉として定着しているが、これに勿論巨泉の、絶頂にも係わらず仕事をすっぱりと終わらせたことと、以後の生活スタイルが源泉である(なお、同じような形で芸能活動の一線からのリタイアをした司会者としては上岡龍太郎芳村真理らがいる。いずれも巨泉と同じく司会者の大御所として絶頂を極めていた50代でリタイアを宣言している)。

政界進出[編集]

2001年に、当時民主党幹事長・菅直人が出馬を依頼。これを受け、最大野党民主党から第19回参議院議員選挙比例代表候補として立候補し、党内第1位で当選(小泉フィーバー自民党圧勝)。当選後すぐにアメリカ同時多発テロ事件が起き、これをきっかけに安全保障問題をめぐっての当時民主党代表鳩山由紀夫ら当時の党執行部との考えの違いが鮮明になる。

アメリカ同時多発テロ事件を非難する国会決議には、「アメリカを支持する」との文言を理由に民主党でただ1人反対。また、インド洋への自衛隊派遣に伴う事後承認にも反対するなど、短期間でいわゆる「造反」を連発した。また、8月6日の民主党両院総会では、巨泉は鳩山に「社会主義インターナショナルに加盟しセンターレフト(中道左派)の党としての性格を鮮明にせよ」と迫ったが、鳩山から「民主党のコンセンサスではない」と却下されている[10]

こうした党との意見の違いによりわずか6か月で辞職。これに伴い、ツルネン・マルテイ繰り上げ当選した。辞職の弁では「日本の民主党がこれほどまでに反民主的な集団とは思わなかった」と述べた。辞職会見の時には、旧社会党系の民主党議員や社会民主党の女性議員が「巨泉さん辞めないでください!」と辞職する巨泉を止めようと説得する場面があった(この時は、福島瑞穂辻元清美などの議員もいた)。この時巨泉は「僕は辞めると言ってはいないんです。辞めたのです」と説得する女性議員に向かって述べた。比例代表で当選した議員がその党の路線への不満を理由に辞職することについて各方面から批判された。当時官房長官の福田康夫は会見で「職場放棄だ」と批判した[11]

後に巨泉が語ったところによると、中村敦夫らが結成したみどりの会議への移籍を一時真剣に考えたという(みどりの会議は選挙時に存在しなかったため、比例選出の議員でも移籍は可能だった)。また、当時党内で巨泉と意見が近く、鳩山らの執行部とも度々対立していた横路孝弘赤松広隆生方幸夫横路グループがもしも離党、新党結成へと踏み切っていたなら共に参加しただろうとも述べている。

議員辞職後は、民主党を強く批判するスタンスを取っていたが、その後再び民主党に歩み寄る姿勢を見せ、民主党政権の誕生を望んでいるような発言もしていた時期もあった(後に民主党は政権を握ることになった)。

ただし、一方で民主党が保守に寄り過ぎているという認識は同じで、民主党が自民党化することに警鐘を鳴らしている。そのため、2009年第45回衆議院議員総選挙では、民主党の“勝ち過ぎ”を警戒し、社会主義的な理念を持つ政党が一定の影響力を持つことが必要として、比例区では社民党日本共産党に投票するよう勧めている。

2000年代中期以降[編集]

11月から翌年4月までオーストラリアニュージーランドに、6月から9月までカナダに滞在し、経営するギフトショップの管理の傍ら、ゴルフを楽しむなどの生活を送っている。この太陽の動きに合わせ居住地を移動する生活形式をひまわり生活と呼んでいる。日本に帰国するのは5月と9月から10月末までの約3ヶ月間だけで、この期間はバラエティ番組にゲスト出演している。外国がとても好きなようだが、以前、TBS『ベストタイム』に出演した折、寿司を食べてビールを飲んでご満悦の様子で「日本人でよかった」とコメントした。

海外移住先をハワイではなくカナダ、オーストラリア、ニュージーランドにした理由について、井原高忠がハワイに移住したがハワイは物価が高く、ゴルフ場料金も高いため老後の移住先として不適格と判断したため。カナダ、オーストラリア、ニュージーランドの順で永住権(永住資格)を取得している。

BIG3タモリビートたけし明石家さんま)や所ジョージ島田紳助ダウンタウン爆笑問題太田光らから番組に出演する度に「日本に帰ってくるな」「お前の番組出てやるよと、言って頼んでもいないのに出演してくる」などの「悪口」を言われている。「バラエティ生放送じゃなきゃ駄目。今の番組はすぐにスタッフの意向でハサミを入れる(カットする)から、出演者の面白さが全部切り取られている」「映画は監督のもの、テレビはホストのもの」が口癖[12]。なお、本人も日本に帰ってきた際、オファーがあれば収録番組にも出演するが、実際自身が視聴する番組はフジテレビ『森田一義アワー 笑っていいとも!』や深夜の報道番組など、生放送の番組だけだという。なお、2000年代後半以降では『ナニコレ珍百景』(テレビ朝日)も頻繁に観ていると、ゲスト出演した際に発言している。

メジャーリーグ(MLB)評論家としても知られ、日本のMLB通タレントでもあり、メジャー30球団の選手名鑑を発売する程精通している。また、アメリカンフットボールにも造詣が深く、参議院選挙出馬前は、NHK BS1NFL中継の解説を担当したこともある。サンフランシスコ・フォーティナイナーズのファンを公言していた。

2005年5月9日、『笑っていいとも!』に出演。同年5月胃癌を患っていたことが判り、6月に摘出手術を行った。

2009年2月12日、同年4月にオーケープロダクションが設立40周年になるのを期に、オーケープロダクションがイーストの完全子会社となり、それと同時に巨泉自身もオーケープロダクションの取締役会長を退任した。

2013年11月26日、中咽頭がんのため入院していたことが明らかになった。[13]

その他[編集]

  • 1969年に放映されたパイロット万年筆のCMで譜面台の上で万年筆を走らせながらしゃべった「みじかびの きゃぷりきとれば すぎちょびれ すぎかきすらの ハッパふみふみ」という台詞が当時の流行語となる。この台詞は巨泉のアドリブだったといわれているが、一時は巨泉のものまねを演じる際に枕詞のように用いられることも多かった。この台詞は後に昭和万葉集(1980年発刊)に短歌として収録されている。
    • 巨泉の著書「巨泉 人生の選択」によると、当時パイロットは経営危機に陥っており約800名ものの大量解雇を決断せざるを得ない瀬戸際に追い込まれていたのが巨泉起用のきっかけで、当初はまったく別内容の台本が用意されていたものの「ありきたりのメッセージで、面白くも何ともない」と巨泉がクレームを付けたことから自らアドリブで演じたのが「ハッパふみふみ」だったという。CMはこのアドリブものと台本ものを両方収録しパイロット側に見せて決定することになり、アドリブものが採用に決まった(結果は見事大成功で、経営危機を脱して大量解雇も回避できた)。また巨泉は同書でこの台詞について「(自身の二大趣味であった)俳句の韻律とジャズのアドリブ・リズムが結び付いて生まれたもの」「言葉にとくに意味はなく、なんとなく“短くて書き良い万年筆”というイメージが浮かべば良かった」「収録後に“台本のを放映したら、この会社はダメだな”と、マネジャーに言った」「放映から数ヶ月後に会社のパーティーに招かれ、社長と労組委員長の双方から感謝された(通常、労使双方からこのように好意的に受け入れられることは皆無である)」と語っている。
  • タレントを呼び捨てにしたり、馴れ馴れしく呼ぶ司会者は当時としては珍しかった。一方一部の女性タレントに対しては「ちゃん」付けで呼ぶこともあった。
  • テレビ出演の時にかけている黒縁の眼鏡伊達眼鏡(俗に言う巨泉メガネ)である。極度の近視のため視力が悪く、テレビ出演時に眼鏡をかけるとレンズが光を反射し視聴者はテレビを見難くなるとの理由からコンタクトレンズを着用していたが、「眼鏡を外すと誰だかわからない」との指摘を受けコンタクトレンズをつけ、レンズの入っていないフレームのみの眼鏡を着用しテレビ出演をしている[14]。これは後に、天野ひろゆき久保田雅人などに影響を与えることになった。近視と加齢でこれまでに加齢性網膜剥離緑内障加齢黄斑変性を発症している。また目の手術で片目だけ視力が1.0に戻ったためメガネの片方だけレンズなしになっており、その姿を『ナニコレ珍百景』に投稿し「絶対押せよ」と冗談混じりに言ったが結果は登録されなかった[15]
    • 再婚後パイプカット手術も行っている。
    • 良性腫瘍で手術の必要がなくても医師には切るように依頼している。これは、巨泉の母親が、子宮筋腫を放置し早くに亡くなっており(戦後の医療事情から子宮癌を誤診したのではないかと語っている)、早く治療することが「おふくろに対するせめてもの孝行」だという[16]
  • 1969年に再婚した際、それまで年齢を4歳多く偽っていたことを明らかにした(通常、年齢を偽る際に多く偽るケースは少ない)。これは大学時代に定期券を購入するため申込書に「昭和九年」と書いたところ雨で滲んでしまい、係員が「昭和五年」と読み違えてしまったことがきっかけ。しかし当時ジャズ評論家として活動していた巨泉にとっては「十代では馬鹿にされてしまう」「大学に高校時代の同級生は一人もいない」と好都合だったことから結局直さないことにしたという。
  • 愛川欽也財津一郎玉置宏藤村俊二前田憲男ら、同じ1934年生まれの芸能人らと「昭和九年会」を結成している。前田は巨泉が司会を務める番組のテーマ曲を多く手掛けている。
  • 巨泉が総合司会を務めていた『ギミア・ぶれいく』の1コーナーのアニメ『笑ゥせぇるすまん』の主人公・喪黒福造役の声優・大平透とは50年来の大の親友。喪黒福造のモデルは巨泉自身である。
  • 左翼的思考を強く滲ませる発言をしていると評されることがあるが、そのことについて巨泉自身は、早稲田大学の元新聞記者の講師が戦時中に軍部を批判できず戦争を止められなかったことを謝罪したと話した上で「この世の中で分かんない奴が巨泉は左だというが左じゃないんだよ。俺は社会党政権の時には社会党を批判したし。とにかく体制ってのは権力持ってるから、それに対してジャーナリストが反体制的な発言をするのは当たり前なんだよ、どこの国でも」と語っている[17]
  • ケント・ギルバートは「巨泉の話す英語は上手い」と発言している。
  • ピンク・レディーキャンディーズAKB48マイケル・ジャクソンは認めていない。「歌は歌。踊りは踊りで勝負しろ。歌と踊りは両立出来ない」と述べていた[18]週刊現代のコラムでは日本のアイドルを評し「若い娘集団にいい年をしたおじさんが夢中になるのは日本くらいだろう。」とAKB48について評している。
  • 九条の会」傘下の「マスコミ九条の会」呼びかけ人を務めている[19]

家族[編集]

最初の妻はジャズ歌手のマーサ三宅1956年に結婚、2女をもうけたが、1964年に離婚。1969年、14歳年下で当時アイドルであった浅野順子(デビュー当初の芸名および本名(当時)は、浅野寿々子)と結婚(大橋は2度目で浅野は初婚)。巨泉35歳、浅野21歳での結婚は“少女誘拐”とマスメディアに騒がれた。ジャズ歌手の大橋美加(長女)とチカ・シンガー(次女)は、マーサ三宅との間の娘。浅野順子との間には子はいない。

タレントの大谷瑠奈は孫(美加の娘)である。なお、彼女を含めて5人の孫がいる。姪には大橋ひろみがおり、フジテレビ『クイズ!知ッテレQ』のレポーター、フジテレビ『クイズ笑って許して!』の2枠解答者として出演した他、1984年秋には伯父の巨泉と「CFカード」のCMにも出演した。また、実弟の大橋哲也はオーケープロダクションの社長を務めた(現在は同社相談役)。

著書[編集]

出演番組[編集]

1960年代後半から1970年代初めにかけては、多くのレギュラーを抱えていたが、OKギフトショップを開業した頃から、主要なものを除き司会番組をセーブするようになった。

テレビ[編集]

ラジオ[編集]

現在では、『開運!なんでも鑑定団』(テレビ東京[20]や、『土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界』『爆笑問題の日曜サンデー』(ともにTBSラジオ)、『吉田照美 ソコダイジナトコ』(文化放送)などにゲスト出演する程度である。

CM[編集]

アニメ[編集]

音楽作品[編集]

巨泉は歌手ではないものの、レコードを出しているなど音楽活動は行っていた。

  • 『おれは天下の百面相』(作詞:井上ひさし、作曲:筒美京平、1969年発売、『巨泉のスター百面相』(フジテレビ)主題歌)
  • 『こりゃまたみなさん百面相』(作詞:井上ひさし、作曲:筒美京平、おれは天下の百面相のB面曲)
  • 『さすがわかってらっしゃる』(作詞:大橋巨泉、作曲:森田公一、1973年5月5日発売、当時巨泉が出演していたサントリー「純生」コマーシャルソングとしてこの曲の替え歌『ご当地、ビールは?』が使用された。非売品ソノシートが存在する)
  • 『大橋巨泉 プレイボーイ入門』(ナレーションを収録。演奏:八城一夫とオールスターズ)
  • 石原裕次郎『嵐を呼ぶ男』(作詞は名義上井上梅次になっているが、巨泉が補作している)

主な所有馬[編集]

勝負服は緑、白一本輪、赤袖。当初は本名の大橋克巳名義、1987年頃からオーケー商事名義を使用した。所有馬には音楽関係の名前を付けることが多かった。現在は中央競馬所属の所有馬はいない。

関連人物及び項目[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 東京新聞「この道」
  2. ^ a b 2009年9月29日『火曜エンタテイメント!欽ちゃんが芸能界の大御所の家に行っちゃいましたSP』より
  3. ^ 前述の東京新聞「この道」より
  4. ^ 「30代の軌跡 大橋巨泉」 光文社『DIAS』(2002年2月7日号)小山唯史
  5. ^ 『11PM』の司会は他にも愛川欽也が担当していた。
  6. ^ 『巨泉の重賞競走予想全書』p.13
  7. ^ 当初は『巨泉の日曜競馬ニッポン』。1980年代になって『巨泉の責任プロデュース・日曜競馬ニッポン』と改められる。
  8. ^ 「ボクの作った格言」(『巨泉の重賞競走予想全書』、p.1539)
  9. ^ 田村康仁調教師の父。
  10. ^ 朝日新聞 2001年8月7日朝刊
  11. ^ 巨泉は『爆笑問題の日曜サンデー』(2008年9月14日)に出演した際、この発言を引き合いに出し、当時首相であった福田が唐突に辞意を表明したことについて逆に批判している。
  12. ^ 巨泉が司会を務めていた番組はほとんど収録番組であったが、全て放送時間と同じ時間で収録を行っており、極力カットもしない「撮って出し」の方式を採用。2010年代時点において、このスタイルを取り入れている日本のテレビ番組テレビ朝日徹子の部屋』、フジテレビ『ライオンのごきげんよう』など数本しかない。
  13. ^ 大橋巨泉 中咽頭がん手術、2013年11月26日閲覧
  14. ^ 東京新聞の「この道」や『もう時効だヨ全員集合 史上最強!花の芸能界オフレコトークバトル』(TBS、2004年5月14日)などで自ら明かしている。
  15. ^ 『ナニコレ珍百景』(2011年6月8日)
  16. ^ 『爆笑問題の日曜サンデー』(2011年10月16日)
  17. ^ 『爆笑問題の日曜サンデー』(2013年4月28日)
  18. ^ ボクらの時代 永六輔×大橋巨泉×藤田潔(前編)』(フジテレビ系、2011年10月23日)
  19. ^ マスコミ九条の会(よびかけ人はだれですか)
  20. ^ 2012年5月22日放送分でゲスト出演した際、「オールドノリタケの壺」の鑑定で本人評価額と鑑定額が同一となり、史上3人目(ゲスト依頼人では2012年1月10日放送の中島唱子に次いで2人目)の目利き認定証が贈られた。
  21. ^ 社台レースホースの持ち馬であり、大橋自身も一口馬主として権利を所有していた。

外部リンク[編集]